2018/05/17 - 2018/05/17
414位(同エリア575件中)
ムッシュさん
関宿を経ち、坂下宿を抜けて鈴鹿峠へ
【坂下宿】
本陣三軒、脇本陣一軒、旅籠四十八軒を有する街道有数の宿場でした。なだらかな近江側と違い坂下宿から峠までは「八町二十七曲がり」といわれる山道。江戸時代には箱根に次ぐ難所として知られていた。
地名は、鈴鹿峠の坂下にあたるところからをゆらいとする。当初、片山神社の手前にあったが、慶安三年(1650)の洪水で壊滅、現在地に移る。
表紙フォトは、浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像
【東海道五十三次之内 阪之下 筆捨嶺 / 広重】
山頂までにところどころ、岩石が露出し、渓谷を形成し、二条の滝が流れている。茶店の旅人は、その絶景を眺め、清涼な空気をすって休んでいる。
下からは荷を積んだ牛が茶屋に近付いてきている。
- 旅行の満足度
- 4.0
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関宿を出発して、坂の下宿への道は徐々に山道へと向かいます。
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関宿辺りのマンホール図です
旧関町の花・シャクナゲ、町の鳥・キジ、町の獣・シカ、周囲に、町の木・スギを描いている -
坂の下宿では、少ないですが人家も所々に。
『鈴鹿峠』への上り坂が始まる。
三重県亀山市と滋賀県甲賀市をつなぐ標高約357mの峠。関宿からの標高差は約260m。滋賀県側は比較的なだらかだが、三重県側は高低差が激しく、いまなお「箱根峠に次ぐ国道1号有数の難所」といわれる。 -
【東海道五拾三次の内、坂之下 筆捨嶺(ふですてれい)】
室町時代の絵師 狩野元信が、この山を描こうと筆を取り、翌日描き残した部分を続けようとしたところ、雲や霞がたち、描けなくて筆を投げ捨てたので名前がついた。
広重はこの筆捨山の山容と、対岸の藤の茶屋を描いています、今の筆捨山は植生が変わり、樹木に覆われてしまい、中腹の一部に岩肌を残すのみです。 -
鈴鹿峠に向かう。峠超えに馬子唄を歌いながら、荷を載せてた馬を引いた。
近くに、鈴鹿馬子唄会館が有ります。 -
「坂下宿
東海道を近江から鈴鹿峠を越え伊勢に入った最初の宿場である。
貞和2年(1346)、京都醍醐寺三宝院の賢俊は伊勢参宮に赴いた折、「昼坂ノ下、夜垂水」と記している(『賢俊日記』)。同様に応永29年(1422)中原康宮が、同31年に将軍足利義量が参宮にあたり当地で小休止し出立している(『康富記』『室町殿伊勢参宮記』)。
大永4年(1524)連歌師宗長は「その夜は坂の下の旅宿」(『宗長日記』)とし、
弘治3年(1557)4月と8月には山科言継が大竹屋孫太郎宿に泊まっていること
(『言継卿記』)などから、少なくとも室町時代には宿として機能していたとみられる。しかし、慶安3年(1650)の大洪水で宿が壊滅し、翌年現在地に移転し復興された。なお、かつての宿は片山神社下の谷間にあり「古町」と呼ばれている。
江戸時代には、東海道五十三次のうち四十八番目の宿場町として賑わいをみせ、東海道の難所である鈴鹿峠を控えて参勤交代の大名家の宿泊も多かった。
江戸時代後半には本陣三軒、脇本陣一軒、旅籠四十八軒を数える東海道有数の宿となり、『東海道名所図会』には「此宿の本陣家広くして世に名高し(中略)海道第一の大家也」と記されるほどであった。しかし、明治23年(1890)関西鉄道の開通により通行者が激減したため宿場としての役割を終えた。」 -
【法安寺】
法安寺です、永正二年(1505年)に創建され、洪水で流失した後、承応二年(1653)現在地に再建されました、庫裏の玄関は松屋本陣の門を移築したもので、坂下に残る唯一の本陣建物の遺構です。
この鈴鹿山法安寺庫裡の玄関は江戸時代繁栄を極めた坂下の宿場で諸大名の休憩所となった松屋本陣の玄関であったのを明治十五年五月大字坂下七十九番地に坂下小学校舎改築の際学舎玄関に移築され昭和十三年四月沓掛地内の坂下村尋常高等小学校が移転新築される迄旧校舎の玄関として保全されていました。
この玄関は文化財として希少価値があり昭和三十五年10月法安寺庫裡玄関に転用移築したもので昭和五十七年七月本堂改築当り屋根瓦の葺替を実施しました。」 -
芭蕉さんの旅姿像???
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【岩屋観音】
万治年間(1658-60)法安寺の実参和尚が、旅人の安全を願って、巌窟に十一面観音を安置した。
昼なお暗い堂脇に清滝があるところから清滝観音とも呼ばれました。 -
江戸時代の「伊勢街道名所図会」の「坂下宿」に崖下に観音堂があり、その脇に
滝が落ちている絵が描かれているが、これが岩家観音あるいは清滝の観音という -
これより鈴鹿峠への道。これから車道を離れ、右側の人道・坂道を上ります。
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片山神社の参道。上り始めると片山神社?が峠前の中腹にある。実際山道のみで本殿はありません。火災で焼失した。
鈴鹿峠を守護する鈴鹿大明神で坂下宿の氏神。 -
「坂下宿~鈴鹿峠
坂下宿
坂下宿は、東海道を近江国(滋賀県)から鈴鹿峠を越えて伊勢国(三重県)に入った最初の宿場である。
大永4年(1524)、連歌師宗長は 「その夜は坂の下の旅宿」(「宗長手記」)とし、弘治3年(1557)4月と8月には山科言継が大竹屋孫太郎宿に泊まっている こと(「言継卿記」) などから、少なくとも室町時代には宿として機能していたとみられる。
このあたりは「古町」と呼ばれ、慶安3年(1650)9月の大洪水で宿場が壊滅するまで坂下宿のあった所である。 洪水後、坂下宿は約1km東に移転し、宿場集落として繁栄した。なお、洪水以前の寛永14年(1637)に実施された「勢州鈴鹿郡坂下村検地帳」によれば、坂下村全体で寺社のほかに111軒の人家があったとされる。 今も所どころに石垣が残り、往時の面影が偲ばれる。」
片山神社
片山神社は、延喜式内社で、元は三子山に祭祀されていたが、火災により永仁2年(1294)に現在の場所に移された (「片山神社縁起」) とされる。 明治以前は 「鈴鹿明神」「鈴鹿権現」と呼ばれ、「室町殿伊勢参宮記」(応永31、1424)にも「鈴鹿姫と申す小社の前に」と記されている。
東海道はこのあたりから「鈴鹿坂八丁二十七曲り」の急坂が始まり、「東の箱根峠、西の鈴鹿峠」と言われた街道の難所、鈴鹿峠へと続く。」 -
片山神社への一の鳥居。
延喜式神名帳に記載された古社です、鈴鹿峠を守護する鈴鹿大明神を祀り、坂下宿の氏神でした。
しかし、片山神社は火災で社殿は焼失。参道だけが残る。
この辺りから鈴鹿峠頂部まで8丁27曲の上りとなる。 -
【鈴鹿峠薙刀術発祥の地碑】
鳥居脇には、鈴鹿流薙刀術發生之地碑や享保二年(1717年)建立の燈籠が二基並んでいます。 -
【亀山市名勝・筆捨山】
東海道から見ると鈴鹿川を挟んだ対岸に位置する標高289mの山である。もともと岩根山と呼ばれていたが、室町期の画家狩野法眼元信がこの山を描こうと筆をとり、翌日書き残した分を続けようとしたところ雲や霞がたちこめ山の姿が全く変わってしまったため書き足すことができず、あきらめて筆を投げ捨てたことからこの名がついたと伝えられる。浮世絵では山中に滝が描かれるが実際は筆捨山には滝は無く近在の神大滝や岩屋観音の清滝の印象が盛り込まれているようである。(亀山市教育委員会) -
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上の掲示板の拡大図
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最後の階段状の上り道。鈴鹿峠はもう間直です。
片山神社を過ぎた辺りから八町二十七曲がりと言われる急勾配でつづら折の険しい石畳み。 -
峠道芭蕉句碑。
「ほっしんの初にこゆる(越ゆる)鈴鹿山」
松尾芭蕉は奈良、京をまわり、この鈴鹿峠を越えて(1685)に江戸に向かう。
元禄四年、門人乙州が江戸に旅立つ際の花向けの一句。
句碑には、「ほっしんの 初に越ゆる 鈴鹿山」 と刻まれていた。
裏面には 「貞享2年(1685)2月に伊賀を出発した芭蕉は、奈良・京をまわり、3月末頃鈴鹿山と呼ばれるこの峠を越えて江戸へ向かった。
「ほっしんの」 句は、古くこの峠を越えた西行 「鈴鹿山 憂世をよそに ふりすてていかになり行く わが身なるらん」 に思いをよせて詠まれたものである」 -
峠の頂上で、道もたいらになった。鈴鹿峠(標高378m)です。
【鈴鹿峠】
伊勢と近江の国境をなす標高三七八mの峠で、東海道は三子山と高畑山の鞍部を通っている。都が奈良盆地にあるときは、伊賀から加太峠を越え伊勢へ入る経路(後に大和街道と称す)が東海道であった。 しかし、仁和二年(八八六)近江から鈴鹿峠を越え伊勢へ入る阿須波道と称する新道が開かれ、同年、斎王群行がこの新道を通って伊勢神宮へ向かうよう定められたことから、この鈴鹿峠越えが東海道の本筋となった。
峠越えが開通して間もない昌泰元年(八九八)、伊勢神宮へ下った勅使が山賊に襲われている(「伊勢公卿勅使雑例」)。 建久五年(一一九四)には源頼朝が近江国山中の地頭山中氏に
盗賊の鎮圧を命じていることや(「山中文書」)、「今昔物語集」の蜂を飼う水銀商人が山賊を退治する逸話、「太平記」の坂上田村麻呂と戦った鈴鹿御前の話などから、 古代から中世にかけて山賊が横行していた様子がうかがえる。
また、「鈴鹿山」は伊勢国の歌枕として著名で多くの作品が残されている。
『拾遺集』
思ふ事なるといふなる鈴鹿山越えてうれしき境とぞきく 村上天皇
世にふればまたも越えけり鈴鹿山昔の今になるにやあるらむ 斎宮女御
『新古今集』
鈴鹿山浮き世をよそに振り捨てていかになりゆくわが身なるらむ 西行
このほか、峠頂上には磐座と推定される「鈴鹿山の鏡岩」や、坂上田村麻呂を祀った田村神社
旧跡があり、これらは峠祭祀に関わるものと考えられる。
江戸時代、鈴鹿峠は「東の箱根峠、西の鈴鹿峠」と言われ、松葉屋・鉄屋・伊勢屋・井筒屋・
堺屋・山崎屋の茶屋が建ち並び賑わっていた。
現在でもこれらの茶屋の石垣が残され、往時の情景を偲ぶことができる。」 -
この林を抜けると、万人講常夜灯が見えてくる。鈴鹿峠です。
伊勢と近江の國境、今は三重と滋賀の県境です。「道狭く険しく雨の日は清水が所々に湧き、越えるのが難しいと言われ、片山神社から「十八曲がり八町」と言われた。x -
【東海自然歩道道標】
『東海自然歩道』
「この歩道は、東京の「明治の森高尾国定公園」から大阪の「明治の森箕面国定公園」まで、美しい自然や文化財をむすぶ約1300kmの道です。 樹木や草花を大事にしましょう。野鳥を愛護しましょう。 文化財を大切にし、歴史に親しみましょう。たばこは吸がらに入れに、森林火災を起こさないよう注意しましょう。」
【鈴鹿峠の解説】
鈴鹿峠(378m)を越える初めての官道は「阿須波道(あすはみち)」と呼ばれ、平安時代の仁和2年(886)に開通した。
八町ニ十七曲といわれるほど、急な曲がり道の連続するこの険しい峠道は、平安時代の今昔物語集に水銀(みずがね)商人が盗賊に襲われた際、飼っていた蜂の大群を呪文をとなえて呼び寄せ、山賊を撃退したという話や、坂上田村麻呂が立鳥帽子という山賊を捕らえたという話など山賊に関する伝承が多く伝わっており、箱根峠に並ぶ東海道の難所であった。
また鈴鹿峠は、平安時代の歌人西行法師に
「鈴鹿山 浮き世をよそにふり捨てて いかになりゆく わが身なるらむ」と詠まれている。
江戸時代の俳人、松尾芭蕉も鈴鹿峠についての「ほっしんの 初に越ゆる 鈴鹿山」の句を残している。
環境省・三重県 -
「伊勢参宮名所図会」の鈴鹿山説明図
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峠近くの茶畑。地形的に急な坂道は、三重県側で、峠の東斜面だけです。
西斜面は、なだらかに琵琶湖に向かって下っている。広い茶畑も目立つ。 -
【万人講大石灯篭の常夜灯】
江戸時代の中頃、四国の金毘羅神社の常夜燈として鈴鹿峠に建てられ、東海道を往来する行商人信者が常夜燈に火を燈し、鈴鹿峠より伊勢の海遥か彼方四国金毘羅神社に航海と道中の安全を祈願されていました。
重さ38t高さ5m44cmの臣大な石燈籠は、山中村高幡山天ヶ谷より運び出され、地元山中村をはじめ坂下宿、甲賀谷の人達、三千人の奉仕によって出来上がったものと言われています。高さ約10mは日本随一の大きさを誇る。
【万人講常夜燈】
万人講常夜燈は、江戸時代に金毘羅参りの講中が道中の安全を祈願して建立したものである。重さ三十八t、高さ五m四十四cmの自然石の常夜灯で、地元山中村をはじめ、坂下宿や甲賀谷の人々の奉仕によって出来上がったと伝えられている。
もともとは東海道沿いに立っていたが、鈴鹿トンネルの工事のために現在の位置に移設された。東海道の難所であった鈴鹿峠に立つ常夜灯は、近江国側の目印として旅人たちの心を慰めたことであろう。」 -
続きは、鈴鹿峠頂上から、土山宿へ向かって下ります。
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