2018/05/11 - 2018/05/11
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chiaki-kさん
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「糸杉と星の見える道」は、1890年にフィンセント・ファン・ゴッホによって制作された作品。ゴッホが糸杉を主題に置いた何枚かの作品の1つとして知られており、アルル時代の後、1年間入院したサン・レミの療養所で制作した最後の作品で、今はオランダ、オッテルローのデ・ホーフェ・フェルウェ国立公園内にあるクレラー・ミュラー美術館に所蔵されている。
ゴッホがアルル時代に好んで題材にしたのは「ひまわり」だったが、サン・レミでは一転し「糸杉」となる。糸杉は「死」を連想させる木で、キリストが磔刑に処されたときの十字架は糸杉で作られたと言われている。一時、聖職者を目指したゴッホが知らないはずはなく、もしかしたらアルル時代に抱いていた「希望」や「夢」が儚いものとなり「死」が次第にゴッホを支配するようになっていったのかもしれない。そして、この絵を描いてから2ヶ月後、ゴッホはパリ近郊の村、オーベル・シュル・オワーズでピストル自殺する。27才で画家になることを夢見た男の37才の夏だった。
なお、画の下のほうで曲がりくねった農道を歩いている2人の農夫はゴッホと弟のテオで、右上の馬車に乗っているのは二人を迎えにきたゴッホとテオの両親だとの説もあるが、定かでは無い。
2024/03/08 一部修正
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 交通
- 2.0
- 同行者
- 家族旅行
- 一人あたり費用
- 25万円 - 30万円
- 交通手段
- 観光バス
- 航空会社
- ANA
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- クラブツーリズム
-
5/11
08:35 デュッセルドルフを出発、アウトバーン52号線を西北方面へひた走り、30分後にオランダ(正しくはネーデルランドなのだが、今回はオランダとする)に入る。 -
9:35 A73→A50→A12号線を走って、オッテルロー近くのICから下道へ降りる。
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Googleで確認すると、あと10分位で目的地。なお、今回は4トラ経由でWifiルーターをレンタルしています。
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デ・ホーフェ・フェルウェ国立公園内は基本的にマイカーは入れないが、観光バスはOK。地面に青いパレットナイフが刺さっている場所を右折すると・・・・
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クレラー・ミュラー美術館に到着。この美術館は実業家のアントン・クレラー・ミュラーと、その夫人ヘレン・クレラー・ミュラーのコレクションを基に1938年に開設された美術館で、アムステルダムのゴッホ美術館には数では負けるが、多作だったゴッホの絵画の中から選択した粒よりなコレクションを保有することで知られている。
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エントランス前の広場にはクレラー・ミュラーを示す”K”の文字を表すモニュメントがある。
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エントランスはこちら。
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エントランスを入って右側には受付、無料ロッカー、トイレ、ショップなどがあり、さらに右に曲がると旧館へ至る。立体彫刻の間は素通りして・・・
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目的の部屋に入る。なお、オランダ人名のvanはミドルネームではなく姓の一部であり、正式にはファン・ゴッホと呼ぶのが正しいのだが、、日本を含め多くの国では、これを省略してゴッホという呼び方が定着しているので、当ブログでも「ゴッホ」と呼ぶことにする。
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現地ガイドは○橋さんという女性で、ゴッホの作品を時代順に詳しく説明してくれたが、まるでゴッホの人生を聴いているような感動を覚えた。
ゴッホ・ストーリー:その1
ゴッホは、1853年オランダ南部のズンデルトでプロテスタント系牧師、テオドルスと母アンナとの間に長男として生まれた。小さい時から癇癪持ちで、両親や家政婦からは6人兄弟の中でもとりわけ扱いにくい子と見られていた。1860年から村の小学校に通っていたが、1864年10月家から約20km離れた寄宿学校に入れられた。
当時11才だったゴッホは、後に、親元を離れて入学した時のことを「僕がプロフィリさんの学校の石段の上に立って、お父さんとお母さんを乗せた馬車が家の方へ帰っていくのを見送っていたのは、秋の日のことだった。」と回顧している。「糸杉と星の見える道」に描かれた馬車はこのときのものだという説がある。
1866年9月、ゴッホは国立高等市民学校に進学した。パリで成功したコンスタントという画家がこの学校で教えており、このときゴッホも彼から絵の初歩を習ったと思われる。
1869年7月、16才になったゴッホは伯父の助力で、画商グーピル商会のハーグ支店の店員となり、ここで約4年過ごしたが、近くのマウリッツハイス美術館でレンブラントやフェルメールらオランダ黄金時代の絵画に触れるなど、美術に興味を持つようになった。1873年5月、ロンドン支店に転勤となる。表向きは栄転であったが、実際には伯父との関係悪化やゴッホの不品行が理由でハーグを追い出されたものともいわれている。1875年5月、ゴッホはパリ本店に転勤する。金儲けだけを追求するようなグーピル商会の仕事に反感を募らせたゴッホは、しばしば雇用主とトラブルを起こし、最後には勝手にとった休暇を問題にされ、1876年4月1日をもって解雇された。
その後ゴッホは、父のような聖職者になりたいという希望を募らせ、神学校を目指すことを父と約束するが、受験科目の多さに挫折、次ぎに目指した伝道師も常軌を逸脱したゴッホの行動を指摘され、聖職者や伝道師への道は絶たれてしまった。
こうして、画商にも、聖職者にも、伝道師にもなれなかったゴッホは、その後、何年か北フランス地方を彷徨ったが1880年頃に画家になることを決意する。収入は無かったが、画商となった唯一の理解者である実弟、テオドール・ゴッホ(以降テオと呼ぶ)の援助によりなんとかゴッホの画家人生がスタートしたのは、ゴッホ27才の時であった。 -
「浜辺の漁師」1882/08
この画は1882年8月にハーグで画いたゴッホ初期の画の一枚で、顔が描かれていない未完成の画。 -
「浜辺の漁師の妻」1882/08
この画も1882年8月にハーグで画いたゴッホ初期の画の一枚で、顔が描かれていない未完成の画。 -
「林の白服の少女」1882/08
これもハーグ時代の画。少し印象派の影響を受けているような感じがするが、とにかく暗い。 -
「機織る人、3つの小窓のある室内」1884/07
ニューネンで描いた農夫画の一枚。
ゴッホ・ストーリー:その2
1883年12月5日、ゴッホは父親が移り住んでいたニューネンに帰省する。1884年1月にけがをした母の介抱をするうち、家族との関係は好転した。母の世話の傍ら、近所の織工たちの家に行って、古いオークの織機や、働く織工を描いた。一方、テオからの送金が周りから「能なしへのお情け」と見られていることには不満を募らせ、同年3月、テオに、今後作品を規則的に送ることとする代わりに、今後テオから受け取る金は自分が稼いだ金であることにしたい、という申入れをし、織工や農民の絵を多数描いた。その多くは鉛筆やペンによる素描であり、水彩、さらには油彩も少し試みたが、遠近法の技法や人物の描き方も不十分であり、いずれも暗い色調のものであった。ピサロやモネなど明るい印象派の作品に関心を注ぐテオと、バルビゾン派を手本として暗い色調の絵を描くゴッホの間には意見の対立が生じた。 -
「ジャガイモを植える農夫たち」1884/08-09
ゴッホはバルビゾン派のミレーを師と仰いでいたため、農民をモデルにした画を多数残しているが、これはニューネンで描かれた農夫達の画の一枚。 -
「日暮れのポプラ並木」1884/10
ニューネン時代に描かれた。これも暗い画だ。 -
「ジャガイモを食べる人々」1885/04
1885年の春、数年間にわたって描き続けた農夫の人物画の集大成として、彼の最初の本格的作品と言われる「ジャガイモを食べる人々」を完成させた。自らが着想した独自の画風を具体化した作品であり、ゴッホ自身は満足した仕上がりであったが、テオを含め周囲からの理解は得られなかった。 -
「4本の木のある秋の風景」1885/11
1885年11月には、こんな画も描いている。まるでコローのような画だ。 -
「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」1886/秋
ルノアールの画で有名なダンスホールだが、今ではレストランになっている。
ゴッホ・ストーリー:その3
1886年2月末、女性問題などでトラブルを起こし、ニューネンにもいられなくなったゴッホは、ヴァラドン商会(グーピル商会の後身)の支店を任されているテオを頼って、前ぶれなく夜行列車でパリに向かい、モンマルトルの弟の部屋にころがり込んだ。1886年当時のパリでは、ルノワール、クロード・モネ、カミーユ・ピサロといった今までの印象派画家とは異なり、純色の微細な色点を敷き詰めて表現するスーラ、シニャックといった新印象派と呼ばれる画家が台頭していた。
ゴッホは、春から秋にかけて、モンマルトルの丘から見下ろすパリの景観、丘の北面の風車・畑・公園など、また花瓶に入った様々な花の絵を描いた。同年冬には人物画・自画像が増えた。また、印象派、新印象派の画家達と付き合ううちにジャポニズムに感化され、浮世絵などを買いあさったが、最後には日本へ行きたいという憧れまで抱くようになった。 -
「風車のあるモンマルトルの眺め」1886/秋
パリ時代に描かれた作品のひとつ。今は観光地と化したモンマルトルも当時は風車やぶどう畑が点在し、裸足の子供達が泥んこになって遊ぶ田舎のような場所だった。 -
「草原の草とバラのある静物」1886-1887
パリ時代に描かれた作品のひとつ。ゴッホらしくない為、贋作が疑われたが、X線検査の結果、本物と認定された曰く付きの作品。 -
「自画像」1887/春
ゴッホ美術館にたくさんある自画像だが、クレラー・ミュラーにはこの一枚だけ。 -
「4本の切ったひまわり」1887/08-09
ゴッホはパリ・アルル時代にひまわりの画を沢山描いているが、これはパリで描いた最初のひまわりの画。ガイドの○橋さんは、一連のひまわりの画の中ではこれが一番好きと言った。 -
「 アルルの跳ね橋(アルルのラングロワ橋と洗濯する女性たち)」1888/03
クレラー・ミュラー美術館の所有するアルル時代のゴッホ作品を代表する画の一枚。
ゴッホ・ストーリー:その4
ゴッホは、1888年2月20日、テオのアパルトマンを去って南フランスのアルルに到着し、市内のホテルに宿をとった。ゴッホは、この地から、テオに画家の協同組合を提案した。ドガ、モネ、ルノワール、シスレー、ピサロという5人の「グラン・ブールヴァール」の画家と、テオやテルステーフなどの画商、そしてギヨマン、スーラ、ゴーギャンといった「プティ・ブールヴァール」の画家が協力し、絵の代金を分配し合って相互扶助を図るというものであった。ゴッホは手紙の中で、「この地方は大気の透明さと明るい色の効果のため日本のように美しい。水が美しいエメラルドと豊かな青の色の広がりを生み出し、まるで日本版画に見る風景のようだ。」と書いている -
「 アルルの跳ね橋(アルルのラングロワ橋と洗濯する女性たち)」1888/03 中央拡大
-
「花咲くモモの木(モーヴを思い出して)」1888/03
アルル時代の作品。ゴッホ美術館にある「 花咲くアーモンドの木の枝 」にちょい似の画。 -
「静物:瓶、レモンとオレンジ」1888/05
アルル時代の作品。セザンヌの「リンゴ」を思い出させるが、ゴッホはセザンヌと違い、見たままに描いたと思われる。 -
「プロヴァンスの干し草の山」1888/06
アルル時代の作品。干し草はミレーやモネの作品にも数多く登場する。 -
「夜のカフェテラス」1888/09
クレラー・ミュラー美術館の所有するアルル時代のゴッホ作品を代表する画の一枚。 -
「夜のカフェテラス」(中央拡大)1888/09
-
「夜のカフェテラス」(上部拡大)1888/09
ゴッホの描いた星座は正確で、ガイドの○橋さんの説明ではこの画を描いた日時まで特定できるそうだ。 -
夜のカフェテラス」(中央部拡大)1888/09
よく見ると奥の方から馬車が一台やってくるのが見える。 -
「ルーラン夫人ゆりかごを揺らす女」1888/12
アルル時代に親交のあった郵便配達人ジョゼフ・ルーラン氏の夫人像。手に持ったひもの先にはゆりかごに乗った赤ん坊のマルセル・ルーランがいる。 -
「 郵便夫ジョゼフ・ルーラン 」1889/04
アルル時代に親交のあった郵便配達人ジョゼフ・ルーラン氏の肖像。背景に花を描くのは、ゴッホが好きになった人とのサインだとか。
ゴッホ・ストーリー:その5
結局、ゴッホの提案に応じたのはゴーギャン一人。1888年10月23日、そのゴーギャンがアルルに到着し、「黄色い家」で奇妙な共同生活が始まった。
しかし、見た物をありのままに描くゴッホに対して、見えないものでも想像で描くゴーギャンとは意見が全く合わず、緊張関係が続くようになり、ついにあの耳切り事件が発生する。1888年12月23日、ゴッホは自分の左の耳を切り落とし、知り合いの娼婦に渡した。ゴッホはこのことについて何も覚えていないそうだが、翌日ゴーギャンはテオを呼び寄せ自分はパリへ帰ってしまった。
テオの仲立ちでゴッホはアルル市立病院に入院することになった。1889年1月7日、病状安定により一時退院となったが1889年2月25日、住民から市長に家族が引き取るか精神病院に収容するよう求める請願書が提出され、翌日、警察署長の判断で再び病院に収容された。
しかし、病院にいつまでも入院していることはできず、「黄色い家」に戻ることもできなくなったため、ゴッホは、居場所を見つける必要に迫られた。4月下旬、知人の牧師から聞いたサン・レミの療養所に移る気持ちになり、テオに転院の手続をとってほしいと手紙で頼んだ。こうしてゴッホのアルル時代は終わった。 -
「日の出の春小麦の畑」1889/05-06
ゴッホが入院したサン・レミの療養所の窓から見た風景。斜めになった大地と取り囲む塀がゴッホの心境を表しているようだ。 -
「糸杉と2人の女性」1889/06
サン・レミ時代に描かれた画。重複だが糸杉は「死」を連想する樹。 -
「種まく人(ミレーを模して)」1889/10-11
サン・レミ時代に描かれた画。タイトル通りミレーの「種まく人」の模写。 -
「善きサマリア人(ドラクロワを模して)」1890/05
サン・レミ時代に描かれた画。一種の宗教画。 -
「糸杉と星の見える道」1890/5/12-15
体調が回復した1890年5月、ゴッホは、ピサロと親しいガシェ医師を頼って、パリ近郊のオーベル・シュル・オワーズに転地することにした。最後に『糸杉と星の見える道』を描いてから、5月16日サン・レミの療養所を退所した。翌朝パリに着き、数日間テオの家で過ごしたが、パリの騒音と気疲れを嫌って早々に終焉の地・オーベルに向かって発っていった。 -
「糸杉と星の見える道」1890/5/12-15 部分拡大
まるで太陽と見間違えるような星は「生」を意味しているらしい。 -
「糸杉と星の見える道」1890/5/12-15 部分拡大
反対に、細い三日月は「死」を意味しているらしい。そして、画を左右に分断する糸杉は、まるで「生」と「死」の境に立っているかのようだ。 -
「糸杉と星の見える道」1890/5/12-15 部分拡大
農夫の姿をしているがゴッホとテオに見えてくる。 -
「糸杉と星の見える道」1890/5/12-15 部分拡大
11才で入れられた寄宿舎にゴッホを置いて、帰っていった両親の乗った馬車の屋根の色も黄色だったそうだ。
2018/05/11にクレラー・ミュラー美術館で展示していた主なゴッホの作品は以上であるが、Wikipediaの全作品一覧サイトを見ると、展示していない作品が結構ある。貸し出し中か、修復中か、展示休止中かわからない。 -
2012年4月にパリを旅したときオーベルに行ったことがあります。写真はSNCFオーベル・シュル・オワーズ駅。旅行記は↓。
https://4travel.jp/travelogue/10665922 -
オーベル・シュル・オワーズの町役場。
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「1890年7月14日、オーヴェル町役場」 スペイン・個人所有
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オーベル・シュル・オワーズにあるゴッホの描いた教会。
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「オーベルの教会」1890/06 オルセー美術館所有
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「カラスのいる麦畑」を描いたと思われる場所。
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「カラスのいる麦畑」1890/07 ゴッホ美術館所有
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死ぬまでに2ヶ月暮らしたラヴォー亭。
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ラヴォー亭の屋根に窓があるが、ゴッホが亡くなった屋根裏部屋の明かり取り窓。
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血を垂らしながら自分の部屋まで上がった階段。
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息を引き取った屋根裏部屋。
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そして、ゴッホとテオの墓。
ゴッホ・ストーリー:LAST
ゴッホの死後、テオの妻ヨーや、ゴッホを評価する美術評論家達の努力により、1900年頃から、ゴッホの作品が市場で急騰し始めた。1900年にはゴッホの『立葵』が1100フランで買い取られ、1913年には『静物』が3万5200フランで取引された。さらに1932年には1点が36万1000フランで落札されるに至った。また、作品の価値の高まりを反映して、1918年頃には既に贋作が登場する状態であった。このように、批評家や美術史家のグループを超えて、ゴッホの絵画は大衆に受け入れられていった。それを助長したのは、彼の伝記の広まりや、作品の複製図版の増殖、展覧会や美術館への公衆のアクセス向上であった。
1935年にニューヨーク近代美術館をはじめとするアメリカ国内5都市でアメリカ最初のゴッホ回顧展が開催され、合計87万8709人の観客を呼んだ。第1次世界大戦後、世界経済の中心がヨーロッパからアメリカに移るにつれ、アメリカ国内では新しい美術館が次々生まれ、ゴッホ作品を含むヨーロッパ美術が大量に流入していった。そして決定打とも言えるのが1955年に公開されたアメリカ映画『炎の人ゴッホ』(監督ヴィンセント・ミネリ、出演カーク・ダグラス)だった。
アーヴィング・ストーンの小説を基に作成された映画なのだが、数あるゴッホの伝記映画の中では最も有名な作品で、「周囲の無理解にもかかわらず情熱をもって独自の芸術を追求した狂気の天才画家」というゴッホのイメージを定着させるのに決定的な役割を果たした。
*Wikipedia「フィンセント・ファン・ゴッホ」、「フィンセント・ファン・ゴッホの作品一覧」:参照
これで「2018年 オランダ・ベルギー旅行記2:クレラーミューラー美術館1」は終了です。最後までご覧いただき、ありがとうございます。
2024/03/08 一部修正
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この旅行記へのコメント (9)
-
- ヴェラnonnaさん 2018/06/29 17:04:38
- とても内容の濃い旅行記ですね❣️
- Chiaki-kさん
こんにちは。
とても 分かりやすく ゴッホの生涯をまとめられていて、 ゴッホ ファンとしては 食いついて
読ませていただきました。
ゴッホの苦闘の生涯、感動でした。
先に 上映された、
ゴッホ最期の手紙、涙無くしては
見れませんでしたが
こちらの
旅行記でも 読みながら
胸に迫るものが、ありました。
と、言いながら、オランダは未踏の地。オーベルシュルオワーズ へも
なかなか、行けず、ですが、
いつか機会を設けて
いってみようと思います。
あ、投票も頂いて、
ありがとうございました。
ヴェラnonna
- chiaki-kさん からの返信 2018/06/30 19:12:15
- ありがとうございます
- ・
ヴェラnonnaさん、こんばんは。
ゴッホに関する旅行記に”いいね”をありがとうございます。
今、考えてみますと、ゴッホの描く画は、どれも独特ではあり
ますが、レンブラントや、ルーベンスの画の巧さには、とても
及びそうにありません。
自分の目で見た物をそのまま描くスタンスは生涯かわらず、
ゴーギャンのように想像で画を描くことなど、それこそ
想像もつかなかったことでしょう。
また、ゴッホって”正直”の頭にバカが3つ位つく人だったん
ですよね。最近、はやりの忖度(そんたく)するなんてこと
にも無縁の人だったと思います。
でも、そんな不器用な人生を送りながら、自分の命をも削り
ながら、ほとばしる情熱をキャンバスにぶつけ、37才という
若さで人生を終わらせたゴッホって、素敵だと思います。
今回の旅行でオランダ絵画の一部を堪能してきましたが、
素晴らしい体験でした。是非、ヴェラnonnaさんもオランダ
そしてフランドル地方を訪問され、本物の芸術に触れられる
ことをお勧めします。
では、また。
chiaki-k
PS:ビール。チョコレート、ムール貝や牛肉のワイン煮など、
グルメもバッチリ味わえますよ!
-
- fuzzさん 2018/06/28 12:32:14
- ゴッホだ!
- chiaki-kさん、こんにちは
本物のゴッホを見られるなんて!
私も人生のうちに一度は本物のゴッホを見たいです!
添乗員同行ツアー
私も母と旅行の際は必ず添乗員同行ツアーを利用します。
行きたい所を1日でまわれるのは便利ですよね。
何かの時に頼りになりますし。
次はミッフィーちゃんですね、楽しみです。
fuzz
- chiaki-kさん からの返信 2018/06/30 13:19:19
- RE: ゴッホだ!
- ・
fuzzさん、こんにちは。いつもありがとうございます。
今回の旅行は私、カミさん、そして娘と3人でツアー参加
でしたが、オランダ・ベルギーは私は初めて、カミさんと
娘は何と20年ぶり、2度目の旅行でした。
20年前にゴッホ美術館でゴッホの作品に触れてから娘は
画を描くことを始め、現在も続いています。今回はゴッホ
美術館は日程に無く、飛び込みでトライしたのですが撃沈
でした。
でも、クレラー・ミュラー美術館は3人とも初めてで、粒
よりのゴッホの名画を鑑賞できたと娘も喜んでいました。
> 私も人生のうちに一度は本物のゴッホを見たいです!
ゴッホは多作家なので、日本にも結構ゴッホの作品はあり
ます。
新宿にある損保ジャパン東郷青児美術館には大きな
「ひまわり」が、ひろしま美術館には「ドービニーの庭」
が、その他、ブリジストン美術館、ポーラ美術館、
富士美術館、諸橋美術館(福島県です)などが有名です。
> 私も母と旅行の際は必ず添乗員同行ツアーを利用します。
> 行きたい所を1日でまわれるのは便利ですよね。
クレラー・ミューラー美術館のあるオッテルローは個人では
まことに行きにくい場所にあるので、ツアー参加は本当に
楽ちんです。
スーツケースは運んでくれるし、電車やバスの時間を気に
することも無いし、、観光や写真撮影に集中できるので、
行き先や、旅行目的によっては、良い旅行形態だと思います。
閑話休題
板違いかも知れませんが、fuzzさんがUPされた「東北絆まつり
2018 IN 岩手県盛岡市」拝見しました。
以前より東北6県はとても仲の良いことで有名ですが、良い
企画だと思います。東北、いや日本中の皆さんが心をひとつに
して、困難に立ち向かい、復興を目指す、ひとつの絆になって
ほしいと感じました。
がんばれ東北!がんばれ日本!
では、また。
chiaki-k
- fuzzさん からの返信 2018/07/01 16:42:42
- RE: RE: ゴッホだ!
- 東北への激励のメッセージ、ありがとうございます。
心にしみました。
fuzz(*^_^*)
-
- aoitomoさん 2018/05/23 12:48:19
- ゴッホの勉強にもなりました!
- chiaki-kさん こんにちは~
オランダ・ベルギー の旅に行かれたのですね。
chiaki-kさんの旅行記をしっかり拝見した後に、
同じようなツアーに参加出来たら、
旅の楽しさも倍増するに違いないと思いながら、
旅行記拝見しております。
『クレラー・ミュラー美術館』
現地ガイドさんが詳しく説明してくれるのも助かりますね。
ゴッホの人生、そして作品の解説もわかりやすかったです。
私も絵画好きなので凄く魅力のあるツアーだなって思ってます。
chiaki-kさんの丁寧な解説も、
旅行記をいちだんと楽しく拝見する事ができます。
続きも楽しみです~
aoitomo
- chiaki-kさん からの返信 2018/05/23 15:05:43
- 私も勉強になりました
- ・
aoitomoさん、こんにちは。いつもありがとうございます。
今回の旅行は私、カミさん、そして娘と3人でツアー参加
でしたが、オランダ・ベルギーは私は初めて、カミさんと
娘は何と20年ぶり・2度目の旅行でした。
20年前にゴッホ美術館でゴッホの作品に触れてから娘は
画を描くことを始め、現在も続いています。今回はゴッホ
美術館は日程に無く、飛び込みでトライしたのですが撃沈
でした(後述)。
でも、クレラー・ミュラー美術館は3人とも初めてなので
粒よりのゴッホの名画を鑑賞できたと娘も喜んでいます。
> chiaki-kさんの旅行記をしっかり拝見した後に、
> 同じようなツアーに参加出来たら、
> 旅の楽しさも倍増するに違いないと思いながら、
> 旅行記拝見しております。
そう言っていただけると、とても嬉しいです。aoitomo
さんの旅行記にはとても及びませんが、文章作成だけで
2日間かけた甲斐があります。
> 現地ガイドさんが詳しく説明してくれるのも助かりますね。
大橋さんという60才位の日本人女性でしたが、ゴッホを
はじめ、あらゆる芸術に造詣が深く、ポイントは押さえなが
らも、裏話も交えて、興味が途切れないよう説明していただ
きましたが、本当に素晴らしいガイドさんでした。
> 私も絵画好きなので凄く魅力のあるツアーだなって思ってます。
このあと、国立ミュージアム、マウリッツハイス美術館、アント
ワープ大聖堂と続きますが、これでゴッホ美術館が入っていれば
完璧ですね。(ついでにマグリットも)
> 続きも楽しみです?
このあとはユトレヒト、キューケンホフ、アムステルダム、
ハーグ、デルフト、アントワープ、ゲント、ブリュッセルと
旅は続きますが、また旅行記をUPしたら見てやってください。
では、また。
chiaki-k
-
- liccoさん 2018/05/22 18:28:05
- 素晴らしい
- こんにちは
いつも ありがとうございます
一枚一枚丁寧に説明していただき 見ていても楽しいです。
よく覚えておられますね。若いわ
わたしは、写真に残すだけで精一杯です。
だから、必死にカメラに取り、家に帰ってから カメラの中身を確認するのですが、忘れちゃって!?
次はWi-Fi付きのカメラを買えば 楽かしら?
オランダ!わたしも行きたい所の一つです。機会があれば、いつか寄るつもりです。
- chiaki-kさん からの返信 2018/05/23 14:27:43
- ありがとうございます
- ・
liccoさん、こんにちは。いつもありがとうございます。
また、身に余るお褒めの言葉をいただき恐縮です。
> よく覚えておられますね。若いわ
まもなく古稀になろうかという年ですが、嬉しいです。
記憶のあるうちに、というのもありますが、私の旅行記は
自分で撮影した写真に合わせ、専らNET等をフルに活用して
作り上げています。
Wikipedia、Google、歩き方、その他あらゆる情報サイトを
参照させていただき、間違いのないことを何度も確認し、
UP後も幾度か訂正を重ねて公開しています。
>家に帰ってから カメラの中身を確認するのですが、
忘れちゃって!?
今回の旅行では私の一デジとスマホだけでも1500枚以上
撮影していますので、いつものことですが、後が大変な
ことになります。中にはなにを撮ったかわからない物も
ありますが、NETで調べても解らない場合は使用しません。
> 次はWi-Fi付きのカメラを買えば 楽かしら?
Wifiを使用して画像を何処かへ飛ばすことでしょうか?
それとも、録音機能付きという意味でしょうか?
そんなカメラがあったら私もほしいですね。
> オランダ!わたしも行きたい所の一つです。機会があれば、
いつか寄るつもりです。
想像以上に素敵な国でしたので、liccoさんも是非訪れて
みてください。
では、また。
chiaki-k
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
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