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 復刻版第三弾。2000年8月~10月、二か月に渡る中南米縦断の旅。2020年時点、自分の人生の中で二番目に長い旅。当時は都内某私立大学政治学科の大学生で、一応は卒業論文(ゼミ論)の現地調査。もっとも私の学部は、別に書かなくても規定単位あれば卒業できます(当時は)。今はどうかは知りません。ちなみに国際行政学のゼミで、卒論のタイトルは「ラテンアメリカの開発政策」でした。今考えるとこの頃から旅が手段ではなく目的になってきた気がします。<br /><br /> マレーシア航空の2カ月OPENチケットの成田~ロサンジェルスだけであとは完全に行き当たりばったり。最終的にはアメリカ、メキシコ、ベリーズ覗く中米五か国とペルーの訪問でした。最初はパナマからコロンビアに入り、エクアドル、ペルー、ボリビア、パラグアイ、ブラジル、ベネズエラと回り、カリブに飛びキューバ行って戻ろうという構想だったのですが、さすがに日数足りませんでした。<br /><br /> デジカメやSNS、スマホなんてなかった時代ですが、何気に旅行記を自作のHPにアップしていました。1999年に独学でhtml勉強して、個人的に開設したジオシティーズのホームページですが、2019年3月をもってサービス終了で閉鎖になりました。ひっそりと移転はしたのですが、一部をフォートラの写真付旅行記として復刻版として再作成します。誤字脱字等は修正し、表現も一部改めますが、なるべく当時のままの文章でと思っています。写真は、APSフィルムで撮った当時の写真をデジカメで撮影しています。<br /><br /><br />帰って来た旅立ちの地(「ただいま」、思わずそう呟く)~USA編~ <br />(26/08/2000-29/09/2000)<br /><br />テキーラのアミーゴ達に捧げる唄~Mexico編~ <br />(29/08/2000-09/09/2000)<br /><br />マヤ民族の国とスペイン語語学学校~Guatemala編~ <br />(09/09/2000-19/09/2000)<br /><br />中米街道只今疾走中~El Salvador, Honduras, Nicaragua編~ <br />(19/09/2000-23/09/2000)<br /><br />軍隊なき花と緑と民主主義の楽園~Costa Rica編~ <br />(23/09/2000-28/09/2000)<br /><br />世界の十字路、運河の国、そして新たな旅立ちへ~Panama編~ <br />(28/09/2000-30/09/2000)<br /><br />フヒモリ大統領と悠久のアマゾンの大地~Peru, Lima, Iquitos編~ <br />(30/09/2000-06/10/2000)<br /><br />謎の地上絵と湖上に浮かぶ葦の島々~Peru, Nazca, Alequipa, Puno編~ <br />(07/10/2000-10/10/2000)<br /><br />古代インカ帝国の栄華と謎の空中都市~Peru, Cuzco, Machu Pichu編~ <br />(11/10/2000-16/10/2000)<br /><br />遥かなる母なる大地日本を目指して~Cuzco, NARITA編~ <br />(17/10/2000-20/10/2000)<br /><br />【スケジュール】<br />2000年<br />08/26 成田空港~ロサンジェルス・ハリウッド(USA)泊<br />08/27 ロサンジェルス~サンディエゴ泊<br />08/28 サンディエゴ泊<br />08/29 サンディエゴ→ティファナ(メキシコ)~<br />08/30 ~ラパス泊<br />08/31 ラパス~<br />09/01 ~マサトラン~グアダラハラ泊<br />09/02 グアダラハラ~<br />09/03 ~メキシコシティ泊<br />09/04 メキシコシティ泊<br />09/05 メキシコシティ~テオティワカン~メキシコシティ泊<br />09/06 メキシコシティ~タスコ~メキシコシティ泊<br />09/07 メキシコシティ~<br />09/08 ~オアハカ・モンテアルバン~<br />09/09 ~タパチュラ~グアテマラシティ(グアテマラ)泊<br />09/10 グアテマラシティ~アンティグア泊<br />09/11 アンティグア泊<br />09/12 アンティグア泊<br />09/13 アンティグア泊<br />09/14 アンティグア泊<br />09/15 アンティグア泊<br />09/16 アンティグア泊<br />09/17 アンティグア~パナハッチェル泊<br />09/18 パナハッチェル~グアテマラシティ泊<br />09/19 グアテマラシティ~サンサルバドル(エルサルバドル)泊<br />09/20 サンサルバドル~テグシガルパ(ホンデュラス)泊<br />09/21 テグシガルパ~マナグア(ニカラグア)泊<br />09/22 マナグア泊<br />09/23 マナグア~サンホセ(コスタリカ)泊<br />09/24 サンホセ泊<br />09/25 サンホセ~モンテベルデ泊<br />09/26 モンテベルデ泊<br />09/27 モンテベルデ~サンホセ泊<br />09/28 サンホセ~パナマシティ(パナマ)泊<br />09/29 パナマシティ泊<br />09/30 パナマシティ~リマ(ペルー)泊<br />10/01 リマ泊<br />10/02 リマ泊<br />10/03 リマ泊<br />10/04 リマ~イキトス泊<br />10/05 イキトス泊<br />10/06 イキトス~リマ~<br />10/07 ~ナスカ~<br />10/08 ~アレキパ~<br />10/09 ~プーノ泊<br />10/10 プーノ泊<br />10/11 プーノ~クスコ泊<br />10/12 クスコ泊<br />10/13 クスコ泊<br />10/14 クスコ~マチュピチュ泊<br />10/15 マチュピチュ~クスコ泊<br />10/16 クスコ泊<br />10/17 クスコ~リマ~パナマシティ~サンホセ泊<br />10/18 サンホセ~ヒューストン~ロサンジェルス泊<br />10/19 ロサンジェルス~<br />10/20 ~成田空港<br /><br /><br />

【復刻版】ラテンアメリカ縦断日記 2 テキーラのアミーゴ達に捧げる唄~Mexico編~

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2000/08/29 - 2000/09/09

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Miyatan

Miyatanさん

 復刻版第三弾。2000年8月~10月、二か月に渡る中南米縦断の旅。2020年時点、自分の人生の中で二番目に長い旅。当時は都内某私立大学政治学科の大学生で、一応は卒業論文(ゼミ論)の現地調査。もっとも私の学部は、別に書かなくても規定単位あれば卒業できます(当時は)。今はどうかは知りません。ちなみに国際行政学のゼミで、卒論のタイトルは「ラテンアメリカの開発政策」でした。今考えるとこの頃から旅が手段ではなく目的になってきた気がします。

 マレーシア航空の2カ月OPENチケットの成田~ロサンジェルスだけであとは完全に行き当たりばったり。最終的にはアメリカ、メキシコ、ベリーズ覗く中米五か国とペルーの訪問でした。最初はパナマからコロンビアに入り、エクアドル、ペルー、ボリビア、パラグアイ、ブラジル、ベネズエラと回り、カリブに飛びキューバ行って戻ろうという構想だったのですが、さすがに日数足りませんでした。

 デジカメやSNS、スマホなんてなかった時代ですが、何気に旅行記を自作のHPにアップしていました。1999年に独学でhtml勉強して、個人的に開設したジオシティーズのホームページですが、2019年3月をもってサービス終了で閉鎖になりました。ひっそりと移転はしたのですが、一部をフォートラの写真付旅行記として復刻版として再作成します。誤字脱字等は修正し、表現も一部改めますが、なるべく当時のままの文章でと思っています。写真は、APSフィルムで撮った当時の写真をデジカメで撮影しています。


帰って来た旅立ちの地(「ただいま」、思わずそう呟く)~USA編~
(26/08/2000-29/09/2000)

テキーラのアミーゴ達に捧げる唄~Mexico編~
(29/08/2000-09/09/2000)

マヤ民族の国とスペイン語語学学校~Guatemala編~
(09/09/2000-19/09/2000)

中米街道只今疾走中~El Salvador, Honduras, Nicaragua編~
(19/09/2000-23/09/2000)

軍隊なき花と緑と民主主義の楽園~Costa Rica編~
(23/09/2000-28/09/2000)

世界の十字路、運河の国、そして新たな旅立ちへ~Panama編~
(28/09/2000-30/09/2000)

フヒモリ大統領と悠久のアマゾンの大地~Peru, Lima, Iquitos編~
(30/09/2000-06/10/2000)

謎の地上絵と湖上に浮かぶ葦の島々~Peru, Nazca, Alequipa, Puno編~
(07/10/2000-10/10/2000)

古代インカ帝国の栄華と謎の空中都市~Peru, Cuzco, Machu Pichu編~
(11/10/2000-16/10/2000)

遥かなる母なる大地日本を目指して~Cuzco, NARITA編~
(17/10/2000-20/10/2000)

【スケジュール】
2000年
08/26 成田空港~ロサンジェルス・ハリウッド(USA)泊
08/27 ロサンジェルス~サンディエゴ泊
08/28 サンディエゴ泊
08/29 サンディエゴ→ティファナ(メキシコ)~
08/30 ~ラパス泊
08/31 ラパス~
09/01 ~マサトラン~グアダラハラ泊
09/02 グアダラハラ~
09/03 ~メキシコシティ泊
09/04 メキシコシティ泊
09/05 メキシコシティ~テオティワカン~メキシコシティ泊
09/06 メキシコシティ~タスコ~メキシコシティ泊
09/07 メキシコシティ~
09/08 ~オアハカ・モンテアルバン~
09/09 ~タパチュラ~グアテマラシティ(グアテマラ)泊
09/10 グアテマラシティ~アンティグア泊
09/11 アンティグア泊
09/12 アンティグア泊
09/13 アンティグア泊
09/14 アンティグア泊
09/15 アンティグア泊
09/16 アンティグア泊
09/17 アンティグア~パナハッチェル泊
09/18 パナハッチェル~グアテマラシティ泊
09/19 グアテマラシティ~サンサルバドル(エルサルバドル)泊
09/20 サンサルバドル~テグシガルパ(ホンデュラス)泊
09/21 テグシガルパ~マナグア(ニカラグア)泊
09/22 マナグア泊
09/23 マナグア~サンホセ(コスタリカ)泊
09/24 サンホセ泊
09/25 サンホセ~モンテベルデ泊
09/26 モンテベルデ泊
09/27 モンテベルデ~サンホセ泊
09/28 サンホセ~パナマシティ(パナマ)泊
09/29 パナマシティ泊
09/30 パナマシティ~リマ(ペルー)泊
10/01 リマ泊
10/02 リマ泊
10/03 リマ泊
10/04 リマ~イキトス泊
10/05 イキトス泊
10/06 イキトス~リマ~
10/07 ~ナスカ~
10/08 ~アレキパ~
10/09 ~プーノ泊
10/10 プーノ泊
10/11 プーノ~クスコ泊
10/12 クスコ泊
10/13 クスコ泊
10/14 クスコ~マチュピチュ泊
10/15 マチュピチュ~クスコ泊
10/16 クスコ泊
10/17 クスコ~リマ~パナマシティ~サンホセ泊
10/18 サンホセ~ヒューストン~ロサンジェルス泊
10/19 ロサンジェルス~
10/20 ~成田空港


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  • 8月29日(火)<br /> “Bienvenidos a Mexico”とかかれた回転扉をくぐると、そこはもうメキシコだった。国境から100マイル以上、72時間以上滞在する場合にはビザかツーリストカードが必要である。入国審査所を探し、日本で所得したツーリストカードを入国審査官に提示した。でも汚れていたために書き直しさせられた。書き直す際に間違えて記入してしまったので変わりの紙をくれと言ったら、別にその上から書き直せばいいみたいなことを言われた。結構いいかげんなものである。わざわざ永田町にあるメキシコ大使館までツーリストカードを取りにいったのに、国境でいとも簡単に取れた。入国税が必要らしい。US$のT/Cでは駄目らしいので、とりあえずTijuanaの町で両替できる場所を探すことに。ところがそのあたりにある両替所でも、銀行でも両替が出来なかった。何箇所かで聞いてようやく両替が出来たが、レートは相当悪かった。ようやく手続きを終えてメキシコ国内に入る。お腹もすいたので昼食を取ろうとそれらしきお店を探す。三件くらい店があったが、僕の姿を見るなり「アミーゴ!」と叫んで呼び込んでくる。みんな必死だ。とりあえず一番近くにあったお店に入ることにした。タコスに牛肉やら豆やら味付けライスやらいかにもメキシコ料理という感じであった。食べ終わってからはダウンタウンへ行く道を探す。橋を渡ると中心部のようだった。川は殆ど干上がっている。時々先住民っぽい格好をした人々がいろんなものを売っている。(まあ先住民なんでしょうね。)国境付近はすごい綺麗で作られた町という感じだったが、中心部は車や人で賑わいそして溢れていて、どことなく混沌とした雰囲気である。どことなくインドの町並みを思い出させる。インドとアメリカを足して二で割ったという表現の仕方もあながち間違いではないだろう。そんな気がした。アメリカほどではないがそれなりに発展していて、町並みは少し汚いが生活の匂いも強い、そんな感じだ。長距離バスターミナルへ行くバスを探していると、金髪で鼻に装飾品をつけているよくわからないお姉さんがどこへ行きたいんだと英語で話し掛けてきた。バハカリフォルニアの先端にあるラパスに行きたいというととにかくこのバスに乗れと言う。乗るとそのお姉さんも一緒に乗った。バスが動き出すとそのお姉さんはバスの中央部に経って、いきなりスペイン語で演説しだす。何を言っているのかよくわからないで要ると今度は突然歌を歌いだした。しばらくすると僕の方に寄って来てchangeとか何とか言ってくる。お釣が欲しいのかなと思い財布を出して小銭を出そうとすると小銭を床にいくつかぶちまけてしまった。彼女は10¢コインを拾うとそれをもらい、しばらくするとバスから降りていった。最後までよくわからないお姉さんだった。バスターミナルは随分と山奥にあった。ラパス行きのバスチケットを買おうとすると、やはりT/Cでは買えず、周辺にもT/Cを両替できる場所はなく、ATMもなかった。時既に16:30。バスは18:00と21:00にある。仕方なく再び中心街に戻る。今度はまたまた青年がバスの中で演説し始める。それが終わると今度はソンブレロをかぶったおじさんがギターで弾き語りを始める。バスの中で大演奏会。一体この国はどうなっているのであろうか…。<br /> <br /> 中心街でATMを発見して両替できたのまではよかった。今度はバスターミナルに戻る方法がわからない。その辺の人になれないスペイン語で聞いてみても、向こうの言っていることがよくわからない。とにかく道行くバスに“Estacion de autobus?”などと聞いてみる。15台近く聞いてみてやっとバスターミナル行きに乗れた。だが時既に遅く18:00のバスは行ってしまったので、21:00のバスに乗ることにした。所詮大学で第二外国語として二年間適当にやった程度のスペイン語なんてたかがしれていた。もう少し真剣に勉強しておけば日常会話くらいは話せたのになどと後悔しても始まらない。ここメキシコは殆ど英語が通用しない。この先どんなことが待っているのか、ワクワクする気持ちと、不安な気持ちでいっぱいいっぱいだ。<br /> <br /> やがてバスに乗り込む。ラパスまで約24時間の道のり。着いた頃は日は暮れているのであろうか、不安である。ただ“La Paz”(平和)という町の名を信じて…。<br />

    8月29日(火)
     “Bienvenidos a Mexico”とかかれた回転扉をくぐると、そこはもうメキシコだった。国境から100マイル以上、72時間以上滞在する場合にはビザかツーリストカードが必要である。入国審査所を探し、日本で所得したツーリストカードを入国審査官に提示した。でも汚れていたために書き直しさせられた。書き直す際に間違えて記入してしまったので変わりの紙をくれと言ったら、別にその上から書き直せばいいみたいなことを言われた。結構いいかげんなものである。わざわざ永田町にあるメキシコ大使館までツーリストカードを取りにいったのに、国境でいとも簡単に取れた。入国税が必要らしい。US$のT/Cでは駄目らしいので、とりあえずTijuanaの町で両替できる場所を探すことに。ところがそのあたりにある両替所でも、銀行でも両替が出来なかった。何箇所かで聞いてようやく両替が出来たが、レートは相当悪かった。ようやく手続きを終えてメキシコ国内に入る。お腹もすいたので昼食を取ろうとそれらしきお店を探す。三件くらい店があったが、僕の姿を見るなり「アミーゴ!」と叫んで呼び込んでくる。みんな必死だ。とりあえず一番近くにあったお店に入ることにした。タコスに牛肉やら豆やら味付けライスやらいかにもメキシコ料理という感じであった。食べ終わってからはダウンタウンへ行く道を探す。橋を渡ると中心部のようだった。川は殆ど干上がっている。時々先住民っぽい格好をした人々がいろんなものを売っている。(まあ先住民なんでしょうね。)国境付近はすごい綺麗で作られた町という感じだったが、中心部は車や人で賑わいそして溢れていて、どことなく混沌とした雰囲気である。どことなくインドの町並みを思い出させる。インドとアメリカを足して二で割ったという表現の仕方もあながち間違いではないだろう。そんな気がした。アメリカほどではないがそれなりに発展していて、町並みは少し汚いが生活の匂いも強い、そんな感じだ。長距離バスターミナルへ行くバスを探していると、金髪で鼻に装飾品をつけているよくわからないお姉さんがどこへ行きたいんだと英語で話し掛けてきた。バハカリフォルニアの先端にあるラパスに行きたいというととにかくこのバスに乗れと言う。乗るとそのお姉さんも一緒に乗った。バスが動き出すとそのお姉さんはバスの中央部に経って、いきなりスペイン語で演説しだす。何を言っているのかよくわからないで要ると今度は突然歌を歌いだした。しばらくすると僕の方に寄って来てchangeとか何とか言ってくる。お釣が欲しいのかなと思い財布を出して小銭を出そうとすると小銭を床にいくつかぶちまけてしまった。彼女は10¢コインを拾うとそれをもらい、しばらくするとバスから降りていった。最後までよくわからないお姉さんだった。バスターミナルは随分と山奥にあった。ラパス行きのバスチケットを買おうとすると、やはりT/Cでは買えず、周辺にもT/Cを両替できる場所はなく、ATMもなかった。時既に16:30。バスは18:00と21:00にある。仕方なく再び中心街に戻る。今度はまたまた青年がバスの中で演説し始める。それが終わると今度はソンブレロをかぶったおじさんがギターで弾き語りを始める。バスの中で大演奏会。一体この国はどうなっているのであろうか…。

     中心街でATMを発見して両替できたのまではよかった。今度はバスターミナルに戻る方法がわからない。その辺の人になれないスペイン語で聞いてみても、向こうの言っていることがよくわからない。とにかく道行くバスに“Estacion de autobus?”などと聞いてみる。15台近く聞いてみてやっとバスターミナル行きに乗れた。だが時既に遅く18:00のバスは行ってしまったので、21:00のバスに乗ることにした。所詮大学で第二外国語として二年間適当にやった程度のスペイン語なんてたかがしれていた。もう少し真剣に勉強しておけば日常会話くらいは話せたのになどと後悔しても始まらない。ここメキシコは殆ど英語が通用しない。この先どんなことが待っているのか、ワクワクする気持ちと、不安な気持ちでいっぱいいっぱいだ。

     やがてバスに乗り込む。ラパスまで約24時間の道のり。着いた頃は日は暮れているのであろうか、不安である。ただ“La Paz”(平和)という町の名を信じて…。

  • 8月30日(水)<br /> バスは世界最長の半島というバハカリフォルニア(南北1680km)をひたすら南下する。世界地図でよく見るメキシコの左側にある長い半島である。その半島南部にあるラパスからコルテス海をフェリーでわたり、マサトランに行く予定である。バスはひたすら疾走し、休憩は殆どない。途中青い海の眩しいドライブスルーで食事タイムがあった。いけども行けどもサボテンが堂々と聳え立つ。そんな風景ばかりである。時折集落があるが、ひたすら一本道を山越えて谷越えてという感じで、外にはただサボテンばかりだった。豊かな自然と呼ぶには程遠い。厳しい自然といった感じである。夕方頃にバスが停まると、殆どの乗客が降りていった。恐らく着いたのであろう。外に出たら確かに“La Paz”と書いてあった。暇そうにしていたタクシーの運転手に中心部まで連れて行ってもらおうと話し掛けたら、待っていましたとばかりのジェスチャーで快く乗せてくれた。Pension Californiaという安宿に泊まることにした。ここでも始めてスペイン語を使って宿に泊まろうとしたので、戸惑った。部屋はやはり安宿だけに多少汚かった。町じゅうピカチュウのぬいぐるみが売られていた。勿論コカコーラもペプシもある。やはりアメリカ文化は伝染するのであろうか…。

    8月30日(水)
     バスは世界最長の半島というバハカリフォルニア(南北1680km)をひたすら南下する。世界地図でよく見るメキシコの左側にある長い半島である。その半島南部にあるラパスからコルテス海をフェリーでわたり、マサトランに行く予定である。バスはひたすら疾走し、休憩は殆どない。途中青い海の眩しいドライブスルーで食事タイムがあった。いけども行けどもサボテンが堂々と聳え立つ。そんな風景ばかりである。時折集落があるが、ひたすら一本道を山越えて谷越えてという感じで、外にはただサボテンばかりだった。豊かな自然と呼ぶには程遠い。厳しい自然といった感じである。夕方頃にバスが停まると、殆どの乗客が降りていった。恐らく着いたのであろう。外に出たら確かに“La Paz”と書いてあった。暇そうにしていたタクシーの運転手に中心部まで連れて行ってもらおうと話し掛けたら、待っていましたとばかりのジェスチャーで快く乗せてくれた。Pension Californiaという安宿に泊まることにした。ここでも始めてスペイン語を使って宿に泊まろうとしたので、戸惑った。部屋はやはり安宿だけに多少汚かった。町じゅうピカチュウのぬいぐるみが売られていた。勿論コカコーラもペプシもある。やはりアメリカ文化は伝染するのであろうか…。

  • 8月31日(木)<br /> のんびりと朝食を取り、フェリーのチケット売り場に向かう。無事に15:00発のマサトラン行きのチケットを入手した。ラパスの町は朝を向かえて活気がある。町の中央には教会と時計台があり、向かい側には広場があり、ややヨーロッパ的な気がした。他のメキシコの都市も多分こんな感じであろう。そんな気がした。宿を出発する。フェリー乗り場はここから少し離れたピチリンゲというところにあるらしい。ピチリンゲ行きバス乗り場に向かう。海岸線を砂で埋め立てて、砂浜のビーチを工事しているようだった。バスに乗る。またボーッとしていたら、ピチリンゲ港で降り損ねてしまった。ビーチリゾートのような終点でみんな降りてしまった。困った顔をしていると、寝過ごしたのか、このまま乗っていけといわれたので、そのまま乗っていくことにした。乗り過ごしたおかげで運転手と助手の二人と仲良くなった。助手の名はホセというそうだ。ピチリンゲに向かう途中ホセと色々と話した。幸いにもホセは英語が少しだけ出来たので、カンフーの話など話題は尽きなかった。ピチリンゲ港に無事に着き、二人に別れを告げた。乗り場で昼食を取る。魚介類の煮込みご飯のようなものであろうか。テリヤキ風味で美味しい。「テリヤキ」と書かれた醤油も一緒に出てきた。「テリヤキ」は結構広まっているのであろうか。

    8月31日(木)
     のんびりと朝食を取り、フェリーのチケット売り場に向かう。無事に15:00発のマサトラン行きのチケットを入手した。ラパスの町は朝を向かえて活気がある。町の中央には教会と時計台があり、向かい側には広場があり、ややヨーロッパ的な気がした。他のメキシコの都市も多分こんな感じであろう。そんな気がした。宿を出発する。フェリー乗り場はここから少し離れたピチリンゲというところにあるらしい。ピチリンゲ行きバス乗り場に向かう。海岸線を砂で埋め立てて、砂浜のビーチを工事しているようだった。バスに乗る。またボーッとしていたら、ピチリンゲ港で降り損ねてしまった。ビーチリゾートのような終点でみんな降りてしまった。困った顔をしていると、寝過ごしたのか、このまま乗っていけといわれたので、そのまま乗っていくことにした。乗り過ごしたおかげで運転手と助手の二人と仲良くなった。助手の名はホセというそうだ。ピチリンゲに向かう途中ホセと色々と話した。幸いにもホセは英語が少しだけ出来たので、カンフーの話など話題は尽きなかった。ピチリンゲ港に無事に着き、二人に別れを告げた。乗り場で昼食を取る。魚介類の煮込みご飯のようなものであろうか。テリヤキ風味で美味しい。「テリヤキ」と書かれた醤油も一緒に出てきた。「テリヤキ」は結構広まっているのであろうか。

  •  やがてフェリーに乗る。フェリーの名は「Azteca」。結構大きい船である。メキシコの歴史を考えるとやや複雑な気がする。一番下の等級の席だったので、座席である。しかも後ろには倒せない。結構床に色々と敷いて寝ている人もいる。結構暇だったので、ガイドブックを読みながら今後の予定を考えていた。<br />

     やがてフェリーに乗る。フェリーの名は「Azteca」。結構大きい船である。メキシコの歴史を考えるとやや複雑な気がする。一番下の等級の席だったので、座席である。しかも後ろには倒せない。結構床に色々と敷いて寝ている人もいる。結構暇だったので、ガイドブックを読みながら今後の予定を考えていた。

  •  夕方頃一人のガードマンが話し掛けてきた。彼の名はカルロス・エフラインというらしい。1975年4月18日生まれの25歳である。あまり僕はスペイン語が話せないけど、それでも頑張って色々なことを話した。途中で会話集を持ち出すと、後ろのページにある世界地図を見ながらまた話が盛り上がった。夕方七時ごろになると、彼は夕食の時間で行ってしまった。でもまたしばらくしたらまた戻ってきて、船内を案内してくれた。デッキに出た。バハカリフォルニアの彼方に沈みゆく夕日が綺麗だ。月も出てきた。大してスペイン語話せない僕に色々と仲良くしてくれた。すごく嬉しかった。彼は警備の仕事があるので、仕事に向かった。そろそろ寝ようかな…。<br /> <br />

     夕方頃一人のガードマンが話し掛けてきた。彼の名はカルロス・エフラインというらしい。1975年4月18日生まれの25歳である。あまり僕はスペイン語が話せないけど、それでも頑張って色々なことを話した。途中で会話集を持ち出すと、後ろのページにある世界地図を見ながらまた話が盛り上がった。夕方七時ごろになると、彼は夕食の時間で行ってしまった。でもまたしばらくしたらまた戻ってきて、船内を案内してくれた。デッキに出た。バハカリフォルニアの彼方に沈みゆく夕日が綺麗だ。月も出てきた。大してスペイン語話せない僕に色々と仲良くしてくれた。すごく嬉しかった。彼は警備の仕事があるので、仕事に向かった。そろそろ寝ようかな…。

  • (記念の一枚)

    (記念の一枚)

  • 9月1日(金)<br /> <br /> 朝目が覚めたらマサトランはすぐそこだった。船はマサトランの港に着いた。カルロスとの別れのときが刻々と近づく。少し寂しかった。固く握手して分かれた。<br /> <br /> ニューヨークからきたという女の子二人組に、バス乗り場への行き方を教えてもらった。彼女たちはこれから海に泳ぎに行くらしい。一人になって少し切なかった。少しぼろいバスに乗って、セントロを通ってバスターミナルに向かう。メキシコの町は何処にでも教会と中央広場がある気がした。狭い道をバスは疾走する。運転手がここで降りろと言う。バスターミナルがすぐそこにあるらしい。ただ場所がわかりにくかったので、時間が少しかかってしまった。<br /> <br /> グアダラハラ行きのバスに乗り込む。とにかくこのバスは飛ばす、飛ばす。途中何台もトラックを抜いていった。小さな町をいくつか通過し、山の中を突き抜けて、やがて高速道路のような道に入る。山肌を少し無理に削ったようにも見えた。途中でテキーラ村を通過。テキーラ誕生の地で、テキーラの原料となる竜舌蘭の栽培が盛んだそうである。しばらくするとバスはグアダラハラ市内に入り、バスターミナルに到着した。だがここから先、セントロへの行き方がよくわからない。でも親切に教えてくれる人がいて、何とか乗るバスがわかった。日が暮れかけてきた。セントロは相当遠いようで、少し汚いエリアを通るのでかなり不安になってきた。でも少しずつあたりの雰囲気が明るくなってきた。するとここで降りろと言う風に教えてくれる人がいたので降りた。降りたところは16 de Septiembre通りだった。なんとも9月16日がメキシコの独立記念日なので、この名前の着いた通りは多いみたいだ。カテドラルのある広場辺りは夜遅くまで賑わっているようで、多くの人が奏でられる音楽に耳を傾けていた。ドンキホーテという少し高そうなホテルに泊まることにした。確かに少し高かったけど、設備は立派なものだった。食事に行くと、イギリス人の男性と相席になった。なんとも彼はここの大学で英語の先生を一年くらいしている新婚ほやほやで、以前はタイで英語の先生をしていたそうである。久しぶりに英語で話をした気がした。牛モツのスープだろうか、非常に美味しかった。彼はずっとビールを片手に、ジュークボックスから奏でられる音楽に耳を傾けながらもいろいろと話をしてくれた。それにしてもこの町は夜遅くまで賑わっていて、明るい雰囲気に思えた。

    9月1日(金)

     朝目が覚めたらマサトランはすぐそこだった。船はマサトランの港に着いた。カルロスとの別れのときが刻々と近づく。少し寂しかった。固く握手して分かれた。

     ニューヨークからきたという女の子二人組に、バス乗り場への行き方を教えてもらった。彼女たちはこれから海に泳ぎに行くらしい。一人になって少し切なかった。少しぼろいバスに乗って、セントロを通ってバスターミナルに向かう。メキシコの町は何処にでも教会と中央広場がある気がした。狭い道をバスは疾走する。運転手がここで降りろと言う。バスターミナルがすぐそこにあるらしい。ただ場所がわかりにくかったので、時間が少しかかってしまった。

     グアダラハラ行きのバスに乗り込む。とにかくこのバスは飛ばす、飛ばす。途中何台もトラックを抜いていった。小さな町をいくつか通過し、山の中を突き抜けて、やがて高速道路のような道に入る。山肌を少し無理に削ったようにも見えた。途中でテキーラ村を通過。テキーラ誕生の地で、テキーラの原料となる竜舌蘭の栽培が盛んだそうである。しばらくするとバスはグアダラハラ市内に入り、バスターミナルに到着した。だがここから先、セントロへの行き方がよくわからない。でも親切に教えてくれる人がいて、何とか乗るバスがわかった。日が暮れかけてきた。セントロは相当遠いようで、少し汚いエリアを通るのでかなり不安になってきた。でも少しずつあたりの雰囲気が明るくなってきた。するとここで降りろと言う風に教えてくれる人がいたので降りた。降りたところは16 de Septiembre通りだった。なんとも9月16日がメキシコの独立記念日なので、この名前の着いた通りは多いみたいだ。カテドラルのある広場辺りは夜遅くまで賑わっているようで、多くの人が奏でられる音楽に耳を傾けていた。ドンキホーテという少し高そうなホテルに泊まることにした。確かに少し高かったけど、設備は立派なものだった。食事に行くと、イギリス人の男性と相席になった。なんとも彼はここの大学で英語の先生を一年くらいしている新婚ほやほやで、以前はタイで英語の先生をしていたそうである。久しぶりに英語で話をした気がした。牛モツのスープだろうか、非常に美味しかった。彼はずっとビールを片手に、ジュークボックスから奏でられる音楽に耳を傾けながらもいろいろと話をしてくれた。それにしてもこの町は夜遅くまで賑わっていて、明るい雰囲気に思えた。

  • 9月2日(土)<br /> 今日一日Guadalajaraの観光に当てて、夜行でMexico Cityに行くことにした。メキシコの町を観光らしい観光をするのはこれが始めてである。とりあえずカテドラルの辺りに行ってみる。土曜日ということもあり、多くの親子連れで賑わっているみたいである。

    9月2日(土)
     今日一日Guadalajaraの観光に当てて、夜行でMexico Cityに行くことにした。メキシコの町を観光らしい観光をするのはこれが始めてである。とりあえずカテドラルの辺りに行ってみる。土曜日ということもあり、多くの親子連れで賑わっているみたいである。

  • ところどころで先住民っぽい格好をした人がお菓子らしきを売っている。でもなんか先住民の特に女性の人はみんな同じような顔に見える。やや黒味を帯びた肌に髪を後ろに束ね、堀の深い顔で、なんか黒玉葱のようにも見える。時々見られる路上にいる物乞いは、先住民っぽい感じの人が多い気がした。やはり先住民というのは、何処の国でも虐げられている存在なのか、と少し疑問に思えた。<br /> <br /> とにかくスペイン語の単語を覚えたかったので、レストランやジュース売り場では辞書とにらめっこしながら色々な物を頼んでみた。搾りたての果汁のみからできるジュース、果物のジュースとミネラルウォーターを混ぜたようなジュース、メキシコは飲み物の種類が多様である。<br /> <br /> カバーニャス孤児院に入ってみる。学生のIDがなくて、入場料を倍払う羽目になった。比較的最近まで実際に孤児院として使われていたそうである。オロスコという有名な画家が書いた壁画が天井いっぱいに描かれており、なかなか見ごたえがある。ベンチにねっころがって、天井を見上げてみると壮大である。<br /><br /> 自由市場をのぞいてみる。かなり広く、人ごみも多い。とにかくいろいろな製品が売られている。やはり日本の電化製品は海外にいっても強いと強く感じた。日本の名だたるメーカーの製品が陳列されている。ここで革のベルトを購入。なかなか格好よかったし、店員も愛想がよかった。その横で本物の牛の皮が売られていたのには少々驚いた。よく市場へ行けばその地域のことがわかるというけれど、まさにそのとおりだと思えた。変わった香辛料も多かったし、何よりも精肉の解体されたものには驚いた。豚や山羊の首がつるされていたのには本当に驚いた。かなり怖気づいた。でもいろいろなものが見られて、なかなか面白かった。<br /> <br /> 夕方頃になると16 de Septiembre通りで音楽パレードが開催された。車の上に乗った楽団が演奏して、拍手喝采を浴びていた。<br /> <br /> 日が暮れる頃、何とかバスターミナルに戻って、メキシコシティー行きのバスに乗り込む。ETN社のデラックスバスで、座席が一列あたり3つあり、非常に快適であった。食事や飲み物も配布された。いよいよ明日の朝にはメキシコシティー。一体どんな景色が待っているのであろうか…。

    ところどころで先住民っぽい格好をした人がお菓子らしきを売っている。でもなんか先住民の特に女性の人はみんな同じような顔に見える。やや黒味を帯びた肌に髪を後ろに束ね、堀の深い顔で、なんか黒玉葱のようにも見える。時々見られる路上にいる物乞いは、先住民っぽい感じの人が多い気がした。やはり先住民というのは、何処の国でも虐げられている存在なのか、と少し疑問に思えた。

     とにかくスペイン語の単語を覚えたかったので、レストランやジュース売り場では辞書とにらめっこしながら色々な物を頼んでみた。搾りたての果汁のみからできるジュース、果物のジュースとミネラルウォーターを混ぜたようなジュース、メキシコは飲み物の種類が多様である。

     カバーニャス孤児院に入ってみる。学生のIDがなくて、入場料を倍払う羽目になった。比較的最近まで実際に孤児院として使われていたそうである。オロスコという有名な画家が書いた壁画が天井いっぱいに描かれており、なかなか見ごたえがある。ベンチにねっころがって、天井を見上げてみると壮大である。

     自由市場をのぞいてみる。かなり広く、人ごみも多い。とにかくいろいろな製品が売られている。やはり日本の電化製品は海外にいっても強いと強く感じた。日本の名だたるメーカーの製品が陳列されている。ここで革のベルトを購入。なかなか格好よかったし、店員も愛想がよかった。その横で本物の牛の皮が売られていたのには少々驚いた。よく市場へ行けばその地域のことがわかるというけれど、まさにそのとおりだと思えた。変わった香辛料も多かったし、何よりも精肉の解体されたものには驚いた。豚や山羊の首がつるされていたのには本当に驚いた。かなり怖気づいた。でもいろいろなものが見られて、なかなか面白かった。

     夕方頃になると16 de Septiembre通りで音楽パレードが開催された。車の上に乗った楽団が演奏して、拍手喝采を浴びていた。

     日が暮れる頃、何とかバスターミナルに戻って、メキシコシティー行きのバスに乗り込む。ETN社のデラックスバスで、座席が一列あたり3つあり、非常に快適であった。食事や飲み物も配布された。いよいよ明日の朝にはメキシコシティー。一体どんな景色が待っているのであろうか…。

  • 9月3日(日)<br /> デラックスバスで快適だったので、ぐっすりと寝れた。気がついたらメキシコシティーに着いていた。朝6時過ぎの到着である。あたりはまだ暗かったので、バスターミナルで夜明けを待つ。かなり寒い。待合室にストリートファイターⅡがあった。流行は遅れて伝播するものだろうか。7時過ぎて出発。日本人夫妻経営というサンフェルナンド館に泊まろうと、メトロに乗ってHidalgo駅を目指す。地下鉄を降りて若干方向感覚が掴みにくかったが、「おでん」と書かれた堤燈があってわかりやすかった。かなり厳重に扉が閉められている。ブザーを押したら若い女性が出てきた。この人がオーナーの奥さんだろうかと一瞬思ったが、少しそれにしては若すぎるような気がした。<br /> 「私も今、丁度着いたところなんですよ。今管理人さん呼んで来ます。」<br /> どうやら宿泊客らしい。女性一人でこの時間に到着するなんて、かなりすごい人に思えた。そう言えばメキシコ国内に着て始めて日本語を話した。それくらいにメキシコ国内に入ってからは日本人には会わなかった。やがて管理人さんらしい人が出てきて、無事泊まることが出来た。あまり寝ていないので、しばらく寝ることにした。<br /> <br /> 10時半を過ぎて、出かけることにした。三人で国立人類博物館に行くことになった。一人は九州の旅行会社で契約社員をしているY武さん、もう一人は一年間メキシコ留学していてかつ日本の大学でスペイン語を専攻する女子大生のあすかさんである。レフォルマ通りというメインストリートを走るバスに乗って博物館へ向かう。途中で色々な立派な記念塔があって目立つ。さすがにメキシコシティーの目抜き通りである。さすがにメキシコに一年間留学していただけあって、彼女のスペイン語力とメキシコに関する知識量の多さにはただただ感嘆するのみである。日曜ということで博物館は無料で入れた。だけど改装中のコーナーばかりで殆ど入れなかった。それでもアステカ時代の暦である「太陽の石」を見た瞬間、あまりの壮大さに言葉を失った。一旦宿に戻り、近くで食事を取る。四分の一の鶏肉やポテトなどのセットを食べたが、かなり量が多かった。<br /> <br /> その後「泥棒市場」と呼ばれている市場に三人で行くことになった。結構すりや泥棒の被害が出やすいらしく、彼女がメキシコに留学中メキシコ人の友人に、あんなところに女の子一人で行っちゃいけないなどといわれたらしい。本当にいろいろなものが売られていて賑わっている。なぜか生牡蠣を食べている人たちがいた。こんな高地なのになんか信じられない。あすかさんはジーンズを買っていた。ジーンズを買うのが好きらしく、家にも大量のジーンズがあるらしい。僕とY武さんは二人でサングラスを買うことにした。一つ50ペソだが二つで90ペソでいいといってきたが、僕が「アミーゴ、アミーゴ、ドスガファス、ドスガファス、オチェンタ、オチェンタ、ポルファボール、アミーゴ」とか叫んだら、80ペソに負けてくれた。言っているものである。その後歩いて宿に戻ったが、このとき既に体調が少しおかしくて、体がだるかった。<br /> <br /> その後二人はスーパーマーケットに行ったが、僕は宿に残ることにした。その直後、身震いが止まらなくなり、眩暈が起こり、歯軋りが始まり、ぞっと寒気がして体調がおかしくなり始めた。ここに来て疲れがでたのか、それとも標高2200mのメキシコシティーゆえの高山病なのかよくわからないが、かなり気分が悪かったので、とにかく水を大量に飲んでしばらく寝た。どれくらいの時が経ったのであろうか、かなり汗をかいていた。と同時に悪寒も消えたので、起きてみた。部屋の外では声が聞こえる。とりあえずだいぶ体調がよくなったので、夜遅くまで同宿の人と語り明かした。ここの宿にいるのは本当に個性豊かな人が多く、語っても語っても飽きることはなかった。

    9月3日(日)
     デラックスバスで快適だったので、ぐっすりと寝れた。気がついたらメキシコシティーに着いていた。朝6時過ぎの到着である。あたりはまだ暗かったので、バスターミナルで夜明けを待つ。かなり寒い。待合室にストリートファイターⅡがあった。流行は遅れて伝播するものだろうか。7時過ぎて出発。日本人夫妻経営というサンフェルナンド館に泊まろうと、メトロに乗ってHidalgo駅を目指す。地下鉄を降りて若干方向感覚が掴みにくかったが、「おでん」と書かれた堤燈があってわかりやすかった。かなり厳重に扉が閉められている。ブザーを押したら若い女性が出てきた。この人がオーナーの奥さんだろうかと一瞬思ったが、少しそれにしては若すぎるような気がした。
     「私も今、丁度着いたところなんですよ。今管理人さん呼んで来ます。」
     どうやら宿泊客らしい。女性一人でこの時間に到着するなんて、かなりすごい人に思えた。そう言えばメキシコ国内に着て始めて日本語を話した。それくらいにメキシコ国内に入ってからは日本人には会わなかった。やがて管理人さんらしい人が出てきて、無事泊まることが出来た。あまり寝ていないので、しばらく寝ることにした。

     10時半を過ぎて、出かけることにした。三人で国立人類博物館に行くことになった。一人は九州の旅行会社で契約社員をしているY武さん、もう一人は一年間メキシコ留学していてかつ日本の大学でスペイン語を専攻する女子大生のあすかさんである。レフォルマ通りというメインストリートを走るバスに乗って博物館へ向かう。途中で色々な立派な記念塔があって目立つ。さすがにメキシコシティーの目抜き通りである。さすがにメキシコに一年間留学していただけあって、彼女のスペイン語力とメキシコに関する知識量の多さにはただただ感嘆するのみである。日曜ということで博物館は無料で入れた。だけど改装中のコーナーばかりで殆ど入れなかった。それでもアステカ時代の暦である「太陽の石」を見た瞬間、あまりの壮大さに言葉を失った。一旦宿に戻り、近くで食事を取る。四分の一の鶏肉やポテトなどのセットを食べたが、かなり量が多かった。

     その後「泥棒市場」と呼ばれている市場に三人で行くことになった。結構すりや泥棒の被害が出やすいらしく、彼女がメキシコに留学中メキシコ人の友人に、あんなところに女の子一人で行っちゃいけないなどといわれたらしい。本当にいろいろなものが売られていて賑わっている。なぜか生牡蠣を食べている人たちがいた。こんな高地なのになんか信じられない。あすかさんはジーンズを買っていた。ジーンズを買うのが好きらしく、家にも大量のジーンズがあるらしい。僕とY武さんは二人でサングラスを買うことにした。一つ50ペソだが二つで90ペソでいいといってきたが、僕が「アミーゴ、アミーゴ、ドスガファス、ドスガファス、オチェンタ、オチェンタ、ポルファボール、アミーゴ」とか叫んだら、80ペソに負けてくれた。言っているものである。その後歩いて宿に戻ったが、このとき既に体調が少しおかしくて、体がだるかった。

     その後二人はスーパーマーケットに行ったが、僕は宿に残ることにした。その直後、身震いが止まらなくなり、眩暈が起こり、歯軋りが始まり、ぞっと寒気がして体調がおかしくなり始めた。ここに来て疲れがでたのか、それとも標高2200mのメキシコシティーゆえの高山病なのかよくわからないが、かなり気分が悪かったので、とにかく水を大量に飲んでしばらく寝た。どれくらいの時が経ったのであろうか、かなり汗をかいていた。と同時に悪寒も消えたので、起きてみた。部屋の外では声が聞こえる。とりあえずだいぶ体調がよくなったので、夜遅くまで同宿の人と語り明かした。ここの宿にいるのは本当に個性豊かな人が多く、語っても語っても飽きることはなかった。

  • (記念の一枚)

    (記念の一枚)

  • 9月4日(月)<br /> 朝起きたら、今度は右足の膝の辺りが痛かった。今日はテオティワカンに行く予定だったが、かなり急な階段を上らなければならないと聞いたのでやめた。長旅の疲れがたまっていたのか、それとも寝違えたのか。どちらにしろテオティワカンは今日は無理なので、明日以降見に行くことにする。午後からソカロに行くことにした。M本さんという方と一緒に行くことになった。彼は色々と仕事を経た後やめて、キューバに語学留学をしていたが、ビザの関係でメキシコに移ったそうである。ソカロ周辺は、もうすぐ9月16日のメキシコ独立記念日を迎えるとかで、飾り付けがなされ始めて賑わっている。ソカロ周辺には国立宮殿がある。アステカ時代には王の居城が立っていたが、征服者コルテスがそれを意図的に破壊して植民地の本拠としての宮殿を建設した。すぐ近くにはメトロポリタン・カテドラルというメキシコにある全ての教会を統括する大教会がある。これもかなり大きくて美しい建設物である。中世風の立派な建物が多いが、アステカ帝国を征服したスペインがキリスト教を根付かせるために、意識的にアステカ時代の建物を破壊したのは非常に文化的にも残念である。今のメキシコのマジョリティーは先住民と白人系の混血であるメスティーソが大部分を占めるので、少しアイデンティティーにも複雑な気がした。近くではアステカの踊りを再現したという踊りを町じゅうでやっていた。独特のリズムに加えて貝殻のついた靴で音を鳴らしたりと見ごたえがなかなかあった。ソカロの市場で頭のはげた黒人が話し掛けてきた。なんともシカゴ出身で、自分の荷物と家族とへまをして別れてしまい、荷物と家族とがカンクンに行ってしまっている、カンクンにまでいけるだけの旅費が必要なので貸して欲しい、アメリカ大使館は力を貸してくれないと英語で話し掛けてきた。そう言えば宿にあった「禿頭の黒人に注意」という注意書きがあったのを思い出した。恐らく詐欺師なのであろうと思い、大使館に相談してみたらと言い放って立ち去った。詐欺にあってはたまったものではない。<br /> <br /> 宿に戻ってからはY武さんとOさんという写真家らしきおばちゃんとH本君という、メキシコでボクシングを習っている人とで一緒に中華料理を食べに行くことになった。彼はメキシコでボクシングを学びながらもメキシコ人の心理学を卒論として研究しているそうである。本当はあすかさんも一緒に行く予定だったが、なかなか戻ってこなかったので先に行くことにした。遅れてあすかさんが来て合流。5人で食事をすることに。彼女も卒論のためにメキシコに来ていて、メキシコの外交政策について研究しているそうである。

    9月4日(月)
     朝起きたら、今度は右足の膝の辺りが痛かった。今日はテオティワカンに行く予定だったが、かなり急な階段を上らなければならないと聞いたのでやめた。長旅の疲れがたまっていたのか、それとも寝違えたのか。どちらにしろテオティワカンは今日は無理なので、明日以降見に行くことにする。午後からソカロに行くことにした。M本さんという方と一緒に行くことになった。彼は色々と仕事を経た後やめて、キューバに語学留学をしていたが、ビザの関係でメキシコに移ったそうである。ソカロ周辺は、もうすぐ9月16日のメキシコ独立記念日を迎えるとかで、飾り付けがなされ始めて賑わっている。ソカロ周辺には国立宮殿がある。アステカ時代には王の居城が立っていたが、征服者コルテスがそれを意図的に破壊して植民地の本拠としての宮殿を建設した。すぐ近くにはメトロポリタン・カテドラルというメキシコにある全ての教会を統括する大教会がある。これもかなり大きくて美しい建設物である。中世風の立派な建物が多いが、アステカ帝国を征服したスペインがキリスト教を根付かせるために、意識的にアステカ時代の建物を破壊したのは非常に文化的にも残念である。今のメキシコのマジョリティーは先住民と白人系の混血であるメスティーソが大部分を占めるので、少しアイデンティティーにも複雑な気がした。近くではアステカの踊りを再現したという踊りを町じゅうでやっていた。独特のリズムに加えて貝殻のついた靴で音を鳴らしたりと見ごたえがなかなかあった。ソカロの市場で頭のはげた黒人が話し掛けてきた。なんともシカゴ出身で、自分の荷物と家族とへまをして別れてしまい、荷物と家族とがカンクンに行ってしまっている、カンクンにまでいけるだけの旅費が必要なので貸して欲しい、アメリカ大使館は力を貸してくれないと英語で話し掛けてきた。そう言えば宿にあった「禿頭の黒人に注意」という注意書きがあったのを思い出した。恐らく詐欺師なのであろうと思い、大使館に相談してみたらと言い放って立ち去った。詐欺にあってはたまったものではない。

     宿に戻ってからはY武さんとOさんという写真家らしきおばちゃんとH本君という、メキシコでボクシングを習っている人とで一緒に中華料理を食べに行くことになった。彼はメキシコでボクシングを学びながらもメキシコ人の心理学を卒論として研究しているそうである。本当はあすかさんも一緒に行く予定だったが、なかなか戻ってこなかったので先に行くことにした。遅れてあすかさんが来て合流。5人で食事をすることに。彼女も卒論のためにメキシコに来ていて、メキシコの外交政策について研究しているそうである。

  • その夜は宿に戻って恒例の座談会。ついつい楽しくて夜更かしをしてしまう。F川さんという方もまた大学でスペイン語を専攻している女子大生の方だが、卒論でラテンアメリカの音楽について研究しているが、自分と似たような境遇で将来のことについて悩んでいたので、ずっと長い間語り合った。管理人さんの友人というメキシコ人のカルロスともテキーラを飲みつつ語り合った。彼はテキーラをストレートで一気に飲み干しては、またおかわりをしていた。彼とテキーラの飲み比べもする。到底勝てません…彼には…。

    その夜は宿に戻って恒例の座談会。ついつい楽しくて夜更かしをしてしまう。F川さんという方もまた大学でスペイン語を専攻している女子大生の方だが、卒論でラテンアメリカの音楽について研究しているが、自分と似たような境遇で将来のことについて悩んでいたので、ずっと長い間語り合った。管理人さんの友人というメキシコ人のカルロスともテキーラを飲みつつ語り合った。彼はテキーラをストレートで一気に飲み干しては、またおかわりをしていた。彼とテキーラの飲み比べもする。到底勝てません…彼には…。

  • 9月5日(火)<br /> 昨日は夜中三時過ぎまで、テキーラを飲みつつも語り合っていた。七時に一旦起きてまた寝た。八時にもまた起きてまた寝た。結局起きたのは十時半だった。殆どみんな出かけた後だった。足の痛みは引いていたので、テオティワカン遺跡に行ってみることにした。メキシコシティーに着いた時に使った北バスターミナルに行こうとするものの、途中で地下鉄逆方向に乗ってしまう。それでも何とか無事にたどり着いた。バスに揺られること一時間弱、テオティワカンに無事にたどり着いた。テオティワカンは紀元350年から650年の約千年間に繁栄を極めた都市国家の都市遺跡である。その壮大な敷地の広さやピラミッドの大きさからその規模が想像できる。入り口に入ると、土産売りが大勢群がって来た。中には「殆どただ。」とか「これは安いよ。」なんて日本語を操る人も。それでもかつてのインド人ほどしつこくなく、ノーボニート、ムイカロール、なんて冷やかしてもてあそんだりもしてみた。まず最初にケツァールコアトルのピラミッドに行った。真正面に見えるピラミッドとその後ろのピラミッドにはさまれた狭い空間の中に、ケツァールコアトルのレリーフが壁いっぱいに彫られていた。ケツァールコアトルはヘビのような形をしていて、水と農耕の神様としてあがめられていたらしい。なかなか美しい。次に太陽のピラミッドの方へと歩いていく。かなりの距離である。途中で日本の空手集団(?)に会った。噂通り太陽のピラミッドの階段は急であった。さすがに世界三番目の大きさを誇るというだけである。底辺の一辺が225m、高さが65m。登り切った頃には汗だくになっていた。それでも眼下に広がる壮大な遺跡の全景は、苦労して登った甲斐があったように思えた。遠くに広がる景色もまた美しい。最後に月のピラミッドに登る。テオティワカンの最北端に位置するだけあって、南側に広がる全景から往時の繁栄を思い起こさせるだけのものがあった。<br /> <br /> ソナ・ロッサから帰った。途中レフォルマ通り沿いにある記念塔を今回はじっくりと見ながら帰った。途中背後から聞きなれた声が。振り返ってみると、昨日の禿頭の黒人が。なんとも彼は、白人男性と握手をしていた。この白人男性は、禿頭の黒人の罠にはまったのだろうか…。少々不安になって一瞬だった。<br /> <br /> 帰ってからはまたいつものようにトークタイム。明日でオアハカに行ってしまうY武さんといろいろと人生について語り合った。でも一番興味深かったのは、ケニアに数学教師として青年海外協力隊に行っていたS木さんという男性の方のお話だった。話を聞いてみると、実を言うと大学の先輩だった。なんともうちの大学はパワフルな人が多いようである。元々数学科出身で数学の教員免許を持っていて、大学卒業後に青年海外協力隊に応募したそうである。その後紆余曲折を経て結局ケニアに派遣されることになり、在任中の話もいろいろと聞けた。青年海外協力隊というと結構格好いいイメージが強いが、実際は結構泥臭かったりするものらしい。感動的な物語を経験してきたというよりは、ガスも電気も水道もないような環境で長年すごしたことによってどんなに厳しい環境でも生きていける逞しさと、精神的強さを手に入れたそうである。加えて、英語とスワヒリ語も日常会話なら問題なく話せるようになったそうである。なんともうらやましい限りである。その後二年間ほど働いて辞めたあとで、今新たに旅に出ているそうである。今日は、非常に興味深い話が聞けて、自分にとってもプラスの一日だった。<br />

    9月5日(火)
     昨日は夜中三時過ぎまで、テキーラを飲みつつも語り合っていた。七時に一旦起きてまた寝た。八時にもまた起きてまた寝た。結局起きたのは十時半だった。殆どみんな出かけた後だった。足の痛みは引いていたので、テオティワカン遺跡に行ってみることにした。メキシコシティーに着いた時に使った北バスターミナルに行こうとするものの、途中で地下鉄逆方向に乗ってしまう。それでも何とか無事にたどり着いた。バスに揺られること一時間弱、テオティワカンに無事にたどり着いた。テオティワカンは紀元350年から650年の約千年間に繁栄を極めた都市国家の都市遺跡である。その壮大な敷地の広さやピラミッドの大きさからその規模が想像できる。入り口に入ると、土産売りが大勢群がって来た。中には「殆どただ。」とか「これは安いよ。」なんて日本語を操る人も。それでもかつてのインド人ほどしつこくなく、ノーボニート、ムイカロール、なんて冷やかしてもてあそんだりもしてみた。まず最初にケツァールコアトルのピラミッドに行った。真正面に見えるピラミッドとその後ろのピラミッドにはさまれた狭い空間の中に、ケツァールコアトルのレリーフが壁いっぱいに彫られていた。ケツァールコアトルはヘビのような形をしていて、水と農耕の神様としてあがめられていたらしい。なかなか美しい。次に太陽のピラミッドの方へと歩いていく。かなりの距離である。途中で日本の空手集団(?)に会った。噂通り太陽のピラミッドの階段は急であった。さすがに世界三番目の大きさを誇るというだけである。底辺の一辺が225m、高さが65m。登り切った頃には汗だくになっていた。それでも眼下に広がる壮大な遺跡の全景は、苦労して登った甲斐があったように思えた。遠くに広がる景色もまた美しい。最後に月のピラミッドに登る。テオティワカンの最北端に位置するだけあって、南側に広がる全景から往時の繁栄を思い起こさせるだけのものがあった。

     ソナ・ロッサから帰った。途中レフォルマ通り沿いにある記念塔を今回はじっくりと見ながら帰った。途中背後から聞きなれた声が。振り返ってみると、昨日の禿頭の黒人が。なんとも彼は、白人男性と握手をしていた。この白人男性は、禿頭の黒人の罠にはまったのだろうか…。少々不安になって一瞬だった。

     帰ってからはまたいつものようにトークタイム。明日でオアハカに行ってしまうY武さんといろいろと人生について語り合った。でも一番興味深かったのは、ケニアに数学教師として青年海外協力隊に行っていたS木さんという男性の方のお話だった。話を聞いてみると、実を言うと大学の先輩だった。なんともうちの大学はパワフルな人が多いようである。元々数学科出身で数学の教員免許を持っていて、大学卒業後に青年海外協力隊に応募したそうである。その後紆余曲折を経て結局ケニアに派遣されることになり、在任中の話もいろいろと聞けた。青年海外協力隊というと結構格好いいイメージが強いが、実際は結構泥臭かったりするものらしい。感動的な物語を経験してきたというよりは、ガスも電気も水道もないような環境で長年すごしたことによってどんなに厳しい環境でも生きていける逞しさと、精神的強さを手に入れたそうである。加えて、英語とスワヒリ語も日常会話なら問題なく話せるようになったそうである。なんともうらやましい限りである。その後二年間ほど働いて辞めたあとで、今新たに旅に出ているそうである。今日は、非常に興味深い話が聞けて、自分にとってもプラスの一日だった。

  • (テオティワカン遺跡)

    (テオティワカン遺跡)

  • (テオティワカン遺跡)

    (テオティワカン遺跡)

  • (記念の一枚)

    (記念の一枚)

  • 9月6日(水)<br /> Y武さんたちを見送ろうと、前日遅くまで起きていたにもかかわらず、頑張って早起きをした。やはりいつでも別れは辛いけど、それでも笑顔で見送ってあげようと。<br /> <br /> 今日は、Taxcoに行くことにした。南バスターミナルから三時間弱でTaxcoに到着。でも殆ど寝ていた。かつては銀鉱山で栄えた街であり、その狭い山肌を縫うように作られたコロニアル調の町並みが美しく、落ち着いた雰囲気である。急な坂道を登ると町の中心部にたどり着いた。ただでさえ狭い路地に加えて斜面が急なので、車一台すれ違うだけでも大苦労である。それでも街中に売られている銀細工はどれもこれも美しい。それでもこういった美しい装飾品をプレゼントするような大切な人が自分には今はいないのが少し残念である。<br /> <br />

    9月6日(水)
     Y武さんたちを見送ろうと、前日遅くまで起きていたにもかかわらず、頑張って早起きをした。やはりいつでも別れは辛いけど、それでも笑顔で見送ってあげようと。

     今日は、Taxcoに行くことにした。南バスターミナルから三時間弱でTaxcoに到着。でも殆ど寝ていた。かつては銀鉱山で栄えた街であり、その狭い山肌を縫うように作られたコロニアル調の町並みが美しく、落ち着いた雰囲気である。急な坂道を登ると町の中心部にたどり着いた。ただでさえ狭い路地に加えて斜面が急なので、車一台すれ違うだけでも大苦労である。それでも街中に売られている銀細工はどれもこれも美しい。それでもこういった美しい装飾品をプレゼントするような大切な人が自分には今はいないのが少し残念である。

  • (タスコの街並み)

    (タスコの街並み)

  •  教会の近くのお店のおじさんが手招きをする。とりあえず入ってみる。やはりどの銀細工もその美しさにただただ魅了されるばかりである。一つ一つおじさんが勧めてくれるし、指輪を実際に試着させてくれる。でもなんとなくそういった銀細工の装飾品を買うような気分にはなれなかった。どうしても今年になってからいいことが全然なく、厄年ではないだろうかと、心に深い錘を付けて生きているような自分には、こんなにきらびやかで美しいものは似合わないような気がした。せっかく一つ一つ試着してくれる小父さんの笑顔と好意には悪かったけど、帰る事にした。<br /><br /> Taxcoは遠かった。結局滞在時間は三時間程度。宿に戻ってからはガリバルディ広場に夕食を食べに行った。きちんとした身だしなみをして、ソンブレロをかぶった「チャロ」と呼ばれるメキシカンカウボーイ姿のマリアッチの一団が音楽を奏でる。メキシコらしさをもっともよく感じさせるようなワンシーンで、メキシコシティー最後の夜を飾るには相応しかった。<br /> <br /> 宿に戻って、あすかさんとM本さんと三人で映画に行くことになった。なんとも水曜は映画が安くなる日らしい。言葉は英語で字幕はスペイン語。それでもわかるところはわかるので部分的には理解できた。内容的にはイエメンでアメリカ大使館を囲むデモがあり、アメリカ軍がそれに対して発砲して多くの非戦闘員の死傷者を出した事件の軍事裁判に関する映画だった。凄惨な死の現場は、世界各地で勃発している紛争の生き地獄を思い起こさせるほど身の毛のよだつものだった。この映画を見て、戦争のない平和な世の中が来て欲しい、そう思った人は本当に多いだろう。<br />

     教会の近くのお店のおじさんが手招きをする。とりあえず入ってみる。やはりどの銀細工もその美しさにただただ魅了されるばかりである。一つ一つおじさんが勧めてくれるし、指輪を実際に試着させてくれる。でもなんとなくそういった銀細工の装飾品を買うような気分にはなれなかった。どうしても今年になってからいいことが全然なく、厄年ではないだろうかと、心に深い錘を付けて生きているような自分には、こんなにきらびやかで美しいものは似合わないような気がした。せっかく一つ一つ試着してくれる小父さんの笑顔と好意には悪かったけど、帰る事にした。

     Taxcoは遠かった。結局滞在時間は三時間程度。宿に戻ってからはガリバルディ広場に夕食を食べに行った。きちんとした身だしなみをして、ソンブレロをかぶった「チャロ」と呼ばれるメキシカンカウボーイ姿のマリアッチの一団が音楽を奏でる。メキシコらしさをもっともよく感じさせるようなワンシーンで、メキシコシティー最後の夜を飾るには相応しかった。

     宿に戻って、あすかさんとM本さんと三人で映画に行くことになった。なんとも水曜は映画が安くなる日らしい。言葉は英語で字幕はスペイン語。それでもわかるところはわかるので部分的には理解できた。内容的にはイエメンでアメリカ大使館を囲むデモがあり、アメリカ軍がそれに対して発砲して多くの非戦闘員の死傷者を出した事件の軍事裁判に関する映画だった。凄惨な死の現場は、世界各地で勃発している紛争の生き地獄を思い起こさせるほど身の毛のよだつものだった。この映画を見て、戦争のない平和な世の中が来て欲しい、そう思った人は本当に多いだろう。

  • 9月7日(木)<br /> メキシコシティー最後の日である。同じ日についたあすかさんも今日メキシコシティーを後にする。今日の夜オアハカに向かうので夜行バスの予約を確実にしたいのと、毎日のように色々と話をしたりお世話になってメキシコでの素敵な思い出を作ってくれた彼女を最後はきちんと見送りたいのと、あまりにも手荷物が多すぎて見てられなかったので、一緒にバスターミナルまで行くことにした。本当に面白い人で、話題も豊富なので、話していて飽きなかった。なんとも東バスターミナル周辺は治安が悪いらしい。彼女の助けを得て無事にチケットも取れた。彼女はバックパックとピクニック用のビニールシートで出来たバッグにいっぱいにつめたお土産と想い出をしまって、メリダ行きのバスに乗り込んだ。20時間の長旅である。メキシコでの貴重な楽しい思い出を作ってくれただけあって少し寂しかった。でも日本に帰ってからもきっと会えると、きっと会いたいと、再会出来ると願った。寂しかったけど、宿に戻ると仲間がいる。この宿が自分の家庭のような、そんな気がした。個性豊かな人も多ければ、女性の一人旅も多い。昼食は、最初の日にチキンとポテトを食べた近くの店で一人食べた。三人で食べたあの瞬間が懐かしかった。<br /> <br /> 午後からは国際学生証を作りに行くことにした。この先どこかで必要になるかもしれないと思って。同宿の人から聞いた住所を頼りにその目当ての店を探す。ソナ・ロッサ周辺を探すこと30分ほど、やっと見つかった。とりあえず写真を私、パスポートと日本の学生証を見せたらすぐに作ってくれた。国際学生証だけではなく、メキシコ国内学生証も一緒に作ってくれた。なかなか貴重である。でもこの先使うことはあまりないだろう。<br /> <br /> 夕食は元青年海外協力隊のS木さんと、同じ横浜出身でマヤ文明マニアの女子大生A木さんと、九州の女子大生I出さんと、大学の先輩且つSEとして活躍してらっしゃるI瀬さんの女性三人の合計五人で取ることになった。アステカ風スープというのを頼んでみる。トマト風味のスープにアボガドとチーズと、揚げたトルティージャを入れたスープだった。トルティージャ揚げが最悪だった。やはり揚げ物は、スープに入れるべきではないだろう。それがなければ美味しいスープなのに。<br /> <br /> 地下鉄の駅までM本さんと、元青年海外協力隊のS木さんと、静岡県出身で年が同じのS木君の三人に送ってもらった。サンフェルナンドは本当に素敵な思い出を残してくれた。が、途中で地下鉄が止まってしまう。理由はよくわからない。悲痛な表情をしていると、ガードマンがきたルートを引き返して別ルートで行くように英語で指示してくれた。とにかく走る走る。汗と冷や汗で汗だくになる。バスターミナル周辺の治安は悪いと聞いたので、さらにあせる。それでもかろうじて間一髪、バスに間に合った…。

    9月7日(木)
     メキシコシティー最後の日である。同じ日についたあすかさんも今日メキシコシティーを後にする。今日の夜オアハカに向かうので夜行バスの予約を確実にしたいのと、毎日のように色々と話をしたりお世話になってメキシコでの素敵な思い出を作ってくれた彼女を最後はきちんと見送りたいのと、あまりにも手荷物が多すぎて見てられなかったので、一緒にバスターミナルまで行くことにした。本当に面白い人で、話題も豊富なので、話していて飽きなかった。なんとも東バスターミナル周辺は治安が悪いらしい。彼女の助けを得て無事にチケットも取れた。彼女はバックパックとピクニック用のビニールシートで出来たバッグにいっぱいにつめたお土産と想い出をしまって、メリダ行きのバスに乗り込んだ。20時間の長旅である。メキシコでの貴重な楽しい思い出を作ってくれただけあって少し寂しかった。でも日本に帰ってからもきっと会えると、きっと会いたいと、再会出来ると願った。寂しかったけど、宿に戻ると仲間がいる。この宿が自分の家庭のような、そんな気がした。個性豊かな人も多ければ、女性の一人旅も多い。昼食は、最初の日にチキンとポテトを食べた近くの店で一人食べた。三人で食べたあの瞬間が懐かしかった。

     午後からは国際学生証を作りに行くことにした。この先どこかで必要になるかもしれないと思って。同宿の人から聞いた住所を頼りにその目当ての店を探す。ソナ・ロッサ周辺を探すこと30分ほど、やっと見つかった。とりあえず写真を私、パスポートと日本の学生証を見せたらすぐに作ってくれた。国際学生証だけではなく、メキシコ国内学生証も一緒に作ってくれた。なかなか貴重である。でもこの先使うことはあまりないだろう。

     夕食は元青年海外協力隊のS木さんと、同じ横浜出身でマヤ文明マニアの女子大生A木さんと、九州の女子大生I出さんと、大学の先輩且つSEとして活躍してらっしゃるI瀬さんの女性三人の合計五人で取ることになった。アステカ風スープというのを頼んでみる。トマト風味のスープにアボガドとチーズと、揚げたトルティージャを入れたスープだった。トルティージャ揚げが最悪だった。やはり揚げ物は、スープに入れるべきではないだろう。それがなければ美味しいスープなのに。

     地下鉄の駅までM本さんと、元青年海外協力隊のS木さんと、静岡県出身で年が同じのS木君の三人に送ってもらった。サンフェルナンドは本当に素敵な思い出を残してくれた。が、途中で地下鉄が止まってしまう。理由はよくわからない。悲痛な表情をしていると、ガードマンがきたルートを引き返して別ルートで行くように英語で指示してくれた。とにかく走る走る。汗と冷や汗で汗だくになる。バスターミナル周辺の治安は悪いと聞いたので、さらにあせる。それでもかろうじて間一髪、バスに間に合った…。

  • 9月8日(金)<br /> まだ夜も明けない頃、オアハカに到着した。州都のバスターミナルの割にはこじんまりとしている。人が多くて荷物が多い自分にとっては大変だった。とりあえず荷物をバスターミナルに預けて、街を観光する。ソカロのカフェで朝食を取る。なかなか落ち着いた雰囲気である。ソカロの辺りで何らかのセレモニーをやっていたので少し見てみる。壮大な演奏が始まると辺りの人々は起立して姿勢を正して、右手を胸の前に移動して、そのままの姿勢になった。直立不動といった感じで、よくわからなかったけど僕も真似した。偉そうな人がなにやら演説をする。そんな感じの光景がずっと続いた。<br /> <br /> 昼頃、Meson de Angel Hotelの近くから、モンテアルバン行きのバスに乗る。モンテアルバンは紀元前500年ごろから建設がはじまったサポテカ人の祭礼所兼都市である。山の頂には祭壇やら球戯場やらの跡がいたるところにある。時代を考えれば相当高度な文明を誇っていたのであろう。祭壇の上に立っていると、メキシコ人女性三人組に写真をとってもらうように頼まれた。少しだけできるスペイン語で少しだけ話した。しばらく遺跡中をなんとなく歩いていた。30分後くらいに「Oiga!」という女性の声が聞こえた。するとさっき僕に写真をとるように頼んだ女性が駆け寄ってきた。なんと遺跡をバックにツーショットの写真をとりたいということだった。少しビックリした。これが逆ナンってやつかなって少し思った。日本では全然されたことないのに。その後また少し話してから別れた。<br />

    9月8日(金)
     まだ夜も明けない頃、オアハカに到着した。州都のバスターミナルの割にはこじんまりとしている。人が多くて荷物が多い自分にとっては大変だった。とりあえず荷物をバスターミナルに預けて、街を観光する。ソカロのカフェで朝食を取る。なかなか落ち着いた雰囲気である。ソカロの辺りで何らかのセレモニーをやっていたので少し見てみる。壮大な演奏が始まると辺りの人々は起立して姿勢を正して、右手を胸の前に移動して、そのままの姿勢になった。直立不動といった感じで、よくわからなかったけど僕も真似した。偉そうな人がなにやら演説をする。そんな感じの光景がずっと続いた。

     昼頃、Meson de Angel Hotelの近くから、モンテアルバン行きのバスに乗る。モンテアルバンは紀元前500年ごろから建設がはじまったサポテカ人の祭礼所兼都市である。山の頂には祭壇やら球戯場やらの跡がいたるところにある。時代を考えれば相当高度な文明を誇っていたのであろう。祭壇の上に立っていると、メキシコ人女性三人組に写真をとってもらうように頼まれた。少しだけできるスペイン語で少しだけ話した。しばらく遺跡中をなんとなく歩いていた。30分後くらいに「Oiga!」という女性の声が聞こえた。するとさっき僕に写真をとるように頼んだ女性が駆け寄ってきた。なんと遺跡をバックにツーショットの写真をとりたいということだった。少しビックリした。これが逆ナンってやつかなって少し思った。日本では全然されたことないのに。その後また少し話してから別れた。

  • (記念の一枚)

    (記念の一枚)

  •  オアハカに戻るバスの二人掛けの席に一人で腰掛けて、ボーッとしていたら突然誰かが隣りに腰掛けてきた。さっき一緒に写真をとった彼女だ。三人組の中で一番美人で、セクシーだ。オデッタという名前らしい。あとの二人(大して美人ではなかったが)は、後ろの座席に腰掛けていた。しばらく片言のスペイン語で話をしていたら、電話番号を教えてくれと言われた。お互いのアドレスを交換した。これが逆ナンなんだろうか。非常に綺麗でセクシーダイナマイトな美女だったので、バスに乗って隣りに座っている間中心臓の鼓動は高鳴りつづけた。<br /> <br /> 街に戻ってから明日一緒にミトラへのツアーに参加しないかと誘われた。何処のホテルに泊まっているのかと聞かれた。なんかセクシーな人に「ホテル」とかいう単語言われて、思わずドキッとした。でも今夜オアハカを去ってタパチュラに向かうので、一緒に行きたかったけど別れた。かなり残念だった。急ぎ足の旅が少し嫌になった瞬間でもあった。昼食には鶏肉のモーレソース煮を食べた。唐辛子とアーモンドとレーズンとシナモンとトマトと、そしてチョコレートから作られる奇妙なソースだが、結構美味しかった。なんだか西門にある、フクちゃんの「チョコとん」を思い出した。<br /> <br /> サント・ドミンゴ教会は、メキシコ風バロック建築の代表作で、その華麗な外装も内装も、その美しさにただ言葉を失うばかりである。先ほど訪れたモンテアルバン遺跡も、ここオアハカの歴史的な町並みも、世界遺産に指定されている。サント・ドミンゴ教会の美しさの前に、ただ見とれていたまま時は過ぎていった…。丁度結婚式が行われていた。天井画も美しかった。バスターミナルに戻り、メキシコ国内最後の目的地タパチュラ行きの夜行バスに乗り込む。<br /> <br /> <br />9月9日(土)<br /> オアハカから夜行バスに乗る。12時間近い旅路を終え、9時ごろにメキシコとグアテマラの国境の町タパチュラに到着。ここタパチュラのあるチアパス州は、主に先住民からなるサパティスタ民族解放戦線によるゲリラ活動が盛んで、外務省からも注意喚起のありがたいお達しが出ていた。でも平然と寝ている間に無事に着いたので、とりあえず何事もなかったのであろう。<br /> <br /> しばらく休んでからグアテマラ行きバス乗り場を探す。五分ほど歩いたところにあるといわれたので、その通りを歩いてみる。でも五分以上歩いてみても見つからない。その辺の人に聞いてみると、何と逆方向を指してあっちにあるといわれた。そんなはずはないだろうと思いつつも引き返したが、実を言うとバスターミナルから歩いて一分とかからないところにグアテマラシティ―行きバス乗り場があった。何がシンコミヌートスだ!!!いいかげんなんだから、メキシコ人は。しかも時は十時過ぎ。十時発のバスはもう既に行ってしまったので、仕方がなく14:45発の次のバスまで待つことにした。平凡な街である。やることもなく暇だった。外を眺めると、信号待ちの車のフロントガラスめがけていきなり洗剤をかけて洗い出す少年の姿があった。お金を稼ぐためにみんな必死なんだ。命がけである。やはり飛躍的経済発展を遂げたメキシコだが、まだまだ人々の生活レベルまでは上がりきっていなく、貧富の差が広がっていく発展途上国の一面を見た気がした。バスに乗り込む。やがて市街地を抜け、バスは国境のタリスマンへと疾走する。やがてバスが停まる。車掌の女性が降りろといっている。どうやら国境のようである。素敵な思い出を残して、新たな国へとまた旅立つ…。<br />

     オアハカに戻るバスの二人掛けの席に一人で腰掛けて、ボーッとしていたら突然誰かが隣りに腰掛けてきた。さっき一緒に写真をとった彼女だ。三人組の中で一番美人で、セクシーだ。オデッタという名前らしい。あとの二人(大して美人ではなかったが)は、後ろの座席に腰掛けていた。しばらく片言のスペイン語で話をしていたら、電話番号を教えてくれと言われた。お互いのアドレスを交換した。これが逆ナンなんだろうか。非常に綺麗でセクシーダイナマイトな美女だったので、バスに乗って隣りに座っている間中心臓の鼓動は高鳴りつづけた。

     街に戻ってから明日一緒にミトラへのツアーに参加しないかと誘われた。何処のホテルに泊まっているのかと聞かれた。なんかセクシーな人に「ホテル」とかいう単語言われて、思わずドキッとした。でも今夜オアハカを去ってタパチュラに向かうので、一緒に行きたかったけど別れた。かなり残念だった。急ぎ足の旅が少し嫌になった瞬間でもあった。昼食には鶏肉のモーレソース煮を食べた。唐辛子とアーモンドとレーズンとシナモンとトマトと、そしてチョコレートから作られる奇妙なソースだが、結構美味しかった。なんだか西門にある、フクちゃんの「チョコとん」を思い出した。

     サント・ドミンゴ教会は、メキシコ風バロック建築の代表作で、その華麗な外装も内装も、その美しさにただ言葉を失うばかりである。先ほど訪れたモンテアルバン遺跡も、ここオアハカの歴史的な町並みも、世界遺産に指定されている。サント・ドミンゴ教会の美しさの前に、ただ見とれていたまま時は過ぎていった…。丁度結婚式が行われていた。天井画も美しかった。バスターミナルに戻り、メキシコ国内最後の目的地タパチュラ行きの夜行バスに乗り込む。


    9月9日(土)
     オアハカから夜行バスに乗る。12時間近い旅路を終え、9時ごろにメキシコとグアテマラの国境の町タパチュラに到着。ここタパチュラのあるチアパス州は、主に先住民からなるサパティスタ民族解放戦線によるゲリラ活動が盛んで、外務省からも注意喚起のありがたいお達しが出ていた。でも平然と寝ている間に無事に着いたので、とりあえず何事もなかったのであろう。

     しばらく休んでからグアテマラ行きバス乗り場を探す。五分ほど歩いたところにあるといわれたので、その通りを歩いてみる。でも五分以上歩いてみても見つからない。その辺の人に聞いてみると、何と逆方向を指してあっちにあるといわれた。そんなはずはないだろうと思いつつも引き返したが、実を言うとバスターミナルから歩いて一分とかからないところにグアテマラシティ―行きバス乗り場があった。何がシンコミヌートスだ!!!いいかげんなんだから、メキシコ人は。しかも時は十時過ぎ。十時発のバスはもう既に行ってしまったので、仕方がなく14:45発の次のバスまで待つことにした。平凡な街である。やることもなく暇だった。外を眺めると、信号待ちの車のフロントガラスめがけていきなり洗剤をかけて洗い出す少年の姿があった。お金を稼ぐためにみんな必死なんだ。命がけである。やはり飛躍的経済発展を遂げたメキシコだが、まだまだ人々の生活レベルまでは上がりきっていなく、貧富の差が広がっていく発展途上国の一面を見た気がした。バスに乗り込む。やがて市街地を抜け、バスは国境のタリスマンへと疾走する。やがてバスが停まる。車掌の女性が降りろといっている。どうやら国境のようである。素敵な思い出を残して、新たな国へとまた旅立つ…。

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