2019/04/04 - 2019/04/04
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montsaintmichelさん
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名古屋市の桜名所のひとつとして知られる山崎川は、同市千種区にある平和公園の猫ヶ洞池を源流に、瑞穂区を南北に流れて名古屋港へと注ぐ、延長13.6kmの二級河川です。1987(昭和63)年に建設省から「ふるさとの川モデル河川」の事業認可を受け、整備が進められてきました。2007年に山崎川散策路(可和名橋~石川橋)の工事が完了しています。
山崎川に架けられた石川橋~新瑞橋(総距離2.8km)までの間には630本ものソメイヨシノが植栽され、名古屋を代表するお花見スポットとして、財団法人日本さくらの会から「日本さくら名所100選」、また名古屋市からも「まちなみデザイン20選」に選ばれています。愛知県内でも5本の指に入る桜名所です。
ここの桜は川岸から川面に迫り出すように咲き誇るのが特徴で、阪神エリアで例えれば、川幅には差がありますが「夙川」の桜風景を彷彿とさせる趣です。また、老木も多く残されており、桜の美しさには幾星霜を経た重みが感じられ、特に夜桜ライトアップが人気を博しています。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
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「さくらのまち みずほ」の散策マップです。
地下鉄「瑞穂市役所」駅からアプローチし、東山壮を経由して向田橋(むかえだはし)が今回の桜巡りのスタート地点となります。
http://www.city.nagoya.jp/mizuho/cmsfiles/contents/0000012/12178/sakuramap.pdf -
向田橋
石川橋(北端)~新瑞橋(南端)までの2.8kmの両岸には630本ものソメイヨシノ並木が続き、特に木造橋で風情を湛えた鼎(かなえ)小橋付近には、美しい花を沢山咲かせる老木が数多く残され、川面に迫り出すように咲く流麗な姿が見所のひとつになっています。特に鼎小橋付近には桜の古木が多く、枝振りも見事です。
また、田辺公園付近などでは川岸まで降りることができます。桜花が咲き誇る期間には、鼎小橋付近の120m区間で夜間ライトアップが行われ、投光器が照らし出す夜桜風景は一見の価値があります。 -
向田橋
山崎川の名の由来は、当時河口であった「千竈(ちかま)山崎(現 南区の呼続)」の地名を採って命名されました。717年に制作された『尾張古図』には、星崎の隣地に「千竈山崎」の地名が見られます。
1959(昭和34)年の伊勢湾台風では山崎川の堤防が決壊し浸水被害が起こるなど、甚大な被害を受けるも逞しく復活しています。当時、山崎川は南区七条町内で堤防の補強工事中であり、その箇所が高潮による影響で決壊し、貯木場の木材が住宅地に流れ込みました。これにより、多数の人命が奪われると共に、家屋の倒壊や破損など壊滅的な被害に遭っています。現在も山崎川は天井川であり、満潮時などには河川の水面が住宅地の立つ標高より高くなります。 -
向田橋
向田橋から上流の白雲橋(はくうんはし)方向を望みます。
山崎川の桜の愛で方の特徴は、架けられた13の橋の上から各々違った景観を見渡すことができることです。
1927(昭和2)年に設立された石川土地区画整理組合が、その翌年に山崎川に架けられた石川橋から下流の左右田橋(そうだはし)までの両岸1.3kmに桜木を500本植栽したのが桜並木の始まりです。その後、年々桜の数が増え、昭和30年代に桜の名所として知られるようになり、川沿いには露店やサーカス小屋などが川に迫り出すように並んだそうです。戦災や伊勢湾台風の被害を受けましたが、その後も植え継がれ、代々の桜守の努力により名古屋市が誇る桜の名所となっています。 -
向田橋
向田橋から下流の石川大橋方向を望みます。
「土地区画整理」とは、戦前~戦後にかけて整然とした街並みを形成してきた基本的な手法です。その先進地が名古屋市でしたが、現在は全国の土地区画整理組合が資金不足で破綻しかけています。
「土地区画整理」の考え方は、1899(明治32)年に制定された「耕地整理法」に遡ります。街並みを近代的に整理するため、住民が保有するいびつな形をした土地の一部を道路や公園用地として提供させ、まとまった土地として売却して事業費に充当する仕組みです。名古屋市は市街地化の先駆者でもあり、こうした事業を率先しました。特に1920(大正9)年、内務省都市計画技師として28歳で名古屋市に赴任した石川栄耀が「都市計画に王道なし、ただ区画整理あるのみ」として都市化のグランドデザインを決め、強力に推し進めました。名古屋は戦災復興事業で大きく変わったと言われるのですが、実はこのグランドデザインを戦災復興で小林橘川市長が具現化したのです。しかし、石川は13年後に本庁に戻り、その置き土産のひとつがこの桜並木ということです。
その後、名古屋市では133もの土地区画整理組合が乱立し、戦災復興が東京を上回るペースで進められ、市域の7割が整備されました。このため、「白い街」と表現されるほど整然とした街並みとなりました。1967(昭和42)年には、かの石原裕次郎氏も名古屋を『白い街』と歌い、名古屋のイメージを全国に定着させました。その後、70年代に本山政雄市長が緑化事業を推進し、そのイメージを払拭しています。 -
向田橋
しかし、「土地区画整理」にも限界がありました。高度経済成長に伴い上下水道やガスなどのインフラは「確固たるもの」が求められる一方、「緑地も必要」と公園面積も増えました。こうして区画整備の負担が増大すると民間組合の資金繰りは悪化し、自治体は補助金や国庫補助の導入で組合を支援しました。しかし、バブル崩壊で自治体も巻き込んだ財政難を招き、2017年度は全国11組合が510億円の収入不足となっています。
そんな折、名古屋市守山区中志段味の組合の借入金が100億円まで膨らみ、今後更に300億円の資金不足に陥ることが発覚しました。この事業は、本来市が主体であるべき大学や企業を誘致する「サイエンスパーク」構想に基づいた「特定」事業でした。しかし、バブル崩壊で大学誘致は失敗し、当初の構想は頓挫しました。その後は商業施設の誘致を目論んで区画整理を粛々と進めて道路も整備したものの、周辺の土地は雑草が生い茂った空き地のままです。そもそも民間組織で扱う規模の事業ではく、裏では市や公社が後押ししたにも拘わらず、責任を負おうとしません。つまり、名古屋市が土地区画整理事業の先駆けであったが故に、その歴史と伝統に胡坐をかいてきた功罪と言えなくもありません。
名古屋市が江戸時代の城下町整備にはじまり戦災復興に至るまで、大都市に必要な装置、それも一級品を備えることができたのは、各時点での指導者の先見性と努力の賜物です。そうした過去を真摯に振り返り、将来に向けて何をなすべきかを考える時期にあるのではないでしょうか?未来は過去の延長線上にあるものではないはずです。 -
山崎川が流れる瑞穂区は名古屋市を構成する16区のうちのひとつで、市の中東部に位置します。1944(昭和19)年に昭和区と熱田区の一部が合併して誕生しました。区名の由来は区の中心部にあった「瑞穂村」の名を採ったもので、その村名は稲作地帯だったことから、『古事記』に記された日本の美称「豊葦原瑞穂国」に因んで命名されたと伝わります。
一方、「瑞穂村」の名は、1868(明治元)年に明治天皇が東京遷都のために移動されていた際、同地で収穫に励む農民を視察した随行の岩倉具視が稲穂を献上したことが由来ともされます。
瑞穂区の花・木は、共に桜です。 -
山崎川の桜の魅力としては、同じく名所とされる「名古屋城公園」や「鶴舞公園」とは異なり、周辺が閑静な住宅街のため露店の出店や宴会が禁止されている点です。心静かに川辺を散策したり、川岸に腰掛けながら純粋に桜を観賞したい方に見合うスポットであり、ゆっくり桜を愛でたい方にお勧めいたします。
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ハナカイドウ(花海棠)
バラ科リンゴ属の耐寒性落葉高木です。季節柄、桜の一品種かと勘違いしてしまいそうです。和名の由来は、中国名「海棠」をそのまま読んだもので、「棠」は梨を意味し、「海を渡ってきた梨」という意味です。中国原産で、江戸時代初期の渡来です。また、姫りんごに似た小さな赤い実は、食べられるそうです。 -
ハナカイドウ
春告げ花として新緑が目立ち始める頃、枝を埋めるようにして咲く淡紅色の花が目にも鮮やかです。
花言葉は、「温和」「妖艶」「艶麗」「美人の眠り」。「艶麗」「美人の眠り」は、唐の玄宗皇帝が楊貴妃を呼んだところ、前夜の酔いが醒めないままに、目元をほんのり赤く染めて眠そうな顔をして現れ、それを「海棠の眠り未だ足らず」と喩えたことに因みます。
また、宋代の詩人 蘇軾(東坡)が、「只、夜深く、花の睡去るを想う。高く銀の燭を焼きて汝の妝を照らす」と詠ったことから、カイドウと言えば楊貴妃、更には美人を指す代名詞になりました。中国では古来ボタンと共に愛好され、詩歌や絵画のモチーフに描かれています。
また、「カイドウの雨に濡れたる風情」とは、美人のうち萎れた姿をカイドウが雨に濡れて萎れている様に喩えたものです。春雨にこれほど似合う花はないと言われますが、残念ながらこちらも美人薄命。咲ききったあとはみるみるうちに色が褪せてしまいます。 -
石川大橋
石川大橋から上流の向田橋を望みます。
2018年、日本の桜の代表品種のソメイヨシノの起源は韓国だと言う「韓国起源説」がDNA解析で否定されました。韓国では済州島に自生する「王桜(ワンボンナム)」がソメイヨシノの起源とする説が信じられてきたのですが、自国の研究チームが「王桜とソメイヨシノは別の植物」と結論付けました。これを韓国メディアが「起源を巡る110年論争に終止符」と報じていました。
元々、ソメイヨシノは、日本固有種のオオシマザクラとエドヒガン系の桜をルーツとし、接ぎ木や挿し木で人工繁殖させたクローンであるのがDNA解析で明白だったのですが、韓国では未だに「韓国起源説」が主流だったようです。 -
石川大橋
石川大橋から下流の鼎橋(かなえはし)を望みます。
俗に言う「110年論争」とは、済州島に住むフランス人神父が1908年に王桜を採取し、それをドイツの学者がソメイヨシノの変種と報告したことが発端となった論争です。そんな折、伯仲する「110年論争」に対し、中国桜花産業協会が「桜の起源は日本でも韓国でもなく、中国だ」と冷や水を浴びせたことがあります。実は、「桜」の定義が明確でなかったことがこうした誤解を招く元凶になっています。 -
石川大橋
2019年3月、中国の桜名所の湖北省「武漢大学」に和服で花見に訪れた男性が警備員に制止されるトラブルが発生し、SNSで議論されました。 この事件は、ここの桜が日本軍の占領時に植えられたものとの誤解から生じました。実際は、自ら育てた桜木の他、日中国交回復後に日本人が寄贈した友好の花や平和の花もあります。
これを受けて中国桜産業協会は会見を行ない、「桜の起源は中国にあり、2500年余り前の東周の書物『礼記』に栽培記録が残っている。秦漢時代にはすでに宮廷に植えられていた。その後、桜は唐の時代に大いに栄え、民間にも桜を愛でる伝統があった。唐代の詩人、白居易の言葉にも出てくる。日本の権威ある著書『桜大鑑』にも『日本の桜は中国のヒマラヤ山脈を起源とする』との記述がある」と説明し、「桜を鑑賞する上で国や民族は関係ない。身なりや礼儀がしっかりしていれば、拒まれるものではない」と戒めました。
近年、中国の桜産業は急成長して栽培面積は世界一のようですが、国民の一部がそれに即した見識に追いついていないのは残念なことです。 -
「桜」は学術的にはバラ科モモ亜科スモモ属であり、多くの桜の品種を総称した名称です。しかし、一般的に言及される「桜」は、人工的に作出され、広く栽培されているソメイヨシノのような「人工の桜」を指します。これが「桜の定義」です。そのため「人工の桜」は「野生の桜」をルーツとするものの、特性は別物になります。
現生する100種程の「野生の桜」の原産はヒマラヤ山脈とされ、それが現在の日本列島をはじめ東アジアに渡ったことは確かなようですが、それは国も人もまだ存在していない数百万年も前の自然の営みであり、「野生の桜」のルーツの議論は特に意味をなさないというのが定説となっています。 -
現在見られる「人工の桜」のルーツとなる「野生の桜」は、ヒマラヤ山脈地域を原産として日本に限らず朝鮮半島、ロシア沿海州、中国大陸、インドシナ半島北部、台湾など「東アジア」に広く分布しています。つまり、生物の地理的視点からは、東アジアのどの国も「人工の桜の発祥地」を名乗る権利があるということのようです。因みに、日本では、エドヒガンやヤマザクラ、オオシマザクラなど9種類を原種としています。
桜問題が決着した今、次ぎなるパンドラの箱は「寿司の起源」でしょうか・・・。こうした事象には、正解はひとつではないことを念頭に置いた柔らかい洞察力が求められます。 -
鼎橋(かなえはし)
鼎橋の名の由来は、昭和30年代まで山崎川の西にある瑞穂公園の一角に「鼎池」という2つの池があったことに因みます。1841(天保12)年に尾張藩に提出された『北井戸田村絵図』には東の川名川(現 山崎川)の下に南北に長く鼎池が描かれ、中州によって池が2分されています。この池により水田80町歩を灌漑していたそうです。
鼎池は、江戸時代の『尾張名所図会』の版画絵「中根村鼎池堤畔の秋萩」にも描かれた名所ですが、昭和時代に瑞穂耕地整理組合の事業で埋め立てられ、現在は宅地化しており、鼎池跡には瑞穂プールが造営されています。 -
鼎橋
鼎橋から上流の石川大橋を望みます。
川岸に降りるための木造階段も備えられています。 -
鼎橋
鼎橋から下流の鼎小橋を望みます。
鼎橋~鼎小橋間は、人が密集するお花見のハイライト・エリアです。
夜桜ライトアップもこの区間で行われます。 -
3月27日は「さくらの日」だそうです。日本さくらの会が1992年に制定しました。
「さくら」と「咲く」が共に「3と9」という語呂合せ、それを掛け算して「3×9=27」、また、七十二候のひとつの「桜始開(さくらはじめてひらく)」が重なる時期であることに因みます。
古来、桜は「さ=田の神」「くら=神の宿る場所」で、稲の神の宿る木とされていました。また、桜の語源は「咲く」からきたという説もあります。
日本の歴史や文化、風土と深くかかわってきた桜を通し、日本の自然や文化について関心を深める日です。 -
石杭
鼎橋と鼎小橋の間の道端には、鼎池付近から掘り出された「従是東南鼎池地内」と刻まれた1m程の石杭が立っています。
鼎橋の命名に繋がる遺物として橋の傍らに安置されています。 -
山崎川散策路(四季の道)は、「季節感あふれる散歩道が欲しい」という区民の要望に応えて1977(昭和52)年に造られました。
石川橋~鼎橋間を「春の道」、鼎橋~左右田橋間を「夏の道」、左右田橋~可和名橋間を「秋の道」とし、それぞれの季節に咲く花木約20種類が植栽されています。 -
鼎小橋
現在の鼎小橋は1993年に改築された緩やかなアーチ構造をした風情ある木造桁橋で、下部はハの字形の支柱構造をしています。ベイマツ集成材を用い、橋長22.9m、支間22.4m、幅員2mの歩行者専用橋です。
1995年に名古屋市都市景観賞を受賞しています。 -
鼎小橋
桜の通り抜けには、石川橋~新瑞橋まで13の橋が架けられています。
橋の欄干の意匠などが違えられており、それぞれのデザインを愉しみながら橋巡りをするのも一興です。 -
鼎小橋
鼎小橋から上流の鼎橋を望みます。 -
鼎小橋
鼎小橋から下流の萩山橋を望みます。 -
鼎小橋とその下流にある萩山橋間には川岸に降りられる大階段が設けられており、そこに座って休憩することができます。
また、田辺公園には児童公園もあり、その東側には市大馬術部のグラウンドがあります。 -
川岸に降りると菜の花と桜の競演が見られます。
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桜花は、100円硬貨のデザインにもなるほど日本人には身近な存在です。では、日本の桜の代名詞となる「ソメイヨシノ」をイメージする色は何でしょうか?
一般的には「ピンク」のイメージが強いのですが、実際には思っていたよりも白っぽく感じることが多いように思います。実は桜の花びらは、開化から散るまで同じ色ではなく、咲き始めの淡紅色から白色になり、散り際には花の中心部が紅色に染まります。ですから満開間近の桜を遠くから眺めると白かピンクか微妙なラインになります。また、ピンクっぽいか白っぽいかは、その年の気候や土壌、地域、当日の天気・時間帯などによっても違うそうです。これが、桜との出会いは「一期一会」と言われる所以です。 -
TVや写真で見る桜は鮮やかで美しいピンク色を呈していますが、これらは画像処理がなされているケースが多いそうです。今回の写真もPLフィルタを装着して、不要な光の反射を除去しており、見た目より鮮やかな画像になっています。
これは「記憶色」による悪戯です。多くの人が「桜=ピンク色」とのイメージが強いため、その特徴が強調されてより鮮やかに記憶されるそうです。ですから、桜を画像などで再現する際は、ピンク色を濃くしないと桜と認識されないからです。
我々はこうしたトリックに日常的に接しているため、実物に桜に触れた時に「こんなだったっけ?」と違和感を覚えるのです。 -
萩山水管橋
「丸八」マークが入れられたブロンズのプレートです。昭和38年建設の「萩山水管橋」の文字があります。
丸八=八百屋?と勘違いしそうですが、この丸八マークは1907(明治40)年に名古屋市の徽章として制定されたものです。制定に際し、各方面に意匠を募るも適当なものがなく、最終的に尾張徳川藩の合印であった丸八印を用いることで決議されたそうです。
「丸は無限に広がる力、また八は末広がりで発展を示す」という吉兆マークであり、名古屋の歴史を重んじながらも新たな発展を期そうとの思いを込めたようです。 -
萩山水管橋
では何故、尾張徳川藩は「丸八」マークを用いていたのでしょうか?
諸説紛々ですが、主な説は次のようなものです。
1.尾張八郡(愛知・春日井・葉栗・丹羽・中島・海東・海西・知多)の八領地に由来 。
2.尾張の片仮名表記である「オハリ」の「ハ」に由来 。
3.尾張藩の腰物奉行 安部八兵衛が自分の名の「八」の字を記した提灯を常用していたことに由来 。
4.清和源氏の流れを汲む尾張藩が、先祖 八幡太郎義家の定紋「向い鳩」を象り、丸に八の字の紋を作ったことに由来。
因みに、名古屋グランパスエイトの「エイト」は、市の徽章「丸八」マークに由来したネーミングです。 -
こちらは、地下鉄「新瑞橋」駅の地下出入口付近にあったマンホールの蓋です。
中央に市章の入ったデザインは、主に英国のものを参考に考案され、やがて「東京市型」と「名古屋市型」が2大勢力を形成しました。それは、指導的な技術者がいた東京市と名古屋市を中心に普及したためで、西日本のルーツ的な存在が名古屋市の蓋とされます。
こちらは、元々は赤くペイントされていた「1989(平成元)年 世界デザイン博覧会記念」バージョンの蓋です。平成時代を通して使われた貴重な存在ですが、2003年にマンホールの蓋の耐用年数の目安が、車道部で15年、その他で30年に設定され、この蓋も近々に引退するのかと思うと複雑な心境になります。
市章「丸八マーク」は、八幡太郎義家の定紋のように2匹の鳩で「八」の字をデザインしています。市章を中心に名古屋のシンボル・スポットを表わし、左下から時計回りに「名古屋港ポートビル、トリトンの橋」、「宮の渡し(熱田神宮)、新幹線」、「名古屋城天守閣、名古屋テレビ塔」、「東山スカイタワー、東山動物園、興正寺五重塔」、「名古屋国際会議場、コンビナート」です。外周に市の花「ユリ」を置いてアクセントにし、名古屋港を模した波マークの上には太平洋フェリー(名古屋~仙台~苫小牧)と思しき船影をあしらっています。 -
萩山橋 1992年竣工
桜花の発色が鈍る特殊なケースとしては、栄養面での影響が考えられます。
例えば、秋口に暖かい日があって狂い咲きした年とか、生えている場所が大規模に掘削されてしまった、台風で枝が折れたり擦れたりしたなどの場合には、本来の色にならないことがあるそうです。これらの場合には、発色だけでなく花の数も少なくなります。今年の京阪神の桜は若干物足りなさが感じられましたが、この傾向が現れたのかもしれません。それ故に、けなげに咲く桜花がいじらしく、感情移入させられてしまうのですが・・・。 -
萩山橋
桜のトンネルを抜けると萩山橋があり、橋の欄干には可愛らしい桜のエンブレムが取り付けられています。また、橋の袂には「さくら名所100選の地」プレートがあり、平成2年3月3日と刻まれています。
かつて、この辺りには池や湿地帯が広がり、江戸時代には「秋萩」の名所として知られ、『尾張名所図会』にはその風景画が描かれており「萩山」と呼ばれていました。 -
萩山橋
萩山橋から上流の鼎小橋を望みます。
ソメイヨシノの花の色を語るには、そのルーツとなるオオシマザクラとエドヒガン系の花色からの推察が欠かせません。オオシマザクラは白、エドヒガンは淡いピンク色が基本ですから、ソメイヨシノはその中間的な花色になるのは道理です。
また、葉が展開する前に開花するエドヒガンの特徴と、大きく整った花形のオオシマザクラの特徴を併せ持ち、鑑賞用の桜としての魅力に富んでいます。 -
萩山橋
萩山橋から下流の左右田橋(そうだはし)方向を望みます。
山崎川が緩く湾曲する中にあって、植栽の角ばった剪定が良いアクセントになっています。
桜並木の背後に聳える大きな建物は、「市営新田辺壮」という大型団地です。 -
萩山橋
上の写真のズームアップです。
2018年4月13日放送、NHK『チコちゃんに叱られる!(第1回)』からのネタです。
ソメイヨシノで不思議に思うのは、春先に一斉に花を咲かせ、一斉に散るというハーモニック特性です。多少の個体差はあるものの、同じ地域であればほぼ「一斉に」という表現が可能です。
これは、植栽されているソメイヨシノのほぼ全てが接ぎ木で増殖したクローン(1個の生物から無性生殖的に増殖した生物の一群)であるためです。 -
萩山橋~左右田橋の遊歩道は、ユキヤナギの白と淡いピンクの桜のトンネルが相俟って、山崎川散策のハイライトとなります。
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この辺りには両岸に木造階段が設けられ、川岸に降りることができるポケットパークもあります。
ソメイヨシノは、「自家不和合性」という、同じ個体では受粉しても種子ができない性質を持っています。そのため、子孫を残すことができません。他の桜と交配して種を付けることも稀にありますが、それは純粋なソメイヨシノではありません。
ですから、現在植樹されているソメイヨシノは、接ぎ木や挿し木をして増殖された「クローン」しかないのです。 -
ソメイヨシノの花言葉は「優れた美人」「純潔」で、桜全般の花言葉の「優雅な女性」「優美な女性」と類似しています。つまり、ソメイヨシノが桜の代名詞であることの証左と言えます。
フランスの桜の花言葉には、「Nem’oubliez pas(私を忘れないで)」があります。愛の国フランスでは、桜の散り際の儚さやせつなさが、別れを選択した恋人たちのイメージと重なって花言葉になったと言われています。
米国の桜の花言葉は、「eminent instruction(優れた教育)」「moral beauty(精神美)」です。「優れた教育」は、アメリカ初代大統領ジョージ・ワシントンの桜にまつわる逸話が由来です。「精神美」は、日本でも使われている「精神の美」や「心の美しさ」という花言葉と同じ意味です。 -
川岸から下流の萩山橋方向を望みます。
記録にある日本最古のソメイヨシノは、菊池楯衛という人物が1882年に弘前城に植えた1000本の苗木の親となる1本の原木とされます。
2015年、ソメイヨシノの研究家 千葉大学 中村教授が、DNA解析などにより上野恩賜公園にある「小松宮親王像」の北側にある桜木を原木候補に挙げました。
ソメイヨシノの起源説には、自然交配したものを人の手で増殖した、江戸時代に染井村の植木職人 伊藤伊兵衛政武が人工交配で作出した(「染井」村の「吉野」桜)など、諸説あります。
親王像のある一角は、江戸時代には寛永寺の鐘楼堂があり、中村教授は「人為的な交配の証しが発見され、起源が自然交配とは考え難い」とし、「伊藤氏が時の権力者に睨まれないように寛永寺の境内で原木を育てた」と仮定されています。また、「原木候補がある場所は、鐘楼堂を建立するために基礎工事が施され、根が伸びない盆栽状態の可能性がある。一般的に盆栽は長生きで、手入れを怠らなければ500年持つものがある。仮説の真偽は原木候補の樹齢が鍵を握っており、その解明を待つほかない」としています。
引用した参考文献は次のものです。
http://www.tokyo-shoyaku.jp/proj/kyoshitsu/pdfs/yk2016_04.pdf -
ここには、お弁当を広げるのに丁度良いスペースがあります。散策路からは死角になっており、ここなら覗かれる心配もありません。
ただし、大きな声を出したり、宴会をするのはご法度です。 -
左右田橋(そうだはし)1936年竣工
左右田橋の名の由来は、かつては山崎川を挟んでその左右に田圃が広がっていたことに因みます。
元々は、瑞穂橋のやや上流に架けられていたそうです。 -
左右田橋
山崎川は、1930(昭和5)年に河口から左右田橋の区間が旧河川法の準用河川に認定され、1964(昭和39)年施行の現河川法に伴い、昭和40年に二級河川に指定されました。 -
左右田橋
左右田橋から上流の萩山橋方向を望みます。
2019年4月、島根大学と京都府立大学、かずさDNA研究所の研究グループがソメイヨシノの蕾の解析を行い、開花に至るまでの遺伝子発現の変化を明らかにすれば正確に開花時期が予測できると発表しました。
また、島根大学 本庄総合農場(松江市)の139品種とソメイヨシノの原木とされる上野恩賜公園の桜木の組織を採取してゲノム解析を行いました。
その結果、通説の通り、ソメイヨシノはエドヒガンとオオシマザクラを祖先に持つことが証明されました。また、エドヒガンとオオシマザクラは552万年前に異種に別れたと推定でき、この2種が百数十年前に交雑によって再び一つになることでソメイヨシノが誕生したとしています。 -
左右田橋
先ほど川岸から撮影していた場所が見えます。
背後に聳えるライト・ブルー色をした建物は、名古屋市立大学 薬学部の研究棟です。 -
パロマ瑞穂スタジアム
1941年に名古屋市瑞穂陸上競技場として竣工しました。その後、1994年から名古屋グランパスエイトのホームスタジアムとして使用されています。パロマ瑞穂スポーツパークの一角に位置し、Jリーグの歴史の中で、幾多の名勝負や名場面を演出してきたことから、「名古屋グランパスの聖地」とも称されています。収容人数は2万人と決して大きくはありませんが、歴史に彩られたスタジアムです。2026年のアジア競技大会ではメインスタジアムとなることが想定されており、これに向けた建て替えが予定されています。 -
山崎川親水広場
約1万年前の縄文時代には山崎川が瑞穂公園付近で海に流れ込んでおり、この周囲には大曲輪貝塚や下内田貝塚などの遺跡の他、おどり山古墳(村上神社)や瑞穂古墳群などが点在しています。その後、海面の後退や土砂の堆積などにより、平安時代には現在の新瑞橋付近まで河口が後退したと推定されています。
江戸時代には山崎川の下流で新田開発が進み、次第に流路が延長されました。享保年間には東隣を流れる暴れ川「天白川」の氾濫を抑えるために山崎川との間に水路が開削されましたが、これが災いして山崎川の氾濫が増えた他、天白川でも氾濫が頻発したことから寛保年間に水路は埋め戻されました。
現在の河口付近の川筋は1856(安政3)年の氷室新田の開発に伴って付け替えられたもので、それまでは現在の国道1号と交差する付近で西に向かい、当時の堀川河口の南で伊勢湾に注いでいました。昭和時代初期には市内の他の河川と共に運河化の計画がありましたが、戦後のモータリゼーションによって計画は中止されました。 -
山崎川親水広場
1995年に子どもたちが水遊びできる場所として整備された広場です。同年に名古屋市都市景観賞を受賞しています。
山崎川と言えばソメイヨシノが定番ですが、ここでは大きな2本の枝垂桜が主役の座を奪っています。
尚、親水広場の対岸には、下内田貝塚があります。 -
山崎川親水広場
広場の川岸から瑞穂橋を見上げます。
瑞穂スタジアムと瑞穂公園野球場を結ぶ架け橋です。 -
山崎川親水広場
ここでの見所は枝垂桜です。 -
山崎川親水広場 枝垂桜
少し濃いピンク色の花を付け、とても華麗です。 -
あゆちの水址
パロマ瑞穂スタジアムの東側にある丘陵を50m程登った所に「あゆちの水址」があります。尾張名水のひとつで万葉集にも詠まれた「小治田(おはりだ)の年魚道(あゆち)の水」の伝承地です。戦前のこの井戸は、日照り続きでも水が枯れることがなかったと伝えられています。
年魚道(あゆち)は「あゆち潟」に由来し、「愛知」の語源ともされます。因みに、「あゆ」とは「湧き出る」を意味する古語で、湧水が豊富な土地を「あゆち」と呼んだそうです。また、小治田は、尾張田として「尾張」の語源ともされます。 -
あゆちの水址 井戸
道路の直ぐ先に、直径1m、深さ3m程の四方を井桁石で組まれた井戸があります。
井桁石は江戸時代末期に造られたもので、四面に「あ・ゆ・ち・水」と刻まれています。 -
「あゆち水」記念碑
高さ3m程の細長い小田原市産の根府川石(輝石安山岩)に「あゆち水」と刻銘し、その下に古歌を刻んだ記念碑(歌碑)です。
碑には、「小治田(おはりだ)の年魚道(あゆち)の水を 間(ひま)無くぞ人は汲むといふ 時じくぞ人は飲むといふ 汲む人の間なきがごと 飲む人の時じきがごと 吾妹子(わぎもこ)にわが恋ふらくは やむ時もなし」(万葉集 巻13 作者不詳)と歌碑が刻まれています。
恋焦がれるせつない思いを、絶え間なく滾々と湧き出ずる、また、喉を潤す旅人の姿が絶えない「小治田の年魚道の水」になぞらえた恋歌です。 -
「あゆち水」記念碑
記念碑の背面には「昭和11年4月 横江信行建之」と刻まれ、横江氏はこの辺りの山林所有者でした。
「小治田の年魚道の水」の場所については、契沖著『万葉代匠記』などによる尾張説と沢潟久孝著『万葉集注釈』や土屋文明著『万葉集私注』などによる大和説があり、古くから論争が見られます。
しかし、『万葉集』には、「年魚市潟(あゆちがた) 潮干にけらし 知多の浦に 朝漕ぐ舟も沖に寄る見ゆ」や「桜田へ 鶴鳴き渡る 年魚市潟 潮干にけらし 鶴鳴き渡る」と詠まれています。これらから、「年魚市潟」と呼ばれる干潟を迂回するように旧東海道の前身となる、源義経や頼朝、織田信長、徳川家康も駆け抜けた鎌倉街道が通され、鎌倉時代までは「年魚市潟(=鳴海潟)」が熱田~鳴海間の伊勢湾岸一帯に広がっていたと考えられています。
また、瑞穂台地の縁辺部に位置する井戸田(瑞穂区井戸田町)や八事丘陵の縁辺部に位置する琵琶ヶ峰(瑞穂区師長町)の一帯は豊富な地下水に恵まれ、古い泉の痕跡が幾つも存在します。
こうしたことから、現在はこの地が有力と考えられています。
この井戸そのものは万葉の時代からのものではありませんが、万葉集が詠まれた時代には瑞穂スタジアムのすぐ南側には海が広がっており、かつては豊富な水が湧き、旅人たちの喉を潤していたことは想像に難くありません。 -
あゆちの水址 「琵琶峰」の石碑
あゆち水のある雑木林の片隅には、井戸田荘に流罪となった藤原師長(もろなが)が、この地で琵琶を弾じて京を偲んだとの言い伝えに因む「琵琶峰」と刻んだ石碑があります。かつての景勝地「琵琶ヶ峯」の丘陵は都市開発で姿を消しましたが、石碑だけが峯を偲ぶよすがとなっています。
師長は、1192(建久3)年に55歳の生涯を閉じた際、法名を「妙音院」と号されています。また、石碑と井戸のある師長町は師長の名に因んだもので、1932(昭和7)年に南区弥富町字下山・片手・吾湯市・市ノ正の一部が合弁して成立しました。
1179(治承3)年、平清盛のクーデターで後白河法皇は鳥羽殿に幽閉され、近臣の太政大臣 藤原師長は尾張国井戸田荘の田嶋に流罪になりました。師長は琵琶の名手で今様に堪能であり、配流の1年有余の朝夕に鳴海潟を眺めながら琵琶を弾じて京を偲んだと伝わります。また、その音色が熱田神宮の御前まで響き、宝殿が大いに震動したとも伝わります。
因みに、『尾張名所図会』の「師長公謫居の図」には、海辺の東屋で琵琶を傍らに置いて寛ぐ姿が描かれています。 -
あゆちの水址 道標石仏
道の角には、「右いし坂道、左なご屋道」と刻まれた道標石仏が寡黙に佇みます。 古い道標は、このように石仏に道標銘が刻まれていることがあります。
流刑された藤原師長は、近所の龍泉寺を度々訪れるようになり、やがて出家して仏門に入り、法名「理覚」を授かりました。その後、身の周りの世話をした井戸田壮の村長 横江深光の娘 槐女と契りました。その翌年、突然の清盛の死で帰洛の途に着く際、別れを惜しんで土器野里(かわらけのさと=西枇杷島)まで見送った娘を不憫に思い、大切にしていた「白菊」の銘のある琵琶を形見に授けました。しかし娘は、悲嘆の末に「四つの緒の 調もたえて三瀬川 沈み果てぬと 君に伝えよ」の一首を琵琶に書き付けて傍の池に身を投げました。それを知った師長と土器野里の村人たちは、娘を弔うために「清音寺」を建立して冥福を祈りました。寺号は娘の法号「清音院松月麗照大姉」に因みます。
後日談もあります。「白菊の琵琶」は幻の琵琶と言われて熱田神宮から尾張徳川家に伝承され、その後、焼失したと伝わっていました。しかし、2010年に宮内庁三の丸尚蔵館に所蔵されていることが判り、徳川美術館へ150年ぶりに里帰りしたそうです。 -
瑞穂橋
パロマ瑞穂スタジアム前に架けられた橋です。
近代的なメタリック・ウェーブ・デザインの橋ですが、ネット上にも詳しい情報はありません。
せっかく13の橋がそれぞれユニークな意匠を持つのに、意匠にまつわるストーリーを詳らかにしないのはもったいないことだと思います。
例えば鬼怒川温泉のような「橋巡り」を参考にされれば、インバウンドも集客できるのではと期待します。 -
瑞穂橋
瑞穂橋から下流の可和名橋(かわなはし)方向を望みます。
2016年には、シベリアやロシアに生息する渡り鳥で、日本では滅多に見られない「オガワコマドリ」の越冬が山崎川で観察されました。TVや新聞等でも紹介されて山崎川の名は一躍全国区になりましたが、越冬後は繁殖のためシベリア等へ渡ったと考えられています。 -
パロマ瑞穂スタジアム
大曲輪貝塚は、1939(昭和14)年に現パロマ瑞穂スタジアムの建設の際に発見され、その2年後に国の史跡に指定されました。また、山崎川の対岸で発見された下内田貝塚も同じ集落に含まれると考えられています。
大曲輪貝塚 では、1980(昭和55)年の瑞穂陸上競技場改築工事の際、縄文時代の人骨がほぼ完全な形で出土し、その実物は名古屋市博物館に展示されています。 -
可和名橋手前の川岸から瑞穂橋方向を望みます。
現在は村上神社が建てられている「おどり山古墳」は、昭和元年の調査で5世紀半ばに築造された直径40m、高さ4m、周湟幅2mの円墳と報告されています。また、須恵器が採取されていることから、この周辺地域は古墳時代の集落地跡であったと推定されています。
一方、6~7世紀の築造と推定される「瑞穂古墳群」は、 かつては4基の円墳が50m間隔で存在し、瑞穂古墳群第1号墳(豊岡小学校)以下の3つの古墳を地元では「3つ塚」と呼んでいました。
しかし、時代と共に開発が進み、第3号墳(野球場外野スタンド周辺)と第4号墳(第2号墳近くの植林内)は消滅し、現存するのは瑞穂古墳群第1号墳、第2号墳(南児童遊園地北)の2基になっています。 -
可和名橋1974年竣工
山崎川を地形で語れば、上・中流域は八事丘陵の南西部と熱田台地の間を流下し、この可和名橋付近から下流は濃尾平野の沖積低地を流れています。
八事丘陵は洪積世に堆積した海性の地層とされ、その後の海退や侵食により現在の地形が形成されました。地質的には砂礫を中心とした地層であり、瑞穂グラウンド付近では厚さ約35mまで堆積し、南西に向けて傾斜しています。
一方、右岸側の熱田層は、時代としては八事層よりも新しく、海抜10~20mの平坦な台地です。地質的には、砂と粘土層の互層で全体の厚さは最高60mに達しています。 -
可和名橋を潜った先の下流はラバー堰になっており、菜の花の密集地帯です。
ソメイヨシノは、開花時期に葉が目立つ感染症「てんぐ巣病」に罹り易いそうです。また、近年、老齢化と共に外来種のクビアカツヤカミキリの幼虫が幹の内部を食い荒らし、枯れる被害が拡大しています。更に、枝に瘤ができる新異変も見つかり、枝を切る対策が進められています。原因は不明で、今後、深刻化する可能性もあります。
このように、クローンの最大の弱点が、1つの病虫害によりパンデミックに陥りかねないことです。そこで、桜の多様性により被害拡大を防ごうと、「日本花の会」は長年続けてきた「ソメイヨシノ」の苗木の配布を「神代曙(あけぼの)」に変更しています。
生活環境面からもソメイヨシノ離れが止まりません。ソメイヨシノは、枝が張って通行や信号機の邪魔になります。こうしたことの対策として、横浜市の桜並木では、枝が上に伸びて邪魔にならない「ヨウコウ」に植え替えられました。他の地域でも街路樹を中心に、植え替えが進められています。今後、桜の多様化が進めば、日本の春の風景も一変するかもしれません。ソメイヨシノが絶滅危惧種に指定される日もそう遠くないのかもしれません。 -
タンポポが寄り添うように咲いています。
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可和名橋
可和名橋から上流の瑞穂橋方向を望みます。
ソメイヨシノが全国的に植樹されたのは、太平洋戦争終結を機に「戦後の日本のシンボル」として焼野原に苗木を植えたことが始まりです。つまり、戦後直ぐに植樹されたものは74歳になります。
一方、ソメイヨシノの平均寿命は60年と言われており、全国規模で死滅が報告されています。しかし、例外もあり、弘前公園にあるソメイヨシノは樹齢137年です。その長寿の秘訣は、枝の先端に墨汁を塗って殺菌することだそうです。これは青森のリンゴ栽培の知識を生かした技法だそうです。雑菌による病気の他、根元を踏んだりすると木が弱わり、飲み物や調味料などをこぼすとそれを根が吸収して寿命を縮めるそうです。他にもバーベキューの煙やゴミの不法投棄による土壌汚染なども寿命を縮める要因だそうです。
つまり、山崎川周辺での宴会禁止は理に適っていることになります。 -
可和名橋
可和名橋から下流の山下橋方向を望みます。この辺りは菜の花が川縁に連なっています。
「菜の花」は、アブラナ科の植物の花を総称した呼び名です。ですから、スーパーに並ぶ食用のものと、河川敷に生えるものは種類が異なります。いずれもアブラナ科ですが、スーパーなどに並ぶ菜の花は食用に品種改良されたものであり、河川敷に咲く菜の花は「セイヨウアブラナ」あるいは「セイヨウカラシナ」という種類です。
因みに、菜の花はその景観の美しさから春の訪れを象徴する風物詩として好意的に受け止められていますが、腐植土化により堤防を弱体化させる恐れがあることが判ったため、こうした川縁以外ではご法度だそうです。晩秋に土中でカブ状の根を形成させ、その養分を利用して越冬します。やがて根が腐食し、経年に亘り土壌の腐植土化が進んで軟弱化するというメカニズムです。また、腐植土化によりミミズが増殖し、それを捕食するモグラの増殖に伴うモグラ穴が増加するといった例が報告され、『河川砂防技術基準』でも堤防法面の維持管理に注意を要すると記されています。 -
山下橋 1969年竣工
中央に見える高い建物は、落合橋近くにある「グランスイート新瑞橋」という高層マンションです。
可和名橋より下流は次第に川幅が広くなり、新瑞橋付近(河口から約5.6km)で約30m、河口付近では75m程となり、市街地にあって貴重な広がりのある空間を構成しています。 -
山下橋
山下橋から上流の可和名橋方向を望みます。 -
山下橋
可和名橋は淡いピンク色の雲霞に包まれています。
橋の淡いブルーのラインが良いアクセントになっています。 -
山下橋
山下橋から落合橋方向を望みます。
山下橋のすぐ下流の川縁にあるのが、「山崎川山下橋広場」です。また、遥か先に見えるのが落合橋で、新瑞橋バスターミナルの近隣に架けられています。
藤原師長と槐女がこの落合橋の袂で「落ち合った」という伝承があり、橋の名の由来になっています。2人は、ここから左右田橋まで進み、そこにあった高台「琵琶ヶ峯」から京都の方角を眺めながら琵琶を弾いていたそうです。 -
落合橋を渡って山崎川沿いを進むと、菜の花の群落が見られます。
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比較的大きな花弁が固まって咲き、葉も丸っぽい形のため、セイヨウアブラナと思われます。
セイヨウアブラナは、越年生一年草で、食用油の原料として世界中で広く栽培されています。原産は北ヨーロッパからシベリアにかけての海岸地帯で、日本には明治時代初期に栽培用として導入されました。
在来種と比べ収量が多いために全国的に栽培が奨励され、油料系植物としてはほぼ在来種と置き換わっています。現在、「ナタネ」と呼ぶ場合はセイヨウアブラナを指し、草丈は30~150cmになります。 -
新瑞橋(あらたまはし)
新屋敷村と瑞穂村との間に架けられた橋のため、両方の村名「新」と「瑞」を採って「新瑞橋」としたと伝わります。
「新瑞」は、名古屋市の中心部のやや南東寄りに位置する、新瑞橋交差点を中心とするエリアです。「新瑞」という正式な地名はなく、また交差点名や駅名は「新瑞橋」ですが、地元ではこの地域一帯の通称として「新瑞」と呼んでいます。 -
新瑞小橋
「山崎川鳥撮会」の記録資料によると、主として繁殖のために日本より南の国から渡ってきて、夏を日本で過ごし、繁殖期が終わると再び越冬のために南の国に渡って行くツバメ、アマサギ、オオルリ、キビタキ、クロツグミ、ハチクマ、サシバなどの「夏鳥」が観測されています。
また、越冬のために日本に飛来し、冬が終わると再び繁殖のために北の国に渡るツグミ、ジョウビタキ、ユリカモメ、マガモ、オオハクチョウ、マナヅル、オオワシなどの「冬鳥」も確認されています。また、主として移動時期である春と秋に見られるシギ、チドリの仲間に多い「旅鳥」など年間約100種類ほどが確認されています。 更には、瑞穂公園付近を中心にカワセミやセグロセキレイの繁殖も確認されています。
生物多様性の観点からも、人間と自然の共生の場としての良好な河川環境及び景観の整備が今後期待されます。 -
新瑞小橋
川面には大きな鯉の魚影が見られます。
魚類の生息状態については、「山崎川グリーンマップ」の生き物観察会等の調査によると、在来種のオイカワ、スミウキゴリ、ドジョウ、ギンブナ、ボラの幼魚、マハゼなどの他、貴重種のナマズ、タモロコ、カマツカなども確認されていますが、上流部は河床幅が狭いことから瀬や淵が発達せず、多様性に欠しくなっているとの報告があります。
一方、カダヤシ、ブルーギル、オオクチバスなどの外来種も確認され、ミシシッピーアカミミガメの生息域の拡大や移入種のコイが繁殖して大型化し、在来種の生態系を脅かしつつあるとの報告もあります。 -
新瑞小橋
山崎川は、近年に至るまできれいな水質が保たれ、かつては醸造用水にも使われるほどでした。大正時代初期までは新端橋付近までシラスが上ってきたと言われ、シジミが獲れ、特にシジミは「山崎蜆」といわれ有名でした。しかし、高度経済成長期には排水などにより水質が悪化し、新瑞橋周辺は悪臭のする水が澱み、大きなドブ川に化しました。その後、下水道の改善や汚染防止の努力が実り、1970(昭和45)には再び魚影が見られるようになりました。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。
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