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4回目です。<br />前回両国駅に着いたところで力尽きましたので、今回はそこからのスタートです。<br />橋巡りを始めてから1か月余り。季節も進んでいます。少し厚着をしてきましたが、橋の上は風が冷たかった。<br /><br />写真は清洲橋。

隅田川橋巡り 岩淵水門から河口の築地大橋まで、その4:両国橋から永代橋。

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2021/11/28 - 2021/11/28

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ベーム

ベームさん

4回目です。
前回両国駅に着いたところで力尽きましたので、今回はそこからのスタートです。
橋巡りを始めてから1か月余り。季節も進んでいます。少し厚着をしてきましたが、橋の上は風が冷たかった。

写真は清洲橋。

  • 岩淵水門をスタートしたのは1か月も前でした。足の故障で捗らず、4回目でようやく永代橋です。<br />赤いところは隅田川テラスが整備されているところ。

    岩淵水門をスタートしたのは1か月も前でした。足の故障で捗らず、4回目でようやく永代橋です。
    赤いところは隅田川テラスが整備されているところ。

  • 両国橋から永代橋まで回れました。

    両国橋から永代橋まで回れました。

  • 横浜から東海道線で新橋、山手線で秋葉原、総武線で両国。<br />スタートは9時。

    横浜から東海道線で新橋、山手線で秋葉原、総武線で両国。
    スタートは9時。

  • 日曜日の朝、駅前はまだ閑散としています。

    日曜日の朝、駅前はまだ閑散としています。

  • 駅前のビルの前に立っています。<br />この辺りの隅田川の左岸には水勢を弱めるための杭が多数打ち込まれていました。<br />芥川龍之介は散歩の途中、杭に引っかかってふわりふわり浮いている土左衛門を見たことがあるそうです。

    駅前のビルの前に立っています。
    この辺りの隅田川の左岸には水勢を弱めるための杭が多数打ち込まれていました。
    芥川龍之介は散歩の途中、杭に引っかかってふわりふわり浮いている土左衛門を見たことがあるそうです。

  • 両国駅の南口側。

    両国駅の南口側。

  • この辺りに斎藤緑雨が住んでいました。<br />1867~1904年。文筆家、ジャーナリスト。本領は評論にあり、権力におもねらない反骨精神で書いた新聞紙上での鋭い評論は政官財界人のみならず同業の文筆家にも恐れられた。<br />金権を皮肉った言葉に「按ずるに筆は一本也、箸は二本なり、衆寡敵せずと知るべし」。<br /><br />

    この辺りに斎藤緑雨が住んでいました。
    1867~1904年。文筆家、ジャーナリスト。本領は評論にあり、権力におもねらない反骨精神で書いた新聞紙上での鋭い評論は政官財界人のみならず同業の文筆家にも恐れられた。
    金権を皮肉った言葉に「按ずるに筆は一本也、箸は二本なり、衆寡敵せずと知るべし」。

  • 少し南下すると回向院があります。<br />明暦3年(1657年)の大火、振袖火事で発生した10万人の死者を供養するため建立されました。その後安政2年の大地震とか江戸の火災などで犠牲となった無縁仏を宗派を問わず弔うようになる。山号も諸宗山です。諸宗山回向院。

    少し南下すると回向院があります。
    明暦3年(1657年)の大火、振袖火事で発生した10万人の死者を供養するため建立されました。その後安政2年の大地震とか江戸の火災などで犠牲となった無縁仏を宗派を問わず弔うようになる。山号も諸宗山です。諸宗山回向院。

  • 天保4年から明治42年まで76年間ここで勧進相撲、回向院相撲が行われていました。

    天保4年から明治42年まで76年間ここで勧進相撲、回向院相撲が行われていました。

  • 参道。

    参道。

  • 力士や年寄りの物故者の供養塚。昭和11年。

    力士や年寄りの物故者の供養塚。昭和11年。

  • 山東京伝墓。本名岩瀬醒。1761~1816年。戯作者、浮世絵師。<br />いわゆる黄表紙、読本で滝沢馬琴と並ぶ庶民の大人気を博した江戸中期の作者。<br />

    山東京伝墓。本名岩瀬醒。1761~1816年。戯作者、浮世絵師。
    いわゆる黄表紙、読本で滝沢馬琴と並ぶ庶民の大人気を博した江戸中期の作者。

  • 加藤千蔭の墓。1735~1808年。国学者、歌人、書家。<br />国学を賀茂真淵に学ぶ。書の千蔭流の始祖。樋口一葉は師中島歌子を通じて千蔭の字を習いました。一葉の流麗な仮名文字がそれです。<br />墓石の字は千蔭が生前自分で書いたものだそうです。<br />

    加藤千蔭の墓。1735~1808年。国学者、歌人、書家。
    国学を賀茂真淵に学ぶ。書の千蔭流の始祖。樋口一葉は師中島歌子を通じて千蔭の字を習いました。一葉の流麗な仮名文字がそれです。
    墓石の字は千蔭が生前自分で書いたものだそうです。

  • 鼠小僧次郎吉の墓。<br />手前の白い石は前立ちといい、参詣人が次郎吉の運にあやかろうと墓石を削るのを防ぐため置いてある。墓石でなくこの石を削ってくださいというもの。<br />運でなく盗癖にあやかってしまわないかと心配します。<br />次郎吉もので儲けさせてもらった歌舞伎、狂言役者が建立したそうです。隅田川橋巡り1回目で訪れた小塚原回向院にも墓がありました。

    鼠小僧次郎吉の墓。
    手前の白い石は前立ちといい、参詣人が次郎吉の運にあやかろうと墓石を削るのを防ぐため置いてある。墓石でなくこの石を削ってくださいというもの。
    運でなく盗癖にあやかってしまわないかと心配します。
    次郎吉もので儲けさせてもらった歌舞伎、狂言役者が建立したそうです。隅田川橋巡り1回目で訪れた小塚原回向院にも墓がありました。

  • 両国橋の袂に来ました。

    両国橋の袂に来ました。

  • 両国橋。<br />地球儀みたいな親柱が面白い。

    両国橋。
    地球儀みたいな親柱が面白い。

  • 橋を隅田川の左岸に渡った所です。

    橋を隅田川の左岸に渡った所です。

  • 橋のたもとにある句碑。<br />「ひのおんや たちまちくたく あつこおり」<br />吉良邸討ち入りを果たした赤穂浪士の一人、大高源吾が酒屋に飛び込んで一杯のんで作ったそうです。

    橋のたもとにある句碑。
    「ひのおんや たちまちくたく あつこおり」
    吉良邸討ち入りを果たした赤穂浪士の一人、大高源吾が酒屋に飛び込んで一杯のんで作ったそうです。

  • 当初の橋は1660年で、「大橋」と呼ばれていて、今より少し下流に架けられていた。隅田川2番目の橋。<br />1693年、下流にべつの「新大橋」が造られたので「両国橋」と改名。武州と総州の二つの国に跨るのが橋の名の由来。二州橋とも呼ばれた。

    当初の橋は1660年で、「大橋」と呼ばれていて、今より少し下流に架けられていた。隅田川2番目の橋。
    1693年、下流にべつの「新大橋」が造られたので「両国橋」と改名。武州と総州の二つの国に跨るのが橋の名の由来。二州橋とも呼ばれた。

  • 今の橋は昭和7年。関東大震災復興事業の一つとして建造。<br />全長164m。<br />中央区東日本橋と墨田区両国を結ぶ。通るのは京葉道路。

    今の橋は昭和7年。関東大震災復興事業の一つとして建造。
    全長164m。
    中央区東日本橋と墨田区両国を結ぶ。通るのは京葉道路。

  • 力強い姿です。<br />テラスからの写真。

    力強い姿です。
    テラスからの写真。

  • 橋を右岸に渡ります。

    橋を右岸に渡ります。

  • 橋の上から。<br />総武線の鉄橋。

    橋の上から。
    総武線の鉄橋。

  • 写真右、総武線の鉄橋と両国橋の間の左岸(東岸)あたりが百本杭が一番多かったところでした。<br />

    写真右、総武線の鉄橋と両国橋の間の左岸(東岸)あたりが百本杭が一番多かったところでした。

  • 対岸に神田川の河口と柳橋が見えます。<br />橋の右のレンガ色の建物はかっての花街柳橋に唯一残っている料亭「亀清楼」。<br />

    対岸に神田川の河口と柳橋が見えます。
    橋の右のレンガ色の建物はかっての花街柳橋に唯一残っている料亭「亀清楼」。

  • 神田川河口に掛かる橋「柳橋」。

    神田川河口に掛かる橋「柳橋」。

  • 橋を西に渡った所が旧両国広小路のあった所です。<br />火事の多かった江戸、橋への類焼を防ぐため橋のたもとに空き地、火除地を設けたもの。上野、浅草と並ぶ3大広小路でした。

    橋を西に渡った所が旧両国広小路のあった所です。
    火事の多かった江戸、橋への類焼を防ぐため橋のたもとに空き地、火除地を設けたもの。上野、浅草と並ぶ3大広小路でした。

  • 常設の建物は認められなかったが、仮設はよい、というので芝居、軽業、手品、時には卑猥な見世物などの小屋が造られ、食べ物屋、水茶屋などが集まってきて明治初期まで浅草と並ぶ大歓楽地でした。

    常設の建物は認められなかったが、仮設はよい、というので芝居、軽業、手品、時には卑猥な見世物などの小屋が造られ、食べ物屋、水茶屋などが集まってきて明治初期まで浅草と並ぶ大歓楽地でした。

  • 広小路から北に入ると柳橋があります。

    広小路から北に入ると柳橋があります。

  • 神田川が隅田川に入るところに架かっている橋です。<br />橋の北側は台東区柳橋で、南側は中央区東日本橋です。

    神田川が隅田川に入るところに架かっている橋です。
    橋の北側は台東区柳橋で、南側は中央区東日本橋です。

  • 当初は1698年の架橋で、明治20年に鉄の橋となったが関東大震災で焼け落ち、昭和4年関東大震災復興事業により今の橋となった。

    当初は1698年の架橋で、明治20年に鉄の橋となったが関東大震災で焼け落ち、昭和4年関東大震災復興事業により今の橋となった。

  • 橋のたもとに一本の柳の木があったのが名の由来とも言われます。<br />春の夜や 女見返る 柳橋  正岡子規

    橋のたもとに一本の柳の木があったのが名の由来とも言われます。
    春の夜や 女見返る 柳橋  正岡子規

  • ユニークな流線形がカッコいいですね。

    ユニークな流線形がカッコいいですね。

  • 欄干には柳橋芸者の簪のレリーフがあります。

    欄干には柳橋芸者の簪のレリーフがあります。

  • 橋の上から、神田川が隅田川に合流するところ。

    橋の上から、神田川が隅田川に合流するところ。

  • 神田川には船宿の船が一杯。

    神田川には船宿の船が一杯。

  • 橋の北詰。

    橋の北詰。

  • 柳橋の花柳街があった所です。<br />今はマンションやパーキングだらけで全く昔の面影はありません。<br />花柳界華やかだった江戸末期、明治初期の柳橋の様子は成島柳北の「柳橋新誌」に詳しく書かれています。<br />明治には新興の花街新橋とともに柳新二橋と称されました。

    柳橋の花柳街があった所です。
    今はマンションやパーキングだらけで全く昔の面影はありません。
    花柳界華やかだった江戸末期、明治初期の柳橋の様子は成島柳北の「柳橋新誌」に詳しく書かれています。
    明治には新興の花街新橋とともに柳新二橋と称されました。

  • 柳橋芸者。<br />柳橋の客筋は良く、芸者の気位も高かったそうです。<br />成島柳北の柳橋新誌によると、柳橋芸者は芸を売り、吉原芸者は体を売ると書いています。<br />パンフレットより。

    柳橋芸者。
    柳橋の客筋は良く、芸者の気位も高かったそうです。
    成島柳北の柳橋新誌によると、柳橋芸者は芸を売り、吉原芸者は体を売ると書いています。
    パンフレットより。

  • この辺りに一時期島崎藤村が住んでいました。<br />明治38年、「破戒」を完成すべく藤村は一家を挙げ小諸より上京し新宿西大久保に住まいする、<br />明治39年、「破戒」完成するも相次いで3人の幼い娘を亡くす。心機一転すべく当時浅草新片町といった柳橋に転居。浅草新片町時代に「春」、「家」、随筆「新片町」など執筆。<br />明治43年、妻フユも産褥で亡くなる。小さな男の子を抱え男やもめになった藤村のところに藤村の次兄広助の娘こま子(藤村の姪)が家事手伝いに来る。<br />

    この辺りに一時期島崎藤村が住んでいました。
    明治38年、「破戒」を完成すべく藤村は一家を挙げ小諸より上京し新宿西大久保に住まいする、
    明治39年、「破戒」完成するも相次いで3人の幼い娘を亡くす。心機一転すべく当時浅草新片町といった柳橋に転居。浅草新片町時代に「春」、「家」、随筆「新片町」など執筆。
    明治43年、妻フユも産褥で亡くなる。小さな男の子を抱え男やもめになった藤村のところに藤村の次兄広助の娘こま子(藤村の姪)が家事手伝いに来る。

  • ここで藤村はこま子と不倫関係になります。こま子は妊娠します。<br />藤村は不倫の清算とスキャンダルから逃れるため大正2年フランスに渡ります。<br />大正5年、第1次世界大戦勃発によりフランスにより帰国。こま子との関係が戻ってしまう。<br />大正7年、こま子との関係を小説「新生」で告白(勿論仮名で)。文学界に一大センセーションを巻き起こし、次兄広助と絶縁。<br />藤村がなぜ花街の真ん中に居を求めたのか、いろいろ藤村関係の本を調べたけれど分かりません。<br />

    ここで藤村はこま子と不倫関係になります。こま子は妊娠します。
    藤村は不倫の清算とスキャンダルから逃れるため大正2年フランスに渡ります。
    大正5年、第1次世界大戦勃発によりフランスにより帰国。こま子との関係が戻ってしまう。
    大正7年、こま子との関係を小説「新生」で告白(勿論仮名で)。文学界に一大センセーションを巻き起こし、次兄広助と絶縁。
    藤村がなぜ花街の真ん中に居を求めたのか、いろいろ藤村関係の本を調べたけれど分かりません。

  • 神社がありました。<br />そのこま子の記憶によると:藤村の家の左隣が待合藤屋、その隣が人力車屋、右隣りは駄菓子屋、その隣が米屋。藤村の家の前の小路の入り口は左角が魚屋、右角が芸者屋、その隣が一中節の師匠の家。だったそうで、どのような所だったか想像できます。

    神社がありました。
    そのこま子の記憶によると:藤村の家の左隣が待合藤屋、その隣が人力車屋、右隣りは駄菓子屋、その隣が米屋。藤村の家の前の小路の入り口は左角が魚屋、右角が芸者屋、その隣が一中節の師匠の家。だったそうで、どのような所だったか想像できます。

  • 篠塚稲荷。

    篠塚稲荷。

  • 神田川の川沿いには何軒か船宿が並んでいます。

    神田川の川沿いには何軒か船宿が並んでいます。

  • 浅草橋に出ました。<br />柳橋の一本上流の橋です。

    浅草橋に出ました。
    柳橋の一本上流の橋です。

  • 橋のたもとに浅草見附(浅草御門)跡の碑。<br />江戸36門と言われた見附の一つ。奥州への重要な道筋だったことから設けられました。

    橋のたもとに浅草見附(浅草御門)跡の碑。
    江戸36門と言われた見附の一つ。奥州への重要な道筋だったことから設けられました。

  • 浅草橋の角。

    浅草橋の角。

  • 橋の両側にも屋形船がもやっています。

    橋の両側にも屋形船がもやっています。

  • 上流方面。

    上流方面。

  • 柳橋方面。

    柳橋方面。

  • 両国橋を東に戻りました。<br />首都高速7号小松川線が隅田川を跨いでいます。

    両国橋を東に戻りました。
    首都高速7号小松川線が隅田川を跨いでいます。

  • 橋の東詰めにあるももんじや。猪など獣の肉を食べさせるようです。

    橋の東詰めにあるももんじや。猪など獣の肉を食べさせるようです。

  • 両国橋の東側(向両国)にも広小路がありました。<br />両国の本場は西側で橋を渡った東側を向両国と呼んでいました。いま西側には両国の町名はなく(東日本橋という面白くもなんともない町名)、東側にのみ両国の町名があります。

    両国橋の東側(向両国)にも広小路がありました。
    両国の本場は西側で橋を渡った東側を向両国と呼んでいました。いま西側には両国の町名はなく(東日本橋という面白くもなんともない町名)、東側にのみ両国の町名があります。

  • 昭和46年、住居表示実施により橋の西側一帯は両国、矢ノ倉、薬研堀ほかひっくるめて由緒ある町名が東日本橋になってしまいました。昔からの住民はどんな思いだったでしょうか。

    昭和46年、住居表示実施により橋の西側一帯は両国、矢ノ倉、薬研堀ほかひっくるめて由緒ある町名が東日本橋になってしまいました。昔からの住民はどんな思いだったでしょうか。

  • 向両国と呼ばれた両国橋東側の旧両国広小路があった一帯。

    向両国と呼ばれた両国橋東側の旧両国広小路があった一帯。

  • 一之橋通り。

    一之橋通り。

  • 一之橋通りを南下すると一之橋があります。

    一之橋通りを南下すると一之橋があります。

  • 吉良邸討ち入りを果たした赤穂浪士たちが両国広小路で休んだ後この一之橋、永代橋を通り泉岳寺まで歩いたのでした。

    吉良邸討ち入りを果たした赤穂浪士たちが両国広小路で休んだ後この一之橋、永代橋を通り泉岳寺まで歩いたのでした。

  • 下を流れる堅川が隅田川に注ぐ堅川水門。

    下を流れる堅川が隅田川に注ぐ堅川水門。

  • 一之橋。

    一之橋。

  • 橋を渡ってすぐ左に江島杉山神社があります。

    橋を渡ってすぐ左に江島杉山神社があります。

  • 町内の人たちが人命救助の訓練をやっていました。

    町内の人たちが人命救助の訓練をやっていました。

  • 江の島弁財天と杉山和一検校を祀っています。

    江の島弁財天と杉山和一検校を祀っています。

  • 元禄年間、徳川5代将軍綱吉の難病を治癒した杉山検校が綱吉より賜った土地に江の島弁財天を勧請して建てたのがこの神社です。

    元禄年間、徳川5代将軍綱吉の難病を治癒した杉山検校が綱吉より賜った土地に江の島弁財天を勧請して建てたのがこの神社です。

  • 銭洗い弁天の水。

    銭洗い弁天の水。

  • さらに一之橋通りを南下して新大橋に来ました。<br />橋のたもとには江戸時代幕府の船の格納庫、御船蔵があり、安宅丸(あたけまる)が係留されていました。<br />3代将軍家光の1632年に建造され、長さ62mと当時最大の幕府御用船でしたが、大きすぎて実用性に欠け何の役にも立たないうちに綱吉の時に解体されてしまいます。

    さらに一之橋通りを南下して新大橋に来ました。
    橋のたもとには江戸時代幕府の船の格納庫、御船蔵があり、安宅丸(あたけまる)が係留されていました。
    3代将軍家光の1632年に建造され、長さ62mと当時最大の幕府御用船でしたが、大きすぎて実用性に欠け何の役にも立たないうちに綱吉の時に解体されてしまいます。

  • そのそばに明治45年建造の新大橋の親柱が立っています。

    そのそばに明治45年建造の新大橋の親柱が立っています。

  • 新大橋です。

    新大橋です。

  • 初代は元禄6年、1694年。先に造られた両国橋が「大橋」と称されていたため、この橋は「新大橋」と名付けられた。千住大橋、両国橋に次ぐ隅田川3番目の橋。

    初代は元禄6年、1694年。先に造られた両国橋が「大橋」と称されていたため、この橋は「新大橋」と名付けられた。千住大橋、両国橋に次ぐ隅田川3番目の橋。

  • 関東大震災の時の橋は床がコンクリートだったため焼け落ちずに多くの避難者がこの橋を渡り命が助かった。それでこの橋を「お助け橋」とよんだそうです。<br />今の橋は昭和52年の建造。長さ170m。<br />中央区日本橋浜町と江東区新大橋を繋いでいます。

    関東大震災の時の橋は床がコンクリートだったため焼け落ちずに多くの避難者がこの橋を渡り命が助かった。それでこの橋を「お助け橋」とよんだそうです。
    今の橋は昭和52年の建造。長さ170m。
    中央区日本橋浜町と江東区新大橋を繋いでいます。

  • 橋の上から、上流首都高小松川線。

    橋の上から、上流首都高小松川線。

  • 上流方向。

    上流方向。

  • 橋の中ほどにあるレリーフ。<br />歌川広重:名所江戸百景「大はしあたけの夕立」。

    橋の中ほどにあるレリーフ。
    歌川広重:名所江戸百景「大はしあたけの夕立」。

  • こういうのを斜張橋というそうです。

    こういうのを斜張橋というそうです。

  • 隅田川テラスからの眺め。美しいですね。

    隅田川テラスからの眺め。美しいですね。

  • テラスを清洲橋の方に歩きました。

    テラスを清洲橋の方に歩きました。

  • 何度も振り返って眺めます。

    何度も振り返って眺めます。

  • テラスには芭蕉の句碑がありました。

    テラスには芭蕉の句碑がありました。

  • テラスから離れ萬年橋通りに入りました。<br />芭蕉記念館があります。<br />芭蕉記念館については2018年の写真がありますのでよかったら覗いてください。<br />  https://4travel.jp/travelogue/11415587<br /><br />

    テラスから離れ萬年橋通りに入りました。
    芭蕉記念館があります。
    芭蕉記念館については2018年の写真がありますのでよかったら覗いてください。
      https://4travel.jp/travelogue/11415587

  • 芭蕉記念館を東に行くと深川神明社があります。<br />徳川家康関東入府間もない慶長元年、この地を鷹狩りに訪れた家康がこの地を開いた深川八郎右衛門にこの地を深川と命名せよと命じた。

    芭蕉記念館を東に行くと深川神明社があります。
    徳川家康関東入府間もない慶長元年、この地を鷹狩りに訪れた家康がこの地を開いた深川八郎右衛門にこの地を深川と命名せよと命じた。

  • 八郎右衛門が伊勢神宮の天照大御神を勧請し建てた祠が深川神明社の始まりです。

    八郎右衛門が伊勢神宮の天照大御神を勧請し建てた祠が深川神明社の始まりです。

  • 萬年橋通りに戻ると旧新大橋跡という石柱がありました。<br />最初の新大橋は今より少し下流にあったようです。

    萬年橋通りに戻ると旧新大橋跡という石柱がありました。
    最初の新大橋は今より少し下流にあったようです。

  • 萬年橋に近づきました。<br />その手前を右に入ると芭蕉稲荷があります。芭蕉庵跡とされています。<br />芭蕉は1680年以降この辺りに住んでいたことは間違いないのですが、此処だという場所は不明でした。

    萬年橋に近づきました。
    その手前を右に入ると芭蕉稲荷があります。芭蕉庵跡とされています。
    芭蕉は1680年以降この辺りに住んでいたことは間違いないのですが、此処だという場所は不明でした。

  • 大正6年の水害の時ここから芭蕉愛用の石の蛙の置物が出土したので、ここに稲荷神社を建て芭蕉庵跡としたのです。

    大正6年の水害の時ここから芭蕉愛用の石の蛙の置物が出土したので、ここに稲荷神社を建て芭蕉庵跡としたのです。

  • その斜め向かいに正木稲荷神社。境内に柾木の大樹があったので柾木稲荷と言われていたのが正木に変わったようです。腫物治癒にご利益があります。<br />

    その斜め向かいに正木稲荷神社。境内に柾木の大樹があったので柾木稲荷と言われていたのが正木に変わったようです。腫物治癒にご利益があります。

  • その隣に芭蕉庵史跡展望庭園。

    その隣に芭蕉庵史跡展望庭園。

  • 北を向く芭蕉像。<br />奥の細道紀行に先立ち奥州、千住方向を見ているのか。

    北を向く芭蕉像。
    奥の細道紀行に先立ち奥州、千住方向を見ているのか。

  • 左から小名木川が隅田川に注ぐところ。<br />江戸時代ここは深川三股といわれ景勝の地でした。橋は清洲橋。

    左から小名木川が隅田川に注ぐところ。
    江戸時代ここは深川三股といわれ景勝の地でした。橋は清洲橋。

  • 新大橋方向。

    新大橋方向。

  • 小名木川にかかる萬年橋です。

    小名木川にかかる萬年橋です。

  • 今時珍しい立派なアーチを持っています。<br />当初の橋の架橋時期は不詳ですが、1680年頃にはあったようです。下流にある永代橋に対して萬年橋と名付けられました。

    今時珍しい立派なアーチを持っています。
    当初の橋の架橋時期は不詳ですが、1680年頃にはあったようです。下流にある永代橋に対して萬年橋と名付けられました。

  • 今の橋は昭和5年。長さ56m。<br />小名木川が隅田川に注ぐ最後の橋。北岸の常盤と南岸の清澄を結んでいます。

    今の橋は昭和5年。長さ56m。
    小名木川が隅田川に注ぐ最後の橋。北岸の常盤と南岸の清澄を結んでいます。

  • 隅田川テラスに降ります。

    隅田川テラスに降ります。

  • テラスからの萬年橋。

    テラスからの萬年橋。

  • 橋に戻って南岸へ。<br />橋の中ほどから小名木川の河口。テラスのカーヴした上が芭蕉案史跡展望庭園。

    橋に戻って南岸へ。
    橋の中ほどから小名木川の河口。テラスのカーヴした上が芭蕉案史跡展望庭園。

  • 後ろに旧小名木川水門。

    後ろに旧小名木川水門。

  • 右に新大橋、左に清洲橋。下(東)から小名木川が隅田川に合流しています。

    右に新大橋、左に清洲橋。下(東)から小名木川が隅田川に合流しています。

  • 萬年橋。対岸のテラスに降りました。

    萬年橋。対岸のテラスに降りました。

  • 芭蕉案史跡展望庭園の下あたりは格好の釣りポイントのようです。一人で何本も釣竿を仕掛けています。

    芭蕉案史跡展望庭園の下あたりは格好の釣りポイントのようです。一人で何本も釣竿を仕掛けています。

  • 清洲橋に来ました。

    清洲橋に来ました。

  • 昭和3年(1928年)。長さ186m。鋼鉄製の吊橋です。<br />隅田川の橋は関東大震災で新大橋を除きすべて焼け落ちたので、今の橋は殆どが関東大震災復興事業として建造されたものです。

    昭和3年(1928年)。長さ186m。鋼鉄製の吊橋です。
    隅田川の橋は関東大震災で新大橋を除きすべて焼け落ちたので、今の橋は殆どが関東大震災復興事業として建造されたものです。

  • 中央区中洲と江東区清澄を繋いでいます。通りは清洲橋通り。<br />清と洲をとって清洲橋。橋のできる前は中洲の渡しがありました。

    中央区中洲と江東区清澄を繋いでいます。通りは清洲橋通り。
    清と洲をとって清洲橋。橋のできる前は中洲の渡しがありました。

  • ドイツ、ケルンにあったヒンデンブルク橋をモデルにしたそうです。

    ドイツ、ケルンにあったヒンデンブルク橋をモデルにしたそうです。

  • 勝鬨橋、永代橋とともに国の重要文化財です。

    勝鬨橋、永代橋とともに国の重要文化財です。

  • 確かに優美な姿をしていますね。

    確かに優美な姿をしていますね。

  • テラスの花壇。

    テラスの花壇。

  • 右岸に渡ります。

    右岸に渡ります。

  • アーチの間からスカイツリー。

    アーチの間からスカイツリー。

  • 上流方向。

    上流方向。

  • 下流方面。

    下流方面。

  • 清洲橋の照明灯具。

    清洲橋の照明灯具。

  • 渡った先は中洲です。<br />神社がありました。

    渡った先は中洲です。
    神社がありました。

  • 金毘羅神社です。

    金毘羅神社です。

  • 植え込みに石が転がっています。

    植え込みに石が転がっています。

  • 中洲といえば真砂座と言われた真砂座跡です。<br />漱石の「吾輩は猫である」が小山内薫演出で上演されています。明治39年11月です。<br />学生時代に真砂座で新派の俳優伊井蓉峰の下で座付き作者をしながら演劇人のスタートを切り、やがて自由劇場、築地小劇場へと発展していった小山内薫でした。小説「大川端」は真砂座時代の自分を描いた自伝的小説です。

    中洲といえば真砂座と言われた真砂座跡です。
    漱石の「吾輩は猫である」が小山内薫演出で上演されています。明治39年11月です。
    学生時代に真砂座で新派の俳優伊井蓉峰の下で座付き作者をしながら演劇人のスタートを切り、やがて自由劇場、築地小劇場へと発展していった小山内薫でした。小説「大川端」は真砂座時代の自分を描いた自伝的小説です。

  • 真砂座、待合、料亭と隅田川の花火で賑わった中洲もいまはビル街です。<br />中洲の名は残ってもいまは浜町、箱崎町と地続きで、小山内薫の「大川端」に描かれた情緒は跡形もありません。<br />以前は浜町とは男橋、女橋で繋がれ、橋の上には粋な女の影が立つなんてことも。

    真砂座、待合、料亭と隅田川の花火で賑わった中洲もいまはビル街です。
    中洲の名は残ってもいまは浜町、箱崎町と地続きで、小山内薫の「大川端」に描かれた情緒は跡形もありません。
    以前は浜町とは男橋、女橋で繋がれ、橋の上には粋な女の影が立つなんてことも。

  • 再びテラスに降り、右岸側、少し離れたところからの清洲橋です。

    再びテラスに降り、右岸側、少し離れたところからの清洲橋です。

  • 昼時ですが日曜日のビジネス街とて飲食店が見当たらず、コンビニで海苔巻(納豆巻き)を買ってテラスのベンチに座って食べました。

    昼時ですが日曜日のビジネス街とて飲食店が見当たらず、コンビニで海苔巻(納豆巻き)を買ってテラスのベンチに座って食べました。

  • 清洲橋の下手は隅田川大橋です。

    清洲橋の下手は隅田川大橋です。

  • 隅田川大橋。

    隅田川大橋。

  • 隅田川唯一の2層式橋梁。<br />上が首都高9号深川線、下が都道葛西線。昭和54年(1979年)完成。<br />河川部の長さは210m。

    隅田川唯一の2層式橋梁。
    上が首都高9号深川線、下が都道葛西線。昭和54年(1979年)完成。
    河川部の長さは210m。

  • 右岸の日本橋箱崎町と左岸の江東区佐賀を結んでいます。

    右岸の日本橋箱崎町と左岸の江東区佐賀を結んでいます。

  • 頭上を高速道路が走っていて圧迫感を感じました。

    頭上を高速道路が走っていて圧迫感を感じました。

  • 橋の中ほどから、上流方向。

    橋の中ほどから、上流方向。

  • 清洲橋とスカイツリー。

    清洲橋とスカイツリー。

  • テラスに降りて永代橋に向かいます。

    テラスに降りて永代橋に向かいます。

  • 対岸に豊海橋と日本橋川の河口。

    対岸に豊海橋と日本橋川の河口。

  • 永代橋に来ました。

    永代橋に来ました。

  • 初代は元禄11年(1698年)。徳川5代将軍綱吉生誕50年記念の築造という。<br />江戸時代に隅田川に架けられた橋としては、千住大橋、両国橋、新大橋についで4番目です。5番目は吾妻橋。<br />橋の名の由来は、幕府が末永く続くようにとの慶賀名とも、対岸にある永代島、永代寺からともいわれる。架橋前は深川の渡しがありました。

    初代は元禄11年(1698年)。徳川5代将軍綱吉生誕50年記念の築造という。
    江戸時代に隅田川に架けられた橋としては、千住大橋、両国橋、新大橋についで4番目です。5番目は吾妻橋。
    橋の名の由来は、幕府が末永く続くようにとの慶賀名とも、対岸にある永代島、永代寺からともいわれる。架橋前は深川の渡しがありました。

  • 今の橋は大正15年(1926年)、関東大震災復興事業による。<br />全長184m。<br />中央区新川と江東区佐賀を結ぶ。通りは永代通り。<br />勝鬨橋、清洲橋とともに重文に指定されています。

    今の橋は大正15年(1926年)、関東大震災復興事業による。
    全長184m。
    中央区新川と江東区佐賀を結ぶ。通りは永代通り。
    勝鬨橋、清洲橋とともに重文に指定されています。

  • 径間100mを超えるものとしては日本初のアーチは豪壮優美ですね。

    径間100mを超えるものとしては日本初のアーチは豪壮優美ですね。

  • この橋で江戸時代大きな事故がありました。<br />1807年の深川富岡八幡の祭礼の時、大勢の人がこの橋に押しかけたため橋が崩れ、1400人以上の人隅田川に落ち死亡または行方不明になったという。<br />蜀山人太田南畝がこの事故を狂歌に詠いました。<br />「永代とかけたる橋は落ちにけり きょうは祭礼あすは葬礼」<br />今の時代こんな歌を詠むと不謹慎と非難されるでしょう。

    この橋で江戸時代大きな事故がありました。
    1807年の深川富岡八幡の祭礼の時、大勢の人がこの橋に押しかけたため橋が崩れ、1400人以上の人隅田川に落ち死亡または行方不明になったという。
    蜀山人太田南畝がこの事故を狂歌に詠いました。
    「永代とかけたる橋は落ちにけり きょうは祭礼あすは葬礼」
    今の時代こんな歌を詠むと不謹慎と非難されるでしょう。

  • また元禄15年12月、吉良邸討ち入りを果たした赤穂浪士たちは両国広小路、<br />一之橋から永代橋を通り泉岳寺に引き上げています。

    また元禄15年12月、吉良邸討ち入りを果たした赤穂浪士たちは両国広小路、
    一之橋から永代橋を通り泉岳寺に引き上げています。

  • 橋を新川側に渡ります。

    橋を新川側に渡ります。

  • ギラギラと秋の日に煌めく川面。<br />隅田川大橋とスカイツリー。

    ギラギラと秋の日に煌めく川面。
    隅田川大橋とスカイツリー。

  • 遊覧船がひっきりなしに通ります。

    遊覧船がひっきりなしに通ります。

  • 越中島方向の眺め。

    越中島方向の眺め。

  • 佃島の高層ビル。

    佃島の高層ビル。

  • 対岸に梯子を横にしたような形の豊海橋。

    対岸に梯子を横にしたような形の豊海橋。

  • 豊海橋。<br />日本橋川が隅田川に注ぐところに位置し、日本橋箱崎町と新川を結んでいます。<br />昭和2年、関東大震災復興事業の一つ。<br />

    豊海橋。
    日本橋川が隅田川に注ぐところに位置し、日本橋箱崎町と新川を結んでいます。
    昭和2年、関東大震災復興事業の一つ。

  • 上手の湊橋。

    上手の湊橋。

  • 豊海橋から永代橋の眺め。<br />今1時半頃ですが足が攣りはじめ用心して今日は終わりとしました。あと1回で終われそうです。<br />永代橋の袂からタクシーで東京駅へ。910円。

    豊海橋から永代橋の眺め。
    今1時半頃ですが足が攣りはじめ用心して今日は終わりとしました。あと1回で終われそうです。
    永代橋の袂からタクシーで東京駅へ。910円。

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