2016/05/12 - 2016/05/12
1位(同エリア6件中)
junemayさん
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2016年5月8日から6月10日までの1か月ちょっと、スペインとポルトガルを一人旅しました。もう2年以上経ってしまったけれど、思い出しながら綴っていこうと思います。
スペインは言わずもがなカトリックの国です。イタリアで教会の素晴らしさを知ってしまった私にとって、今回の旅の目的は、1.教会を訪れること、2.美術館で絵を眺めること そして最終目的地をサンチャゴ・デ・コンポステーラにすること でした。特定の宗教を信仰しているわけではありませんが、神を畏れ、神を敬うことによって、人間達が生み出した様々な創作物・文化を心より愛してやみません。
古来より何百万もの人々が時に命さえかけて目指したコンポステーラの町、そしてその道中(El Camino)は宗教観が異なる者にとっても大変魅力的でした。可能であれば長い巡礼の道を歩いて行きたかったのですが、体力的にバックパッカーは難しい。でも、徐々にコンポステーラに近づくことによって、巡礼者の気分を少しだけでも味わいたいという、無理難題、大変我儘な希望を叶えるために、作成したのが、な~んちゃって、コンポステーラ! 巡礼者の方には合わせる顔がないのですが、以下のようなプランが出来上がりました。
今回の旅はスペインの後、ポルトガルへと続いたのですが、私の頭の中では旅は一旦サンチャゴ・デ・コンポステーラでお終い。そこからまた新たな旅が始まったと思っています。こじつけ、そして自己満足の塊のような旅となりましたが、よろしければお付き合いください。
日程表 スペインの部
5月8日(日) 東京→マドリッド
5月9日(月) マドリッド
5月10日(火) マドリッド(セゴビア)
5月11日(水) マドリッド(アヴィラ)
5月12日(木)★ マドリッド(エル・エスコリアル)
5月13日(金) マドリッド(アルカラ・デ・エナーレス)
5月14日(土) マドリッド→ブルゴス→ビルバオ
5月15日(日) ビルバオ
5月16日(月) ビルバオ(サン・セバスチャン)
5月17日(火) ビルバオ(ヴィトリア)
5月18日(水) ビルバオ→オヴィエド
5月19日(木) オヴィエド
5月20日(金) オヴィエド→レオン
5月21日(土) レオン
5月22日(日) レオン→アストルガ→レオン→サンチャゴ・デ・コンポステーラ
5月23日(月) サンチャゴ・デ・コンポステーラ
5月24日(火) サンチャゴ・デ・コンポステーラ
5月25日(水) サンチャゴ・デ・コンポステーラ(→ポルトガル ポルト)
マドリッド滞在も早くも5日目です。今回、ラフなプランではマドリッド滞在中にセゴヴィア、アヴィラ、エル・エスコリアル、クエンカに行く予定で、そのために3日間エクスカーション・デイをとっておいたんですが、それも今日もお終い。ということはクエンカはまたしてもお預け? 実は2010年にスペインを訪れた時にも、クエンカは涙を呑んで諦めた場所。日帰りではちょっときついスケジュールになるんですよね。現地滞在時間が2時間とかだと、私の場合、お話になりません。と言うわけで、クエンカと比べたらかなり期待値的には低いエル・エスコリアルを選んだ私の心境はいかに?
答えは簡単です。近いから・・・
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 高速・路線バス 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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今日は、一昨日セゴヴィアに行くときに使ったモンクロア・バス・ターミナルからエル・エスコリアルへと向かいます。バスの便数はとても多く、毎時2本位はありました。
車窓からの景色。藤の花に石垣、そして電信柱・・・でもここは日本ではありませんよ! -
ヴァルマヨール貯水池を過ぎると、直にエル・エスコリアル到着です。約1時間10分のたびでした。
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ターミナルの正式名称は、サン・ロレンソ・デ・エル・エスコリアルでした。
サン・ロレンソとは、イタリアではサン・ロレンツォと呼ばれていた「ローマのラウレンティウス」。3世紀の人で、ローマの・・とあるのでてっきりローマ人なのかと思っていましたが、なんとスペイン生まれの聖人でした。生きながら鉄格子で焼かれ殉教したため、彼は鉄格子を手にした姿で良く描かれます。
修道院はこの聖人サン・ロレンソに捧げられたものだったんですね。 -
バス・ターミナルからなだらかな傾斜のある歩道橋を上り、修道院に向かいます。歩道橋の上の道を右に折れて、パトリアルカ通りを直進すれば、修道院まではほぼ一直線です。
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方向指示板があるので迷いません。
地図を見て、この方向指示板を見て、そう思ったのですが、実は少し迷いました。
てへっ! 道が真っ直ぐではなく、微妙にカーブしているんです。 -
今日のお天気もイマイチ。どんより曇っていて、肌寒く感じられます。相変わらず厚着の人が多いですねえ。
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ちょっとユーモラスな印象のあるこの像を過ぎると、修道院は直です。
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ここは、ハシント・ベナヴェンテ広場と言う名の公園。ここを通り抜けるのが近道でした。
ハシント・ベナヴェンテは19世紀から20世紀にかけて活躍したスペインの人気劇作家で、1922年にノーベル文学賞を受賞しています。上の写真は、彼の代表作Los intereses creados (既得権益)の主人公クリスピンの像だそうです。 -
行く手に、エル・エスコリアル修道院が見えてきました。今調べてみたら、バスターミナルから徒歩でここまで8分でした。そう遠くない距離ですね。しかも迷いながら・・・
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ちらっと横の通りを眺めると、エル・エスコリアル門前町のメインストリートが広がっていました。この時間帯は人通りもなく、閑散としていました。
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ここから階段を下りていきます。
王立修道院というものは、今まであまりなじみがなかったのですが、フランス、スペインには多く見られます。今回のたびでは、いくつ訪れたことか・・・修道院と言う呼び名よりも、王家の庇護を受けた、王族たちの隠遁所、聖域、そして墓所の役割を担っている場所と言う方が分かりやすいように感じます。 -
ここに実際来るまで、単に修道院だと思っていたエル・エスコリアルも実は 王宮、聖堂 、墓所(パンテオン)、 図書館 、神学校、科学研究所、そして修道院がある複合施設でした。驚くことに、その殆どはいまだに現役だそうです。
両親とは別の墓に葬られたいとの遺言を残して亡くなったスペイン王カルロス1世の息子フエリペ2世により、1563年から1584年の間に建てられました。
建物を設計した建築家ファン・デ・エレーラは16世紀の最も優れたスペイン建築家の1人で、スペインにおける建築ルネサンスの頂点を極め、後にはエレーラ様式と称されるようになりました。彼はアラン・フェスの王宮、ヴァリャドリッド大聖堂なども手掛けています。 -
あまり長くて、パノラマ写真でないと全景が入らない、エル・エスコリアルです。何せ207m x 161mあるんです。こちらは右半分。コーナーに建つ塔の高さは55mあります。
空から見ると、四角い鉄格子を組み合わせたような形で、これはもちろん、サン・ロレンソのアトリビュート「鉄格子」を意識して建てられたものだそう。 -
内部はなぜか撮影禁止のため、紹介することが出来ないのがとても残念。2年以上前の訪問なので、私の記憶も薄れていますが、この日の日記には、「クエンカをやめてエル・エスコリアルにして正解。ナポリのカゼルダ宮殿とも通じるものがあって、とても面白かった」とあります。要は自己満足なのですが。
前述のカルロス1世からスペイン王家は150年続くアブスブルゴ朝。つまりハプスブルグ家の王朝で、この頃のスペインは神聖ローマ帝国だけでなく、ミラノ公国、ナポリ公国、シチリア公国、サルジニア、ネーデルランド、フランスの一部、更にポルトガルまで領土を広げ、海外に植民地を多数有するという巨大国家でした。ハプスブルグ家の後にはボルボン(ブルボン)王朝が100余年続くのですが、エル・エスコリアルはこの二つの王朝の王たちの宮殿そして墓所なのです。
エル・エスコリアル内部にある厳格なアブスブルゴ宮殿とは雰囲気がガラッと異なるボルボン宮殿は、ナポリ近郊のカセルダ宮殿の建設を命じたボルボン朝カルロス3世がリフォームしたと聞きましたから、雰囲気が似ているのは当然と言えば当然ですね。 -
この時、エル・エスコリアルでは没後500年を記念した、スペインでは「エル・ボスコ」と呼ばれているヒエロニムス・ボスの展覧会が行われていて、フェリペ2世の貴重なコレクションを鑑賞することができたのですが、これらも全て撮影禁止!
右側にあるロヒール・ファン・デル・ウェイデンの「エル・カルヴァリオ」と呼ばれる有名なキリストの磔図も、フェリペ2世のコレクションの一つ。磔台のキリストを見上げる苦悩のヨハネがアップされていました。こちらは絵画館にありますよ。 -
装飾は絵だけで、ちょっと寒々しいエル・エスコリアルの廊下です。
自身がそのベッドで最後を迎えたという、フェリペ2世のアパートを始めとする彼のコレクション満載のアブスブルゴ宮殿。意外にも質素で、素晴らしいタペストリーのコレクションがあるボルボン宮殿とは大違い。比較すると面白いです。 -
見学途中に唯一撮ることができた、美しい中庭の1枚。建物の先には何もなく、小高い山が間近に迫っていました。Sierra de Guadarrama山脈のアバントス山麓に位置するそうです。
良く刈り込まれた庭は北ファサードに隣接していて、「修道僧たちの庭園」と呼ばれていました。 -
窓ガラスは、歪んで見える古いものを使用していました。
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ここからは、ネットから写真をお借りしています。
こちらは、王たちのパンテオンに続く階段。ここを下りていくと、過去5世紀の、フェリペ5世とフェルナンド7世を除くスペイン王たちの埋葬地が現れます。 -
恐ろしく長い回廊。「福音記者たちの回廊」と呼ばれている部分です。壁と言う壁には宗教画のフレスコ画が描かれていました。その数全部で62枚。
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こちらは廊下のコーナー部分の絵画です。中央の角、絵画の脇には、エルサレムにロバに乗って入城するキリストの姿がありました。
絵画はティバルディ、カンビアッソ、カルバハル、シンシナト、バロッソらのオリジナルだそうですが、クレジットがないので分からないわ。 -
角を曲がっても、壁画は延々と続きます。上の写真の続きで、今度は弟子の足を洗うキリストの姿がフレスコで描かれていました。
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修道院部分一番の見どころは メイン階段の天井です。イタリアの建築家ジャンバッティスタ・カステッロ通称イル・ベルガマスコの設計で、天井部分のフレスコ画は17世紀になってからルカ・ジョルダーノが手掛けました。ペッレグリーノ・ティバルディと書いてある資料もありますが、共作だったのかなあ・・・
タイトルは「スペインにおけるハプスブルグ家の栄光」。大迫力で迫ってきます。 -
ようやく外に出たと思ったら、ここが「王たちの中庭」と呼ばれるバシリカ前の広場でした。
この写真はバシリカのファサードの対面に当たる部分で、三つの大きなアーチのある建物内に世界で最も重要な歴史図書館の一つと言われるRegia Laurentinaがあります。ローレンティーナ王妃と名付けられたこの王立図書館には15世紀から16世紀にかけての45000冊の印刷物と、アラビア語、ラテン語、スペイン語で書かれた5000点にも及ぶ原稿が収蔵されています。
図書館もまた豊かなフレスコ画で彩られています。ここの天井画はティバルディが中心でした。 -
こちらが、バシリカのメインファサード。シンプルなファサードですが、上方にはユダヤの王たちの像が立っていました。
左からユサのヨサパテ、ヒゼキヤ ダビデ、ソロモン、ヨシヤ、マナセの順番です。実は中央の二人ダビデとソロモン以外名前を知りません・・・ -
先ほど訪れた王たちのパンテオンは、このバシリカの真下に当たるそうです。
左右に二つ聳える鐘楼の高さは72mだから、先ほど建物の正面から見えた四隅の塔よりかなり高いですね。ここからは見えませんが、バシリカ奥にあるドームの高さは92mもあるそうですよ。 -
これが噂の聖ロレンツォの鉄格子だったかしら? 格子状になっていないので、間違っているかもしれません。聖人は鉄格子の上で火あぶりにされたと言われています。
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バシリカはギリシャ十字形。全部で45もの祭壇がある大きな聖堂でした。覚えているのは、画家フェルナンデス・ナヴァレッテらの手による二人ずつ描かれた聖人達の絵画、各人ヤシの葉を携えていたので殉教者であることが分かりました。チェッリーニ作の美しい大理石製の磔像、そして鈍い銅色の柱が印象的だった主祭壇位でしょうか。
写真がないと、あっという間に忘却の彼方。個人的な記録によれば、内部見学に2時間半を費やしていますので、じっくり見たのだろうと思っています。 -
あっというまに外の世界に戻って参りました。バスターミナルからの最初のアプローチで見たエル・エスコリアルは北側部分でしたが、バシリカから真っ直ぐに続く「王たちの中庭」を抜けるとこちらの中央扉から外(西側部分)に出ることが出来ます。
ここで初めて、この東西サイドが建物の長い方の辺だったことに気が付きました。207mある方です。とにかく馬鹿でかいという印象。 -
西側道路から見たエル・エスコリアルです。
中央には立派なファサードがあり、紀元前10世紀にソロモン王がエルサレムに建設した神殿(ソロモン神殿)を真似て作られたと言われています。だから、バシリカではソロモン王やダビデ王がファサードで出迎えてくれたんですね。 -
道路を挟んで、修道院と対面する長い建物。多分こちらもエル・エスコリアルの一部なのでしょう。窓はあるのですが、1階部分に扉がなく、他に何の表示も見当たらないので、殆ど壁と化しています。
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1枚上の壁のような建物ぎりぎりまで下がっても、高角レンズでないと全景は写せませんでした。街路樹が芽吹いたばかりで、とても美しい薄緑色をしていました。少しだけ春の訪れを感じることができましたよ。
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もう一度ファサードを眺めてから・・・
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今度は南側にあるゲートをくぐります。ここがエル・エスコリアルの複合施設への正式な門なのかしら? 建物についての言及は数多くあるのに、ゲートについては皆無でした。
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ここまで来てもまだ全景が捉えられません。道はかなりの下り坂。
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南門を外側から眺めた1枚。
おっとっと! 車がやってきますね。ここって車道の真ん中だったんだぁ! -
建物の南側ファサードを見ようと近づいて行くと、大きな貯水池が目の前に。その向こうにはなだらかな緑の丘陵地帯が広がっていました。
完璧なる田園風景かな・・・ -
これじゃあ近づきすぎだから、もう少し離れて見てみましょう。
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まだまだ・・・
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ううん、灰色の雲がちょっと邪魔ですね。青空が欲しかったな。ここまで来てようやく、大聖堂(バシリカ)の一番高いドーム(92m)が姿を見せてくれました。
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イチオシ
いやあ、実に美しい! エル・エスコリアルの端から端まで、ようやく写すことが出来ましたよ。
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道路の反対側はアドルフォ・スアレスの名前がついた公園になっていました。アドルフォ・スアレスってご存知ですか? マドリッドのバラハス空港の正式名はアドルフォ・スアレス・マドリッド・バラハス空港です。1975年、フランコが亡くなった後のスペインの民主化期(76年~81年)に首相を務めた方ですって。
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つばのない帽子をかぶり、首に輪っか(襟ですかね)をはめ、スクロール(巻紙)を携えた人が座っていましたが、どなたでしょう?
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談笑する一組以外には誰もいない、静かな公園でした。もう少し暖かかったら、ここでピクニックが出来そうです。
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まだ見ていない東側に廻ろうと思ったけれど、歩く距離が結構ある割には報われないような気がして却下。修道僧たちの庭園をもう一度見れば良かったかも。
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エル・エスコリアルの北西部に当たる部分にもご覧のような門がありました。
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上の写真の門からまっすぐに進むと、こちらの北西の角に到達します。
たった今、三角錐の上に球形が乗ったようなオブジェ?が、建物にも塀にも道路の車止めとしても使われていることに気が付きましたよ。 -
エル・エスコリアル北側にある建物の間からバス・ターミナルに戻ることにしました。修道院の敷地は、旧市街より少し低い位置にありました。
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カフェテリアで軽い昼食を取ってから・・・
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このバスでマドリッドに戻りました。約3時間半のエル・エスコリアル滞在でした。
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予定にはなかったのだけれど、午後の時間が空いたので、マドリッドにある王立修道院巡りをやろうと思いたち、駆け付けたのは、こちらのデスカルサス・レアレス修道院。 フアナ・デ・アウストゥリア(オーストリア=ハプスブルグ家のファナ)が1599年に創設した王立女子修道院です。
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ファナはスペイン・ハプスブルグ家の2代目カルロス1世の二女でエル・エスコリアルを建てたフェリペ2世の妹に当たります。1535年にこの宮殿で生まれました。17歳でポルトガル王と結婚しましたが2年後に死別。まだ即位していなかった兄フェリペ2世の要請により、彼のスペイン不在中に摂政を務めるためにマドリッドに戻った彼女は、その後も再婚せず、ポルトガルにも戻らず、父カルロス1世がかつて暮らし、自分も生まれたこの宮殿に、1559年、デスカルサス修道院を創設したのです。
修道院の中に残されている素晴らしい階段、多数の絵画やタペストリーを見るためには、見学ツアー、それもスペイン語オンリーに参加しなければならないのですが、大人気のためなんと3日後まで満杯! 大ショック!
しかしそこは転んでもただでは起きぬ私、一計を巡らしました。 -
デスカルサス・レアレス修道院を去って、やってきたのは・・・
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約500mほど離れたラ・エンカルナシオン王立修道院です。王侯貴族の女性のために建てられたこちらの修道院は、フェリペ2世の息子フェリペ3世の妃マルガリータ・デ・アウストゥリアの要請に基づき、1611年~16年にかけて建設されました。
ここは王宮から目と鼻の先、当時は王宮から直接伸びる通路が設けられていたそうです。 -
ラ・エンカルナシオン王立修道院の見学も、時間ごとのガイド・ツアーのみですが、先ほど入れなかったデスカルサス修道院との共通券があるのです。こちらを見学した後にデスカルサスへ行けば、半券がある以上、満員であっても入れてくれるのではという魂胆です。明日朝一番で行って、「今日がマドリッド最終日なの」と訴えることにしました。
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建物は、修行僧兼建築家のアルベルト・デ・ラ・マードレ・デ・ディオス(神の母のアルベルト? 凄い名前!!!)の設計によるもので、彼はスペインに初めてバロック様式を導入した人として知られています。
このファサード、その後多くのスペインの教会で模倣されたそうですよ。スペインのファサードの特徴は、石の紋章が多く見られることですね。 -
ここも撮影禁止、スペイン語オンリーのガイドツアーは変わらず、王族方の名前と年号くらいしか聞き取れませんでした。残念ながら、あまりよく覚えていません。
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イタリアの大聖堂や教会で何回か耳にした、収められている聖人の聖遺物の一部である血液が毎年液状化する現象(奇跡)がここでも起こる話は聞きました。聖パンタレオン(日本語では聖パンテレイモン)はギリシャ生まれの聖人ですが、聖者の祝日である7月27日には毎年、血が液状化して、翌日にはまた凝固するんですって!
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前述したとおり、ラ・エンカルナシオン王立修道院から王宮へは目と鼻の先。緑の生垣が美しい公園オリエンテ広場を挟んで向かい合わせと言う距離です。
この公園には、歴代スペイン国王の彫像が44像あるそうです。実の話は、奥に見える王宮を飾るために制作された彫像なのですが、あまりに重すぎるために広場に卸されたというわけなのです。 -
王の彫像には全く注意を払わなかった私が、途中で目に留まったのは、こちらの若い兵士の像。1909年、モロッコ戦線で、仲間に敵の待ち伏せを警告しようとして戦死したルイス・ノヴァル・フェラオ 通称カボ・ノヴァルの像です。
プラド美術館前にあったゴヤの像を制作した、バレンシア生まれの彫刻家Mariano Benlliureの作品です。 -
さてと、こちら王族方が実際には住んでいないマドリッド王宮です。公式行事にのみ使用されているから、政府の所有物なんですって。
一昨日に続き今日も横目でちらっと見ただけで、入場できませんでした。
マドリッドの町の最西端に作られたにもかかわらず、「東の宮殿」と言う別名があるそうですよ。先ほど通った公園は確かに王宮から見ればオリエンテ(東)ですけれど、王宮自体もパラシオ・オリエンテ。ジョークなのかしら? -
なるほど、建物の至る所に彫像が配置されているのにもかかわらず、44体分のスペースが確保できなかったのだと最初は思いましたが、違いました。歴代94名の王たちの彫像は年代順に王宮の手摺部分に並べられていたのですが、1760年にカルロス3世の命令で地上に降ろしたのだそうです。理由は明らかではありませんが、カルロス3世が過剰なバロック装飾を嫌っていたという説が有力です。
像はVisgodosと呼ばれ、5世紀頃のスペインを支配していた王たちに始まり、この国の歴史に登場するすべての王たちを網羅しているそうです。でもイスラムの王たちは入っていないんですね。長い間支配したというのに、単なる侵略者だった?
製作はフェルディナンド6世の治世下(1746年 - 1759年)で活躍したサルミエント神父の設計によるものです。 -
「1808年5月2日の暴動」の記念碑発見!
5月2日から3日にかけて、ナポレオンが率いるエジプト人親衛隊を始めとする部隊のスペイン侵攻に抗議してマドリッドの民衆が蜂起し、数百人の犠牲者を出した事件は、フランシスコ・ゴヤの絵でも有名ですね。 -
ようやく目的地に到着。そう、一昨日は眺めただけのマドリッド大聖堂 アルムデナ大聖堂バイレン(通り)のファサードですよ。私にとってはこちらの方が王宮より優先順位が高かったんです。
正式名称はLa Santa Iglesia Catedral Metropolitana de Santa María la Real de la Almudena。ふう・・・教会と言う意味のイグレシアと大聖堂と言う意味のカテドラルと両方入ってめっちゃ長い! これじゃあ訳せませんねえ・・・旅行記の「その2」でも簡単な紹介を載せていますから、ファサードについては今回省略。いきなり内部に潜入しますよ。 -
1993年に完成、2004年に奉献されたとても新しい大聖堂です。しかしながら歴史は古く、殆ど伝説の世界まで遡ります。
お宝は聖ヤコブが福音を宣べ伝えたときにスペインにもたらされたという聖母像です。なんでも聖ルカが描き、ニコデモ(新約聖書のヨハネによる福音書に登場するユダヤ人で、キリストを信奉した人物)がそれを彫ったとされています。その像はその頃はまだ小さな町だったマドリッドの人達によって大切に扱われてきましたが、711年~714年の間に起きたサラセン人の侵攻が起きる前、壊されないよう壁の窪みに隠されたのです。その後像は長い間行方不明になりましたが、1085年、これを探していたアルフォンソ6世の前で城壁の一部が崩れ、中から像が現れたという、まさに「奇跡」の聖母像なんです。城壁と言う意味のアラビア語から「アルムデナの聖母」と名付けられた、その聖母像のための大聖堂がこちらと言うわけ。偶像に纏わる話としてはよくあるパターンかしらねえ。 -
バイレン(通り)のファサードから中に入ると、そこが翼廊であることに気が付きました。反対側の西側の翼廊、優雅な階段を上った先に鎮座ましますのは、目指すアルムデナの聖母像ではないですか!
こうして大聖堂に入って僅か3秒で、マドリッドの守護聖人「アルムデナの聖母」にお目にかかることができたのでした。こういう配置だったとは意外! -
時計回りで、早速見学開始です。新しいステンドグラスに新しい祭壇画。重厚感はありませんが、ごてごてでないのが嬉しい。
下の絵はたまたまタイトルが分かったので、記録のために書きますね。イサベル・ゲラ・ペーニャマリアの2003年の作品「福女マリア・ピラール・イスキエルド」 -
スペイン各地で見られる、額縁を縦横にいくつも並べたような祭壇はマドリッド県に属するオルカホ・デ・ラ・シエラと言う標高1066mの村からやってきたと書かれていました。どういう理由でこちらに移されたのかは分かりませんが、そこの教会にあったこちらの祭壇は16世紀のもので、製作者も判明しています。
描かれているのはキリストの生涯でした。 -
上記の祭壇前にあったモニュメントは銀の装飾が美しかった・・・頂にはピエタ像が彫られていました。
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上の祭壇を出て、主祭壇を写した1枚。アヴィラの大聖堂は大きな主祭壇が壁と化していましたが、こちらの大聖堂はアーチ状になった内陣の外側の回廊が見通せる構造になっています。
主祭壇にあるものは、「キリスト良き死」と言うタイトルが付けられた磔像、そして、アーチの上方を彩る壁画とステンドグラスです。壁画はNeocatechumenal Wayと言うカトリックの新しい宗派を説くキコ・アルゲーリョが自ら筆を取っています。2004年の制作。 -
壁、柱のモノトーンが壁画、そしてステンドグラスを引き立たせていますね。ドームのヴォールトの鮮やかな色遣いが見事です。
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主祭壇と反対側のカウンターファサードです。この先に王宮があります。メインファサードは国家的な公式行事以外は開かれない様子でした。
銀色に輝くパイプオルガンと、ユニークなヴォールトのデザインが目を惹きました。柱は無機質だけれど、ヴォールトは現代アートの如く、生き生きと光を放っているように見えます。とても安らぐ空間でした。 -
サンティシモ礼拝堂 ここの壁画が素晴らしいと聞いていたのですが、信徒オンリー、祈りの場と言うことで入場できず。まことに残念。
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まあいっかぁ。今日は聖母に会いに来たのですから。
と言うことでやってきましたよ。西翼廊に作られた二重の階段のうち、向かって右側の階段を上って聖母像をじっくり見て参りましょう。ここは来るもの拒まず。平等に開かれていました。 -
上の写真より寸足らずになってしまいましたが、西翼廊のモダンなステンドグラスをなんとか収めました。流石にどんな色のガラスも作れるようになった現代の技術を駆使したステンドグラスだけありますねえ。
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真鍮の柵のある美しい階段をようやく聖母の足元まで上ってきましたが、あらら! 逆に近すぎて良く見えません。
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アップにしても、この程度。かろうじて美しい聖母の顔だけ拝むことが出来ましたが、写真は別な場所から撮った方が良さそうですね。
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と言うわけで、撮り直した1枚がこちら。
聖母像は伝説通りであれば1500年以上経っていることになりますが、現在の像はせいぜい15世紀末~16世紀初頭までしか遡れません。どうやら古い像はエンリケ4世在位の時代(1425年-1474年)に燃えてしまい、作り直されたようなのです。
像は金メッキされた多色塗の松材で出来ていて、ディエゴ・コピンと言うマエストロか、その工房で制作されたと言われています。彼女が立つ台座は17世紀追加されたもので銀製。聖母を包むまばゆい光線(これも銀製)は迫力あり過ぎ! 串刺しにされそう! -
イチオシ
聖母像の背後には、15世紀末にファン・デ・ボルゴーニャによって作られた全部で18枚のパネルから構成される祭壇が控えています。パネルにはマリアとキリストの生涯からの場面が描かれていて、聖母像の真上に当たる中央上部には磔図の多色塗木像がありました。聖母像に比べると地味で目立たないのですが、これもなかなかの秀作。キリストを見つめるヨハネと悲しみに暮れる聖母の表情がとても良かったです。
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聖母像の真下、緩いアーチの中には、1878年に死去したアルフォンソ12世の妻、マリア・デ・ラス・メルセデスの墓がありました。聖母像の足元に眠りたいという彼女の遺志により、2000年になってから移されたものです。何せ、大聖堂完成するのに100年以上かかりましたからね。王妃の遺志も100以上経ってから実行に移されたわけです。
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大聖堂のステンドグラスをもう1枚。
天使に足を軽く支えられながら天に昇っていくキリスト像でしょうか? 足の甲に傷があるから多分そうだと思うけれど、顔が幼過ぎるのと、服装がいつものキリストではないので、自信ありません。 -
翼廊と内陣の角にあったこちらの絵は珍しい磔の準備風景を描いた1枚。この絵は大聖堂完成後、暫くの間主祭壇を飾っていた絵だそうです。どうして外されたのでしょうね。Expolio「聖衣剥奪」と言うタイトルでFrancisco Ricci の1651年の作品。
絵の下には彫刻家フアン・デ・アヴァロスによる横たわる姿のキリスト像がありました。アヴァロスは現代スペインの代表的な彫刻家の一人です。マッチョなキリストの姿が、これから解剖される人のように見えるのは私だけかしら? -
無機質の壁に映える新鮮な色遣いのステンドグラスに魅了されました。キコ・アルゲーリョのポップアートのような斬新なデザインには強く心惹かれました。
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こちらはオーソドックスなキリストと聖ヤコブの図案ですが、モザイクを散りばめたような流れのあるデザインがやはり伝統的なグラスとは一線を画しています。
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身廊の両側に並ぶ礼拝堂は、比較的最近聖人になった、あまり馴染みのない方々に捧げられていました。彫像も現代アートのようで、美術館を歩いているような錯覚に陥ります。
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イチオシ
キコ・アルゲーリョが描いたイコンの一つ「受胎告知」だった記憶。この不思議な背景の絵は見飽きることがありません。
いつの間にか、主祭壇に向かって左側の礼拝堂を歩いていました。 -
こちらも左側の礼拝堂の一つ。
沢山の三角で埋め尽くされたステンドグラス。 -
イチオシ
カウンターファサードから撮ったアルムデナ大聖堂は、丁度人も少なくて、素晴らしい空間美を感じることが出来ました。
柱が壁のように一体化してそそり立っている様を実感。主祭壇の「キリスト良き死」の十字架はこんなに離れていても存在感がありました。 -
美しいマジョルカ焼きのタイル画は「十字架の聖母」。褐色の肌をした聖母子は豪華な衣装を身にまとい、4本ポールの格式の高い玉座に座っていました。十字架の聖母はシウダッ・レアル州にあるダイミエル市の守護聖人で、彼の地には14世紀初頭からマリア出現伝説があり、オリジナルの聖母子像は代々大切に崇められてきたようです。
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これは、洗礼者ヨハネの礼拝堂です。古い浴槽式の洗礼盤(明るい茶色)の中にグリーンの洗礼盤が置かれていました。洗礼者ヨハネ像は17世紀のロベルト・ミケールによる作品。
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聖ペドロ・ポヴェダに捧げられた礼拝堂は、ご覧のようなレリーフで、壁全体が覆われていました。聖ペドロ・ポヴェダはどなたか存じませぬが、カトリックの国際的な信徒協会テレジアン協会の生みの親だそうです。レリーフはナッソ・ゴンサレスの1997年の作品。ここも新しい大聖堂ならではと思わせる空間でした。
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最後はホーリー・トリニティ 三位一体の礼拝堂でした。ファン・グラヤによるネオゴシック様式の祭壇は1940年製。父と子の背後にある〇と△がとても印象的。三位一体ですからね。父と子と聖霊。
ステンドグラスを主体に写したので、少々暗いですねぇ。 -
アルムナデ大聖堂を出て、一昨日と同様、プラドの夜間公開に向かいます。スペインの数いる王様の中でも一二を争う有名人フェリペ4世の騎馬像がオリエンテ広場の中心で目立っていました。王宮からの帰り道に相応しい彫像ですね。
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今宵もやってきましたよ。プラドの夜間公開。毎日通ってもいくらも見れないのですが、旅の初めでまだ体力のあるうちにと、今日も行列に並びました。
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今日エル・エスコリアルで見たヒエロニムス・ボスの特別展がプラドでも開かれていることを知ったのですが、とてもそこまで夜間の開催時に行きつくことはできませんでした。時間さえあれば毎日と張り切っていたものの、結局2回見れただけで、お後は次回回しになりました。見ても直ぐに忘れちゃうので、これは永遠に終わりそうもありませんね。と言うわけで、マドリッド滞在4日目も無事終了。この続きはな~んちゃって、コンポステーラへの道 その8マドリッド(4)で!
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