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埼玉県名前の由来、発祥の地「さきたま古墳公園」を散策した。<br />街中にに古墳が多々ある、韓国慶州(きょんじゅ)を思い出した。<br />https://4travel.jp/travelogue/10686957<br />これら古墳が作られた時代は外国(東アジア)から渡来人が来て大陸文化が日本へ伝わった。「図解日本史」九州高等学校歴史教育研究協議会発行では【6世紀の加羅、7世紀に百済・高句麗が滅亡し、韓民族の王族や文化人が亡命した。進んだ土木・灌漑技術や仏教・儒教を伝え、飛鳥文化形成に貢献した。】との事である。<br />

「さきたま古墳公園」古墳めぐり___埼玉県行田市埼玉

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2019/07/18 - 2019/07/18

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埼玉県名前の由来、発祥の地「さきたま古墳公園」を散策した。
街中にに古墳が多々ある、韓国慶州(きょんじゅ)を思い出した。
https://4travel.jp/travelogue/10686957
これら古墳が作られた時代は外国(東アジア)から渡来人が来て大陸文化が日本へ伝わった。「図解日本史」九州高等学校歴史教育研究協議会発行では【6世紀の加羅、7世紀に百済・高句麗が滅亡し、韓民族の王族や文化人が亡命した。進んだ土木・灌漑技術や仏教・儒教を伝え、飛鳥文化形成に貢献した。】との事である。

旅行の満足度
5.0
交通手段
自家用車

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  • 駐車場へ到着

    駐車場へ到着

  • まずは、北側の丸墓山古墳から右回りでGo!

    まずは、北側の丸墓山古墳から右回りでGo!

  • 「史蹟埼玉村古墳群」

    「史蹟埼玉村古墳群」

  • のぼうの城で有名になりました。<br />「忍城(おしじょう)」は北西へ2.35Kmあります。<br />

    のぼうの城で有名になりました。
    「忍城(おしじょう)」は北西へ2.35Kmあります。

  • この砂利道が「石田堤」<br />入り口を振り返る。

    この砂利道が「石田堤」
    入り口を振り返る。

  • 「石田堤」西側の池は藪の中

    「石田堤」西側の池は藪の中

  • 先は「丸墓山古墳」

    先は「丸墓山古墳」

  • 「丸墓山古墳」

    「丸墓山古墳」

  • 「丸墓山古墳」階段

    「丸墓山古墳」階段

  • 「丸墓山古墳」<br />【直径105mあり円墳では日本最大です。墳丘は埼玉古墳群の中で一番高く、約19mあります。墳丘に使われた土の量は二子山古墳より多かったという試算もあります。出土した埴輪から、6世紀前半ころに築かれたと推定されています。埋葬施設の内容は、現在のところ確認されていません。<br />南側から古墳にいたる道は、590年に石田三成が忍城を水攻めにした時に築いた堤防の跡といわれている 「石田堤」です。水攻めの際には、古墳の頂上に陣が張られました。】説明版です。<br />

    「丸墓山古墳」
    【直径105mあり円墳では日本最大です。墳丘は埼玉古墳群の中で一番高く、約19mあります。墳丘に使われた土の量は二子山古墳より多かったという試算もあります。出土した埴輪から、6世紀前半ころに築かれたと推定されています。埋葬施設の内容は、現在のところ確認されていません。
    南側から古墳にいたる道は、590年に石田三成が忍城を水攻めにした時に築いた堤防の跡といわれている 「石田堤」です。水攻めの際には、古墳の頂上に陣が張られました。】説明版です。

  • 「丸墓山古墳」から忍城を眺める、が見えない。

    「丸墓山古墳」から忍城を眺める、が見えない。

  • 「丸墓山古墳と忍城」忍城の場所と説明<br />

    「丸墓山古墳と忍城」忍城の場所と説明

  • 「丸墓山古墳と忍城」<br />【天正十八年(1590)、豊臣秀吉の命を受けた石田三成は、総延長28km(一説には14km)の石田堤を築き、忍城を水攻めしました。丸墓山古墳は高さが19mもあり、周辺を一望できることから三成の陣が張られたと言われています。<br />北の利根川水系、南の荒川水系の水を流し込んでの城攻めは成功せず、豊臣秀吉が唯一落とせなかった城とも言われています。】<br />

    「丸墓山古墳と忍城」
    【天正十八年(1590)、豊臣秀吉の命を受けた石田三成は、総延長28km(一説には14km)の石田堤を築き、忍城を水攻めしました。丸墓山古墳は高さが19mもあり、周辺を一望できることから三成の陣が張られたと言われています。
    北の利根川水系、南の荒川水系の水を流し込んでの城攻めは成功せず、豊臣秀吉が唯一落とせなかった城とも言われています。】

  • 博物館に丸墓山古墳で「のぼうの城」撮影中の写真があった。<br />

    博物館に丸墓山古墳で「のぼうの城」撮影中の写真があった。

  • 「古代蓮の里」の展望台が東北東に見える。<br />約2000mあります。

    「古代蓮の里」の展望台が東北東に見える。
    約2000mあります。

  • 「将軍山古墳」が南東に見える。<br />丸墓山古墳より低い事が判る。<br />

    「将軍山古墳」が南東に見える。
    丸墓山古墳より低い事が判る。

  • 散歩中のお姉さんが<br />「天気が良いと、ここの階段真正面に富士山が見えるんですよ!」<br />残念、しんちゃん行いが悪いようでした。<br />

    散歩中のお姉さんが
    「天気が良いと、ここの階段真正面に富士山が見えるんですよ!」
    残念、しんちゃん行いが悪いようでした。

  • 北側へ回り込んで次ぎなる古墳へ・・・

    北側へ回り込んで次ぎなる古墳へ・・・

  • アゲハチョウがヤブガラシ(藪枯らし)の蜜を吸っていた。<br />別名ビンボウカズラ(貧乏葛)<br />ヤブガラシは除草するとき、肌に樹液が付くと痒くなり嫌いである。

    アゲハチョウがヤブガラシ(藪枯らし)の蜜を吸っていた。
    別名ビンボウカズラ(貧乏葛)
    ヤブガラシは除草するとき、肌に樹液が付くと痒くなり嫌いである。

  • 「稲荷山古墳」

    「稲荷山古墳」

  • 「稲荷山古墳」

    「稲荷山古墳」

  • 「稲荷山古墳」

    「稲荷山古墳」

  • 「稲荷山古墳」<br />【全長120mの前方後円墳です。周囲には長方形の堀が中堤をはさんで二重に巡り、墳丘くびれ部と中堤には造出しと呼ばれる張出しがあります。古墳が造られた時期は、5世紀後半ころと考えられ、埼玉古墳群の中で最初に造られた古墳です。<br />前方部は、1937年に土取り工事で失われましたが、2004年に復原されました。<br />1968年の発掘調査では、後円部から二つの埋葬施設が発見されました。そのうち礫柳はよく残っており、多くの副葬品が出土しました。その一つである鉄剣からは、1978年に115文字の銘文が見出され、他の副葬品とともに1983年に国宝に指定されています。<br />平成19年(2007年) 埼玉県教育委員会】説明版です。<br />

    「稲荷山古墳」
    【全長120mの前方後円墳です。周囲には長方形の堀が中堤をはさんで二重に巡り、墳丘くびれ部と中堤には造出しと呼ばれる張出しがあります。古墳が造られた時期は、5世紀後半ころと考えられ、埼玉古墳群の中で最初に造られた古墳です。
    前方部は、1937年に土取り工事で失われましたが、2004年に復原されました。
    1968年の発掘調査では、後円部から二つの埋葬施設が発見されました。そのうち礫柳はよく残っており、多くの副葬品が出土しました。その一つである鉄剣からは、1978年に115文字の銘文が見出され、他の副葬品とともに1983年に国宝に指定されています。
    平成19年(2007年) 埼玉県教育委員会】説明版です。

  • 「将軍山古墳」<br />【墳丘長90メートル<br />後円部径39メートル・高さ8.4メートル(復元)<br />前方部幅68メートル・高さ9.4メートル(復元)<br /><br />二重の方形をした周濠を持ち、埼玉県下で8番目の規模の前方後円墳である。 墳形は千葉県富津市内裏塚古墳群中の稲荷山古墳に類似し、後述の石室石材とともに埼玉古墳群を造成した武蔵国造と内裏塚古墳群を造成した須恵国造の親密な関係がうかがわれる。 造営年代は、古墳時代後期の6世紀末と考えられている。 <br /><br />1894年7月、下忍村の増田五左衛門(ますだござえもん)は、古墳にある石(石室の一部と思われる)を自宅の庭園に使おうと、忍町の山下銓太郎(やましたせんたろう)とともに将軍山古墳後円部を発掘、そのときに横穴式の石室らしきものを発見した。官庁の許可を得て発掘を進めた結果、縦1.5メートル、横0.8メートル、厚さ30センチメートルの秩父青石(緑泥片岩)の天井板、側壁は房総半島の富津市付近で産出される房州石が用いられていた。また多数の馬具や武器、武具、須恵器などが出土。馬冑の出土は日本では紀伊大谷古墳に次いで2例目。 <br /><br />また、前方部にも木棺を直接埋葬した墓壙が確認されたが、確認された副葬品は168個のガラス玉のみであった。被葬者は後円部に埋葬された人物と血縁関係にある女性が考えられる。 】From Wikipedia

    「将軍山古墳」
    【墳丘長90メートル
    後円部径39メートル・高さ8.4メートル(復元)
    前方部幅68メートル・高さ9.4メートル(復元)

    二重の方形をした周濠を持ち、埼玉県下で8番目の規模の前方後円墳である。 墳形は千葉県富津市内裏塚古墳群中の稲荷山古墳に類似し、後述の石室石材とともに埼玉古墳群を造成した武蔵国造と内裏塚古墳群を造成した須恵国造の親密な関係がうかがわれる。 造営年代は、古墳時代後期の6世紀末と考えられている。

    1894年7月、下忍村の増田五左衛門(ますだござえもん)は、古墳にある石(石室の一部と思われる)を自宅の庭園に使おうと、忍町の山下銓太郎(やましたせんたろう)とともに将軍山古墳後円部を発掘、そのときに横穴式の石室らしきものを発見した。官庁の許可を得て発掘を進めた結果、縦1.5メートル、横0.8メートル、厚さ30センチメートルの秩父青石(緑泥片岩)の天井板、側壁は房総半島の富津市付近で産出される房州石が用いられていた。また多数の馬具や武器、武具、須恵器などが出土。馬冑の出土は日本では紀伊大谷古墳に次いで2例目。

    また、前方部にも木棺を直接埋葬した墓壙が確認されたが、確認された副葬品は168個のガラス玉のみであった。被葬者は後円部に埋葬された人物と血縁関係にある女性が考えられる。 】From Wikipedia

  • 「二子山古墳」<br />【全長138mの前方後円墳です。かつての「武蔵国」(埼玉県、東京都、神奈川県の一部にあたる)で最大の古墳です。<br />周囲には、長方形の堀が中堤をはさんで二重に巡り、墳丘くびれ部と中堤には造出しと呼ばれる張出しがあります。現在遊歩道になっている高まりが中堤にあたります。内堀は、今は水堀になっていますが、古墳が築造された当時は水はなかったと考えられています。<br />本格的な発掘調査はされていないため、埋葬施設の形や: 大きさ、副葬品の内容など、詳しいことはまだわかっていません。 出土した埴輪の形から、古墳の造られた時期は、6世紀初め頃と推定されています。<br />平成20年(2008年)3月 埼玉県教育委員会】説明版です。<br />

    「二子山古墳」
    【全長138mの前方後円墳です。かつての「武蔵国」(埼玉県、東京都、神奈川県の一部にあたる)で最大の古墳です。
    周囲には、長方形の堀が中堤をはさんで二重に巡り、墳丘くびれ部と中堤には造出しと呼ばれる張出しがあります。現在遊歩道になっている高まりが中堤にあたります。内堀は、今は水堀になっていますが、古墳が築造された当時は水はなかったと考えられています。
    本格的な発掘調査はされていないため、埋葬施設の形や: 大きさ、副葬品の内容など、詳しいことはまだわかっていません。 出土した埴輪の形から、古墳の造られた時期は、6世紀初め頃と推定されています。
    平成20年(2008年)3月 埼玉県教育委員会】説明版です。

  • 「二子山古墳」

    「二子山古墳」

  • 「吉川栄先生武道顕著碑」<br />「二子山古墳」の北川、散策道脇にあった。<br />

    「吉川栄先生武道顕著碑」
    「二子山古墳」の北川、散策道脇にあった。

  • 「丸墓山古墳」入り口へ戻ってきた。<br />駐車場の南側の散策道を博物館方向へ歩いた。<br />

    「丸墓山古墳」入り口へ戻ってきた。
    駐車場の南側の散策道を博物館方向へ歩いた。

  • 「天祥寺」<br />【天祥寺由来旧幕時代大名の数、二百七十余藩というが、拾万石以上は五十余のみ、而も大名格の溜間詰は最高の格式にして、井伊大老、松平下総守外六家に過ぎず、御三家、加資百万石より上位なり。<br />初代忠明公は家康の外孫、初代唯一の大阪城主として大阪復興にあたり、後に姫路城主となり西国探題の名君たり。<br />天祥院殿と法名す。即ち天祥寺開基、京都妙心寺に現存する塔頭、天祥院の本寺たり。<br />九代恋堯公、桑名より忍に移封、天祥寺を今の埼玉に建立、十一代名君忠国公、十二代忠誠公の三君、この蜜域の地下に眠る。 「近時、この地、風土記の丘と称し、古墳群を埼玉県名発祥の地として自然公園とす。<br />現在松平家の墓所は行田市の文化財の指 定を受けて目下大方の檀家のご協力を得、 加藍建立途上にあります。】説明版からです。<br /><br />

    「天祥寺」
    【天祥寺由来旧幕時代大名の数、二百七十余藩というが、拾万石以上は五十余のみ、而も大名格の溜間詰は最高の格式にして、井伊大老、松平下総守外六家に過ぎず、御三家、加資百万石より上位なり。
    初代忠明公は家康の外孫、初代唯一の大阪城主として大阪復興にあたり、後に姫路城主となり西国探題の名君たり。
    天祥院殿と法名す。即ち天祥寺開基、京都妙心寺に現存する塔頭、天祥院の本寺たり。
    九代恋堯公、桑名より忍に移封、天祥寺を今の埼玉に建立、十一代名君忠国公、十二代忠誠公の三君、この蜜域の地下に眠る。 「近時、この地、風土記の丘と称し、古墳群を埼玉県名発祥の地として自然公園とす。
    現在松平家の墓所は行田市の文化財の指 定を受けて目下大方の檀家のご協力を得、 加藍建立途上にあります。】説明版からです。

  • 「愛宕山古墳」

    「愛宕山古墳」

  • 「愛宕山古墳」

    「愛宕山古墳」

  • 埼玉県道77号行田蓮田線(通称:古墳通り)<br />を渡って「さきたま史跡の博物館」エントランスに入ります。<br />

    埼玉県道77号行田蓮田線(通称:古墳通り)
    を渡って「さきたま史跡の博物館」エントランスに入ります。

  • エントランス左手に<br />「瓦塚古墳」

    エントランス左手に
    「瓦塚古墳」

  • 「瓦塚古墳」

    「瓦塚古墳」

  • 「瓦塚古墳」<br />【全長53m、埼玉古墳群の中でもっとも小さな前方後円墳です。最小ではありますが、他の前方後円墳と同じく、周囲には長方形の堀が二重に巡ることが、発掘調査により確認されました。墳丘内部は未調査であるため、埋葬施設の形や大きさ、副葬品の内容など詳しいことはまだ分かっていません。<br />出土した遺物は、円筒埴輪のほか、人物・大分・盾・蓋(貴人の傘)などを表現した形象埴輪があります。円筒埴輪は、高さが40cm前後で、他の古墳に比べ小さいのが特徴です。古墳の造られた時期は、出土した遺物から6世紀前半と推定されています。】説明版です。

    「瓦塚古墳」
    【全長53m、埼玉古墳群の中でもっとも小さな前方後円墳です。最小ではありますが、他の前方後円墳と同じく、周囲には長方形の堀が二重に巡ることが、発掘調査により確認されました。墳丘内部は未調査であるため、埋葬施設の形や大きさ、副葬品の内容など詳しいことはまだ分かっていません。
    出土した遺物は、円筒埴輪のほか、人物・大分・盾・蓋(貴人の傘)などを表現した形象埴輪があります。円筒埴輪は、高さが40cm前後で、他の古墳に比べ小さいのが特徴です。古墳の造られた時期は、出土した遺物から6世紀前半と推定されています。】説明版です。

  • エントランスを歩くと「さきたま史跡の博物館」近く左手に<br />「埼玉県名発祥の記念碑」がある。<br />

    エントランスを歩くと「さきたま史跡の博物館」近く左手に
    「埼玉県名発祥の記念碑」がある。

  • 埼玉県名発祥の由来説明版<br />自分で読んでね!

    埼玉県名発祥の由来説明版
    自分で読んでね!

  • 「鉄砲山古墳」<br />【鉄砲山古墳は、県道を挟んで二子山古墳(ふたごやまこふん)の南側、埼玉(さきたま)古墳群では南に寄った位置にあります。長さ109m、埼玉古墳群の前方後円墳では3番目の大きさです。<br />「鉄砲山」という、古墳としてはめずらしい名前は、江戸時代、古墳の周辺が忍藩(おしはん)の砲術練習場(ほうじゅつれんしゅうじょう)になっていたことから名付けられました。<br />70年ほど前からその名が見られますが、それ以前は「御風呂山(おふろやま)」と呼ばれていました。<br />今は完全に埋まっていますが、墳丘(ふんきゅう)は二重の堀に囲まれていることが、発掘調査により確認されています。ただ部分的な調査であるため、正確な形態はまだわかっていません。<br />埋葬施設(まいそうしせつ)も発掘調査されていないため、形態は不明です。墳丘の西側は中央付近がえぐれてやや変形してますが、東側は保存状態が良く、隣接する芝生からは、古墳本来の形が美しく眺められます。<br />墳丘に登ることはできませんが、夏のオニユリなど季節ごとに野草の花が咲き、古代の遺跡とはまた別の顔を楽しむことができます。ただ、周囲には民間地が接しているため、見学の時は注意してください。】HPよりコピーです。

    「鉄砲山古墳」
    【鉄砲山古墳は、県道を挟んで二子山古墳(ふたごやまこふん)の南側、埼玉(さきたま)古墳群では南に寄った位置にあります。長さ109m、埼玉古墳群の前方後円墳では3番目の大きさです。
    「鉄砲山」という、古墳としてはめずらしい名前は、江戸時代、古墳の周辺が忍藩(おしはん)の砲術練習場(ほうじゅつれんしゅうじょう)になっていたことから名付けられました。
    70年ほど前からその名が見られますが、それ以前は「御風呂山(おふろやま)」と呼ばれていました。
    今は完全に埋まっていますが、墳丘(ふんきゅう)は二重の堀に囲まれていることが、発掘調査により確認されています。ただ部分的な調査であるため、正確な形態はまだわかっていません。
    埋葬施設(まいそうしせつ)も発掘調査されていないため、形態は不明です。墳丘の西側は中央付近がえぐれてやや変形してますが、東側は保存状態が良く、隣接する芝生からは、古墳本来の形が美しく眺められます。
    墳丘に登ることはできませんが、夏のオニユリなど季節ごとに野草の花が咲き、古代の遺跡とはまた別の顔を楽しむことができます。ただ、周囲には民間地が接しているため、見学の時は注意してください。】HPよりコピーです。

  • 林の中にいた、ゴマダラカミキリ(胡麻斑髪切)<br />ダンゴムシが左手にいる。<br />

    林の中にいた、ゴマダラカミキリ(胡麻斑髪切)
    ダンゴムシが左手にいる。

  • 「鉄砲山古墳」

    「鉄砲山古墳」

  • 「奥の山古墳」

    「奥の山古墳」

  • 「奥の山古墳」<br />【墳丘(ふんきゅう)全長66mの前方後円墳です。奥の山という名前は、古墳群を東から見たとき、戸場口山古墳・中の山古墳・奥の山古墳と並び、一番奥にあることから付けられました。<br />発掘調査により、それまで一重と考えられていた周堀(しゅうぼり)が二重であることや、墳丘が二段に築かれ、段上には埴輪列が廻らされることなどがわかりました。<br />また、古墳がつくられた当時の地面も確認されました。<br />後円部墳丘西側には張出部があり、子持壺や大型器台といった&quot; 祭祀に使われた須恵器が出土しています。こうした出土遺物から6世紀中ごろから後半にかけてつくられた古墳と考えられています。】説明版からです。<br />

    「奥の山古墳」
    【墳丘(ふんきゅう)全長66mの前方後円墳です。奥の山という名前は、古墳群を東から見たとき、戸場口山古墳・中の山古墳・奥の山古墳と並び、一番奥にあることから付けられました。
    発掘調査により、それまで一重と考えられていた周堀(しゅうぼり)が二重であることや、墳丘が二段に築かれ、段上には埴輪列が廻らされることなどがわかりました。
    また、古墳がつくられた当時の地面も確認されました。
    後円部墳丘西側には張出部があり、子持壺や大型器台といった" 祭祀に使われた須恵器が出土しています。こうした出土遺物から6世紀中ごろから後半にかけてつくられた古墳と考えられています。】説明版からです。

  • 今回の散歩コース<br />ちょっと効率が悪かった!<br />中の山古墳を見逃した!<br />滞在時間4時間は大変実りある見学であった。<br />誤字脱字があったらごめんなさい。<br />コピーは大変であった。<br />-----完-----<br /><br />

    今回の散歩コース
    ちょっと効率が悪かった!
    中の山古墳を見逃した!
    滞在時間4時間は大変実りある見学であった。
    誤字脱字があったらごめんなさい。
    コピーは大変であった。
    -----完-----

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