2016/04/06 - 2016/04/06
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junemayさん
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この度の2017年7月の西日本を中心とした豪雨により、被災された皆様ならびにご家族の皆様に、心よりお見舞い申し上げます。今なお避難されている皆様、復旧作業に従事されている皆様が多い中、暇人の旅行記をアップするのは心苦しいのですが、1日も早い復興を信じて、精一杯のエールを送らせていただきます。大好きな竹原の皆さま 頑張って下さい!
広島県には足を踏み入れたことがありますが、広島市と宮島のある廿日市には長年行きたい願望があったものの、チャンスはなかなか訪れませんでした。暫くの間LCCに浮気していたら、ある日JALさまからお便りが。あらあら!「マイルの有効期限が2月末で切れます」ですって。チャンス到来かしら? ディスカウントマイルなら、なんとか国内往復できる程度のわずかばかりのマイルしかないのだけれど。
2月中に席を押さえて、3月にすわ広島!と思ったのですが、3月は航空会社にとって稼ぎ時らしくて、まさかのディスカウントマイルの対象外。だったら4月は? 無理よね? と見てみたら、ばっちり対象月になっているじゃあないですか。
ラッキー!! 3月より4月が狙い目とは知りませんでした。こりゃあ行くっきゃないねと、その場で羽田⇔広島便をポチッとクリックして押さえました。いつものように、メインの行き先だけ決めて、宿を押さえて、心ウキウキ、まことにアバウトな旅の始まりです。
4月3日 羽田空港→広島空港→広島市
4月4日 広島市→岩国→広島市
4月5日 広島市→宮島→広島市
4月6日★ 広島市→竹原→広島市
4月7日 広島市→西条(東広島市)→広島空港→羽田空港
早くも4日目に突入です。お天気は今日一杯は持ってくれそうですが、明日については絶望的であることが分かって、急遽明日の予定だった縮景園を朝一番で訪問することにしました。お庭の散策は雨天は避けたいですよね。
日本に数ある大名庭園の一つ位のつもりで行ったのですが、期待を遙かに上回るお庭でした。素晴らしかったです!!!
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- JALグループ
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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縮景園には広島市の城南通りに面した宿からわずか5分で到着。広島藩初代藩主 浅野長晟が1620年(元和6年)に自身の家老であり、造園家でもある上田宗箇に命じて造らせた別邸の庭園が起源とされています。
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お隣が広島県立美術館。お庭の背景としてはそぐわないかなあ と思いながら入館しました。
縮景園とは、字面の通り「景色を縮めた」と言う意味で、どこの景色を縮めたかと言うと、昔から素晴らしい景色の代名詞とされてきた中国杭州の西湖周辺だそうです。西湖の話は岩国の錦帯橋でも出てきましたが、江戸時代から一種の理想郷として、多くの庭園、建造物のお手本となってきたんですね。 -
縮景園のある場所は、地図で見ると広島駅からは猿猴川をはさんで北西方向、広島城の東約500m。広島市を構成している太田川河口デルタの三角州の一つにあります。
入口からまっすぐ池の方に歩いていくと、こちらの清風館にぶつかります。杮(こけら)葺きの屋根が繊細かつ緻密で職人芸を感じます。かつては広島藩主の休憩所として使われていた建物でした。
爆心地から約1.22~1.46kmしか離れていない縮景園の建物は原爆で全て焼失したため、現在のものは1964年(昭和39年)の復元です。 -
関係者以外の立ち入りを禁ずる と書かれてあったので、外から眺めただけ。邸内には名前の付いた座敷が4つ、茶室、水屋等があります。
入るなと言われると、気になってしまう性格なので、未練がましく暫し右往左往。 -
見えてきたのは濯纓池(たくえいけ)。池には大小合わせて14の島が浮かんでいて、それぞれ長寿を祈願するために、鶴と亀の形につくられたのだそうですよ。見事な松が植えられていますね。
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この池には、正面にある築山の裏を流れる京橋川(猿猴川)の水が満潮時に流れ込むよう設計されているそうです。約6km下流の海からの水も流れ込むため、塩分が含まれていると書かれていました。所謂汽水池なんですね。
そのため、鯉、ボラ、スズキ、チヌが一緒に暮らしている池なんですって。まあ、素敵! -
西湖にはあまり似ていないけれど、この景色は心穏やかにしてくれます。一面何十種類もの緑色で溢れていますね。正面の築山の上には明月亭という茶室が見えていました。
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池を二分する跨虹橋(ここうきょう)。この庭園の建造物はどれも難しい読み方ですねえ。これは1786年(天明6年)に建造された花崗岩製の石橋で、中央部分が太鼓橋になっています。驚くほど白さが目立ちます。
昨日行った宮島は花崗岩の島でしたが、広島県では花崗岩が多く採れるのかしら? -
右側に見える島は確かに亀っぽいわ!
左奥には、超然居という東屋のある島へと渡る朱塗りの観瀾橋(かんらんきょう)が見えています。 -
跨虹橋を渡り終えると、朱塗りの鳥居に惹かれて、祺福山(きふくざん)へと上ります。ここは1713年(正徳3年)広島藩第5代藩主浅野吉長により建立された元お稲荷さんでした。
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何故元なのかと言うと、原爆でお稲荷さんの社が焼失したためです。稲荷神社はその後藩祖を祀った饒津神社(にぎつじんじゃ 広島市東区にある)に合祀されたためで、ここに神社はないんです。
えっ では、あそこに見える小さな社殿はな~に??? と近寄って見ると・・・
何と、稲荷神社型をした夜間照明器なんですって。これには口あんぐり! -
祺福山の裏側、京橋川(猿猴川)に面した辺りには、「原爆慰霊碑」がありました。って肝心の石碑は撮ってないけれど・・・
1987年(昭和62年)7月になってから、どういう経緯でかは分かりませんが、原爆投下直後の縮景園を写した写真がみつかり、「戦死者之墓38名」「戦死者墓5名」「戦死者21名墓」と言う3本の立て札が写っていたため、それを手掛かりに遺骨発掘調査が行われたと説明板に書かれていました。その結果、数千に及ぶ骨片が収集され、後に広島平和記念公園内にある原爆供養塔に納骨されたそうです。
あの日、ここに避難してきたものの、殆ど手当も受けられないまま亡くなった人々の遺骨だったのでしょうね。
安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから
毎年、縮景園でも慰霊祭を行っているとのことです。 -
京橋川まで突き当ったら、左手に進むと、先ほど築山の上に見えた「明月亭」が見えてきます。茅葺の屋根の下に、こけら葺きの長い庇が特徴的な茶室で、月を愛でるのにうってつけなロケーションなのだそうです。建物は1974年(昭和49年)に復元されたものですが、ここも入れません。
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明月亭から桜木の下を左側に下りていくと、水が噴き出し口となっている白龍泉、右側を上っていくと五重石塔があります。どちらを行こうかな。
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結局一旦下りて、水の流れに沿って半周して、また上っていくことに・・・
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明月亭の入口側に出ました。座敷側とは雰囲気が全く異なります。車輪のような丸窓(スポークは16等分されていました)がオシャレですねえ。田舎でこんな家と遭遇したら、一目ぼれしちゃいます。
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早咲きのツツジがもう咲いていました。ツツジの種類は山ほどありますが、このピンクはあまり見かけたことのない優しい色でした。
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明月亭からは、時計回りで池を眺めながら移動します。
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かつてはここから遠く宮島を望むと、雲のかかった弥山山頂が見えたとされる「臨えい岡」と言う名前の丘からの景色です。
今は縮景園の南西にそびえるビル「アーバンビューグランドタワー」が邪魔をしているみたいですよ。でもあのビルがなくても、宮島は見えそうもないなあ。 -
「臨えい岡」から濯纓池畔の東屋「悠々亭」を見下ろします。納涼茶会や歌会に使用されてきたという、いかにも夏向きの涼し気な東屋です。
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京橋川沿いに建つ霊迹壇(れいせきだん)。繰り返しになりますが、この庭園の各建造物の名称は、難しい漢字ばかりですねえ。(´・ω・`)
この祠には原爆投下後に奇跡的に焼け残った、十王の一人だと思われる像が安置されています。小さな窓越しに覗いてみましたが、あまりはっきりとは見えませんでした・・・防犯上の理由とありましたが、折角の像が拝めないのは気にくわないなあ・・・ -
京橋川の船つき場付近の桜並木です。水辺の桜は何にも増して美しい。満開の一番良い季節に来られたことを感謝!
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こちらは、大イチョウ。原爆投下の火災にも生き残った木々のうちの1本だそうです。爆風で傾いてしまっていますが、爆心地側の根の発育が悪いんですって。
それでも皆さんの愛情を一身に受けて、逞しい大イチョウは今年も芽吹いてきましたね。樹齢200年を超えているそうですよ。 -
縮景園の最高峰「迎暉峰」(げいきほう)にやって参りましたよ。先客で一杯だったので登頂は少々お預け。
まるで富士塚のような築山ですねえ。 -
はい。団体観光客の波が引いたところで選手交代。園内最高地点からの眺めですよ。濯纓池に浮かぶ跨虹橋の太鼓橋の部分が綺麗に見えています。
この橋の部分については中国風に見えないこともありませんが、無理して西湖を引き合いに出さなくとも、風光明媚なものをぎゅ~っと圧縮した庭のイメージは見て取れました。何せミニチュアの景色、縮景園ですから。 -
見事としか言いようのない竹の群生。
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そして、歴代の藩主が救急時に備え栽培していた薬草園です。現在東京の小石川植物園(かつての小石川御薬園)の協力を得て、復元を試みているとのことです。
将軍徳川吉宗の頃、小石川御薬園の中には無料の医療施設である小石川養生所が作られました。山本周五郎の小説の主人公 赤ひげはこの養生所のドクターだったなと、今ふと思い出しました。関係ないか・・・ -
薬草園をぐるりと回って、迎暉峰を見上げると、頂上は新たな団体さんで占拠されていました。ありゃりゃ。
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もう一度「迎暉峰」を越えてと思ったのですが、渋滞中なので下の道を辿りました。
ここは「銀河渓」と呼ばれる、小さな島々を何本かの石橋が結んでいる場所です。景色に見とれて歩くと落っこちそうなのでご用心。さきほど「臨えい岡」から見下した東屋「悠々亭」が目の前に現れましたね。 -
石灯籠が1本あると、景色が引き締まるような気がします。
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跨虹橋をもう一度カメラに収めてっと!
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桜並木を通って、清風館前まで戻ります。
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途中、樹齢300年以上と書かれた札のある「大ソテツ」の前を通りました。鹿児島の薩摩半島、大隅半島が自生北限とされている亜熱帯植物なので、冬はどうしているのだろうと思ったら、すっぽりコモを被っているんですって。3月末にコモを脱いだばかりだったのね。
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色鮮やかなハナモモの木の傍に、被爆直後の縮景園の写真がありました。これが衝撃的でした。
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1945年(昭和20年)9月、松本栄一氏撮影だそうです。ほぼ無傷で残った跨虹橋がなければ、同じ庭園とは思えません。手前の半分折れた木は大イチョウ? 場所的には合っていますが、確証はありません。
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枝垂れ桜に見入る老夫婦の後ろ姿に、何故か元気をもらいました。
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桜やハナモモに交じって、白い可憐なこちらの花もひっそりと咲いていました。リキュウバイの仲間かしら?
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イチオシ
サギと亀の甲羅干しは平和共存。時が止まったような世界です。
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まだ一か所訪れていない場所があったので、朱塗りの橋「観瀾橋」を渡ります。その手前にあった、土台がないように見える石灯籠の名称は「楊貴妃型石灯籠」ですって!
形が楊貴妃のかぶっていた冠に似ているって? ええ~(ビックリ)? ちょっと調べてみましょう。 -
みつかった楊貴妃関連の写真で、転載可能なものはこれだけでした。
冠の形は全然似ていませんよね。楊貴妃と名付けなくとも、他に適切な名称なかったのでしょうか? 優美でもなんでもない上の写真の灯篭を楊貴妃と呼ぶのは無骨すぎるような気がしましたよ。 -
観瀾橋を渡ると、そこは人里離れた、浮世離れした静かな場所を表わす「超然居」に至ります。最初にこの庭園を手掛けた上田宗箇の思いが詰まった空間です。
中央に見えるまあるい水盤は、萬歳手水鉢(ばんざいちょうずばち)と呼ばれています。人工ですが、水を引いてきていて、湧水のように見せかけていました。非常に手が込んでいます。 -
外国人団体客と、ここでも遭遇しました。超然居にある東屋です。
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座って眺めると、自分だけの超然たる景色が目の前いっぱいに広がります。いいですねえ。縮景園。西湖にはあまり似ていなかったけれど、コンパクトにまとまった、凝縮された、いくつもの風景美を味わうことが出来ました。
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観瀾橋はやはり人気スポットになっていました。この後外国人観光客は、丁度園内で結婚式を終えたばかりのカップルを追い回し、写真攻勢をかけていました。う~ん、平和!
それでは名残惜しいですが、縮景園に別れを告げて、竹原に向かうことにしましょう。 -
イチオシ
駅へと急ぐ途中で遭遇した「桜とサギ」。ちょっと珍しい組み合わせでしょう? 「サギと亀」とどちらがお好み?
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広島駅前の、その名も「駅前大橋」は、両側11車線に広い歩道がついた大きな橋です。その更に外側には、ご覧のような、美しいカーブを描いた歩行者専用の「袖歩道」もあり、中央付近で橋の歩道と一体化しています。
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さあ、駅前の13番バス乗り場から高速バスに乗って、安芸の小京都竹原を目指します。町並み保存地区に一番近いバス停「道の駅たけはら」まで、所要時間67分。レッツゴー!
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高速山陽道から降りるとバスは竹原市内を流れる賀茂川の支流田万里川に沿った国道2号線を進みます。
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傷ついた鶴がその温泉に浸かって・・・ではなく、温泉の水を飲んで癒したことから「鶴の井」と呼ばれている湯坂温泉郷を過ぎると、竹原の町並み保存地区はもう間もなくです。
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11時43分。予定よりかなり早く「道の駅たけはら」に到着。川岸に架かる大きな看板からもわかる通り、竹原はアニメ「たまゆら」の舞台だったんですね。高校生を主人公とするアニメにはとんと縁がないんですが・・・
塩田で栄え、町人文化が花開いた江戸時代から明治にかけての町並みを保存した地区は、この「道の駅」の北側にあります。 -
地図がないかしら?と覗いてみた道の駅では、取れたて、掘りたてのタケノコを売っていましたよ。竹原特産のタケノコ、糠つきでした。
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早速見つけた竹原市のマンホール。竹にちなんで、かぐや姫、そしてここにもタケノコがニョキニョキ!
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こちらは、町並み保存地区への方向案内板を兼ねたデザインでした。
この矢印の方向に進めば良いのね。 -
道の駅から徒歩5分で、正式名「竹原市重要伝統的建造物群保存地区」に到着です。途端に100年前にタイムスリップです。
まずやってきたのは、旧笠井邸。真ん中に見える2階が白壁の家です。 -
竹原では塩田の経営者を「浜だんな」とか「浜主」とか呼ぶそうですが、こちらはその浜だんなが明治の初め頃に建てた家で、10:00から16:00まで無料公開されていました。早速潜入しますよ。
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出迎えてくれたのは、沢山のお雛様。昨日訪れた宮島にも雛人形が展示されていたけれど、竹原ではなんと4月末まで飾るんですって。
天保8年の芥子雛と書かれています。天保8年と言うと、西暦に直すと1837年。徳川家慶が12代将軍になった年です。芥子雛と言うのは小さいお雛様と言う意味だそうで、豆雛とも呼ばれます。
豆雛をよーく観察していたら、三人官女の手前にいる五人囃子が女性5人組であることを発見! -
御殿雛は、京都で作られた豪華な雛人形で、主に西日本で流行したようです。柳川の立花邸「御花」では見なかったなあ・・・
箪笥や長持までセットになっているんですね。こちらは大正時代のもので、落ち着いた雰囲気が気に入りました。 -
そしてこちらの二点の御殿雛は昭和初期製。絢爛豪華版とコンパクト版、お雛様はどれも表情がとても豊かで、投げ出された足など見ると、今にも動き出しそうです。やはり時代と共に人形の固さ、ぎこちなさが取れてきたように思いました。
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2階もお雛様尽くしでしたが、見てください、この頑丈な桁と梁! 天井板が張っていない広い空間なので、大きな雛飾りを横に三段並べてもご覧の通り。
表通りに面した窓を左に見ています。全て板張りですが、向かって右側の一角は二段ばかり高くなっていて、板間にござが敷いてありました。 -
この桁の太さ、半端じゃあありません。
お雛様はいずれも昭和の物。馴染みがあります。 -
座敷の手前にお雛様が並べられていますよ。背後の壁沿いにずらっと並んだ竹筒のインテリアはオリジナルかしら?
桁の上に、交差している梁も太~い! -
梁に何か文字が書かれていました。通常は棟梁の名前と、基準となる梁天端からの寸法が書かれることが多いようですが、よく見たらあちこちに同じような文字が見えていますね。
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反対側の壁にもお雛様。正に雛尽くしでした。1階はともかく、2階については雛人形展示会場のようで、この家にしっくりとは馴染んでいないのが気にかかりました。お雛様のない季節にはどんな展示になるのかしら?
他にもお雛様の写真たくさん撮りましたが、この位にしておきましょう。 -
旧笠井邸を出て、情緒ある町のそぞろ歩き開始です。竹原は安芸の小京都と呼ばれていますが、これにはれっきとした理由があって、平安時代には京都の下鴨神社(正式には賀茂御祖神社)の荘園だったのだそうです。町を流れる川の名前が賀茂川であるのもその頃の名残なのでしょうね。
戦国時代には木村城を本拠とした竹原小早川氏が治め、江戸時代には広島藩浅野家の領地となりました。土地に塩分が多く、稲作には不向きだったため、浅野氏が赤穂(赤穂浪士で有名になった赤穂の播磨浅野氏は広島藩の分家ですって!)から製塩の技術者を招いて塩田開発をしたところ、これが大当たり! 更に酒造業、海運業も盛んになります。
竹原商家の特徴は塗屋造り。土蔵造りとどこが違うかと言うと、漆喰で防火機能を持たせた壁は2階のみで、1階部分は木造下見板張りであるところだそうです。なーるほど! 火事は2階部分から燃え広がるからね。 -
こちらは旧笠井邸に隣接した増森邸。このお宅の出格子は縦張、横張、縦張の三段に分かれていて、大変美しかったです。さりげなく個性を出す手法がニクイ!
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旧笠井家の前から始まる本通りの町並みです。町を南北に貫くこの通りが町の中心になっているみたいですよ。
電信柱のない、すっきりとした空間。車が邪魔ですねえ・・・ -
本通りを歩き始めてからふと振り返ると、訪れたばかりの旧笠井家が奥に見えていました。町の入口に相応しい重厚な造りですね。瓦葺きに塗屋造り、様々な意匠を凝らした格子窓が竹原の町屋の特徴であるようです。
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うだつの代わりになるような板が立っている家もありました。あれは何て呼ぶのかしら?
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窓のエアコンの室外機が無粋ですが、まあ、仕方がないか・・・
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出格子のデザインが皆異なっていて、これまた見て歩くと楽しいんです。この辺りは商店も並んでいて、白い土蔵造りの家が、酒蔵「纏」、その隣が「かんの」というお蕎麦屋さんでした。
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私は、地蔵堂・長生寺→という看板を見つけてしまったので、早くも本通りから離脱。右に曲がります。
小さな蔵のような「愛宕神社」と書かれた建物の中にはさらに小型の社があって、その前にこれまたちっちゃなだるまが沢山供えられていました。
火よけだるまですって。
江戸時代、都市にはつきものだった火災は、ここ竹原でも頻繁に起こり、ひどい時には3年に一度の割合で大きな火災が発生したそうです。これには神様の助けが必要・・・というわけで、愛宕神社は火伏せの神なんです。祭神は火産霊命(ほむすびのみこと)。 -
愛宕神社のお隣は地蔵堂。西方寺と言う寺に属していますが、例によって例の如く、明治以前は愛宕神社と一体だったと思われます。
こちらのお堂は先ほど歩いた本通りの東側の地域(下市)の守り神でした。地域に根差した神様というわけで、本来の仏教の菩薩であるお地蔵さまとは似て非なる存在だったようですよ。
元々ここにあったお堂は火事で焼失。現在の建物は1927年(昭和2年)の建立です。 -
地蔵堂の辺りでくの字に折れる道を更に進んでいき、次の角を左に曲がると、長生寺への石段が見えてきます。
ここでも大きな桜の木が満開を告げていました。 -
戦国時代に竹原を治めていた小早川隆景が、竹原に身を寄せ、不遇のまま若くして逝った伊予河野氏57代の河野通直を憐れんで、1587年(天正15年)に建立した寺です。山門は2階部分が鐘楼になっている鐘楼門でした。
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桜の木越しに見る竹原の風景。まだちと標高が足りません。
昨日宮島でも感じましたが、広島の民家の屋根にはこのいぶし銀のような光沢のある瓦が使われていることが多いですね。 -
本堂は新しいと思ったら、1962年(昭和37年)の再建でした。
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本堂から右に進んだところにあったお抱え地蔵堂。願い事をしながらお地蔵様を抱えて、軽く感じたら願いが叶うという地蔵様です。竹原には2箇所にこの「お抱え地蔵」がありました。
最初からあきらめて抱えることはありませんでしたが、小さい方のお地蔵様で試してみれば、小さな願いが叶ったかも・・・ -
お地蔵さまが沢山いるお寺でした。石仏もお顔が見えない位すり減ったものを含めてこんなに沢山!
ところで、手前両側にいるあしかか鳥のようなペアは一体何者? -
亀さんコレクション???
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墓地伝いに山を上っていくと、次第に景色が開けてきましたよ。海の向こうに瀬戸内海に浮かぶ島も見え始めました。
目立つのは三井金属 竹原製煉所の煙突だけで、高い建物は殆ど見当たりません。 -
墓地を抜けて、ハイキングコースのような道を進むとお隣の西方寺普明閣の横に出ました。
西方寺。そう、先ほど横を通った下市の守り神となっていた「地蔵堂」が属しているお寺です。弁柄色の舞台のある美しいこのお堂は1758年(宝暦8年)に、京都の清水寺を模して造られました。 -
二重の屋根の間から舞台が飛び出しているように見える複雑な建築に目を見張りました。方三間宝形造と書いてありましたが、初めて目にする建築様式です。懸崖造りとはまた別の様式なのかな?
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早速舞台に上ってみましたよ。そう広くないけれど、素晴らしいパノラマヴューが望めました。勿論、土足厳禁ですよ。
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長生寺の墓地から見たのと同じ方向です。正面に生野島と大崎上島がくっきりと見えています。
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こちらは朝日山方面を撮った1枚です。穏やかな甍の波が続いていますが、その中に最近の火事現場を発見してしまいました。ありゃりゃ・・・愛宕神社の神様も助けてくださらなかったのかなあ・・・
朝日山もよく見ると春爛漫。山から浮き出したように桜木がその存在を知らせてくれていました。 -
正面から見た普明閣は小ぶりながら圧倒的な美しさで迫ってきました。五重塔等と同様、見上げるときに最も美しく見えるよう、計算されているように思いました。
竹原が繁栄を誇った時代の象徴のような建物ですねえ。 -
建築様式が分かりやすいのは、こちらの1枚かしら? 普明閣の中には、西方寺が地蔵堂があった場所からこちらに移ってくる前にここにあった、妙法寺と言う寺の本尊十一面観音菩薩像が安置されているそうですが、拝むことは叶いませんでした。
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唐突ですが、こちらは西方寺境内にあった木で、「金宝樹」と言う札が下がっていました。金宝樹と言うよりブラシの木と言った方が分かりやすいかもしれません。真っ赤なブラシのような花が咲いている季節には見たことがありますが、細長い実がついているのを見るのは初めてだったので興味津々。
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ブラシの木は、オーストラリア原産で34種の品種があり、そのうち観賞用が数種類あるようです。
写真は私が2015年にローマ近郊で撮った金宝樹・・・というより、やはりブラシの木の花です。
しかし、全然似ていませんね。葉っぱの形も違う。 -
…となるとこの札が間違いなのか、異なる品種なのか・・・
花の咲く5月~6月に行って、もう一度確かめなくてはなりませんね。 -
普明閣からの階段を下りてきたところで、火事現場の悲惨な状況を目の当たりにしました。2016年3月23日未明、民家4棟を焼く火事があったそうです。幸いけが人はおらず、重要伝統的建造物にも被害はありませんでした。
火よけダルマをお供えしなかったのかしら・・・ -
こちらは西方寺本堂です。順番が逆になりましたが、お参りをして行きましょう。
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近づいてみて、ここで欄間の彫刻の見事さに見入ってしまいました。こちらの欄間について書かれているものは何もないので、有名なものではないのでしょうが、生き生きとした動物たちの姿に感銘を受けました。
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左側は鶴の番(つがい)が雛に餌をやっている場面。右側は夫婦鹿かな?
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左側では猿のペアが木の実を頬張っています。右側は鴛夫婦とアヤメかカキツバタですね。
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もう一つあれ~っ?と思ったのは軒下に吊るされた江戸時代のものと思われる駕籠です。説明がないので、どういう経緯でここにあるのか不明です。
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西方寺の石段を下りていきます。立派な石垣のような塀も目に入らぬほど、崖の下の火事現場に気を取られ、振り返らぬまま立ち去ってしまいました。あ~あ・・・
長くなりましたので、竹原散策は後半に続けることにしましょう。続きは、サクラ満開 春爛漫の山陽路 その7 竹原(後半)で!
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