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2021年11月3日(水・文化の日)、2時からのサンガスタジアムでのJ2リーグ、サンガ対大宮アルティージャ戦の前に、7月になでしこジャパンの東京オリンピック前のオーストラリアとのテストマッチの前に行こうとしたが、拝観時間を過ぎていて行けなかった亀山城址に出掛けた。<br /><br />亀山城は、丹波亀山城や亀岡城とも呼ばれる明智光秀が丹波統治の拠点として整備した城郭。その後、江戸時代初頭に近世城郭として整備された。大正時代に新宗教「大本」が購入し神殿を築いたが、大本事件で政府により爆破・破却された。戦後再建され、大本の本部が置かれ、現在も大本の私有地。<br /><br />三重県の亀山にも亀山城(伊勢亀山城)があるため、区別するために丹波亀山城と呼ばれることが多く、また明治維新後に街の名前が亀山から亀岡に改称させられたことから亀岡城とも呼ばれる。改称の経緯に付いては7月の旅行記参照のこと。<br />https://4travel.jp/travelogue/11748728<br /><br />織田信長の命を受けて丹波攻略に従事中であった明智光秀が、口丹波にある亀岡盆地の中心であった亀山に1578年に築城した。1582年の本能寺の変の後は、秀吉の重要拠点として一門の羽柴秀勝(信長の四男)、豊臣秀勝(秀吉の甥で江の夫)、豊臣秀俊(寝返りで有名な小早川秀秋)や豊臣政権で五奉行の一人となった前田玄以などが入った。<br /><br />江戸時代に入ると1609年に譜代大名である岡部長盛が入封、丹波亀山藩主となる。1610年には藤堂高虎が縄張りを勤めた大修築が完成し、本丸に5重の層塔型天守が上がった。1748年以降は、形原松平氏が居城し、1869年(明治2年)に亀岡藩へ改称、1871年に亀岡県が置県され、廃藩となった。<br /><br />1877年(明治10年)に政府が廃城処分を決定し、市町村に払い下げされ転売されていくが、1919年(大正8年)に亀岡出身の新宗教「大本(おほもと)」の指導者出口王仁三郎(おにさぶろう)が管理されず荒廃していた本城を購入し、従来の根拠地の綾部に並ぶ拠点にすべく整備していった。<br /><br />政府は拡大を続ける大本に警戒を強め、1935年(昭和10年)に第二次大本事件で徹底的な弾圧を加え、拘束していた王仁三郎から所有権を格安値で亀岡町に譲渡させる。裁判結審前にもかかわらず大本施設の破却が進められ、1936年に神殿は1500発のダイナマイトで爆破され、象徴的な石は再利用できぬよう日本海に捨てられた。戦後、城の所有権は再び大本に戻り、そのまま大本の聖地として現在に至っている。<br /><br />大本は、出口なおとその娘婿出口王仁三郎が1892年(明治25年)に興した神道系新宗教。大本教と呼ばれる事が多いが、正式名称には「教」がつかない。1898年(明治31年)に教団組織となり、知識人や日露戦争で活躍した秋山真之などの海軍士官を含め急激に信徒を拡大していく。これが当局の警戒を招き、1921年(大正10年)に王仁三郎らが不敬罪などで逮捕される(第一次大本事件)。<br /><br />1927年(昭和2年)に大赦された王仁三郎らは布教活動を再開、軍人や民間右翼団体と連携して活発な政治的活動を展開、政治・軍事への影響力を示していく。政府は戦前の国の基本である国家神道に背くものとして1935年に再び王仁三郎らを投獄する(第二次大本事件)。最終的に987人が検挙され、318人が検事局送致、61人が起訴され、特別高等警察の激しい拷問でうち16人が殺されている。なお、裁判では控訴審で不敬罪以外は全員無罪となり、戦後に控訴棄却され原審確定した。さらに不敬罪は解消された。<br /><br />開祖出口なおが神憑り現象を起こした綾部に発祥の地として梅松苑を置くほか、ここ亀山城趾に天恩郷を置き、東京台東区の東光苑と共に本拠地としている。<br /><br />お昼前の11時40分、亀岡駅から南に真っ直ぐクニッテルフェルト通りを進み、突き当たった旧内堀の南郷公園から東に迂回して春日坂と呼ばれる東側の通りから正門を入る。7月に来た時はここで、受付が3時半までって分かってがっかりしたとこ。<br /><br />正門を入って西に進み、左手の広場の向かいの大本みろく会館の1階で300円の拝観券を購入。以前は無料だったが、2020年2月より有料となった。一緒に桔梗紋の入ったシールを渡され、「衣服の上、見える所に貼って下さい。」とのこと。2階のギャラリーおほもとをまず覗く。大本歴代教主・教主補の芸術作品の他、亀山城築城から現在までの歴史の展示などが行われている(下の写真1)。<br /><br />渡されたパンフレットの案内図に従ってみろく会館から北に向かって進む。左手、階段の上にあるのは神教殿で、5日間に渡って行われる大道場修行の会場。大本の歴史、神観、宇宙観、霊界観、人生観などを学ぶそうだ(下の写真2)。<br /><br />先に進むと左手に万祥(ばんしょう)池は内堀跡。池のや正面に続く通りの両サイドに石垣が復元されているが、石の中には天下普請の刻印が付いたものもある。天下普請は幕府が全国の諸大名に行わせた土木工事で、各大名が自家の石材や持ち場を間違わないように、石に刻み付けたもの。<br /><br />通路から一段上って万祥橋の手前の手水舎の反対側は二の丸の土塁だったところのようだが、ここの桜が咲いている(下の写真3)。苑内の案内図によると木の花桜となっていて、1953年にこの城跡内の植物園で発見されたヤマザクラの新変種らしいが、秋に咲くと云う話は見つからなかった。周りに特に説明もないのでそれ以上は分からない。<br /><br />万祥橋を渡って1958年に建立された天恩郷の至聖所・月宮宝座を拝する礼拝殿である万祥殿の南側、万祥池の横を奥に進み、2つの門を抜けるといよいよ本丸跡(下の写真4)。2つ目の門を出てすぐに右折すると天守石垣の南東角になるが、この石垣も弾圧によってほぼ破壊されたが、下から三分の一には築城当時の穴太積みが残っている。その上は戦後に信者の方が自らの手で修復されたそうで、いろいろあるが、恐るべし、信仰心。<br /><br />天守石垣を奥に進むと、右手に天守台へ上がる道があるが、天守台は現在は大本の聖地になっており、入ることは出来ない。明治初めまで建っていた天守閣は層塔型5重5階の大天守と2重の小天守が複合した複合式天守で、城自体も丹波の他の城と異なり総構えが掘られており、一国の拠点となる城として相応しい威容を誇っていたと云え、破棄されたのは残念。<br /><br />大本購入後は月の大神を主祭神とする総石造りの月宮殿が1928年に建てられたが、弾圧で破壊された。戦後の1949年に宝座だけの月宮宝座が築造されたが、1992年から禁足地になっている。また、天守台の奥も昔は行けたようだが、今は立入禁止。<br /><br />天守石垣の南東角からも天守台に上がる階段が続くが進入禁止になっている。この上は銀杏台と呼ばれるところで、光秀の手植えと伝えられた大イチョウが植えられていたところで、現在も江戸時代中期に植え替えられた2代目が残る。ここは有料化されてしばらくは登れたそうだが、銀杏の木の保護のため立入禁止になったそうだ。<br /><br />銀杏台の下には、大本関係の碑が3基。1953年建碑の教学碑に神人一致の碑、そして大本四大主義碑(下の写真5)。<br /><br />最後、天守台の北側、南郷池との間に広がる大本花明山植物園へ。三代教主の「神苑を天国のひな形としたい」という発意により、1951年に開園し、植物を学ぶ場、憩いの場として一般に公開されている。約5,500㎡の敷地を有しており、起伏に富み、林や湧水もあって植物の栽培に適しており、日本の野生植物を中心に約1,000種が栽培されている。<br /><br />南郷池に面した奥の中の島には火薬庫が置かれていたそうだが、現在では春にコノハナザクラの原木が可憐な花を見せてくれるそうだ。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.8231679500235335&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br /><br />以上

京都 亀岡 亀山城址(Kameyama Castel Ruins,Kameoka,Kyoto,Japan)

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2021/11/03 - 2021/11/03

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ちふゆ

ちふゆさん

2021年11月3日(水・文化の日)、2時からのサンガスタジアムでのJ2リーグ、サンガ対大宮アルティージャ戦の前に、7月になでしこジャパンの東京オリンピック前のオーストラリアとのテストマッチの前に行こうとしたが、拝観時間を過ぎていて行けなかった亀山城址に出掛けた。

亀山城は、丹波亀山城や亀岡城とも呼ばれる明智光秀が丹波統治の拠点として整備した城郭。その後、江戸時代初頭に近世城郭として整備された。大正時代に新宗教「大本」が購入し神殿を築いたが、大本事件で政府により爆破・破却された。戦後再建され、大本の本部が置かれ、現在も大本の私有地。

三重県の亀山にも亀山城(伊勢亀山城)があるため、区別するために丹波亀山城と呼ばれることが多く、また明治維新後に街の名前が亀山から亀岡に改称させられたことから亀岡城とも呼ばれる。改称の経緯に付いては7月の旅行記参照のこと。
https://4travel.jp/travelogue/11748728

織田信長の命を受けて丹波攻略に従事中であった明智光秀が、口丹波にある亀岡盆地の中心であった亀山に1578年に築城した。1582年の本能寺の変の後は、秀吉の重要拠点として一門の羽柴秀勝(信長の四男)、豊臣秀勝(秀吉の甥で江の夫)、豊臣秀俊(寝返りで有名な小早川秀秋)や豊臣政権で五奉行の一人となった前田玄以などが入った。

江戸時代に入ると1609年に譜代大名である岡部長盛が入封、丹波亀山藩主となる。1610年には藤堂高虎が縄張りを勤めた大修築が完成し、本丸に5重の層塔型天守が上がった。1748年以降は、形原松平氏が居城し、1869年(明治2年)に亀岡藩へ改称、1871年に亀岡県が置県され、廃藩となった。

1877年(明治10年)に政府が廃城処分を決定し、市町村に払い下げされ転売されていくが、1919年(大正8年)に亀岡出身の新宗教「大本(おほもと)」の指導者出口王仁三郎(おにさぶろう)が管理されず荒廃していた本城を購入し、従来の根拠地の綾部に並ぶ拠点にすべく整備していった。

政府は拡大を続ける大本に警戒を強め、1935年(昭和10年)に第二次大本事件で徹底的な弾圧を加え、拘束していた王仁三郎から所有権を格安値で亀岡町に譲渡させる。裁判結審前にもかかわらず大本施設の破却が進められ、1936年に神殿は1500発のダイナマイトで爆破され、象徴的な石は再利用できぬよう日本海に捨てられた。戦後、城の所有権は再び大本に戻り、そのまま大本の聖地として現在に至っている。

大本は、出口なおとその娘婿出口王仁三郎が1892年(明治25年)に興した神道系新宗教。大本教と呼ばれる事が多いが、正式名称には「教」がつかない。1898年(明治31年)に教団組織となり、知識人や日露戦争で活躍した秋山真之などの海軍士官を含め急激に信徒を拡大していく。これが当局の警戒を招き、1921年(大正10年)に王仁三郎らが不敬罪などで逮捕される(第一次大本事件)。

1927年(昭和2年)に大赦された王仁三郎らは布教活動を再開、軍人や民間右翼団体と連携して活発な政治的活動を展開、政治・軍事への影響力を示していく。政府は戦前の国の基本である国家神道に背くものとして1935年に再び王仁三郎らを投獄する(第二次大本事件)。最終的に987人が検挙され、318人が検事局送致、61人が起訴され、特別高等警察の激しい拷問でうち16人が殺されている。なお、裁判では控訴審で不敬罪以外は全員無罪となり、戦後に控訴棄却され原審確定した。さらに不敬罪は解消された。

開祖出口なおが神憑り現象を起こした綾部に発祥の地として梅松苑を置くほか、ここ亀山城趾に天恩郷を置き、東京台東区の東光苑と共に本拠地としている。

お昼前の11時40分、亀岡駅から南に真っ直ぐクニッテルフェルト通りを進み、突き当たった旧内堀の南郷公園から東に迂回して春日坂と呼ばれる東側の通りから正門を入る。7月に来た時はここで、受付が3時半までって分かってがっかりしたとこ。

正門を入って西に進み、左手の広場の向かいの大本みろく会館の1階で300円の拝観券を購入。以前は無料だったが、2020年2月より有料となった。一緒に桔梗紋の入ったシールを渡され、「衣服の上、見える所に貼って下さい。」とのこと。2階のギャラリーおほもとをまず覗く。大本歴代教主・教主補の芸術作品の他、亀山城築城から現在までの歴史の展示などが行われている(下の写真1)。

渡されたパンフレットの案内図に従ってみろく会館から北に向かって進む。左手、階段の上にあるのは神教殿で、5日間に渡って行われる大道場修行の会場。大本の歴史、神観、宇宙観、霊界観、人生観などを学ぶそうだ(下の写真2)。

先に進むと左手に万祥(ばんしょう)池は内堀跡。池のや正面に続く通りの両サイドに石垣が復元されているが、石の中には天下普請の刻印が付いたものもある。天下普請は幕府が全国の諸大名に行わせた土木工事で、各大名が自家の石材や持ち場を間違わないように、石に刻み付けたもの。

通路から一段上って万祥橋の手前の手水舎の反対側は二の丸の土塁だったところのようだが、ここの桜が咲いている(下の写真3)。苑内の案内図によると木の花桜となっていて、1953年にこの城跡内の植物園で発見されたヤマザクラの新変種らしいが、秋に咲くと云う話は見つからなかった。周りに特に説明もないのでそれ以上は分からない。

万祥橋を渡って1958年に建立された天恩郷の至聖所・月宮宝座を拝する礼拝殿である万祥殿の南側、万祥池の横を奥に進み、2つの門を抜けるといよいよ本丸跡(下の写真4)。2つ目の門を出てすぐに右折すると天守石垣の南東角になるが、この石垣も弾圧によってほぼ破壊されたが、下から三分の一には築城当時の穴太積みが残っている。その上は戦後に信者の方が自らの手で修復されたそうで、いろいろあるが、恐るべし、信仰心。

天守石垣を奥に進むと、右手に天守台へ上がる道があるが、天守台は現在は大本の聖地になっており、入ることは出来ない。明治初めまで建っていた天守閣は層塔型5重5階の大天守と2重の小天守が複合した複合式天守で、城自体も丹波の他の城と異なり総構えが掘られており、一国の拠点となる城として相応しい威容を誇っていたと云え、破棄されたのは残念。

大本購入後は月の大神を主祭神とする総石造りの月宮殿が1928年に建てられたが、弾圧で破壊された。戦後の1949年に宝座だけの月宮宝座が築造されたが、1992年から禁足地になっている。また、天守台の奥も昔は行けたようだが、今は立入禁止。

天守石垣の南東角からも天守台に上がる階段が続くが進入禁止になっている。この上は銀杏台と呼ばれるところで、光秀の手植えと伝えられた大イチョウが植えられていたところで、現在も江戸時代中期に植え替えられた2代目が残る。ここは有料化されてしばらくは登れたそうだが、銀杏の木の保護のため立入禁止になったそうだ。

銀杏台の下には、大本関係の碑が3基。1953年建碑の教学碑に神人一致の碑、そして大本四大主義碑(下の写真5)。

最後、天守台の北側、南郷池との間に広がる大本花明山植物園へ。三代教主の「神苑を天国のひな形としたい」という発意により、1951年に開園し、植物を学ぶ場、憩いの場として一般に公開されている。約5,500㎡の敷地を有しており、起伏に富み、林や湧水もあって植物の栽培に適しており、日本の野生植物を中心に約1,000種が栽培されている。

南郷池に面した奥の中の島には火薬庫が置かれていたそうだが、現在では春にコノハナザクラの原木が可憐な花を見せてくれるそうだ。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.8231679500235335&type=1&l=223fe1adec


以上

  • 写真1 ギャラリーおほもと

    写真1 ギャラリーおほもと

  • 写真2 神教殿

    写真2 神教殿

  • 写真3 二の丸土塁跡の桜

    写真3 二の丸土塁跡の桜

  • 写真4 万祥殿奥の2つの門

    写真4 万祥殿奥の2つの門

  • 写真5 銀杏台下の大本の碑

    写真5 銀杏台下の大本の碑

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