
2019/09/03 - 2019/09/05
2428位(同エリア5113件中)
8893さん
↑北海公園の九龍壁。
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北京滞在3日(正確には2.5日)では、歴史を振返りながら以下の旅程ですすみました。
□1日目:北京散歩3日間(1)
成田 → 北京空港(12:00)→ 崇文門(ホテル)→ 明城遺跡公園 → 北京駅(列車切符受取) → 北京ダック (便宜坊哈徳門店)
□2日目:北京散歩3日間(1)
万里長城(八達嶺) → イスラム菜(北京阿蘭菜館)
■3日目:北京散歩3日間(2)
東郊民巷 → 紫禁城 → 景山公園、北海公園 → 宛平城、抗日戦争紀念館、盧溝橋 → 火鍋(東来順大柵欄店)
(参考)□4日目以降:瀋陽(柳条湖ほか)へ新幹線で移動。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.5
- ホテル
- 4.0
- 一人あたり費用
- 10万円 - 15万円
- 交通手段
- 鉄道 タクシー 徒歩
- 航空会社
- ANA
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
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■3日目
朝食はおかゆで。
北京、ではなくて南の「潮汕砂鍋粥」というジャンルのお粥の店。
前の日の夕刻に偶々みかけ、18元/人の食べ放題が朝6時開店時からある、と聞いていたので来店。
崇文門新世界センタビルの西側の飲食店が集まっている一角にある「百年潮汕砂鍋粥」という名前の店。
早朝6時過ぎ、写真の各土鍋に種類の違った粥が入っていた。 -
↑ 潮汕砂鍋粥の店でとった一杯目の粥。
開店後間もないせいか、前日夜の客の賑わいは嘘のような静けさのなかでとれた。
都心部のこぎれいなお店。 -
↑ 警察車両。
窓に描かれたキャラクタが街の人々に向かって愛嬌をふりまいているようですが、どうですか? 崇文門交差点にて。 -
↑ 東郊民巷。
天安門広場をめざして崇文門のHOTELから徒歩で出発し、途中の東郊民巷という通り(写真)をすすむ。
この通りの右側(北側)、東長安街までの一帯は120年前、西洋列強と日本の外交公館が集まっていた場所で、清国が関与したとされる義和団が包囲した事件の現場。(注:中国は年間予算5年分近くの賠償を負い、この地が列強支配の象徴となった。)
いま、北京中心部にありながら喧噪からは遠く、最高裁判所などの官の建物や法律事務所、キリスト協会などが前方の天安門広場まで一直線で続く。 -
↑ 東郊民巷の「日本公使館旧址」。
写真手前の石の銘板には、
「全国重点文物保護単位 東郊民巷使館建築群 ー日本公使館旧址 中華人民共和国国務院 2001年6月25日公布」と刻まれている。
後方の建物と日本との関係は不明だったが、かつて、日本公使館(在北京三代目)がここにあった、という記憶を留めるためのもののようだ。 -
↑ 手荷物等検査場への行列。
東郊民巷を抜けたところ、天安門の広場前に到着すると、運よくそこが行列の最後尾。
広場からは柵で仕切られた東側の道沿いに、行儀よく列が続いているのがずっと先まで見えるが行列は動かない。のんびり行こう。
(故宮博物院開門の8:30まであと10分。) -
↑ 長安街へ。(広場東側路)
検査待ちがいつになるやらと思いきや意外と早く、行列開始から20分ほどで荷物検査を終えたところ。
右手に国家博物館、左手に天安門広場、中国国旗を見ながら、前方の長安街を潜る地下道の入口へと向かう。 -
↑ 長安街の下をくぐる地下道。
100mはあるだろうか、長い。道幅も広い。
頭上の長安街が国慶節の行事での大舞台にもなるが、その構えの大きさが、下から見てもよくわかる。 -
↑ 地上に出ると天安門が目の前に。
道端のゴミ箱もピカピカなくらいに、一帯は清掃されている。
門の前まですすむと、毛沢東の肖像絵が写真左手の広場 (東西500m、南北900m) を前にしてとても小さく感じられた。
30年前の空もこんなに高かったのだろうか。
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後日の10月1日、人民共和国成立70周年の式典がこのあたりを中心に行われ、閲兵、兵器や歴代トップを称えるパレード、演舞、山車など、広大な長安街ならではのものだったと思う。 -
↑ 南の守り、午門。
天安門を抜け、濠(簡子河)を越えて15分ほど歩いたところ。
正面下部の通路を潜って紫禁城内に入る。 -
↑ パスポートが入場券の替わり。
写真は午門に向かってすぐ右側の一角。
前方正面の低い建物が外国人向けの入場手続き窓口。
入場料は当方60歳以上なので無料となるが、入場登録にパスポートを提示してしばらくすると返却されてきた。
入場券はない。
このあと、パスポート提示を求められることはなかった。
(注:追加料金のかかる場所に立ち入らなかったこともある。) -
↑ 午門を抜ける門。
こうした重厚な門はこれより先、北の出口の神武門まで見なかった。
この先の城内は、太和殿を中心にした一角と、その奥の乾清宮の区域、とに大きく分かれる。
右手前の白髪の女性は入口近くの扉に設えられた大きな鋲のような、金属製の丸い突起物を撫ぜているところ。縁起物? -
↑ 内金水橋と太和門。
こんなに広い濠があるとは。
ここまでの城内が人工物に囲まれ、樹木をはじめ自然を目に入ることは稀だったので、こうした感じの水でも新鮮に映る。
太和門が威容を誇るせいか、その先の太和殿は姿を見せない。 -
↑ 太和殿を広場から望む。
太和門を抜けて広場へと降りる階段を下りたところ。
広大な広場の先に、巨大な「太和殿」がやや小さく見える。 -
↑ 太和殿前から太和門を振り返る。
この広場に清朝の官吏たちがずらりと並んだのは、ほんの100年くらい前までのこと。
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↑ 日陰を求めて。
城内にはベンチが結構ある。
ひと休み用のほか、広場には観覧席のように配置された一角もあったが、九月初旬の陽気のなかで陽当たりのよいところは閑散。
写真は、中国最大の木造建築といわれる太和殿の裏手の満員のベンチ。
右手、北側に中和殿、保和殿と紫禁城の中心的建造物がまだ続く。 -
↑ 紫禁城で最大の石塊(大石彫)。
写真は保和殿の裏側の石塊。
上中下の三塊に別れ、手前の最下段が、長さ:17m、幅:3.1m、厚さ:1.7mで最大、と案内板に書かれていた。
また、絵柄は乾隆帝1761年のもので、最下部に配した海の上方に皇帝のしるしの九匹の龍が描かれているとのことで、彫り直された時期は新しそうにみえる。 -
↑ 保和殿を内廷側から望む。
ここから、皇帝の居室をはじめとした内廷に入る。
北側に位置する内廷側からみると、大石彫の龍が迎えてくれるようだ。 -
↑ 乾清門の天井絵。
日本のお寺の天井絵(はめ絵)と似ている。
痛みや色落ちが目立ったが、どれも同じ龍の絵柄に見えた。
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↑ 乾清宮脇の龍。
龍の口から雨水を排する、と聞いたことがある。 -
↑ 再び筒子河。
紫禁城をぐるりと四角に囲む濠の北辺。
右手にいま通り抜けた神武門、左手に景山が仰げる。 -
↑ 北の守り、神武門。
紫禁城の中軸線に沿って南の午門から始めた参観も、気が付くと2時間弱が過ぎ、ここ神武門で完結。
北の門なので「玄武門」と連想していたら、あとで調べてみるとやはり清の康熙帝(注:本名には「玄」が含まれる。)の頃に神武門と改名される前の名前だった。
いまは故宮博物院の正門。 -
↑ 北京秋天。
景山の頂にある「北京中心点」の場所から、眼下に南の紫禁城を見下ろせる。
紅葉の季節には、画家の梅原龍三郎氏もこの高みを辿ったに違いない。 -
↑ いつから?
景山公園を下り、景山前街→文津街、北海大橋→北海公園切符売場(老人無料)とたどって公園に入る。
写真は、柳の木陰が心地よい北海湖畔。
対岸右手の小高い丘の上には、景山から見下ろせていた「白塔」が望める。
こちらの湖沿いの緑深い一帯には建物が散在し、その前の散歩道にはお年寄りたちの姿がちらほらと見える。(注:これらの建物は、後で調べてみたら解放軍の病院、病棟だった。)
この落ち着いた空間から、皇帝の庭園であったことが肯ける。 -
↑ 九龍壁。
北海公園の広大な領域の中には観光の見どころが数あまたあるらしいが、ガイドブックで目に留まったこの壁を一目確かめておこうと、北海湖畔を北上してきた道を離れる。
北海と反対側の背の高い森へ入る道はいずれも曲っていて視界が途切れる。
どれだろうと適当にすすんでいくと山門があり目的地と違うのでがっかり。
(注:調べてみたら18世紀清の「西天梵境」または「大西天」という著名な寺院だった。)
すれ違う旅行者からの「九龍壁はいったいどこなんだ!」という苦情を耳にしながら、道を掃除していた人に訊ねたら、なんと、いま歩いてきた道の逆方向、至近距離の森の中とわかる。(GPSつき地図があれば簡単なんだけど。)
この、陶磁器製のレリーフは18世紀乾隆帝時代のものと聞いていたとおり、そばに寄ると風雪を感じる。この裏面にも描かれている。
少し離れないと全体が鑑賞できないくらいの偉容でもある。(注:高さ:5m、横:27m。紫禁城内の寧寿宮(参観有料)にあるもののレリーフは片面。)
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↑ 北海の水源。
写真左手の橋を潜って右手へ広がる北海へと水が流れているようだった。
驚くほどに透明感のある、勢いのある水流のなかを、鯉たちがゆったりと泳いでいる。 -
↑ 地下鉄北海北駅 (6号線) そばの飲食店での昼食。
「阿巧粤菜館」という名前からすると広東料理のお店。
景山から北海公園踏破の長い道のりで歩き疲れた後、北海公園出口にほど近く、北海北駅へ向かう途上で偶然に立ち寄ったが、新しくて気持ちのよい感じの空間。
大振りの饅頭と燕京ビールで、20元/人。 -
↑ 阿巧粤菜館。(または、文采閣阿巧)
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↑ 宛平城内の街並み。
都心から地下鉄で1時間半あまり。
復元された城壁に囲まれた中の街並みで、写真の道路をすすむと左手に抗日戦争紀念館がある。
この場所へは、地下鉄の大瓦yao駅 (14号線)からタクシーで宛平城西門(写真反対方向の突き当り)へ移動し、そこから徒歩約5分で到着。 -
↑ 抗日戦争紀念館!。
盧溝橋事件との関係でこの場所が選定されたのだろうが、橋はここから左手方面のだいぶ離れた場所にある。
館内の展示の構成は、918などほかの戦争紀念館と軌を一にしているようで、目の前のジオラマや80年ほど前の現品には圧倒される。
ただ、平日、閉館(17:00)直前、ではあるにしても、人民共和国成立70周年の日を控えた時期にしては、参観者が疎らで熱気を感じないのは思い過ごしだろうか。 -
↑ 盧溝橋のたもと。
抗日戦争紀念館を出て宛平城西門(写真右端の門)を歩いて抜ける。
そこから広場越しの遠景に、写真手前の盧溝橋が周りの風景に消え入りそうな佇まいを見せる。人影も疎ら。
あとで地図でみると、この広場の地下は高速道路が走っているが、静かで気づかなかった。 -
↑ 盧溝橋から永定河を望む。
風雪を感じる橋。
欄干にそって設えられた獅子たちから、マルコポーロが元の時代に見たといわれる美しい橋を想像するのは楽しい。
歴史がすすみ、およそ80年前の1937年7月7日、盧溝橋事件が発生したのはこの写真の右前方約1kmほどのところと思われる。 -
↑ 盧溝橋上の敷石。
前方に伸びる滑らかに磨かれて波打つような路面。
これが人の通行の結果、と聞くと交通で賑わった長い年月は想像もできない。
そうして想い巡らせていると声が掛かかって、カメラを携えた中国のおじさんから頼まれた撮影を引き受ける。
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日も傾きはじめたので、市内への帰途につく。
が、TAXIが拾えないので、路端に停車するマイカーを横目に、地元の散歩する人に道を尋ねながらバス乗り場を目指す。
宛平城の外、南側を真っすぐに続く彫塑園沿いの道(城南街)は長かった。
それでもなんとか高速道路を潜って盧溝橋村のバス停の点在する辺りに辿り着き、最寄りの地下鉄駅近くを通る路線、乗車停留所を探しにかかる。
道路のいずれ側の停留所ですか?などとバス待ちの人に訊ねながら地下鉄郭庄子駅 (14号線) の前を通るバスに乗車できた。
(事前調査不足を反省。)
地下鉄14号線→9号線→ 1号線→ 2号線(5元)と乗り継いで、前門駅で下車。 -
↑ 大柵欄の東来順飯荘での鍋。
写真の鍋上方の黒色の筒の中では炭が燃焼中。
この熱気があちこちの客席から出て大きなフロアに充満するので、窓が開放されていたくらいでは足りない。汗がじわり。
北京風しゃぶしゃぶ+飲み物で約170元/人。 -
↑ (参考)東北地方の地方都市で見かけた「鍋」。
前の写真の北京の東来順の鍋上方の筒の内側は見なかったが、この写真のように、上から覗くと炭が燃焼するのが見えたと思う。
なお、食材を調理する鍋の下部分は東来順のような高さはなかった。 -
↑ 大柵欄の路面電車。
東来順飯荘を出たところで発見。
以前には見たことがなかったので、あとで調べてみると、走り始めたのはおよそ100年前の中華民国の時代、2009年に再開したそうだ。 -
↑ 正陽門の箭楼。
夜9時になっても人通りが途絶えない前門大街。
地下鉄前門駅へとすすんでいたら、路面電車の軌道の正面に登場したのが光の箭楼。
その明かりの後方には毛主席紀念堂、天安門広場が一直線で続くかと思うと聊かきらびやか過ぎるのでは?と感じる。 -
↑ 前門東大街沿いのマンション。
夕食後の腹ごなしに、前門から崇文門にあるHOTELまで徒歩で帰る。
ふと目を上げると、周りに林立する高層マンションがきれいにライトアップされ夜空に聳え立っていた。日本ではこんなの有ったかな?
(正陽門箭楼と同様、建国70年と関係があるのかどうかは、わからない。)
夜風の中を歩きながら3日目を終了。
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旅行記グループ 北京散歩3日間 (2019年9月)
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