2023/04/23 - 2023/04/24
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maruhanabachiさん
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菊姫伝説を知っていますか?
それは、宗像大社の長い歴史の光と影。
戦国時代、宗像大社の後継争いによって起こった『山田事件』。
犠牲者は宗像正氏の正腹の娘、菊姫。
妾腹の子、鍋寿丸に家督を継がせるためその母がとった手段は…菊姫とその母、山田の局の暗殺だった。
娘だけでも助けてほしい、という山田の局の懇願も虚しく、菊姫母子と侍女4人は、鍋寿丸側に寝返った家臣の手によって惨殺される。
だが、一年ののち山田の局は怨霊として蘇り、こう宣言する。
『我らを裏切った者どもをことごとく責め殺さん…その屋敷が末代に至り荒れ果てるまで』
次々と、陰謀に加担した者たちに死が襲い掛かる。
彼女たちの呪いによる犠牲者は、最終的に300人にのぼったという。
宗像氏の家督を継ぎ、宗像氏貞と改名した鍋寿丸。
彼は祟りを恐れ、菊姫たちの菩提を弔うため、六地蔵尊を造らせた。
六地蔵尊を本尊とする増福禅院では、菊姫たちが暗殺された毎年4月23日の夜に、ご開帳を行っています。
古来から神宿る島、神守る島と崇められる宗像大社と、菊姫たち6人を祀った増福禅院。
宗像の歴史の光と影を巡る、取材旅行の記録です。
『短編小説 むなかた菊姫伝説慰霊記』
https://maruhanabachi.sakura.ne.jp/wp/2023/07/14/%e5%b0%8f%e8%aa%ac%e3%80%8e%e3%82%80%e3%81%aa%e3%81%8b%e3%81%9f%e8%8f%8a%e5%a7%ab%e4%bc%9d%e8%aa%ac%e6%85%b0%e9%9c%8a%e8%a8%98%e3%80%8f/。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 4.5
- グルメ
- 4.5
- ショッピング
- 3.5
- 交通
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- JR特急 JRローカル ジェットスター
- 旅行の手配内容
- 個別手配
- 利用旅行会社
- エクスペディア
-
宗像大社とは、沖ノ島の沖津宮、宗像大島の中津宮、宗像市田島の辺津宮の三社の総称です。
それぞれに、タゴリヒメ、タギツヒメ、イチキシマビメの三姉妹の女神を祀っており、日本書紀にも出てくる非常に歴史のあるお社なのです。
私はまず、宗像市の神湊(こうのみなと)フェリーターミナルからフェリーに乗り、宗像大島を目指します。
宗像だけあって、ターミナルにも大きな銅鏡のモティーフが! -
宗像大島へは、フェリーで20分ほど。
風のある日だったのでけっこう揺れて、しぶきがかかるほど。
でも、海が青い。そして空も青い、素晴らしいお天気。
宗像三女神は、海上の安全をを司る女神たち。心の中で旅の安全を祈ります。
遥か古来から、同じように人々は祈ったのでしょう。 -
大島フェリーターミナルに到着。
ここから、小さなかわいいコミュティティバスのぐらんしまーる(1日フリー券¥800)で回ります。
ぐらんしまーるは、島の主だった観光スポットを回ることができます。
まず目指すのは、沖津宮遥拝所。 -
沖津宮遥拝所は、小高い丘の上にあります。
沖ノ島の沖津宮、大島の中津宮、宗像市田島の辺津宮の三社のうち、沖ノ島は神域のため一般人立ち入り禁止。
その代わり、ここ宗像大島の沖津宮遥拝所から、文字通り遥かに沖ノ島を望み、参拝することができるのです。
この海は、大陸へ続く海。
弥生時代には既に、舟による大陸側との交流が盛んでした。
この海を統べる領主である宗像氏は、同時に沖ノ島で祭祀を執り行う宮司でもありました。
それは、クニの成り立ちの上で、政治と祭祀は不可分であったことを示しているのです。 -
沖ノ島を実際に遥拝するには、社のわきの石段を昇ります。
この地に人間が住み始めたのは、なんと2万年前だといいます。
もちろん、この海は生活に欠かせない場所でした。
漁によって恵みをあたえ、また、舟で交易がおこなわれ、物資や文化を運んでくる海でもありました。
人々の生活は、常にこの海と共にあったのです。 -
ここから沖ノ島へは、50キロ。
ぎりぎり地平線に沖ノ島の島影を見ることができます。
どこにあるか、わかりますか?
沖ノ島には、古代の遺跡がいくつも見つかっており、祭祀に使われた出土品は貴重な考古学的資料となるため『海の正倉院』とも呼ばれます。
豊漁を祈り、航海の安全を祈る。それが沖ノ島信仰です。 -
次に、ぐらんしまーるで風車展望台・砲台跡へ。
大島で一番見晴らしの良い景観が広がっています。この海の青、空の青。
爽やかに吹き抜けていく、風の味が違います。
しばし静けさを味わいましょう。
沖ノ島だけでなく、宗像大島もまた宗像氏の大切な所領でした。
有事の際には、領地の人々が避難する場所でもあったということです。 -
宗像大島は、古くから海上の要衝でした。
それは戦時中も同じ。
この美しい丘にも、観測所と砲台跡が残っています。
古くからの国際交流都市の博多からも近いこともあり、宗像氏と博多の豪商であり政治的な力もある大きな存在であった とが宗像大島の所有権を巡って争ったこともあったと記録に残っています。 -
美しい緑の島と、戦跡。
大きな砲台跡も今はただ、平和な静けさにまどろんでいます。
古墳時代の人々の興隆も、戦国時代の血みどろの争いも、第二次世界大戦も、すべてを見守ってきた宗像大島。
その美しさだけは今も変わりがないのでしょう。 -
風車展望台へは、すこし歩きます。
まるで絵本の中の風景のような、いわゆる映えスポット!
テーブルとイスがあるので、そこで昼食をとるのもいいですね。 -
うらやましかったのが、近くの牧場からのホーストレッキング!
遊歩道の外を、馬の背に揺られて歩いていました。
最高だろうなあ…
次回訪れる時はぜひ予約しようと思いました。 -
さて、ぐらんしまーるで再び海岸まで降りてきました。
そろそろ昼食の時間ですが、どこがいいかな?
海賊丼という名前に惹かれ、『海宝丸』という食堂へ。 -
ピーク過ぎでお客さんももうまばらになっていました。
海賊丼、新鮮魚介がこれでもかと敷き詰められて、美味しかった!
とにかく小鉢が多い!地元のお惣菜らしきものが並んでいます。
サザエのつぼ焼きまで! -
さて、お次は中津宮にお参りですよ。
ここでは、沖津宮と中津宮の御朱印を頂くことができます。
がんばって石段を昇りましょうね。 -
中津宮の鳥居はまっすぐ海を向いています。
年に二回、春分と秋分に、この二つの鳥居の中から朝日が昇ってくるのです。 -
中津宮本殿。
昼過ぎにはもう人が少なく、ゆっくりと参拝できます。 -
こちらにはもうひとつ有名なものが。
『天の真名井』です。天の真名井とは、古事記や日本書紀でスサノオのウケヒの段で、アマテラスが神を生み出した時、剣をすすいだ高天原の井戸のこと。
それにちなみ、ここだけでなく、全国の名水にこの名がつけられています。 -
社の裏の道を下りていくと、小さな沢があります。
そこを流れるのが天の川。
沢山の落ち葉に埋もれるようにして流れています。 -
再び、大島フェリーターミナルに戻ってきました。
宗像大嶋は、看板などがあまりなく、観光地としてスレていない良さがあると感じます。
今回は寄れなかったMUSUBIカフェなど、島を愛する若い人たちの努力もはしばしに感じられました。 -
神湊から西鉄バスで30分。宗像大社辺津宮にやってきました。
今日一日で、宗像三社をすべて回ります!
宗像大社の大宮司であり、古来からこの海の支配者でもあった宗像氏。
戦国時代、第69代の宗像氏男(菊姫の夫)の死から、菊姫伝説の悲しい幕が開けるのです。 -
辺津宮本殿。
平日の午後でもさすがの人出でした。
戦国時代、山口県から九州北部の守護を務めた大内義隆。
菊姫の夫、宗像氏男は大内義隆の家臣であり、水軍をもつ大きな戦力でした。
しかし、同じ大内氏の家臣、陶隆房が謀反を起こし、大内義隆を死に追いやります。大寧寺の変です。
その時、宗像氏男は主に従い討ち死にするのです。 -
本殿から、第二宮・第三宮へ向かいましょう。
宗像氏男は先代の正氏の甥にあたり、正氏の養子となっています。
菊姫は正氏の正室、山田の局の娘。
しかし正氏には妾腹の子、鍋寿丸がいました。
そしてその母は、なんと氏男の敵ともいえる陶隆房の姪なのです。 -
第二宮・第三宮の社殿は、伊勢神宮の別宮、月読宮から下賜されたもの。
皇室とゆかりの深い伊勢神宮との関係が気になるところです。
陶隆房は、主君の義隆を死に追いやった後、義隆の甥の晴英を家督に据え、その一字をもらって陶晴賢と名乗ります。
もちろんそれは形の上だけの主従関係。
晴英は傀儡にすぎず、大内家の全権を握るのは陶晴賢。
そして次の標的は、同じ大内家の家臣であり、強力な水軍を擁する宗像氏でした。 -
第二宮。
たしかに月読宮そのままです。
氏男の死後、宗像氏の家督を誰が継ぐかの問題が起こります。
候補は、菊姫の弟、千代松。
そして、陶晴賢の姪が産んだ子、鍋寿丸。
大内家を掌握した陶晴賢を後ろ盾に、鍋寿丸派は千代松を攻め、これを討ち取ります。
そして鍋寿丸の母は、残る正腹の娘、菊姫抹殺を画策します。
それが『山田事件』なのです。 -
チサンイン宗像にチェックイン。
部屋は狭いですが清潔感があり、通常よりもバスタブが大きくゆったりとしているのが売り。ゆっくりと浸かって、夜の増福禅院でのご開帳に備えます。
山田事件は、4月24日の夜に起こりました。
美しい月の夜、菊姫たちは月を眺めていたといいます。
そこにやってきたのは、菊姫案雑の命を帯びた但馬守の石松典宗でした。
母、山田の局はその目的を見抜いていました。
わざとらしく思い出話など始める彼に対し、山田の局は、代々の家臣でありながら正室である自分を裏切ったことをなじります。 -
赤間駅まで歩いて一時間。そこからタクシーに乗り10分ほど。
年に一度の秘仏公開だというのに、タクシーの運転手さんまでご存じないのには驚きました。
「こんな時間にお寺まで?」と聞かれ、本尊公開にと告げると、運転手さんはほっとしていました。
安心してください。幽霊じゃありませんよ?
但馬守と対峙した山田の局は、彼が翻意しないとみると、菊姫の命乞いをします。
まだたった18歳の娘。自分が死ぬのは構わないが、娘はどうか逃がしてほしいと…
しかしその願いは虚しく、菊姫母子は、侍女4人とともに惨殺されてしまうのです。
戦国の世とはいえ、無抵抗の女子供を6人も斬り殺すというのは異例なことであり、世に衝撃を与えたといいます。 -
本堂には、檀家さんと思われる方々が20人ほどいらっしゃるばかり。
昔は駅からシャトルバスが出て、境内で出店が出るほどの賑わいだったそう。
新しく開発された地域に越してきた人たちは、このお寺の歴史を知らないのかもしれないですね。もったいない!
菊姫暗殺から一年、法要の場で山田の局は怨霊として蘇り、復讐を宣言します。
『我らを裏切り、死に追いやった者たちを悉く責め滅ぼさん』
その場にいた者は命を奪われ、生き残った者たちのもとへは、家にいたはずの家族の死の知らせが次々と届いたのです。
どんな加持祈祷も効果がなく、祟りに効くとして高野山の僧が祈祷し菊姫母子の墓にかぶせられた大釜は、一夜のうちに粉々に砕け散ったといいます。
最終的な死者は、なんと300人以上。
信じていた家臣の手によって愛する子を殺された母の悲しみ、恨み、憎しみ。
それが山田の局を、前代未聞の犠牲者を出した怨霊へと変えたのです。 -
本堂では、ご住職が檀家のみなさんにお話をされている様子。
なんと、山田事件に始まる増福禅院の縁起を描いた『増福院祭田記』の資料が配られ、ご住職が解説されているのです。
菊姫母子を排除し、宗像氏の家督を継いだ鍋寿丸。
彼は氏貞と改名し、菊姫らの菩提を弔うため、山田の局のふるさと宗像市山田の増福禅院に、六地蔵尊を本尊として奉納することを決めます。
しかし、それが叶ったのは彼の死後のこと。
氏貞、享年45歳。
事件の際はうら若い年であり、この陰謀に直接加担はしていません。
彼もまた、戦国の世の荒波に弄ばれた側でもあったと言えるでしょう。
彼は妻との間に一子をもうけましたが、その子塩寿丸は夭逝しています。
それにより、宗像氏の嫡流は絶え、宗像大社の大宮司職もまた宗像氏の手を離れていきました。
これが、山田事件の最終的な帰結。
山田の局は、見事に本懐を遂げたと言えるでしょうか。
解説のあと、いよいよご本尊の六地蔵のご開帳。
目の前まで行って拝見することができます!
ご本尊はもちろん撮影禁止。
ちょうど赤ちゃんサイズの六地蔵尊は、今は子どものの守護物として慕われているのです。 -
増福禅院で頂いた資料です。
増福禅院の天井絵修復の際に撮られた天井絵のカラーコピーまで頂きました。
惜しげもなく公開してくださるその姿勢!
ぜひ全国の方に訪れて頂きたいお寺です。 -
縁起ものですよ!とぜひお持ち帰りください!と言って頂き、紅白饅頭まで頂いてしまいました。
焼き印は、宗像氏の家紋、椎の葉です。
境内にある菊姫廟にも参拝したかったのですが、ご開帳が終わるともう真っ暗闇。
本堂脇の暗がりのなか、階段を上がっていくのも気が引けたので、翌日に繰り越すことにしました。
帰りはタクシーでホテルまで帰ります。真っ暗です。 -
翌朝、こんどは赤間駅から徒歩で増福禅院へ。
歩いて40分ほどの道のりです。
駅周辺の新興住宅地を通り抜け、田んぼと山しかない地域へ。
春季大祭であるものの、歩く人の姿はやはりありません。 -
まず、子安地蔵尊へ。
『祭田記』の中では、実際に多く人を呪い殺しているおは山田の局です。
母の、子への愛情の深さのあまり引き起こしたこの恐ろしい事件。
しかし昨日ご住職は語っておられました。
恐ろしい祟りをなした怨霊だったものの、いまは学業の神様としてご利益のある道真公のように、山田の局もまた、ひとたび仏として祀られれば、その力は強い霊験となって現れるのです、と。
地蔵菩薩は、もともと子供を守護する仏様ですから、山田の局が地蔵尊として祀られるのは自然なことでしょう。 -
今日は、春季際のお手伝いをされていた檀家さんから勧められ、宝物殿へ。
昨日と今日は春季大祭でもあり、宝物殿も開放しているのだそう。
中に入ると、ガイドさんがいらっしゃり、増福院の由来を説明してくださいます。
そしてなんと、宝物殿の中は写真撮影可!
色んな方に知ってもらうべく、撮影させて頂きます! -
これが、貝原益軒が著した『増福院祭田記』。
いわゆる菊姫怨霊伝説を書いた資料です。作は益軒、書写したのは奥さん。
ガイドさんによれば、六地蔵尊が奉納されて百年ほど経ったころ、増福禅院は廃れてお寺の由来がわからなくなってしまった時期があったそう。
そこで、福岡藩出身であった貝原益軒に当時の檀家さんが依頼し、益軒が古文書などを調査して書いたのがこの『増福院祭田記』。
これをもとに江戸時代に絵巻物も作られています。
そして、この資料はもうひとつの歴史の証人でもあります。
宗像大社の後継争いの犠牲者を弔う増福禅院だが、明治維新後の廃仏毀釈の際に神道派の人間に襲われ、六地蔵尊が奪われる事件が起きました。
このあたりの神社といえば、そう、宗像大社。
地元の大神宮と、そこに由来をもつ神宮寺、増福院との数奇な運命がここでも交差するのです。
やがて所在はわかったものの、その帰属を争う裁判が行われます。
その時、六地蔵が増福院に所属する証拠としてこの『祭田記』が提出されたというのです。
そのため、右側に裁判の証拠としての印が押され、裁判長の名前も記されています。
各地の戸籍を管理するインフラとして幕府に保護されていた仏教寺院。
それが、明治政府になり国家神道を推し進める政策が取られたことによって、仏教の優遇に不満を抱いていた神職や信者、反動となって噴出したのが廃仏毀釈です。
それは政府の思惑を超えて民衆が放棄する暴動にまで発展し、多くの寺が暴徒化した農民たちに襲われました。
地域によってその規模は違いますが、九州、特に鹿児島では顕著だったといいます。現在でも鹿児島にはほとんどお寺が存在しないとか。
その廃仏毀釈の一端が、この宗像の地でも地元を分断するような騒動に発展していたのです。 -
こちらが、『祭田記』をもとに江戸時代につくられた絵巻物。
これは下手人の元家臣を、殺された侍女四人が責め殺している場面。
菊姫母子の姿も背後に見えます。
裁判の末、無事に六地蔵尊は増福禅院に戻ります。
もう二度と、そんなことが起きませんように。 -
さて、この旅の終点が近づいてきました。
最後にお参りするのは、菊姫廟。
菊姫廟は、本堂の脇の關段を上がった先にあります。
昨夜は幹線な暗がりに沈んでいた關段の上も、今朝はまぶしい緑に輝いています。 -
階段を昇りきり、菊姫廟へお参りします。
六つある石塔は、いくつか倒れたままになっています。
もしかしたら、廃仏毀釈の時の爪痕なのかもしれません。
宗教と政治とは古来から密接に結びついており、それは明治になってからも力を及ぼし、菊姫たちの運命を弄びました。
その影響の大きさはいつでも、弱い者に向けられてしまうのです。
この先はどうかそのようなことが起こりませんように。
どうぞ安らかに、すべての母と子をお守りください。
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