2019/09/08 - 2019/09/08
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Donkyさん
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「所沢発日帰りバスの旅」その2です。
昼食を終えて 午後の日程は
◎甲斐武田氏の菩提寺として知られる 乾徳山(けんとくさん)恵林寺
恵林寺明王殿には武田不動尊と称される不動明王坐像及び二童子像が安置されています。恵林寺は鎌倉時代の元徳2年(1330年)に、甲斐国の守護職であった二階堂貞藤(道蘊)が笛吹川上流の所領牧荘を寄進し、五山派の夢窓疎石を招き開山。二階堂氏邸を禅院としたのが始まりとされます。
◎万葉集の歌碑が設置され「令和」話題の公園「万力公園」
新元号『令和(れいわ)』の発表後、典拠となった万葉集が脚光を浴び、万葉集の歌碑が設置されている万力公園「万葉の森」が話題となっています。
万力公園「万葉の森」は、松、梅、すみれ、彼岸花など万葉集にうたわれた植物が公園内に多く自生していたことから、その植物の歌碑を園内にちりばめ、平成5年万力公園「万葉の森」として開園しました。
『令和』は万葉集巻五 梅花の歌三十二首の導入部分「令月にして気淑く風和ぎ」から引用されましたが、公園内には三十二首の一つ「わが園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも(大伴旅人)」の歌碑もあります。
◎山梨県内で最大のワイナリー「マンズワイン勝沼ワイナリー」
見学コースの中でワインの蓋をしているコルクは木の皮から作られていることを学びます。ワインを甘口・辛口・それぞれのコーナーで試飲したのち購入も可能です。ぶどうジュースまで販売しています。
◎最後にお馴染み宝石館 ベテランスタッフと雑談してきました。
幸いなことに 心配された天気は何とか持ちこたえ、全日程を終えて帰路に就くやいなや土砂降りとなりました。
降りしきる雨の中、山梨を午後3時40分出発 を談合坂から小仏トンネルまで断続的に渋滞30キロ。それでも予定より1時間半遅れの午後7時半ちょうど所沢駅東口到着。 都合12時間 走行距離:240kmのバスの旅となりました。
注)掲載記事中「恵林寺」については同院公式サイトおよびフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、「万力公園」については同園公式サイト、各歌の解説は万葉集関連サイトより、「マンズワイン勝沼ワイナリー」については同社公式サイトよりそれぞれ抜粋引用したものです。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- ショッピング
- 3.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 観光バス
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- 阪急交通社
-
甲斐武田氏の菩提寺として知られる 乾徳山(けんとくさん)恵林寺(えりんじ)は、山梨県甲州市塩山小屋敷にある寺院です。
鎌倉時代の元徳2年(1330年)に、甲斐国の守護職であった二階堂貞藤(道蘊)が笛吹川上流の所領牧荘を寄進し、五山派の夢窓疎石を招き開山。二階堂氏邸を禅院としたのが始まりとされます。 -
臨済宗妙心寺派に属する寺院でもあり,甲斐武田氏の菩提寺として知られています。
もとは円覚寺派に属し、関東準十刹の寺格を有していました。 恵林寺は甲斐における臨済宗の中心となり、古先印元、青山慈永、龍湫周沢や絶海中津らが勅命を奉じて輪番住持となりました。 -
後には足利義満により鎌倉禅林十刹に準ずる寺格を与えられ、応仁の乱で荒廃しましたが、甲斐武田氏の菩提寺に定められて復興し、京都から高僧が招かれ、戦国時代に恵林寺は武田晴信(信玄)により再興されました。
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戦国時代甲斐武田氏と恵林寺 : 天文10年(1541年)には臨済宗妙心寺派の明叔慶浚(みんしゅくけいしゅん)が28世として招かれました。明叔慶浚は飛騨国の国司・姉小路氏の被官である三木直頼の弟で、美濃大円寺(岐阜県恵那市岩村町)の住職であった人物です。
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明叔慶浚は景堂玄訥の法嗣で、晴信に招かれるまで駿河国の今川義元に招かれ駿府の臨済寺(静岡県静岡市)住職として駿河に滞在していました。明叔慶浚は天文16年(1547年)に武田領国となった信濃伊那郡の那恵寺に招かれるが、飛騨へ戻ると禅昌寺(岐阜県下呂市)を再興しました。
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武田不動尊 :武田信玄の菩提寺である恵林寺明王殿には武田不動尊と称される不動明王坐像及び二童子像が安置されています。
『甲陽軍鑑』『甲斐国志』巻七五に拠れば武田不動尊像は信玄が京から仏師康清を招聘し、信玄と対面して彫刻させ、信玄自らの頭髪を焼いて彩色させたものであるといわれています。像内は内刳りされ、像底には布張り漆塗の底板があることから、未確認ながら、像内の空洞に像内納入品を納めている可能性も考えられています。
中尊の不動明王坐像は像高92.9センチメートル。胸前の条帛には金泥で武田家家紋である花菱文が描かれているそうです。 -
■庫裡(くり)
庫裡(くり)とは、仏教寺院における伽藍のひとつです。 寺院の僧侶の居住する場所、また寺内の時食を調える、つまり台所も兼ねる場合があるそうです。なお現代では、その多くは僧侶の居住する場所をいうことが多いのだとか。
(以上 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』) -
開山堂 三門をくぐって正面に見えるのが甲州市指定文化財の開山堂です。夢窓疎石(むそうそせき)、快川紹喜(かいせんしょうき)、末宗瑞曷(まっしゅうずいかつ)の三像が堂内に安置されています。このうち快川紹喜はその辞世があまりにも有名な人物です。
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天正10年(1582年)3月、織田・徳川連合軍の武田領侵攻(甲州征伐)により武田氏は滅亡しました。
写真は恵林寺の沿革。歴史に劇的な名を遺す寺院の一つです。 -
武田氏滅亡後、織田氏は恵林寺に逃げ込んだ佐々木次郎(六角義定)の引渡しを要請するも、寺側が拒否したため織田信忠の派遣した津田元嘉・長谷川与次・関成重・赤座永兼らによって恵林寺は焼き討ちにあったのです。
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この際、快川紹喜が燃え盛る三門の上で「安禅必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火も自ら涼し」と、発して火定したといわれています。三門の右の柱に「安禅不必須山水」、左の柱に「滅却心頭火自涼」の偈が記されています。「滅却心頭火自涼」すなわち「心頭滅却すれば火もまた自ずと涼し」です。
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快川 紹喜(かいせん じょうき、文亀2年(1502年) - 天正10年4月3日(1582年4月25日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての臨済宗妙心寺派の僧で諱は紹喜(じょうき)。字は快川。後代には快川の遺偈(ゆいげ)として広く知られ、再建・改築された三門の両側にも、この偈が扁額として掲げられています。
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天正10年(1582年)年6月には本能寺の変により信長が討たれ、甲斐・信濃の武田遺領を巡る天正壬午の乱を経て三河国の徳川家康が甲斐を領します。
武田遺臣を庇護した家康は織田氏による焼き討ちを逃れ、那須の雲巌寺に遁れ潜んでいた末宗瑞曷(まっしゅうずいかつ)を招き、恵林寺を再建しました。
写真左下は 庫舎の鬼瓦 (再建・改築される前のもの) -
徳川幕府第5代将軍 綱吉の側用人であり1704年に甲府藩主となった柳沢吉保は信玄を崇拝し、柳沢家の祖を武田家に連なる一族として位置づけています。
1705年吉保は恵林寺において実施した信玄の百三十三回忌の法要の際に「百あまりみそしみとせの夢の山かひありていまとふもうれしき」の和歌を奉納。吉保が詠んだもので武田家に関わる歌枕である夢山(山梨県甲府市の愛宕山)の地に133年の歳月を経て訪問がかなったことを感激する内容です。吉保は死後1714年永慶寺に埋葬されましたが、1724年に恵林寺内に改葬され現在でも墓所・霊廟が残されています。
写真は佛舎利宝塔(三重塔) -
昭和天皇御手播の檜
昭和25年4月4日 甲府市で行われた第一回全国植樹祭のおり 御播種 -
参道の信玄館 第二売店に薬草発祥の地塩山「甘草屋敷」についての記述:甘草屋敷(かんぞうやしき)は、山梨県甲州市塩山上於曽(かみおぞ)にある江戸時代後期に建築された民家で、国の重要文化財に指定されています。重要文化財指定名称は旧高野家住宅。
(以上 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』) -
次は万葉集の歌碑が設置され「令和」話題の公園「万力公園」です。
万力公園「万葉の森」は、松、梅、すみれ、彼岸花など万葉集にうたわれた植物が公園内に多く自生していたことから、その植物の歌碑を園内にちりばめ、平成5年万力公園「万葉の森」として開園しました。 -
「万葉の森」が建設されたここ万力公園は、かつて笛吹川の氾濫によって村民を悩まし続けた水難所でした。
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『万力』をいう地名は、「万人の力を合わせたような強固な堤を築けるように」との願いをこめて名付けられたと伝えられ、この公園はふるさとの歴史と深い関わりを持っていることがわかります。
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村を洪水から守ろうとした祖先たちの力の結晶が、今日の松林を育てました。
新元号『令和(れいわ)』の発表後、典拠となった万葉集が脚光を浴び、万葉集の歌碑が設置されている万力公園「万葉の森」が話題となっています。 -
仕事熱心なTrapicsの添乗員Sさんは事前にバスの中で『令和』の生い立ちを説明後、現地でその発祥のもとになった「うめ」の歌碑の前まで案内したうえ、さらに詳しく解説していました。
その昔 梅をテーマにした歌会のご案内状の一節から引用したもの。すなわち『令和』は万葉集巻五 梅花の歌三十二首の導入部分「初春令月・氣淑風和」つまり「令月にして気淑く風和ぎ」から引用されました。さすがによく勉強していてそれをわかりやすく解説してくれました。
原文は(815~846 の32首の序) 天平二年正月十三日、萃于帥老之宅、申宴會也。于時、初春令月、氣淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香。(中略)古今夫何異矣。宜賦園梅聊成短詠。 -
うめ
わが園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも
(大伴旅人/万葉集巻5-822)
大意:わが家の庭園に梅の花が散っている。いやこれは大空から雪が流れてくるのであろうか。 -
公園内には三十二首の一つ「わが園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも(大伴旅人)」の歌碑もあります。
公園内では、歌碑の中でうたわれている植物や動物を見ることができ、歌と動植物を一緒に楽しむことができます。 -
このほか広大な公園内にちりばめられた万葉の歌碑 26首27基の歌碑があります。
これらの歌碑は、この地に自生していた植物にゆかりのある歌を市文化協会の協力のもと選考し、設置されました。 -
モモ 「春の園紅にほふ桃の花下照る道に出で立つをとめ」
この歌は、奈良時代の歌人大伴家持(おおとものやかもち)によって詠まれた歌です。大伴家持は、万葉集の編纂にもかかわっていました。
春の庭で赤く色づいている桃の花をまず描写していますが、この花の明るさが後に登場する少女をより鮮明にイメージさせています。ちなみに「にほふ」とは、美しく色づいている、美しく照り輝くを意味します。 -
エノキ : 我が門の榎の実もり食む百千鳥千鳥は来れど君ぞ来まさぬ
我が家の門前の榎の実を啄みにくるたくさんの鳥たち、鳥は来るのですが、あなたは来てくださらないのですね。(作者未詳 『万葉集』 巻16-3872 雑歌) -
アジサイ: 言(こと)問わぬ、木すら紫陽花(あじさゐ)、諸弟(もろえ)らが、練(ねり)の村戸(むらと)にあざむかえけり
意味:ものを言わない木でさえ、紫陽花(あじさい)のように移りやすいものがあります。(言葉をあやつる)諸弟(もろえ)たちの言葉にすっかりだまされてしまいました。
・大伴家持(おおとものやかもち)が坂上大嬢(おおとものさかのうえのおおをとめ)に贈った歌の一つです。・諸弟(もろえ)は人名とも考えられていますが、はっきりとはしていないようです。また、練(ねり)の村戸(むらと)についても、解釈がはっきりしていません。 -
ヒルガオ:高円(たかまと)の野辺の容花(かほばな)、面影に、見えつつ妹は、忘れかねつも
意味: 高円(たかまと)の野辺の容花(かほばな)のような、あなたの面影が忘れられないのです。大伴家持(おおとものやかもち)が、大伴坂上大嬢(おおとものさかのうえのおおおとめ)に贈った歌です。 -
ミツマタ:春されば 先づ三枝《さきくさ》の 幸《さき》くあらば
後にも逢はむ な恋ひそ吾妹《わぎも》
意味:春が来ればまず咲き始める さきくさのように 無事でいたなら また巡り会えるのだから そんなに恋しがらないでおくれ 私の妻よ(作者未詳(柿本人麻呂歌集) 『万葉集』 巻10-1895 相聞歌)
さきくさは枝が三つに別れる植物ということで、ミツマタのこととされています。歌の中では「幸くあらば」を「さきくさ」の音で導き出して、「何よりもまずあなたが無事であれば」と文脈もかけています。この技巧は古今集にも多く取り入れられるようになり、後の和歌に影響をおよぼすことになりました。現在の姓に使われている「三枝(さえぐさ・さいぐさ)」はこのさきくさが音便化したものだそうです -
サクラ:春雨に争ひ兼ねて我が宿の桜の花は咲きそめにけり
原文: 春雨尓 相争不勝而 吾屋前之 櫻花者 開始尓家里
意味:春雨に抵抗できず我が家の桜の花はついに咲き始めたのです
(万葉10-1869作者不詳 ) -
マツ:市原王歌碑
原文:一松 幾代可歴流 吹風乃 聲之清者 年深香聞
読み:一つ松(まつ)、幾代(いくよ)か経(へ)ぬる、吹く風(かぜ)の、音の清きは、年(とし)深(ふか)みかも
意味:松よ、きみはいったい何年経っているのですか。吹く風の音が清らかなのは、長い年月を経ているからなのかな。
<万葉集・風9>第6巻 1042 <作者:市原王(いちはらのおほきみ)> -
奈良時代に編纂された日本最古の歌集「万葉集」と、平成の時代に整備された「万葉の森」が、新たな元号『令和』の制定によって結びつく不思議な縁がここに。
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公園内には、万葉集の研究の権威であった(故)犬養孝氏、現・国際日本文化研究センター名誉教授・中西進氏のお二人に直筆で書いていただいた歌碑も設置されています。
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万葉集の研究の権威であった(故)犬養孝氏の 万葉歌碑解説
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ふれあい動物広場
カピバラ、アライグマ、マーラ、シカ、フラミンゴ、クジャク、シマリス、ウサギ、サル、ヤギなど約40種類のかわいい動物たちに出会えます -
園内に入るやフラミンゴの集団に出くわします。
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ふれあい動物広場
かわいい動物たちに出会えます -
ふれあい動物広場にて
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園内売店にて
ここでのご当地アイスは 巨峰 バニラとのミックスも -
園内売店にて
巨峰とシャインマスカット詰め合わせで2000円だと 食べ放題に行かなくても充分代用はできますが・・・。まあ現地ではこんな価格でした。 -
午後1時半過ぎても 好天は続きます。
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次に マンズワイン勝沼ワイナリーへ
マンズワイン勝沼ワイナリーは1962年設立。デイリーワインから日本の風土を表現するこだわりのワインまで多くの種類を製造しています。 -
○マンズワイン勝沼ワイナリーの巨大なタンク群
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○マンズワイン勝沼ワイナリー
見学では、近代的な醸造棟、巨大なタンク群、資料館や地下セラー樽貯蔵庫をご覧頂けます。 -
マンズワインは「日本のぶどうによる、日本のワイン造り」を目指し、ワイン造りの最適地として、山梨県の勝沼と、長野県の小諸を選びました。それぞれのぶどう品種に適した風土、ワイナリーの設備をご見学いただけます。
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勝沼ワイナリー ワインの歴史を感じられる資料館で自由見学できます。
写真はスタッフによるワイナリーの設備や基礎事項 説明
このあと地下セラー樽貯蔵庫をご覧頂けます。 -
ワイナリー 試飲会場
ワインの無料試飲コーナーで、お気に入りを見つけることができます。 -
ワイナリー 試飲会場
甘口 辛口 ぶどうジュースまでそれぞれのコーナーで試飲できます。 -
ワイナリー 試飲会場 奥の販売所にて
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ワイナリー 試飲会場 奥の販売所にて
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ワイナリー 試飲会場 奥の販売所にて
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ワイナリー 試飲コーナー
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○マンズワイン勝沼ワイナリー
場内にBBQレストランあり。営業時間9時~17時、定休日 年末年始、工場点検日。毎年11月3日にワイン祭り開催(入場無料)。 -
○マンズワイン勝沼ワイナリー
ぶどうの時期にはワイン醸造の現場も見学できます。
ところでマンズワインはキッコーマン醤油の傘下にあることを今回初めて知りました。 -
○マンズワイン勝沼ワイナリー
所在地:山梨県甲州市勝沼町山400 電話 0553-44-2285 -
バスの旅 最後は 今回訪問が3度目の宝石館。 2011年6月にも2度目の訪問で 2009年4月初めて訪れた折 熱意あるセールストークに負けてトルマリンのシーツと枕カバーを 一式購入した「トルマリン工房」。今は名を変え「宝石館」という触れ込み 今回3度目の訪問で 人懐っこい熟練スタッフと談笑。トルマリンのシーツと枕カバーに加え今回はマイナスイオン効果のあの石の首飾りを強調していました。
帰宅後 その時購入した枕カバーとシーツを思い出してまた利用開始しました。 -
午後5時 談合坂SAで夕食用に焼肉スティック購入し 特製おむすびと共に車内で貴重な夕食をいただきました。(朝・昼・夕の三食付きツアー)
さらに山梨のお土産が 野菜にお米(お米は二人で1キロ)マンズワインはキッコーマン醤油のミニボトル ハーブ園はハーブ石鹸 などなど盛りだくさんでした。
ともあれ断続渋滞30キロで 1時間半遅れ 19:30 所沢駅到着
トータル 12時間で 往復240キロのバスの旅 了
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