2018/05/11 - 2018/05/11
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ペコちゃんさん
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両国といえば相撲の街・・・隅田川東岸の両国には、両国駅から歩いて10分ほどの範囲に相撲部屋が10部屋ほどあります。
大相撲5月場所が始まる直前の5月11日(金)に、仲間8名で両国の散策へ。
お相撲さんの朝稽古を見学したいと思い、事前に確認したら、後援会に入っていないと無理なよう・・・でしたが、相撲部屋の雰囲気だけでも味わえたら、と思って、早朝に出かけました。
両国は相撲部屋の他にも、吉良邸跡・横網町公園・旧安田庭園など、見どころが沢山あり、江戸・東京の歴史や文化を感じた一日となりました。
写真は、両国駅から回向院に続く国技館通りに飾られている横綱像。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 友人
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
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朝稽古の雰囲気を味わうため、8時に両国駅に到着。
両国駅西口の駅構内に飾られているのは、武蔵丸と白鵬の優勝額、その下には数々の力士手形。
満員御礼の垂れ幕が、今の相撲人気を窺わせます。 -
5月場所は13~27日の15日間。
横綱・稀勢の里の休場は寂しいのですが、ポスターを飾る栃ノ心の大関昇進が楽しみです。 -
相撲部屋が多い両国駅の南側から散策スタート。(これは両国公園にあった地図)
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最初に訪れたのは、元大関・霧島が師匠を務める「陸奥(みちのく)部屋」。
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旧型郵便ポストが陸奥部屋の郵便受けです。
表通りに面した壁にある窓から中を覗くと、朝稽古の真っ最中。
現在は陸奥部屋に十両以上の関取はいませんが、将来の横綱を目指して ” ガンバレ~ ” 。 -
次は、元関脇・栃乃和歌が率いる名門の「春日野部屋」・・・8階建てのマンション・グランドメゾン三春は、春日野部屋がオーナーで1990年に竣工。
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栃ノ心・碧山・栃煌山と3人の幕内力士がいる春日野部屋なので、朝稽古を見たかった・・・表の道路で稽古している力士もいます。
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続いて、元関脇・逆鉾の「井筒部屋」・・・横綱・鶴竜がいる部屋ですが、静まり返っていて、外からは力士や稽古の様子は伺えませんでした。
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井筒部屋から近い、角界随一の名門「出羽海部屋」。
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元前頭・小城ノ花が師匠で、関取は御嶽海。
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これは、立浪部屋の大関だった旭國が1980年に創設した「大島部屋」。
横綱・旭富士をはじめ、旭天鵬・旭道山・旭鷲山などを輩出し、立浪一門の中核的な存在でしたが、2012年に大島親方の定年退職で部屋は閉鎖となり、所属力士らは友綱部屋へと移籍しました。 -
ビルの壁面にあるのは、親方の大きな手形・・・ユニークなデザインが目を惹きます。
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大島部屋の近くにある「吉良邸跡」・・・時は元禄15年12月14日、赤穂浪士の四十七人が討入りで襲った場所で、「忠臣蔵」で知られる屋敷跡です。
現在は「本所松坂町公園」として、住宅街の一角の小さな敷地だけしか残っていませんが、当時は2,550坪もある大きな屋敷でした。 -
吉良上野介がこの屋敷跡を拝領したのが元禄14年(1701)9月、義士の討入りがあって没収されたのが元禄16年2月ですから、実際に住んだのは1年半に満たない短期間でした。
広大な屋敷だった一角を、昭和9年に地元有志が土地を購入して東京都に寄付し、現在は本所松坂町公園となっています。 -
吉良上野介(1641~1703)の像・・・愛知県・吉良町にある吉良家の菩提寺・華厳寺の木造坐像を基に、衣冠も当時の色で再現しています。
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歌川国貞作『忠雄義臣録第三』・・・元禄14年(1701)3月14日、江戸城・松之廊下で赤穂藩主・浅野内匠頭が吉良上野介に斬りかかった錦絵です。
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浅野内匠頭は即日切腹し、御家は断絶・・・浅野家家老・大石内蔵助を含む赤穂浪士(四十七士)は主君・浅野内匠頭の仇討ちを果たしましたが、これは吉良の首を洗ったという「みしるし洗いの井戸」。
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公園内に祀られた「松坂稲荷大明神」。
江戸時代、松坂町の周辺にあった「兼春稲荷」と「上野稲荷」が昭和10年に合祀され、この地に遷座されました。 -
昭和の名横綱・双葉山が創設した「時津風部屋」・・・横綱の鏡里、大関の大内山・北葉山・豊山など多くの力士を輩出した名門です。
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入口の上には、双葉山が現役横綱だった昭和17年に開いた「双葉山相撲道場」の看板が掲げられています。
現在の関取は、豊山(二代目)と正代。 -
(写真:上)芥川龍之介が通った両国小学校。
(写真:下)敷地の角に建てられた『杜子春』の文学碑。 -
両国小学校に隣接した「両国公園」・・・緑が多く、子供の遊具類も充実してます。
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ここは、勝海舟〈1823~1899年〉が青年期まで剣術・蘭学・参禅の修行に励んだ場所。
右側の椅子には、刀が立てかけられています。 -
「勝海舟生誕ノ地」の石碑は、西郷隆盛の孫・西郷吉之助の揮毫による碑。
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明治維新前後を逞しく生き抜いた勝海舟を、「幕末絵巻」のパネルで分かりやすく紹介しています。
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幕末から明治初期にかけて日本をリードした幕臣の勝海舟は、坂本龍馬の師であり、西郷隆盛との交渉に挑んだ江戸城無血開城の立役者。
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この後は、北に向かって総武線のガードをくぐり、江戸東京博物館へ。
開館は9時半ですが、まだ9時前なので、ここはパス。 -
「八角部屋」に着きました。
怪我と闘いながら努力と辛抱で8回の幕内優勝を飾った第61代横綱・北勝海・・・28歳の若さで92年5月に引退後、93年秋場所後に九重部屋から独立して創設した部屋です。
2015年に急逝した北の湖からから日本相撲協会・理事長を引き継いだ八角親方は、角界の不祥事続きで多忙のことと思いますが、現在は2人の関取(隠岐の海・北勝富士)を抱えています。 -
扉のデザインは、八角部屋らしく(?)八角形。
ちょうど路上で、隠岐の海(白まわし)がトレーニングをしていました。 -
看板がなければ、マンションの入り口と思って、通り過ぎてしまいそうな建物は、元関脇・水戸泉が親方を務める「錦戸部屋」・・・八角部屋の隣にあり、両部屋とも高砂一門です。
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現在の関取は水戸龍。
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錦戸部屋から近い所に、相撲の始祖とされる野見宿禰を祀る「野見宿禰神社」があります。
かつては津軽家上屋敷の跡地であったこの地の東側にあった高砂部屋の親方・高砂浦五郎が、明治18年に相撲の神様・野見宿禰を祀ったのが神社の始まり。
日本書紀によれば、今から約二千年前の垂仁7年(紀元前23年)に、奈良で初の天覧相撲が執り行われ、この時の勝者が野見宿禰でした。 -
境内には歴代横綱の石碑があり、初代・明石志賀之助から四十六代・朝潮太郎までの名前が、もう一基には四十七代・柏戸剛から七十一代・鶴竜までの名前が刻まれています。
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小さな境内ですが、新横綱が誕生した際には土俵入りが行われます。
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本場所前にはここで相撲協会の神事が行われますが、今日がその日。
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この4月に所沢で二子山部屋を創設した元大関・雅山も参列。
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10時に神主さんが来て、神事が始まります。
神様をお迎えして祝詞を奏上し・・・ -
玉串奉奠が執り行われ、無事、神事も終わって神職が退場しました。
上の写真:振分親方(元小結・高見盛) -
浅香山親方の元大関・魁皇。
歴代1位の幕内在位(107場所)、大関在位(65場所)など、数々の記録を残した力士でした。 -
現役時代には角界屈指の人気力士だった高見盛・・・テレビCMにも出演し、取組には多数の懸賞金がかけられました。
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相撲部屋めぐりの締は、元関脇・玉春日が師匠を勤める「片男波部屋」で、現在の関取は玉鷲。
9つの相撲部屋を回りましたが、殆どの部屋が立派なビルの1階にあり、未来の横綱達はここで稽古に励み、親方と寝食を共にしていると思うと、応援したくなりますね。 -
この後は、両国駅に向かう途中、両国の街歩きを楽しみます。
清澄通りと蔵前橋通りが交差する石原一丁目の交差点に面しているのは、横網町公園にある「東京都復興記念館」。 -
東京市は大正11年(1922年)、陸軍被服廠の跡地に公園の造成を進めていましたが、その最中に発生したのが、翌12年9月1日の関東大震災。
この時、避難してきた近隣の人々が運び込んだ家財道具に火が伝って広がり、公園避難者だけで38,000人が犠牲になりました。 -
東京市は、犠牲者の霊を供養する慰霊堂と、東京復興の記念事業として復興記念館を建て、昭和6年に開園。
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北門から入ると、日本庭園があります。
この木は、昭和20年3月10日の東京大空襲で犠牲になった約10万人の方々に哀悼の意を捧げ、平和を祈念するために植えられたユズリハ。 -
両国にあるので、ついつい「よこづなちょう:横綱町」と読んでしまいますが、正しくは「よこあみちょう:横網町」・・・下町の人達の憩いの公園ですが、慰霊堂や復興記念館がある追悼メモリアルパークと言えます。
下の写真:石原町の震災・戦災による死者の追悼碑 -
池に泳ぐ鯉を見て、ホッと一息。
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公園中央の綺麗な花壇は「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」。
内部には、東京大空襲で亡くなられた8万余名の犠牲者名簿が収められています。 -
三重塔(高さ:約41m)がある「慰霊堂」は、築地本願寺や湯島聖堂などを手掛けた伊東忠太(1867~1954)の設計で、昭和5年に竣工し、東京大空襲の戦火も免れました。
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ここには、関東大震災および東京大空襲で亡くなった方々の遺骨(16万3千体)が安置されています。
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慰霊堂の建物内部。
約二百坪の講堂には祭壇があり、震災死亡者・空襲死亡者の霊をそれぞれ合祀した巨大な位牌が2基祀られています。
講堂の奥にある三重塔の基部は、五万八千の霊を安置する納骨堂になっています。 -
ここは犠牲者の遺族の方だけでなく、誰でもご焼香が出来ます。
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講堂入り口に展示されているのは、昭和28年の耐震工事の際に取り外した建築当時(昭和5年)の部材・・・設計者・伊東忠太のセンスが窺えます。
上の写真:降棟鳥飾り
下の写真:銅板葺きの屋根 -
関東大震災で亡くなった約5千人の児童の鎮魂碑「震災遭難児弔魂像」。
多くの人の寄付金により昭和6年に設置されましたが、第二次大戦時の資材供出で撤去され、昭和36年に再建。 -
公園からはスカイツリーがよく見えます。
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昭和5年に建てられた「鐘楼」・・・この梵鐘(幽冥鐘)は、関東大震災により遭難死した死者追悼のため、中国仏教徒から大正14年に寄贈されたものです。
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「東京都復興記念館」は、関東大震災の惨状やその後の復興事業を伝えるため、昭和6年に伊東忠太の設計で建てられました。
その後、東京大空襲など戦災関係の資料が追加され 館内には遭難者の遺品や絵画、写真等が展示されています。 -
関東大震災直後の日比谷交差点の写真・・・震災の凄まじさが、生々しく伝わってきます。
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震災後、上野駅前を埋める避難者。
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1890年(明治23年)に、日本で初めてエレベーターが設置された凌雲閣(浅草十二階)・・・高さは約67m、多くの人で賑わう浅草のシンボルでしたが、関東大震災で8階部分から折れ、崩壊しました。
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1909年(明治42年)に回向院境内に建設された旧国技館も、震災でダメージを受けましたが、翌年に再建。
戦時中は軍に、戦後はGHQに接収され、最後は日大講堂として使われましたが、昭和58年に解体されました。 -
これは竹久夢二の「東京災難画信」の一コマ・・・夢二は震災後の東京下町をスケッチして、当時の都新聞(現・東京新聞)に連載していました。
夢二の美人画も素敵ですが、震災で焼け野原になった下町のスケッチは、それ以上に胸に響きます。 -
昭和19年から終戦まで、東京は100回を超える空襲に見舞われ、文字通り灰燼に帰しました。
B29が襲来するこの写真を眺めていると、普段何も考えていない私達ですが、改めて平和を願う気持ちになります。 -
横網町公園・西門を出ると、目の前に両国国技館がありますが、隅田川方面に向かって「旧安田庭園」に立ち寄り。
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この地には、江戸時代に本庄松平氏(常陸笠間藩)の下屋敷がありましたが、元禄四年(1701年)に本庄宗資が大名庭園を築造し、安政年間に隅田川の水を引いて潮入回遊庭園として整備しました。
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明治維新後は旧岡山藩主・池田章政の邸宅となり、明治22年に安田財閥の創始者・安田善次郎の所有となります。
安田翁の死後、大正11年に東京市に寄贈され、翌年の関東大震災でほぼ壊滅しましたが、東京市が復元を行い、昭和2年に市民の庭園として開園しました。 -
心字池を囲んで散策路が設けられた庭園・・・かつては隅田川の水を取り入れ、隅田川の干満を利用し、眺めの変化を鑑賞する庭園でしたが、隅田川の汚染が園に及ぶようになったため、現在はポンプで人工的に潮入が再現されています。
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心字池には雪見灯篭が配置され、池には鯉や亀が遊ぶ美しい庭園・・・潮の干満が再現され、変化に富んだ風景が楽しめます。
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庭園内には1926年に完成した両国公会堂がありましたが、老朽化により2015年に解体され、跡地に三階建ての「刀剣博物館」が建てられ、今年の1月にオープンしました。
建物外観は、公会堂のデザインを継承しています。 -
博物館の3階にある屋上庭園に行ってみると、旧安田庭園が一望でき、植え込みの先には両国国技館の緑の屋根が・・・池に面してベンチが置かれ、皆さん、ゆっくりと寛いでいます。
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よく見ると、2組のカップルが記念撮影中・・・末永くお幸せに!
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旧安田庭園を後にして、両国国技館へ・・・5月場所を控え、多くの幟が両国の街を彩っています。
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前売り券は、すでに全席完売。
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本場所はまだですが、「相撲博物館」は見学できます。
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建物前に飾られた横綱の看板・・・稀勢の里の再起を祈るばかりです。
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撮影用看板は、やはり人気の遠藤。
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相撲博物館は、年6回の展示替で様々な資料を観覧できます。
今回の展示テーマは「雷電為右衛門と寛政の大相撲」・・・昨年、生誕250年を迎えた雷電を中心に、錦絵や雷電の遺品、谷風が使用した横綱、番付表など約80点の資料が展示されていましたが、館内は撮影禁止なので写真はありません。 -
相撲博物館の次は、JR両国駅前を通って回向院へ。
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両国駅から回向院に続く「国技館通り」・・・昔は回向院に国技館があったことから、ここが国技館通りと呼ばれ、左右の沿道には横綱の土俵入りの小さな像が並び、台座には歴代横綱の実物大の手形が飾られています。
上の写真の手形:曙
下の写真の手形:貴乃花 -
力士像は全部で7体、手形は52枚。
下の写真の手形:千代の富士 -
この台座は六角形ですが、四角形や五角形もありました。
下の写真の手形:大鵬 -
ブロンズ像の高さは約30cm程の小さい物です。
下の写真の手形:栃錦 -
回向院(えこういん)は、10万人を超える明暦大火(1657年)の犠牲者を弔う大法要のために建てられた浄土宗の寺院です。
境内に建てられた初代の国技館は、昭和21年11月場所が最後の興行で、その後は蔵前国技館に移りました。 -
境内にある「力塚」の碑は、昭和11年に相撲協会が歴代相撲年寄の慰霊のために建立したもの・・・新弟子たちが、力を授かるように祈願する石碑です。
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その隣にあるのは、平成14年に安置された聖観世音菩薩立像。
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回向院の境内には、さまざまな動物の慰霊碑、供養碑があります。
人だけでなく、すべての生あるものを供養するという創建当初の理念から、諸動物の供養が行われるようになったそうです。
下の写真の青い塔は、小鳥供養塔。 -
馬頭観音堂。
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犬猫供養塔。
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江戸時代の浄瑠璃語りで義太夫節浄瑠璃の創始者・竹本義太夫〈1651~1714)の墓。
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黒装束に頬かむり姿で闇夜に参上し、大名屋敷などの大きな屋敷を中心に盗みを働き、貧しく困っている町民の長屋に小判をそっと置いて立ち去った鼠小僧次郎吉(1797~1832)。
鼠小僧の墓の手前の白い石が「お前立ち」。
江戸時代より義賊として信仰され、長年捕まらなかったという強運にあやかって、お前立ちを削り、出てきた粉をお守りに・・・「金運アップ」や「合格祈願」(受験生が持ち帰ると「するりと入れる」)などご利益にあやかりたいため、皆さん、真剣にカリカリ削ってましたよ。 -
本堂に安置されている本尊の阿弥陀如来。
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本堂の壁にも仏像が。
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国技館通りの西側歩道にも横綱像が3体あります。
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お相撲さんも自転車に乗って青春(?)しています。
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両国駅の近くまで戻ってきました。
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折角、両国に来たので、今日のランチは「ちゃんこ 霧島」で。
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オーナーは、朝一番で見学した陸奥部屋親方の元大関・霧島。
メニューは、お昼の定番・きりしま定食(1,300円)・・・鉄鍋ちゃんこ・刺身3点盛り・小鉢とビールで ” ごっつあんでした ” 。
相撲の聖地の両国散策で、相撲部屋めぐりだけでなく、江戸時代からの歴史や史跡に触れた一日でした。
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