2019/05/11 - 2019/05/12
155位(同エリア470件中)
osdさん
・中津川市中山道歴史史料館 正面入り口
元治元年(1864)三月末、筑波山に蜂起した「尊皇攘夷」の波山勢(天狗党)が各地で転戦。十一月、水戸を脱出して那須、日光・例幣使街道から中山道、信州、木曽谷を軍旅。京を目ざしたものの、福井で降伏。三百五十二名もの斬首という悲惨な結末に終わった行軍記録(旅日記)ー「筑波颪」。これを解読、翻刻出版の企画をたてました。令和元年五月、最終校正で中津川市中山道歴史資料館を訪問、八月二十日、筑波颪は「筑波蜂起一件顛末記」として出版された。
※「筑波蜂起一件顛末記」は4トラベル的に言えば、一ヵ月余にわたる軍隊の行軍録ー天狗党の公式書記役の日記もあり、浪士個人の日記・書簡・漢詩・和歌・志士の詠懐もあり…また当時の世相、戯れ歌、諸藩の動向など広範な情報収集の集大成、壮大なる旅日記である。
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R1.5.11 名古屋駅着12:17(東京駅10:33発ひかり509)
中央本線快速・名古屋駅発12:24
中央本線快速・中津川駅着13:39
※東大名誉教授・宮地先生に随伴、二人旅。 -
道路正面が中央本線・中津川駅
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本日の宿泊ー中津川駅近、プラザホテル栄(0573ー66-5858)
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ホテル、チェックイン後、早速「中津川市中山道歴史史料館 (0573-66-6888)」
を訪問。安藤館長、仁科主任研究員に御挨拶。
一部未完成ながら、昨日プリントしたばかりの「筑波颪」翻刻下書きを持参、閉館時間まで、史料館所蔵の原書と照合、最終校正、確認作業に先生と没頭する。
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5.12 早朝6時過ぎ 7時からのホテル食事に時間がある。一人で散歩、中津川駅前に出る。タクシー運転手が苗木城址は3~40分で往復できると言う、その気になり乗車。
木曾川の橋上から苗木城址を遠望する。 -
木曾渓谷と思うが…。
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苗木城址の城壁の上。苗木藩一万石。最小の城持ち大名。
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苗木城址の石垣。撮影だけして帰路。
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旧苗木藩藩主(遠山家)の明治以降の屋敷…山村代官屋敷に行こうとしたが、タクシー運転手が間違えて案内された。苗木城址中心にぐるっと一回り、時間40分、料金5,000円。
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市内から撮影。何という山か、木曽駒か不明。
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5:12 苗木城址から7時前にホテル帰着。先生と食事を一緒にした後、歴史史料館再訪。照合・校正作業をおおむね終了。仁科研究員に中津川宿の旧跡を案内される。
史料館まえのこの通りは旧中山道。先方左に見える大きな古屋敷は旧中津川村庄屋肥田家。 -
中津川村庄屋・肥田九郎兵衛旧屋敷。
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中津川村庄屋・曾我邸(旧肥田家)
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十八屋(間家)間武右衛門・旧旅籠。
※元治元年十一月二十日、信州和田峠で天狗党と諏訪(高島藩)・松本藩の軍勢が
激戦。「水義士日記」(筑波蜂起一件顛末記・166頁)に「廿日晴天和田峠ニて
諏訪訪松本等合戦必死也味方勝利…味方四五人切死アリ」
※案内板には、このとき負傷した若き武士を旅籠の隠し部屋に匿ったが、武士は病
死し、その遺品が今も残されている…と書かれている。 -
本町広場の井戸
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旧中山道。
先生と主任研究員。 -
中津川宿旧中山道通りの桝形
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中津川宿の古い家並。
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路地のような細い下り坂の道ー旧中山道。
「かなり細くて狭いなー」といった感じで、たたずむ先生。 -
栗きんとんで有名な川上屋本店 (0573-65-2072)。写真は同店HPより。
創業元治元年(1864)の老舗、天狗党筑波蜂起の年である。
栗きんとんは秋とのこと、五月のこの時季では栗がない。
羊羹を買って家へのお土産とする。 -
川上屋本店の店内(同店HPより)。
※お土産も買って、帰路につく。
・中央本線快速・中津川駅発13:50
・中央本線快速・名古屋駅発12:24
・名古屋駅発15:37(ひかり472)
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出来上がった「筑波蜂起一件顛末記」。R1・8・20発行。
簡素な装丁で研究史料の雰囲気があり、大満足。
見た目の格調も高く、330頁余の重量感がある。自画自賛である。
『「筑波蜂起一件顛末記」の【はじめに】から』
「本書は、一八六四(元治元)年三月末筑波蜂起勢の結集から、水戸西上勢の敦賀での処刑・獄死者の死亡を一八六七(慶應三)年一月まで追った、美濃国中津川宿本陣市岡殷政(しげまさ) (一八一三~八八年、島崎藤村の傑作『夜明け前』中、主要人物浅見景蔵のモデルになった人物)の風説留(ふうせつどめ)「筑波颪」を解読、更に注釈を施したものである。殷政は平田篤胤没後門人で平田国学者、中津川宿の同門同志・江戸の気吹舎・苗木藩平田国学者を始めとする幕末期全国各地の気吹舎の同志、更に国事を憂慮する人々の協力を得つつ、ペリー来航期から一八七五(明治八)年の新聞・雑誌が日本社会に定着、「公論世界」が成立する迄の幕末維新変革期に関し十冊に及ぶ大部の風説留の記録者たり続けた。その内 九冊は時系列的に蒐集、編集していったものだが、彼を含む中津川宿同志達が特別な関心を寄せつづけた筑波蜂起のみは、この事件だけに特化した起承転結のある風説留を編纂したのである。「筑波颪」と表題をつけると内容が理解されにくいので「筑波蜂起一件顛末記」と主題をつけ、副題に「筑波颪」の原題を入れた。
内容は従来の関係諸史料に比して、勝るとも劣らず、幕末期平田国学者の全国ネットワークの実態を見事にあらわしており、この翻刻によって始めて活字化された史料もおびただしいものがある。」
二〇一九年五月二六日 東京大学名誉教授・元国立歴史民俗博物館館長 宮地正人 -
◇本書Ⅱ頁
・【筑波颪】幕末、中津川本陣・市岡殷政が記録係となって、ペリー来航から一八七五 年(明治八)頃迄蓄積し続けた全一〇冊の風説留は全国の風説留のなかでも質量共に屈指のものある。その中でこの「筑波颪」だけは集める情報を筑波蜂起、水戸浪士の中山道通行、中津川滞在そして敦賀での加賀藩との交渉、一八六五 (元冶二)年二月、同地で三五二名もの斬首という悲惨な結末を内容とした水戸浪士一件風説留である。《街道の歴史と文化第22号ー[風説留「筑波颪」に見る水戸浪士通過時の中津川]宮地正人著-中津川歴史文化研究会から》
・市岡殷政…略伝
◇本書Ⅲ頁 目次 -
◇本書84頁
本書表紙の背景に使用した市岡殷政著の漢詩。 -
◇本書184頁
「慶應元丑二月四日 誠忠院耕雲老種月居士」から始まる処刑者の記録。
※本書は宮地先生総合監修・指導のもと、小生 構成制作・註釈作成を担当して出版された。原書解読は平成二八年から足かけ四年・正味三年、古文書の会一六名の会員が分担で解読した。令和元年春には解読は殆ど終了していたが、最終章の敦賀処刑・処罰者、三六〇余人の註釈、これが大変だった。武士の事績は比較的に残っているが、百姓出の死者は粗末に扱われ略歴不明が多く、また流罪・追放人…生きのびた人間の事績追跡は殆ど不可能に近く、四苦八苦しながら同七月、三六〇余人の註釈を完了させた。それこそ艱難辛苦の三年であった。天狗党は筑波山挙兵以来、常陸下野上野、信濃美濃、越前と軍旅、一ヶ所には止まらない。行軍経路市町村には通行・戦争の記録を記憶遺産として残しても、記念的造形遺跡はなく、観光資源にはなりそうもない。これでは経路の自治体に出版依頼しても予算は見込めない。
「自費でやりますか」と宮地先生。市岡家資料群の所蔵者・市岡文彦氏からは出版の話に、快諾了承とのこと。感謝して先生と小生、二人だけの「筑波颪翻刻刊行」チームをスタート。最終章の人名索引を追加作成して、七月末、製本用最終束見本完成。三三〇頁余の大冊である。地元印刷会社に発注。令和元年八月二〇日「筑波蜂起一件顛末記」が自費出版、発刊された。
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この旅行記へのコメント (2)
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- ゆみナーラさん 2020/01/11 03:33:05
- 明けましておめでとうございます
- osdさん、どうなさっているかと時々気になっておりましたが、第二弾の大・大作制作に没頭されていたのですね、大変難しそうな旅日記の解読と無事出版されおめでとうございます!
何より、osdさんの古文書解読に対する情熱と行動力が素晴らしいと全開に引き続き思います。
これからも古文書の会の皆様ともに、さらなるご発展ご健闘をお祈りします!
ゆみなら
- osdさん からの返信 2020/01/11 20:12:19
- Re: 明けましておめでとうございます
- 賀詞有難うございます。御無沙汰しております。ここ3年、特に去年は「筑波蜂起一件顛末記」に没頭「猪勇老進」の一年でした。その上よせばいいのに、11月、12月にかけて5週連続の古文書の「市民講座」の講師までして、気がついたら疲労困憊、落魄の老残老耄になっていました。
現在、正月の休憩中。高校ラクビ―、サッカーを楽しんでいます。そんな訳で、ゆみならさんの書き込みは横目で、ゴメン読みしていました。メール有難うございます。令和2年、ゆみならさんのご活躍と良き年でありますようにお祈りします。 R2.1.11 OSD (おおうちさだお)
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