2024/04/10 - 2024/04/10
104位(同エリア351件中)
ベームさん
久しぶりの街歩きです。
今までもっぱら台東、墨田、江東、中央区など城東、城北方面、いわゆる下町を歩いたのも文学的、歴史的遺跡が多いからでした。今回城南地区は初めてでしたが、やはり文学的遺跡は少なく、お寺中心になってしまいました。
文学的出来事として挙げるべきは島崎藤村と明治学院でしょう。藤村は明治20年、15歳の時芝白金の明治学院本科に入学し、明治24年、19歳で卒業しています。多感な青春時代にキリスト教精神の教育を受け、文学上の終生の友となる同窓の戸川秋骨と馬場弧蝶を知ったのでした。
このブログでは藤村の自伝的小説「桜の実の熟する時」から幾つか引用させていただいています。また明治学院卒業後の明治女学校教師時代のことは「春」に詳しく描かれています。
スタートはJR品川駅ですが、JRも京急も品川駅は港区なのですね、初めて知りました。ここより南に北品川があり、、北品川の北に品川がある。ややこしいです。
ルートは、野田宇太郎氏が歩いて「新東京文学散歩」に書かれているのを参考にしました。
スギ花粉症のため長年お花見に縁のなかった私ですが、今年は桜の開花が遅かったため、少し楽しむことが出来ました。
表紙の写真は亀塚公園の桜。
-
今日のスタートはJR品川駅。10時20分ころです。抜けるような青空。
品川駅は山手線への乗り換えなどで降りることはありますが、駅の外へ出るのは初めてかもしれません。 -
第1京浜国道を渡り、南に150mほども行くと東横インがあり、その手前を右に入ると坂道になります。
-
坂下からの眺め。
早速藤村の自伝的小説「桜の実の熟する時」の冒頭を引用します。
<日陰に成った坂に添うて、岸本捨吉(藤村)は品川の停車場手前から高輪へ通う抜け道を上がって行った。客を載せた一台の俥が坂の下から同じように上って来る気配がした。・・・。思わず捨吉は振り返って見て、「お繁さんじゃないか」と自分で自分に言った。> -
<カタ、コトという音をさせて俥は徐(ゆる)やかに彼の後ろを通過ぎて行った。・・・。繁子は白い肩掛けに身を包んで何事かを沈思するように唯俯向いたままで乗って行った。>
<繁子を載せた俥は丁度勾配の急な坂にかかって、右へ廻り、左へ廻り、崖の間の細い道を僅かばかりずつ動いて上って行った。> -
坂上から。
捨吉(藤村)は、一年ほど前に知り合った年上の繁子に惹かれていきますが、深みにはまることを恐れて近づくことを避けていたのです。
坂はいまはほぼ一直線ですが、昔は両側に木が茂り、谷底のようなくねった坂なのでした。 -
坂の上を左折すれば御殿山方面。
<岡の上へ捨吉が出た頃は最早繁子の俥は見えなかった。その道は一方御殿山へ続き、一方は奥平の古い屋敷について迂回して高輪の通りへ続いている。捨吉は後の方の道を取った。> -
右折すれば高輪方面。
私も捨吉と同じように高輪の方に歩きました。古地図を見ると、この辺り奥平大膳太夫の屋敷が描かれています。明治に入ってもあったのですね。 -
カトリック高輪教会。
道はじきに品川駅正面から伸びる大きな坂道、柘榴坂に突き当たります。そこを左折すると坂の頂上の手前、左手にある教会です。 -
道路際の植え込みに「江戸の大殉教」の顕彰碑が立っています。
徳川3代将軍家光はキリスト教徒を厳しく弾圧しました。1623年12月、宣教師を含む信者50名が江戸中引き回しの上、この近辺で火刑に処せられました。その後も弾圧は続き、江戸全体では2000名が殉教したと言われます。 -
柘榴坂の頂上です。右にカーブして二本榎通りになります。
私は逆の左の小道に入ります。
野田宇太郎氏が歩いた当時(昭和26年)は坂の突き当りに森村学園(いまは横浜の長津田にある)があったそうです。 -
物流博物館というのがありました。
入館料200円だったかな。 -
路地を右左に少し行くと、小さなビルの角、道路際に巌谷小波の住居跡の石碑が建っていました。
小波が明治40年から昭和8年亡くなるまで住まいした所です。 -
巌谷小波。作家、児童文学者。1870(明治3年)~1933(昭和8年)。
尾崎紅葉らの「硯友社」の創設時のメンバー。児童文学(お伽噺)に力を入れ、埋もれていた民話、桃太郎、金太郎、浦島太郎、こぶとりじさんなどを発掘。「日本お伽噺」、「世界お伽噺」、「日本昔噺」など刊行。
私は小波の児童書は読んだ記憶はありませんが、昔の子供たちは小波のお伽噺や、鈴木三重吉の「赤い鳥」などを夢中で読んだのでしょう。 -
二本榎通りに戻りました。
佛所護念会高輪教会。 -
二本榎通りを歩きます。
右の塀はプリンスホテル新高輪。若い学生風の男女が結構通ります。明治学院の学生でしょう。 -
東京高輪病院。
二本榎通りは途中伊皿子坂上から聖坂と名前を変えて、高輪から三田、田町の近くまで台地の上を延びている通りです。
通りの右手は国道15号(第一京浜国道)方面に下り、左は桜田通り方面に下っています。 -
味の素の施設「食とくらしの小さな博物館」。
味の素の研修センターの一部が博物館になっていて、同社100年の歴史と共に、日本の食文化の変遷が分かるようになっているそうです。入館無料。 -
博物館前の古そうな門。
味の素創業者鈴木三郎助一族の屋敷の門だそうです。 -
その先右手に光福寺。
-
開運稲荷とゆうれい地蔵が祀られています。
-
開運稲荷。
-
ゆうれい地蔵。
-
正しくは子安栄地蔵のようですが、その風姿からゆうれい地蔵と呼ばれているのでしょう。なんだかおどろおどろしいですね。
-
二本榎通り。
-
カツカレー、ロースカツ弁当などお弁当も扱っているようです。
こういう街角のお店、いつまでも残ってほしいですね。 -
右手に瀟洒なプロテスタントの高輪教会。
元の日本一致教会台町教会(高輪台町教会)で、島崎藤村が16歳の時明治学院教師であった牧師木村熊二から洗礼を受けた教会です。もっとも当時はここではなく、もう少し先の天神坂の上に有ったそうです。1907年に当地に移ってきました。 -
教会の設立は1882年(明治15年)で、今の建物は帝国ホテルの設計者ライトの流れを汲む人の設計で、1933年(昭和8年)築です。
2004年、東京たてもの百選に選ばれています。すっきりした建物ですね。 -
隣りに高野山東京別院。
-
山門。
1655年(明暦元年)幕府よりこの地を下賜された。 -
山門脇の弘法大師像。
-
右は高輪教会。仏教とキリスト教が隣同士です。呉越同舟とでも申しますか。
-
-
ずらりと並ぶ石柱。
-
四国八十八ヶ所の霊場の砂を持ってきてそれぞれの石柱の足元に埋めてあるそうです。
-
第一番霊山寺から、
-
第八十八番大窪寺まで。
お手軽に八十八ヶ所霊場をお参りできます。 -
圓融塔。
-
境内には桜の木が何本か点在しています。
-
桜の木が何百本と群集して頭上を覆っているのより、こういう風景の方が好きです。
-
-
-
-
本堂は1988年(昭和63年)築。
-
不動堂。
-
なむだいしへんじょうこんごう。
南無とはお任せします、帰依しますの意で、大師遍照金剛は弘法大師のことだそうです。弘法大師様に帰依しすべてをお任せします、ということのようです。お遍路さんはこれを唱えながら歩くのですね。 -
高輪警察署前交差点に来ました。
-
右:高輪警察署。左:高輪消防署二本榎出張所。
右折すると桂坂となり、第1京浜国道のほうに下っていきます。 -
レトロな建物です。1933年(昭和8年)築。
平成22年に東京都選定歴史的建造物に措定されました。内部を見学できるそうです。 -
私は警察署前を左折して明治学院に向かいます。
明治学院歩道橋上からの眺め。北方向。
桜田通りと、とんがり帽の建物は明治学院の歴史的建物。 -
明治学院正門。
ここには明治学院高校と、明治学院大学があります。起源はアメリカ人宣教師・医師ジェームス・ヘボン(ヘップバーン)が1863年に開いた私塾のヘボン塾だそうです。 -
礼拝堂・チャペル。
守衛さんに、古い建物を写真に撮りたい旨了解を得て校内に入りました。
「桜の実の熟する時」より。
<多数の聴講者を容れるチャペルは階上にあって、壁に添うた階段は入り口に近くから登られる。三年ばかりの間、・・・、捨吉たちが昇降したのもその階段だ。> -
1916年(大正5年)築。
したがってこれは藤村の描いたチャペルとは違います。 -
記念館。旧図書館。いまは歴史資料館として開放されています。
-
港区指定文化財。
1890年(明治23年)築。 -
エントランス。
「桜の実の熟する時」より。
<捨吉にはもう一つ足の向く窓がある。新しく構内に出来た赤煉瓦の建物は、一部は神学部の教室で、一部は学校の図書館になっていた。まだペンキの香のする階段を上って行って二階の部屋へ出ると、そこに沢山並べた書架がある。> -
館内。
<書架で囲われた明るい窓の所では小さな机が置いてある。そこへも捨吉は好きな書籍を借りて行って腰掛けた。> -
-
島崎藤村は1881年(明治14年)、9歳の時に木曾の馬込から兄と共に上京。縁者の家に寄寓しながら泰明小学校、三田英学校、共立学校で学んだあと、1887年(明治20年)に15歳で明治学院普通部に入学。1891年(明治24年)19歳で卒業。ここで牧師木村熊二に教えられ、キリスト教を受洗し、終生の友となる戸川秋骨、馬場弧蝶を得たのでした。
-
学院歌は島崎藤村作詞です。
1892年(明治25年)、明治学院卒業後20歳の藤村は恩師木村熊二や巌本善治の運営する麹町の明治女学校(今は無い)の英語教師になります。ここで藤村は巌本善治の主宰する「女学雑誌」に投稿し、星野天知、平田禿木、北村透谷、上田敏などと知り合い、戸川秋骨、馬場弧蝶らと文学同人誌「文学界」を創刊するのです。 -
インブリー館。
この間、藤村は明治女学校の教え子で婚約者のいる佐藤輔子への許されざる思い、畏友北村透谷の自殺など、人生の挫折と絶望を経験します。
「桜の実の熟する時」の一節。
<勝子(佐藤輔子)は・・・、捨吉(藤村)と同じくらいの年頃に見えた。処女(おとめ)のさかりを思わせるようなその束ねた髪と、柔らかでしかも豊かな肩のあたりの後姿とは、言いあらわしがたい女らしさを彼女に与えた。> -
インブリー館。
宣教師用の宿舎として、1889年(明治22年)ころ建てられた。1995年(平成7年)全面的に保存修理が行われて、当初の姿を保っていいる。
プラトニックな愛と肉欲の葛藤、キリスト教的戒律と愛欲との矛盾を感じた藤村はキリスト教信者であることをやめ、女学校も辞めて漂白の旅に出ます。時に藤村21歳、輔子22歳。
「わがこころなきためいきの その髪の毛にかかるとき たのしき恋の盃を 君が情けに酌みしかな」 -
国の重要文化財。宣教師館としては国内で2番目に古いそうです。
「桜の実の熟する時」より。
<向こうの講堂の前から敷地続きの庭へかけて三棟並んだ西洋館はいずれも捨吉が教えを受ける亜米利加人の教授連の住居だ。白いスカアトを涼しい風に吹かせながら庭を歩いている先生方の奥さんも見える。>
1895年(明治28年)嫁いでいた佐藤輔子が札幌で病没。24歳。
1896年(明治29年)仙台の東北学院に作文教師として赴任。翌年「若菜集」として出版される詩作を始める。
1899年(明治32年)信州小諸の木村熊二の小諸義塾に英語、国語教師として赴任。詩作から散文へと転向していきます。やがて「破戒」で文壇にデビューします。 -
校舎。
いよいよ捨吉(藤村)は卒業の時を迎えました。
「桜の実の熟する時」より。
<捨吉は表門の所へ出た。幾株かの桜の若木がそこにあった。・・・。捨吉は初めて金釦(ぼたん)のついた学校の制服を着てその辺を歩き回った時の自分の心持を想い起こすことができた。> -
ヘボン像。
ヘボン式ローマ字で有名ですね。
ヘボンの綴りはHEPBURNで、オードリー・ヘプバーンと同じです。
<風が来て桜の枝を揺するような日で、見ると門の外の道路には可愛らしい実が、そこここに落ちていた。「ホ、こんな所にも落ちている」と捨吉は独りで言って見て、一つ二つ拾い上げた。・・・。思わず彼は拾い上げた桜の実を嗅いでみて、お伽噺の情緒を味わった。>
明治学院前の坂をさらに下ると、自殺した藤村の畏友北村透谷が葬られた最初の墓のあった瑞聖寺がありますが、墓は今は小田原の方の寺に改葬されて無く、脚のことも考えて行くのは止めました。 -
高輪地区の旧町名の由来。
芝高輪西台町、芝高輪台町、芝白金丹波町、芝二本榎、芝二本榎本町、芝二本榎西町。 -
丁度昼食時、人気のあるお店のようです。私は高輪警察署の向いにあった町中華で中華そばで済ませました。
私は食べ物屋の前に並ぶことは恥と心得ているへそ曲がりです。 -
承教(じょうきょう)寺山門。
英一蝶の墓があります。 -
このお寺の狛犬、何でしょう?獅子かな、虎かな。
-
怖くありません、愛嬌ある顔しています。
-
仁王門。
-
本堂脇に小さな墓があります。
-
英一蝶の墓です。1652~1724年。江戸時代中期の画家。
俳句、書、芸事に秀でた粋人だったという。5代将軍徳川綱吉の生類憐みの令に触れ、三宅島に12年ほども流刑になったことがあり、綱吉の死で大赦された。 -
-
鐘撞堂。
-
承教寺の入り口に建つ二本榎の碑。
-
地名の由来。
-
通りの右側、東海大学の品川キャンパスがありました。
-
丸山神社。
-
摂社通力稲荷。
-
桜田通り清正公前から上って来る天神坂。
この坂の頂上辺りに島崎藤村が洗礼を受けた高輪台町教会があったようです。 -
葭見(よしみ)坂と都営高輪アパート沿いに咲く桜。
-
都営高輪1丁目アパートの入り口横に建つ石碑。
本所の吉良上野介邸に討ち入りした赤穂浪士たちは四つの藩邸に分かれて預けられました。大石内蔵助他17名が預けられたのがここ細川家下屋敷でした。 -
自刃(切腹)の場所はこの都営高輪1丁目アパートの奥にあります。
-
肥後熊本細川家下屋敷跡。
-
1703年、元禄16年2月4日、幕府より切腹の命が下され、即日大石内蔵助良雄他17名がここで切腹しています。
-
その他、
伊予松平家で大石主税ほか10名。長門毛利家で間新六ほか10名、三河水野家で神崎与五郎ほか9名が切腹した。いずれも泉岳寺の近くです。 -
門の中を覗くとこんな風になっています。まさかここではないでしょうが。
-
このアパートの住民もあまりいい気持ではないでしょう、いささか暗い気持ちになって二本榎通りに戻りました。
-
通りの反対側の細い路地を下った先にお寺が見えます。
-
保安寺というお寺でした。
-
表通りから奥まってひっそりとした落ち着いたお寺でした。
-
また通りに戻ります。
高松宮邸。 -
道端にポツンとお団子屋さん。
老舗っぽいので、なにか人気の品があるのでしょう。 -
伊皿子交差点に来ました。
直進すれば二本榎通りから続く聖坂。右は伊皿子坂、左は魚籃坂となって下っていきます。
町名もここまでは高輪、この先から三田です。 -
右に下ると伊皿子坂。
泉岳寺横を通り、高輪ゲートウエイ駅のほうへ。 -
左に下ると魚籃坂から桜田通り。
私はこちらに行きました。 -
四つ角の隅に歯科学教育発祥の地の碑があります。
水道橋に大きなキャンパスがありますね。 -
薬王寺。1624年創建の日蓮宗の寺。
魚籃坂に入りすぐ路地に右折するとあります。 -
ここに
女流俳人加賀の千代女の有名な朝顔の井戸の句の井戸があります。 -
お寺は通りから石段を下りた所にあります。
-
墓所の入り口。
-
墓地の一角にその井戸はありました。
-
「朝顔につるべ取られてもらい水」
朝顔は秋の季語なんですね、知らなかった。 -
この井戸水が霊水だという話を聞いた千代女が旅の途次に立ち寄ったときの句だと言われています。
加賀の千代女:加賀の国、今の白山市の生まれ。1703~1775年。江戸中期の閨秀俳人。 -
シャガの花。
-
もう躑躅が咲いています。
-
魚籃坂に戻りました。下っていきます。
坂の名前の由来は、坂の途中に魚籃寺というお寺があるからだそうです。魚籃とは釣った魚を入れるビクのことですね。ではなぜこんな海のない坂にビクの名を付けた寺があるのですかね。 -
坂の右手にあるその魚籃寺です。
-
浄土宗のお寺で、創設は1625年とか。
-
ここのご本尊が魚籃観世音菩薩で、魚籃寺と言うそうでした。ここら辺りで魚が獲れたわけではありませんでした。
-
塩地蔵。
塩地蔵というと、塩まみれの地蔵さんを見ますが、ここの地蔵さんは塩まみれではなく、各地のお塩が沢山供えられていました。 -
三田山魚籃寺。山本松谷「明治東京名所図会より。
明治35年頃。魚籃坂を人力車が行き来しています。明治後期の庶民の風俗がよく分かります。日本で自動車が交通手段として普及し始めたのは、大正12年の関東大震災以降でした。 -
その隣に弓を作っている店があります。
-
この魚籃坂とあとで通る幽霊坂、坂上の聖坂と坂下の桜田通りに囲われた四角い一画はお寺で埋め尽くされています。寺町みたいです。
1635年の江戸城拡張のため、八丁堀から多くの寺が移って来たのだそうです。 -
寶徳児の桜。
-
大信寺。
-
-
-
雄渾な姿の桜です。
-
-
魚籃坂下。
桜田通りと交差しています。 -
桜田通り。
-
桜田通りを右に少し行くと長松寺。
-
ここには江戸時代の儒学者荻生徂徠の墓があります。
-
荻生徂徠。儒学者。1666年~1728年。
徳川5代将軍綱吉の側用人柳沢吉保に見いだされ、幕閣内で重要な位置を占める。
朱子学を攻撃し、古文辞学の祖となる。 -
赤穂浪士討ち入り事件では、情状酌量論に対し浪士の行動は義にあらずとして厳しい処罰、死罪を主張しました。
近くに先ほど尋ねた大石内蔵助以下の切腹した場所があるのは偶然でしょう。 -
境内。
-
満開の満天星(どうだん)つつじ。
-
長松寺の横の幽霊坂を上り聖坂に戻りました。
-
両側が寺院だらけで、昼でも幽霊が出そうな暗い所から名付けられたとも言われます。
永井荷風の小説「おかめ笹」では、主人公の画家鵜崎巨石はこの寺の多い界隈に住んでいて朝夕寺の鐘の音を聞いていたことになっています。 -
幽霊坂に繋がる路地、夜になると幽霊が出そう。
-
幽霊坂。
-
王鳳寺。
-
-
化粧延命地蔵(おしろい地蔵)。
昔この寺の住職が拾ってきた泥にまみれた地蔵さんの顔に白粉を塗ったら、住職の顔の痣が消えたという言い伝えがあるそうです。 -
肌に悩みのある人の信仰を集めています。
キューピーやジョンソンのパウダーが供えられています。 -
可愛らしい六地蔵。
-
實相寺。
-
-
幽霊坂を上り、再び聖坂に出ると亀塚公園があります。
-
公園内には数本の桜の木。伸び伸びと育っています。
-
やや盛りを過ぎたとはいえ、まだまだ綺麗に咲き誇っています。
-
桜の下では、ご近所らしい子供連れのグループがのんびりお花見を楽しんでいます。
-
桜の名所の騒がしい花見よりよっぽどいいですね。
私も何十年ぶりかのお花見気分になりました。 -
-
小高い所は古墳跡ともいわれています。
-
-
聖坂。塀は亀塚公園です。
-
その先にあるお寺。
-
1859年(安政6年)から1874年(明治7年)まで、ここにフランス最初の公使館が置かれていました。
-
本堂。
-
坂が下る途中にあるクエート大使館。
-
-
田町駅前のNECのビルが見えます。
二本榎通り、聖坂はいまは高い建物で遮られていますが、昔は眺望の名所でした。
ジャーナリスト、随筆家の生方敏郎(明治15年~昭和44年)の「明治大正見聞史」にこんな文章があります。明治40年頃の話です。
「芝へ来て三田は芝の銀座と言われた位だから夜も明るかったが、ちょっと横へ入るともう真っ暗で、」 -
見落としそうな小さな亀塚稲荷神社。
「フレンド女学校のある聖坂も真暗、それから長い宮様(高松宮)の屋敷の辺りがまた真っ暗で、伊皿子へ出てちょっとの間明るいが、再び真っ暗になり、」 -
「二本榎へ行ってまたちょっと明るい所があって、それから先は東西南北、どっちを向いても真暗だった。」
-
-
1266年から1361年頃の随分古い板碑です。
-
聖坂を下りきる手前に普連土学園があります。
キリスト教フレンド派の女子校で、中学、高校があります。
1887年(明治20年)創立で、内村鑑三、新渡戸稲造が関わっていたそうです。
北村透谷が教師をしたことがありました。
普連土はフレンドの当て字で、津田梅子の父津田仙の命名です。 -
-
聖坂。
まもなく終わりです。 -
聖坂下に着きました。
-
桜田通りと交わる三田3丁目の交差点です。
足が重く、膝や爪先が上がらなくなってきています。今日はこれで終わり、JR田町駅に向かいます。 -
田町駅前の喫茶店で休みました。
いつもながら写真数の多いブログになりました。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
白金(東京) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
2
164