2015/05/29 - 2015/06/04
2479位(同エリア43841件中)
Siniさん
博多港から釜山港まではビートルで2時間55分。波が高くないか心配しましたが往復共にべた凪でした。船中は無税なので缶ビールいただきました!一缶150円也。
対馬沿いに船は釜山へ向かいますが、旅中約3分の2は左舷に対馬2島が見えて日本は広いなぁなどと思いました。
前年の旅の途中で、場所も違う、年齢も異なる、3人の女性から偶然にも「豊臣秀吉」の名前が出てきて、ちょっと驚きました。帰国してから朝鮮出兵を調べるうちに機会があればその地へ立ってみたいと思い、またもう少し隣国韓国の歴史を知りたいと思うようになりました。今回は短いけれどちょっと重い旅でした。
釜山に着いたのは夕方でその日は釜山に宿泊。すでに何度か来ている韓国。今回は初めて初日と最終日の釜山の宿だけ予約して、後は宿を決めずに来ました。更に唐津の本屋さんでは一般的な旅行ガイドブックしか売っていなくて、今回訪問予定の都市について結局何も情報がないまま着いてしまいました。さてどんなことになるのか、、、
写真は釜山港
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釜山港へ到着。この日の宿は港に近い東横イン。フロントは日本語が通じます。
夜は港の花火が見えました。 -
翌朝小雨の中、バスで古都慶州(キョンジュ)に。約1時間強。このバスがひどい運転で急ブレーキと高速運転の繰り返し。降りて気づいたのですがキャリーバックのスチールの持ち手が壊れてしまいました!
着いたバス停のそばのホテルで空き部屋を聞くとなんと若い女性で英語ができる!というのでそこに。それは今回二度目なのであまり驚きませんでしたが、ラブホテルのようなところでありました。受付の女性から観光案内所を教えてもらい行ってきました。
初めての観光案内所。さすが京都のような観光地です。そこで明日の宿泊希望を伝えてバスの時刻から宿まで取ってもらいました。スタートがこんなんだったので「ガイドブックなくてもやっていけるかなぁ」と油断してしまいました。 -
慶州から1時間40分(しかし料金は200円くらい)もバスに乗って到着した日本海のビーチ。
世界でも珍しい海中のお墓を見にきました。 -
旅の前、5月はじめに山梨県身延町にある久遠寺の七面山へトレーニングを兼ねて行ってきました。頂上の日蓮宗の宿坊に宿泊。そこのお坊さんが、年に二度、千葉県一ノ宮、富士山頂、そして七面山山頂、元伊勢、出雲を通って文武王海中陵まで一直線に太陽の光が通るんですよ。このような地に墓を作った文武王(681年死亡)は、日本人であったのではないか、のような興味深い話をしてくれました。なので是非来てみたかったのです。
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今では鳥のフンだらけになってしまっています。
が、日本に向かってお墓をつくるとは。
バスで慶州に戻ります。来るときのバスで知り合ったインド人と中国人の留学生グループ5人と同じバスになり、おしゃべりしながら戻ったのでさほど長くは感じませんでした。
インド人女子学生達は4ヶ月の韓国留学は楽しかった。インドに帰りたくない。インドでは女性は自由に行動できない、韓国での勉強はちょっと頑張ればすぐ1番を取れるから楽だった、などと言っていました。
この日の夜はナイトツアーに参加。ツアーで韓国の工科大学の教授夫妻と知り合いました。インド人です。 -
3日目は世界遺産仏国寺へ行きました。
バス停には沢山のインド人観光客がいて、なぜこんなにインド人がいるのかなぁ? -
仏国寺の案内板
日本語にはない説明が英語版にはありました。「1593年、日本侵略軍(Japanese invaders )に焼き払われた」
しかしここを訪問する日本人にこそ、この言葉の意味を考えてもらいたいのでは?そういえば佐賀県名護屋城博物館は韓国人を意識した案内板が多かったです。あの博物館は韓国人をなだめるために忖度してつくったのかと思われましたが、こちらも日本人こそ知っておくべきことではないかと思いました。 -
観音殿ではお経が始まっていたので自然と焼き払われた霊前に祈りを捧げる気持ちになりました。
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仏国寺からバスでさらに山頂の方へ行くと石窟庵があります。石窟庵から見た景色です。
この後山道を下山。道は整備されているけれど大きい石を使っているので歩きやすくはないです。それにしても歩いている人の多いこと。韓国民も健康志向です。 -
その後慶州から20キロほどにある良洞民俗村(ヤンドンミンソンマウル)へ203番のバスで移動。500年以上の歴史を持つ由緒正しい名門集落で2010年世界遺産になっています。
17時頃に到着したのですがギリギリ案内所で日本語説明員のイさんに説明を受けました。
村内に54戸の瓦屋敷、110戸の藁葺き家屋があり、古い家で500年、新しい家で170年ほど経っていますとのこと。 -
伝統村は両班(やんばん)、商人・職人、など村によって成り立ちが違います。
今晩はこの韓屋に宿泊。予約は電話のみだったので諦めていましたが、観光案内所で予約していただきました。初めて本格的韓屋に宿泊。 -
宿泊した韓屋を後ろの道路側から見るとこんな感じです。敷地内に大きめの韓屋の母屋と大きな庭があり、ひっきりなしに中国人の観光客が午後7時くらいまで庭を見学に来て落ち着かなかったです。
トイレは別棟で洋式でしたが、その入り口の側にシャワーがついていて半オープン。まさかここがシャワールーム?と思っていたら、本当にそこでした。驚きました!海の家のような大らかさ。山の中なのに。 -
韓屋の入り口は二重の観音開き。しかしここの鍵がちゃちいんです!こんなんで大丈夫?
右手には新しくサッシの窓。この大きな窓がなければ部屋はかなり薄暗かったことでしょう。ただ窓のクスロールを下ろしていても横から外が見えてしまう!!これって外からも中が見えるってことですよねぇ。 -
入り口を入るとテーブルと飾り棚があります。
飾り棚に夕食のメニューなど書いてありますが、ハングル語のみで全く読めません。10年くらい前までは漢字がもっと使われていて類推できたんですけどねぇ。今回は全てハングルのみでした。 -
大きな横木。古い木枠。寒い地方らしいオンドル。片隅に布団があります。韓屋って押入れとかないんですよね。
夜はオンドルを入れてくれて暖かかったです。多分電気のオンドルかと思いますが。 -
どうやら今夜は私しか宿泊していないようで民俗村の閉門時間の午後7時を過ぎるとあたりは静寂と暗闇が広がり、何やら心細くなりました。
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夕食は中程度の価格を指差し注文したらこんなにたくさん出てきました。水キムチをはじめ発酵食品が多いので体に良さそうだし、美味しい!
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朝食もたくさん!手前の蓮の葉おこわは食べ切れませんでした。
しかも記憶では料金はかなり安かったはず。おじちゃんに現金手渡し。領収書なし。はは。
鍵よりも、あまりの静寂に虫のガサゴソ蠢く音が異様に大きく聴こえてなかなか寝付けなかったけれど、トイレへ真っ暗闇の中行くのにビビったけれど、シャワーが半分外みたいな感じでどうしょうと思ったけれど、自分が何を注文したのかわからなくて食事が来るまで不安だったけれど、観光客が窓から覗くのでイライラしたけれど、楽しい楽しい初本格的韓屋宿泊体験でした。 -
4日目、朝食後さっそく民俗村内を歩いてみました。
手前に藁葺き屋根の家。後に建てた家は大きいですね。 -
こちらのお宅はたしか慶州孫氏の家。正室から生まれた男子が三十代以上続く宗家。その庭が風水的に素晴らしいと有名です。
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敷地が塀で囲まれているからか、入口がオープンです。
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「いぶきの木」は樹齢500年。すごくパワフルでした。
午後はバスで慶州へ。そこから晋州(チンジュ)行きのバスに乗って1時間半くらい南下しました。 -
晋州では宿探しが大変でやっとWi-Fiのあるカフェでバスターミナル近くの宿を予約。しかしこの宿へ行くのにぐるぐる旧市街らしきところを巡り巡りやっと宿を発見。おかげで町の中心部に明るくなりました。
さて荷物を置き「晋州城公園」へ。ここが公園の入り口です。 -
大きな木もありました。
推計では、1592年当時の日本の人口は1700万人。李氏朝鮮は400万人、明は1億1千万人、満州は500万人ほど。 -
晋州は1592年、3年と2度に亘り豊臣軍と交戦した激戦地。2万の豊臣軍に対し朝鮮軍は市民を入れても3800人。
1592年10月6日~10日、細川忠興指揮の豊臣軍対金時敏指揮の朝鮮軍の第一次防衛戦においては勝利したというのが晋州人の誇り。翌年には陥落してしまう訳ですが、1970年代になってその勇気を称える碑が建てられたのかこの碑です。 -
秀吉軍を迎え撃った大砲のレプリカ。
周りには仕事を終えてランニングしている人や散歩中の地元の方々。こんな大砲を見ながら育ったらやはり日本の事を好きにはなれないのではないでしょうか。 -
さて夕食を食べようと晋州の街をウロウロしますが食べたい火鍋は2人前から。やっと入ったレストランは大きくてうらびれてる~。メニュー見ても名前を聞いてもわからない。写真もないので知ってる料理サムゲタンを注文していると新たなお客さんが、私の隣のテーブルに案内されて来ました。なんと日本人でした。
年かさの男性は20年以上晋州の提携工場へ技術指導に来ているけれど日本人旅行者には一度もあったことないのにと驚いていました。今回後輩へ仕事引き継ぎのため初めて2人で来たそうです。
と言うわけで、満月のこの夜、晋州にいる日本人3人が奇しくもここに集ったのでありました。レストランはうらびれていましたが料理は美味しかったです。ここまでは順調。 -
5日目、あまりに違うところに着いてしまった軽いショックをかかえながら、せっかくなのでこの地を歩くことにしました。
私が目指していたのは海沿いの順天(すんちょん)
バスで着いたのは山の中っぽくて、山の向こうに海があると信じて宿を見つけました。やはりラブホテル風。地図を下さいと言うとくれた地図がトレッキングの地図で??でした。 -
ようくみるとバイパスが街はずれに走っています。とすればさほどの田舎というわけでもないようです。
隣の町へ行ってバスで登山口へ。帰りに銀行やスーパーでATMを試してみたけれど使えず、ウォンが少なくなりなんだか世の中に見捨てられたような気になりました。 -
川の中で何をしてるのか?
日本では見かけない風景ですね。
ここはどこか、とバスターミナルのWi-Fiでやっとわかりました。山清(さんちょん)。
登山の服装をしていたのでチケット売り場のお姉さん、「すんちょん」(順天)ではなく、「さんちょん」(山清)のチケットを売ってくれたみたい。私も「さんちょん」(山清)て返事した気がする。
役に立たないガイドブックには地図があり、英語表記と漢字。一方韓国ではハングル語のみ。これではどうしょうもなかった。
隣町ウォンジはあのチリ山への入り口でした。 -
しばらくこの人を観察。
山清は「薬草の古里」と言われている町。チリ山を中心とした国立公園のそば。
ウリ銀行を見つけたけれど6時で閉店なので明日9時に来て下さいといわれた。もし円からウォンに交換してもらえないと山清に足止めになっちゃう!バス代だけは残しておこうと、結局夕食はキムパのみ。あらら、ひとり旅で現金がないのは心細い。ラブホテル風の宿は現金払いなので現金が予想以上に減る。しかし山清は小さな町で宿泊を決めたラブホテルより新しい宿は見かけなかった。
翌朝、1万円を換金。銀行の人たちはとてもにこやかでびっくり。パスポートの提示さえ求められず。ここに日本人が大挙して来るとは思えないけれど。隣国だから円は見慣れているのかな?
この日は旅の最後。今晩中に釜山に戻りたい。明日は帰国だけれど再度南下し、それから西、順天へ向かうことにした。 -
6日目、順天のバスターミナルに到着後、タクシー乗り場へ直行。順天倭城への往復はいくらか交渉。
今回の旅は豊臣軍の足跡を辿って鎮魂の旅と勝手に思っていたので、出直してまた来る事を考えるとタクシーで往復しかないと決断。
タクシーを降りてゆうに15分。運転手さんが待ちくたびれてキャリーバッグごと消えたらどうしょう、などと心配しながら海の方へ急ぎました。 -
かんかん照りの太陽の下、一生懸命歩いて小西行長が守っていた天守閣跡を目指して歩きました。到着したら、、、
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着いたところは跡というだけで石垣があるだけで何も残っているわけではありません。
当時、中国に恭順を誓った李氏朝鮮は平和な時代を100年以上過ごしていた。そこへ戦国時代を戦い抜いた豊臣軍が現れ、焼き討ちをしながら北上。2週間でソウル陥落。
港には倭城なんか建てちゃって、仰天!そして悲惨な出来事であったと想像できます。
一応、出来るところまで行ったので自己満足。タクシーで順天駅へ戻りました。途中で運転手さんが「時間がかかったから料金があがりまーす」と軽い調子で言ったので、やはり来たか、と思いました。実際ウォンがなかったのでありったけの知恵を絞り「トン ムオヨ」(金、ない)というと「トニ ムオヨ?チェ!」(えー、お金がないの)という感じで最初の約束通り、確か30000ウォンの支払いで済みました。韓国語は日本語と同様助詞があり変化します。助詞って難しい! -
7日目最終日の朝、釜山の龍頭公園へ行きましたら偶然にも豊臣軍が真っ先に上陸した地でした。
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公園には慶長文禄の乱で李氏朝鮮を救った李瞬臣(1545~98)の銅像が立っていました。
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朝陽を受けながら立つその像からは、奇襲を受け、村々を焼き払われ、驚愕し怯えた多く民のいろいろな思いを背負って立っているようにも見えました。
個人的には韓国ではいつも親切にしてもらっているように思うのですが国同士となるとなかなか上手くいかない日韓関係。
私の頭の中では国としての苦楽は
半島の国<大陸の国<島国
という図式ができました。日中韓に関してのみですが。
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旅行記グループ 屋久島ー釜山 2015
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