2024/04/26 - 2024/04/26
194位(同エリア762件中)
ベームさん
前回の高輪、三田地区に続き城南地区です。城東、城北地区と違って、ビルの谷間の散策です。
ルート上に芝公園、増上寺、東京タワー、外務省飯倉公館、麻布台の高層ビル群、ロシア、アメリカ大使館など。文学的遺跡では、尾崎紅葉、北村透谷、紅葉館、水上滝太郎、島崎藤村、永井荷風など。遺跡と言ってもここに誰が生まれた、住んでいた、なにがあっただけで、遺構が残っているわけではありません。関東大震災、先の大戦、戦後の高度成長時代からいまに続くスクラップ アンド ビルドで古いものは何もかも失われてしまいました。想像するだけ、いや想像するのも困難です。
飯倉は島崎藤村が20年、麻布台は永井荷風が25年ほども暮らした所で、この界隈の記述も多く、両氏の文章の引用が多くなりました。
写真はこの界隈のランドマークスリーショット。増上寺、東京タワー、麻布台ヒルズ。
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今日のスタートはJR浜松町駅です。ここも前回降りた品川駅と同様、私には馴染みの少ない駅です。時間は9時20分ころ。
天気予報では最高気温27度。でも午後からは日も翳りそれほど暑くはありませんでした。 -
電車でこの駅を通過するたびに目に入っていた茶色ののっぽビルがありません。駅前は世界貿易センタービルの建て替え工事中でした。
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駅前から増上寺に向かって大門通りが延びています。
その途中右手に芝神明商店街の入り口。 -
歌川国丸:江戸芝神明図。
道路際にあります。
文化文政年間、1820年頃の芝大神宮の賑わい。芝は芝神明と増上寺の門前町として栄えました。女人禁制の増上寺とちがい、ここには岡場所もありました。 -
まず尾崎紅葉生誕の地を訪れます。
駅前から増上寺の方に伸びる大門通りの途中、スギドラックの角を左に入ります。 -
ここらあたりは芝大門2丁目。
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この狭い道路の先、
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小さな首尾稲荷があります。このあたりで紅葉は生まれ、明治19年までこの界隈に住まいしました。
尾崎紅葉:慶応3年(1868年)~明治36年(1903年)。父は有名な根付師(帯からぶら下げる煙草入れや印籠など)の尾崎谷斎(こくさい)。紅葉は生粋の江戸っ子でした。しかし父は同時に赤い羽織を着て酒席に侍って芸や笑いを振りまく幇間でもあったので、紅葉はこれを恥として一生秘していたという。 -
東大予備門時代に山田美妙らと「硯友社」を結成、回覧雑誌「我楽多文庫」を発刊した。東大法科在学中(中退する)に読売新聞社に入社、のちの紅葉の作は殆ど全て読売新聞紙上で発表された。明治20年代には文壇の盟主となり、幸田露伴と共に、「紅露時代」と言われた。
一世を風靡した紅葉ですが、今の時代紅葉の作品を読む人はほとんどいないのではないでしょうか。夏目漱石が予言しています。「紅葉の作品はせいぜい2,30年だが、島崎藤村のは末永く読まれるだろう。」 -
裏に回ると、いや、こちらが正面です。芝大神宮の摂社のようです。
とはいえ門下生泉鏡花、小栗風葉、徳田秋声、柳川春葉を育て、硯友社の同人山田美妙、川上眉山、巌谷小波、江見水陰などを通じて明治文壇に与えた影響は大なるものでした。 -
大門通りに戻り、増上寺大門の手前で大門道の反対側(北側)に渡りました。
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こんな家がありました。
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中を今風に改造してあるなら住んでみたいです。
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さらに路地を右に入ると芝大神宮がありました。
芝明神、芝神明社、古くは飯倉神明社などとも呼ばれます。 -
1005年の創建で、祭神は伊勢神宮と同じ、天照大神と豊受大神で、関東のお伊勢様とも呼ばれるようです。当初は飯倉、今の東京タワー辺りにあったようです。慶長3年(1598年)に現在地に移転し、芝神宮と名を改めています。
江戸時代に入り近くの増上寺が徳川家の菩提寺になったことで、芝神明の社運はあがり、門前町もますます栄えました。 -
頭に角が生えている唐獅子の狛犬さん。
江戸時代、この地の町火消め組の奉納と言われています。 -
ビジネスマン風の人が次々と参詣しています。会社関係の崇敬を集めているようです。神田明神と同じですね。
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ここの祭礼は神田明神、赤坂山王のと並んで江戸時代の代表的なお祭でした。
他のお祭が3日間ほどで終わるのに対し、芝神宮の9月の例大祭は10日間ほど牛の涎のようにダラダラ続くので、「太良太良(だらだら)祭り」と呼ばれています。 -
手水舎。
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路傍の公衆便所です。
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増上寺の大門(だいもん)。
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増上寺の総門、表門ですが、今はポツンと切り離されています。昔はここまでが増上寺の社領だったのです。
現在のは昭和12年建造のコンクリート作り。 -
増上寺の山門まで来ましたが、ちょっと寄り道。
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芝公園。
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増上寺の手前の芝公園に寄り道しました。
芝公園記念塔。
芝公園は明治6年上野、浅草とともにオランダの軍医ボードワンの進言により、増上寺境内の一部をさいて公園としたものです。 -
ペルリ(ペリー)提督の像。
日本来航100年を記念して1953年アメリカから寄贈されたものだそうです。 -
遣米使節記念碑。
1960年に、万延元年(1860年)の日米修好通商条約調印記念100年を記念して建てられた。
使節団の護衛船「咸臨丸」は勝海舟が艦長で、福沢諭吉が乗っていました。 -
通りを渡ると、廣度院の練塀。
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港区役所。
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平和の女神像、長崎の平和記念像の製作者北村西望作、とバックは港区役所。
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その隣に枡形の石組みがあります。
浅岡飯(まま)炊きの井、といいます。 -
万治元年(1660年)、第3代仙台藩主伊達綱宗(政宗の孫)の乱行に始まる伊達騒動で、綱宗の幼児亀千代(後の4代藩主綱村)を毒殺の陰謀から守るため、母の浅岡の局(綱宗の側室)が自らこの井戸の水で飯を炊いて亀千代に与えた、という言い伝えです。
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伊達綱宗とは、浅草吉原の遊女高尾太夫吊るし切りで有名なあの御仁です。
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芝公園。
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公園を少し北に行くと、日比谷通りの向こう側に二天門があります。
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陸橋の上から日比谷通りと御成門交差点。
北方面。 -
南方面。
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御成門。
徳川将軍が増上寺の徳川家霊廟へ参詣の際に用いられた。
関東大震災や先の大戦にも焼けずに残ったそうです。 -
日比谷通り沿いに建つ二天門です。有章院殿(7代将軍家継)霊廟がありましたが、昭和20年3月の空襲で焼け落ち、二天門だけが残りました。
1717年、8代将軍吉宗の築。 -
広目天。
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多聞天。
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プリンスホテル。
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内側から見た御成門。
プリンスホテルの敷地内にあります。 -
ようやく増上寺に到着です。
増上寺、三解脱(げだつ)門(山門)。表門の大門に対し、中門になります。
当初1611年築、1622年再建。先の大戦でも他の伽藍は全て焼けましたが、ここだけが残ったそうです。
高さ21m、間口19m。 -
京都の知恩院と並ぶ浄土宗大本山の一つ。
1393年、今の千代田区平河町辺りに開基。徳川家康江戸入府により徳川家の菩提寺になる。慶長3年(1598年)現在地に移る。
江戸城の南西、裏鬼門を守っています。 -
山門を入ってすぐ右に、め組の碑があります。
め組とは江戸時代、芝地区を仕切っていた町火消です。文化2年、1805年、芝神明の境内で勧進相撲が開かれていた時、辰五郎以下め組のとび職連中が木戸銭を払わずに見物しようとした。これを巡り、相撲取りととび職の間に大げんかが起こったのでした。「め組の喧嘩」として大評判になりました。
浅草の町火消の頭、新門辰五郎は別人です。 -
月岡芳年:錦絵 神明相撲闘争之図
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熊野神社。ゆやじんじゃと呼ぶそうです。
1624年、増上寺の東北隅、鬼門に当たる場所に紀州熊野神社を勧請。 -
鐘楼堂。
上野寛永寺、浅草浅草寺の鐘と共に江戸3大名鐘と謂われます。鐘の音は遠く熊谷、木更津まで届いたそうです、ほんまかいな。
高さ3m、重さ15トン。 -
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大殿。
昭和49年(1974年)の再建。 -
本尊は阿弥陀如来。
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大殿から境内の眺め。
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沢山の子育て地蔵が並んでいます。
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可愛らしい。
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安国殿。
増上寺の宝物展示室になっています。家康の持仏黒本尊が祀られています。 -
西向聖観世音菩薩。
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徳川将軍家墓所。
2代秀忠、6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂の墓があるそうです。その他正室、側室など。 -
墓所の鋳抜門。
青銅製で、左右の扉に5個づつの葵の紋、両脇には見事な昇り竜、下り竜が鋳抜かれています。 -
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大納骨堂。
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方丈門(黒門)。
黒漆塗りなので黒門と呼ばれます。日比谷通り沿い。 -
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経蔵の後ろに聳える大かやの木。
樹齢600年以上と言われますから、増上寺建立の前からあることになります。
樹高25mは日本で1.2の高さだそうです。 -
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境内の茶店で少憩。
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増上寺を後にします。
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すぐ横にある旧台徳院殿霊廟の惣門。
台徳院殿とは2代将軍秀忠のこと。 -
芝公園。
芝公園は増上寺を中心に、周りをぐるりと囲んで位置しています。
バックは東京タワーと麻布台ヒルズ。 -
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芝東照宮。
祭神は徳川家康。 -
徳川家康が自ら命じて彫らせた、家康の実像に最も近いと言われる「木造徳川家康坐像」があるそうです。
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手水舎。
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境内の隅にたつ大イチョウの木。東京都天然記念物です。
1641年、3代将軍家光が植えたと言われています。
樹高22m、目通り周り6.5m。 -
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東照宮の背後には芝丸山古墳と貝塚があります。
古墳は5世紀半頃の前方後円墳と見られています。全長108m。都内では最大級です。また貝塚は縄文後期のものと言われます。 -
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古墳の全体像は全く掴めません。
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岡であることは分かります。
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古墳の上部にある円山随身稲荷。
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古墳の麓には梅園が広がっています。
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公園は増上寺の後ろの方に回り込んでいます。
弁天池。 -
池のそばに宝珠院。
開運出世の弁財天と、閻魔大王像があります。 -
増上寺とそれを取り巻く芝公園図です。
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公園から道路を渡り、小高い芝公園18号地児童公園に行きました。
ここら辺りに北村透谷の家があり、終焉の地(自殺)となった所です。
後年近くの飯倉片町に住んでいた島崎藤村は:「ここは曾て透谷の住居のあった芝公園の境内へも遠くない。」「透谷はあの紅葉館の裏手にあたる谷間に住んで、短い生涯の最後をもあそこで送った。青年時代の私がよく友達の住居を訪ねたのも、あの樹木の多い谷間であった。」と述懐しています。自殺の経緯は藤村の「春」に詳しく描かれています。 -
北村透谷 1868年(明治元年)~1894年(明治27年)。小田原生まれ。
詩人、評論家。
東京専門学校在学中に自由民権運動に加わる。民権運動の過激化に反発し、運動から離れ文芸評論、詩作を始める。近代的な文芸評論、日本浪漫主義の先駆者。
当時文芸評論で生計を立てることは困難で、次第に貧困生活からうつ病になり、妻と一児を残して27歳の若さで縊死した。
文芸誌「文学界」の中心メンバーで、島崎藤村、戸川秋骨、平田禿木らに強い影響を与えた。
作に、長詩「楚囚之詩」、「蓬莱曲」。評論「厭世詩家と女性」、「人生に相渉とは何の謂いぞ」。 -
その北隣にあるとうふ料理屋「うかい」。
たかが豆腐料理で庶民には手が出ない料金を設定しています。インバウンド客が多いようです。まっとうな日本人なら馬鹿らしくなります。 -
すぐ先が東京タワーですが、先にもみじ谷に行きました。
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先ほどの児童公園のすぐ北、東京タワーと増上寺の間の芝公園の一角にある渓谷です。
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東京タワーの建つここら辺一帯は紅葉山といわれ、紅葉の名所でした。
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人工の滝「もみじの滝」。
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小さな滝で気がつきにくいです。
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もみじ谷。
車の喧騒も聞こえなく、静かな一画です。 -
東京タワーです。
1958年(昭和33年)竣工の総合電波塔。高さ333m。
私は東京スカイツリーには登ったことはありませんが、ここは昔一度登りました。 -
この東京タワーの建っている所は、鹿鳴館なきあと明治、大正、昭和を通じて政財界人、紳士貴顕、文人、外国人たちの社交場であった高級料亭「紅葉館」があった所なのです。明治14年開業し、昭和20年3月の空襲で焼失。
西園寺公望が主宰した著名文士の集まり「雨聲会」がここで開かれたこともありました。坪内逍遥が大隈重信を会頭に推した文芸協会発会式もここで行われました。
客が名士ならここで働く女中たちは才色兼備、厳選された美人で教養も高かったそうです。
クーデンホーフ光子(青山光子)は娘時代ここの女中をして行儀作法を仕込まれたそうです。 -
こんなエピソードがあります。尾崎紅葉が芝生まれということもあり、硯友社の文士たちがよくここを利用していた。そのうちの巌谷小波が美人で評判の女中お須磨と恋仲になった。が、お須磨は(金に惹かれ?)当時の大出版社「博文館」の当主、大橋新太郎に心変わりしてしまう。それを聞いて怒った尾崎紅葉が紅葉館の廊下でお須磨を詰り、足蹴にしてしまう。これが紅葉の「金色夜叉」熱海の海岸、貫一お宮の場面になった、というのです。お須磨の写真を見ましたが、確かに美人です。長谷川時雨がその著「近代美人伝」に挙げているほどです。
紅葉館は当初は貧乏文士たちでも遊べた気易な場所でしたが、次第に東京屈指の高級料亭になっていきました。 -
紅葉館庭園。
山本松谷画「明治東京名所図会」より。明治30年ころ。 -
東京タワーから桜田通りに下り、飯倉方面に向かいました。
飯倉交差点の手前に熊野神社があります。養老年間の創建。 -
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その先を左に入るとやや急な昇り坂になっています。突き当りはロシア大使館の塀です。
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突き当りをさらに左に曲がると、東京アメリカンクラブというのがありました。
ここで私は思い出しました。米国企業との合弁会社に数年間出向していた当時、クリスマスパーティーをここで開いていたのです。 -
その先の草地の中。
港区麻布台2-2-2。 -
地球物理学のことはよく分かりませんが、日本の経緯度の原点だそうです。
黒い丸い点がそれです。 -
ここには明治21年に設置された東京帝国大学付属東京天文台が、関東大震災の後に三鷹に移転するまでありました。
この近くに住んでいた島崎藤村にもこんな文章があります。
「ここに住みはじめた頃は、東京天文台も近くにあった。・・・、何となく三年の巴里生活を思い出した。私の仏蘭西だよりなぞを書いた遠い旅にあっての下宿は、巴里の天文台に近かったから。」 -
この辺り明治生命保険会社の創業者の四男として、のちの作家、評論家、実業家水上滝太郎(本名阿部章蔵)が生まれた所です。1887年(明治20年)~1940年(昭和15年)。慶応大学理財科卒。
泉鏡花、永井荷風に親炙し、「三田文学」に作品を発表。ハーバード大学に留学後明治生命に入社、重役となる。実業家と文人を兼ねた知識人だった。 -
飯倉から六本木に通じる大通りに出ます。
ロシア大使館です。付近には警官や警備車両の姿がありました。 -
横を下る狸穴坂。
狸穴のソ連大使館、なんて東西冷戦時代、ニュースでよく聞きました。 -
狸穴坂。
白い塀はロシア大使館。 -
道路の反対側は日本一高いビル、森ビルの麻布台ヒルズです。
高さ325m、地上64階。 -
こんな高いビルの麓の住民は不安になりませんかなあ。構造計算上は絶対安全でも、引力の法則がある限り想定外のことでどんなことで崩れてくるかもしれない。
高さ競争もほどほどに。 -
狸穴坂の先に南に下るかなり急な坂があります。
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鼠坂、または鼬(いたち)坂と言います。
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50mほども下ると右手のビルの植え込みに小さな黒い石碑が建っています。
ここが大正7年(1918年)から昭和12年(1937年)麹町に移るまで、島崎藤村が住んだ借家のあったところです。妻を亡くし、姪との不倫の清算のために逃げ出したフランスからの帰国後、藤村はここで手伝いの婆さんの助けを借りて4人の子供を育て、大震災を迎え、再婚(加藤静子)し、「新生」、「桜の実の熟する時」、「嵐」、「夜明け前」などを執筆したのでした。 -
哀れ、半分埋まっている。説明書きも何もない。
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”郵便局へ二町。煙草屋へ二町。湯屋へ三町。行きつけの床屋へも五六町はある。どこへ用達に出掛けるにも坂を上ったり下ったりしなければならない。”
”南に浅い谷の町をへだてて狸穴坂の側面を望む。私達の今住むところは、こんな丘の地勢によって、飯倉片町の電車通りから植木坂を下りきった位置にある。どうかすると梟の啼声なぞが、この町中で聞える。”
ここでの生活の様子は随筆「飯倉付近」に詳しく描かれています。狸穴の坂も天文台も見えた、と書いています。 -
鼠坂は途中から植木坂が分かれています。
この付近に「チャタレイ夫人の恋人」の翻訳で有名な作家、文芸評論家の伊藤整が
昭和3年頃下宿していたことがあります。年老いた藤村の姿を見かけたこともありました。 -
坂坂坂、しかも急な坂。とにかく坂だらけです。
藤村の生活を偲ぶよすがもなく、大通りに戻りました。 -
麻布台ヒルズの隣に外務省飯倉公館。
敷地内に外務省外交史料館もあります。こちらは入館可能です。 -
飯倉片町の交差点です。
右折して麻布台、六本木方面へ。目指すは永井荷風の偏奇館跡です。 -
すぐ右手に区立麻布小学校。
明治初期から大正末期まで今の外務省公館からここにかけて紀州徳川家の屋敷がありました。屋敷内には日本初の私立図書館「南葵(なんき)文庫」がありました。
この近くに住んでいた永井荷風は度々南葵文庫を訪れています。
大正12年の日記「断腸亭日乗」より:
一二月十一日:午後南葵文庫に武鑑を閲覧す。
一二月一三日:午後南葵文庫に往く。
一二月一五日:午後南葵文庫に松浦北海の「北蝦夷余誌」を検(けみ)す。 -
島崎藤村の「飯倉付近」から引用。
「飯倉付近の文化的施設として誇り得るものは、南葵文庫でした。今は荒れ果てて・・・荒涼たる感じを起させますが、つい最近までは特殊図書館として一部の読書家からは非常に愛せられていたものです。・・・。斯ういう静かな図書館は、日本中どこへ行っても決して二つとはないものと思います。・・・。此処で古典を読むのは実にしっくりと周囲の空気と調和して、気持ちよかったものです。・・・、椅子などもふわりとした革張りの贅沢なものでした。」 -
その先を右に入ると、サウジアラビア大使館があります。
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その隣、八木通商ビルの隅に、日本国憲法草案審議の地、の標識が経っています。
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昭和21年(1946年)2月、当時外務大臣公邸だったここで連合国軍総司令部(代表ホイットニー准将)と日本政府(外務大臣吉田茂)との間で日本国憲法の草案が審議された。
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その向かいの角の建物。
大正6年から昭和元年まで山形ホテルというのがありました。
この近くに住んでいた永井荷風は独りで、または知人たちとしばしば利用していました。
映画俳優山形勲はここの経営者の息子だったそうです。 -
荷風の日記「断腸亭日乗」の大正15年をひもとくと。
正月十二日:桜川町の女訪ひ来たりし故、喜び迎えて、・・・、山形ホテルに赴き晩餐をなし・・・。
四月十五日:山形ホテルにて晩餐を共にし、溜池の活動写真館に往く。
七月十一日:松延子夫妻と山形ホテルに昼餉をなす。
十二月二十五日:山形ホテル食堂に至り葡萄酒を酌み晩餐をなす。 -
そこから100mほど先、泉ガーデンタワーの一角の植え込みに小さな石碑がありました。
永井荷風の住まい「偏奇館」があった所です。
大久保余丁町の父の遺産の屋敷を売り払った荷風は、1920年(大正9年)、ここ当時の麻布市兵衛町に家を新築し、昭和20年3月、空襲で焼け出されるまで住んだところです。時に荷風42歳。
ペンキ塗りの洋館だったので、ペンキ館=偏奇館と名付けました。
ここで墨東綺譚以下多くの作品が生まれたのです。
空襲による偏奇館炎上の様子が日記「断腸亭日乗」に生々しくリアルに描かれています。 -
「断腸亭日乗」より。
大正八年十一月八日:麻布市兵衛町に貸し地ありと聞き赴き見る。このあたりの地勢高低常なく、岨崖の眺望あたかも初冬の暮霞に包まれ以外なる佳景を示したり。
大正八年十一月十三日:市兵衛町崖上の地所を借りる事に決す。
大正九年五月二十三日:この日麻布に転居す。母上下女一人をつれて手つだひに来らる。麻布新築の家ペンキ塗りにて一見事務所の如し。名づけて偏奇館といふ。 -
その先に続く泉通り。
当時この辺りは崖の上、高台で、自然が多く残っていました。
昭和19年荷風が谷崎潤一郎にあてた手紙に書かれています。
「此の崖の上の小径は前方に聳える氷川町の樹木と山王の岡との間より赤坂溜池の低地を隔てて遠く食違いより四谷見附の高樹を窓際に眺め得る處晩秋の頃は夕日の景覚えず歩みを停むることも有之候」。
いまはその情景を想像することすら不可能です。よくもまあ現代の商業万能主義は斯くまで自然を替えるというか、破壊し尽くしたものです。 -
すぐ近くに短いけどやや急な坂があります。
飯倉と麻布という、歩いて十数分の所に島崎藤村、永井荷風という二人の文豪が長年時を同じくして住んでいましたが、両者の著作を読んでも両者の交流があったようなことは窺えません。自然主義派の藤村と耽美派の荷風では反りが合わなかったのかもしれません。南葵文庫での邂逅は無かったか。 -
霊南坂に出て、虎の門方向に歩きました。
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泉屋博古館(せんおくはくこかん)。
住友家のコレクションを収蔵しています。特に中国の古い青銅器、鏡類の収取品が多いそうです。
泉屋(いずみや)とは、江戸時代の住友家の屋号だそうです。住友関連の施設に泉とつくのが多くあります。 -
スエーデン大使館。
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メキシコ大使館。
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霊南坂。ここら辺、外国大使館、外資系企業が多いのか、外人のビジネスマン風の姿をよく見かけました。
坂下にアメリカ大使館がありますが、そこまでは行きませんでした。 -
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ホテルオークラの横に大倉集古館。
大倉財閥の創始者大倉喜八郎の蒐集した東洋の古美術品が収蔵されています。
昭和2年の開館で、日本の私設美術館の発祥とも言われます。 -
特別展。
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中国清時代の香炉。
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朝鮮時代の文人石。
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中国明時代、竜頭。
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もう疲れました。江戸見坂の急坂を下って地下鉄銀座線虎ノ門駅に向かいます。
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途中に虎ノ門金毘羅宮がありました。
ことひらぐう、愛称こんぴらさん。 -
拝殿。
1679年に四国丸亀藩主京極氏が琴平の金毘羅宮の分霊を勧請したものだそうです。
昭和26年再建。 -
海上安全、商売繁盛の神様。
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銅鳥居。1821年。
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手水舎。
今回も最後は足がもつれ、へとへとになった街歩きでした。幸い足の攣りは起こりませんでした。
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