2025/07/10 - 2025/07/10
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gianiさん
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日本で2番目に人口が少ない市(6904人)、財政破綻し財政再生団体に陥落した唯一の市町村、暗い話が尽きない夕張市をレンタカーで訪れました。
用語(炭田/炭鉱/炭坑)の解説
炭鉱(coal mine):採掘事業所(=鉱区内での採掘権を占有)。地名+事業者名となる。三菱大夕張/三井三池といった感じ。
炭坑:炭鉱(鉱区)内の地表にある個々の出入口。通常は、炭鉱内に複数の炭坑が存在し、採掘が進むと炭坑同士が地中で繋がることも屡々。対義語は露天掘り。一坑/二坑/新一坑といった感じ。
炭田:炭鉱が林立するエリア。筑豊/石狩が著名。
- 旅行の満足度
- 5.0
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2019年にJR、2024年に札幌行き路線バスが廃止されたので、千歳空港からレンタカーでアプローチ。
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まずは石炭博物館へ
模擬坑道の展示が再開され、入場料1200円也。財政再生団体の真剣さを感じます。 -
概要
夕張市は空知振興局管内で最南端、中心都市岩見沢と隣接しています。札幌からは、バスで1時間ほどの距離です。
地名の由来は、アイヌ語で鉱泉を意味するユーバロの当て字です。
市内を夕張川が縦断し、石炭産業の発展に伴い1960年には人口12万にまで成長しますが、閉山に伴い人口減少に悩まされます。石炭博物館 美術館・博物館
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1874年にライマンの地質調査(夕張川上流)/1888年に坂市太郎の地質調査で、夕張川支流にあたる志幌加別川上流で石炭大露頭を発見します。しかし奥地ゆえに開発は見送られます。
1890年の開坑以来、石炭の町として栄え、1943年に市制施行、1990年に終焉。
炭鉱に代わって、リゾート開発/映画祭/メロン栽培などを立ち上げますが、人口減少を止められず、観光振興への赤字補填もあって2007年に財政再建団体になります。 -
陸地の形成
北海道は西側がユーラシアプレート、東側が北米プレートに分かれ、プレートが沈み込む中央部が海域でした。中央部は炭鉱が多く分布し、夕張も含まれます。
近隣には第3の太平洋プレートも活動し、東側が強く押されることで隆起し、中央部に日高山脈や夕張山地が形成されます。 -
大地形成の大まかな流れはシンプルですが、実際は隆起/沈降が繰り返され、地層が形成されます。東西南北上下方向に極地的な圧力がかかり、あちこちに断層が発生し、地層の連続性が乱されます。
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石炭の生成
石炭は、植物由来の化石燃料です。人類登場以前の第三紀と呼ばれる時代の北海道は温暖湿潤で、樹木や微生物の生命活動も冷涼な現在よりも活発でした。樹木の死骸が、水没等酸素不足の環境で分解されず、地殻変動の圧力(熱変成を伴う)を受けて石炭が生成されます。
※海外の石炭は国産よりも6-7倍の時間(3億年)を掛けて生成されています。 -
坂市太郎:夕張煤田志幌加別(しほるかべつ)鉱区地質測量図
開拓使による明治5年のライマン調査で、夕張にも有望な石炭層があることが判明しますが、僻地ゆえに交通の便を考えて幌内炭鉱が選ばれます。
明治19年に北海道庁が発足すると、明治21(1888)年に坂市太郎が夕張川上流シホロカベツ川沿いで石炭の大露頭を発見します。 -
開坑
明治23(1890)年4月に岩見沢経由で道路が開通し、馬車で工事材料や食料品を運んで、6月には夕張採炭所が設置されます。僻地ゆえに、開業時130人ほどいた坑夫は親方が飯場を設置し、坑夫斡旋/住居提供/食事提供等を全てを親方が請け負いました。
年内に3つの水平坑が開口し、翌年には2本の斜坑も開削されます。採掘/坑内運搬は、すべて人力でした。 -
鉄道開通
採掘した石炭の輸送には鉄道建設が不可欠でした。官営幌内鉄道/北有社を経て北海道炭礦鉄道(北炭)が1889年に発足し、空知太(滝川)~室蘭(積出港)の建設に併せて、夕張支線も1891年に開通します。 -
坑夫の暮らし
危険が多く死と隣り合わせの生活ゆえに、宵越しの金は使わないという豪快かつ刹那主義的生活を送っていました。北炭と坑夫の間に入っていた飯場の親方が上前をかなり撥ねていたこともあり、生活は楽ではありませんでした。北炭は坑夫と直接雇用関係を結ぶようになります。それとは別に、内地の鉱山と同じく友子というベテラン坑夫間の子弟関係(生活の相互扶助も包括する)が誕生します。 -
北炭の発展
日清戦争に伴う好景気で石炭需要が増大し、1897年に夕張採炭所長は西洋出張で最先端の現場を視察します。夕張でも、電力/圧縮空気を採用して経費削減を図り、坑外運搬機や扇風機を導入して効率化を図ります。
新規鉱区も増えて必要資材も増えたので、レンガ工場/コークス工場/山林経営にも乗り出します。1906年の鉄道国有法施行に伴い鉄道部門を国へ売却し、その資金で1909年室蘭に輪西製鐵所/日本製鋼所を建設します。しかし多角化で債務が増え、三井傘下へ吸収されます。 -
財閥系資本
鉄道の国有化は、内地で採炭のノウハウを築いた財閥進出の格好の機会となりました。既存の炭鉱を次々と買収し、新規鉱区に進出することで道内炭鉱を寡占します。 -
財閥の石狩炭田進出
三井:1897年に北炭株の買い占めを開始し、1913年に三井グループにします。1911年には登川炭鉱を買収し、1913年には砂川鉱区を開坑します。
三菱:本業の海運業で船舶用燃料として需要がありました。1913年に芦別開坑、1915年に美唄、1916年に大夕張を合併します。
住友:1916年に唐松、その後歌志内/奈井江/奔別を買収します。 -
大夕張地区
京都合資会社による1906年の福山坑開坑が起源で、1911年に鉄道が開通し、1916年に三菱に買収されます。地形が険しく孤立した環境と、林業が盛んなこともあり、独特の個性が生まれました。1930年には北部鹿島地区が開発されます。 -
行政
1890年に登川村が発足し、1919年に町制が施行され夕張町に改められます。まもなく人口は5万人を超えますが、炭鉱の払う税金は全て国庫へ納められるので、住民のインフラ整備が必要にもかかわらず財政がひっ迫していました。
初代町長向田幸蔵は、1924年に町域の殆どを占める御料地払い下げを実現させ、林業を興して当面の財政不足を補います。
二代目町長松尾孝之は、鉱産税の半額を地方移譲させる運動に率先し1931年に実現させます。
1943年には、市制が施行されます。 -
戦時統制
1931年の満州事変以降、石炭需要は高まり、新規坑道の整備や機械化が一気に進みます。他にも休坑道の再開/コールピック採炭の本格導入/昼夜採炭/選炭設備や発電施設の拡張等で生産性を高めました。
1937年の日中戦争開始に伴い石炭増産5ヵ年計画が実施され、国策会社樹立等を通して国家統制が進み、軍隊式の職場管理で無理な増産を強いた結果、炭鉱は荒れ果てます。 -
戦時下の労働力不足と強制労働
熟練坑夫の軍隊招集/軍需工場への流出が重なり、深刻な労働力不足に悩まされます。女性の坑内労働禁止令を緩和して従業員家族の女子を従事、主婦は選炭作業場、児童は校庭や近所を畑にして農作業に励みました。ろくな保安材料もない坑道での狂気のような乱掘採炭/長時間労働/食糧不足も相まって生産性は著しく低下し、労働者も機械を故障させてサボタージュします。
夕張では12000人の朝鮮人/2000人の中国人労働者およびその家族を集団移住させ、暴力的な指導を受けながら炭鉱に従事しました。 -
戦後
GHQによる朝鮮/中国人労働者解放に伴う労働力不足と食糧不足が重なり、採炭量は激減します。政府は炭鉱へ優先的に食糧配給し、賃金も上げることで出炭量を増やします(傾斜生産)。
インフレ対策で1949年に金融引締めを行う(ドッジライン)と経済は停滞して石炭需要は落ち込みます。しかし朝鮮戦争(1950-53)勃発で特需が発生します。
朝鮮戦争休戦後は不況に見舞われ、海外の安い石炭を前に苦闘します。立坑開発と機械化による効率化で対処しますが、労働者争議が激増し、市場は重油へシフトし始めます。 -
石狩炭田の中の夕張
夕張は、石狩炭田の採炭量の2割以上を常時キープする稼ぎ頭でした。背景には、厚層/緩傾斜/高カロリーの3要素(長期間採れる/採り易い/高品質)が関係しています。 -
夕張の二大事業者
官営幌内鉄道をルーツとする北炭と、三菱が夕張を牽引します。
北炭は、政府払い下げ後に室蘭(積出港)/歌志内・夕張(炭鉱)へ路線を伸長し、鉄道とセットで開発します。夕張/平和/清水沢/真谷地/夕張新/登川(戦後まもなく閉山)鉱がありました。
三菱は官営高島鉱山(長崎)の払い下げを機に進出、大資本を背景に市内各地に炭鉱を開設します。 -
北炭夕張炭鉱(1892-1978)
夕張のシンボル的炭鉱で、1888年に坂市太郎が見つけた石炭大露頭も含まれます。大正期には既に年産100万tを達成し、日本を代表する炭鉱となります。1950年代半ばまでは単独で50%以上のシェアを誇り、歴史/生産量ともに夕張を代表する炭鉱でした。跡地は現在の石炭博物館になっています。
一鉱:最初に開坑され、北上/最上/千歳の3区に分かれて操業していました。
二鉱:主力坑で、炭層は緩傾斜。掘り進むにしたがって深部化/遠距離化し、1936年からベルトコンベアを設置。1~4区に分かれます。
三鉱:1906年に浅野財閥が開坑するもガスが多く難渋し、1920年に北炭に併合。戦後は他鉱と切迫し規模を縮小。
新第二鉱:揚水の問題から放置されていた一/二鉱下層部にドラムカッターを導入。 -
斜陽化と閉山
1960年(二鉱)と65年(一鉱)の爆発事故を契機に、深部化/坑道骨格の老朽化による生産性悪化が顕在化します。1962年の政府答申で合理化が要求されますが、経営者の夕張鉱信仰で出遅れ、1972年に新二鉱を開きますが78年に閉山します。石炭の文化村(遊園地)として再スタートするも閉園に追い込まれ、現在は石炭博物館となっています。 -
北炭平和鉱(1906-70)
炭層/品質に優れた中規模炭鉱。浅野系列の石狩石炭が開発するもガス爆発に悩まされ、1920年に北炭に併合されるも30年に休山。当初の名称は若鍋鉱だったが、1914年の有数の爆発事故もあり、北炭は火と関係のある鍋を菜辺に変更します。
戦争による燃料不足と技術進歩により、1939年に再開。事故のない平和な炭鉱を願って改称されるも、戦時にふさわしくないと批判を浴びます。1954年に二鉱も出炭開始されますが、57年に一鉱に統合されます。1964年にはドラムカッターで全採炭と機械化/効率化が進むも、68年の坑内火災消火のための注水が祟って、1975年に新夕張鉱へ統合/閉山となります。併せて、北炭夕張鉄道(鹿の谷~栗山 概ね道道3号線と重複)も廃止されます。 -
北炭清水沢鉱(1952-80)
昭和初期の調査で有望視されたが、戦争/ドッジラインが災いして小規模開発に留まる。夕張鉱の風洞としても機能する遠幌鉱が1945年に出炭開始し、1952年に清水沢に併合される。立坑も開坑し、遠幌/清水沢の2鉱体制で稼働したが、合理化に伴い1980年に閉山。 -
北炭夕張新鉱(1975-82)
地下600-1000mの大深度に優良層が存在することが分かり、鉄鋼業界のニーズを受けて1968年に着手、1975年に出炭開始。出炭減で経営の悪化した北炭の救世主として期待されるが、途中のオイルショックで開発費が高騰し、技術的問題も圧迫要因となる。切羽数を増やして出炭量を増やすも、81年のガス爆発が致命傷となり翌年に閉山。炭質は高炭素/低硫黄/低灰分と国内最高で、熱量は8600-9300kclと破格だった。 -
北炭真谷地鉱(1906-87)
新夕張駅西方、小規模/良質が特徴。1906年に楓と真谷地に坑口を開設。1911年に三井によって登川鉱が開設されるも19年に北炭へ併合され、楓坑は登川鉱へ編入される。登川鉱は1958年に閉山、楓坑は真谷地に復帰。良質だが40-80度の急傾斜炭層ゆえに機械化が叶わなかったが、1987年まで操業した。 -
三菱大夕張鉱(1916-73)/南大夕張鉱(1970-90)
大夕張鉱(南部地区)は1909年より操業し、1916年に三菱資本になります。成果が上がらず、昭和初期に採炭を終えます。大夕張鉱(鹿島地区)は1931年に出炭開始、戦後に他社との大規模鉱区調整を行って合理化し、1972年に閉山。
南大夕張鉱は南部地区と隣接し、1970年に出炭開始。1990年の閉山まで100万tペースを維持し、三菱グループの鉱員の受け皿として機能します。夕張川上流の僻地ゆえに、鹿島まで自前で鉄道を通します。 -
夕張炭砿北夕鉱(1948-70)
年産10万tほどだったが、1970年に特別閉山交付金制度を利用して企業ぐるみで閉山。
北菱鹿島鉱(1953-72)
三菱の鉱区内で操業するグループ会社で、採炭設備/賃金は中小炭鉱と変わらない。夕張川沿いに北夕と並列。 -
各炭鉱の系譜
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では、入坑します。
まずは自己捜検から。鏡で装備服装をチェックして、無事故を期して気合を入れます。その後、捜検係のチェックを受けます。 -
スローガンがあります。
坑道は、水平坑/斜坑(10-20度の傾斜)立坑または竪坑(垂直方向へ伸びる)の3種類に分類されます。 -
坑口神社
山の神として有名な愛媛県の大山祇神社から勧請したものに入坑前後にお参りしました。炭鉱事故が繰り返されると、神棚から立派な祠へ変化します。さらに商売繁盛(茅野姫神)や北海道開拓の神(大国主命)も合祀さるようになります。 -
ゲージ
当初は徒歩で採掘現場へ向かいましたが、掘り進むにつれてロスが大きくなります。距離/時間短縮のために垂直に伸びる坑道(立坑)が掘られます。エレベータの籠(ゲージ)に乗って移動しました。北炭大夕張鉱では850m、幌内鉱では1080mに及びました。 -
手掘採炭
当初は、人力で採掘しました。先山と呼ばれる係が鶴嘴で炭層を砕きます。重労働で、男性専従です。後山と呼ばれる係が、破片をカッチャで掻き寄せています。先山/後山は、夫婦の事もあります。
手掘りの坑道は真っ直ぐではなく、狸掘りとも呼ばれます。
※女性の坑内労働は、北海道では1928年に禁止されます。 -
石炭は、運搬係が背負う盤箱で幹線坑道まで運ばれます。
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鶴嘴は片刃/両刃に分かれ、石狩炭田では刃先が丸まっても反対側も使える両嘴(写真中央)が一般的でした。カッチャ(左)は炭層から採れた断片を搔き集める道具です。セットー(左から2番目)は槌で、コソク(写真右)と呼ばれる鏨を打ち込んで岩盤を一気に粉砕します。
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馬引運搬
地上へ繋がる幹線坑道はレールが敷かれ、トロッコに石炭を載せて輸送しました。最初は人力でしたが1910年代に馬へ取って代わり、構内に馬小屋も作られ週毎に地上と地下を行き来しました。 -
支柱夫
落盤しないように坑道を支柱で支持するのも重要で、坑道を保持するための支柱夫が木材で三つ枠を組んで天盤/壁面を細い木材で支えました(留付)。 -
換気
外気を入れる入気坑口/澱んだ空気を排出する排気坑口を随所に設け、構内の空気が循環するようにしました。構内各所に通気戸門を設け、戸版女坑夫が戸番として開閉を行いました。 -
照明
坑内の照明は、ウルフ式安全灯(灯火式)が使用され、安全灯婦が煤などを取り払いました。電池式になると、灯婦は消えます。 -
発破採炭
採炭量を増やすべく、火薬を使用するようになります。先述のセットーでコソクを打ち込んで、火薬を詰める穴を掘ります。 -
炭鉱の機械化
蒸気機関が導入され始めた19世紀の時点で、北炭は電化を重視しました。坑内、殊に採掘面はガス爆発の危険と隣り合わせで、圧縮空気は安全な動力源でした。電動コンプレッサー(空気圧縮機)で供給します。
日立製作所は小坂鉱山内で創業したので、製品は炭鉱でも愛用されます。 -
コールピック
ガス爆発のリスクが最も高い採掘面では、圧縮空気を動力源とするコールピックを導入し、効率がアップします。当初は輸入機械で、西洋人の体形に合わせたために使いこなせませんでしたが、日本人の体形に合わせた国産品が出回る昭和初期に大きく普及します。 -
国産のコールピック
落盤を防ぐために、炭層の半分を柱として残す(未採掘)残柱法が採られます。 -
エアコンプレッサー
圧縮空気を作る電動機械です。写真は、毎分33立方メートルの空気を圧縮し、コールピック40台を同時使用できる生産能力です。 -
岩盤の発破の穴開けは、圧縮空気を動力源とする削岩機を使って能率が飛躍的に向上しました。
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エアホイスト
荷物を揚げたり引っ張るための巻上機で、圧縮空気を利用することで人馬よりも効率が上がりました。 -
グラウトポンプ
坑道内の亀裂にミルクセメント(セメントを水で希釈したもの)を注入することで、崩落を防ぎます。写真のポンプは、毎分800リットルのミルクセメントを20気圧で注入する能力を持ちます。 -
坑内の排水
坑内で湧き出る地下水の排水のためにタービンポンプが導入されます。写真は電動で、1立方メートルの水を毎分230m汲み上げる能力を持ちます。 -
保安要員
石炭層からは大量のメタンガスが発生し、通期の悪い場所ではガスが滞留してガス爆発の原因となります。保安要員は常時坑内を巡回し、流出箇所や濃度を調査し、事故防止に努めました。 -
測風員
通気の風量を計測し、空気の滞留や不足を察知します。 -
通気の悪い場所には、局部扇風機が設置されました。
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ガスブロワー(送風機)
坑内のメタンガスを圧縮空気でガス管へ誘導して排出します。現在は集めたガスを発電に用いています。 -
エンドレス捲
採炭物や資材を運ぶトロッコの動力は、エンドレス(ケーブルカー)となります。ケーブルを捲く動力は、通常は坑外の蒸気機関から発展しますが、夕張鉱は当初から電動モータでした。 -
安全灯
火を燃やすものから、電灯に変わります。バッテリー式で8時間の充電で10-14時間使用できました。充電スペースもコンパクトで操作も簡単です。 -
鉄柱カッペ
坑内で使う支柱と梁は、戦後にドイツ製の鉄柱カッペへ切り替わります。支柱よりも数倍の強度があり、組み立ても簡単なので切羽が終わると撤収して次の現場で組み立てられる優れものです。支柱の高さも、自由に調節できます。 -
長壁式(ロング)採炭法
鉄柱カッペの導入で、掘削面が横一面へ伸びる長壁式採炭法が残柱式に取って代わります。メリットはロス(未採掘面)が大幅削減されるのと、採掘の高速化です。 -
鉱山用ケーブル(電線)
大正(1910s)時代に坑内の電化が進みますが、高圧化に伴い回線がショートした際に発する火花で坑内ガスが引火し、ガス爆発を起こすリスクが増しました。1932年に開発されたクロロプレンゴムで電線を包む等の対策が取られましたが、1950年代に実用化された防爆ケーブル導入により、高圧/大電流を要する大型機器の坑内導入が可能になりました。
防爆ケーブルは、短絡(ショート)時に地面に放電されるのを素早く感知し、感知と同時に送電をストップするシステムです。 -
ホーベル
大工道具のカンナ(鉋)を意味するドイツ語で、掘削面をカンナ掛けするように削ぎ落す姿から名付けられました。実際は、全身爪だらけの外観。1950年代に導入され、コールピックとは比べ物にならない採炭能力を持ちますが、DCに主戦場を譲ることになります。 -
ドラムカッター(DC)
6-7.2度間隔で刃(カッター)が並ぶドラム(円筒)が回転して、切羽面を一気に切り崩す大型機械。左右に往復運動することで、幅200mの長壁も自動で掘削します。
1960年代に登場した最終進化形のメカ。
切羽ダブルチェーンコンベア
ドラムカッターが掘り出した石炭を主坑道まで運びます。 -
自走枠
ドラムカッター/ホーベルの作動で掘削面が前進するのと連動して、自動的に支柱と梁が前進するので、カッペの取り外し/移動が不要になります。1.1m幅で、長壁式掘削面に沿って、ずらりと配置します。 -
SD採炭
自走枠/コンベア/DCが三位一体となって連動する事で採掘/搬送が自動化されたシステムで、採掘速度が著しく向上しました。写真は天盤を取り外した模型で、自走枠が並ぶ中をドラムカッターが壁面に沿って掘削しています(長壁式採炭法)。掘削面の両端の坑道にはベルトコンベアが設置され、DCと並列のコンベアから流れる採掘物が地上まで運ばれていきます。
自走枠の後ろ側には、採掘岩/屑や砂などが充填されて、天盤が崩落しないようにしています。 -
ロードヘッダー
地盤の脆さや炭層の関係で長壁式採炭法が採れない切羽面では、ロードヘッダーやホーベルが活躍しました。ロードヘッダーは、頭部の刃が回転しながら掘削します。頭部は左右上下に首振りできます。現在もトンネル工事の主要掘削機械です。
ほかには、コンティニアスマイナー(CM)と呼ばれる掘削/掻き寄せ/採炭の後部排出を一度に行える機械も使用されました。 -
エアオーガー
発破のために岩盤に開ける穴も、エアオーガーで安全/迅速に開けられました。発破は専門職が行い、火薬を詰めた後にタンパで穴を埋めることで反応効率が上がります。現場に合わせて、発破も行われました。 -
自己救命具の装着
鉱山保安規則によって、入坑者全員に義務付けられました。中には一酸化炭素中毒を防ぐために薬品が入っており、退避するまでの間に使用しました。 -
監視制御
機械の大型化と併せて、中央指令室による集中監視システムが構築されます。坑内環境を様々な測定値(気温/湿度/CO値/ガス濃度等)/石炭輸送経路の把握/採炭機械の稼働状況を一括で把握し、適切な指示を現場へ出します。写真は1960年代のもので、80年代にコンピューターが導入されることでデータ等のデジタル化が実現します。 -
通信
1960年の電話線の総延長は地上152/坑内97kmに及び、構内の電話は手回し式の原始的なものでした。
一方で、夕張と札幌間は、無線電話で繋がっていました。札幌と東京本社の通信は、マイクロ回線を保有していました。 -
選炭
切羽面からベルトコンベア/トロッコで地表に出た採掘物は、選炭場で石炭とゴミに選別されます。当初は台の上で人が選別していましたが、水や油の性質を利用した水槽で選別されるようになります。選炭は洗浄されて鉄道輸送されます。
廃棄物は、ズリ山に捨てられます。 -
炭鉱町の暮らし
北炭夕張鉱周辺は、今とは大違いの賑わいです。写真は山祭が近づいた頃の光景で、炭鉱は3日間お休みになりました。大山祇神社の例大祭に合せて、5月に行われました。 -
福利厚生
炭鉱住宅が整備され、家賃/光熱費が無料でした。電気が早く開通し、住居環境も恵まれていました。映画館等の福利厚生施設も揃い、毎年有名人が興行に訪れました。
慰安行事
運動会は走る競技がメインで、力自慢系も人気でした。写真は1940年トロッコの車輪を使った重量挙げです。 -
北炭とは?
1889年に政府から払い下げられた幌内鉄道/幌内炭鉱を買い入れて「北海道炭礦鉄道会社」が設立、翌90年から夕張炭鉱/空知炭鉱(歌志内)を開坑、室蘭に積出港を建設し鉄道網で結びます。
1906年の鉄道国有化で鉄道部門を譲渡(北海炭礦汽船に改称)した資金で、1909年に輪西製鉄所(室蘭 現日本製鐵)を開業するも経営を圧迫し、1913年に三井傘下になります。1942年に船舶部門を商船三井に移管しますが、社名は継続します。
1955-82年にかけて実権を握った萩原吉太郎は、順調な出炭の上に胡坐をかいて新鉱開発が大いに遅延、夕張新鉱の出炭開始が遅れたことが原因で屋台骨が傾きます。1978年に各炭鉱を分社化して東証一部上場廃止、95年に空知鉱閉山で採掘を終え、同時に破産申請。現在の会社は石炭輸入/販売を行う専門商社。 -
では、屋外を散策します。
まずは、1888年に坂市太郎が見つけた石炭大露頭。石炭の大露頭 自然・景勝地
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写真では10尺で埋まっていますが、実際は24尺(7.4m)の厚さがあります。2年後に夕張鉱が出炭開始します。
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採炭救国坑夫の像
軍需生産推進のために、東京の美術家が1944年に駆り出されて製作。 -
顔のモデルは、当時の夕張鉱業所長の竹鶴可文氏。ニッカを創業した竹鶴政孝の兄にあたります。
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天竜坑坑口跡
1900年に第三斜坑として開坑、1918年に天龍坑に改称。旧北炭夕張炭鉱天龍坑資材斜坑坑口 名所・史跡
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1938年のガス爆発で閉口。
石炭歴史村として整備されています。石炭の歴史村 テーマパーク
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夕張神社
北炭夕張鉱の鎮守として、鬼門の位置に1894年に鎮座。軽巡用艦夕張艦内にも勧請されていました。夕張神社 寺・神社・教会
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当時はこんな感じで、博物館敷地に駅と炭鉱と炭鉱町が一体となって存在しました。
1960年には117,000人いた人口は6900名になり、2007年には財政再生団体に指定(後にも先にも日本唯一)されて現在に至ります。 -
1981年の新夕張鉱坑内事故の模式図
当時の裁判で使用する資料として作成されました。新夕張鉱が閉山へ追い込まれる致命傷となりました。 -
おまけ
途中で寄った道の駅ではD51がウリですが、個人的には183系の展示がツボりました。
次は月形町を訪れます↓
https://4travel.jp/travelogue/12014462道の駅 あびらD51ステーション 道の駅
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