唐津・虹の松原旅行記(ブログ) 一覧に戻る
GO TOトラベルキャンペーンの恩恵を受けて<br />なかなかいけないところへ行ってみようというわ<br />けで、邪馬台国を探しに九州北部へ行くことにし<br />た。<br /><br />しかし、出発週になって、東京での新型コロナウ<br />ィルスの患者が連日の500人超え。実際には埼玉<br />や千葉など、周辺県の検体も東京に持ち込まれて、<br />全部東京の陽性者数に入れてしまっているみたい<br />だが、それにしても多いな。<br /><br />まあ、東京の重症者は少ないし、歓楽街をウロウ<br />ロするような人間じゃないし、、第一今更キャン<br />セルなんかできるかよということで出発した。<br /><br />楽天トラベルで、航空券と1泊目の宿のセットで<br />検索したが、10月末ではキャンペーンの割引込み<br />で、4万円代だったが、11月に入って検索すると<br />3万4千円になっていた。この辺の航空券の値動<br />きってどうなっているのだろう。<br /><br />10月の青森ではギリギリまで粘って、高値掴みを<br />してしまったので、今回はこの時点で予約を入れ<br />た。ついでに楽天スーパーポイントも使って3万<br />円となった。2日目の宿代を合わせても3万5千<br />円。九州往復でこの値段なら御の字だろう。<br />

古代史のミッシングリンク―邪馬台国はどこにある!?①(唐津~吉野ケ里~志賀島)

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2020/11/20 - 2020/11/22

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ハイペリオン

ハイペリオンさん

GO TOトラベルキャンペーンの恩恵を受けて
なかなかいけないところへ行ってみようというわ
けで、邪馬台国を探しに九州北部へ行くことにし
た。

しかし、出発週になって、東京での新型コロナウ
ィルスの患者が連日の500人超え。実際には埼玉
や千葉など、周辺県の検体も東京に持ち込まれて、
全部東京の陽性者数に入れてしまっているみたい
だが、それにしても多いな。

まあ、東京の重症者は少ないし、歓楽街をウロウ
ロするような人間じゃないし、、第一今更キャン
セルなんかできるかよということで出発した。

楽天トラベルで、航空券と1泊目の宿のセットで
検索したが、10月末ではキャンペーンの割引込み
で、4万円代だったが、11月に入って検索すると
3万4千円になっていた。この辺の航空券の値動
きってどうなっているのだろう。

10月の青森ではギリギリまで粘って、高値掴みを
してしまったので、今回はこの時点で予約を入れ
た。ついでに楽天スーパーポイントも使って3万
円となった。2日目の宿代を合わせても3万5千
円。九州往復でこの値段なら御の字だろう。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
ホテル
4.0
グルメ
4.0
ショッピング
5.0
交通
4.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
3万円 - 5万円
交通手段
ANAグループ JRローカル 徒歩
旅行の手配内容
個別手配
利用旅行会社
楽天トラベル

PR

  • 邪馬台国が中国の歴史に初めて登場するのは<br />「魏志倭人伝」と呼ばれる書物である。<br /><br />正確には『三国志魏書烏丸鮮卑東夷伝倭人条』<br />という。<br /><br />『三国志』はバラバラに書かれた三国時代<br />の魏、呉、蜀の歴史書を西晋時代の官吏、<br />陳寿(233~297)が編纂したものである。<br /><br />我々が親しむ、関羽が奮戦し、張飛が暴れ、<br />諸葛孔明が知略をめぐらす『三国志』は<br />蜀の劉備を善玉に、魏の曹操をヒールに仕立<br />て上げて語られる『三国志演義』という脚色<br />された物語である。<br /><br />邪馬台国を含む倭国のことは見開き2ページ<br />にわたって1600字程度書かれており、この短<br />い記述だけをもとに江戸時代からあーでもな<br />いこーでもない、「奈良にあった」「いや北<br />九州だ」「素直に読めば奄美大島あたり」<br />「フィリピンじゃねーか?」などとかんかん<br />がくがくの議論を何百年も行われているのだ。<br /><br />「魏志倭人伝」は、魏の将軍司馬懿(しばい)<br />が朝貢を促す使者を倭国に派遣し、使者の帰<br />国後、その報告をまとめたものである。<br /><br />いくつか誇張はあるものの、対馬の状況や九<br />州北部地方の習俗習慣などは、やはり実際に<br />見た者の報告によって書かれたものだという<br />ことはわかる。<br /><br />司馬懿とは、「三国志」では司馬懿仲達(し<br />ばいちゅうたつ)という名で知られている。<br /><br />彼の名を有名にしたのは、五丈原の戦いであ<br />ろう。蜀の諸葛孔明が行った北伐で対峙した<br />のが司馬懿だが、孔明が陣中で病没すると、<br />蜀は軍を引き上げた。孔明死すを知った司馬<br />懿は、撤退する蜀軍を追撃した。しかし、戦<br />車に木彫りの孔明の人形を乗せて反撃する蜀<br />軍に、司馬懿は「孔明生きてるやん! めっ<br />ちゃやばいやん! 全軍退けい!」と命令し<br />退却してしまった。<br /><br />「死せる孔明生ける仲達を走らす」と詠われ<br />た、あの司馬懿仲達である。<br /><br />これだけ見るといささか間抜けな将軍だが、<br />実際は魏帝室において曹家と勢力を二分す<br />る一族の長である。孫の司馬炎の時代に曹<br />家から帝位を奪い、晋という統一王朝を建<br />てた。<br /><br />司馬懿は、遼東半島にあって、燕という国を<br />自称していた公孫淵を滅ぼした238年にすぐ<br />さま倭国へ使者を派遣している。ほとんど、<br />急使といっていいくらいの素早さである。<br /><br />なぜ司馬懿はそんなに急いだのか。<br /><br />時をさかのぼること208年。三国志最大の戦<br />い、赤壁の戦いがあった。<br /><br />「レッドクリフ」という映画にもなった有名<br />な戦である。<br /><br />このとき、魏の水軍は呉のブリーフ将軍トニ<br />ー・レオンじゃなくて、周瑜率いる水軍によ<br />って壊滅させられた。<br /><br />魏にとっては、対呉を考えれば水軍の強化は<br />必須だったはずだ。その一翼を倭国に担って<br />もらいたいという期待があったのかもしれな<br />い。<br /><br />倭国と軍事同盟を結び、呉を挟み撃ちとは言<br />わぬまでも、呉の水軍をけん制するくらいは<br />期待していたのではないか。<br /><br />それだけに、帰国した使者から聞いた倭国の<br />状況に司馬懿は落胆したことは察せられる。<br /><br />「倭人伝」に距離や規模、人口に誇張が見ら<br />れるのは、遠方の巨大な島国からも朝貢して<br />来た我が国はなかなかすごいだろと周辺国に<br />対してアピールするという目的もあったので<br />はないか。<br /><br />

    邪馬台国が中国の歴史に初めて登場するのは
    「魏志倭人伝」と呼ばれる書物である。

    正確には『三国志魏書烏丸鮮卑東夷伝倭人条』
    という。

    『三国志』はバラバラに書かれた三国時代
    の魏、呉、蜀の歴史書を西晋時代の官吏、
    陳寿(233~297)が編纂したものである。

    我々が親しむ、関羽が奮戦し、張飛が暴れ、
    諸葛孔明が知略をめぐらす『三国志』は
    蜀の劉備を善玉に、魏の曹操をヒールに仕立
    て上げて語られる『三国志演義』という脚色
    された物語である。

    邪馬台国を含む倭国のことは見開き2ページ
    にわたって1600字程度書かれており、この短
    い記述だけをもとに江戸時代からあーでもな
    いこーでもない、「奈良にあった」「いや北
    九州だ」「素直に読めば奄美大島あたり」
    「フィリピンじゃねーか?」などとかんかん
    がくがくの議論を何百年も行われているのだ。

    「魏志倭人伝」は、魏の将軍司馬懿(しばい)
    が朝貢を促す使者を倭国に派遣し、使者の帰
    国後、その報告をまとめたものである。

    いくつか誇張はあるものの、対馬の状況や九
    州北部地方の習俗習慣などは、やはり実際に
    見た者の報告によって書かれたものだという
    ことはわかる。

    司馬懿とは、「三国志」では司馬懿仲達(し
    ばいちゅうたつ)という名で知られている。

    彼の名を有名にしたのは、五丈原の戦いであ
    ろう。蜀の諸葛孔明が行った北伐で対峙した
    のが司馬懿だが、孔明が陣中で病没すると、
    蜀は軍を引き上げた。孔明死すを知った司馬
    懿は、撤退する蜀軍を追撃した。しかし、戦
    車に木彫りの孔明の人形を乗せて反撃する蜀
    軍に、司馬懿は「孔明生きてるやん! めっ
    ちゃやばいやん! 全軍退けい!」と命令し
    退却してしまった。

    「死せる孔明生ける仲達を走らす」と詠われ
    た、あの司馬懿仲達である。

    これだけ見るといささか間抜けな将軍だが、
    実際は魏帝室において曹家と勢力を二分す
    る一族の長である。孫の司馬炎の時代に曹
    家から帝位を奪い、晋という統一王朝を建
    てた。

    司馬懿は、遼東半島にあって、燕という国を
    自称していた公孫淵を滅ぼした238年にすぐ
    さま倭国へ使者を派遣している。ほとんど、
    急使といっていいくらいの素早さである。

    なぜ司馬懿はそんなに急いだのか。

    時をさかのぼること208年。三国志最大の戦
    い、赤壁の戦いがあった。

    「レッドクリフ」という映画にもなった有名
    な戦である。

    このとき、魏の水軍は呉のブリーフ将軍トニ
    ー・レオンじゃなくて、周瑜率いる水軍によ
    って壊滅させられた。

    魏にとっては、対呉を考えれば水軍の強化は
    必須だったはずだ。その一翼を倭国に担って
    もらいたいという期待があったのかもしれな
    い。

    倭国と軍事同盟を結び、呉を挟み撃ちとは言
    わぬまでも、呉の水軍をけん制するくらいは
    期待していたのではないか。

    それだけに、帰国した使者から聞いた倭国の
    状況に司馬懿は落胆したことは察せられる。

    「倭人伝」に距離や規模、人口に誇張が見ら
    れるのは、遠方の巨大な島国からも朝貢して
    来た我が国はなかなかすごいだろと周辺国に
    対してアピールするという目的もあったので
    はないか。

  • そもそも「邪馬台国畿内説」というのは、<br />「邪馬台(やまたい)」の音が「やまと」に<br />似ているからということが論拠になっている<br />のだが、もし大和の連中が自らを「やまと」<br />と名乗ったのなら、中国側は「都」の文字を<br />当てて「邪馬都」と記載するはずである。<br /><br />また、「邪馬臺」ではなく「邪馬壹(やまい)」<br />であると主張する一派もあり、こうなると、<br />「邪馬台」=「やまと」はいよいよ不自然に<br />なる。<br /><br />邪馬壹国は邪馬壱国と呼ばれることの方が多<br />く、これを大々的に提唱したのは古田武彦と<br />いう在野の研究者である。<br /><br />古田氏の著書「邪馬台国はなかった」は一般<br />の古代史好きにセンセーションを巻き起こし、<br />大学に入ったかどうかのころのぼくも手に取<br />った。<br /><br />後にこの人の評判を聞くと、研究姿勢にはか<br />なり問題があったらしい。いろいろな学会に<br />首を突っ込んで、聞きかじったことを自分の<br />論文に書くとか、他人の論文を引用してその<br />出典を明示しないなど、いささかうさん臭い<br />ところがあったようだ。<br /><br />まだまだ若くてケツの青いガキだった僕は、<br />胡散臭いながらもアジテーター的な物言いを<br />する人のことを妙に信用してしまうところが<br />あり、この古田氏とか落合信彦の本を読みふ<br />けっていたものだった。<br /><br />落合信彦の著書に「UFOを飛ばしているの<br />は南米に逃げたナチスドイツの残党たちで、<br />その秘密基地がチリにある」というのを読ん<br />でえらく興奮し、バックパック担いでチリま<br />で行き、その「ナチスの秘密基地」なるもの<br />がある近くの街まで行った。<br /><br />その街の人たちに「ナチスの秘密基地」の話<br />をすると失笑を買い、「あそこは、ドイツ人<br />が始めた新興宗教のコミュニティだよ」諭さ<br />れた。<br /><br />邪馬台国か邪馬壹国かについては、個人的に<br />は邪馬壹国だと思う。要するにどの写本を信<br />用するかだが、これについて書いていくと、<br />それだけで一冊の本になってしまうので、こ<br />こでは邪馬台国として旅行記を進める。

    そもそも「邪馬台国畿内説」というのは、
    「邪馬台(やまたい)」の音が「やまと」に
    似ているからということが論拠になっている
    のだが、もし大和の連中が自らを「やまと」
    と名乗ったのなら、中国側は「都」の文字を
    当てて「邪馬都」と記載するはずである。

    また、「邪馬臺」ではなく「邪馬壹(やまい)」
    であると主張する一派もあり、こうなると、
    「邪馬台」=「やまと」はいよいよ不自然に
    なる。

    邪馬壹国は邪馬壱国と呼ばれることの方が多
    く、これを大々的に提唱したのは古田武彦と
    いう在野の研究者である。

    古田氏の著書「邪馬台国はなかった」は一般
    の古代史好きにセンセーションを巻き起こし、
    大学に入ったかどうかのころのぼくも手に取
    った。

    後にこの人の評判を聞くと、研究姿勢にはか
    なり問題があったらしい。いろいろな学会に
    首を突っ込んで、聞きかじったことを自分の
    論文に書くとか、他人の論文を引用してその
    出典を明示しないなど、いささかうさん臭い
    ところがあったようだ。

    まだまだ若くてケツの青いガキだった僕は、
    胡散臭いながらもアジテーター的な物言いを
    する人のことを妙に信用してしまうところが
    あり、この古田氏とか落合信彦の本を読みふ
    けっていたものだった。

    落合信彦の著書に「UFOを飛ばしているの
    は南米に逃げたナチスドイツの残党たちで、
    その秘密基地がチリにある」というのを読ん
    でえらく興奮し、バックパック担いでチリま
    で行き、その「ナチスの秘密基地」なるもの
    がある近くの街まで行った。

    その街の人たちに「ナチスの秘密基地」の話
    をすると失笑を買い、「あそこは、ドイツ人
    が始めた新興宗教のコミュニティだよ」諭さ
    れた。

    邪馬台国か邪馬壹国かについては、個人的に
    は邪馬壹国だと思う。要するにどの写本を信
    用するかだが、これについて書いていくと、
    それだけで一冊の本になってしまうので、こ
    こでは邪馬台国として旅行記を進める。

  • 邪馬台国の位置の特定については、あおきて<br />つおという漫画家の『邪馬台国は隠された』<br />という本をもとにしている。<br /><br />この人は、古代史が大好きな漫画家で、何十<br />年もの間、邪馬台国について研究している人<br />である。<br /><br />日本の古代史家のように、「魏志倭人伝」だ<br />けに拘泥することなく、魏帝室の政治状況や<br />中国の距離の測り方、後世の人間が邪馬台国<br />の位置を特定するのに混乱してしまう短里と<br />長里も理解している。この人が特定した邪馬<br />台国の位置は、ぼくが漠然と想像していたと<br />ころとほぼ同じだった。

    邪馬台国の位置の特定については、あおきて
    つおという漫画家の『邪馬台国は隠された』
    という本をもとにしている。

    この人は、古代史が大好きな漫画家で、何十
    年もの間、邪馬台国について研究している人
    である。

    日本の古代史家のように、「魏志倭人伝」だ
    けに拘泥することなく、魏帝室の政治状況や
    中国の距離の測り方、後世の人間が邪馬台国
    の位置を特定するのに混乱してしまう短里と
    長里も理解している。この人が特定した邪馬
    台国の位置は、ぼくが漠然と想像していたと
    ころとほぼ同じだった。

  • 13時20分発のANA453便佐賀行き。<br /><br />先月JALで青森へ行き、ちょこっとマイルがたま<br />ったので、今回もと思ったが、JALは佐賀へは飛<br />んでいなかった。<br /><br /><br />

    13時20分発のANA453便佐賀行き。

    先月JALで青森へ行き、ちょこっとマイルがたま
    ったので、今回もと思ったが、JALは佐賀へは飛
    んでいなかった。


  • 満席に近いはずだが、ゲート近くはパラパラと人が<br />いるだけだった。

    満席に近いはずだが、ゲート近くはパラパラと人が
    いるだけだった。

  • 佐賀到着は15時20分。佐賀市内へ着くのはおそら<br />く16時。できればこの日のうちに吉野ケ里遺跡を<br />見に行ければと思っていたが、どうやら時間はなさ<br />そうだ。

    佐賀到着は15時20分。佐賀市内へ着くのはおそら
    く16時。できればこの日のうちに吉野ケ里遺跡を
    見に行ければと思っていたが、どうやら時間はなさ
    そうだ。

  • 予約を入れた時点で座席指定をしたのだが、その<br />ときはほぼ満席で、3列の真ん中か非常口の窓側<br />しか空いておらず、非常口の窓側にした。<br /><br />しかし、実際は8割くらいしか埋まっておらず、<br />ぼくの隣2席は空席だった。<br /><br />ぼくの真後ろのスーツを着た男が頻繁に鼻をすす<br />っている。そして時折くしゃみ。明らかに風邪を<br />ひいていて、かなり緊張する。<br /><br />離陸して安定飛行に入った時点で真ん中の席へ移<br />動した。<br /><br />

    予約を入れた時点で座席指定をしたのだが、その
    ときはほぼ満席で、3列の真ん中か非常口の窓側
    しか空いておらず、非常口の窓側にした。

    しかし、実際は8割くらいしか埋まっておらず、
    ぼくの隣2席は空席だった。

    ぼくの真後ろのスーツを着た男が頻繁に鼻をすす
    っている。そして時折くしゃみ。明らかに風邪を
    ひいていて、かなり緊張する。

    離陸して安定飛行に入った時点で真ん中の席へ移
    動した。

  • 定刻通りに佐賀駅に着陸。<br /><br />空港バスで佐賀駅へ向かった。<br /><br />ここから唐津線に乗り、唐津まで行き、筑肥線に<br />乗り換えて東唐津まで行く。<br /><br />列車の出発まで20分ほどあるので、駅構内でかつ<br />丼を食べた。

    定刻通りに佐賀駅に着陸。

    空港バスで佐賀駅へ向かった。

    ここから唐津線に乗り、唐津まで行き、筑肥線に
    乗り換えて東唐津まで行く。

    列車の出発まで20分ほどあるので、駅構内でかつ
    丼を食べた。

  • ちょうど学校の下校時間と重なってしまい、3両編<br />成の列車内はすでに高校生で一杯だった。おまけに<br />みんな自分の隣に荷物を置いたり、座席の真ん中に<br />掛けたりして4人が向かい合う形のシートに2人し<br />か座れない。おかげで、立っている人は結構多かっ<br />た。佐賀の教育はどうなっておるのだ。<br /><br />しかし、15分くらいすると少しずつ降りていく生徒<br />が出てきて座ることができた。<br />

    ちょうど学校の下校時間と重なってしまい、3両編
    成の列車内はすでに高校生で一杯だった。おまけに
    みんな自分の隣に荷物を置いたり、座席の真ん中に
    掛けたりして4人が向かい合う形のシートに2人し
    か座れない。おかげで、立っている人は結構多かっ
    た。佐賀の教育はどうなっておるのだ。

    しかし、15分くらいすると少しずつ降りていく生徒
    が出てきて座ることができた。

  • 唐津で筑肥線に乗り換え、17時半過ぎに東唐津駅着。<br /><br />辺りはもう真っ暗だった。

    唐津で筑肥線に乗り換え、17時半過ぎに東唐津駅着。

    辺りはもう真っ暗だった。

  • 高校生が2~3人たむろしている駅の待合室を出て、<br />ホテルを目指した。外の風は結構冷たかった。<br /><br />東京が季節外れの暑さだったので、シャツの上に安<br />物の薄いアーミージャケットしか着ていなかったが、<br />もう一段厚めのブルゾンにした方がよかった。<br /><br />駅を出て松浦川沿いを海に向かって歩いた。風がび<br />ゅんびゅん吹いている。車はしきりに通りすぎるが、<br />人は全く歩いていない。<br /><br />初めての土地で暗くなってから人に出会わないとい<br />うのはひどく心細いものである。<br /><br />進行方向のずっと遠くに街の光が瞬いているが、何<br />とも寂しい道路である。<br /><br />途中で右折して虹ノ松原方面に向かった。周囲は松<br />林があるだけで、民家は一軒もなく、だんだん薄気<br />味悪くなってきた。<br /><br />砂浜沿いなので、大きなリゾートホテルがあった。<br /><br />歩道がなく、車がすぐ近くを通り過ぎていく道路<br />を3分ほど歩くと、今日の宿、国民宿舎虹ノ松原<br />ホテルがあった。

    高校生が2~3人たむろしている駅の待合室を出て、
    ホテルを目指した。外の風は結構冷たかった。

    東京が季節外れの暑さだったので、シャツの上に安
    物の薄いアーミージャケットしか着ていなかったが、
    もう一段厚めのブルゾンにした方がよかった。

    駅を出て松浦川沿いを海に向かって歩いた。風がび
    ゅんびゅん吹いている。車はしきりに通りすぎるが、
    人は全く歩いていない。

    初めての土地で暗くなってから人に出会わないとい
    うのはひどく心細いものである。

    進行方向のずっと遠くに街の光が瞬いているが、何
    とも寂しい道路である。

    途中で右折して虹ノ松原方面に向かった。周囲は松
    林があるだけで、民家は一軒もなく、だんだん薄気
    味悪くなってきた。

    砂浜沿いなので、大きなリゾートホテルがあった。

    歩道がなく、車がすぐ近くを通り過ぎていく道路
    を3分ほど歩くと、今日の宿、国民宿舎虹ノ松原
    ホテルがあった。

  • 3階建ての細長い建物で、運動部の学生たちが団体で<br />宿泊していた。<br /><br />フロントで6千円分の地域共通クーポンをもらった。

    3階建ての細長い建物で、運動部の学生たちが団体で
    宿泊していた。

    フロントで6千円分の地域共通クーポンをもらった。

  • 客室もいたってシンプル。これで十分である。<br /><br />すこし落ち着いてから外に出た。外と言っても松林し<br />かないところなのだが、唐津方面に歩くと、コンビニ<br />や飲み屋がポツリポツリとあった。<br /><br />お好み焼き屋の看板を見て、急に食べたくなり、ミッ<br />クス焼きをテイクアウトした。さっきかつ丼を食べた<br />ばっかりなんだけどな。<br /><br />コンビニで、ビールと食べ物を少し購入。

    客室もいたってシンプル。これで十分である。

    すこし落ち着いてから外に出た。外と言っても松林し
    かないところなのだが、唐津方面に歩くと、コンビニ
    や飲み屋がポツリポツリとあった。

    お好み焼き屋の看板を見て、急に食べたくなり、ミッ
    クス焼きをテイクアウトした。さっきかつ丼を食べた
    ばっかりなんだけどな。

    コンビニで、ビールと食べ物を少し購入。

  • お好み焼きは、大阪人からするとはっきり言ってうま<br />いとは言えない味であった。本場で修業するように。<br /><br />9時を過ぎると眠くなってきて、テレビを見ながら寝<br />てしまった。電気も消さず歯も磨いていなかった。

    お好み焼きは、大阪人からするとはっきり言ってうま
    いとは言えない味であった。本場で修業するように。

    9時を過ぎると眠くなってきて、テレビを見ながら寝
    てしまった。電気も消さず歯も磨いていなかった。

  • 目が覚めたのは6時。あ~あ、やってしもた。<br />6時には宿を出るつもりだったのに。<br /><br />東松浦半島へ行って、呼子あたりを見て、ほかにも見た<br />いものがあったのだが、あきらめた。<br /><br />7時半にチェックアウトをして、宿の裏の浜辺へ向かった。<br /><br />防砂林が海風によってきれいに斜めになっていた。

    目が覚めたのは6時。あ~あ、やってしもた。
    6時には宿を出るつもりだったのに。

    東松浦半島へ行って、呼子あたりを見て、ほかにも見た
    いものがあったのだが、あきらめた。

    7時半にチェックアウトをして、宿の裏の浜辺へ向かった。

    防砂林が海風によってきれいに斜めになっていた。

  • 晴天の浜辺は冷たい風が強く吹いていた。<br /><br />持ってきた小型のポータブルラジオで中波のダイヤル<br />を回すと、朝の8時30分という明るい時間帯なのに<br />北朝鮮の放送が受信できた。

    晴天の浜辺は冷たい風が強く吹いていた。

    持ってきた小型のポータブルラジオで中波のダイヤル
    を回すと、朝の8時30分という明るい時間帯なのに
    北朝鮮の放送が受信できた。

  • 魏からやって来た使者は、唐津市の東松浦半島の北端<br />に位置する呼子(よぶこ)あたりに到着したといわれ<br />ている。<br /><br />唐津は「唐」の文字が使われているように、中国との<br />往来に使われた港があった場所である。<br /><br />豊臣秀吉の朝鮮侵略の際もここに拠点が築かれた。<br /><br />「魏志倭人伝」には「また一海を渡り、千余里にし<br />て末盧國(まつらこく/まつろこく)に至り、四千<br />余戸あり。山海に浜(そ)いて居(す)み、草木は<br />茂盛(もせい)して、行くに前の人を見ず」とある。<br /><br />人々は山や海沿いに住み、前が見えないほど草木が<br />繁茂していた風景が分かる。<br /><br />東松浦半島に着いた魏の一行は、ここから邪馬台国<br />を目指したのだ。<br /><br />おそらく、陸路で邪馬台国を目指したのは一部で、<br />献上品の鏡などは船に積んで、陸路を行く一行と<br />歩調を合わせる感じで博多方面へ向かったのでな<br />いかと思われる。<br /><br />

    魏からやって来た使者は、唐津市の東松浦半島の北端
    に位置する呼子(よぶこ)あたりに到着したといわれ
    ている。

    唐津は「唐」の文字が使われているように、中国との
    往来に使われた港があった場所である。

    豊臣秀吉の朝鮮侵略の際もここに拠点が築かれた。

    「魏志倭人伝」には「また一海を渡り、千余里にし
    て末盧國(まつらこく/まつろこく)に至り、四千
    余戸あり。山海に浜(そ)いて居(す)み、草木は
    茂盛(もせい)して、行くに前の人を見ず」とある。

    人々は山や海沿いに住み、前が見えないほど草木が
    繁茂していた風景が分かる。

    東松浦半島に着いた魏の一行は、ここから邪馬台国
    を目指したのだ。

    おそらく、陸路で邪馬台国を目指したのは一部で、
    献上品の鏡などは船に積んで、陸路を行く一行と
    歩調を合わせる感じで博多方面へ向かったのでな
    いかと思われる。

  • 虹ノ松原周辺は、弥生時代あたりまでは低湿地<br />で、末盧国の人々は山裾近くの高台に住んでい<br />たようだ。

    虹ノ松原周辺は、弥生時代あたりまでは低湿地
    で、末盧国の人々は山裾近くの高台に住んでい
    たようだ。

  • 虹ノ松原に沿った道路を松浦川方面へ歩く。ここ<br />を昨夜はとぼとぼと歩いた。<br /><br />歩道はなく、車が行き交うちょっと危ない道路だ。<br /><br />松林の中を野球部の少年たちがランニングをして<br />いた。

    虹ノ松原に沿った道路を松浦川方面へ歩く。ここ
    を昨夜はとぼとぼと歩いた。

    歩道はなく、車が行き交うちょっと危ない道路だ。

    松林の中を野球部の少年たちがランニングをして
    いた。

  • 松浦川の河口に橋が架かり、唐津の街と結ばれている。<br /><br />ここから1キロほど上流の谷間に縄文時代晩期と考えら<br />れる稲作の跡が残る遺跡がある。日本の稲作の始原地と<br />言われている。<br />

    松浦川の河口に橋が架かり、唐津の街と結ばれている。

    ここから1キロほど上流の谷間に縄文時代晩期と考えら
    れる稲作の跡が残る遺跡がある。日本の稲作の始原地と
    言われている。

  • 松浦川の河口の突端に唐津城が見える。<br /><br />「魏志倭人伝」にはこのあたりを末盧国と記してい<br />るが、すでに国は滅んでおり、奴国の支配下にあっ<br />た。おそらく地名だけが残っていたのだろう。<br /><br />川を渡った近くに和多田駅があるのだが、唐津駅が<br />2キロほど先にあり、歩ける距離だし、乗り換える<br />必要もないので、唐津駅まで行くことにした。

    松浦川の河口の突端に唐津城が見える。

    「魏志倭人伝」にはこのあたりを末盧国と記してい
    るが、すでに国は滅んでおり、奴国の支配下にあっ
    た。おそらく地名だけが残っていたのだろう。

    川を渡った近くに和多田駅があるのだが、唐津駅が
    2キロほど先にあり、歩ける距離だし、乗り換える
    必要もないので、唐津駅まで行くことにした。

  • 30分ほど歩くと唐津駅に着いた。<br /><br />まずは今日の宿泊地、福岡の苅田(かんだ)駅ま<br />での切符を買う。<br /><br />ここで手痛いミス。明日は大分の宇佐まで行くの<br />だから、宇佐まで買うべきだった。長距離きっぷ<br />だから、2日間乗り降り自由なのに。

    30分ほど歩くと唐津駅に着いた。

    まずは今日の宿泊地、福岡の苅田(かんだ)駅ま
    での切符を買う。

    ここで手痛いミス。明日は大分の宇佐まで行くの
    だから、宇佐まで買うべきだった。長距離きっぷ
    だから、2日間乗り降り自由なのに。

  • 駅の売店でクジラの軟骨の玄海漬け(粕漬)<br />やたこの塩辛なんかを買って、地域共通クー<br />ポンを消費した。<br /><br />ついでにコンビニ肉まんを買い、遅い朝食を<br />摂った。

    駅の売店でクジラの軟骨の玄海漬け(粕漬)
    やたこの塩辛なんかを買って、地域共通クー
    ポンを消費した。

    ついでにコンビニ肉まんを買い、遅い朝食を
    摂った。

  • 鳥栖行きの電車がやって来た。昨日と同じタイプ。

    鳥栖行きの電車がやって来た。昨日と同じタイプ。

  • 途中、蔦だらけの廃屋とか、こんな感じの<br />味のある駅があったりして、もう一度、<br />途中下車しながらまわりたい気になった。<br /><br />周囲に何もないような駅の階段をムスリム<br />の少女たちが上がって行った。こんなとこ<br />ろにも外国人労働者がいるのか。

    途中、蔦だらけの廃屋とか、こんな感じの
    味のある駅があったりして、もう一度、
    途中下車しながらまわりたい気になった。

    周囲に何もないような駅の階段をムスリム
    の少女たちが上がって行った。こんなとこ
    ろにも外国人労働者がいるのか。

  • 佐賀から3つ目の吉野ケ里公園駅に着いた。<br /><br />新しく作られた駅だから、他の唐津線な長崎本<br />線の駅とは違う。

    佐賀から3つ目の吉野ケ里公園駅に着いた。

    新しく作られた駅だから、他の唐津線な長崎本
    線の駅とは違う。

  • 駅を出て佐賀方面に戻る形でまっすぐな道を歩く。<br /><br />左右には稲刈りが終わった田んぼが広がっていた。<br />

    駅を出て佐賀方面に戻る形でまっすぐな道を歩く。

    左右には稲刈りが終わった田んぼが広がっていた。

  • 北側には低い山が連なっていた。<br /><br />あれが脊振山地か。

    北側には低い山が連なっていた。

    あれが脊振山地か。

  • 15分ほど歩くと、吉野ケ里遺跡公園の東口に<br />着いた。<br /><br />朝の唐津では少し冷たい風が吹いていたが、<br />昼になるとすっかり暖かく、歩くと少し汗<br />ばむくらいになっていた。

    15分ほど歩くと、吉野ケ里遺跡公園の東口に
    着いた。

    朝の唐津では少し冷たい風が吹いていたが、
    昼になるとすっかり暖かく、歩くと少し汗
    ばむくらいになっていた。

  • 集落の周囲はこのように堀をめぐらせ、柵で囲ん<br />でいる。<br /><br />堀や柵は発掘によって発見された通りに掘り、柱<br />列跡に杭を埋めたものである。<br /><br />縄文時代の遺跡の人たちは集落の周囲を囲うとい<br />うことはしなかったようだが、弥生人たちはこの<br />時期からすでに「国境」という概念があったようだ。<br /><br />狩猟採集民族と農耕民族の違いだろうか。

    集落の周囲はこのように堀をめぐらせ、柵で囲ん
    でいる。

    堀や柵は発掘によって発見された通りに掘り、柱
    列跡に杭を埋めたものである。

    縄文時代の遺跡の人たちは集落の周囲を囲うとい
    うことはしなかったようだが、弥生人たちはこの
    時期からすでに「国境」という概念があったようだ。

    狩猟採集民族と農耕民族の違いだろうか。

  • 堀の周囲には逆茂木(さかもぎ)という杭が不規<br />則に突き出していて、別の村というか集落との戦<br />闘があったことをうかがわせる。

    堀の周囲には逆茂木(さかもぎ)という杭が不規
    則に突き出していて、別の村というか集落との戦
    闘があったことをうかがわせる。

  • ここに集落ができたのは紀元前100年ごろ。それか<br />ら約300年間、ここに人が住んでいた。<br /><br />ウィキペディアには4世紀まで続いたとあるが、か<br />なり疑わしい。<br /><br />おそらく、コメの栽培を繰り返しているうちに地力<br />が弱り、人口を維持するだけの収穫が得られなくな<br />ったから、クニごと廃棄されたのではないか。

    ここに集落ができたのは紀元前100年ごろ。それか
    ら約300年間、ここに人が住んでいた。

    ウィキペディアには4世紀まで続いたとあるが、か
    なり疑わしい。

    おそらく、コメの栽培を繰り返しているうちに地力
    が弱り、人口を維持するだけの収穫が得られなくな
    ったから、クニごと廃棄されたのではないか。

  • 住居は丘陵地にあり、南側に平野部が広がっている。<br /><br />人口は1200人くらいいたとされており、弥生時代で<br />は相当大きな集落だったと思われる。

    住居は丘陵地にあり、南側に平野部が広がっている。

    人口は1200人くらいいたとされており、弥生時代で
    は相当大きな集落だったと思われる。

  • 魏の使者が来た頃も、吉野ケ里集落は存続してい<br />たが、ここのちょうど北部に伊都国があった。<br /><br />吉野ケ里とは脊振山地で隔てられており、伊都国<br />の支配地ではなかったかもしれない。

    魏の使者が来た頃も、吉野ケ里集落は存続してい
    たが、ここのちょうど北部に伊都国があった。

    吉野ケ里とは脊振山地で隔てられており、伊都国
    の支配地ではなかったかもしれない。

  • 集落は支配者層の周囲にあり、すべて竪穴式住居。<br /><br />地面に数十センチの穴を掘り、その上にかやぶき<br />屋根をかぶせたような形になっている。

    集落は支配者層の周囲にあり、すべて竪穴式住居。

    地面に数十センチの穴を掘り、その上にかやぶき
    屋根をかぶせたような形になっている。

  • 蚕を飼い、絹を作っていたようだ。<br /><br />邪馬台国が魏へ献上した品物にも絹があるが、<br />品質的にはどんなものだったのだろう。

    蚕を飼い、絹を作っていたようだ。

    邪馬台国が魏へ献上した品物にも絹があるが、
    品質的にはどんなものだったのだろう。

  • 当時の土器の複製品。

    当時の土器の複製品。

  • 火災報知器が違和感ムンムンだが、まあ仕方の<br />ないことではある。

    火災報知器が違和感ムンムンだが、まあ仕方の
    ないことではある。

  • 西側に倉が10棟以上立ち並ぶ一角があった。<br /><br />おそらくコメの貯蔵庫だろう。

    西側に倉が10棟以上立ち並ぶ一角があった。

    おそらくコメの貯蔵庫だろう。

  • 乾燥させていなければならないので高床式<br />になっており、地面に建てた柱にはネズミ<br />の侵入を防ぐため「ネズミ返し」が付けら<br />れていた。正倉院にもつけられているもの<br />である。<br /><br />

    乾燥させていなければならないので高床式
    になっており、地面に建てた柱にはネズミ
    の侵入を防ぐため「ネズミ返し」が付けら
    れていた。正倉院にもつけられているもの
    である。

  • 倉へ入るためのはしごは、ねずみが入らない<br />よう取り外し式になっている。

    倉へ入るためのはしごは、ねずみが入らない
    よう取り外し式になっている。

  • 倉庫棟の中心に2階建ての建物があった。<br /><br />この建物で位置が開かれていたということら<br />しい。本当にこんな建物だったのかは不明。

    倉庫棟の中心に2階建ての建物があった。

    この建物で位置が開かれていたということら
    しい。本当にこんな建物だったのかは不明。

  • 一般の人たちが住んでいたところから、集落<br />の支配層が住んでいた南内郭へ向かう。

    一般の人たちが住んでいたところから、集落
    の支配層が住んでいた南内郭へ向かう。

  • 柵の近くに物見やぐらが据えられていた。<br /><br />櫓はすべて南側に建てられており、外敵の侵入<br />は南側からだったことが分かる。

    柵の近くに物見やぐらが据えられていた。

    櫓はすべて南側に建てられており、外敵の侵入
    は南側からだったことが分かる。

  • 支配者層の住居は柵で囲われており、入り口には<br />門があった。

    支配者層の住居は柵で囲われており、入り口には
    門があった。

  • 南内郭の入り口の門は鳥居だった。<br /><br />これとまったく同じものが、タイやミャンマー<br />の山岳民族の村にもみられる。おそらく、倭人<br />も同じところから出ているのだろう。<br /><br />

    南内郭の入り口の門は鳥居だった。

    これとまったく同じものが、タイやミャンマー
    の山岳民族の村にもみられる。おそらく、倭人
    も同じところから出ているのだろう。

  • 有力者たちの住居特に立派と言うこともなく、<br />大きくもなかった。<br /><br />もっとも、今となってはわからないが。

    有力者たちの住居特に立派と言うこともなく、
    大きくもなかった。

    もっとも、今となってはわからないが。

  • 集落の長の住居内部。

    集落の長の住居内部。

  • 吉野ケ里から出土する土器には、機内地方のも<br />のや山陰で出土するものと同じものがあるという。<br /><br />弥生時代から各地との交流は行われていたようだ。

    吉野ケ里から出土する土器には、機内地方のも
    のや山陰で出土するものと同じものがあるという。

    弥生時代から各地との交流は行われていたようだ。

  • 櫓には手すりが付けられているが、当時はどうだ<br />ったか。<br /><br />屋根がついていたのかは疑わしい。

    櫓には手すりが付けられているが、当時はどうだ
    ったか。

    屋根がついていたのかは疑わしい。

  • 村は柵によって2重に囲まれており、相当厳重に<br />守られている。それだけ、外部とのいさかいが多<br />かったということか。

    村は柵によって2重に囲まれており、相当厳重に
    守られている。それだけ、外部とのいさかいが多
    かったということか。

  • 「魏志倭人伝」には「婦人は淫らならず、炉忌<br />(ねたみいむ)せず。盗窃せず、諍訟(そうし<br />ょう=あらそい)少なし」とあり、争いごとの<br />少ない平和な社会だったことが書かれている。

    「魏志倭人伝」には「婦人は淫らならず、炉忌
    (ねたみいむ)せず。盗窃せず、諍訟(そうし
    ょう=あらそい)少なし」とあり、争いごとの
    少ない平和な社会だったことが書かれている。

  • 南内郭の北に甕棺墓列という墓の跡があるのだが<br />鳥栖行きの電車に間に合わないかもしれないので、<br />見に行くのはやめた。

    南内郭の北に甕棺墓列という墓の跡があるのだが
    鳥栖行きの電車に間に合わないかもしれないので、
    見に行くのはやめた。

  • 入り口近くの展示室には出土物の複製品が展示<br />されていた。<br /><br />これは支配者層の服装。絹が使われているのだ<br />ろうか。

    入り口近くの展示室には出土物の複製品が展示
    されていた。

    これは支配者層の服装。絹が使われているのだ
    ろうか。

  • こちらは一般庶民の服。麻で作られている。<br /><br />夏場はこれで十分だろうが、冬は麻なんて何枚<br />重ね着しても寒かっただろうに。どうやって過<br />ごしていたのだろう。

    こちらは一般庶民の服。麻で作られている。

    夏場はこれで十分だろうが、冬は麻なんて何枚
    重ね着しても寒かっただろうに。どうやって過
    ごしていたのだろう。

  • 「あなたが思う邪馬台国の場所にシールを貼っ<br />てください」というもの。<br /><br />やっぱり九州が圧倒的に多い。中には北方領土<br />の国後島に貼っているのがいる。んなわけない<br />だろ。<br />

    「あなたが思う邪馬台国の場所にシールを貼っ
    てください」というもの。

    やっぱり九州が圧倒的に多い。中には北方領土
    の国後島に貼っているのがいる。んなわけない
    だろ。

  • 石包丁のいろいろ。<br /><br />小学生のころ、教科書で見た。

    石包丁のいろいろ。

    小学生のころ、教科書で見た。

  • 出土した甕棺(かめかん)。<br /><br />死者はこの中に入れられて埋葬された。

    出土した甕棺(かめかん)。

    死者はこの中に入れられて埋葬された。

  • 銅鐸も出土している。<br /><br /><br />かつては、銅鐸は畿内、西日本は銅剣しか出な<br />いと言われていたが、それもすでに崩れている。<br /><br />九州から近畿地方までは、ひとつの文化圏と言<br />っていいのだろう。<br /><br />ぼくが生まれ育ったのは大阪南部だが、子供の<br />ころ近所の造成地から銅鐸が出土した。これが<br />日本で2番目に出土した銅鐸だった。当時はけ<br />っこうな自慢だったのだが、今ではあちこちの<br />遺跡から出土するようになった。

    銅鐸も出土している。


    かつては、銅鐸は畿内、西日本は銅剣しか出な
    いと言われていたが、それもすでに崩れている。

    九州から近畿地方までは、ひとつの文化圏と言
    っていいのだろう。

    ぼくが生まれ育ったのは大阪南部だが、子供の
    ころ近所の造成地から銅鐸が出土した。これが
    日本で2番目に出土した銅鐸だった。当時はけ
    っこうな自慢だったのだが、今ではあちこちの
    遺跡から出土するようになった。

  • 脊振山地の北にあった伊都国に関しては、「郡<br />使の往来に常にとどまるところあり」という記<br />述がある。ここに邪馬台国の出先機関があり、<br />楽浪郡や中国大陸の使者は伊都国においてとど<br />め置かれていた。<br /><br />邪馬台国側の受け入れ態勢が整ってから、移動<br />することになる。<br /><br />あるいは、邪馬台国の役人がここまで出向いて<br />きたのかもしれない。<br /><br /><br />

    脊振山地の北にあった伊都国に関しては、「郡
    使の往来に常にとどまるところあり」という記
    述がある。ここに邪馬台国の出先機関があり、
    楽浪郡や中国大陸の使者は伊都国においてとど
    め置かれていた。

    邪馬台国側の受け入れ態勢が整ってから、移動
    することになる。

    あるいは、邪馬台国の役人がここまで出向いて
    きたのかもしれない。


  • 唐津に着き、末盧国に入った魏の使者たちは、<br />そのまま陸路で伊都国に入ったのだろうか。<br /><br />唐津から糸島へは海まで山が迫っており、献<br />上品や自分たちの荷物を運びながら移動する<br />のは、あの時代を考えるとまず不可能である。<br /><br />おそらく一行は再び船に戻り、海路で糸島を<br />目指したのではないか。

    唐津に着き、末盧国に入った魏の使者たちは、
    そのまま陸路で伊都国に入ったのだろうか。

    唐津から糸島へは海まで山が迫っており、献
    上品や自分たちの荷物を運びながら移動する
    のは、あの時代を考えるとまず不可能である。

    おそらく一行は再び船に戻り、海路で糸島を
    目指したのではないか。

  • 電車の時間が迫って来たので、吉野ケ里を後に<br />し、鳥栖行きの電車に乗った。<br /><br />鳥栖で乗り換え、鹿児島本線の門司港域に乗り、<br />博多から3駅先の香椎で降りた。

    電車の時間が迫って来たので、吉野ケ里を後に
    し、鳥栖行きの電車に乗った。

    鳥栖で乗り換え、鹿児島本線の門司港域に乗り、
    博多から3駅先の香椎で降りた。

  • 香椎から香椎線に乗り、終点の西戸崎(さいと<br />ざき)で降りた。<br /><br />

    香椎から香椎線に乗り、終点の西戸崎(さいと
    ざき)で降りた。

  • この海の中道の先に志賀島がある。<br /><br />志賀島は、「漢倭奴国王」の金印が出土した<br />場所である。<br /><br />堤防の向こうに見えるのが志賀島である。<br /><br />金印が発見された場所は公園になっているが、<br />時間がないから行くことはできない。<br /><br />奴国は博多駅から南の南福岡駅周辺が中心地<br />とされており、須玖岡本遺跡からは大規模な<br />集落跡や王墓が発見されている。<br /><br />戸数2万5千戸というから、当時としては最<br />大級の都市だったのだろう。

    この海の中道の先に志賀島がある。

    志賀島は、「漢倭奴国王」の金印が出土した
    場所である。

    堤防の向こうに見えるのが志賀島である。

    金印が発見された場所は公園になっているが、
    時間がないから行くことはできない。

    奴国は博多駅から南の南福岡駅周辺が中心地
    とされており、須玖岡本遺跡からは大規模な
    集落跡や王墓が発見されている。

    戸数2万5千戸というから、当時としては最
    大級の都市だったのだろう。

  • 福岡平野南部が中心地だった奴国の王が所持し<br />ていた金印が、なぜ遠くの志賀島で発見された<br />のか。<br /><br />発見場所は、傾斜地の狭い農地だったそうである。<br /><br />奴国は邪馬台国との戦いに敗れ、服属すること<br />になるが、その際、王から金印を託された部下<br />がここへ埋めたのではないかとされている。

    福岡平野南部が中心地だった奴国の王が所持し
    ていた金印が、なぜ遠くの志賀島で発見された
    のか。

    発見場所は、傾斜地の狭い農地だったそうである。

    奴国は邪馬台国との戦いに敗れ、服属すること
    になるが、その際、王から金印を託された部下
    がここへ埋めたのではないかとされている。

  • 西戸崎から再び香椎へ戻り、小倉行きの電車に<br />乗った。<br /><br />

    西戸崎から再び香椎へ戻り、小倉行きの電車に
    乗った。

  • 小倉に着いて改札にきっぷを入れると、ブザ<br />ーとともに戻って来た。駅員に差し出すと、<br />苅田のある日豊本線へは一つ前の西小倉で分<br />かれており、小倉で降りるには差額を払わな<br />ければならないのだ。<br /><br />駅員に西小倉までの往復分340円を支払って<br />外に出た。<br /><br />周囲はすでに暗くなっていた。

    小倉に着いて改札にきっぷを入れると、ブザ
    ーとともに戻って来た。駅員に差し出すと、
    苅田のある日豊本線へは一つ前の西小倉で分
    かれており、小倉で降りるには差額を払わな
    ければならないのだ。

    駅員に西小倉までの往復分340円を支払って
    外に出た。

    周囲はすでに暗くなっていた。

  • 駅前にアーケード街があったので、ここで<br />晩めしにした。<br /><br />店を覗くとみんなつめつめ状態で、酒を飲<br />みながら口角泡を飛ばしながらしゃべって<br />いる。よくこんな状態でクラスターが発生<br />しないものだと思っていたら、この2週間<br />後から福岡の新型コロナウィルスの感染者<br />が増えだした。

    駅前にアーケード街があったので、ここで
    晩めしにした。

    店を覗くとみんなつめつめ状態で、酒を飲
    みながら口角泡を飛ばしながらしゃべって
    いる。よくこんな状態でクラスターが発生
    しないものだと思っていたら、この2週間
    後から福岡の新型コロナウィルスの感染者
    が増えだした。

  • 居酒屋は入りづらいので、おとなしくラー<br />メン屋に入った。

    居酒屋は入りづらいので、おとなしくラー
    メン屋に入った。

  • 九州へ来たらやっぱりラーメンだよな。<br />うまかった。<br /><br />駅中の土産物店で地域共通クーボンを使い<br />切り、中津行の電車に乗った。

    九州へ来たらやっぱりラーメンだよな。
    うまかった。

    駅中の土産物店で地域共通クーボンを使い
    切り、中津行の電車に乗った。

  • 小倉から40分ほどで苅田駅に着いた。<br /><br />この駅で宿泊することにしたのは、空港行き<br />のバスが出ているからだが、バス乗り場がど<br />こか全く分からなかった。<br /><br />駅周辺もホテルまでの道路も人っ子一人おら<br />ず、まるで夜盗の襲撃を恐れて家の中で鳴り<br />を潜めているかのようである。<br /><br /><br />コンビニでビールと乾きものとチキンを買い、<br />ホテルへ向かったが、地図が変でかなり遠回<br />りをしてしまった。

    小倉から40分ほどで苅田駅に着いた。

    この駅で宿泊することにしたのは、空港行き
    のバスが出ているからだが、バス乗り場がど
    こか全く分からなかった。

    駅周辺もホテルまでの道路も人っ子一人おら
    ず、まるで夜盗の襲撃を恐れて家の中で鳴り
    を潜めているかのようである。


    コンビニでビールと乾きものとチキンを買い、
    ホテルへ向かったが、地図が変でかなり遠回
    りをしてしまった。

  • 20分以上歩いてビジネスホテル千成に着いた。<br /><br />靴を下駄箱に入れて、スリッパで上がるという<br />今時珍しいスタイル。<br /><br />フロントにはぼくと同年代の男がいた。<br /><br />「東京の感染者はすごいですね」と、新型コ<br />ロナウィルスの話になり、福岡の感染者数を<br />尋ねると、「少ないですけど、PCR検査数<br />自体が少ないみたいですね」と言っていた。<br /><br />1000円分の地域共通クーポンを受け取った。

    20分以上歩いてビジネスホテル千成に着いた。

    靴を下駄箱に入れて、スリッパで上がるという
    今時珍しいスタイル。

    フロントにはぼくと同年代の男がいた。

    「東京の感染者はすごいですね」と、新型コ
    ロナウィルスの話になり、福岡の感染者数を
    尋ねると、「少ないですけど、PCR検査数
    自体が少ないみたいですね」と言っていた。

    1000円分の地域共通クーポンを受け取った。

  • 部屋はいたってシンプル。<br /><br />多分この宿は、和風の商人旅館をビジネスホテ<br />ルに改装したものではないか。

    部屋はいたってシンプル。

    多分この宿は、和風の商人旅館をビジネスホテ
    ルに改装したものではないか。

  • 週末の習慣。<br /><br />明日はマイルチャンピオンシップ。<br /><br />狙いはサウンドキアラ。<br /><br />春は中距離戦線で3連勝。秋初戦は1番人気な<br />がらも惨敗。人気が落ちる今回は狙えるはず。<br />ふふふ。<br /><br />もうすでに的中した気になって、この日は22時<br />に就寝。

    週末の習慣。

    明日はマイルチャンピオンシップ。

    狙いはサウンドキアラ。

    春は中距離戦線で3連勝。秋初戦は1番人気な
    がらも惨敗。人気が落ちる今回は狙えるはず。
    ふふふ。

    もうすでに的中した気になって、この日は22時
    に就寝。

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