2023/10/29 - 2023/10/29
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ペコちゃんさん
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狭山の史跡・文化財めぐり・・・6回目は市内を西から東に流れる入間川の北側に位置する広瀬地区です。
今回は歴史講座の校外学習ではなく、「NPO法人 狭山歴史ガイドの会」の「さやま歴史散歩」の催しで、《 今宿遺跡 ⇒ 影隠地蔵 ⇒ 信立寺 ⇒ 広瀬浅間神社 ⇒ 清水宗徳の墓 ⇒ 禅龍寺 ⇒ 広瀬神社 》と回る、約1万歩のコースでした。
幕末にこの地で生まれ育ち、衆議院議員を務め、斜子(ななこ)織など地場産業の振興、川越~国分寺を結ぶ川越鉄道敷設など、狭山市の発展に多大な貢献を残した『清水宗徳』の足跡を辿る学習にもなりました。
写真は、清水宗徳が神官を務めた広瀬神社の豪華絢爛な神輿。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- その他
- 交通手段
- 高速・路線バス 徒歩
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<1>今宿遺跡
今宿遺跡の隣にある、広瀬台・日生団地の公園に建つ「狭山市指定史跡 今宿遺跡」の石碑。
裏面には、今宿遺跡発見の経緯と遺跡の説明が刻まれています。 -
今宿遺跡は奈良・平安時代(8世紀~10世紀)の集落跡で、公園の隣に復元された住居がありましたが、設置後50余年が経過したため、建て替えることになりました。
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この遺跡は日生団地の宅地造成の際に発見され、昭和44年に大規模な発掘調査を行ったところ、48軒の竪穴住居跡が見つかりました。
住居が築かれた年代は8世紀台が最も多くて25軒、8~9世紀にかけてが1軒、9世紀台が11軒、10世紀台が2軒、不明が9軒です。 -
これが昭和45年に復元された、建て替え前の竪穴式住居。
縄文時代から続く竪穴式住居は、ほぼ同じ構造のまま奈良・平安時代まで数千年に亘って続きました。 -
発掘された住居跡は正方形かそれに近いもので、大きさは縦横とも4m前後が多く、中には7mを超えるものもありました。
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縄文時代には住居の中央部に炉を置いて火を使っていましたが、奈良時代になると炉ではなく竈(かまど)を北側か東側の壁際に置いて、外に煙を出す工夫がされています。
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今宿遺跡からの出土品は土器の他に、鉄製品・銅製品、炭化したコメ・ヒエがありました。
土器は土師器・須恵器が多く、中には灰釉陶器・緑釉陶器など釉薬のかかったものもあります。
鉄製品は鋤・鎌といった農具や、刀子(小刀)、矢の先端に取りつけた鏃などが出土し、銅製品ではカンザシが見つかり、当時の暮らしぶりが分かる貴重なものです。 -
<2>影隠地蔵と石橋供養塔
入間川に架かる新富士見橋から智光山公園に向かって1kmほど先の奥州道交差点に面して、手前に石橋供養塔、奥に影隠地蔵があります。 -
道しるべを兼ねた高さ:55cmの石橋供養塔・・・安永3年(1774)に石橋の永続と旅の安全を願って建てられた塔で、石橋はこの近くにあった小川に架けられた橋と思われます。
左側の石仏は、安永5年のもの。
供養塔の正面には大日如来の梵字と、「西 八わうし(八王子)みち」「願主 柏原村 如實一道 八十三才」と刻まれ・・・ -
他の側面には「南 江戸道」「東 川越道」「北 小川道」と刻まれています。
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高さ:110cmの地蔵菩薩「影隠地蔵」・・・木曽義仲の嫡男で源頼朝の娘婿となった清水冠者義高が、義仲の死をきっかけに頼朝から追われる身となってこの地まで逃げて来た時、難を避けるために地蔵の背後に隠れたと伝わります。
かつては2尺(30cm)余りの木像で、この地区にあった正覚院の地蔵堂に安置されていましたが、明治政府の排仏毀釈で廃寺となり、明治7年(1874)に現在の石の地蔵が建てられました。 -
広瀬公民館で休憩・・・丁度、文化祭が開催されており、狭山遊糸会の斜子織が展示されていました。
「ななこ」とは平織の絹織物の一つで、折り目が細かく斜めに並ぶことから斜子と言われ、折り目が魚卵を並べたようにも見えることから「魚子」とも書くそうです。 -
これは明治10年頃の機織りをしている写真。
江戸後期から明治にかけて、埼玉県は全国屈指の織物業の県で、中でも入間郡・高麗郡は斜子織・木綿飛白(かすり)の中心的な生産地でした。 -
斜子織は、18世紀初頭から上広瀬・下広瀬・柏原・入間川・上奥富の各村を中心に生産が始まり、製織された反物は川越城下に集積されて「川越斜子」の名で江戸へ搬ばれ、越後屋・大丸などの有名呉服店で販売されました。
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<これらの地域で斜子織が発展した要因>
①入間川の水や井戸水が、斜子織の原料糸の濯ぎに最適だったこと。
②躄機(いざりばた)に代わって導入された高機が明治20年代から急速に普及し、生産力が2倍になったこと。
③当時の需要(羽織・袴・帯)に斜子織がマッチし、庶民に愛用されたこと。
④清水宗徳の提唱により生産者が「広瀬組」を結成し、品質の維持・改良と粗製濫造品の混入を防止したこと。など -
しかし、明治35年(1902)を境に、急速に普及し始めた羽二重に取って代わられて斜子織は衰退し、今や斜子織は市民の間でも殆ど知られていません。
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平成26年に設立された狭山遊糸会は、地元の子供達に手織りの体験を伝えると同時に、広瀬斜子織の再現を目指した活動を続け、市立博物館にあった壊れた織機を修理して使えるようにしました。
これがその織機です。 -
斜子織は「平織(ひらおり)」の仲間・・・平織とは経(たて)糸と緯(よこ)糸を交互に浮き沈みさせて織る組織で、出来上がった模様は左右対称になります。
広瀬斜子織の特徴・・・経糸は細い糸を2本引き揃え、緯糸は太い糸1本で織り、ふっくらと盛り上がっています。
思わぬところで斜子織に触れることが出来ました。 -
<3>信立寺
信立寺は狭山市内で唯一の日蓮宗寺院で、池上本門寺の末寺です。
創建は天正7年(1579)で、当地方を知行していた加治左馬介家信が開基し、池上本門寺12世・日惺上人が開山したと伝えられています。
この石柱は、参道入り口にある「髭題目」・・・「南無妙法蓮華経」の題目を書いた供養塔で、その書き方が「法」以外の六字の筆端を、勢いよく髭のように四方にはね延ばして書くところから髭題目と言われ、「法」の光に照らされて万物が真理を体得し活動する様を表わしたものです。 -
静かな佇まいの参道を進み・・・
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四脚門形式の山門・・・袖塀に花頭窓が並びます。
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左側には日蓮上人の像と鬼子母神のお堂。
鬼子母神は法華経の守護神として、日蓮宗の寺院でよく祀られています。 -
享保15年(1730)に建て替えられた本堂は、市内の寺院では最も古い建物です。
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内陣には「日蓮上人坐像」。
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鐘楼の梵鐘は、正徳4年(1714)に鋳造されたもの。
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信立寺から清水宗徳の墓に向かう途中には水路が流れ、綺麗な水の中を小さな魚が泳いでいます。
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<4>清水宗徳の墓
代々、上広瀬村の名主と広瀬神社の神官を務める清水家の長男として、天保14年(1843)に生まれた清水宗徳・・・政治家として活躍し、実業家としても多くの業績を残しましたが、その志しを達することなく明治42年(1909)に67歳でこの世を去りました。
この写真は、埼玉県議会議員だった明治20年頃の清水宗徳。 -
高さ:3.69mもある清水宗徳の墓・・・広瀬浅間神社がある小高い丘の上にあり、花崗岩製の墓石には「前代議士 清水宗徳之墓」と刻まれています。
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明治20年(1887)前後の産業勃興期には全国的に私設鉄道が造られましたが、宗徳は蚕糸・織物・製茶の主産地だったこの地のために交通機関の整備が必要と考え、明治28年(1895)に川越から入間川・所沢を経て国分寺に至る川越鉄道を開通させました。
墓石の前には入間馬車鉄道の軌道として使用された2本のレールが供えられています。 -
明治34年(1901)に開通した入間馬車鉄道が経営難に陥ると、立て直しを依頼された宗徳はサービスの改善と経営の合理化に努め、経営基盤を固めましたが、大正4年(1915)に飯能~池袋を結ぶ武蔵野鉄道が開通すると再び経営難に陥り、2年後に解散となりました。
写真は狭山市立博物館に展示された入間馬車鉄道のレプリカ・・・現在の狭山市駅~飯能まで約10kmを1時間15分かけて走り、乗車賃は15銭でした。 -
<5>広瀬浅間神社
当神社は、万延元年(1860)に安産・鎮火・養蚕業の発展を祈願して、上広瀬・下広瀬の富士講により創建されました。 -
当神社は河岸段丘を利用して造られた富士塚で、頂上には富士浅間宮と刻まれた石碑が建てられています。
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五合目の所にある庚申堂・・・当神社には社殿がなく、庚申堂が浅間神社と間違えやすいのですが、このお堂にはかつて正覚院にあった庚申塔が祀られています。
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寛政11年(1799)に建てられた庚申塔・・・左足で邪鬼を踏み、右手で裸身の女性の髪を手掴みにし、座石に3猿が彫られた珍しい石像です。
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当神社の火祭りは、豊作・安産・富士山の噴火活動の鎮火を祈願するため、富士吉田浅間神社の鎮火祭を模倣して明治初期から始まったもので、8月21日に行われます。
桑の枝を丸めた大小二つのたいまつを燃やす「おたきあげ」が祭りの中心で、庚申堂脇の広場で行われます。 -
<6>禅龍寺
当寺の由緒は、太平洋戦争中に供出した享保年間(1716~36)に鋳造された梵鐘の銘文に、「玉岫璘公尼(ぎょくしゆうりんこうに)が明応年間(1492~1501)に開山し、瑞泉院5世の華厳文説(けごんぶんせつ)が天正元年(1573)に、宗派を臨済宗から曹洞宗に改め中興開山した」と刻まれていました。
一方では万寿(まんじゆ)年間(1024~28)に創建されたので、山号を「万寿山」と称したとも伝えられています。 -
これが本堂。
「新編武蔵風土記稿」には、当初は尼寺であったと伝えられ、鎌倉時代に当寺が全盛であった頃は千石を領する大寺であったと記載されています。 -
境内の左側にある観音堂。
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三仏堂と書かれています。
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三仏堂に安置されている「木造千手観世音菩薩坐像」。
像高は64.4cm、寄木造りで頭上に10の尊顔と阿弥陀如来の化仏(けぶつ)を戴き、合掌印を結んだ2本の手を除き40本の手を持ち、光背は舟形の透かし彫りで、瑞雲の中に11面の円鏡が配置されています。
40本の手はそれぞれが25の世界を表し、「40×25」で千手観音。
製作年代は不詳ですが16~17世紀初頭に造られたと推察され、鎌倉の東慶寺より持ち帰ったとの伝承が残っています。 -
三仏堂では、2月3日に節分会の豆まきが行われます。
「節分」とは、季節を分ける(季節が移り変わる)節目を指し、立春・立夏・立秋・立冬の前日に1年で4回ありますが、立春は1年の始まりとして特に尊ばれ、節分と言えば春の節分を指すようになりました。
神社では節分祭、寺院では節分会の呼称が一般的です -
鐘楼。
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寛政6年(1794)に建てられた六地蔵。
左側の石塔は延享元年(1744)に建てられた三界万霊塔・・・三界とは欲界・色界・無色界のことで、万霊とはこの世に命ある全ての生き物を指し、塔に宿らせたこの世に命ある全ての生き物の霊を多くの人に供養してもらうために建てたものです。 -
<7>広瀬神社
当神社は上奥富の梅宮神社と並ぶ古い神社で、社伝によると日本武尊が東征の折に、この地が大和の国の広瀬河合の地に似ているところから「広瀬」と命名し、大和の廣瀬大社を勧請して武運長久と五穀豊穣を願った、とされています。 -
広瀬神社が入間郡内でも有力な古社であったのは事実で、嘉祥3年(850)に官社に列せられ記録が残っています。
大鳥居から境内を進みます。 -
境内にある2本の大ケヤキは当神社の御神木・・・樹齢:1000年と言われ、かつては3本ありましたが、一番大きかったケヤキは明治時代の落雷で枝が折れ、枯れてしまいました。
舞楽殿の脇にあるこの堂々たるケヤキは、高さ:27m、幹回り:6.1mの「御神木2号」。 -
その先に1号の御神木があり、拝殿へと続きます。
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このケヤキは、高さが32m(現在は枝が折れているので不明)、幹回りが6.3mもある巨木。
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大ケヤキの前にある石燈籠・・・ハートマークが可愛いですね。
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大ケヤキの前に建てられた「清水宗徳頌徳碑」・・・当神社の神官でもあった清水宗徳は衆議院議員を2期務めるとともに、入間郡地域の殖産興業に努め、その偉業を讃えて大正3年(1914年)に建てられました。
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今回の行事のために、氏子代表の方が神輿や山車の扉を開けてくれており、手水舎には綺麗な花手水が・・・心配りに、感謝・感謝!!
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境内には神社でお馴染みの狛犬が見当たりません。
これは主祭神が大和の廣瀬大社と同じ五穀豊穣の神様「若宇加能売命(わかうかのめのみこと)」で、女性神なので荒々しいものを嫌うとされているためです(「売」は女神のこと)。
狛犬の代わりか、石燈籠の台座に馬が描かれていました。 -
昭和50年に改築修繕された拝殿。
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拝殿の社号額は、幕末から昭和初期にかけて武士(長州藩士)・官僚・政治家として活躍し、晩年は書家として各地に筆跡を残した野村素介(もとすけ:1842~1927)の書です。
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明治32年に建てられた大鳥居の横にある「縣社 廣瀬神社」と刻まれた社号標も、野村素介によるものです。
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裏から見た瓦葺きの本殿・・・木々に囲まれ、厳粛な雰囲気を感じます。
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本殿の屋根には鯱(しゃちほこ)・・・雨を降らせる力を持つとされる「火除けの守神」です。
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樹齢400年の梅の古木「不朽(ふきゅう)梅」・・・梅の木は、樹齢200年を越えるとねじれて来るのだそうです。
俳人でもあった神官・清水宗徳の功績を讃え、宗徳の俳号「不朽軒義同」に因んで命名されました。 -
安政5年(1858)に建てられた、当地在住の18名の合同句碑。
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左から三人目の句が、清水宗徳15歳の時の句です。
『月澄めば 香も一入ぞ 梅の花』 -
拝殿の右側には、時を知らせていた「太鼓楼」・・・神仏習合の名残ですね。
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左側には、コイが泳ぐ「稲実の池」。
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舞楽殿。
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舞楽殿の左側にある神輿庫。
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ここに掛けられている「徳維新」の額は、江戸末期の高名な書家・中澤雪城(1808~1866)の揮毫によるもの。
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元治元年(1864)に名主・清水寛右衛門が奉納した、高さが2.28mの神輿・・・金箔や金銅板などを使い、格調が高く豪華絢爛な神輿です。
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神輿を担いだ秋季大祭の一コマ。
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境内北隅の旧本殿跡地・・・旧本殿はここから南向きに参道がありましたが、明治44年に現在の場所に建て替えられ、参道も東向きに付け替えられました。
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山車小屋。
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大祭の時には、この山車で広瀬囃子が演じられます。
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山車小屋の左側にあるのは、清水宗徳による芭蕉の句碑。
『物言婆(いへば) 唇さむし(寒し) 秋之可是(風)』
芭蕉はこの句の前に「人の短をいう事なかれ 己の長をとく事なかれ」と記し、自らの戒めとしていたそうで、宗徳は言葉の大切さを呼びかけるに相応しいとの気持ちから、この句を揮毫しました。 -
明治24年(1891)に建てられた「斜子織の歌碑」・・・この碑は、明治10年(1877)に埼玉県令(県知事)の白根多助が当地を訪れ、斜子織の沿革や品質向上策の説明を受けて、感激のあまり詠んだ和歌です。
『奈ゝこ於梨 廣瀬乃浪農安や那累遠 堂禮川越能 名尓流志計無』
(ななこおり 広瀬の浪のあやなるを たれ川越の 名に流しけむ) -
境内社の杉森稲荷社。
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檜皮葺きの社殿で、彫刻もなかなかのものです。
向拝には龍。 -
右側の側面。
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右面の胴羽目は、中国の故事・菊慈童(きくじどう)に由来する彫刻。
周の帝の寵愛をうけていた侍童(16歳)が、帝の枕を跨いで流罪になり、かの地で菊の露を飲んで不老不死の仙人になるという話で、能の演目にもなっています。 -
脇障子は琴高仙人・・・琴の名手で宋の康王の舎人となって仕え、鯉を巧みに乗りこなしたと言われます。
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下の腰羽目には、亀と遊ぶ唐子。
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左面の胴羽目は陳楠仙人。
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脇障子は盧敖(ろごう)仙人。
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腰羽目には唐子の獅子舞。
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緑が多い広瀬神社で忘れてならないのが、アオバズク・・・6月の初めにやってきて、大ケヤキに営巣してヒナを育て、8月の半ばには東南アジアの方に飛び立っていきます。
古代より人が住んでいた広瀬地区の史跡・文化財を訪ねて歩いた一日でした。
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