2019/05/17 - 2019/05/17
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ペコちゃんさん
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深谷市は埼玉県北部にある人口約14万人の都市・・・1456年に上杉房顕が深谷城を築いて城下町が形成され、江戸時代には中山道の宿場町(深谷宿)として発展しました。
深谷と言えば、出荷量が日本一の「深谷ねぎ」を思い出しますが、花の栽培も盛んです。
先日の新聞に「花園芍薬園」の記事が載っていたので、出かけてみました。
ぼたん園と違って芍薬園はあまり聞いたことがありませんが、約百品種・三千株の芍薬が植えられた園内は、ちょうど見頃を迎え、白や赤、ピンク色など色鮮やかな大輪の芍薬が咲き競っていました。
また深谷は、第一国立銀行の創立に携わるなど、近代日本経済の基礎を築いた渋沢栄一の生誕地でもあり、渋沢栄一ゆかりの建物が整備・保存されています。
新一万円札に登場することになった渋沢栄一のお陰で、深谷は今、熱い!
写真は、色とりどりの芍薬で埋まった「花園芍薬園」。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 自家用車
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深谷市にある観光農園「花園芍薬園」は、関越・花園ICから数分の畑の中にあります。
ここは、農家の持田源次郎さんが1997年に開園した花園で、水田だった約5千平方mの広い所に植えられた三千株の芍薬が、5万本の花を咲かせます。 -
周りは畑なので、ネットで簡単な囲いをしています。
入園料は300円。 -
入口には「杖」と「日傘」を用意する心遣い。
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園内に入った途端、鮮やかに咲く芍薬の大競演!
「立てば芍薬 座れば牡丹 歩く姿は百合の花」と、古来より美しさの象徴として多くの人々に愛され、親しまれてきた芍薬です。 -
持田さんは、以前は芍薬の切り花を出荷していましたが、休耕田を利用して造った「花園芍薬園」は、今季で開園23年目。
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芍薬はボタン科なので、花が牡丹に似ていますね。
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牡丹は木ですが、シャクヤクは草なので、冬に枯れて翌年に再び芽を出します。
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中国の宋代に栽培が始まった芍薬は、江戸時代に「茶花」として鑑賞され、品種改良も行われました。
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花の形は「一重咲き」「八重咲き」「翁咲き」などがあり、株分けで増やします。
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19世紀以降、フランスやアメリカでも品種改良が進みました。
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芍薬は美しいだけでなく、根が生薬になります。
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鮮紅色・ピンク・真っ白など、様々な色の芍薬の花。
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(左上)コーラルサンセット (右上)ブーケパーフェクト
(左下)ラテンドール (右下)シザレア -
(左上)ミスターエド (右上)レッドコメット
(左下)小島の輝 (右下)ナイスギャル -
(左上)ゲイパリー (右上)藤娘
(左下)ビロードクイン (右下)アンジェリカフリーボーン -
(左上)ボーダーチャーム (右上)夕映
(左下)白雪 (右下)クリームパフェ -
(左上)極光 (右上)ラファエットエスカドリル
(左下)火祭 (右下)潮騒 -
(左上)ゴールデンラズベリーローズ (右上)イエロークラウン
(左下)花かご (右下)エンゼルチーク -
(左上)プレアリムーン (右上)チャイナローズ
(左下)氷点 (右下)新珠 -
園内の奥に藤棚があり、休憩所になっています。
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藤棚の前に広がる美しい「ルピナス」の花。
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プロが育てると、もうこの時期にこんなに咲くんですね。
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「キバナフジ」も咲いていました。
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「花園芍薬園」を後にして、深谷市の中心街へ向かい、一度見てみたかった「深谷駅」へ行きました。
北口の階段前広場には、渋沢栄一の没後80年記念事業の一環として作られた時計塔があり、毎正時に、何と、渋沢栄一が出てくる「からくり時計」になっているそうです。 -
明治16年(1883)に開業した深谷駅はJR東日本・高崎線の駅で、「関東の駅百選」にも選定されています。
階段には、深谷市のイメージキャラクター「ふっかちゃん」と渋沢栄一の幟。 -
深谷駅は深谷駅市政40周年を記念して、東京駅が深谷産の煉瓦を使用していることにあやかり、東京駅を模して1996年に橋上駅舎へ改築されました。
かつては、渋沢栄一が設立に関わった日本煉瓦製造の専用線が、深谷駅から工場まで敷かれていました。
深谷駅は現在、外壁改修を行うため、仮設足場が設置されています。(令和2年2月まで) -
広い改札口。
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深谷駅コンコースのタイル壁に飾られた鉄道の絵・・・これは、明治17年に三代目・一立斎広重が描いた錦絵「東京高崎汽車往返之圖」。
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改装された現在の駅舎は、東京駅の赤レンガ駅舎をモチーフにしたデザインですが、レンガの落下を回避するためレンガ構造ではなく、コンクリートの壁にレンガ風のタイルを貼っています。
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この東京駅の写真と比べても、そっくりですね。
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南口の階段。
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北口のバス停。
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コミュニティバス「くるリン」が来ました。
バスの車体に描かれた「ふっかちゃん」は、ウサギのような生き物で、頭には地元名産「深谷ねぎ」の角、手には市の花「チューリップ」を持っています。 -
北口前にある「青淵広場」には、和服姿の渋沢栄一像が駅舎に向かって座っています。(「青淵」は渋沢栄一の雅号)
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渋沢栄一(1840~1931)は現在の深谷市血洗島で生まれ、幕末には尊皇攘夷運動に加わりましたが、その後幕府に仕え、日本が初めて参加した1867年のパリ万博(江戸幕府・薩摩藩・佐賀藩がそれぞれ出展)に随行して渡欧、約2年のヨーロッパ滞在中に思想・文化・社会など大きな影響を受けます。
帰国後は明治新政府に仕え、のちに実業界の指導者として活躍し、第一国立銀行をはじめ500余の企業の設立に関わりました。
利益追求を第一とする三菱財閥創始者の岩崎弥太郎に対し、栄一は幼い頃学んだ「論語」を重んじ、道徳をもって経営にあたりました。 -
13,000個のレンガで整備された北口の「ステイションガーデン」・・・この煉瓦は、渋沢栄一らが1887年(明治20年)に設立した深谷にある日本煉瓦製造から寄贈されたものです。
日本煉瓦製造は日本初の機械式煉瓦工場で、東京駅や迎賓館赤坂離宮・東京大学などに使用され、日本の近代化に大きく寄与しました。 -
深谷市の郊外に行くと、一面に広がる深谷ねぎの畑。
深谷ねぎは、繊維のきめが細かくて柔らかく、糖度が高く甘いのが特徴。
かつてこの辺りは利根川の氾濫で度々被害を受けましたが、結果的に水はけが良くネギを育てるのに適した土壌となりました。 -
次に 「誠之堂」と「清風亭」へ・・・2つの建物は、大寄(おおより)公民館の敷地内にあり、公民館窓口で見学を申請します。
公民館の入り口にあるのは「大寄 里帰りの松」・・・推定樹齢約150年のこの松は、明治22年に大寄村が誕生した際、役場が置かれた来迎寺の境内にありましたが、1967年に産業会館の前庭に移され、2016年に大寄の地に戻って「里帰りの松」と命名された黒松です。 -
誠之堂(せいしどう)は、大正5年(1916)に渋沢栄一の喜寿(77歳)を祝って、第一銀行の行員達の出資により建築された建物です。
渋沢栄一は、明治29年に第一銀行の初代頭取に就き、喜寿を機に退任しましたが、誠之堂の建築は、栄一が行員達から深く敬愛されていた証と言えます。 -
誠之堂の外観で目につくのが、この風見鶏。
東南西北の方位板の文字は「てん書」風にデザインされており、中国の文化を感じさせます。 -
誠之堂 と清風亭は、東京・世田谷区の第一銀行の保養・スポーツ施設「清和園」の敷地内に建てられていましたが、昭和46年に敷地半分が聖マリア学園に売却され、誠之堂は外国人教師の校宅として清風亭は集会所として、銀行から学園に貸し出されます。
しかし、聖マリア学園の施設拡充計画により、誠之堂と清風亭を取り壊すことに・・・それを知った深谷市は譲り受けを申し入れ、平成11年に移築復元されました。 -
ボランティアガイドの説明を聞きながら見学。
建物の移築は、煉瓦壁をなるべく大きく切断して搬送し、移築先で組み直す「大ばらし」を応用した工法を採用。
窓の下に縦の筋がありますが、ここが切断された部分。
煉瓦の積み方は、長い煉瓦と小さい煉瓦を交互に積む「フランス積み」で、焼き色の異なる3色の煉瓦が使われています。 -
「誠之堂」の名は、儒教の代表的な経典「中庸」の一節『誠者天之道也、誠之者人之道也(誠は天の道なり、これを誠にするは人の道なり)』に因んで、栄一自身が命名しました。
両脇の窓にステンドグラスが嵌め込まれ、中央の煉瓦には『喜寿』の文字が・・・ -
「誠之堂」の設計・施工は清水組(現在の清水建設)・・・渋沢栄一は清水組の相談役を約30年間務め、公私にわたり助言や支援を続けました。
渋沢栄一からの設計条件は「イギリス風の田舎屋」「建坪は30坪前後」「小集会に適する程度の設備」などということでした。
屋根は天然スレート瓦で葺かれ、中央の小屋根は飾りのようなもので、室内からは見えず、明かり採りの機能はありません。 -
ベランダには、左右にかぎ型のベンチが設けられています。
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煉瓦に刻印された「上敷免(じょうしきめん)製」の文字。
上敷免とは、日本煉瓦製造の煉瓦工場があった場所の地名。 -
玄関の壁は三色の煉瓦、その上はイギリスやドイツ・フランスの木造建築に見られるハーフ・ティンバー(半木骨造)と、印象的な造りになっています。
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玄関を上がった所にある「化粧の間」の入り口扉には、鳳凰と龍のステンドグラス。
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古来、中国では龍は皇帝(男性)、鳳凰は皇后(女性)を表す象徴だったことから、これも渋沢の喜寿を祝うデザインとして採用されたのでしょう。
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大正ロマンを感じさせる、落ち着いた「大広間」・・・カーテンレールや窓、ドアの金具などは建築当時のものです。
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暖炉の上には、大正8年に作られた渋沢栄一のレリーフ。
暖炉の脇にある窓には、6面のステンドグラスが配されています。
中国風の珍しい題材ですが、中国漢代の「画像石」の図柄を模したものです。 -
ステンドグラスの図案は、家具デザイナーだった森谷延雄(1893~1927)によるもの。
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右側のステンドグラスは、栄一を貴人に見立てて喜寿を祝う情景を描いたもの。
第1面は中央に座った貴人と侍者、第2面は貴人の左に列席している3人の臣下で、皆、左側にある第3面の舞楽を見物している様子。
臣下の上に飛んでいるのはツバメのようで、この饗宴は屋外で行われているのでしょう。 -
中央のステンドグラスは、貴人を饗するために楽器演奏と雑技を行っている場面。
第3面は楽器演奏と雑技(倒立技)、第4面は複数の玉を投げる雑技(弄丸鈴)と踊る女性が描かれています。 -
左側のステンドグラスは、祝宴に出す料理を準備している「庖厨図」。
第5面は魚を捌いたりカマドで煮炊きする様子、第6面は黍(きび)をひいて粉にし団子に丸める様子を描いています。 -
天井は円筒型の漆喰天井(ヴォールト天井)。
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天井の石膏レリーフ・・・朝鮮風の雲・鶴の模様や「寿」の文字が配された目出度い意匠で、ここでも栄一の喜寿を祝っています。
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渋沢栄一の喜寿を祝った時の集合写真が飾られていました。
最前列は渋沢栄一夫妻と親族、後列は第一銀行と清水組の関係者。 -
2017年には平成天皇・皇后両陛下が来訪され、「渋沢栄一記念館」や渋沢栄一の生家「中の家」とともに視察されました。
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「清風亭」は、第一銀行頭取だった佐々木勇之助の古希(70歳)を記念して、大正15年(1926)に誠之堂と並べて建てられました。
建築費用は誠之堂と同じく、第一銀行行員の出資によるもの・・・やはり当時の銀行員はお金持ちだったのですね。
当初、佐々木は建物建設を辞退しようとしたそうで、目立つことを好まない質実な性格の佐々木も、栄一と同じく行員たちから強く慕われていました。 -
清風亭は、当時流行っていたスペイン風建築で、南欧風のスパニッシュ瓦の屋根、5連アーチのベランダ、出窓のステンドグラスや円柱装飾などが特徴的です。
誠之堂は煉瓦造りですが、清風亭は鉄筋コンクリート造り。
大正12年の関東大震災をきっかけに耐震性への関心が高まり、日本の洋風建築は煉瓦から丈夫な鉄筋コンクリート造へと主流が代わりましたが、清風亭は鉄筋コンクリート造の初期の建築物としても、建築史上貴重なものです。 -
平面的な壁に、ゆるやかな曲面の出窓がせり出し、幾何学的なステンドグラスで飾られています。
柱頭の装飾は、ブドウの葉と実の彫刻。 -
清風亭の大広間には暖炉、天井は唐草模様のブドウの蔓と果実が彫刻されています。
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大広間に飾られた渋沢栄一の像。
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両サイドにある出窓とステンドグラス。
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大広間の中央にある暖炉。
その上には、佐々木勇之助の古希を祝った時の写真・・・渋沢栄一の姿もありました。 -
建設当時の流行やイギリスやスペイン、朝鮮などの要素を取り入れた施工技術など、ガイドさんの詳しい説明で、よく理解できました。
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続いて向かったのは「渋沢栄一記念館」・・・渋沢栄一記念館は八基(やつもと)公民館と共に、1995年11月11日の栄一の祥月命日に生家の近くに開館しました。
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館内に貼られた、新一万円札の祝賀ポスター。
2019年4月9日に ” 2024年度前半に1万円・5千円・1,000円の各紙幣を20年ぶりに刷新する ” ことを麻生太郎財務相が発表してから来場者数が急増し、1か月間で昨年度一年間の来場者数(16,036人)を上回ったようです。 -
1万円札は福沢諭吉から「日本資本主義の父」渋沢栄一へ。
因みに、私の生まれは福沢諭吉が幼少期を過ごした大分県、現在は渋沢栄一と同じ埼玉県ですが、何故か1万円札には縁が薄くて・・・ -
入口から館内に入ると、栄一翁に関する映像が大型テレビに流れています。
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記念館の中には、栄一の業績を紹介した文献や・・・
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写真、書画など約150点が展示されています。
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これは、鎮守・諏訪神社で行われる獅子舞の古い獅子頭。
獅子舞は秋の例大祭に行われ、栄一も12歳の時に舞いました。
晩年、飛鳥山(東京都北区)住まいになってからも、祭礼の折には故郷の獅子舞を見に戻ったそうです。 -
記念館の北側にある渋沢栄一像・・・右手に論語を持ち、はるか赤城山や榛名山を見据えた高さ約5mの巨大な立像です。
栄一は、7歳頃から従兄弟にあたる尾高惇忠に、論語をはじめとする学問を習い、生涯を通じて論語に親しみました。 -
最後に訪れたのは、旧渋沢邸「中の家(なかんち)」。
渋沢栄一の生家は「中の家」と呼ばれ、1840年に生まれた当時の家は1892年に焼失しましたが、家督を継いだ栄一の妹夫婦が1895年(明治28年)に再建したのが現在の家です。 -
渋沢家は代々農業を営んでいましたが、明治時代には養蚕や藍玉づくり、雑貨屋・質屋なども手掛けるようになり、さらに財を成していきました。
立派な薬医門からも裕福な暮らしぶりが想像できます。 -
門を入ると、着物姿で刀を持った「若き日の栄一」像が建っています。
これは、1867年のパリ万博に随行した時の姿。 -
主屋の間取り図・・・1階は10畳の部屋が7部屋、2階は蚕室。
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主屋は切妻造の典型的な養蚕農家の造りで、屋根には換気用の高窓があり、蚕の飼育の温度調節のため風を入れるようになっています。
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主屋の右側に座っているボランティアガイドの方が案内してくれました。
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庭園の池には、見事な錦鯉が・・・
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主屋の土間には、渋沢家の家系図、写真や資料などが展示されています。
壁に掲げられているのは、渋沢元治(栄一の甥)の揮毫による『本立而道生』の書。
” 本(もと)立たちて道生ず ” ・・・ 物事の根本が確立すれば、自ずと道は開ける(出典:『論語』学而第一2) -
部屋には上がれないので、土間や外から見学します。
最奥の部屋が渋沢栄一の部屋で、帰郷する栄一のために義弟の市郎(才三郎)が特に念入りに作らせたそうです。
テレビに映っているのは市郎の長男である渋沢元治(1876~1975)で、東京帝国大学・名誉教授や名古屋帝国大学・初代総長を務めた人物です。 -
渋沢家の長男として誕生した栄一が「中の家」で過ごしたのは、23歳まで・・・多忙な中で帰郷した際には、奥にあるこの上座敷に寝泊まりしました。
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主屋の周りに4棟の土蔵があります。
これは、米蔵として建てられた土蔵。 -
主屋の裏側にある「渋沢平九郎追懐碑」・・・平九郎は尾高惇忠と千代(栄一の最初の妻)の弟で、栄一がパリ万博に出発する際に栄一の見立養子となりましたが、戊辰戦争の中で起きた飯能戦争で敗北し、二十歳の若さで自刃しました。
この碑は、平九郎の五十年忌にあたる大正6年に、栄一が東京・谷中霊園の渋沢家墓所に建立した追懐碑ですが、2014年に「中の家」に移設されました。 -
道具蔵として使用されていた土蔵。
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1階が奥座敷、2階は宝蔵に使った土蔵。
実業界での活躍だけでなく、社会奉仕・社会活動にも熱心に携わり、「私利を追わず公益を図る」の考え方で社会発展に寄与した渋沢栄一は、新紙幣の肖像画に相応しい偉人と言えますね。
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