2003/10/03 - 2003/10/08
26位(同エリア32件中)
Gさん
2001年、9.11米国同時多発テロ事件が起こるやいなや、米軍は報復としてアフガニスタンに侵攻し、イスラム原理主義勢力タリバンを首都、カブールから追放しました。そしてその後、今思えばつかの間でしたが、「平和」が訪れたと報じられるようになり、「あぁ! 今こそ行かなあかんわ」と旅行を思い立ちました。
元をたどれば大学生だった1993年、バックパッカー旅行で行ったパキスタンで、アフガン難民のおじさんの家に上げてもらったのがきっかけでした。歳のころ50代か60代か。カブールの名所を写した絵葉書を僕に見せながら、「美しいだろう? 素晴らしい街なんだ」と誇らしげに語ってくれたおじさん。「でも、帰りたくても帰れない」と。
その日以来、いつかあのおじさんの街を見てみたい。歩いてみたい。そう思い続けていました。
2002年にもアフガン旅行に挑戦しましたが、当時は国内に大使館がなく、インドでのビザ取得に時間がかかりすぎ、サラリーマンの短い夏休みの悲しさで断念。その翌年、再開した在東京の大使館でようやくビザを取り、何とかたどり着きました。
おじさんの誇った美しい街は、満身創痍ながらも健在でした。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 15万円 - 20万円
- 交通手段
- タクシー 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
インド、デリー空港から2時間か3時間のフライトだったと思います。乗り合わせた人たちは、インドへの出稼ぎや商用から帰るアフガン人や、これから在アフガン英大使館の警備に就くというネパールのゴルカ兵たちでした。
隣り合わせたゴルカ兵の人は寡黙でまじめな雰囲気の方でした。たしか、英軍のゴルカ部隊にいたけど歳をとって大変になったので、多少は楽なアフガン勤務を選んだとか。ご家族のための出稼ぎでした。
アフガン人のおっちゃんたちはもう、故郷が近づいているからか大はしゃぎでした。後ろの席のおっちゃんに声を掛けられ、「君。外人だから英語書けるだろう? この爺さんの入国書類を書いてやってくれ」と頼まれ、適当に書く羽目に。いや、あんたも英語しゃべれるぐらいやから、書いてやれるんやないの? と思いつつ。
にぎやかな道中でしたが、乾ききった大地を見下ろしながら空港に近づき、着陸すると、滑走路を囲むように航空機の残骸が多数、散らばっています。まだ米軍によるカブール制圧から2年。30歳を過ぎて生まれて初めて見る生々しい戦争の傷跡に驚きます。カメラを構えるのが遅れ、写真は撮り逃しました。
空港はもう、それまで見たことがないほどシンプルな空港で、タラップを降りたら自分の足でターミナルへ。荷物の受取場にはターンテーブルもなく、係の男たちが担いで持ってくる、という素朴さでした。
戦争が完全に治まっていない国への旅行は初めてで、もちろん不安もありました。でも、空港での早速な完全な異世界ぶりに、わくわくもしっかりこみ上げます。
とりあえず、ホテルへ。ガイドブックなんてなかったので、事前にアフガンで活動するNGOを探し、電話で教えていただいていた「安全で安い宿」です。
タクシーの客引きがやたらと調子のいい兄ちゃんだったので、何となく名前を聞くと、「イスマイル・ハーン」と。北西部ヘラートを統治する軍閥トップの名前です。え、おいおい、と言うと「ぐひゃひゃひゃひゃ。ヘラーティ(ヘラート人)」と笑い、僕をタクシーに押し込めると、どっかに行ってしまいました。
いやいや。やっぱり面白い旅行になりそうだ。 -
到着したホテルは、シャレナウという官庁街にありました。多分当時では、市内でも最も洗練された地区だったのだと思います。洋風レストランもありました。入りませんでしたが。
ホテルの上から眺めると、家並みの向こうにちょっとした山が見えます。アスマイ山という山で、カブールの街はこの山を囲むようにしてできています。
さぁ! この街にはどんな風景があり、どんな人がいてるんやろ? 探検の始まりです。 -
ホテル近くの商業地です。ざっくり、こんな雰囲気の街並みが続きます。
-
さすがイスラム圏の肉屋の迫力。分かりやすく肉屋。売ってたのは……ヤギですかね?
-
ありきたりな表現ですが、やっぱり街は生活の息吹に満ちています。
内戦だのテロだの、特殊な事情を抱えた国であるにしても、普通の人はいて、地に足をつけて生活したはるんやなぁ。そんな当たり前のことに、改めて気づく街歩きです。
この辺の写真はまだ、着いた当日とか翌日の写真のはず。
この卵屋さんがなんか不思議で、なぜか買いに来た少年のレジ袋に、殻を割って卵を入れていくんです。カブールじゃ普通なのかもしれないけど、日本人的には「おー、何やっとんねん。すごいな~」みたいな感じ。
近づいて、写真撮らしてや~、と勝手にパチパチ始めると、なんだか楽しくなってしまったらしく、店主も少年も吹き出してしまいました。
インドやパキスタンと違い、植民地経験がない上にずっと内戦が続いていたためだと思うのですが、カブールでは英語が喋れる人は非常に少なく、彼らもしゃべれませんでした。でも、街には一流の気立ての良さを備えた人たちがあふれ、ゆく先々できっと珍しかった「外国人旅行者」を笑顔でもてなしてくれました。 -
ホテルの目の前に大きな公園があり、到着初日はここにも散歩に行きました。
カメラをもっていかなかったので、写真はないのですが、10~20代ぐらいのお兄ちゃんたちが20~30人ほど車座になり、太鼓をたたきながら、盛り上がっています。輪の中には即興の踊りを披露するお兄ちゃんも。
なにやら面白そうなので近づいていくと、「まぁまぁまぁまぁ。座りなよ」みたいな感じなので、輪に入れてもらいます。「どこの人?」と聞かれた気がしたので「ジャパニ」(インド方面は大体、これで通じます)と答えます。
すると今度は、隣のお兄ちゃんが「君も踊れよ」みたいなことを言うので、ちょっと戸惑いましたが、ここで引き下がっては漢が廃る。というわけで、超適当に踊ってみると、兄ちゃんたちはやんややんやで大喜びです。
ものすごく楽しかったのと同時に、こんな都会の公園で若者が歌って踊ってるなんて、なんて素敵なんだ、と思いました。そして、彼らがたたいていた太鼓が欲しくなりました。
残念ながら彼らは英語が話せず、どこで売っているのかが聞けません。そこで、ホテルの自室にホテルオーナーが遊びに来た時、聞いてみると、
「ふんふん。それはゼールバガリーという太鼓だ。楽器をたくさん売っているショールバザールという商店街がある。そこに行けば買えるだろう。戦争でかなりやられたが、今も店はあるはずだ」
ということで後日、日を改めて行ってみました。 -
現地に行くともう、ほぼ廃墟なのですが、それでもポツンポツンと店はやっています。そのうちの一軒に、飛び込んでみました。
これまた言葉は通じないのですが、外国人旅行者が何やら楽器を買いたいらしい、ということは分かってくれた様子。すると、店のおじさん二人がいきなり、即興で演奏をしてくれました。
君がなにもんかは知らんが、まずはとくとその耳で聴いてみよ。
そんな感じだったのかもしれません。なんか、ものすごくかっこよかった。でも残念ながらもう、17年も前のこと。どんな旋律だったのかはもう、明確には思い出せません。悲しい。
今更のようにこの旅行記を書いているのも、このフォートラベルの旅行記写真コンテストに応募しようと思ったのがきっかけではありますが、忘れる前に覚えていることは書いておきたいなぁ、とも思った次第。もし、読んでくれる方がいればなおうれしいです。
で、この写真右のおじさんがたたいているのがゼールバガリー。おじさんがたたいているのは少々値が張ったので、もっとお値ごろのヤツをひとつ、この店で買いました。
ホテルに持ち帰ると、また部屋に遊びに来たホテルオーナーが、たたき方を教えてくれました。
「戦争中、野営したときもよく叩いたぞ。マスードもよく叩いていた」と、9.11の数日前にアルカイダに爆殺された反タリバン勢力の北部同盟トップの名前も出して、語ってくれました。
彼は農業省のえらいさんでホテルはサイドビジネス。内戦では米軍とともにタリバンと戦い、その前はソ連と戦ったムジャヒディンでした。まぁ、首都陥落後の分捕り合戦でポストを得た人ではあるんでしょうけど、客である僕には気のいいお兄ちゃんでした。当時、40歳手前だったかな。
太鼓の皮は破れたけどまだ、自宅にしまってあります。僕の宝物です。 -
で、この音楽横丁ショールバザールの近所はほかにもいろいろ、面白い場所がありました。
戦禍を比較的逃れられたような場所も多く、その一角にはペットショップ街もありました。鳥かごがいっぱい並び、セキセイインコから野生のヤギ、タカなどいろんな動物が売られていました。予備知識なく偶然見つけたのですが、なんだか意外でびっくりしました。
後で知ったのですが、ここのメインの売り物はウズラ。アフガンではウズラを喧嘩させる博打が人気だそうでして、世の中いずこも似たような娯楽はありますね。
すっごく面白い場所だったのに、写真はちょっとピンボケ。残念過ぎる。が、ここで外国人旅行者が一人で一眼レフを出して写真を撮るのは目立ちすぎで、ちょいと覚悟も必要です。さっとカバンから取り出して、さっとしまう感じで撮影してました。
すると、それを見逃さなかったペット屋のお兄ちゃんがすかさず「撮れ」と言ってきたのが次の写真です。 -
売り物のハトを近くにいた少年の頭に乗せ、はいポーズ、と。
実はこの少年くん。一つ上の写真にも変なポーズをして映り込んでいます。これは帰宅後、現像するまで気づきませんでした。はい。当時はフィルムカメラだったんですね。 -
優しい目でインコを眺める紳士もいました。
とった瞬間、「お、これはいい写真になるぞ!」と思ったのですが、残念ながら主役の紳士はピンボケ、向こうのおじさんの顔ももう少し上まで撮りたかったなぁ。しかもインコ、隠れてるし。
とはいえ何はともあれ、素敵なペット横丁。いかついイメージのアフガニスタンですが、なんとも可愛らしい一面もあるんだなぁ、とうれしくなりました。 -
これは肉料理のお店。オヤジさんと息子さんの表情が、味があるんですよね。
-
すれ違うお爺ちゃんにカメラを向けると、すかさずニコッと笑ってくれる。そんな触れ合いが楽しい下町散歩はちょくちょく、「お茶でもどうですか」というお誘いで中断されます。大体は、路地に面したお店のご主人からのお声がけです。
お誘いに甘えて店の軒先に腰掛けると、勧められるのは緑茶。砂糖を一杯入れてくれようとするのを必死で止めると、不思議な顔をされます。
いや~。日本人は緑茶に砂糖は入れんのですよ。と、一生懸命身振り手振りで説明するのですが。地元の人には、お茶に砂糖を一杯入れるのは歓待の印だったみたいです。失礼だったかな。
あと、お茶を呼ばれるとたいてい、ご主人は子供に小銭を握らせ、客人用の茶菓子を買いに走らせます。なんか、若干、落雁にも似た砂糖菓子もありました。
日本ならなんだか時代を1世紀も遡ったような雰囲気で頂くお茶が、何とも和みました。 -
ただ、街中を歩いていても折に触れて、当地がまだ「戦争」と紙一重しか隔てられていないことに気づかされる瞬間もちょくちょくありました。
上の写真は下町から表通りに一歩出たところで撮った写真です。左の信号機は市街戦で壊れたのか、傾いて機能していません。
が、ここで僕が最も「戦争」を感じたのはそこではなくて、写真を撮った直後でした。いきなりゴー、と轟音が響き、真っ黒な米軍機が低空飛行で過ぎ去ります。下に向けた機銃がはっきり見えたので、高さは50メートルもなかったのではないでしょうか。
ビビる外国人旅行者の僕とは裏腹に、皆さん平常運転です。なるほどな。と思った瞬間でした。 -
街中で軍用車両を見ることもまま、ありました。これは多分、欧州が中心になった国際治安支援部隊、ISAFだったと思います。米兵もちらほら、街中を歩いていました。
僕のしゃべった人々の範囲では、ISAFはそこそこ市民に好かれていましたが、米兵は嫌われていました。ISAFは治安を守りに来てくれた人たちで、米兵は自分たちの土地を侵した存在、みたいな印象です。
街中を歩く米兵はヘルメットに分厚い防弾服を身に着け、ISAFの兵士より重武装。どうだったんでしょうね。やはり、欧州の兵士よりも憎まれていることを警戒していたのでしょうか。短い旅行で見ただけの話なので、どこまで的を射た感覚なのかは分かりませんが。
とにかく、宿の近くで重武装の米兵が小学生ほどの子供に囲まれ、「ギブミーワンダラー」とせがまれたときに見せていたおびえたような表情は、今もよく覚えています。1ドル札を差し出す彼の眼鏡越しに見える瞳は全く笑っておらず、少し泣きそうに見えました。
集まっていたのは本当に普通のガキンチョで、僕が1ドルの代わりに1インドルピーをやると、こんなんいらんわ~、とへらへら笑っているような子らでした。
でも、ひとたび怖いと思えば、そんなちびっ子でも怖く見えるのか。僕の邪推かもしれません。怖さってたちが悪いな。そんな風に思った場面でもありました。 -
直接的な戦争の傷痕もまだ、多くありました。ここは結構、メディアでも報道された場所だと思います。訪れた時、新聞で見た記憶がよみがえりました。
-
こんな風に当時は、街中に戦争で破壊された建物も多く残っていました。このロバに乗ってい青年は、後方に見えるがれきのひとつで住んでいました。このあたり市街地の南部一帯は90年代半ば、副大統領派によるロケット爆撃で破壊しつくされたそうです。
民族ごとに分かれた政党が戦火を交えた内戦は、民族間の憎悪も生み出したとされます。一時帰国中の難民の兄ちゃんと話した時、その憎悪に戸惑う彼の言葉に、戦争の罪深さが少し、実像を持って見えた気がしました。
「こんにちは! ノー高い。ははははは」
その彼は街中で、まるでインドやパキスタンの土産物屋のような場違い感てんこ盛りの日本語で話しかけてきました。おいおいマジかよ、と思いつつ、「何で日本語知ってるの?」と聞くと、「ペシャワル(パキスタン)の土産物屋で働いている」と。彼は両親が戦乱を避けて逃れたパキスタンで生まれた難民二世で、歳のころ20歳前後でしょうか。
土産物屋で売る骨董品の仕入れのために、カブールに滞在しているとのこと。土産物屋さんだけあって、英語は普通にしゃべる人でした。
誘われて、彼の住む貸家に行き、お茶をごちそうになりながら話をしていると、一緒に住んでいる仲間も帰ってきました。少し、金髪っぽいその仲間を指して「何人かわかる?」と聞いてきます。「ウズベク人?」「そうそう」
彼自身はパシュトゥンで、あとタジクの仲間も一緒に住んでいるとのこと。もともと、ペシャワルで難民として一緒に育った仲間だそうです。
でもさぁ、と。アフガンに来て以降、こんな風に別の民族同士で一緒に行動していると、おかしいヤツだというように見られる、と言います。
「パキスタンでは、アフガン人だということで馬鹿にされて育ったけど、みんな仲間だった。アフガンに来ると、いがみ合うのが普通だと言う。居心地が悪いし、故郷じゃないみたいだ」
出生地では二等市民扱い、成人して始めて訪ねた「故郷」ではその険悪な常識に強烈な違和感。悩ましく語る彼に、「そうなんやね。しんどい話やね」程度のことしか言えませんでした。 -
市街地の最南端には、ダルラマン宮殿という旧王宮があります。残念ながらここも、90年代半ばの副大統領派によるロケット爆撃でボロボロに。でも、そこからほど近い木陰にはささやかな茶屋が開き、おじさんや若者が穏やかな表情でお茶を楽しんでいました。
涼しい風を浴びながら地べたに敷いたシートに座り、砂糖入りの緑茶を頂くと、ほっこりした気分に包まれました。なぜか、ここからだと傷だらけの宮殿も心穏やかに眺められました。 -
カブールの中心地に立つアスマイ山には、中腹まで家が立ち並んでいます。土地、安いんやろか? よう知りませんが、その景観は独特で、僕の中ではカブールの一押しの風景です。
坂道を上り、その山麓の住宅街に分け入ってみました。 -
もう、ここまでくると米兵もISAFも歩いていませんでしたし、外国人はより珍しい存在のようでした。平地の市街地でもそれなりの注目は浴びていましたが、ここではもう、子供たちに取り囲まれ、写真とれとれの大合唱。ほんと。子供はどこに行っても面白いです。
-
「撮って!」と言われて子どもたちに連れてこられた雑貨屋さん。店番をしていた子が、友達のようでした。後ろの帽子の子ですが、分かんないけど女の子みたいなんですよね。だとすると、バリバリのイスラム圏である当地では相当、珍しいことに思えるのですが。
-
実はカブール市内、モスクもいっぱいあり、そういう場所もいっぱい見ておけばよかったのですが、当時は日々、下町歩きでした。そんな中で、珍しく近くまで行った由緒正しそうなモスクです。
名前、忘れていましたが、さっきGoogleMapで確認すると「Pul-e Kheshti Mosque」のようです。GoogleMapにタグ付けされた写真で確認できました。ここを訪ねた2003年には想像もつかなかったサービスですね。
一気にカブールが近くなった気がしましたが、実はさらに行けない場所になっています。僕が行ったときは、日本の外務省が出している危険情報では最も危ない方から2番目でしたが、最近はずっとトップレベルの退避勧告が出ています。
当時はタリバンが僻地に追いやられ、ISもまだなかったし、これからじわじわと平和が広がっていくのかな、と期待している人も多かったんじゃないかな、と思います。タリバン後にどっと入ってきた援助機関で働くべく、英語を勉強している方にも会いました。
でも、現状としては治安はより悪くなるばかり。あの英語の勉強をしていたお兄ちゃんの努力は報いられたんやろか。気になります。 -
街中では老若男女が働いています。新聞売りの子。明るい表情が素敵でした。
-
街中で見かけた仕事で、一番驚いたのがこれ。証明写真屋さんです。このでかいレンズ付きの箱がカメラ兼暗室で、撮影から現像までのすべての作業をこなします。
この方は中国大使館前で営業しておられました。ここで写真を撮って、ビザを取りに行く人が多かったのでしょう。大昔の日本国内の写真か何かで、こういう商売の方は見た記憶があったのですが、現役の方にお会いできるとは。驚きました。 -
で、撮ってもらった写真がこれ。まだ31歳の時の写真です。我ながら若っ! 右はネガですね。
-
またまた街中でよく見かける仕事。ナン屋さんです。店の前でウロウロしていたら、店の人に招き入れられ、突然の社会科見学になりました。
このお兄さんが手にしているのが伸ばした生地で、これを窯の内側に張り付けて焼きます(↓)。 -
ナン焼き窯からの熱で、ナン屋さんの店内は結構、熱いんです。汗をかいていたら、金属製のコップに入れた井戸水を持ってきてくれたのですが、それがまたキンキンに冷えていて。
美味しかったなぁ。 -
そんなそのナン屋さんの店内から買い物客をパチリ。皆さん、焼き上がりを待っていました。なかなかの人気店です。
で、実はカブールのナン、めちゃくちゃ美味いです。もう、日本のカレー屋さんには申し訳ないけど、あんなの目じゃない。インドやパキスタンよりも美味い。生地を伸ばすときに、指でギュッギュッと押して、縦に筋を入れるんです。すると、そこがパイみたいにパリパリになって、いいアクセントになるんですね。
これが肉に合うんです。写真撮ってないけど、カリッと焼いたカバブにバッチリでした。ちぎって肉にくるんで食べると、そのパリパリ部分の香ばしさがなんとも言えないおいしさで。
カバブと言えば、カバブをトマトで煮て卵とじにした料理もあって、これも美味。半熟卵の卵とじなんて海外では初めてで、これも衝撃でした。他に、中国からの影響を受けたようなヤギ肉まんもあったのですが、つけだれのヨーグルトソースがどうにも、僕には合わなかったですねぇ。
料理にもいろんなバラエティーがあり、流石は文明の十字路です。アフガン料理の奥深さには全く迫れませんでしたが、本来は食い道楽も楽しめる国なんだと思います。 -
かつてロケット弾で焼かれた市街地のはずれを歩いていると突然、トマトの屋台が3台やってきたので撮影。青空の下、がれきの原を行くトマトは鮮やかで、美しかったです。
たった6日間のカブール滞在でしたが、本当にいろんな方がいろんな話をしてくれました。
初日、なんとなく目があっただけで招き入れてお茶を飲ましてくれた鉄工屋さん。毎夕通って、互いの仕事の話とか、アフガンの将来の話とか、いろんな話に付き合ってくれました。最後に「帰ります」とあいさつに行ったときは、涙を浮かべて別れを惜しんでくれました。
泊まっていたホテルのボーイのお兄さんは、金持ち親父がいつもつれ込む中国人売春婦への同情が恋に変わり、僕はどうしたらいいんだろう、と悩みを打ち明けてくれました。今頃、どうしてるかな。
戦争に区切りがつき、欧米の援助団体がたくさん入ったことを国の将来のために歓迎しつつも、現地採用した若い女性を愛人扱いする援助関係者の思い上がりに怒る人もいました。再び台頭するタリバンに今、どう思っているんだろう。
真っ直ぐな人、優しい人、純情な人にたくさんお目にかかれた旅でした。なんでこんな人たちがいつまでも戦争に、テロに付き合わされなアカンのやろ。この国の内情をかくも拗らせた大国の政治の傲慢さ。理不尽への憤りも覚えました。
当時、僕の息子はまだ赤ん坊で、妻が寛大にも「どうせ家族旅行には行けないから好きなところ行っておいで」と、送り出してくれた最後の旅行でした。そして、気持ちの上では、学生時代から続けてきた「バックパッカー」の締めくくりとなる旅でもありました。
いつかまた、訪ねたい。どの旅先に対してもそう思いますが、ここは本当に強く、そう願っています。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
カブール(アフガニスタン) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
アフガニスタンで使うWi-Fiはレンタルしましたか?
フォートラベル GLOBAL WiFiなら
アフガニスタン最安
1,406円/日~
- 空港で受取・返却可能
- お得なポイントがたまる
0
28