マラケシュ旅行記(ブログ) 一覧に戻る
2018年<br />9月15日より9月23日までの間<br />モロッコを旅した。<br /><br />スケジュールは<br />9月15日成田発エミレ―ツ航空にて、<br />ドバイ経由でカサブランカ・ムハンマド5世国際空港着<br />カサブランカ・カサヴォヤジャー駅から<br />特急列車にてマラケシュへ、約4時間乗ってマラケシュ着<br />マラケシュ・リヤドアザリアにて3泊<br /><br />その後、9月19日朝マラケシュ駅から<br />やはり特急列車にて、8時間乗ってフェズ駅着<br />フェズ・リヤドサラにて2泊<br /><br />その後9月21日朝フェズ駅から<br />やはり特急列車にて6時間余り乗ってカサブランカ着<br />カサブランカで、1泊<br />そして翌22日にカサブランカムハンマド5世国際空港から<br />ドバイ経由で成田へ向かい、23日日本成田着という旅です。<br /><br />モロッコ、北アフリカ マグレブ・アクサー地方(西の最果ての地)<br />地元では、アフリカなどと言わないでくれ、<br />モロッコは<br />地中海世界だ、というのが支配的な見解のようだ。<br /><br />いつかモロッコ訪問したいと思っていたが、<br />2011年4月28日には、このフナ広場のカフェで、<br />爆弾テロ事件が起こったので、<br />何年かは様子をみていた。<br />フナ広場の爆弾テロ事件では、<br />かなりのツーリストが犠牲になった。<br /><br />日本では、2011年といえば、<br />あの東日本大震災で、多くの方々が犠牲になられた年であり、<br />フクシマが、深刻な原発事故で、世界中に認知された年でもある。<br /><br />ともあれ、モロッコの概要から記載してみたい。<br />12世紀から17世紀は、キリスト教圏を横に置いておくと、<br />パックス・イスラミカ(イスラームによる平和)の時代でもある。<br />丁度、赤道直下から北緯35度線あたりまで、<br />東はインドネシア、西はイベリア・アンダルシア地方まで<br />イスラム貿易商人たちが、人・物・金の物流で活躍していた。<br /><br />モロッコに限れば、1070年頃<br />イスラムムラ―ビトー朝がマラケシュ建設<br />1248年~1465年フェズにマーリン朝<br />オスマントルコの侵攻をかわして<br />16世紀から17世紀にはサード朝と続く。<br /><br />サード朝は、このとき、ポルトガル・スペインの<br />侵攻をはねつけ独立を守った。<br />1659年現政権の基礎アラウイ朝できる。<br />これは、1492年のイスラムグラナダ王国滅亡に<br />伴う多数のイスラム教徒がスペインからモロッコへ<br />移住してきたことが土台になったようだ。<br /><br />現王朝のアラウイーは、フェズ・メクネスに建国。<br />18世紀になると、パックス イスラミカは事実上消滅、<br />キリスト教圏の圧倒的軍事力の力で、イスラム圏は<br />弱体化していく。<br /><br />15世紀末から16世紀にかけては、キリスト教圏<br />世界はパックス・ルシタニア(イベリア半島)と呼ばれた。<br /><br />18世紀には、これがパックス・ブリタニカとなり<br /><br />19世紀になると、キリスト教圏は<br />所謂列強の帝国主義が胚胎、<br />列強による世界分割がはじまる。<br /><br />モロッコもその例外ではなく、<br />1912年列強間取引によって、<br />フランスの植民地になった。<br /><br />その経緯は、<br />特にドイツとフランスの間での<br />アフリカ分割に関する大国間取引、<br />1911年のアガティール事件が発端となった。<br /><br />ドイツは、1911年7月戦艦パンティール号をアガティールに派遣。<br />フランスと対決の姿勢をとった。<br /><br />このときにフランスは、コンゴをドイツに譲るかわり、<br />モロッコはドイツの方が譲歩するよう求め、決着。<br />1912年3月フェズ条約で、モロッコの大部分を<br />フランスが取ってしまう。<br /><br />世界地球は、正に弱肉強食が正面切って大手を振って歩いていた。<br />リチャード・ド―キンスではないが、あらゆる生き物 人間も<br />利己的な遺伝子で、おのれの生存率と生殖率を高めるためなら<br />どのような行動にでも走るという悲しい証左。<br /><br />しかし<br />1956年にはモロッコはフランスから独立する。<br />日本もすぐにこの独立を承認した。1956年6月19日である。<br /><br />その後は<br />1955年~61年ムハンマド5世の時代<br />1961年~1999年ハッサン2世の時代<br />1999年以来ムハンマド6世時代現在となる。<br /><br />1990年代のモロッコ<br />都市部の一日生活10DH以下<br />農村部の一日生活費8DH以下の人口が約520万もいた。<br />1DHディルハムは、現在11円~12円である。<br /><br />1940年代~1950年代のモロッコ、<br />独立前後の時代は<br />記載不可欠だろう。<br />モロッコ現代史に極めて重要で欠かせないからである。<br /><br />即ち<br />かつて学問の都と言われたフェズは、<br />カラウイーン学堂を根拠地に<br />フランスへの抵抗独立運動へと発展させた。。<br />フランスが欧州式教育の成果で育て上げたフェズの知的エリート達は<br />祖国の独立を切望するようになる。<br /><br />そして、1944年 若きイスティクラル党(独立党)が誕生する。<br />(フェズに行くと、イスティクラル広場となって、<br />イスティクラルの名ははっきり残っている)<br /><br />当時の世俗的君主スルタンのベン・ユーセフは、<br />この誕生したばかりのイスティクラルを、公然と支持し、<br />公式法文書に署名をしない戦術で、フランスへ抵抗し、<br />当時のフランス・ドゴールから激怒され、<br />ついに<br />マダガスカルへ島流し流刑された。<br /><br />しかし、当時のモロッコ国民はベン・ユーセフに思いを馳せ、<br />イスティクラル党は、フランス人へのテロ活動に及ぶ、<br />これを宗主国フランスは激しく弾圧するも、<br />混乱と無秩序のなかで、<br />終に1955年フランスは<br />イスティクラル党に屈服、<br />翌56年晴れてモロッコは独立した。<br /><br />ベン・ユーセフは、<br />流刑地マダガスカルから帰国し、<br />ムハンマド5世と名乗ることになった。<br /><br />しかし、イスティクラル党派とムハンマド5世の蜜月は<br />はかなく終わり、<br />ムハンマド5世は、<br />イスティクラルを弾圧。<br /><br />70年代には、次のハッサン2世のときにイスティクラルは<br />ほぼ消滅した。<br /><br />写真は、フナ広場の様子である。<br />ジャマ・ェル・フナ広場<br />1070年頃建設<br />サード朝のマンスールが、ここに<br />ジャーミュウ アル ハナ―(Jami-al-hana)(繁栄のモスク)<br />という名のモスクを建設しようとしたが、失敗<br />のちのち、<br />ジャーミュウ・アル・ファナー(Jami-al-fana)(廃墟のモスク)<br />という名に変わって、これがなまって<br />ジャマ・ェル・フナと呼ばれるようになった。<br />これが現在時点での、フナ広場の史的事実であるようだ。<br />公開処刑場だった証拠はない。<br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />

モロッコマラケシュ・フェズ・カサブランカ周遊記①マラケシュ編その1フナ広場の夜景を中心に

47いいね!

2018/09/15 - 2018/09/23

94位(同エリア975件中)

0

58

わき

わきさん

2018年
9月15日より9月23日までの間
モロッコを旅した。

スケジュールは
9月15日成田発エミレ―ツ航空にて、
ドバイ経由でカサブランカ・ムハンマド5世国際空港着
カサブランカ・カサヴォヤジャー駅から
特急列車にてマラケシュへ、約4時間乗ってマラケシュ着
マラケシュ・リヤドアザリアにて3泊

その後、9月19日朝マラケシュ駅から
やはり特急列車にて、8時間乗ってフェズ駅着
フェズ・リヤドサラにて2泊

その後9月21日朝フェズ駅から
やはり特急列車にて6時間余り乗ってカサブランカ着
カサブランカで、1泊
そして翌22日にカサブランカムハンマド5世国際空港から
ドバイ経由で成田へ向かい、23日日本成田着という旅です。

モロッコ、北アフリカ マグレブ・アクサー地方(西の最果ての地)
地元では、アフリカなどと言わないでくれ、
モロッコは
地中海世界だ、というのが支配的な見解のようだ。

いつかモロッコ訪問したいと思っていたが、
2011年4月28日には、このフナ広場のカフェで、
爆弾テロ事件が起こったので、
何年かは様子をみていた。
フナ広場の爆弾テロ事件では、
かなりのツーリストが犠牲になった。

日本では、2011年といえば、
あの東日本大震災で、多くの方々が犠牲になられた年であり、
フクシマが、深刻な原発事故で、世界中に認知された年でもある。

ともあれ、モロッコの概要から記載してみたい。
12世紀から17世紀は、キリスト教圏を横に置いておくと、
パックス・イスラミカ(イスラームによる平和)の時代でもある。
丁度、赤道直下から北緯35度線あたりまで、
東はインドネシア、西はイベリア・アンダルシア地方まで
イスラム貿易商人たちが、人・物・金の物流で活躍していた。

モロッコに限れば、1070年頃
イスラムムラ―ビトー朝がマラケシュ建設
1248年~1465年フェズにマーリン朝
オスマントルコの侵攻をかわして
16世紀から17世紀にはサード朝と続く。

サード朝は、このとき、ポルトガル・スペインの
侵攻をはねつけ独立を守った。
1659年現政権の基礎アラウイ朝できる。
これは、1492年のイスラムグラナダ王国滅亡に
伴う多数のイスラム教徒がスペインからモロッコへ
移住してきたことが土台になったようだ。

現王朝のアラウイーは、フェズ・メクネスに建国。
18世紀になると、パックス イスラミカは事実上消滅、
キリスト教圏の圧倒的軍事力の力で、イスラム圏は
弱体化していく。

15世紀末から16世紀にかけては、キリスト教圏
世界はパックス・ルシタニア(イベリア半島)と呼ばれた。

18世紀には、これがパックス・ブリタニカとなり

19世紀になると、キリスト教圏は
所謂列強の帝国主義が胚胎、
列強による世界分割がはじまる。

モロッコもその例外ではなく、
1912年列強間取引によって、
フランスの植民地になった。

その経緯は、
特にドイツとフランスの間での
アフリカ分割に関する大国間取引、
1911年のアガティール事件が発端となった。

ドイツは、1911年7月戦艦パンティール号をアガティールに派遣。
フランスと対決の姿勢をとった。

このときにフランスは、コンゴをドイツに譲るかわり、
モロッコはドイツの方が譲歩するよう求め、決着。
1912年3月フェズ条約で、モロッコの大部分を
フランスが取ってしまう。

世界地球は、正に弱肉強食が正面切って大手を振って歩いていた。
リチャード・ド―キンスではないが、あらゆる生き物 人間も
利己的な遺伝子で、おのれの生存率と生殖率を高めるためなら
どのような行動にでも走るという悲しい証左。

しかし
1956年にはモロッコはフランスから独立する。
日本もすぐにこの独立を承認した。1956年6月19日である。

その後は
1955年~61年ムハンマド5世の時代
1961年~1999年ハッサン2世の時代
1999年以来ムハンマド6世時代現在となる。

1990年代のモロッコ
都市部の一日生活10DH以下
農村部の一日生活費8DH以下の人口が約520万もいた。
1DHディルハムは、現在11円~12円である。

1940年代~1950年代のモロッコ、
独立前後の時代は
記載不可欠だろう。
モロッコ現代史に極めて重要で欠かせないからである。

即ち
かつて学問の都と言われたフェズは、
カラウイーン学堂を根拠地に
フランスへの抵抗独立運動へと発展させた。。
フランスが欧州式教育の成果で育て上げたフェズの知的エリート達は
祖国の独立を切望するようになる。

そして、1944年 若きイスティクラル党(独立党)が誕生する。
(フェズに行くと、イスティクラル広場となって、
イスティクラルの名ははっきり残っている)

当時の世俗的君主スルタンのベン・ユーセフは、
この誕生したばかりのイスティクラルを、公然と支持し、
公式法文書に署名をしない戦術で、フランスへ抵抗し、
当時のフランス・ドゴールから激怒され、
ついに
マダガスカルへ島流し流刑された。

しかし、当時のモロッコ国民はベン・ユーセフに思いを馳せ、
イスティクラル党は、フランス人へのテロ活動に及ぶ、
これを宗主国フランスは激しく弾圧するも、
混乱と無秩序のなかで、
終に1955年フランスは
イスティクラル党に屈服、
翌56年晴れてモロッコは独立した。

ベン・ユーセフは、
流刑地マダガスカルから帰国し、
ムハンマド5世と名乗ることになった。

しかし、イスティクラル党派とムハンマド5世の蜜月は
はかなく終わり、
ムハンマド5世は、
イスティクラルを弾圧。

70年代には、次のハッサン2世のときにイスティクラルは
ほぼ消滅した。

写真は、フナ広場の様子である。
ジャマ・ェル・フナ広場
1070年頃建設
サード朝のマンスールが、ここに
ジャーミュウ アル ハナ―(Jami-al-hana)(繁栄のモスク)
という名のモスクを建設しようとしたが、失敗
のちのち、
ジャーミュウ・アル・ファナー(Jami-al-fana)(廃墟のモスク)
という名に変わって、これがなまって
ジャマ・ェル・フナと呼ばれるようになった。
これが現在時点での、フナ広場の史的事実であるようだ。
公開処刑場だった証拠はない。








旅行の満足度
4.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
徒歩
旅行の手配内容
個別手配

PR

  • ドバイで乗り換えた後、<br />カサブランカへ行く途中の機内の<br />エミレ―ツ飛行機座席前モニター。<br />既に、成田からドバイまで10時間エミレ―ツEK319に乗って<br />かなりしんどかった思いがある。<br /><br />成田とモロッコ時差は、-8時間(サマータイム)<br />カサブランカ着がEK751便で約9時間半乗って<br />翌日13時だった。(成田からカサブランカまで乗り継ぎで約20時間強)<br />全然眠れていないので、寝ようとしても無駄だったので、<br />文庫本四方田犬彦著 モロッコ流謫 を読み返していた。<br /><br />

    ドバイで乗り換えた後、
    カサブランカへ行く途中の機内の
    エミレ―ツ飛行機座席前モニター。
    既に、成田からドバイまで10時間エミレ―ツEK319に乗って
    かなりしんどかった思いがある。

    成田とモロッコ時差は、-8時間(サマータイム)
    カサブランカ着がEK751便で約9時間半乗って
    翌日13時だった。(成田からカサブランカまで乗り継ぎで約20時間強)
    全然眠れていないので、寝ようとしても無駄だったので、
    文庫本四方田犬彦著 モロッコ流謫 を読み返していた。

  • これも機内モニターだが、<br />違う角度から見ていた。<br /><br />文庫本四方田犬彦著モロッコ流謫の<br />平岡千之との件の場面が面白い。<br /><br />平岡は、一時モロッコ大使だった。<br />当時の、四方田と平岡との私的交流が数ページ割かれている。<br />平岡は、作家三島由紀夫の実の弟である。<br /><br />特に、三島の豊饒の海 暁の寺は、<br />平岡がラオスのビエンチャンにいた当時<br />ラオス国王に、三島を引き合わせたところなどが<br />興味を引いた。<br />暁の寺は、ラオス王の幼い王子たちが、三島の前で<br />ラーマヤナの芝居を演じたところにヒントを得て<br />完成したという。<br />

    これも機内モニターだが、
    違う角度から見ていた。

    文庫本四方田犬彦著モロッコ流謫の
    平岡千之との件の場面が面白い。

    平岡は、一時モロッコ大使だった。
    当時の、四方田と平岡との私的交流が数ページ割かれている。
    平岡は、作家三島由紀夫の実の弟である。

    特に、三島の豊饒の海 暁の寺は、
    平岡がラオスのビエンチャンにいた当時
    ラオス国王に、三島を引き合わせたところなどが
    興味を引いた。
    暁の寺は、ラオス王の幼い王子たちが、三島の前で
    ラーマヤナの芝居を演じたところにヒントを得て
    完成したという。

  • 同じく、右はイベリア半島 左アフリカ大陸のモニター。<br />このとき、当方の頭の中は、渾然としていた。<br /><br />現代の、交通路は、<br />時間的な障害を取り払う手段として、<br />陸は車・列車が走り、<br />空は飛行機が飛ぶ時代である。<br /><br />また空間的障害を取り払う手段としては、<br />電話・FAXでの交信で瞬く間に地球を駆け巡る<br />グローバル化の時代でもある。<br /><br />全く上記の交通手段、即ち車もなければ飛行機もない時代<br />タンジェ生まれの、イスラム圏を旅した一人の男がいた。<br />男の名を、イヴン・バトゥ‐タといった。<br /><br />「イヴン」は、アラビア語で「息子」という意味、<br />彼の名前は、したがってバトゥ‐タの息子・子孫の意味である。<br /><br />14世紀のイスラム均質化社会を隈なく旅した男。<br />1325年21歳でメッカ巡礼の旅に出て、<br />更に世界を見聞したい欲求にかられ、<br />その行き先は、イラン・インド・中国・東南アジアに及んだ。<br />14世紀のペスト大流行もつぶさに見たであろうし、<br />驚くほかないが、本人は至って用意周到というか臆病というか<br />そうでなければ、あのような大旅行ができるはずないではないかと<br />思った。<br /><br /><br />

    同じく、右はイベリア半島 左アフリカ大陸のモニター。
    このとき、当方の頭の中は、渾然としていた。

    現代の、交通路は、
    時間的な障害を取り払う手段として、
    陸は車・列車が走り、
    空は飛行機が飛ぶ時代である。

    また空間的障害を取り払う手段としては、
    電話・FAXでの交信で瞬く間に地球を駆け巡る
    グローバル化の時代でもある。

    全く上記の交通手段、即ち車もなければ飛行機もない時代
    タンジェ生まれの、イスラム圏を旅した一人の男がいた。
    男の名を、イヴン・バトゥ‐タといった。

    「イヴン」は、アラビア語で「息子」という意味、
    彼の名前は、したがってバトゥ‐タの息子・子孫の意味である。

    14世紀のイスラム均質化社会を隈なく旅した男。
    1325年21歳でメッカ巡礼の旅に出て、
    更に世界を見聞したい欲求にかられ、
    その行き先は、イラン・インド・中国・東南アジアに及んだ。
    14世紀のペスト大流行もつぶさに見たであろうし、
    驚くほかないが、本人は至って用意周到というか臆病というか
    そうでなければ、あのような大旅行ができるはずないではないかと
    思った。


  • やっと、チュニジアを抜けて<br />(モロッコへ飛行機は入ったらしい。<br />成田ードバイ10時間<br />ドバイーカサブランカも9時間<br />少々飛行機内も疲れてきたが・・・・・。)<br /><br />続きのイヴン・バトゥ‐タのことである。<br />インドでは、アカ―ディ(裁判官)を務め、中国では<br />当時のモンゴル支配をまざまざと目にし、<br />帰路、東地中海では当時大流行していたペスト(黒死病)<br />について、詳細な記述を残した。<br /><br />20年以上世界各地を巡り、<br />1349年モロッコに帰国。<br />1354年には、国内フェズを訪問。<br />バトゥータのうわさを聞いていた当時のマーリン朝君主<br />アブ・イナーンは彼を引見し、バトゥータの話を聞いた。<br /><br />ほどなくイヴン・バトゥ‐タは、タンジェに戻るが、<br />翌年から再び旅。<br />ジブラルタル海峡を渡って、イベリア半島グラナダなどに<br />行っている。<br />1356年、君主アブ・イナーンは、<br />宮廷文人イブン・ジュザイイに命じて、<br />この旅人の口述筆記をさせている。<br />それが<br />「地域の珍奇と旅行の驚異との観覧者への贈り物」と題された<br />現在に残るイヴン・バトゥ‐タの旅行記である。<br /><br />彼の足跡は、<br />当時知られる得る限りのイスラム世界全土に及んでいる。<br />神学者でもあり、イスラム諸学にも通暁していたらしいので、<br />各地の宮廷で歓待を受け、宿泊施設にもさほど不自由なかった。<br /><br />かような旅が可能であったということ自体<br />当時それだけイスラム社会イスラム教徒間の連帯感の存在証明のようだ。<br />パックス・イスラミカ(イスラムによる世界平和)という<br />イスラムの均質化社会が成立していた証左でもあると考えたい。<br />

    やっと、チュニジアを抜けて
    (モロッコへ飛行機は入ったらしい。
    成田ードバイ10時間
    ドバイーカサブランカも9時間
    少々飛行機内も疲れてきたが・・・・・。)

    続きのイヴン・バトゥ‐タのことである。
    インドでは、アカ―ディ(裁判官)を務め、中国では
    当時のモンゴル支配をまざまざと目にし、
    帰路、東地中海では当時大流行していたペスト(黒死病)
    について、詳細な記述を残した。

    20年以上世界各地を巡り、
    1349年モロッコに帰国。
    1354年には、国内フェズを訪問。
    バトゥータのうわさを聞いていた当時のマーリン朝君主
    アブ・イナーンは彼を引見し、バトゥータの話を聞いた。

    ほどなくイヴン・バトゥ‐タは、タンジェに戻るが、
    翌年から再び旅。
    ジブラルタル海峡を渡って、イベリア半島グラナダなどに
    行っている。
    1356年、君主アブ・イナーンは、
    宮廷文人イブン・ジュザイイに命じて、
    この旅人の口述筆記をさせている。
    それが
    「地域の珍奇と旅行の驚異との観覧者への贈り物」と題された
    現在に残るイヴン・バトゥ‐タの旅行記である。

    彼の足跡は、
    当時知られる得る限りのイスラム世界全土に及んでいる。
    神学者でもあり、イスラム諸学にも通暁していたらしいので、
    各地の宮廷で歓待を受け、宿泊施設にもさほど不自由なかった。

    かような旅が可能であったということ自体
    当時それだけイスラム社会イスラム教徒間の連帯感の存在証明のようだ。
    パックス・イスラミカ(イスラムによる世界平和)という
    イスラムの均質化社会が成立していた証左でもあると考えたい。

  • カサブランカ・カサヴォエ―ジャ駅から、14時55分発マラケシュ行き、<br />マラケシュexpress1等車に乗りこむ。<br />1つのコンパートメントに、3人づつの向かい合わせ。<br />既に、当方の指定席に人が座っていたので、どいてもらう。<br />1等車は、長い特急列車の一番端で、車体の横に大きく①の数字が記載<br />されていて、すぐにわかった。<br />20分ほど遅れて出発した。<br />

    カサブランカ・カサヴォエ―ジャ駅から、14時55分発マラケシュ行き、
    マラケシュexpress1等車に乗りこむ。
    1つのコンパートメントに、3人づつの向かい合わせ。
    既に、当方の指定席に人が座っていたので、どいてもらう。
    1等車は、長い特急列車の一番端で、車体の横に大きく①の数字が記載
    されていて、すぐにわかった。
    20分ほど遅れて出発した。

  • 列車がマラケシュ近辺まで来たようだ。<br />飛行機を乗り継いで、20時間<br />特急列車に乗ってはや4時間あまり。<br />その間、色々と考えていたが、<br />ここでは<br />モロッコ題材の映画を覘いて見ようと思う。<br />モロッコを最初にフィルム化したのは、<br />映画そのものを発明したリュミエール兄弟と言われている。<br /><br />1930年にはモロッコ(ジョセフ・スタンバーグ監督)<br />主演ゲーリー・クーパー、マレーネ・ディートリッヒで、<br />封切。この映画何度も挑戦してみたが、途中で断念。<br />良さが一つも当方には理解できなかった。<br /><br />1942年には、あのハンフリー・ボガードとイングリッド・バーグマン<br />の「カサブランカ」(マイケル・カ―チス監督)が封切。<br />こちらは、わくわくして何度も観た。<br />バーグマンの美しさと、<br />as time goes byの音楽にしびれて、その後<br />当方は、Jazz喫茶のvocal liveのときに、歌い手さんに<br />この歌をリクエストして一緒に歌ってもらったこともある。<br /><br />1990年には、ベルトリッチのあの「シェリタリング・スカイ」<br />が、世に問われた。<br />シェリタリング・スカイ、<br />原作者ポール・ボウルズ。 NY生まれジョージア大学中退<br />性癖は旅行。<br />モロッコへ1931年20歳で渡る。<br /><br />生まれて初めてタンジェの地を見た時、<br />彼は、自伝「止まることなく」で、次のように書いている。<br />「私は、非常なる興奮におそわれた。陸の風景が近付くにつれ<br />躯体の内側に仕掛けられた装置が作動するかのようだった。」<br />彼は、1946年から50年間の長きにわたり、モロッコに滞在し<br />88歳の生涯をとじる。<br />シェリタリング・スカイは、アメリカ人夫妻が<br />サハラ砂漠を前にして<br />内面を蝕む威嚇的な脅威的な他者に出くわして、生と死の境界を<br />さまよう物語であり、当方には異質とも思われる映画だった。<br />いまいち、一体何をメッセージとして残したかったのかは<br />わからないままであったが。<br /><br /><br />1998年には、good by morocco(ギリーズ・アッキノン監督)<br />が封切。<br />しかしながら、当方には<br />何と言ってもマラケシュをロケ地とした<br />ヒッチコックのあの「知りすぎていた男」が面白かった記憶がある。<br /><br />アメリカの医者ベン・マッケナ(ジェームズ・スチュアート)は<br />ブロードウェイのミュージカル・スターだったジョー夫人(ドリス・デイ)と、<br />7歳になる息子ハンクを連れて、<br />パリでひらかれた医学会議に出席した後<br />フランス領モロッコへ旅をした。<br /><br />冒頭場面カサブランカからマラケシュへ行くバスの中から物語は始まった。<br /><br />そしてフナ広場で、一人の男が刺されたところから興味深い展開となる。<br />息子のハンクが欺罔行為によって、誘拐されてしまう。<br />某国の首相暗殺計画が進行していて、マッケナは、<br />その事実を刺された男から婉曲的に知らされ、<br />暗殺計画をもくろむ人間から、漏らせば息子の<br />命はないと脅迫される。<br /><br />舞台は、イギリスに飛び<br />マッケナ夫妻はアルバート・ホールで行われる<br />交響楽団の音楽会に行くこととなる。<br />ターゲットである首相を暗殺するらしい。<br />息子ハンクは、アルバート・ホールにある別室に閉じ込められていた。<br />夫は暗殺者を探すために2階へいったが、<br />妻ジョーは、2階席にいる暗殺者に気づき、<br />大声を上げてしまう。<br />その拍子に驚いた暗殺者は、1階に落ちて死んでしまう。<br />暗殺は未遂に終わるが、暗殺計画の首謀者が駐英大使であることが判明。<br />マッケナ夫妻は、大使館を訪れ、首相に会う。<br />そこで、元歌手のジョーは歌を歌って欲しいと頼まれる。<br />ピアノの弾き語りで、「ケ・セラ・セラ」を歌うジョー。<br />その歌に重なるように、小さな口笛その声が、<br />息子ハンクのものだと気づいたマッケナ夫妻は<br />声を頼りに息子を探し始め、ベンは息子の姿を見つけ、<br />助け出そうと、奔走、そしてハンクは無事助けだされる・・・・。<br /><br />この映画のハイライトは、<br />アルバート・ホールで行われる<br />交響楽団の音楽会と、<br />歌手ドリスディが歌うケセラケラだったと思うが、<br />アルバート・ホールで行われる<br />交響楽団の音楽会での、あのシンバルのシーンを見て、<br />後年、フランシス・コッポラはゴッドファザーパートⅢ<br />で、上記の交響楽団音楽会にヒントを得て映画を完成させたと<br />思われた。<br />ゴッドファザーパートⅢでは、<br />ドンの息子が主役となるオペラ「カバレリア・ルステイカ―ナ」でも、<br />同じようなシーンが見られたからである。<br />知りすぎていた男での、もうひとつのハイライトシーンは、<br />有名歌手ドリス・ディが「息子」を救うために歌う「ケセラセラ」だった。<br />その意味でもこの映画、<br />筋書きに幾分の無理があるにしても、<br />ヒッチコック大衆娯楽作品として成功していると思う。<br /><br /><br /><br /><br />

    列車がマラケシュ近辺まで来たようだ。
    飛行機を乗り継いで、20時間
    特急列車に乗ってはや4時間あまり。
    その間、色々と考えていたが、
    ここでは
    モロッコ題材の映画を覘いて見ようと思う。
    モロッコを最初にフィルム化したのは、
    映画そのものを発明したリュミエール兄弟と言われている。

    1930年にはモロッコ(ジョセフ・スタンバーグ監督)
    主演ゲーリー・クーパー、マレーネ・ディートリッヒで、
    封切。この映画何度も挑戦してみたが、途中で断念。
    良さが一つも当方には理解できなかった。

    1942年には、あのハンフリー・ボガードとイングリッド・バーグマン
    の「カサブランカ」(マイケル・カ―チス監督)が封切。
    こちらは、わくわくして何度も観た。
    バーグマンの美しさと、
    as time goes byの音楽にしびれて、その後
    当方は、Jazz喫茶のvocal liveのときに、歌い手さんに
    この歌をリクエストして一緒に歌ってもらったこともある。

    1990年には、ベルトリッチのあの「シェリタリング・スカイ」
    が、世に問われた。
    シェリタリング・スカイ、
    原作者ポール・ボウルズ。 NY生まれジョージア大学中退
    性癖は旅行。
    モロッコへ1931年20歳で渡る。

    生まれて初めてタンジェの地を見た時、
    彼は、自伝「止まることなく」で、次のように書いている。
    「私は、非常なる興奮におそわれた。陸の風景が近付くにつれ
    躯体の内側に仕掛けられた装置が作動するかのようだった。」
    彼は、1946年から50年間の長きにわたり、モロッコに滞在し
    88歳の生涯をとじる。
    シェリタリング・スカイは、アメリカ人夫妻が
    サハラ砂漠を前にして
    内面を蝕む威嚇的な脅威的な他者に出くわして、生と死の境界を
    さまよう物語であり、当方には異質とも思われる映画だった。
    いまいち、一体何をメッセージとして残したかったのかは
    わからないままであったが。


    1998年には、good by morocco(ギリーズ・アッキノン監督)
    が封切。
    しかしながら、当方には
    何と言ってもマラケシュをロケ地とした
    ヒッチコックのあの「知りすぎていた男」が面白かった記憶がある。

    アメリカの医者ベン・マッケナ(ジェームズ・スチュアート)は
    ブロードウェイのミュージカル・スターだったジョー夫人(ドリス・デイ)と、
    7歳になる息子ハンクを連れて、
    パリでひらかれた医学会議に出席した後
    フランス領モロッコへ旅をした。

    冒頭場面カサブランカからマラケシュへ行くバスの中から物語は始まった。

    そしてフナ広場で、一人の男が刺されたところから興味深い展開となる。
    息子のハンクが欺罔行為によって、誘拐されてしまう。
    某国の首相暗殺計画が進行していて、マッケナは、
    その事実を刺された男から婉曲的に知らされ、
    暗殺計画をもくろむ人間から、漏らせば息子の
    命はないと脅迫される。

    舞台は、イギリスに飛び
    マッケナ夫妻はアルバート・ホールで行われる
    交響楽団の音楽会に行くこととなる。
    ターゲットである首相を暗殺するらしい。
    息子ハンクは、アルバート・ホールにある別室に閉じ込められていた。
    夫は暗殺者を探すために2階へいったが、
    妻ジョーは、2階席にいる暗殺者に気づき、
    大声を上げてしまう。
    その拍子に驚いた暗殺者は、1階に落ちて死んでしまう。
    暗殺は未遂に終わるが、暗殺計画の首謀者が駐英大使であることが判明。
    マッケナ夫妻は、大使館を訪れ、首相に会う。
    そこで、元歌手のジョーは歌を歌って欲しいと頼まれる。
    ピアノの弾き語りで、「ケ・セラ・セラ」を歌うジョー。
    その歌に重なるように、小さな口笛その声が、
    息子ハンクのものだと気づいたマッケナ夫妻は
    声を頼りに息子を探し始め、ベンは息子の姿を見つけ、
    助け出そうと、奔走、そしてハンクは無事助けだされる・・・・。

    この映画のハイライトは、
    アルバート・ホールで行われる
    交響楽団の音楽会と、
    歌手ドリスディが歌うケセラケラだったと思うが、
    アルバート・ホールで行われる
    交響楽団の音楽会での、あのシンバルのシーンを見て、
    後年、フランシス・コッポラはゴッドファザーパートⅢ
    で、上記の交響楽団音楽会にヒントを得て映画を完成させたと
    思われた。
    ゴッドファザーパートⅢでは、
    ドンの息子が主役となるオペラ「カバレリア・ルステイカ―ナ」でも、
    同じようなシーンが見られたからである。
    知りすぎていた男での、もうひとつのハイライトシーンは、
    有名歌手ドリス・ディが「息子」を救うために歌う「ケセラセラ」だった。
    その意味でもこの映画、
    筋書きに幾分の無理があるにしても、
    ヒッチコック大衆娯楽作品として成功していると思う。




  • マラケシュ近辺まで、<br />特急列車が来ると、<br />色まで赤茶けてきた。<br />マラケシュMarrakechは、のちのMoroccoモロッコ国名の<br />起源となった。<br /><br />11C砂漠の中に、ベルベル人一族により、突如あらわれる。<br />モロッコは、主だった都市ごとに色分けが進んでいるらしい。<br />明け初日、半日だけ、地元ガイドのアジム氏65歳と観光したが、<br />マラケシュは、赤茶色<br />シャゥエンは、青色<br />カサブランカは、文字通り白色統一してあるとのことだった。<br />なにゆえ、こんなことしているのか、今でも当方には不明である。<br />

    マラケシュ近辺まで、
    特急列車が来ると、
    色まで赤茶けてきた。
    マラケシュMarrakechは、のちのMoroccoモロッコ国名の
    起源となった。

    11C砂漠の中に、ベルベル人一族により、突如あらわれる。
    モロッコは、主だった都市ごとに色分けが進んでいるらしい。
    明け初日、半日だけ、地元ガイドのアジム氏65歳と観光したが、
    マラケシュは、赤茶色
    シャゥエンは、青色
    カサブランカは、文字通り白色統一してあるとのことだった。
    なにゆえ、こんなことしているのか、今でも当方には不明である。

  • 少しずつ、マラケシュ駅に近づいていく。

    少しずつ、マラケシュ駅に近づいていく。

  • 4時間半、oncfの乗り心地は、普通だった。<br />1等車は、車両の一等前の車両だけで、<br />コンパーネントスタイルの、3席づつの向かい合わせの部屋。<br />車両の外部横側に、①と大きく記載されている。<br />因みに殆どの車両は、②の2等車である。<br /><br />線路は、メーターゲージではなく、<br />それなりに特急だけにスピードも出ていた。<br /><br />しかしながら、トイレは、<br />1等車でも、日本でいえば昭和30年代の<br />夜行特急などと同じく、<br />線路への垂れ流しだった。<br />水が流れるようにしてあるが、<br />殆ど役目を果たしていない。<br />幼児の頃、日本で乗った九州の列車を思い出していた。<br /><br /><br />ONCFは、モロッコ国有鉄道の略。<br /><br /><br />ここまで来るのに、成田から27時間近くもかかって<br />ちょっと食傷気味だった。<br />ただ、その昔、鉄道も敷設がなかった時代<br />なんとかいう日本人確か、石川なんとかとか言ったあの男<br />よくもまあ、こんなモロッコまで、来ていろんな感想まで<br />その後書物に著したな とこの時は、頭によぎっていた。<br />

    4時間半、oncfの乗り心地は、普通だった。
    1等車は、車両の一等前の車両だけで、
    コンパーネントスタイルの、3席づつの向かい合わせの部屋。
    車両の外部横側に、①と大きく記載されている。
    因みに殆どの車両は、②の2等車である。

    線路は、メーターゲージではなく、
    それなりに特急だけにスピードも出ていた。

    しかしながら、トイレは、
    1等車でも、日本でいえば昭和30年代の
    夜行特急などと同じく、
    線路への垂れ流しだった。
    水が流れるようにしてあるが、
    殆ど役目を果たしていない。
    幼児の頃、日本で乗った九州の列車を思い出していた。


    ONCFは、モロッコ国有鉄道の略。


    ここまで来るのに、成田から27時間近くもかかって
    ちょっと食傷気味だった。
    ただ、その昔、鉄道も敷設がなかった時代
    なんとかいう日本人確か、石川なんとかとか言ったあの男
    よくもまあ、こんなモロッコまで、来ていろんな感想まで
    その後書物に著したな とこの時は、頭によぎっていた。

  • マラケシュ駅、降りた直後の<br />ホーム風景である。<br />やはりムスリムの国。<br />18時50分頃だった。<br />

    マラケシュ駅、降りた直後の
    ホーム風景である。
    やはりムスリムの国。
    18時50分頃だった。

  • 何か日本でいえば<br />田舎の駅舎風景を思わせるものだった。<br />

    何か日本でいえば
    田舎の駅舎風景を思わせるものだった。

  • 同上、やっと駅に到着して、<br />ホームから撮影してみた。<br />向こう側に改札口が見えている。

    同上、やっと駅に到着して、
    ホームから撮影してみた。
    向こう側に改札口が見えている。

  • マラケシュ駅に降りた乗客とともに。<br />改札口が近づいてきた。<br />改札には、当方を専用車で、待っていることに<br />なっていたので、すぐに迎えのドライバーは見つかった。<br />日本にいるときから、代理店へ、<br />しつこいくらい、当方のローマ字で書いた<br />紙片を提示してくれるように依頼していたので、<br />やれやれだった。<br />

    マラケシュ駅に降りた乗客とともに。
    改札口が近づいてきた。
    改札には、当方を専用車で、待っていることに
    なっていたので、すぐに迎えのドライバーは見つかった。
    日本にいるときから、代理店へ、
    しつこいくらい、当方のローマ字で書いた
    紙片を提示してくれるように依頼していたので、
    やれやれだった。

  • マラケシュ駅前の様子。<br />専用車で迎えに来ていたのは、<br />30代後半の男性ドライバーだった。

    マラケシュ駅前の様子。
    専用車で迎えに来ていたのは、
    30代後半の男性ドライバーだった。

  • 車に乗る前に、マラケシュ駅前の姿を一枚収めた。

    車に乗る前に、マラケシュ駅前の姿を一枚収めた。

  • マラケシュ駅前風景

    マラケシュ駅前風景

  • フナ広場を中心にした地図である。

    フナ広場を中心にした地図である。

  • 同上拡大してみたが、<br />宿泊するリヤドにあった地図で、詳しくはない。<br />宿泊したのは、リヤド・ズイトン・ェル・ケデイム通りにあった<br />3つ星のリヤドアザリアだった。<br />なによりもフナ広場に歩いて数分であることが良かった。

    同上拡大してみたが、
    宿泊するリヤドにあった地図で、詳しくはない。
    宿泊したのは、リヤド・ズイトン・ェル・ケデイム通りにあった
    3つ星のリヤドアザリアだった。
    なによりもフナ広場に歩いて数分であることが良かった。

  • リヤドアザリアのあるケデイム通りの案内板まできた。<br />フナ広場から徒歩3分くらいである。

    リヤドアザリアのあるケデイム通りの案内板まできた。
    フナ広場から徒歩3分くらいである。

  • リヤド・アザリアをグーグルマップで、<br />位置を確認。<br />何でも色々な本などに当たって、<br />狭い路地なので、迷いやすいとあったが、<br />事前に徹底的に場所を調べていたので、<br />迷うこともなかった。

    リヤド・アザリアをグーグルマップで、
    位置を確認。
    何でも色々な本などに当たって、
    狭い路地なので、迷いやすいとあったが、
    事前に徹底的に場所を調べていたので、
    迷うこともなかった。

  • 人がやっと二人入れるかどうかの正面玄関。<br />これには、ムスリムの教えが関係している。

    人がやっと二人入れるかどうかの正面玄関。
    これには、ムスリムの教えが関係している。

  • リヤドの内と外で、なにゆえ違うのか。<br />外は、これが入り口かと思うほど少し貧弱だが、<br />ドアを開けて中に入ると風景が一変する。<br />邸宅になっている。<br /><br />アラブ世界の都市の典型的な居住区では、<br />住民の家は、極めて殺風景な出入り口をもち、窓さえないが、<br />一旦中に入ると、緑にあふれたここちよい中庭があり、<br />美しく装飾された部屋がある。<br /><br />内と外で、一見これほど違う装いは、初めてだった。

    リヤドの内と外で、なにゆえ違うのか。
    外は、これが入り口かと思うほど少し貧弱だが、
    ドアを開けて中に入ると風景が一変する。
    邸宅になっている。

    アラブ世界の都市の典型的な居住区では、
    住民の家は、極めて殺風景な出入り口をもち、窓さえないが、
    一旦中に入ると、緑にあふれたここちよい中庭があり、
    美しく装飾された部屋がある。

    内と外で、一見これほど違う装いは、初めてだった。

  • これは、リヤドの中庭の部分である。<br />マラケシュの宿泊したこのリヤドは、そうでも<br />なかったが、フェズのリヤドは、非常に美しかった。<br /><br />玄関の内と外で、これほど違う装い、<br />ドアは、窓さえなく、これが入り口?と思うほど貧弱。<br />ところが中は別世界。<br />この家の建築方法は、<br />風や日差しなどの気候の影響を最小限に抑えるとともに、<br />プライバシーを重視したイスラムの教えに合致しているようだった。

    これは、リヤドの中庭の部分である。
    マラケシュの宿泊したこのリヤドは、そうでも
    なかったが、フェズのリヤドは、非常に美しかった。

    玄関の内と外で、これほど違う装い、
    ドアは、窓さえなく、これが入り口?と思うほど貧弱。
    ところが中は別世界。
    この家の建築方法は、
    風や日差しなどの気候の影響を最小限に抑えるとともに、
    プライバシーを重視したイスラムの教えに合致しているようだった。

  • フロントの横で、<br />チェックインするところで、<br />書類に色々と記載した。

    フロントの横で、
    チェックインするところで、
    書類に色々と記載した。

  • マラケシュ3泊分のリヤド・アザリアのバウチャーである。<br />あとパスポートにアラビア文字で、フロントの担当者が<br />なにやら記載していたことを思い出す。

    マラケシュ3泊分のリヤド・アザリアのバウチャーである。
    あとパスポートにアラビア文字で、フロントの担当者が
    なにやら記載していたことを思い出す。

  • モロッコに宿泊する3都市のホテルバウチャーである。<br />フェズは、リヤドサラ。<br />カサブランカは記録を見ると、アトラス・LES・アルモンハデス。

    モロッコに宿泊する3都市のホテルバウチャーである。
    フェズは、リヤドサラ。
    カサブランカは記録を見ると、アトラス・LES・アルモンハデス。

  • アザリア中庭部屋の入り口。

    アザリア中庭部屋の入り口。

  • こちらは、2階部分の部屋。

    こちらは、2階部分の部屋。

  • 3階から下中庭を撮影。

    3階から下中庭を撮影。

  • ここは1階中庭

    ここは1階中庭

  • リヤドにチェックインしたあと、<br />早速ジャマェルフナ広場へ、歩いてみた。<br />徒歩3分くらいである。

    リヤドにチェックインしたあと、
    早速ジャマェルフナ広場へ、歩いてみた。
    徒歩3分くらいである。

  • 観光タクシーならぬ、観光馬車クチがひしめいて、<br />お客を待っていた。

    観光タクシーならぬ、観光馬車クチがひしめいて、
    お客を待っていた。

  • クチ、確か10数台は待機していたような記憶がある。

    クチ、確か10数台は待機していたような記憶がある。

  • そのあと、毎日3日間フナ広場が見渡せるカフェ<br />GRAND Balcon  Cafe Glacierに寄ってみた。<br /><br />ここの2階、フナ広場が全部見渡せる最高のカフェだった。<br />この日は、夕方訪問した。<br />1階はレストランだが、正面に2階に上がる階段がある。<br />そこを登ると、中はテラス式で、広くなって広場が見渡せるように<br />なっていた。<br />好きな飲み物を、必ず1本は注文して、多くのツーリストが<br />溢れていた。<br />どんな飲み物でも1本22.5DH、日本円260円。<br />外為格差を考えると途方もなく高い。<br />フナ広場 景色代と考えた方が良い。<br />料理ははっきりいってまずいので、ここでは<br />食べない方がよい。<br />

    そのあと、毎日3日間フナ広場が見渡せるカフェ
    GRAND Balcon Cafe Glacierに寄ってみた。

    ここの2階、フナ広場が全部見渡せる最高のカフェだった。
    この日は、夕方訪問した。
    1階はレストランだが、正面に2階に上がる階段がある。
    そこを登ると、中はテラス式で、広くなって広場が見渡せるように
    なっていた。
    好きな飲み物を、必ず1本は注文して、多くのツーリストが
    溢れていた。
    どんな飲み物でも1本22.5DH、日本円260円。
    外為格差を考えると途方もなく高い。
    フナ広場 景色代と考えた方が良い。
    料理ははっきりいってまずいので、ここでは
    食べない方がよい。

  • 黄昏時のフナ広場、遠くに<br />クトゥヴィア モスクの塔が見えている。

    黄昏時のフナ広場、遠くに
    クトゥヴィア モスクの塔が見えている。

  • クトゥヴィア モスクの塔を少し大きく撮影した。<br />クトゥヴィアとは、アラビア語で、本屋だという。<br />このモスクのそばには、本屋がずらりと並んでいたという。<br />12世紀のその昔、マグレブ全体の大モロッコは、<br />スペインアンダルシアやポルトガルの一部さえ<br />領土にしていたが、今ではアンダルシア形式の<br />尖塔ミナレットだけが残っているだけだ。

    クトゥヴィア モスクの塔を少し大きく撮影した。
    クトゥヴィアとは、アラビア語で、本屋だという。
    このモスクのそばには、本屋がずらりと並んでいたという。
    12世紀のその昔、マグレブ全体の大モロッコは、
    スペインアンダルシアやポルトガルの一部さえ
    領土にしていたが、今ではアンダルシア形式の
    尖塔ミナレットだけが残っているだけだ。

  • 少しづつトゥアイライト薄暮がやってくる。<br />遠くの方で礼拝を呼び掛けるアザーンがかすかに聞こえてきた。<br />4年前イスタンブールで聴いたアザーンより、<br />緩やかな旋律だった。<br />

    少しづつトゥアイライト薄暮がやってくる。
    遠くの方で礼拝を呼び掛けるアザーンがかすかに聞こえてきた。
    4年前イスタンブールで聴いたアザーンより、
    緩やかな旋律だった。

  • 徐々に人間たちが集まりつつあった。<br />半数は、世界中からのツーリスト、<br /><br />

    徐々に人間たちが集まりつつあった。
    半数は、世界中からのツーリスト、

  • 撮影風景を徐々に、<br />右に移す。<br />ここで夜毎の騒がしい狂おしい宴騒ぎが繰り広げられる。<br />いつまで見ていても何故か飽きない。

    撮影風景を徐々に、
    右に移す。
    ここで夜毎の騒がしい狂おしい宴騒ぎが繰り広げられる。
    いつまで見ていても何故か飽きない。

  • 夜のフナ広場の屋台風景。<br />呼び込みはすさまじいものだった。

    夜のフナ広場の屋台風景。
    呼び込みはすさまじいものだった。

  • 下に降りて、広場の中に入ってみた。<br />半数くらいは、地元民もまじっている。<br />

    下に降りて、広場の中に入ってみた。
    半数くらいは、地元民もまじっている。

  • マラケシュ楽器が目に留まる。<br />砂時計形の片面でたたく太鼓<br />擦って音出す弦楽器<br />皮の薄い太鼓みたいなベンティール<br />トゥベルという大きな太鼓<br />たて笛は、ガイタとかいう。

    マラケシュ楽器が目に留まる。
    砂時計形の片面でたたく太鼓
    擦って音出す弦楽器
    皮の薄い太鼓みたいなベンティール
    トゥベルという大きな太鼓
    たて笛は、ガイタとかいう。

  • ジュース売り場、<br />飲んでみたら非常な美味。<br />日本円でも結構な額がしたと記憶している。

    ジュース売り場、
    飲んでみたら非常な美味。
    日本円でも結構な額がしたと記憶している。

  • 遠目に果物売り場など。

    遠目に果物売り場など。

  • これもジュース売り場

    これもジュース売り場

  • 騒がしいことこの上ない

    騒がしいことこの上ない

  • 売り場にいる人間は、<br />背後にオーナーがいて、<br />おそらくは、歩合か何かで、働いている。<br />ペナン島での、できごとだが、<br />夜のフェリンギ通りの道路では、<br />やはり夜市がズラ―と並ぶが、商品を値切っていると<br />どこからともなく、それならいいよと、売り子とは違う人間が<br />現れて ああこれが店のオーナーか、と思わされる時が<br />何回もあったこと思い出す。

    売り場にいる人間は、
    背後にオーナーがいて、
    おそらくは、歩合か何かで、働いている。
    ペナン島での、できごとだが、
    夜のフェリンギ通りの道路では、
    やはり夜市がズラ―と並ぶが、商品を値切っていると
    どこからともなく、それならいいよと、売り子とは違う人間が
    現れて ああこれが店のオーナーか、と思わされる時が
    何回もあったこと思い出す。

  • 果物売り場

    果物売り場

  • 地面に置いた景品を客に<br />釣りあげさせる仕組みの夜店。

    地面に置いた景品を客に
    釣りあげさせる仕組みの夜店。

  • フナ広場を別角度で。

    フナ広場を別角度で。

  • この日は、初日だったので、<br />リヤドへ帰った。

    この日は、初日だったので、
    リヤドへ帰った。

  • これは、次の日の<br />クトゥビアモスクが見えるフナ広場。<br />マグリブ地方のモスクはイスラムの中でも、<br />所謂マーリク派に属する。<br />異教徒を、モスクの中には、入れない1番厳格な派閥。<br />換言すれば、不寛容さに充ちている。<br />この点イスタンブールなどでは、<br />どんな異教徒でも入ることできるので、オープンであるのと、<br />大違い。

    これは、次の日の
    クトゥビアモスクが見えるフナ広場。
    マグリブ地方のモスクはイスラムの中でも、
    所謂マーリク派に属する。
    異教徒を、モスクの中には、入れない1番厳格な派閥。
    換言すれば、不寛容さに充ちている。
    この点イスタンブールなどでは、
    どんな異教徒でも入ることできるので、オープンであるのと、
    大違い。

  • 同上

    同上

  • 別角度から

    別角度から

  • 同じGRAND Balcon  Cafe Glacierからの屋台風景

    同じGRAND Balcon Cafe Glacierからの屋台風景

  • 夥しい数の屋台風景

    夥しい数の屋台風景

  • 徐々に右に移して

    徐々に右に移して

  • それにしても、と思う。<br />2日だけなのに、モロッコは<br />やはりチップ天国だった。<br />天国というと聞こえはよいが、<br />その背景は、すさまじい貧富の格差、<br />とりわけ、労働法制のずさんさを<br />内外にさらけ出しているのだと感じられた。<br />外国人に金を無心する背後にはイスラム社会の別の面が<br />見え隠れする。おそらくは、恐るべき失業率があるのでは<br />ないか。生産関係は、この国の若者たちのプライドを<br />世俗の世界に売り渡してはいはしないか。<br />そんなことを考えていた。<br /><br />明日は、クトヴィア バヒア宮殿 スーク などに<br />行って見ようと、フナ広場の喧騒の中で思っていた。<br />

    それにしても、と思う。
    2日だけなのに、モロッコは
    やはりチップ天国だった。
    天国というと聞こえはよいが、
    その背景は、すさまじい貧富の格差、
    とりわけ、労働法制のずさんさを
    内外にさらけ出しているのだと感じられた。
    外国人に金を無心する背後にはイスラム社会の別の面が
    見え隠れする。おそらくは、恐るべき失業率があるのでは
    ないか。生産関係は、この国の若者たちのプライドを
    世俗の世界に売り渡してはいはしないか。
    そんなことを考えていた。

    明日は、クトヴィア バヒア宮殿 スーク などに
    行って見ようと、フナ広場の喧騒の中で思っていた。

47いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

モロッコで使うWi-Fiはレンタルしましたか?

フォートラベル GLOBAL WiFiなら
モロッコ最安 492円/日~

  • 空港で受取・返却可能
  • お得なポイントがたまる

モロッコの料金プランを見る

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

PAGE TOP