2023/11/02 - 2023/11/02
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ペコちゃんさん
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狭山市民大学の「狭山の歴史講座」の第6回校外学習は、入間川の北西部にある「笹井・根岸地区」。
今回の行程は、《狭山市駅西口広場 ⇒ 笹井堰 ⇒ 笹井白鬚神社 ⇒ 宮地遺跡 ⇒ 瀧不動 ⇒ 宗源寺 ⇒ 水富公民館(休憩)⇒ 明光寺》で、約8千歩でした。
写真は、入間川に造られた「笹井堰」・・・この周辺で、太古のロマンを感じさせるアケボノゾウやメタセコイアの化石が発掘されました。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- その他
- 交通手段
- 高速・路線バス 徒歩
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狭山市駅から狭山グリーンハイツ行のバスに乗り、終点で降りてから入間川の河原をしばらく歩きます。
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<1>笹井堰(通称:笹井ダム)
江戸時代以前に灌漑用水確保のために設けられ笹井堰・・・現在の堰は昭和14年に造られましたが、昭和22年のカスリン台風でダムの-部が破壊し、更に昭和24年のキティ台風では僅か数mを残して堤防が決壊し、家屋や田畑に甚大な被害をもたらしました。 -
昭和27年に復興工事が完成し、今ではダムの周辺は風光明媚で魚釣りに訪れる人も多く、シラサギなど水辺に棲む鳥も観察できます。
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入間川の対岸は入間市。
昭和50年に、埼玉県と狭山市・入間市で実施した化石林調査の際、笹井ダム上流約1kmの入間川左岸でアケボノゾウの大臼歯・肩甲骨や足跡の化石などが発見され、更に昭和60年にはアケボノゾウの骨格化石が国内で初めてほぼ完全な形で発掘されました。 -
これは、狭山市立博物館に展示してあるアケボノゾウ(レプリカ)。
アケボノゾウは、今から250万年~100万年前、日本が大陸と地続きになっていた時期に日本へ移住し、体高は1.5m~1.8m、体重は2~3トンと推定され、インドゾウより小柄ですが、長い牙がありました。 -
また昭和49年8月末に、入間川は大型台風に伴う出水で河原が広範囲にえぐり取られ、笹井ダム下の河床から200~300万年前のメタセコイアの化石が露出しました。
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これは昭和50年に実施された発掘作業の写真。
メタセコイアの株が残っているもの:18株、株の中心はないが根だけ残っているもの:9株、根の痕跡だけのもの:2株の計29株が確認されました。 -
笹井ダム近くの宮地児童公園には、同種のメタセコイアが4本植えられています。
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<2>笹井白鬚神社
創建については古記録を失っているため不明ですが、文明18年(1486)に聖護院門跡の道興准后(どうこうじゅごう)が関東方面を訪れた際に、当神社に参拝したという記録があるので、それ以前に鎮座していたと思われます。 -
大鳥居の先に社殿があります。
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手水舎。
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笹井地区は狭山市で空襲の被害を受けた唯一の地域・・・太平洋戦争末期の昭和20年5月25日の夜11時頃から翌日未明にかけて、編隊からはぐれたB29爆撃機が焼夷弾5000発を捨て去ったため、笹井ダムから白鬚神社にかけての一帯は火の海となり、死者13人、被災世帯69戸という大被害が発生しました。
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当社も戦禍にあって拝殿や社務所を焼失しましたが、拝殿は昭和41年に氏子一同の浄財で再建されました。
拝殿の前には、大正15年建立の狛犬が鎮座しています。 -
左側から見た拝殿、その奥に奏上門と本殿が続きます。
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幸いにも本殿は無事で、本殿前の奏上門の破風(はふ)を焦がしただけで類焼を免れました。
炭化した黒い破風がその時の名残で、戦争の記憶を留めようと今も修理をせずにそのまま遺しています。 -
本殿。
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境内の左側にある神籟館・・・毎年4月と10月の中旬に行われる祭札に「笹井豊年足踊り」が奉納されます。
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笹井豊年足踊りは、幕末から明治にかけて当地出身の桜井藤太郎が創作したコミカルな演目で、演者が仰向けになって足を高くあげ、両足にヒヨットコとオカメの面を着け、笹井囃子に合わせてさまざまな仕草を演じます。
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絵馬にも足踊り・・・可愛いですね。
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お百度石。
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今でも毎年、笹井の俳句の会の人達によって、戦災の記憶を忘れないようにとの強い思いから戦災の俳句が作られ、神社境内に掲示されています。
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<3>宮地遺跡
狭山市内では現在67ヶ所の遺跡が確認されていますが、入間川左岸の段丘にある笹井小学校の一帯で発掘されたのが宮地遺跡です。 -
笹井白髭神社を上ったこの道の左右に広がる宮地遺跡・・・その規模は630m×280mで、西側は笹井小学校、東側は畑や住宅地になっています。
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宮地遺跡は縄文時代中期(5400~4400年前)と奈良・平安時代の集落跡で、多数の竪穴式住居跡や土器などの遺物が出土しました。
縄文時代の竪穴式住居は直径4m前後の円形で、内部には数本の柱穴や炉があり、奈良・平安時代の住居は4m前後の方形で、内部には柱穴やカマドがありました。 -
<4>瀧不動
ここから入ってすぐの所にあります。 -
お堂の手前に段丘から湧き出る水が冬でも枯れず一年中流れ落ちていますが、昔は堂の裏にもっと大きな滝が流れ、その水音を聞いて役小角(えんのおづぬ)がこの地に霊場を開いたと伝えら、修験者たちがこの滝に打たれて修行したそうです。
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お堂には役小角が彫ったと言われる不動明王が安置され、滝が流れ落ちる所に祀られたことから「滝不動」と名付けられました。
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滝不動は右手に宝剣、左手に羂索(けんさく)を持った浮彫立像の不動明王。
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これは笹井観音堂に祀られた役小角の像。
役小角は7~8世紀に奈良を中心に活動し、修験道の開祖とされている呪術者です。(修験道:日本古来の山岳信仰が仏教などの影響のもとに習合された日本独特の宗教で、大自然そのものを神とし、その顕現を仏とし、霊山を修行の場として過酷な苦行を行い、 超人間的な験力を蓄えて衆生の救済を目指す実践的な宗教) -
滝不動から宗源寺に向かう途中には、立派な邸宅が散見されます。
広い敷地を囲む板塀と門構えに大きな蔵の北野家住宅は、醤油の醸造などを行っていました。 -
1981年に公開された松田聖子・主演の東映映画「野菊の墓」・・・北野家住宅もロケ地として使われました。
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<5>宗源寺
慶長年間(1596~1615)の創建と言われる宗源寺は曹洞宗の寺院で、開基は笹井の旗本・土屋昌吉と土屋正久の2家で、開山は当寺の本寺である越生町・龍穏寺の16世・鶴峯禅師です。 -
山門。
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山門前の左右にある地蔵菩薩は享保4年(1719)の造立・・・台座に刻まれた銘文から、笹井村の村人が建てたものであることが分かります。
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その先にある石仏。
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真ん中の石仏は狭山市で一番古い、寛文13年(1673)の阿弥陀如来像。
浮き彫りの立像の上部に「車道立」、右側に「南無西方極楽世界阿弥陀仏」と刻まれ、極楽浄土を願って造立されたものです。 -
宗源寺の山号は金井山。
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鐘楼。
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六地蔵。
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広々とした境内。
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植栽もよく手入れされています。
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本堂に上がって説明を受けます。
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内陣に祀られた本尊の木造宝冠釈迦如来坐像・・・本堂を改修した際に発見された棟札の墨書銘から、制作時期は宝暦12年(1762)であることが判りました。
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像高が38cmの釈迦如来坐像は頭に宝冠を戴き、瓔珞(ようらく)と呼ばれる胸飾りを着け、両脇には迦陵頻伽(かりょうびんが)、上方の左右には楽器を奏でる天女の浮彫像があります。
また尊顔は微笑みを浮かべ、僅かですが口元から白い歯をのぞかせているので、微笑釈迦牟尼仏あるいは歯仏とも呼ばれます。 -
本堂の欄間の彫刻。
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素晴らしいですね。
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本堂左側の墓地には、当寺を開いた土屋家の墓所があります。
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中央にあるのが開基の土屋昌吉の墓で、後ろに子孫の墓が並びます。
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土屋昌吉の墓石に「宗源院殿鉄雄全柱大居士」と刻まれており、宗源寺は土屋昌吉の戒名から命名したことが分かります。
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道路から見た宗源寺の本堂と鐘楼・・・手入れが行き届いた植栽が美しい。
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水富公民館でトイレ休憩。
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文化祭が開催中で、筆文字の作品が展示されていました・・・ホッコリしますね。
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水富公民館から明光寺に向かう途中にあるこの邸宅も立派です。
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<6>明光寺
真言宗智山派の明光寺は、新編武蔵風土記によると明応7年(1498)に没した明光上人が開山したとあり、創建は室町時代後半と考えられます。 -
山門手前には、天明3年(1783)に造立された丸彫りの六地蔵。
私たち衆生が、その業によって生死を繰り返す6つの世界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・ 人界・天界)を六道と言いますが、六道輪廻の業から脱け出せない衆生に対し、自らそこに赴いて救済に当たるのが地蔵菩薩であるところから、六地蔵の造立が始まりました。 -
高麗門形式の山門・・・袖塀の左右には格狭間(ごうざま)窓が開けられています。
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山門の欄間に彫られた龍。
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鐘楼。
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本堂。
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本堂に上がります。
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本尊は木造地蔵菩薩坐像。
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本堂でご住職から寺の歴史や文化財などについて説明を受けます。
壁に飾られているのは「紙本地蔵十王図」。 -
この図の制作者や制作年代は分っていませんが、「切金(きりかね)」という技法を使った本格的な仏画で、人物の描き方や構図が大変優れており、市の文化財に指定されています。
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地蔵十王図とは、地蔵菩薩の画と冥界で死者の生前の罪を裁く10人の王たちが一人ずつ描かれてセットになっている仏画で、当寺の図は十王のほかに地蔵菩薩・奪衣婆・修羅の3幅を加えて、全部で13幅からなつています。
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十王とは、冥界で亡者の罪を裁く十人の王で、秦広王(初七日)・初江王(二七日)・宗帝王(三七日)・五官王(四七日)・閻魔王(五七日)・変成王(六七日)・太山王(七七日)・平等王(百ヶ日)・都市王(一周忌)・五道転輪王(三回忌)のこと。
本図には銘記がないため、個々の図が何王に当たるか分かりません。 -
お寺とは思えない、お洒落な照明。
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欄間にも天女の透かし彫り。
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ご住職さん、面白い講話と素晴らしい文化財を見せて頂き、有難うございました。
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境内の植栽も綺麗に手入れされています。
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その傍らには、昭和の名僧と呼ばれた山本秀順(1911~1996)の句碑。
『人の世は かく会い別れ ゆく春か 指月』 -
明光寺の次男として生まれた秀順は、13歳の時から高尾山薬王院で修行を積み、1944年に長野・松本にある霊瑞寺の住職となり、「指月」の俳号で俳句も嗜みました。
また圏央道建設の時には自然を破壊する行為に反対し、56歳の時に「高尾山の自然をまもる市民の会」の会長などに就任し、暖帯林と温帯林が共存する高尾山の貴重な自然保護の先駆者となりました。 -
モミジの植栽に囲まれた宝篋印塔。
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毎年、紅葉の時期には「明光寺もみじまつり」が開催され、ふれあいフリーマーケット・キッチンカー・歌曲とピアノのコンサートや紅葉のライトアップも行われます。
一度、行ってみたいですね。
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