2023/05/04 - 2023/05/04
66位(同エリア93件中)
gianiさん
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地味な都市代表格の安芸、実は情緒ある街並みと歴史の詰まった町でした。
- 旅行の満足度
- 5.0
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伊尾木駅を出ると、伊尾木川を渡ります。
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立て続けに安芸川を渡り、安芸駅に到着します。
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国道55線沿いに観光案内所があります。
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なぜ立ち寄ったかというと、無料のレンタサイクルがあるから。
しかも電動アシスト自転車もラインナップ。
安芸市、太っ腹です。安芸観光情報センター ~彌太郎こころざし社中~ 名所・史跡
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まずは、街の中心となる安芸城へ。
地域支配者安芸氏の本拠地です。本物のお城は、横の丘の上にありました。
※故あき竹城さんは、山形県出身です。 -
現在は、お城は残っていません。
安芸氏は、壬申の乱(672年)で敗れ、土佐へ流された蘇我赤兄の子孫だと称しています。「古城伝承記」によれば、壇ノ浦合戦で平教経と対決して水没した安喜太郎の子孫ともされます。安芸城跡 名所・史跡
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安芸城は、1308年に安芸氏親によって築かれます。東西100m南北190mの大きさです。
安芸氏は15世紀に勢力を拡大し、戦国時代に土佐七雄の一角を占めます。丘の上に安芸城を本拠地にして、土佐東部を支配しました。 -
詰め
いわゆる本丸のことで、詰めへ通じる道は2つだけです。標高は41mです。 -
町を眺めると、こんな感じです。
安芸氏は1569年に八流の戦いに敗れ、土佐七雄は長宗我部氏だけが残ります。 -
二の段から詰めへ通じる道。詰めの入り口は、虎口と呼ばれました。
土佐七雄とは別格の一条家を長宗我部元親が1575年に手中に収め、土佐は統一されます。 -
二の段
南向きです。
関ケ原の戦いで西軍に組した長宗我部家は改易され、山内一豊が入府。安芸は、家臣の五藤為重が入ります。 -
三の段
かなり低いところにあります。
1615年の一国一城令で、安芸城は破棄されました。 -
城跡の麓にある資料館で、歴史を学びます。
安芸市立歴史民俗資料館 美術館・博物館
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弥生時代の青銅器文化を見ると、関西文化の銅鐸と九州文化の銅矛双方が出土し、盛んな交流があったことをうかがわせます。
その後は停滞し、律令制では4郡を持つ土佐国の安芸郡になりますが、荘園開発も遅れを取ります。 -
中世
平安時代まで停滞していましたが、中世に安芸郡や土佐国の荘園開発が促進されます。川沿いに開発され、現在の安芸市では、伊尾木川沿いの有田荘と安芸川沿いの安芸荘が分布します。 -
安芸氏
安芸郡の有力氏族で、地名を苗字にします。律令下では安芸郡司、荘園下では荘官、鎌倉幕府の地頭、室町時代は土佐国守護細川氏の配下となり、戦国時代以降は安芸郡を束ねる土佐七雄の一角になります。
土地の支配システムの変化に対応して、常に地域のトップに立ちます。 -
土佐七雄
応仁の乱で、守護細川氏の力が弱まると、群雄割拠の時代になり、7つの豪族が台頭します。それとは別に土佐西部は、公家No.2一条家の傍系が格式を基盤に鎮座し、七雄は一条氏との関係を一助に徐々に整理されます。安芸国虎の時代に、安芸氏は長宗我部元親に滅ぼされ、元親は一条氏も滅ぼして、土佐を統一します。豊臣政権下も含めて、30年ほど安芸郡を支配します。
写真は、国虎が家臣に宛てた知行宛行状(土地権利証書)や感謝状。 -
江戸時代=五藤氏の支配
土佐藩主山内一豊は、土佐武士の厳しい反抗に直面し、領内6か所に一族及び重臣の領地を配置し、地域支配の浸透を図ります。土佐東部は、安芸を拠点に家老の五藤為重を配置します。
城跡には藤崎神社があり、江戸時代を通して安芸を支配した五藤氏を祀っています。 -
五藤氏
山内一豊は、秀吉の家臣として朝倉氏征伐に同行します。金ヶ崎の戦いで、左眼尻から右奥歯に掛けて矢が刺さり、ピンチ到来。その際、家臣の五藤吉兵衛為浄は、一豊の顔を草鞋で踏んで矢を抜き、一豊は一命をとりとめます。
一豊は、遠征の軍功で秀吉から400石を賜り、台頭のきっかけとなります。為浄は後に戦死しますが、家督を継いだ弟の為重は軍功を重ね、一豊の重臣となります。 -
一豊の土佐入府に伴い、安芸に1100石を与えられ、土佐東部の防備を任されます。
写真は、代々家宝として継承した、一豊の顔に刺さった矢の鏃。
※主君の顔を踏みつけた草鞋は、藤崎神社の御神体となっています。 -
一国一城令
豊臣氏を滅ぼして天下泰平へ世相が移行した1615年に、幕府は一国一城令を出し、日本中の城(=軍事要塞)が破棄されました。土佐国も高知城一択。それ以外は破棄され、安芸城もお役御免になります。 -
土居廊中
土佐藩の地域拠点は、屋敷の周りを濠や武家屋敷で囲んで、有事は砦とも成り得る街づくりをしました。土佐では、城に代わるものを土居(共通語では陣屋などに該当)、町全体の防衛システムを土居廊中(城下町)と呼びます。
右図のように、城時代は北と東面を安芸川が守りましたが、土居廊中では西側にも安芸川を分流させ、南面は濠で繋いでいます。 -
土居(五藤家安芸屋敷)
町の中心となる建物。五藤家の屋敷には、馬屋や米蔵などが並びました。現在の建物は、明治時代に建てられたものです。 -
庭園
五藤家はと土居付家老職なので、高知のお城勤めです。安芸には不在で、家臣たちに任せていました。 -
庭の先は、土居を囲む濠。
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正面の入り口には櫓門があり、枡形でクランク状の通路。お城並みの防衛システムです。
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濠の幅は大きすぎると幕府お咎めの口実になるので、控えめです。
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土居廊中
五藤家の屋敷は、家臣団の屋敷によって守られました。山内家からすれば陪臣(家臣の家臣)に相当します。1697年を例に取ると、家老の重臣4名が与力として、それに次ぐ家臣が騎馬10名、その下の御小姓32名によって守られました。知行1100石を割いて、家臣たちへの知行を分けます。 -
土居の南側は街道に面し、防衛の最前線。
4名の与力の屋敷を配置しています。1748年の記録では、知行は100石です。本田は100石で、残り300石は新田(江戸時代に新たに開墾して誕生した田畑)。
竹の生垣も、安芸らしさを醸し出します。 -
旧小牧六衛門宅
騎馬の筆頭で、知行は100石。
現在の建物も、奥行き5mほどの長屋門的なものがあります。 -
長い壁は、漆喰や石壁。
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北西角には蔵もあり、100石取の屋敷のスケールを体感できます。
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続いては、一般公開されている野村家屋敷。
騎馬職で、50石取3家のうちの一つです。
天下泰平の世では、財政や人事を担当し、後に与力に出世しました。 -
敷地は300坪で、敷地の多くを占める菜園、味噌醤油蔵(自家醸造)、機織り部屋などもあり、自給自足テイストが大きめな土居廊中です。
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門を潜って、屋敷内へ。
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門を潜ったのに、左側の通路にはもう一つ門が。
塀重門という防衛構造です。 -
正面は玄関。家格の割に小ぶりです。僅か3畳のスペースなのは、立ち回りを困難にして、招かざる侵入者の動きを封じるためです。
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右側は頑丈な壁でガード。二重壁です。庭に通じる通路も門が立ちはだかります。塀重門です。
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3畳の玄関の奥は、4畳の次の間。やはり狭いです。長槍が掛けてあり、臨戦態勢です。
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居間3
玄関の右側に面した部屋で、武者隠しを兼ね、玄関を通る訪問者の素性を家来が見極めます。
幕末の建築ですが、防衛テイスト全開です。 -
玄関左は、居間に続いて茶の間が。畳ではなく板張りです。
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台所。
戦後にリノベしています。 -
その奥は、壁沿いに手前から物置、米蔵、薪置き場、味噌部屋、機屋が並んでいました。真ん中には、井戸の跡が残っています。
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表の間
屋敷に一番奥に位置し、庭にも面して日差しも入り、快適な環境。
というわけで、居間として使用しました。 -
書院造
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郊外には、面白い景観が。機械マニアの当主が、人々の役にも立つように、目立つ大時計を自作。
野良時計 名所・史跡
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味のある風景です。
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こちらは、町人農民クラスの土地です。
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土居廊中は武家屋敷オンリーだったので、武家町でした。
明治に身分制度がなくなっても、旧農工商身分だった人たちが廊中に入る際は、鉢巻や頬かむりを外したそうです。土佐の保守性を物語るエピソードです。 -
レンタサイクルで移動します。
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五藤氏の統治
知行地は散在し、しかも土地も狭く、支配力と財政面で軟弱でした。ということで、新田開発に励み、川沿いの山林開発も併行して、林業や炭焼業を起こします。河口には港を整備し、炭や薪を大坂へ供給し、藩の財政に貢献しました。大坂で流通する薪の6割を安芸郡が供給しました。それに伴い、廻船業も栄え、豪商が現れました。
写真は、薪を運んだ伊尾木の500石船の模型(19世紀)。
五藤家は1670年以降は家老職、18世紀には安芸郡の奉行も兼ねます。 -
安芸出身の有名人といえば、岩崎弥太郎。
岩崎弥太郎銅像 名所・史跡
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岩崎弥太郎(1835-85)は、中級クラスの農民の家に生まれました。
岩崎家は下級武士(郷士)でしたが、曽祖父が株を売って農民になりました。岩崎彌太郎生家 名所・史跡
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蔵には、三菱のマークが入っています。
建物の内部撮影は、三菱グループによって禁止されています。
いわゆる聖地/御神体というやつです。 -
庭石は、日本列島を模し、若き日の彌太郎の大志を体現しています。
日本列島は、我が庭の内にあり。と言ったとか。 -
安芸は、作曲家弘田龍太郎の出身地。
童謡「春よ来い」などが有名です。 -
以下は、彌太郎こころざし社中の展示。
母親は医者の娘ということもあり、叔母の嫁ぎ先が有名儒学者という伝手を利用して勉学に励み、19歳の時に武士の付き人として江戸遊学を果たします。 -
20歳の時に父が酒の上での喧嘩で投獄。父を救うために帰郷するも、本人も喧嘩腰で投獄。牢屋で一緒だった商人から、算術等の商いを学びます。
21歳で釈放されるも村を追放され、高知で謹慎していた吉田東洋の鶴田塾に入門。門下生の後藤象二郎の知遇を得ます。東洋の政界復帰に伴い、藩命を受けて24歳の時に藩士として長崎に赴任し、多くの西洋人と繋がりを持ちます。 -
長崎勤務を終えた彌太郎は郷士身分を買い戻し、土佐藩営の長崎商会に赴任します。グラバーから武器/弾薬/汽船などを買い付け、薩長同盟をバックアップします。脱藩した龍馬の海援隊と協働します(1867)。
海援隊の清算業務に携わった後、大阪商会転勤を経て、1871年に藩営を引き継いだ九十九商会の経営を任され、73年には三菱商会に改称します。 -
台湾出兵や西南戦争などの輸送を担い、政府の信頼を得て勢いは増します。海運の輸送力の73%を保有していました。海運に付属して、金融/保険/倉庫業などにも手を伸ばします。吉岡銅山、高島炭鉱なども買い取ります。1885年に50歳で死去。
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岩崎弥之助(1885-93)
彌太郎の弟で、2代目社長に就任します。造船事業も始めます。そして、買い手の付かなかった丸の内一体の土地(旧大名屋敷跡地)を政府入札をはるかに超える価格で落札し、政府に恩を売ります。社長退任後は、日銀総裁も務めます。 -
岩崎久弥(1893-1915)
彌太郎の長男で、第3代社長。造船所を拡張し、第1次世界大戦の海運特需に乗る基盤を作ります。アメリカで経営学を学び、権力の社長集中から各部門へ分権化し、「組織の三菱」を作り上げます。
社会貢献も熱心で、小岩井農場での農業試験、清澄庭園や六義園を東京市に寄付しています。 -
岩崎小弥太(1916-45)
弥之助の長男で、4代目社長。各部門の分社化を進め、商社部門も分社化します。これで、商事/銀行/重工の御三家が出そろいます。
学校や楽団の創立、文化財の散逸を防ぐべく収集します。GHQの財閥解体に伴って、退任。 -
駅前には、安芸の特産品がてんこ盛りのお店が。おすすめです。
安芸駅ぢばさん市場 市場・商店街
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安芸には、変わり種のアイスのお店があります。
筆頭は焼きナスです。
でも、個人的なナンバーワンは、柚子シャーベットでした。
メジャーなフレーバーは、じばさん市場でも買えます。安芸グループふぁーむ 安芸本店 グルメ・レストラン
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安芸駅のキャラクター
あきうたこさん。
次の旅行記↓
https://4travel.jp/travelogue/11833019
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