2021/04/01 - 2021/04/01
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ペコちゃんさん
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荒川土手沿いの2kmに咲き誇る約500本のソメイヨシノ・・・江戸時代から続く桜の名所「熊谷桜堤」は『日本さくら名所100選』のひとつです。
訪れてみると、満開の桜の下に咲く菜の花・・・その見事なコラボを楽しみに、大勢の人が春の一日を楽しんでいました。
花見の後は、渋沢栄一の足跡を訪ねて深谷市へ・・・大河ドラマ『青天を衝け』も始まり、こちらも大勢の人が訪れていました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 自家用車
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熊谷市民体育館のそばにある『熊谷桜堤』の石碑・・・1990年に「さくら名所100選」に選ばれ、桜堤を熊谷市民のシンボルとして長く後世に伝えていきたい、との思いを込めて建てられました。
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もともとは1580年頃、鉢形城主・北条氏邦が、荒川の氾濫に備えて熊谷堤を築き、その後、桜を植えたのが熊谷桜堤の始まりです。
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中山道の宿場町当時には、熊谷の花見として江戸まで聞こえた熊谷桜堤でしたが、明治時代に入って、一度枯れてしまいます。
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1886年から植樹を開始して復活し、1910年には906本に達しました。
1923年には、内務省から名勝の指定を受けたり、上野からの花見客向け臨時列車が運転されるなど賑わいが戻りましたが、1925年の熊谷の大火にあい、多くが焼失、衰えてしまいます。 -
その後、市制20周年記念事業として、1952年から荒川沿岸の新熊谷堤に植樹をし、現在の見事な熊谷桜堤に引き継がれています。
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咲き誇る約500本もの桜(ソメイヨシノ)・・・その中の1本は熊谷地方気象台における桜開花の標本木となっています。
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ワンちゃんも楽しそうにお散歩。
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土手には桜と同様に、菜の花が寄り添うように咲き続いています。
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桜の淡い薄紅色と、菜の花の生命力あふれる黄色の光景は、息をのむ美しさ!
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ここから上がって土手へ。
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土手の上から見る満開の桜。
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延々と続く桜と菜の花。
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透き通るような青空、桜のピンク、菜の花のイエロー・・・春爛漫!
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土手の下は荒川運動公園、上流に見えるのは荒川大橋。
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荒川運動公園の一角を臨時駐車場として開放。(約250台分、料金:無料)
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熊谷から車を走らせて渋沢栄一ゆかりの深谷へ・・・今回で2回目ですが、大河ドラマの影響で多くの観光客が訪れる街となりました。
先ずは、JR深谷駅前の北口前にある「青淵広場」へ。 -
広場には、1996年に建立された和服姿の渋沢栄一像が、駅舎に向かって座っています。
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1883年に開業したJR深谷駅は、1996年に東京駅を模して改築されました。
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渋沢栄一が1888年に深谷で創業した日本煉瓦製造(株)の煉瓦は、東京駅・日本銀行・赤坂離宮など、明治を代表する多くの建物に使われました。
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「ミニ東京駅」とも呼ばれる現在の深谷駅・・・大正時代に竣工した東京駅・丸の内口駅舎は日本煉瓦製造で製造された煉瓦を使いましたが、深谷駅舎はコンクリートの壁面にレンガ風のタイルを貼っています・・・これはレンガだと線路上に剥落する可能性があるためです。
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広い改札口・・・下りは高崎行きですが、上りは熱海や小田原まで行っています。
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大きく奇麗な駅舎。
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北口にある、渋沢栄一が設立を指導した第一国立銀行をイメージした「からくり時計」(2012年設置)・・・中央ケースには、深谷市のイメージキャラクター「ふっかちゃん」が座っていますが・・・
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毎正時になると、「青い目の人形」のメロディと共に日本人形と青い目の人形を持った渋沢栄一翁が、ふっかちゃんに代わって現れます。
日本人移民の排斥運動が加熱し日米関係が悪化した1927年に、アメリカ人宣教師から友情の証として「青い目の人形」が日本へ贈られ、渋沢栄一が中心となって「市松人形」がアメリカに送られたことを記念したものです。 -
北口に停まっているコミュニティバスにも、新一万円札の渋沢栄一の絵が・・・
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深谷駅の次は、渋沢栄一が論語を学んだ「尾高惇忠生家」へ。
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尾高惇忠(1830~1901)は近郷の子弟に論語などの学問を教え、渋沢栄一も7歳から通って大きな影響を受けました。
また妹の千代が渋沢栄一に嫁いだことで栄一の義兄となり、弟の平九郎は栄一の見立て養子となりました。 -
尾高惇忠の生家は、江戸時代後期に曽祖父が建てたと言われています。
右側にある煉瓦造りの土蔵は明治時代後半の建築で、深谷で生産された煉瓦が使われています。 -
母屋と土蔵の鬼瓦は、山と数字の二を重ねた「入り山二」・・・これは当時、菜種油などの商いをしていた尾高家の商標。
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中に入って見学します。
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土間から見た座敷。
二階には、惇忠や栄一らが高崎城乗っ取り計画を謀議したと伝わる部屋があります。 -
床の間には、渋沢栄一の揮毫による『出藍精舎(しゅつらんしょうじゃ)』の書・・・「出藍」とは「藍は青より出でて藍より青し」のことから「師匠よりも優れた弟子が生まれた学び舎」を意味します。
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尾高惇忠は渋沢栄一より10歳年上の従兄であり、論語を教えた学問の師でもありました
明治維新後には『富岡製糸場の初代場長』『第一国立銀行仙台支店長』などを務め、幅広く活躍をしました。 -
尾高惇忠の弟で渋沢栄一の見立て養子となった渋沢 平九郎(1847~1868)・・・徳川家から明治天皇へ大政奉還された後、徳川慶喜の復権のために彰義隊・振武軍へ加わりましたが、新政府軍に追われ、飯能・顔振峠から越生・黒山に向かい、ここで自刃しました・・・栄一がヨーロッパ訪問中の出来事です。(享年22)
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煉瓦造りの堅牢な土蔵。
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次に向かったのは「渋沢栄一記念館」・・・1995年の祥月命日(11月11日)に、栄一の生家の近くに開館しました。
資料室には渋沢栄一ゆかりの遺墨や写真など、沢山の資料が展示されています。 -
入口には、富岡製糸場の設立に深く関わった「富岡製糸場と深谷の三偉人」のレリーフ(左から渋沢栄一・尾高惇忠・韮塚直次郎)・・・その上には、2019年度の来館者数が10万人を達成した祝福のメッセージ。
韮塚直次郎は尾高家の使用人として住み込みで働き、その後独立して農業のほかに養蚕、藍玉作り、菜種油の製造・販売に力を注いで幕末には豪農としての地位を築いた人物で、富岡製糸場の礎石の運搬や煉瓦製造を任されました。 -
渋沢栄一〈1840~1931)は近代日本経済の父とも呼ばれ、第一国立銀行(現在のみずほ銀行)や帝国ホテル、東京瓦斯(現在の東京ガス)、東京海上保険(現在の東京海上日動)など、多くの企業の設立に関わり、その数は500社以上。
また商法講習所(現在の一橋大学)や博愛社(現在の日本赤十字社)など600余りの教育・福祉や社会公共事業の支援を行うなど、数々の功績を残しました。 -
2019年に新一万円札の肖像画に選ばれることが公表され、2021年大河ドラマの主人公に決まるなど、今あらためて注目を集めています。(千円札:北里柴三郎、5千円札:津田梅子)
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資料室には、企業設立や栄一の業績を紹介した文献、写真、栄一の書画など約150点が展示されています。
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栄一の生家近くにある諏訪神社の秋の例大祭で行われる獅子舞の古い獅子頭も展示されています。
栄一が12歳の時に舞った獅子舞は、現在も小学校6年生が練習を積んで舞います。 -
日米友好の証である、青い目の人形も展示されています。
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栄一がしたためた毛筆の手紙や文書などの展示。
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2017年に当時の天皇・皇后両陛下も視察されました。
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2階の講義室では、深谷市出身でドトールコーヒー創業者の鳥羽博道氏の寄付で制作された「渋沢栄一アンドロイド(人造人間)」による『道徳経済合一説』(自己を捨ててでも国家社会の利益になることを優先した栄一の経営哲学)の講義を見学することが出来ます。
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渋沢栄一の身長は約150cmと小柄でしたが、記念館の北側に約5mの像が立っています。
右手に論語を持ったこの像は1988年に制作され、当初は深谷駅前の青淵広場にありました。 -
渋沢像の目線の先には、彼が青春時代に眺めていた上毛三山の雄大な景色が広がっています。
昔も今も変わらないこの悠久の景色をいつまでも見守っていてほしい、という人々の願いからここに設置されているのだそうです。 -
最後は、旧渋沢邸「中の家(なかんち)」へ・・・ここは渋沢栄一が生まれ育った場所です。
中の家は代々農業を営んでいたが「名字帯刀」を許され、栄一の父・市郎右衛門の時には、養蚕や藍玉づくりとその販売のほか雑貨屋・質屋業も兼ねて、裕福な家でした。 -
現在の建物は、栄一の妹夫妻によって明治28年に建てられたもので、正面に主屋、周囲には4つの土蔵があります。
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正門の右にある桜も満開。
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左側は立派な植栽。
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ケヤキの一枚板が使われた正門から入ります。
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門を入ると、若い頃の着物姿で刀を持った栄一像が生家を眺めています。
若き日の榮一像は、将軍・徳川慶喜の異母弟である徳川昭武(水戸藩第11代)の訪欧使節団(パリ万博)に随行し、1867年にフランスのマルセイユで撮影された写真を元に制作されたものです。 -
屋根に「煙出し(天窓)」のある典型的な養蚕農家の形をした切妻造の主屋・・・渋沢家の住居でしたが、1983年より「学校法人 渋沢国際学園」の学校施設となって多くの外国人留学生が学び、2000年の同法人解散によって深谷市に帰属しました。
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主屋には入れませんでしたが、主屋の土間には写真や資料が展示してあります。
右上の額は論語にある言葉『本立而道生』(もとたちて みちしょうず)。
これは「根元がしっかりと定まれば、自ずと進むべき道が生じる」という意味で、栄一の甥で名古屋帝国大学・初代学長の渋沢元治が98才の時に揮毫したもの。 -
大河ドラマ『青天を衝け』も、これからがますます楽しみです。
1863年に満23歳で中の家を離れた栄一ですが、以後も多忙の合間を縫って帰省することが大きな楽しみで、特に晩年、諏訪神社の祭礼の日には、無理なやりくりをしても必ず帰省したそうです。 -
母屋1階の最奥が渋沢栄一の部屋で、帰郷する栄一のために義弟の市郎が念入りに作らせました。
その部屋に、80歳頃の姿をイメージして制作した和装姿の渋沢栄一アンドロイドが置かれています。(これも鳥羽博道氏の寄付によるもの) -
正門の右側にある1911年上棟の「副屋」・・・かつては藍玉の取引に使われ「お店」と呼ばれていました。
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その左側にある「土蔵Ⅱ」・・・藍玉作りの作業場で大谷石で造られた地下室があります。
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これは「土蔵Ⅰ」・・・米蔵として使われました。
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主屋の裏側には、台東区の谷中霊園にある渋沢家墓所から、2014年に移設された3本の石碑があります。
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右側にあるのは「渋沢平九郎追懐碑」(撰文:栄一)・・・飯能戦争で亡くなった見立て義子の平九郎を偲んで、大正六年に建てられました。
『人の楽しみを楽しむ者は 人の憂いを憂う 人の食を喰う者は 人の事に死す 昌忠(渋沢平九郎の忌み名)』 -
左側は栄一の母・渋沢えいの碑(撰文:栄一)、右隣りは栄一の父・渋沢美雅の碑(撰文:尾高惇忠)。
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その左にある「土蔵Ⅲ」・・・道具蔵として使われました。
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最後の「土蔵Ⅳ」・・・1階は奥座敷、2階は宝蔵として使われました。
東京・飛鳥山にあった渋沢栄一の私邸は空襲で焼失したため、中の家は栄一を偲ぶ数少ない場所です。
熊谷から深谷を巡った春の一日でした。
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