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■18世紀末のロシアバレエ<br /><br /> 17世紀から18世紀にオペラや演劇と独立して芸術の一つとして形成しはじめたロシアバレエは、18世紀から19世紀にかけて、いっそう発展し始めます。<br /><br /> ロシア国内では自国文化への熱が高まり、学問、美術などのアカデミーができ、劇場でも若い才能が生まれ、育てられました。モスクワ、ペテルブルグでは、一般大衆向けの劇場でも帝政劇場とほぼ同じようなオペラやバレエ、演劇のレパートリーを持ち、ステージ上では振付家や演出家は皆こぞって西欧の様式を模倣しました。彼らはその時代のアイデアをとり入れ、古いものを革新し、独自に新しいものを探求しました。ロシアのバレエ劇場が後に世界で最も素晴らしい劇場の一つとして花開くための基盤がこの時代に作られたといえます。<br /><br /> 19世紀はじめに、ロシアバレエの振付家はイタリアとフランスの2つの舞踊スタイルを統合した演技スタイルを確立しはじめました。イタリア派もフランス派もパントマイムや動作や踊りで感情や状況を表現することに非常に長けていました。どちらも大きく空間を使い、正面を向いたり観客に向かって様々な角度でポーズをとるパントマイムは同じでした。ただ、イタリア派とフランス派ではその舞踊スタイルが違っていました。<br /><br /> イタリアではアクロバットの基礎をとり入れた回転やジャンプ等を用いた妙技が発達していました。フランスではアダージオでの滑らかさ、アレグロでのピルエット(回転)や空中で足を打ちつけるジャンプの時の軽く気取った表現など、流れるような動きに秀でていました。<br /><br /> 当時はイタリアもフランスも有名なバレリーナがいたにもかかわらず、男性パートを第一に振り付けられていました。<br /><br /><br />■シャルル・ルイ・ディドロ<br /><br /> ディドロはストックホルム生まれのフランス人で西欧で活躍した後、1810年に指導者としてペテルブルグに渡り、19世紀はじめにロシアバレエ界のリーダーを務めました。才能豊かなディドロの指導の下でロシアバレエは大きな飛躍を遂げました。ディドロはまずダンサーの育成に力を注ぎ、バレエ学校を改革し、外国人ダンサーに頼らなくても公演ができるようにロシア人ダンサーのレベルを引き上げ、育成する生徒と帝室バレエ団員の数を増やしました。当時のバレエ改革者たちの「バレエは芝居である」という理念はディドロの基本テーゼでもありました。しかしまた「舞台は日々の人間の生活の反映に他ならない」とも考えた彼はペテルブルグの先進的な芸術家たち、デカブリスト、特に詩人プーシキンに影響を受けます。<br /><br /> 彼はパントマイムでドラマを作るそれまでの手法とは異なり、美しいダンスとパントマイムによってドラマを表現し、その後ロマン主義バレエで大流行したワイヤーによる飛翔などのトリックをとり入れました。また彼のワイヤーで吊っての爪先立ちがバレエ独特の爪先立ちの踊りの元になったと言われています。ロマン主義バレエの代名詞にもなった透けた軽やかな衣装とタイツも早期に使用していました。<br /><br /> ディドロはこの他メロドラマなどの創作法をとり入れて感動的ドラマを演出し、ダンサーの演技を重要視し、プーシキンも自書「エフゲーニー・オネーギン」のなかで称賛するイストーミナ他の優れた女優(俳優)ダンサーを育てあげました。ディドロはこのとき既にロマン主義時代の大きな特徴である女性舞踊手中心のバレエを創作していました。

ロシアバレエの歴史

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2003/06/01 - 2003/06/01

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JIC旅行センター

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■18世紀末のロシアバレエ

 17世紀から18世紀にオペラや演劇と独立して芸術の一つとして形成しはじめたロシアバレエは、18世紀から19世紀にかけて、いっそう発展し始めます。

 ロシア国内では自国文化への熱が高まり、学問、美術などのアカデミーができ、劇場でも若い才能が生まれ、育てられました。モスクワ、ペテルブルグでは、一般大衆向けの劇場でも帝政劇場とほぼ同じようなオペラやバレエ、演劇のレパートリーを持ち、ステージ上では振付家や演出家は皆こぞって西欧の様式を模倣しました。彼らはその時代のアイデアをとり入れ、古いものを革新し、独自に新しいものを探求しました。ロシアのバレエ劇場が後に世界で最も素晴らしい劇場の一つとして花開くための基盤がこの時代に作られたといえます。

 19世紀はじめに、ロシアバレエの振付家はイタリアとフランスの2つの舞踊スタイルを統合した演技スタイルを確立しはじめました。イタリア派もフランス派もパントマイムや動作や踊りで感情や状況を表現することに非常に長けていました。どちらも大きく空間を使い、正面を向いたり観客に向かって様々な角度でポーズをとるパントマイムは同じでした。ただ、イタリア派とフランス派ではその舞踊スタイルが違っていました。

 イタリアではアクロバットの基礎をとり入れた回転やジャンプ等を用いた妙技が発達していました。フランスではアダージオでの滑らかさ、アレグロでのピルエット(回転)や空中で足を打ちつけるジャンプの時の軽く気取った表現など、流れるような動きに秀でていました。

 当時はイタリアもフランスも有名なバレリーナがいたにもかかわらず、男性パートを第一に振り付けられていました。


■シャルル・ルイ・ディドロ

 ディドロはストックホルム生まれのフランス人で西欧で活躍した後、1810年に指導者としてペテルブルグに渡り、19世紀はじめにロシアバレエ界のリーダーを務めました。才能豊かなディドロの指導の下でロシアバレエは大きな飛躍を遂げました。ディドロはまずダンサーの育成に力を注ぎ、バレエ学校を改革し、外国人ダンサーに頼らなくても公演ができるようにロシア人ダンサーのレベルを引き上げ、育成する生徒と帝室バレエ団員の数を増やしました。当時のバレエ改革者たちの「バレエは芝居である」という理念はディドロの基本テーゼでもありました。しかしまた「舞台は日々の人間の生活の反映に他ならない」とも考えた彼はペテルブルグの先進的な芸術家たち、デカブリスト、特に詩人プーシキンに影響を受けます。

 彼はパントマイムでドラマを作るそれまでの手法とは異なり、美しいダンスとパントマイムによってドラマを表現し、その後ロマン主義バレエで大流行したワイヤーによる飛翔などのトリックをとり入れました。また彼のワイヤーで吊っての爪先立ちがバレエ独特の爪先立ちの踊りの元になったと言われています。ロマン主義バレエの代名詞にもなった透けた軽やかな衣装とタイツも早期に使用していました。

 ディドロはこの他メロドラマなどの創作法をとり入れて感動的ドラマを演出し、ダンサーの演技を重要視し、プーシキンも自書「エフゲーニー・オネーギン」のなかで称賛するイストーミナ他の優れた女優(俳優)ダンサーを育てあげました。ディドロはこのとき既にロマン主義時代の大きな特徴である女性舞踊手中心のバレエを創作していました。

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