2018/05/17 - 2018/05/17
204位(同エリア307件中)
ムッシュさん
鈴鹿峠から土山宿へ下ってゆきます。街道歩きも滋賀県に入りました。
広重は田村川に架かる田村橋と左に田村神社の杜、そして雨を描いています。
伊勢の海から吹き上げてくる風が、鈴鹿山を越えると雨になることが多く、「坂は照るてる 鈴鹿はくもる あいの土山 雨が降る」という馬子唄が生まれました、広重はこの春雨を描き込んでいます。
- 旅行の満足度
- 5.0
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峠を越えれば土山宿になります。ここは土山宿の峠で周辺にはお茶畑。近江や宇治に近いからか??
峠に向かっての上りは、これよりなだらかに下って行きます。 -
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右から下ってきて、車道沿いの歩道を琵琶湖に向けて延々と下ります。
通ってきた峠道のしたは、現代のトンネルです。 -
道路開発の影響で路面高さが変わったらしい? 土に埋もれた鳥居と参道の常夜灯も見かけました
右手筋角に大正5年(1916)の鳥居と明治27年(1894)の常夜燈が建っている -
【鈴鹿、土山の歌碑】
鈴鹿馬子唄碑には「坂は照るてる 鈴鹿はくもる あいの土山 雨が降る」の歌詞が刻まれています。
『鈴鹿馬子唄』。
「坂は照る照る鈴鹿は曇る あいの土 山雨が降る」 近江・伊勢の国は鈴鹿山脈で隔てられ、二つの国を行き来するには必ず峠を越えなければならない。江戸時代の東海道は鈴鹿峠を越えていたが、
「東の箱根、西の鈴鹿」と言われるように旅人には非常に難所であった。
その為にこの峠を人や荷が越えるのには、馬の背を借りることが多くなり、馬の手綱を引いて駄賃を取る馬子たちも多く存在した。
彼らの間で自然発生的に唄われたのが鈴鹿馬子唄で、日本各地に伝わる馬子唄や追分節とよく似ており、ゆっくりした長子で哀愁を帯びた節で唄われる。
歌詞は七・七・七・五の甚句形式で、主に関宿や坂下宿のことが唄われている。
冒頭に掲げたのは一番の歌詞であるが、「あいの土山」の解釈には諸説があり判然としないものの、その中の一つには「あいのう雨が降る」即ち「間もなく雨が降る」と解釈する説もある。
しかし今日では意味を問うことなく「あいの土山」として三音節ながら土山の枕詞のように使われ多くの人々に親しまれている。」 -
山燈篭
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鈴鹿馬子唄碑、山燈籠がありました。
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櫟野(いちの)観音道(大原道)道標があります、
「いちゐのくわんおん道」と刻まれています、
【檪野観音道(大原道)道標】
山中地区の旧東海道沿い、現在は第二名神高速道路土山橋の橋脚が建てられているこの附近から南西に伸びる道がある。この山道は、古くから東海道と神村(甲賀町大字神)・檪野村(甲賀町大字檪野)方面をつなぐ生活の道として利用され、大原道とも呼ばれていた。
当時、道標は東海度との分岐点に建てられていたが、幾度の道路整備により、現在はここ一里塚緑地に移転されている。
この道標には「いちゐのくわんおん道」、側面には檪野寺本尊の十一面観音の慈悲を詠んだ、虚白の「盡十方(つくすとも)世にはえぬきや大悲心」という句が刻まれており、檪野の檪野寺への参詣道でもあったことを伝えている。
自動車交通の発達にともなう道路の整備が進み、山づたいに広がっていた生活の道はほとんど使用されなくなったが、わずかに残る道標は、道を通じての人々の交流を物語っている。
平成十五年三月 土山町教育委員会 -
旧道を進むと、左手に【東海道猪鼻村碑】があります、
猪鼻の地名はこの地に鈴鹿山から下りてくる猪を除ける垣根があったところに由来しています。
猪鼻村は五十戸の集落で立場でした、草餅や強飯が名物でした。
臨済宗医王山浄福寺の参道口に大高源吾句碑「いの花や 早稲のもまるゝ 山おろし」があります、赤穂浪士の一人で俳人(俳号子葉)であった源吾が旅の途中で詠んだ句です。
『猪鼻村碑』
ここが猪鼻集落の江戸方(東側)出入口。
猪鼻村は、土山宿から坂下宿間の立場 (休憩所) があり、草餅や強飯が名物であった。 -
『東海道 猪鼻村』
「猪鼻村は、鈴鹿山脈の西方に位置し、中世は鈴鹿山警固役であった山中氏の支配を受け、近世は幕府領や諸藩領となり幕末にいたる。
村中を東海道が東西に5町36間余(約610m)、商いを営む者も多く、往時50戸を超え街道を賑わしていた。土山宿から坂下宿間の立場 (休憩所) があり、草餅や強飯が名物であった。村高は、53石余 「天正19年(1591)徳川家康知行目録写」、おもな産業は農業で、製茶や林業も行われた。
赤穂浪士の一人で俳人の大高源吾 (俳号は子葉) が旅の途中に詠んだ 「いの花や早稲のもまるゝ山越ろし」 の句碑がある。 井上士朗の 『幣袋』 に安永3年(1774)鈴鹿峠に向う途中で「猪鼻峠といふ名のをかしければ、ゐのししの鼻吹き返せ青あらし・・・・」 とある。
寺院は、臨済宗東福寺派の淨福寺、集落の東端には火頭古神社があり、本殿は十七世紀後半の造営とされ、国登録有形文化財となっている。
明治22年猪鼻村は町村制により甲賀郡山内村大字猪鼻、昭和30年合併により
甲賀郡土山町大字猪鼻、平成16年10月1日合併により甲賀市土山町猪鼻となる。」 -
赤穂浪士の一人で俳人であった『大高源吾(俳号子葉)の句碑』があった。
「いの花や 早稲のもまるゝ 山越ろし 子葉」
大高源吾は俳号を子葉と名乗っていたとのこと。
「猪鼻立場
猪鼻集落は東海道土山宿から東へ3kmの位置にあり、江戸時代には立場(たてば)として賑わった。立場とは宿場と宿場の間で休憩するところで、旅人が自分の杖を立てて一息入れたところから名付けられた。現在は緩やかな坂になっているが、往時は土山宿との間に険しい猪ノ鼻峠があって旅人を難渋させたのでこの辺りで休憩を必要としたのであろう。
江戸時代には50戸余りの人家があり、旅籠や商家、茶店などが6軒ほどあったといわれる。ここでは草鞋や日用品をはじめ、岩くぐという草で作った蓑(雨具)、よもぎ餅、柿ちまき、強飯、飴、経木で作った水呑みなどが売られていたことが江戸時代の紀行文に記されている。
明治元年(1868年)の明治天皇御東幸の折り、旧暦9月23日に旅籠中屋を御休憩や昼食に利用されたことがあり、その後も三度にわたり明治天皇や皇室の方々がここに立ち寄られている。
また忠臣蔵で名高い赤穂浪士の一人、大高源吾は子葉という俳号で「いの花や 早稲のもまるゝ 山おろし」という句を残している。」 -
坂を下ると右手に【榎島神社】があります、
白川神社の末社です、白川神社御旅所標石があります。
境内の大きい祠は鈴鹿山にはびこる山賊を退治した坂上田村麻呂を祀る田村社です、小さな祠は退治された山賊を祀る蟹社
『榎島神社』は白川神社の末社で、境内には『白川神社御旅所碑』が建っており、
段上には坂上田村麻呂を祀る『田村社』と『蟹社』があった。
鳥居の傍には推定樹齢400年の御神木のシイが立っていた。 -
【田村神社】
峠の下り道をほぼ下りきりました。
田村神社は近江国(滋賀県)と伊勢国(三重県)の国境にあり、古来には都より伊勢へと参宮する交通の要衝でした。 そのため、交通の障害を取り除いて土地を安定させた坂上田村麻呂公の御遺徳を仰ぎ、弘仁3(812)年の正月、 嵯峨天皇は勅令を出して坂上田村麻呂公をこの土山の地に祀られることになった。西の難所として知られる鈴鹿峠。その鈴鹿峠を降ると見えてくるのが田村川。 かつては東海道が田村神社の境内を通っており、田村川を渡るために板橋が架かっていた。 江戸時代中期の安政4年に完成し、かの安藤広重の『東海道五十三次』にも描かれたのがこの板橋で『春の雨』の副題で知られています。 しかし、昭和初期に台風で流されてしまい、平成17年7月に再建され「海道橋」と命名されました。 -
【田村神社】は弘仁三年(812)創建の古社です。
大和朝廷の命により征夷大将軍として蝦夷を平定した坂上田村麻呂を祀っています、北土山の鎮守です。
*田村神社は弘仁3年(812年)の創建と伝えられる古い神社で、蝦夷征討で功績のあった「坂上田村麻呂」と嵯峨天皇、倭姫命を祀っている。また厄除け神社としても地元の信仰を集めている。本殿は、元文4年(1739)に焼失した社殿を再建したもので、築後260年以上になるという。拝殿は工事中で、本殿は、向拝に牡丹と孔雀、そして鳳凰(ほうおう)を彫刻してあり、県下の江戸時代の社殿としては、注目すべき建築。 -
田村神社マップ
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海道橋(旧田村川橋)で田村川を渡ります。
田村川は鈴鹿山系の宮指路岳(くしろだけ)山麓に源を発し、流末は野洲川に落合います。
この橋も参道の一部で東海道の一部です。しかし、昭和初期に台風で流されてしまい、平成17年7月に再建され「海道橋」と命名されました。 -
長閑な畷道を進み、突当りの海道橋(旧田村橋)で田村川を渡ります。
かつては東海道が田村神社の境内を通っており、田村川を渡るために板橋が架かっていた。
江戸時代中期の安政4年に完成し、かの安藤広重の『東海道五十三次』にも描かれたのがこの板橋で『春の雨』の副題で知られています。
しかし、昭和初期に台風で流されてしまい、平成17年7月に再建され「海道橋」と命名されました。
『田村川』に架かる『海道橋(旧田村橋)』には擬宝珠が付けられていた。
ここに橋が初めて架けられたのは安永4年(1775年)、田村永代板橋と呼ばれ
幅二間一尺五寸(約4.1m)、長さ二十間三尺(約37.3m)、約30cmの低い欄干が付いていた。それ以前は現在の国道1号が通る田村橋より約50m下流辺りを徒歩により渡っていたという。
江戸時代の板橋を再現したというもので、平成17年3月に架け替えられたと。
海道橋の渡り詰めには、井上士朗の句碑、そして歌川広重画 「東海道五拾三次之内土山春之雨」があった。 -
旧東海道は『田村神社』方向にまっすぐ進む。
その先に田村川に架かる『海道橋(旧田村橋)』の袂手前に高札場跡があった。
復元された高札には、道中奉行所から出された規則(定め書)の内容が書かれており、一般の旅人については一人につき三文、また荷物を馬に乗せて渡る荷主についても馬一頭につき三文の渡り賃をとることが書かれていた。
下記に句読点を補い読み下し文で紹介。
「田村川橋歩行渡しの処、出水の節、差支候に付、土山宿自普請を以、道附替橋掛渡し、当閏十二月二十三日より相通し、御用の通行、武家の往来、近村渡世の者これ除き、其外諸旅人より壱人に付三文宛、荷一駄に付荷主より三文宛 永くこれ取るべく者也。 安永四未閏十二月 道中奉行」。 -
「高札の解説について」
この高札の文章は、田村川橋 について、道中奉行所から出された規則(定め書)の内容が書かれているものです。
この田村川橋ができるまでは、この橋から約600m程下流に川の渡り場がありましたが、大水が出るたびに溺れ死ぬ旅人が多く出たため、 その対応に土山宿の役人達をはじめ、宿の住民の苦労は大変なものでした。 また、川止めも再三あり、旅人を困らせていました。
そこで幕府の許可を得て、土山宿の人達が中心になりお金を集め、今までの東海道の道筋を変えて新しい道を造り、田村川木橋を架けることになりました。
「この橋を渡ることができるのは、安永4年(1775)の閏月12月の23日からである。(旧暦には閏月があり、この年は12月が2回続く) この橋を渡る時、幕府の用で通行する人達や、武家の家族が渡る時は無料である。 また、近村に住む百姓達の中、川向うに田畑があり、毎日橋を渡って生活しなければならない人達の渡り賃も無料である。しかし、それ以外の住民および一般の旅人については1人につき3文、また荷物を馬に乗せて渡る荷主についても馬1頭につき3文、渡り賃を取ることになっている。
この規則は一時的なものでなく、橋があるかぎり永遠に続くものである。」 -
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広重は田村川に架かる田村橋と左に田村神社の杜、そして雨を描いています。
伊勢の海から吹き上げてくる風が、鈴鹿山を越えると雨になることが多く、
「坂は照るてる 鈴鹿はくもる あいの土山 雨が降る」という馬子唄が生まれました、広重はこの春雨を描き込んでいます。 -
【広重の浮世絵】
鈴鹿峠を越えて最初の宿場土山は、雨の多い土地、地元の馬子唄にも唄われている、おびただしい雨に打たれ、カッパ着て歩く、大名行列がうなだれて進んでゆく。
ほんとに、激しい雨の激しさと勢い。左下の橋は、田村川を渡る田村橋。
「坂は照る照る鈴鹿は曇る、あいの土山雨が降る」(鈴鹿馬子唄の一部)
「歌川広重は、多くの道中図や名所図を描いているが、天保4年(1833)に刊行された 「東海道五拾三次」 (保永堂版)は、その中の代表作といえる。作品には、季節感や自然現象、旅人の姿や各地の名物などが随所に織り込まれ、叙情豊かな作風を生み出している。
土山を描いた 「春之雨」 は、大雨の中、橋を渡る大名行列が行く姿を描いたもので、田村川永代板橋を渡り、田村神社の杜のなかを宿場に向かっている風景であると言われている。土山宿は東海道49番目の宿で、東の田村川板橋から西の松尾川(野洲川)まで、22町55間(約2.5km)に細長く連なっていた。
東の起点である田村川板橋は、安永4年(1775)に架けられたもので、このとき東海道の路線が変更され、田村神社の参道を通るようになったと言われている。」 -
土山宿の街並み案内図
左端が、田村神社に隣接してる。右に向かって、西方向に進みます。
土山の地名は中世、甲賀50家の一つ土山氏がこの地を治めたところを由来としています、難所鈴鹿峠を控え、大いに賑わいました。
天保14年(1843年)の頃、土山宿の宿内家数は153軒、うち本陣3、脇本陣1、旅籠48軒、宿内人口は564人で、宿長は22町55間(約2.5km)で北土山と南土山で構成されていました。 -
宿内の家屋には旧屋号の札が掲げられています。
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『井上士朗句碑解説』
「江戸、中、後期の俳人。 初号支朗、別号枇杷園、朱樹叟。尾張(愛知県)守山の人。名古屋新町の町医井上家の養子となり3代目を継ぐ。
俳諧を加藤暁台、国学を本居宣長、絵画を勝野范古、平曲を萩野検校に学び、医者としても城下一の評判があった。 俳諧では 「尾張名古屋は士朗(城)で持つ」 と俗謡にうたわれ、夏目成美、鈴木道彦と共に、寛政三大家の一人として重んじられた。 編著は枇杷園句集(1804)、枇杷園句集五集(1808)、枇杷園随集(1810)、枇杷園七部集(1~5編)に収められる。」 -
【土山宿地蔵堂】
堂脇には「右京都15里、左江戸百十里」の石碑や上島鬼貫の句碑がある。
【上島鬼貫句碑「吹け波(ば)ふけ 櫛を買いたり 秋乃風」】があります。
上島鬼貫(うえじまおにつら)は東の芭蕉、西の鬼貫といわれました、貞享3年(1686年)秋、鬼貫はここでお六櫛を買い求め、鈴鹿峠に向いました。
中山道藪原宿の櫛職人が伊勢詣の帰路、病を罹り村人の世話になった、お礼にお六櫛の技法を伝えたものという。以来お六は土山宿生里野村の名物になった。
大阪の伊丹生まれのはいじん。東の芭蕉、西の鬼貫といわれる。 -
祠があります、二体の地蔵尊が安置されています、白化粧されていますからお洒落地蔵かも知れません。
傍らに新しい道標があり、「従是 右京都へ十五里 左江戸へ百十里」と。 -
「上島鬼貫」
上島鬼貫は、伊丹で生まれた俳人で、東の芭蕉、西の鬼貫とも言われ、独自の俳諧の境地を拓いた人である。 この俳句は、上島鬼貫が、貞享3年(1686)の秋に、東海道の旅の途中、土山に寄り、お六櫛を買い求め、鈴鹿の山へ向かう時に詠んだ句である。」
以前は「大阪の伊丹」と記入されていたようだが、伊丹市は兵庫県にあるので白く消したのであろう。
「お六櫛江戸元禄の頃、 江戸元禄の頃、信濃の国の櫛職人が伊勢参りを終えて京都見物に行く途中、ここ土山宿の生里野で重い病気になり、生里野の民家で養生させてもらって一命をとりとめ、京へと旅立つことができました。
その旅人は信濃へ帰国した後、土山で受けた恩恵に報いようと、櫛の製法を伝授すべく再度土山を訪れました。この櫛は「みねばり」などの木を材料にして作られ、土産物として大変人気がありました。最盛期には十軒余りの業者が櫛に関わっていましたが、今は姿を消してしまいました。」 -
宿並の右手に「扇屋伝承文化館」があります、本家櫛所の看板を掲げています、土山宿名物の”お六櫛”を商う商家でした。
中山道薮原宿の櫛職人が伊勢詣の帰路、病に罹り村人の世話になり、礼にお六櫛の技法を伝えたものといいます。
以来、お六櫛は土山宿生里野村の名物になりました。 -
わずか10cmにも満たない幅におよそ100本もの歯をもつ「みねばりの木」で
作った櫛・『お六櫛』。
お六櫛は中山道の薮原宿の名物で、元禄年間に藪原宿に住んでいたお六という娘が
みねばりの木で作った櫛が由来で、現在でも薮原で作られている。
1669年に木曽の旅人が伊勢参りをした後、京見物の途中に病に倒れ、土山で介抱してもらい助けられた。そのお礼に、「お六櫛」を木曽から送るので、この土山で販売しなさい……ということが商売の始まりだとか。
これにより、江戸時代の土山宿はお六櫛を商う店が多くあり、街道の名物になっていたとのこと。三日月屋の先にもお六櫛商を掲げた木札が数軒あったが、どの家も三日月屋となっていた。薮原の三日月屋から仕入れた櫛を東海道を旅する人々に個々に販売していた -
右手に【東海道一里塚跡標石】があります、土山の一里塚跡です、塚木は榎でした、江戸日本橋より数えて110里目です。
「東海道一里塚跡
旅行者の便をはかって、街道の一里毎にその目印として設置されたのが一里塚である。この制度が整ったのは、慶長8(1603)家康が日本橋を仮設 し、翌9年この橋を起点として東海、東北、北陸の諸街道を修理し、その折一里(36町)毎に道の左右に相対して一里塚を築き、塚の上に榎などの木を植えて遠くからでも望見できるよう旅行者の便をはかったことにはじまっている。
加賀市土山町内の設置場所は山中地区、土山地区、大野市場地先であったが現在その跡はほとんど残っていない。土山のこの地名を一里山と呼称しているのも一里塚に起因している。塚の規模は、およそ高さ二.五m、円周十二mの大きさであったらしい。この近くで柄の形をほぼ残しているのは亀山市の野村一里塚で塚の上には椋が植えられている。」 -
来見(くるみ)川を来見橋で渡ります、欄干には土山茶もみ唄の一節や東海道に関するレリーフが組み込まれています。
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本来の「土山宿」入口であったらしい。橋の欄干には土山茶もみ歌となどの絵が掛けられていた。
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来見(くるみ)川を来見橋で渡ります、欄干には土山茶もみ唄の一節や東海道に関するレリーフが組み込まれています。
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【白川神社】
南土山の鎮守です、本殿は文久3年(1863年)の造営。
本殿前には、願掛け石がある。この神石を撫でると願いが叶うと言われる。
毎年七月末の土、日曜日に行われる土山祇園祭花傘神事は滋賀県選択無形民俗文化財です。
【白川神社】
祭神は速須佐之男尊、天照大神御神、豊受大御神。古くは牛頭大王社・祇園社などと呼ばれていた。寛文5年(1665)2月11日の火災により延焼し現在の場所に遷座する。本殿は、文久3年(1863)に改造された。7月第3日曜日行われる「土山祇園祭花笠神事」は祇園祭の前宮祭と呼ばれ、大字南土山14組ごとに奉納された花笠から花を奪い合う「花奪い行事」が行われる。これは、承応3年(1654)に復興されたと伝えられ、滋賀県選択無形民族文化財になっている。天明7年(1787)に光格天皇の嘉永元年(1868)に、孝明天皇の両大嘗祭に当社拝殿が悠紀斎田抜穂調整所となった。また、明治元年(1868)旧暦9月22日、明治天皇御東幸御駐輦の時に当社境内が内待所奉安所にあてられた。本殿の前には願かけ神石があり、この神石をなでると健康長寿・祈願成就がかなうと伝えられている。(土山町教育委員会) -
”旅籠平野屋”跡標石があります。
明治33年(1900年)森鴎外が祖父白仙の墓参に訪れ、ここで一泊しました。
森白仙終焉の地。森鴎外の祖父白仙は石見國津和野藩亀井家の典医でした、文久元年(1861年)参勤交代に随行し、ここで病のため息をひきとりました。
*白仙終焉の地 井筒屋跡 の石柱を見る。 森鴎外の祖父白仙は文久元年(1861)11月7日この井筒屋で没した。森家は代々津和野藩亀井家の典医で、白仙は参勤交代の折り、ここでなくなった。その斜め前が森鴎外が墓参りで訪れ、泊った平野屋。 -
『堤屋(二階屋)本陣跡』
「本陣とは江戸時代に大名・旗本・幕府公用人・勅使・公家・門跡などが、宿駅での休泊に利用した公認の宿舎である。
土山宿には吉川町の北土山村側にあった土山家本陣と、中町の南土山村側にあった
堤家本陣尾二軒があった。堤家本陣はその屋号から「二階屋本陣」とも呼ばれ、代々忠左衛門を名乗った。史料上の初見は
江戸時代前期の延宝8年(1680)で、以後土山家本陣とともに本陣職を勤めた
(「土山家本陣宿帳」)。本陣は一般に150~200坪程度の建物があり、門構えや玄関、上段の間を設けたが、天保14年(1843)当時、門構えと玄関をもっていた(「東海道宿村大概帳」)。
建坪は196坪と、土山家本陣の325坪よりは小規模であった。
堤家本陣は幕末には衰微し、これより約250m西、吉川町の北土山村側にあった大旅籠の大黒屋がその代替として利用された。」 -
【土山宿】
土山町は、平安時代に伊勢参宮道が鈴鹿峠を越える旧東海道筋を通るようになって以来、難所を控える宿駅として発達してきた。
源頼朝が幕府を鎌倉に開くと従来の京都中心の交通路は、京都と鎌倉を結ぶ東西交通路線が一層重要視されようになり、武士の往来のみならず商人、庶民の通行も以前に増して盛んになった。とくに江戸幕府は、伝馬制度を整備し、宿駅を全国規模で設け、土山宿は、東海道五十三次の第四十九番目の宿駅に指定されてから、宿場町として真に降盛しはじめた。
宿場の主体をなしたのは御役町で、そこには公用人馬の継立などをつかさどる問屋場、公用者の宿泊のための本陣、脇本陣やそのほか公用にあたる者が住み、幕府は御役町の保護のために、地子の免除その他の特権を与えていた。この御役町を中心に一般の旅人のための旅籠屋店、茶店などがあり、全体が街道のわきに細長く宿場町を形成していた。
平成七年三月 土山町教育委員会 -
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【問屋宅跡】
堂々たる構えです。松山家が屋号油屋佐平次と称して問屋を勤めた。 -
問屋宅跡があります、堂々たる構えの遺構を残しています、松山家が屋号油屋佐平次と称し、問屋を勤めました。
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問屋宅跡があります、堂々たる構えの遺構を残しています、松山家が屋号油屋佐平次と称し、問屋を勤めました。
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問屋場跡
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問屋場跡表示
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【土山宿本陣跡碑】
甲賀武士土山鹿之助の末裔、土山善左衛門を初代として、代々土屋家が勤めた。
黒漆喰塗籠の外観が特徴。現在も子孫が居住して使用してるのは、東海道でも土山家本陣のみ。明治天皇が17歳の時宿泊したこともある。
寛永十一年(1634)家光の上洛に際して建てられたもの。将軍、皇族、諸大名の宿泊場所。調度類、宿帳、関札などが管理・保存されている。
【土山宿本陣跡 】
土山宿は、東海道の起点である江戸日本橋より、106里32町、終点京都三条大橋まで15里17町余の位置にある。土山宿本陣は、寛永11年(1634)三代将軍徳川家光が上洛の際設けられた。土山氏文書の「本陣職之事」によってわかるように、甲賀武士・土山鹿之助の末裔土山喜左衛門を初代として之を勤めた。本陣は当時の大名、旗本、公家、勅使等が宿泊したもので、屋内には現在でも当時使用されていたものが数多く保存されており、宿帳から多くの諸大名が宿泊したことを知ることができる。明治時代になると、皇室の東京・京都間の往来も頻繁となり土山宿にご宿泊されることもしばしばであった。なかでも明治元年9月、天皇行幸の際にはこの本陣で誕生日を迎えられて、第1回天長節が行われ、土山の住民に対し神酒・鯣が下賜され、今なお土山の誇りとして語りつがれている。本陣は、明治維新で大名の保護を失い、明治3年(1870)宿駅制度の廃止に伴いなくなった。(土山町教育委員会) -
敷地内の漢詩碑の奥に明治天皇聖蹟碑があります、明治元年(1868年)行幸の際に、この本陣で明治天皇は十七歳の誕生日を迎え、第一回天長節が行われました、土山の住民に対しては、神酒、鯣(するめ)が下賜されました。
漢詩碑にはこの祝賀の様子が詠われています。 -
【土山本陣(フォト借用)】
土山宿は、東海道の基点である江戸日本橋より、百六里三十二町、終点京都三条大橋まで十五里十七町余の位置にある。
土山宿本陣は、寛永十一年(1634)、三代将軍徳川家光が上洛の際設けられた。土山氏文書の「本陣職之事」によってわかるように、甲賀武士土山鹿之助の末裔土山喜左衛門を初代としてこれを勤めた。
本陣は当時の大名・旗本・公家・勅使等が宿泊したもので、屋内には現在でも当時使用されていたものが数多く保存されており、宿帳から多くの諸大名が宿泊したことを知ることができる。
明治時代になると、皇室の東京・京都間の往来も頻繁となり、土山宿にご宿泊されることもしばしばであった。なかでも明治元年九月、天皇幸行の際には、この本陣で誕生日を迎えられて、第一回天長節が行われ、土山の住民に対し、神酒・鯣が下賜され、今なお土山の誇りとして語りつがれている。
本陣は、明治維新で大名の保護を失い、明治三年(1870)宿駅制度の廃止に伴いなくなった。
平成三年三月二十五日 土山町教育委員会 -
【明治天皇聖蹟碑】があります、明治元年(1868年)行幸の際に、この本陣で明治天皇は十七歳の誕生日を迎え、第一回天長節が行われました、土山の住民に対しては、神酒、鯣(するめ)が下賜されました。
(漢詩の読み)
鈴鹿山の西に、古よりの駅亭あり。 秋風の一夜、鳳輿(ほうよ)停る。 維新の正に是、天長節なり。恩賜の酒肴を今賀(いわい)に当てる。 土山駅先帝行在所即吟 井上圓了道人
(解説)
この漢詩は、大正3年、佛教哲学者で有名なる井上圓了博士がたまたま、土山本陣跡に来られた時、第10代の本陣職であった土山盛美氏が、この本陣について説明された中に、この本陣に明治天皇が明治元年9月22日の夜に一泊なされ、その日が偶然にも天皇即位最初の誕生日に当たり、次の日この本陣で祝賀式が挙行され、祝として土山の住民全戸へ酒・肴を御下賜あった事を述べると、井上博士は非常に感激して、即座にこの漢詩を書置かれたものである。(土山の町並みを愛する会) -
林羅山の漢詩碑があります、土山を詠っています。漢詩碑にはこの祝賀の様子が詠われています。
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【林羅山の漢詩碑の解読と解説】
(解読)
行李(あんり)東西 久しく旅居す 風光 日夜郷閭(きょうりょ)を憶ふ 梅花に馬を繋ぐ 土山の上 知んぬ是崔嵬(さいかい)か 知んぬ是岨(しょ)か
(意味)
東から西、西から東へと長く旅していると、途中のいろんな景色を目にする度に、故郷のことを想い起こす。さて、今、梅花に馬を繋ぎとめているのは土山というところである。いったい、土山は、土の山に石がごろごろしているのだろうか、石の山に土がかぶさっているのだろうか。
(解説)
作者、林羅山は、徳川幕府に仕えた江戸前期の儒学者。号を道春という。家康没後の元和2年(1616)、羅山34歳のとき、江戸を出発し、東海道を経て故郷の京都へ向かう。この詩は、途中の土山で詠んだもので、この間の紀行記『丙辰紀行』に掲載されており、その前文に「『釋詁毛傳』などに石山を土の山とよみ、土山を石の山とよむことを思いて」この詩を詠んだとある。(土山の町並みを愛する会) -
『土山や唄にもうたふはつしぐれ』 闌更
高桑闌更は1726年に加賀国(石川県)金沢の商家に生まれ、江戸時代中期頃に活躍した俳人。俳諧を和田希因に学び、蕉風の復興に努め、与謝蕪村らとともに、俳諧中興に貢献。後年、医を業としながら京都東山双林寺内に芭蕉像を安置する芭蕉堂を営んだ。
「土山や 唄にもうたふ はつしぐれ
作者 高桑闌更 俳人 享保十一年(一七二六)~寛政十年(一七九八)
加賀国金沢(石川県金沢市)に生まれる。 生家は屋号釣瓶屋という商家。
本名忠保(または正保)、通称は長次郎。 俳諧を和田希因に学び、蕉風の復興に努め、
与謝蕪村らとともに、俳諧中興に貢献。 後年、医を業としながら京都東山双林寺内に芭蕉像を
安置する芭蕉堂を営む。 芭蕉関係の俳書を翻刻、注釈するなど功績をあげた。 俳風は温和高雅。
門下から桜井梅室や土山に縁のある虚白禅師等を輩出する。 代表的な句集や編書に
「半化坊発句集」「落葉考」「芭蕉翁消息集」「花の故事」「深川集」などがある。」 -
『文豪森鴎外 来訪の地』碑。
「二日。天陰れり 午前六時大坂に至り、車を換ふ。
九時草津に至り、又車を換ふ 十時三雲に至り、車を下る。
雨中人力車を倩ひて出づ 午時土山常明寺に至る。 小倉日記」
『森鴎外と土山』
「森鴎外が土山を訪れたのは、明治三十三年三月二日、祖父白仙の墓参のためである。白仙は、石見国津和野の藩医であった。 万延元年(一八六○年)藩主の参勤交代に随行して江戸へ出向。 翌年五月帰国の際に発病し、遅れて国もとへ向かう。 途中十一月七日、土山宿井筒屋にて急死した。 遺骸は常明寺の墓地に葬られ、津和野へは遺髪のみが届けられた。
鴎外が生まれたのはその翌年である。 鴎外は祖父への思慕深く、小倉在往時代、軍医部長会出席のため上京の途中、土山へ立ち寄り、無縁仏同様に荒れ果てている祖父の墓を探し当て、常明寺の境内に墓を修した。 寺を出て平野屋藤右衛門の家に投宿し、翌日三雲を経て東京へ向かった。 明治三十九年祖母きよが、大正五年母ミネが没。 遺言により常明寺に葬られた。
昭和二十八年、三人の墓は津和野永明寺へ移された。 現在常明寺境内には、鴎外の子孫が建立した供養塔が立っている。」 -
『参勤交代と大名行列』
「江戸時代、幕府は大名を統制するために定めた、寛水12年(1635)の「武家諸法度」の中で、大名を一定期間江戸に在府させる参勤交代を制度化しました。そのため、大名たちは自分の領地と江戸を行列を組んで往復しなければならず、一般には一年おきの交代でしたが.関東の大名は半年ごと、遠方の対馬の宗氏は3年・蝦夷の松前氏は6年ごととし、幕府の要職に就いたものは、江戸に留まるよう定められていました.この参勤交代などの時に、大名たちが整える行列のことを大名行列といいます。もとは、戦時用の行軍形式をとっていましたが、やがて形式化し、華美なものになっていきました。
行列の規模や調度品などは石高や格式によって差がありましたが、大名にとって、江戸での生活や国元との往復には多大な費用がかさみ、藩の財政には大きな負担となりました。しかし、参勤交代制度の確立によって、交通網や宿が整備され、経済活動の発達や各地との文化交流を生み出しました。東海道は、参勤交代の大名たちが通る主要街道として発達し、宿では行き交う旅人たちでにぎわっていました。
土山宿でも、土山本陣の宿帳に多くの大名の宿泊記録が残されています。
なかでも熊本藩細川家との関係は深く、細川家ゆかりの調度品が伝わっています。」
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