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国府台にある里見公園。<br />里見公園は下総台地の西端、江戸川に面した台地上にあります。<br />国府台には、下総国府が置かれ、下総国の政治や文化の中心でした。<br />国府台病院にお見舞いに来たので、桜も咲き始めた里見公園に寄りました。<br />新型コロナウィルス感染症の感染拡大防止のため、里見公園桜まつりは中止です。<br />それでも、天気の良い休日、多くの人で賑わっていました。

里見公園の桜☆2020/03/21

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2020/03/21 - 2020/03/21

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杏仁豆腐

杏仁豆腐さん

国府台にある里見公園。
里見公園は下総台地の西端、江戸川に面した台地上にあります。
国府台には、下総国府が置かれ、下総国の政治や文化の中心でした。
国府台病院にお見舞いに来たので、桜も咲き始めた里見公園に寄りました。
新型コロナウィルス感染症の感染拡大防止のため、里見公園桜まつりは中止です。
それでも、天気の良い休日、多くの人で賑わっていました。

同行者
カップル・夫婦(シニア)
交通手段
自家用車
  • 国府台病院の桜も咲き始めました。

    国府台病院の桜も咲き始めました。

  • 桜の向こうには、和洋女子大学の18階の建物が見えます。

    桜の向こうには、和洋女子大学の18階の建物が見えます。

  • 里見公園に続く道は桜のトンネルです。<br />満開の頃には見事な景色になるでしょう。

    里見公園に続く道は桜のトンネルです。
    満開の頃には見事な景色になるでしょう。

  • 千葉県無形文化財「式正織部流茶道」とその保護に努める「織部桔梗会」。<br />戦国大名の古田織部が始めた茶道を継承する地がここにあります。

    千葉県無形文化財「式正織部流茶道」とその保護に努める「織部桔梗会」。
    戦国大名の古田織部が始めた茶道を継承する地がここにあります。

  • 質素な造りの茶室です。

    質素な造りの茶室です。

  •  式正織部流 茶道 は、古田織部正重然(ふるたおりべのしょうしげなり)によって創始されました。重然は美濃国(みののくに)(岐阜県)の人で、織田信長(おだのぶなが)、豊臣秀吉(とよとみひでよし)に仕えた三万石の大名でした。 <br /> 茶(ちゃ)の湯(ゆ)を千利休(せんのりきゅう)に学び、利休なきあと一流をなして、徳川二代将軍秀忠(ひでただ)をはじめ諸大名に茶法(ちゃほう)を伝受(でんじゅ)したが、大阪夏の陣で豊臣方に内通したとの疑(うたが)いをかけられ、慶長(けいちょう)二十年(一六一五)切腹(せっぷく)を命じられて一族は滅びました。 <br /> 重然の創始した茶道は式正織部流と称して、古田家の傍系によって代々継承(けいしょう)され、十四代古田宗関(そうかん)に至りましたが、その後は古田家を離れ十五代は門下(もんか)の原鉄石(はらてつせき)が、十六代は秋元瑞阿弥(あきもとずいあみ)が継承しました。   <br /> 秋元瑞阿弥は昭和三十年、千葉県指定無形文化財保持者に認定されましたが、三十八年に没し、以後は織部桔梗会(ききょうかい)が無形文化財の保持に当っています。 <br /> 式正織部流の特色は、利休以後の「侘(わび)」「数寄(すき)」を強調した草庵(そうあん)での侘茶(わびちゃ)、即ち「私の茶」に対して書院式茶室(しょいんしきちゃしつ)で点(た)てることを基本とした、「公の茶」ということが出来ます。 <br /> 古田織部は茶室(ちゃしつ)や茶道具(ちゃどうぐ)にも創意を凝(こ)らし、また陶芸(とうげい)では織部焼(おりべやき)を今日に伝え、さらに庭園に豊かな好みをもった織部灯籠(おりべとうろう)を残しています。その門下(もんか)には本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)や小堀遠州(こぼりえんしゅう)などがおりなした。

     式正織部流 茶道 は、古田織部正重然(ふるたおりべのしょうしげなり)によって創始されました。重然は美濃国(みののくに)(岐阜県)の人で、織田信長(おだのぶなが)、豊臣秀吉(とよとみひでよし)に仕えた三万石の大名でした。
     茶(ちゃ)の湯(ゆ)を千利休(せんのりきゅう)に学び、利休なきあと一流をなして、徳川二代将軍秀忠(ひでただ)をはじめ諸大名に茶法(ちゃほう)を伝受(でんじゅ)したが、大阪夏の陣で豊臣方に内通したとの疑(うたが)いをかけられ、慶長(けいちょう)二十年(一六一五)切腹(せっぷく)を命じられて一族は滅びました。
     重然の創始した茶道は式正織部流と称して、古田家の傍系によって代々継承(けいしょう)され、十四代古田宗関(そうかん)に至りましたが、その後は古田家を離れ十五代は門下(もんか)の原鉄石(はらてつせき)が、十六代は秋元瑞阿弥(あきもとずいあみ)が継承しました。  
     秋元瑞阿弥は昭和三十年、千葉県指定無形文化財保持者に認定されましたが、三十八年に没し、以後は織部桔梗会(ききょうかい)が無形文化財の保持に当っています。
     式正織部流の特色は、利休以後の「侘(わび)」「数寄(すき)」を強調した草庵(そうあん)での侘茶(わびちゃ)、即ち「私の茶」に対して書院式茶室(しょいんしきちゃしつ)で点(た)てることを基本とした、「公の茶」ということが出来ます。
     古田織部は茶室(ちゃしつ)や茶道具(ちゃどうぐ)にも創意を凝(こ)らし、また陶芸(とうげい)では織部焼(おりべやき)を今日に伝え、さらに庭園に豊かな好みをもった織部灯籠(おりべとうろう)を残しています。その門下(もんか)には本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)や小堀遠州(こぼりえんしゅう)などがおりなした。

  • 里見公園に入りました。<br />ここは、国府台城跡です。<br />国府台城は文明11(1479)年に太田道灌が築いたものと伝えられています。

    里見公園に入りました。
    ここは、国府台城跡です。
    国府台城は文明11(1479)年に太田道灌が築いたものと伝えられています。

  • 家族連れなどで賑わっています。

    家族連れなどで賑わっています。

  • 満開ではありませんが、十分に楽しめます。

    満開ではありませんが、十分に楽しめます。

  • 噴水のまわりはバラ園です。

    噴水のまわりはバラ園です。

  • 噴水の水しぶきがきれいです。

    噴水の水しぶきがきれいです。

  • 気温も上がり、今日一日で桜もかなり咲きそうです。

    気温も上がり、今日一日で桜もかなり咲きそうです。

  • 紫烟草舎<br />「からたちの花」、「砂山」などの詩で親しまれている詩人北原白秋(明治18年~昭和17年)が大正5年の夏から約1年間、当時小岩にあったこの離れで優れた作品の創作を続け、白秋自身で紫烟草舎と名づけました。復元の地をここに求めたのは、小岩に移り住む前、白秋が真間の亀井院に住んでいたこと、小岩に移ってからも江戸川越しにこの台地を眺めたであろうこと、そして葛飾の野をこよなく愛していたことによります。

    紫烟草舎
    「からたちの花」、「砂山」などの詩で親しまれている詩人北原白秋(明治18年~昭和17年)が大正5年の夏から約1年間、当時小岩にあったこの離れで優れた作品の創作を続け、白秋自身で紫烟草舎と名づけました。復元の地をここに求めたのは、小岩に移り住む前、白秋が真間の亀井院に住んでいたこと、小岩に移ってからも江戸川越しにこの台地を眺めたであろうこと、そして葛飾の野をこよなく愛していたことによります。

  • 川明かりおよぶ木群の寂けさを安らぎとしてここぞふるさと<br />  松本千代二

    川明かりおよぶ木群の寂けさを安らぎとしてここぞふるさと
      松本千代二

  • 夜泣き石<br />永禄7(1564)年に里見・北条の合戦で戦死した里見広次には12~13歳になる美しい姫がいましたが、父の霊を弔うため、はるばる遠い安房の国から国府台を訪ねてきました。姫は身も心も疲れ果て、そばにあった石にもたれ弱いかすかな声で父の名を呼びながら幾日か泣き続け、とうとう息が絶えてしまいました。以来、この石から夜になると悲しい声が聞こえてきたという伝説を秘めた石です。

    夜泣き石
    永禄7(1564)年に里見・北条の合戦で戦死した里見広次には12~13歳になる美しい姫がいましたが、父の霊を弔うため、はるばる遠い安房の国から国府台を訪ねてきました。姫は身も心も疲れ果て、そばにあった石にもたれ弱いかすかな声で父の名を呼びながら幾日か泣き続け、とうとう息が絶えてしまいました。以来、この石から夜になると悲しい声が聞こえてきたという伝説を秘めた石です。

  • 里見群亡の碑<br />永禄7(1564)年1月4日、里見義弘は8千の軍勢を率いて国府台に陣を構え、北条氏康軍約2万を迎え撃ちました。7日の戦いは里見側に有利でしたが、8日払暁、北条軍は寝込みを襲い一斉に攻撃したので里見軍は狼狽し、士気を失い敗退しました。この合戦で敗北した里見広次らをはじめとして討死する者5千名と伝えられます。その後、里見軍戦死者の亡霊を弔うものもなく、文正12(1829)年になってやっと里見諸士群亡塚、里見諸将群霊墓、里見広次公廟が建てられました。

    里見群亡の碑
    永禄7(1564)年1月4日、里見義弘は8千の軍勢を率いて国府台に陣を構え、北条氏康軍約2万を迎え撃ちました。7日の戦いは里見側に有利でしたが、8日払暁、北条軍は寝込みを襲い一斉に攻撃したので里見軍は狼狽し、士気を失い敗退しました。この合戦で敗北した里見広次らをはじめとして討死する者5千名と伝えられます。その後、里見軍戦死者の亡霊を弔うものもなく、文正12(1829)年になってやっと里見諸士群亡塚、里見諸将群霊墓、里見広次公廟が建てられました。

  • 宗 左近の誌碑。<br />宗 左近は、市川市の名誉市民でした。市川市に暮らし、2006年に87歳で亡くなりました。<br />

    宗 左近の誌碑。
    宗 左近は、市川市の名誉市民でした。市川市に暮らし、2006年に87歳で亡くなりました。

  • 眼下には江戸川、遠くにはスカイツリー。

    眼下には江戸川、遠くにはスカイツリー。

  • 来歴のやうに一本冬の川 <br />  白湖

    来歴のやうに一本冬の川 
      白湖

  • お花見広場では、バーベキューもできます。

    お花見広場では、バーベキューもできます。

  • 1479年(文明11年)、太田道灌の弟・太田資忠が、臼井城にいた千葉孝胤を攻めた際、国府台に城を築いています(前年に太田道灌が国府台に陣を構えています)。<br />1538(天文7)年、足利義明は里見義堯(さとみよしたか)を率いて国府台に陣をとり北条氏綱軍と激突。<br />この合戦で足利義明は戦死し北条軍が勝利します(第一次国府台合戦)。<br />1564(永禄7)年、里見義堯の子、里見義弘は再度、北条軍と対戦するも奪回は成らず、土地は北条氏の支配するところとなりました。<br />江戸に入府した徳川家康によって廃城になっていますが、あまりに江戸を一望にする立地の良さから廃城になったともいわれています。

    1479年(文明11年)、太田道灌の弟・太田資忠が、臼井城にいた千葉孝胤を攻めた際、国府台に城を築いています(前年に太田道灌が国府台に陣を構えています)。
    1538(天文7)年、足利義明は里見義堯(さとみよしたか)を率いて国府台に陣をとり北条氏綱軍と激突。
    この合戦で足利義明は戦死し北条軍が勝利します(第一次国府台合戦)。
    1564(永禄7)年、里見義堯の子、里見義弘は再度、北条軍と対戦するも奪回は成らず、土地は北条氏の支配するところとなりました。
    江戸に入府した徳川家康によって廃城になっていますが、あまりに江戸を一望にする立地の良さから廃城になったともいわれています。

  • 公園内の桜 <br />ソメイヨシノ :約200本 <br />サトザクラ    :約14本<br />カワヅザクラ :5本 <br />オオシマザクラ:1本<br />ヤマザクラ  :5本

    公園内の桜
    ソメイヨシノ :約200本 
    サトザクラ :約14本
    カワヅザクラ :5本 
    オオシマザクラ:1本
    ヤマザクラ  :5本

  • 満開の頃は見ごたえがありそうです。

    満開の頃は見ごたえがありそうです。

  • 里見公園の桜は老木が多く、だいぶ傷んでいました。<br />天気の良い日の桜はきれいでした。

    里見公園の桜は老木が多く、だいぶ傷んでいました。
    天気の良い日の桜はきれいでした。

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