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さて、お昼散歩の続きです。<br />八丁堀側から南港橋を渡り、新川へ出て、そこから更に月島・佃方面へ足を延ばします。この辺りは島続きで佃と月島は一つの月島内にあり、築地に隣接した島となります。勝鬨橋、佃大橋などで繋がっています。<br /><br />中央大橋は現代の作で、吊り橋で大きなものです。さて、行きましょう。

新川から中央大橋、佃大橋

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2023/11/27 - 2023/11/27

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BO/M

BO/Mさん

さて、お昼散歩の続きです。
八丁堀側から南港橋を渡り、新川へ出て、そこから更に月島・佃方面へ足を延ばします。この辺りは島続きで佃と月島は一つの月島内にあり、築地に隣接した島となります。勝鬨橋、佃大橋などで繋がっています。

中央大橋は現代の作で、吊り橋で大きなものです。さて、行きましょう。

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  • 八丁堀駅から連続して歩いてくると10分程度でもう中央大橋に差し掛かります。<br />亀島川と隅田川が合流する辺りで、大きな川幅を渡って行きます。

    八丁堀駅から連続して歩いてくると10分程度でもう中央大橋に差し掛かります。
    亀島川と隅田川が合流する辺りで、大きな川幅を渡って行きます。

  • 吊り橋で、このようなワイヤーが何本もかかって吊る構造となります。

    吊り橋で、このようなワイヤーが何本もかかって吊る構造となります。

  • 中央大橋から隅田川を眺めます

    中央大橋から隅田川を眺めます

  • いわゆる、リバーサイドの新興高層住宅が回り中を占めます、埋め立て地であり水場な為、足場は結構緩い筈ですが、深く杭を打っているのでしょう、地震の時はどんな揺れ方でしょうか。

    いわゆる、リバーサイドの新興高層住宅が回り中を占めます、埋め立て地であり水場な為、足場は結構緩い筈ですが、深く杭を打っているのでしょう、地震の時はどんな揺れ方でしょうか。

  • 中央大橋の銘板です

    中央大橋の銘板です

  • うまく撮れませんでしたが佃公園・石川島公園の案内図です<br />パリ広場なる名称が気になり行きましたが、静かな場所でした・・・

    うまく撮れませんでしたが佃公園・石川島公園の案内図です
    パリ広場なる名称が気になり行きましたが、静かな場所でした・・・

  • 今は亡き松本零士先生がデザインされた船が丁度通りかかりました

    今は亡き松本零士先生がデザインされた船が丁度通りかかりました

  • この地図で八丁堀は左上側、そこから先ず南港橋で中央上側のカタマリに行き、真下の中央大橋を南下して通り、左側に川沿いを行き、北上して佃大橋を渡って鉄砲洲通りから戻りました

    この地図で八丁堀は左上側、そこから先ず南港橋で中央上側のカタマリに行き、真下の中央大橋を南下して通り、左側に川沿いを行き、北上して佃大橋を渡って鉄砲洲通りから戻りました

  • 振り返ります、高層ビルが聳え立つエリアですね

    振り返ります、高層ビルが聳え立つエリアですね

  • パリ広場から川上に向かって。こちらは方角的には浅草、上野方面側になるはずです

    パリ広場から川上に向かって。こちらは方角的には浅草、上野方面側になるはずです

  • このあたりを歩いています

    このあたりを歩いています

  • 川沿いの遊歩道を行きます、前方には佃大橋でしょうか

    川沿いの遊歩道を行きます、前方には佃大橋でしょうか

  • 住吉水門まで来ました

    住吉水門まで来ました

  • 住吉小橋を通過します

    住吉小橋を通過します

  • 住吉水門近景

    住吉水門近景

  • 銘板と住所です

    銘板と住所です

  • ここから、佃大橋を渡って築地方面に戻ります

    ここから、佃大橋を渡って築地方面に戻ります

  • 橋の上から中央大橋側を見ます

    橋の上から中央大橋側を見ます

  • 昔は渡し舟が通っていたようで、その記念石碑です(動力船に変った際に記念碑として建てたようです)

    昔は渡し舟が通っていたようで、その記念石碑です(動力船に変った際に記念碑として建てたようです)

  • その説明書きいわく、<br /><br />佃島は隅田川河口に出来た自然の寄洲でした。江戸幕府嶼代将軍徳川家康の時代、摂津国佃村(大阪市西淀川区)の漁民を招いて住まわせたところと伝承されています。この島と対岸の船松町(佃大橋西詰付近)との間に正保2年(1645年)に通ったのが佃の渡しです。<br />明治9年(1876年)には、渡し銭一人五厘の掲示札の下付を願い出て許可され、大正15年(1926年)東京市の運営に移り、翌昭和2年3月に無賃の曳舟渡し船となりました。<br />「佃島渡し船」石碑は、手漕ぎ渡船廃止紀念としてこの時期に建てられたものです。<br />昭和30年(1955年)7月には1日70往復にもなりましたが、同39年8月の佃大橋の完成によって300年の歴史に幕を閉じました。<br />昭和39年(1964年)は東京オリンピック(第1回目)開催年で、この年にかけて東京都内では大工事が相次ぎ、近代化が進んだ年ですね。<br />首都高速道路も、新幹線も、と大変革があったのが東京オリンピックの年、となります。そこから一気に高度成長期の幕開けが始まり、イケイケな時期が80年代中盤迄続きました・・・今は昔の物語となります・・・。

    その説明書きいわく、

    佃島は隅田川河口に出来た自然の寄洲でした。江戸幕府嶼代将軍徳川家康の時代、摂津国佃村(大阪市西淀川区)の漁民を招いて住まわせたところと伝承されています。この島と対岸の船松町(佃大橋西詰付近)との間に正保2年(1645年)に通ったのが佃の渡しです。
    明治9年(1876年)には、渡し銭一人五厘の掲示札の下付を願い出て許可され、大正15年(1926年)東京市の運営に移り、翌昭和2年3月に無賃の曳舟渡し船となりました。
    「佃島渡し船」石碑は、手漕ぎ渡船廃止紀念としてこの時期に建てられたものです。
    昭和30年(1955年)7月には1日70往復にもなりましたが、同39年8月の佃大橋の完成によって300年の歴史に幕を閉じました。
    昭和39年(1964年)は東京オリンピック(第1回目)開催年で、この年にかけて東京都内では大工事が相次ぎ、近代化が進んだ年ですね。
    首都高速道路も、新幹線も、と大変革があったのが東京オリンピックの年、となります。そこから一気に高度成長期の幕開けが始まり、イケイケな時期が80年代中盤迄続きました・・・今は昔の物語となります・・・。

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