2024/10/05 - 2024/10/05
448位(同エリア485件中)
gianiさん
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佐賀市の北部は、旧肥前国の中心地であり、神話時代の様々なエピソードの詰まったエリアです。
当たり前に使っている佐賀という地名(明治までは佐嘉と表記)は、肥前国一宮の境内から誕生しています。
佐賀の乱ゆかりのスポットもあり、江藤新平の生涯も追いかけます。
- 旅行の満足度
- 5.0
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まずは、佐賀大和インターチェンジに隣接する無料の資料館へ潜入。
典型的な郊外ですが、実は肥前国(現佐賀/長崎県)のド真ん中でした。肥前国庁跡資料館 名所・史跡
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元々国庁があったとされましたが、1985年に供用開始した九州横断道佐賀大和IC建設時に広範な遺跡が見つかりました。遺跡と大規模開発はセットです。
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国庁:中核となるエリアで、108m四方の区画を指します。
国衙(こくが):国庁を取り囲む役所関連の建物が建つエリア。
国府:国衙を取り囲むエリア。国司らの官舎/地場役人の宿舎/国分寺/国分尼寺/軍駐屯地/公設市場等が設置。
現在でいうなら、国府は県庁/警察本部/自衛隊駐屯地が並ぶ官庁エリア、国衙は県庁、国庁は県庁本館の中核フロアに相当します。 -
資料館/駐車場を経て、西隣には国庁跡が見学できます。
外壁は垣根、門は西海道へ通じる道路に面しています。肥前国庁跡 名所・史跡
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南の門を入ると左右に脇殿が並び、正面に前殿/正殿/奥殿が控えます。
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南門と築地塀は、当時の様子を再現しています。
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右側に東脇殿、左に前殿以下の基礎が復元されています。
建物は、当初は国家の威容を示す様式でしたが、平安時代になると朝廷の権威が機能していた肥前国ではローカル色が強い様式に変化していきます。 -
肥前国
肥国が7世紀に肥後(熊本)と肥前(佐賀/(壱岐対馬を除く)長崎)に分かれました。4段階の格付けでは、上から2番目の「上国」です。
中央政府から派遣された国司ら10名ほどの上級役人の下で、400名ほどの在地役人が働いていました。 -
国司らの任務
最優先事項は、確実に税を徴収して中央政府へ届けることです。九州の税は一度大宰府に集められ、都へ送られました。おおよそ30日ほどかかりました。税額は人を基準に定められたので、戸籍調査が基になっています。主な財源は耕作系の産物なので、土地台帳も重要でした。
他には、司法/治安維持/寺社の統制も重要でした。 -
展示されている発掘物には、プロテクトが掛かっていますが、あまり大したものはなかったです。
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職員が作った秀逸な要旨
国司は4等級に分かれます。長官が守で、一般に国司というと守を指します。介は次官で、以下は掾(じょう)、目(さかん)です。
江戸時代の大名が朝廷から与えられた官職でも、薩摩藩島津家の薩摩守、吉良上野介などと反映されます。上野国は親王が守を名乗るので、実際のトップは介でした。 -
展示館の西側が国庁跡なら、東側のインターチェンジ部分は国司の館跡、北側の高速本線部分には徴収した税を保管する倉庫でした。
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佐賀大和インターチェンジ部分
発掘で、国司の館だったことが判明。 -
高速道路の本線部分は怱座遺跡と呼ばれ、正倉(税を保管する倉庫)が位置しました。陸橋の名前にある惣座は、国内の主要神社の祭神を集めて祀った所で、律令初期の国司は神社参りが重要任務だったことの名残です。領内の神社を回るのが他の業務の支障となるので、国府に集められました。
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本線の北側は、奈良時代の国庁所在地と推定されます。
付近には、佐賀の伝統的民家が建ちます。屋根は萱からトタン葺きになっています。 -
そのまま嘉瀬川を遡ると、川上峡。佐賀の奥座敷です。
1927年に日本百景に選ばれた際には、九州の嵐山と謳われました。川上峡 自然・景勝地
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川沿いに、川上軌道の石碑が。
1917年に佐賀駅西側の神野~川上まで開業、1937年には廃止されました。
嘉瀬川に橋を架けず、建設費を節約しています。 -
石碑は、川上駅跡に建ちます。
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駅を降りた利用者は、こんな感じで渡し船で対岸の観光地へ向かいました。
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川を渡ると河岸に階段があり、1608年に佐賀藩主が奉納した三の鳥居を潜ると與止日女神社の本殿です。
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與止日女(よどひめ)神社
564年より続き、律令時代から肥前国一宮でした。
祭神は與止日女命で、神功皇后の妹です。通称は、淀姫です。興止日女神社 寺・神社・教会
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境内には日本武尊命/神功皇后/與止日女命に関するエピソードがあり、創建以前(神代)からの歴史があります。
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金精さん
本殿右手前に位置する御神体で、男性器のシンボルです。 -
故事
神功皇后が三韓征駐の折に当地に留まった妹の與止日女が、子宝に恵まれぬために秘かに館の隅にあった男根の自然石に肌を触れて子宝を願ったところ、無事に授かったという故事があります。このように一般公開されのたは、2004年以降です。 -
本殿左脇には、大楠がそびえます。幹長27m高さ30mの巨木でしたが、1813年の落雷で焼失し、一部と根本が遺っています。
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故事
奈良時代に勅命で編纂された「風土記」によれば、日本武尊が熊襲征伐の際に楠を見て「この国は栄の国と言うべし」と発しました。当地は、栄(さか)えの郡を改め佐嘉郡となります。県名でもある佐賀の地名の由来です。 -
西門
1470年代築で、1570年の今川の戦いで損傷するも73年に補修、現在に至ります。楠材の柱等は、15世紀のオリジナルのものです。西門を潜ると、実相院です。 -
実相院
奈良時代に與止日女神社の付属施設として行基が開基、1570年の今山の戦いで大友宗麟に境内を焼かれますが、1572年に竜造寺氏が現在地に移転させて再建します。平安時代から地域の寺院を統括し、與止日女神社の別当寺を務めました。 -
仁王門は1643年築。
実は、江藤新平率いる征韓党が佐賀の役の際に本営とした場所です。
というわけで門の手前には、佐賀の乱戦死者の慰霊碑が立っています。実相院 寺・神社・教会
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江藤新平
ここで寄り道。この日佐賀城本丸歴史館の企画展で、江藤新平の生涯を扱っていました。展示物等が撮影禁止なのが残念ですが、かなりのボリュームでした。
江藤は貧しい藩士の息子として城下町の西の境界線で生まれ、少年時代(元服後)は藩校の弘道館で大隈重信らと凌ぎを削ります。最初から開国を唱え、東京遷都を上申して注目されます。江藤新平誕生地 名所・史跡
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維新十傑の一人でありながら、中央政府ではなく写真の藩主鍋島直正が治める新制佐嘉藩の職員として、先進的な改革を行います。明治3年に中央へ召喚されます。翌年の廃藩置県などを施行します。
江藤の最大の功績は、維新功労者が軍備/産業振興に目を向ける中で、司法卿として法律全般を整備したことです。三権分立に基づく司法制度も構築しました。 -
清廉潔白な人柄で、自ら整備した刑法/警察制度で政府内の汚職を次々と摘発します。特に井上馨の汚職を摘発した際は薩長閥の恨みを買い、政府を追い出されます。
女性/貧者等の弱者に寄り添う性格が災いし、失業者(士族)が佐賀で計画した武装蜂起を止めさせるために交渉に赴くも、逆に彼らの強い推しで佐賀の乱に巻き込まれます。
写真の本丸城門には、佐賀の乱の時の銃痕が遺っています。 -
自ら司法制度を無視することを潔しとせず、自ら警察に出頭し裁判制度に身を委ねますが、皮肉にも正規の法的手続きを受けることなく処刑されます。本行寺に墓(写真中央)があります。
本行寺 寺・神社・教会
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おまけ
この日は佐賀国体の開会式に天皇陛下夫婦が出席し、ホテルニューオオタニ佐賀(写真)へ宿泊されました。隣接する佐賀城の広場では、日の丸の旗を振りながら「天皇陛下皇后陛下万歳!」を延々と繰り返すグループも。群集心理を彷彿とさせる光景でした。
※今年から国民体育大会ではなく、国民スポーツ大会に名称変更されました。ホテルニューオータニ佐賀 宿・ホテル
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