2021/02/18 - 2021/02/18
285位(同エリア1622件中)
愛吉さん
好天に恵まれた冬の一日、都内の古寺巡礼に出掛けます。
狙いは徳川将軍家の祈願寺院。
将軍家の祈願寺院としては上野寛永寺と芝増上寺が有名ですが、そこは将軍と奥方を祀る処、以外の方々は別に寺院を建立して葬りました、それが護国寺と伝通院なのです。
それでは護国寺から、1681年5代将軍綱吉が、生母桂昌院の発願で建立、堂宇は1697年完成、寺領300石、広大な敷地と荘厳な建物が聳えます。
尚江戸時代の境内は現在の倍以上の広さでしたが、明治に入ると皇室墓地としてその半分を献上させられます。(現在の皇室専用豊島丘墓地)
次は伝通院、正式名称は無量山伝通院寿経寺と称えます。
家康の生母於大の方が1602年伏見城で74才で亡くなると、遺骸を江戸に運び当地で火葬,一寺を建立します。
寺の名は彼女の法名から伝通院と命名、堂宇の完成は1608年、寺領830石。
当時は徳川霊廟として増上寺、寛永寺に次ぐ3番目の寺格を誇りましたが、 維新後は将軍家没落により困窮、子院等に分離独立を求めます。
その結果寺域は縮小、その上戦災により全ての堂宇を焼失無一物に(残ったのは墓と梵鐘のみ)これにより将軍家菩提寺としての面影は消滅します。
現在の本堂は昭和63年2度目の再建、山門も平成24年の再建です。
ここでこぼれ話を一つ。
檀家の無い伝通院は維新後支院に独立分離を要請しますが、その折一子院が長野善光寺の分院に宗旨替え、多くの信者を集めます。
通称伝通院前が善光寺前と変更になる程でした。
表紙は護国寺不老門
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 私鉄
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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-
地下鉄を護国寺前で降り階段を上がると、そこはもう護国寺門前、表門になります。
創建時の元禄時代に建てらた仁王門です。 -
提灯を入れ横から眺めます、仁王様が判りますか。
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金網越えに阿形の仁王。
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裏側には二天像、こちらは増長天像。
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仁王門を潜り境内に入ります。
正面に不老門、石段の手前両脇に水屋。 -
水屋にある手水鉢、創建時に桂昌院が寄進しました。
内側にも蓮の葉が彫られています、現在も現役。 -
石段を登る前に境内を右に進むと音羽富士があります。
1817年境内の片隅に作られましたが、明治に入り境内の半分を皇室に献上する為、ここに移設しました。 -
富士山の溶岩で覆われた厳しい登山道、十合目迄あり、頂上には富士浅間神社が鎮座します。
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元に戻り石段を登ります。
正面は不老門、昭和13年築、この門を潜ると年を取らないそうです。
掲げられた扁額不老の文字は、当時の徳川宗家の当主、徳川家達氏です。 -
太子堂、梅が咲いています。
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太子堂の変額と扉。
遍照金剛と書かれています。 -
隣に一言地蔵尊が、一言の願いなら必ず叶えて呉れる有難いお地蔵様です。
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筆塚
日頃お世話になった筆を供養する塚。 -
金剛力士像。
明治の初め迄、隣にあった子院護持院の境内にありましたが、廃寺に伴い移されました。 -
大仏。
こちらも元は護持院にあったもの。 -
多宝塔。昭和13年の建立。
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本堂(観音堂)
1697年(元禄10年)建立、重文です。 -
大屋根と梅。
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春は桜の名所になります。
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鐘楼、江戸中期の建立。
梵鐘は1682年の寄進、銘文に桂昌院発願の謂れが記されています。
手前の灯篭は、茶人高橋箒庵が寄進した関西系灯篭の数々。 -
薬師堂 1691年築
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薬師堂の屋根。
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茶室箒庵。
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維新後檀家の無い護国寺は、境内を墓地として売り出します。
その折購入した有名人の墓地を巡ります。
三条実美公
勤皇派の公家、七卿都落ちで有名、維新後の太政大臣、明治24年死去 57才。 -
大隈重信公
明治から大正に掛けて活躍した政治家で教育者。
総理大臣を務め、早稲田大学の創立者、大正11年死去、84才。 -
山形有朋公
軍人で政治家、階位は元帥、総理大臣を務める。
日清日露の戦役を指導、宮中某重大事件の当事者、大正11年死去、83才。
多くの別邸、庭園を残しました。 -
音羽通りから春日通りを経由して伝通院に到着。
正面に建つ山門、平成24年の再建。 -
提灯を入れて1枚。
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梅が咲いています。
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境内に入ると、先ず3体の仏像がお出迎え。
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鐘楼です。梵鐘は戦災で焼け残った唯一の寺宝。
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本堂内陣の様子。
有名古寺の割には寂しい感じ、戦災で全てを失いましたからね。
本堂自体昭和63年2度目の再建です。 -
墓地に入りましょう。先ず徳川墓地。
寺名の元になった家康の生母於大の方の墓。
伝通院はこの人の為に造られた寺なのです。 -
墓石をアップで。
伝通院の文字が読み取れるでしょうか。 -
千姫の墓。
2代将軍秀忠の娘、11才で豊臣秀頼に嫁ぎ、豊臣滅亡後は姫路城主本多忠刻に再嫁、忠刻亡き後は髪を下ろし江戸にて暮らす。 69才で死去。 -
3代将軍家光の正室孝子の墓
京都摂関家の出身、子供はいない、73才で死去。
墓前に白い猫がうずくまって居ます。
本来なら正室として家光と同じ墓に入ってもよいのですが、家光は家康を敬慕するあまり、一人日光東照宮の境内に収まっています、又夫婦仲が良くなかったともいわれています。 -
その他将軍子女や一族の墓が並びます。
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一般墓地に入ります、目に付いた墓です。
先ず杉浦重剛氏
明治大正の教育者で思想家、大正13年没 68才。
墓石の後ろに薄い紅梅と白梅を植え落着いた雰囲気を醸します。 -
古泉千樫氏
アララギ派の歌人、昭和2年没 41才。 -
佐藤春夫氏
大正、昭和の詩人、小説家、代表作”田園の憂鬱”
昭和39年没 72才。 -
柴田錬三郎氏
柴錬の愛称で呼ばれた昭和の小説家、歴史小説(戦国、幕末期)が多く、代表作”眠狂四郎無頼控”、ベストドレッサー賞を受賞、昭和53年没 61才。
墓石は横尾忠則氏のデザイン。 -
橋本明治氏
昭和を代表する日本画家、日本芸術院会員、文化勲章受章、
平成3年没 86才。 -
伝通院から7~8分歩くとシビックセンター、文京区役所です、ここから地下鉄で帰宅します。
終
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