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狭山の史跡・文化財めぐり・・・8回目は狭山市駅の東側に位置する峰・田中地区です。<br />今回も「NPO法人 狭山歴史ガイドの会」の「さやま歴史散歩」の催しで、狭山市駅東口から歩いて《 峰の愛宕神社・蚕影神社 ⇒ 天岑寺 ⇒ 田中の稲荷神社 ⇒ 田中のカンカン地蔵 ⇒ 亀に乗る石碑と石経塔 ⇒ 東峰霊園の岩船地蔵堂・薬師堂 ⇒ 西峰霊園の念仏供養塔 ⇒ 市場の荒神さま 》と回る、約1万3千歩のコースでした。<br />写真は天岑寺の惣門。

狭山の史跡・文化財めぐり <8> 峰・田中地区

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2023/11/26 - 2023/11/26

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ペコちゃん

ペコちゃんさん

狭山の史跡・文化財めぐり・・・8回目は狭山市駅の東側に位置する峰・田中地区です。
今回も「NPO法人 狭山歴史ガイドの会」の「さやま歴史散歩」の催しで、狭山市駅東口から歩いて《 峰の愛宕神社・蚕影神社 ⇒ 天岑寺 ⇒ 田中の稲荷神社 ⇒ 田中のカンカン地蔵 ⇒ 亀に乗る石碑と石経塔 ⇒ 東峰霊園の岩船地蔵堂・薬師堂 ⇒ 西峰霊園の念仏供養塔 ⇒ 市場の荒神さま 》と回る、約1万3千歩のコースでした。
写真は天岑寺の惣門。

旅行の満足度
4.5
同行者
その他
交通手段
徒歩

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  • <1>峰の愛宕神社と蚕影神社<br />ここには二つの神社が並んでいますが、向かって右側に建つのが愛宕神社です。

    <1>峰の愛宕神社と蚕影神社
    ここには二つの神社が並んでいますが、向かって右側に建つのが愛宕神社です。

  • 峰の愛宕神社は、江戸時代初期に当地(峰・田中・沢地区)で440石を知行していた旗本・小笠原安勝が守護神として勧請したと言われています。<br />本殿は宝暦7年(1757)に七代・小笠原廣芬(ひろよし)が寄進したものです。

    峰の愛宕神社は、江戸時代初期に当地(峰・田中・沢地区)で440石を知行していた旗本・小笠原安勝が守護神として勧請したと言われています。
    本殿は宝暦7年(1757)に七代・小笠原廣芬(ひろよし)が寄進したものです。

  • 正面の扉と屋根の棟部分には、小笠原家の家紋である「三階菱」の切り抜きを貼り付けています。

    正面の扉と屋根の棟部分には、小笠原家の家紋である「三階菱」の切り抜きを貼り付けています。

  • 奉納額には「昭和十年十二月吉日 入間川町峯 渡邊亀吉」と書かれています。

    奉納額には「昭和十年十二月吉日 入間川町峯 渡邊亀吉」と書かれています。

  • 拝殿の内部。

    拝殿の内部。

  • 向かって左側に建つのは、境内社の蚕影(こかげ)神社・・・創建は不明ですが、養蚕が盛んだった幕末から明治にかけて、茨城県筑波山麓にある蚕影神社を勧請したものと推察されます。

    向かって左側に建つのは、境内社の蚕影(こかげ)神社・・・創建は不明ですが、養蚕が盛んだった幕末から明治にかけて、茨城県筑波山麓にある蚕影神社を勧請したものと推察されます。

  • 昭和11年に改築した時の奉納額。<br />蚕影神社は古くから養蚕の守護神として信仰され、俗に「おしらさま」と称されています。

    昭和11年に改築した時の奉納額。
    蚕影神社は古くから養蚕の守護神として信仰され、俗に「おしらさま」と称されています。

  • 覆殿の中にある本殿。

    覆殿の中にある本殿。

  • <2>天岑寺(てんしんじ)<br />曹洞宗の天岑寺は文禄3年(1594)に天海盛呑(てんかいせいどん)により開山され、開基は江戸幕府旗本で当地を知行していた小笠原太郎左衛門安勝です。

    <2>天岑寺(てんしんじ)
    曹洞宗の天岑寺は文禄3年(1594)に天海盛呑(てんかいせいどん)により開山され、開基は江戸幕府旗本で当地を知行していた小笠原太郎左衛門安勝です。

  • 天岑寺という寺名は、安勝の父・安元の戒名である「天岑院殿紹恩居士」から命名されたと言われています。

    天岑寺という寺名は、安勝の父・安元の戒名である「天岑院殿紹恩居士」から命名されたと言われています。

  • 長い参道の先に、惣門が見えてきました。

    長い参道の先に、惣門が見えてきました。

  • 惣門の左側には美しい紅葉と結界石。<br />結界石はあの世とこの世を隔てる聖俗分離の仕切り石で、石に彫られているのは「不許葷酒入山門」・・・修行の場に妨げになるようなお酒や精力のつく野菜を持ち込んだり、食べた者は立入禁止、という戒めです。<br />明和元年(1764)幕府の増助郷政策に反対する農民が蜂起した際、街道沿いの村々で打ち壊しが発生し、当地の豪商・綿貫家もその対象になりましたが、綿貫家は諸帳簿や貴重品等を天岑寺に避難させ、騒動が終息した後、そのお礼としてこの結界石を寄進しました。

    惣門の左側には美しい紅葉と結界石。
    結界石はあの世とこの世を隔てる聖俗分離の仕切り石で、石に彫られているのは「不許葷酒入山門」・・・修行の場に妨げになるようなお酒や精力のつく野菜を持ち込んだり、食べた者は立入禁止、という戒めです。
    明和元年(1764)幕府の増助郷政策に反対する農民が蜂起した際、街道沿いの村々で打ち壊しが発生し、当地の豪商・綿貫家もその対象になりましたが、綿貫家は諸帳簿や貴重品等を天岑寺に避難させ、騒動が終息した後、そのお礼としてこの結界石を寄進しました。

  • 惣門は沖縄風の佇まいをした総ケヤキ造りの四脚門・・・正確な建築時期は不明ですが、開基の安勝が寛永18年(1641)に没した際の法要では、朱塗りの華麗な七堂伽藍があったと言われるので、惣門は1600年代前半に造られたと推定されます。(惣門とは外構えの大きな門のことで、特に禅寺の表門のことをいいます。)

    惣門は沖縄風の佇まいをした総ケヤキ造りの四脚門・・・正確な建築時期は不明ですが、開基の安勝が寛永18年(1641)に没した際の法要では、朱塗りの華麗な七堂伽藍があったと言われるので、惣門は1600年代前半に造られたと推定されます。(惣門とは外構えの大きな門のことで、特に禅寺の表門のことをいいます。)

  • 明治3年に伽藍の多くが焼失しましたが、創建当時の建物として唯一残る惣門・・・正面の扁額には「通霄関(つうしょうかん=天に通じる門)」と刻まれています。

    明治3年に伽藍の多くが焼失しましたが、創建当時の建物として唯一残る惣門・・・正面の扁額には「通霄関(つうしょうかん=天に通じる門)」と刻まれています。

  • 牡丹の欄間彫刻や唐獅子など、彫刻も見事です。

    牡丹の欄間彫刻や唐獅子など、彫刻も見事です。

  • 屋根の上には、左右に鯱。

    屋根の上には、左右に鯱。

  • 境内側から見ると、表側とは全く違うデザインの惣門・・・表と裏の趣を異にする風姿の珍しい様式の建造物です。

    境内側から見ると、表側とは全く違うデザインの惣門・・・表と裏の趣を異にする風姿の珍しい様式の建造物です。

  • 唐破風の屋根には鬼瓦、その下の懸魚は雲を背面にした鳳凰、瓦紋は小笠原家の家紋である三階菱。

    唐破風の屋根には鬼瓦、その下の懸魚は雲を背面にした鳳凰、瓦紋は小笠原家の家紋である三階菱。

  • 惣門の右側には、天岑寺の14世・大珠仙昶(だいじゅえいちょう)が、文化9年(1812)に建てた供養塔。<br />台座正面に「大乗妙典千部供養塔」とあり、右側面には「願以此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成仏道」と法華経の自我偈(じがげ:仏を称える言葉を詩の形に整えたもの)が刻まれています。

    惣門の右側には、天岑寺の14世・大珠仙昶(だいじゅえいちょう)が、文化9年(1812)に建てた供養塔。
    台座正面に「大乗妙典千部供養塔」とあり、右側面には「願以此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成仏道」と法華経の自我偈(じがげ:仏を称える言葉を詩の形に整えたもの)が刻まれています。

  • 左側には石灯篭や五重石塔。

    左側には石灯篭や五重石塔。

  • 五角形をした鐘楼・・・かつての梵鐘は太平洋戦争で供出され、現在の梵鐘は昭和51年に再鋳したもの。

    五角形をした鐘楼・・・かつての梵鐘は太平洋戦争で供出され、現在の梵鐘は昭和51年に再鋳したもの。

  • 境内にある二十三夜の月の出を待つ「月待供養の碑」・・・文明14年(1482)に建てられたもので、中世のものは珍しいと言われます。<br />月待供養とは、十三夜・十五夜・二十三夜などに月の出を待って拝み、延命長寿・無病息災を願う行事ですが、江戸時代には特定の家に集まって飲食や情報交換などもしたそうです。

    境内にある二十三夜の月の出を待つ「月待供養の碑」・・・文明14年(1482)に建てられたもので、中世のものは珍しいと言われます。
    月待供養とは、十三夜・十五夜・二十三夜などに月の出を待って拝み、延命長寿・無病息災を願う行事ですが、江戸時代には特定の家に集まって飲食や情報交換などもしたそうです。

  • ゆったり構える端正な姿の本堂。

    ゆったり構える端正な姿の本堂。

  • 香炉には小笠原家の家紋「三階菱」。

    香炉には小笠原家の家紋「三階菱」。

  • 本堂内部。

    本堂内部。

  • 本堂から小笠原家墓地に向かう途中にある、可愛いお地蔵さん。

    本堂から小笠原家墓地に向かう途中にある、可愛いお地蔵さん。

  • 本堂の裏山にある小笠原家墓地・・・初代・小笠原安勝は、天正18年(1590)に徳川家康の関東入国に従って、三河国から武蔵国・入間郡にやって来ました。

    本堂の裏山にある小笠原家墓地・・・初代・小笠原安勝は、天正18年(1590)に徳川家康の関東入国に従って、三河国から武蔵国・入間郡にやって来ました。

  • 墓所には12代にわたる当主やその妻・兄弟・子供などの墓石があり、初代の父・安元と初代・安勝の2基の宝篋印塔を中心に整然と「コ」の字型に並んでいます。

    墓所には12代にわたる当主やその妻・兄弟・子供などの墓石があり、初代の父・安元と初代・安勝の2基の宝篋印塔を中心に整然と「コ」の字型に並んでいます。

  • 中央の右が初代の父・安元、左が初代・安勝の宝篋印塔型墓石。

    中央の右が初代の父・安元、左が初代・安勝の宝篋印塔型墓石。

  • 寛政期(1789~1801)の旗本は全部で5,100人で、狭山市にゆかりの旗本は16人・・・その中で代表的な小笠原家は田中村に陣屋を置きました。

    寛政期(1789~1801)の旗本は全部で5,100人で、狭山市にゆかりの旗本は16人・・・その中で代表的な小笠原家は田中村に陣屋を置きました。

  • 12代・廣善は幕末に静岡・牧の原に移り、開拓などに従事・・・14代当主には女子1人しか生まれなかったため、15代・静子が他家に嫁いだ昭和12年に、安勝から続く小笠原家の歴史は347年で幕を閉じました。

    12代・廣善は幕末に静岡・牧の原に移り、開拓などに従事・・・14代当主には女子1人しか生まれなかったため、15代・静子が他家に嫁いだ昭和12年に、安勝から続く小笠原家の歴史は347年で幕を閉じました。

  • 墓石にも小笠原家の家紋「三階菱」。

    墓石にも小笠原家の家紋「三階菱」。

  • 大きな2階建ての建物は八角堂(座禅堂)・・・天岑寺では定期的に座禅会を開催しています。

    大きな2階建ての建物は八角堂(座禅堂)・・・天岑寺では定期的に座禅会を開催しています。

  • 八角堂の左側にある永代供養塔。

    八角堂の左側にある永代供養塔。

  • <3>田中の稲荷神社<br />この稲荷神社は愛宕神社と同じように、小笠原家が同家と関係の深い安穏寺(天岑寺僧侶の隠居所)の守護神を祀るために建立したと推測されています。

    <3>田中の稲荷神社
    この稲荷神社は愛宕神社と同じように、小笠原家が同家と関係の深い安穏寺(天岑寺僧侶の隠居所)の守護神を祀るために建立したと推測されています。

  • 本殿の暮股の切り抜きに「寛延庚午」とあり、寛延3年(1750)の建立と思われます。

    本殿の暮股の切り抜きに「寛延庚午」とあり、寛延3年(1750)の建立と思われます。

  • 狭い境内にケヤキの巨木が5本ありましたが、いずれも根元から切られています。

    狭い境内にケヤキの巨木が5本ありましたが、いずれも根元から切られています。

  • 覆殿の棟には、小笠原家の家紋「三階菱」。

    覆殿の棟には、小笠原家の家紋「三階菱」。

  • 本殿の厨子の扉には小笠原家の副紋「五七桐」が描かれ、その中には稲穂を担いで手に鎌を持つ老翁の立像があり、神像として伝わっています。

    本殿の厨子の扉には小笠原家の副紋「五七桐」が描かれ、その中には稲穂を担いで手に鎌を持つ老翁の立像があり、神像として伝わっています。

  • 境内社の塩竃社・・・塩竈神社の本社は宮城県塩釜市の塩竈神社で、東征の折りに塩造りを教えた鹽土老翁神 (しおつちおぢのかみ) を祀っています。<br />潮の満ち引きが出産に影響するということから、安産祈願にご利益があると伝わります。

    境内社の塩竃社・・・塩竈神社の本社は宮城県塩釜市の塩竈神社で、東征の折りに塩造りを教えた鹽土老翁神 (しおつちおぢのかみ) を祀っています。
    潮の満ち引きが出産に影響するということから、安産祈願にご利益があると伝わります。

  • 中には何故か、カエルの置物が。

    中には何故か、カエルの置物が。

  • 神社の裏側には「富士塚」。

    神社の裏側には「富士塚」。

  • 「富士浅間宮」の石碑・・・江戸時代に田中村の人たちが天下泰平を祈って、富士山が見える場所に富士塚を作り、信仰していたと思われます。

    「富士浅間宮」の石碑・・・江戸時代に田中村の人たちが天下泰平を祈って、富士山が見える場所に富士塚を作り、信仰していたと思われます。

  • 晴れた日には、富士塚から遥か遠くに霊峰・富士山が見えます。

    晴れた日には、富士塚から遥か遠くに霊峰・富士山が見えます。

  • <4>田中のカンカン地蔵<br />道路を挟んで稲荷神社の反対側にある「田中共同墓地」・・・ここには、かつて阿弥陀堂があり、入り口にはいくつかの石塔が並んでいます。

    <4>田中のカンカン地蔵
    道路を挟んで稲荷神社の反対側にある「田中共同墓地」・・・ここには、かつて阿弥陀堂があり、入り口にはいくつかの石塔が並んでいます。

  • 一番左の石塔は、道しるべのついた観音碑・・・中央に「南無観世音菩薩」、その右には「観音講」、左には「供養仏」、枠の下側右には「右 志んがし」、枠の下側左には「左 かわこへ」と刻まれています。

    一番左の石塔は、道しるべのついた観音碑・・・中央に「南無観世音菩薩」、その右には「観音講」、左には「供養仏」、枠の下側右には「右 志んがし」、枠の下側左には「左 かわこへ」と刻まれています。

  • 宝篋印塔・・・台石を含めると、4m近くあります。

    宝篋印塔・・・台石を含めると、4m近くあります。

  • 共同墓地の奥に祀られた3体のお地蔵さん・・・左側が宝永5年(1708)に造立されたカンカン地蔵。

    共同墓地の奥に祀られた3体のお地蔵さん・・・左側が宝永5年(1708)に造立されたカンカン地蔵。

  • このお地蔵さんがこんな痛々しい姿になったのは、目の悪い人は地蔵菩薩の目を、足腰の悪い人は足腰を小石で叩きながら病が治るのを祈ったためです。<br />小石で叩く音が「カンカン」と響き渡ったため、いつの頃からか「田中のカンカン地蔵」と呼ばれるようになりました。

    このお地蔵さんがこんな痛々しい姿になったのは、目の悪い人は地蔵菩薩の目を、足腰の悪い人は足腰を小石で叩きながら病が治るのを祈ったためです。
    小石で叩く音が「カンカン」と響き渡ったため、いつの頃からか「田中のカンカン地蔵」と呼ばれるようになりました。

  • <5>亀に乗る石碑と石経塔<br />昔はこの辺りにお寺があったのでしょうか・・・墓地があります。

    <5>亀に乗る石碑と石経塔
    昔はこの辺りにお寺があったのでしょうか・・・墓地があります。

  • 階段を上がった右側にあるのは、浮き彫りの如意輪観世音菩薩坐像の石経塔・・・石経(せっきょう)とは、石に法華経の経文を書き写すことによって仏の功徳にあやかろうとするものですが、紙に書き写すよりも手間がかかり、より多くの人が関与出来ることで、こうした石経が造られるようになりました。

    階段を上がった右側にあるのは、浮き彫りの如意輪観世音菩薩坐像の石経塔・・・石経(せっきょう)とは、石に法華経の経文を書き写すことによって仏の功徳にあやかろうとするものですが、紙に書き写すよりも手間がかかり、より多くの人が関与出来ることで、こうした石経が造られるようになりました。

  • 台座正面に「石経塔」と刻まれたこの石塔は、田中村の人々が五穀豊穣・二世安楽を願い安永2年(1733)に建てたもので、その下には経典を書写した石が納められています。

    台座正面に「石経塔」と刻まれたこの石塔は、田中村の人々が五穀豊穣・二世安楽を願い安永2年(1733)に建てたもので、その下には経典を書写した石が納められています。

  • 左側にある石経塔は、文政13年(1830)に建てらた丸彫半跏趺坐像の地蔵菩薩坐像。

    左側にある石経塔は、文政13年(1830)に建てらた丸彫半跏趺坐像の地蔵菩薩坐像。

  • 墓石や石碑が並んでいますが、左にあるのが「亀に乗る石碑」。

    墓石や石碑が並んでいますが、左にあるのが「亀に乗る石碑」。

  • 亀の台座に乗ったこの石碑は「前総持指月和尚 行業記碑」・・・江戸時代に当地で生まれた指月和尚が11歳で仏門に入り、明和6年(1769)に75歳で亡くなるまでの業績や人生訓が、石碑の4面にわたり約2300字で刻まれ、指月和尚の業績を後世に残すために建てられたものです。<br />亀の姿をした台座は亀趺(きふ)といい、長寿のシンボルとされる亀の甲羅に石碑を乗せることで、その永続を願ったものと考えられます。

    亀の台座に乗ったこの石碑は「前総持指月和尚 行業記碑」・・・江戸時代に当地で生まれた指月和尚が11歳で仏門に入り、明和6年(1769)に75歳で亡くなるまでの業績や人生訓が、石碑の4面にわたり約2300字で刻まれ、指月和尚の業績を後世に残すために建てられたものです。
    亀の姿をした台座は亀趺(きふ)といい、長寿のシンボルとされる亀の甲羅に石碑を乗せることで、その永続を願ったものと考えられます。

  • 奥に並んでいるのは、廃寺となった東西寺の住職の墓塔である卵塔(無縫塔)・・・東西寺は小笠原家の菩提寺・天岑寺の末寺でした。

    奥に並んでいるのは、廃寺となった東西寺の住職の墓塔である卵塔(無縫塔)・・・東西寺は小笠原家の菩提寺・天岑寺の末寺でした。

  • <6>東峰霊園の岩船地蔵堂と薬師堂<br />霊園手前の角に、岩船地蔵堂(右側)と薬師堂(左側)が並んで建っています。

    <6>東峰霊園の岩船地蔵堂と薬師堂
    霊園手前の角に、岩船地蔵堂(右側)と薬師堂(左側)が並んで建っています。

  • 岩船地蔵堂の創建時期は不明ですが、地蔵堂の中に享保4年(1719)に建てられた丸彫立像の岩船地蔵が安置されています。<br />栃木市にある高勝寺(本尊:岩船地蔵)が、正徳3年(1713)から念仏踊りによる布教活動を展開した事で、岩船地蔵信仰が関東・東海地方などに広まりました。

    岩船地蔵堂の創建時期は不明ですが、地蔵堂の中に享保4年(1719)に建てられた丸彫立像の岩船地蔵が安置されています。
    栃木市にある高勝寺(本尊:岩船地蔵)が、正徳3年(1713)から念仏踊りによる布教活動を展開した事で、岩船地蔵信仰が関東・東海地方などに広まりました。

  • 地蔵堂に安置されている地蔵菩薩は、岩船地蔵信仰により田中村の人々が建てたもので、現当二世安楽・極楽往生を願ったものと思われます。

    地蔵堂に安置されている地蔵菩薩は、岩船地蔵信仰により田中村の人々が建てたもので、現当二世安楽・極楽往生を願ったものと思われます。

  • 左側は、もともと東峰霊園の中にあった薬師堂・・・創建などは不明ですが、建物が荒廃したため昭和43年に現在の場所へ新しくお堂を建てました。

    左側は、もともと東峰霊園の中にあった薬師堂・・・創建などは不明ですが、建物が荒廃したため昭和43年に現在の場所へ新しくお堂を建てました。

  • 堂内の厨子に安置されているのは薬師如来・・・本尊の薬師如来坐像は銅造で、像の裏にある銘文には清水六郎左衛門・清水六右衛門が鈴木村の長玄法印・妙西観離・妙善などの冥福を祈って、宝永2年(1705)に奉納したと記されています。<br />左右に6体づつ配置されている像は、薬師十二神将。

    堂内の厨子に安置されているのは薬師如来・・・本尊の薬師如来坐像は銅造で、像の裏にある銘文には清水六郎左衛門・清水六右衛門が鈴木村の長玄法印・妙西観離・妙善などの冥福を祈って、宝永2年(1705)に奉納したと記されています。
    左右に6体づつ配置されている像は、薬師十二神将。

  • <7>西峰霊園の念仏供養塔<br />西峰霊園は廃寺となった大日堂があった場所ですが、大日堂の創建などについては資料がなく不明です。

    <7>西峰霊園の念仏供養塔
    西峰霊園は廃寺となった大日堂があった場所ですが、大日堂の創建などについては資料がなく不明です。

  • 入口の左側にある念仏供養塔・・・文政7年(1824)の造立で、峰村の念仏講中が現当二世安楽、極楽往生を願って建てたものです。<br />念仏供養とは、仏の功徳や姿を心に浮かべて「南無阿弥陀仏」の名号を唱えることで、極楽往生できるという教えで、江戸時代には各地で念仏講が結成されました。<br />狭山市内では念仏供養塔が56基確認され、殆どは地蔵菩薩を主導としていますが、浮彫立像の聖観世音菩薩が刻まれた念仏供養塔は、この1基のみ。

    入口の左側にある念仏供養塔・・・文政7年(1824)の造立で、峰村の念仏講中が現当二世安楽、極楽往生を願って建てたものです。
    念仏供養とは、仏の功徳や姿を心に浮かべて「南無阿弥陀仏」の名号を唱えることで、極楽往生できるという教えで、江戸時代には各地で念仏講が結成されました。
    狭山市内では念仏供養塔が56基確認され、殆どは地蔵菩薩を主導としていますが、浮彫立像の聖観世音菩薩が刻まれた念仏供養塔は、この1基のみ。

  • 霊園内の卵塔は、大日堂の住職や修験者の墓と思われます。

    霊園内の卵塔は、大日堂の住職や修験者の墓と思われます。

  • 最も古い卵塔には元禄10年(1697)の銘があるので、大日堂はそれ以前に創建されたと推定されます。

    最も古い卵塔には元禄10年(1697)の銘があるので、大日堂はそれ以前に創建されたと推定されます。

  • <8>市場の荒神(こうじん)さま<br />当神社は市場(入間川2丁目)の大野家が所有する神社で、地元の人は「市場の荒神さま」または「荒神さま」と呼んでいます。

    <8>市場の荒神(こうじん)さま
    当神社は市場(入間川2丁目)の大野家が所有する神社で、地元の人は「市場の荒神さま」または「荒神さま」と呼んでいます。

  • 創建については不詳ですが、延享年間(1744~48)に加藤清正の末裔と称する加藤太郎左衛門が当地に移住した時、三宝荒神(さんぽうこうじん)を祀ったと伝えられています。

    創建については不詳ですが、延享年間(1744~48)に加藤清正の末裔と称する加藤太郎左衛門が当地に移住した時、三宝荒神(さんぽうこうじん)を祀ったと伝えられています。

  • 当神社の正式な名称は「三柱(みはしら)神社」で、祭神は天地が開けた時に高天原(たかまがはら)に出現した天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)など三神です。

    当神社の正式な名称は「三柱(みはしら)神社」で、祭神は天地が開けた時に高天原(たかまがはら)に出現した天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)など三神です。

  • 三柱神社が市場の荒神さまとして親しまれるようになったのは、江戸中期に盛んになった養蚕で養蚕農家から蚕の守り神として信仰されるようになったことです。<br />明治から昭和30年頃には多くの信者がいて、5月の例大祭には約5千枚の「開運火防セ」「養蚕ネズミ札」という御札が配られ、養蚕に必要な道具を売る市が立ったそうです。<br />当時の賑わいが偲ばれますね。

    三柱神社が市場の荒神さまとして親しまれるようになったのは、江戸中期に盛んになった養蚕で養蚕農家から蚕の守り神として信仰されるようになったことです。
    明治から昭和30年頃には多くの信者がいて、5月の例大祭には約5千枚の「開運火防セ」「養蚕ネズミ札」という御札が配られ、養蚕に必要な道具を売る市が立ったそうです。
    当時の賑わいが偲ばれますね。

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