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東海道53次、No33 亀山宿を抜けて関宿へ<br /><br />表紙フォトは、浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像<br />【東海道五十三次 関宿 広重画】<br />関は、かつて鈴鹿の関が置かれ、その門前町として開かれた。関宿は伊勢別街道の東の追分、大和街道の西の追分があり、鈴鹿峠を控え、交通の要衝として繁盛した。<br /><br />広重は、川北本陣を早立ちする参勤大名の準備の景を描いた。

東海道53次、No33 亀山宿(46)を抜けて関宿(47)へ

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2018/04/20 - 2018/04/20

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ムッシュ

ムッシュさん

東海道53次、No33 亀山宿を抜けて関宿へ

表紙フォトは、浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像
【東海道五十三次 関宿 広重画】
関は、かつて鈴鹿の関が置かれ、その門前町として開かれた。関宿は伊勢別街道の東の追分、大和街道の西の追分があり、鈴鹿峠を控え、交通の要衝として繁盛した。

広重は、川北本陣を早立ちする参勤大名の準備の景を描いた。

旅行の満足度
5.0

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  • 亀山宿を抜けて、いよいよ【関宿の入り口】<br />関宿の東追分は、東海道と伊勢別街道の分岐点。そこにある大鳥居から伊勢神宮を遥拝したと言われている。伊勢神宮の遷宮のたびに内宮宇治橋の鳥居の旧材を用いて建て替えられた。<br /><br />『東海道五十三次 関宿 重要伝統的建造物群保存地区』と書かれた大きな看板。<br />関宿は、東海道五十三次の47番目の宿場である。現在は三重県亀山市(もとは関町であったが、2005年1月11日に亀山市と合併した)。 古代からの交通の要衝で、壬申の乱の頃に古代三関の一つ「伊勢鈴鹿関」が置かれた。 江戸時代も、東の追分からは伊勢別街道、西の追分からは大和街道が分岐する活気ある宿場町であった。古い町並みがよく保存されていて、国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。

    亀山宿を抜けて、いよいよ【関宿の入り口】
    関宿の東追分は、東海道と伊勢別街道の分岐点。そこにある大鳥居から伊勢神宮を遥拝したと言われている。伊勢神宮の遷宮のたびに内宮宇治橋の鳥居の旧材を用いて建て替えられた。

    『東海道五十三次 関宿 重要伝統的建造物群保存地区』と書かれた大きな看板。
    関宿は、東海道五十三次の47番目の宿場である。現在は三重県亀山市(もとは関町であったが、2005年1月11日に亀山市と合併した)。 古代からの交通の要衝で、壬申の乱の頃に古代三関の一つ「伊勢鈴鹿関」が置かれた。 江戸時代も、東の追分からは伊勢別街道、西の追分からは大和街道が分岐する活気ある宿場町であった。古い町並みがよく保存されていて、国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。

  • 【関の小満のもたれ松】の説明<br /> 江戸も中頃、九州久留米藩主牧藤左衛門の妻は良人の仇を討とうと志し、旅を続けて関宿山田屋に止宿・一女小萬(こまん)を産んだ後病没した。<br />  小萬は母の遺言により、成長して三年程、亀山城下で武術を修行し、天明三年(1783)見事、仇敵軍太夫を討つことができた。<br /> この場所には、当時亀山通いの小萬が若者のたわむれを避けるために、姿をかくしてもたれたと伝えられる松があったところから「小萬のもたれ松」とよばれるようになった。<br />  「関の小萬の亀山通い 月に雪駄が二十五足(鈴鹿馬子唄)」<br />                  平成六年二月吉日 関町教育委員会

    【関の小満のもたれ松】の説明
     江戸も中頃、九州久留米藩主牧藤左衛門の妻は良人の仇を討とうと志し、旅を続けて関宿山田屋に止宿・一女小萬(こまん)を産んだ後病没した。
      小萬は母の遺言により、成長して三年程、亀山城下で武術を修行し、天明三年(1783)見事、仇敵軍太夫を討つことができた。
     この場所には、当時亀山通いの小萬が若者のたわむれを避けるために、姿をかくしてもたれたと伝えられる松があったところから「小萬のもたれ松」とよばれるようになった。
      「関の小萬の亀山通い 月に雪駄が二十五足(鈴鹿馬子唄)」
                      平成六年二月吉日 関町教育委員会

  • 【常夜灯と一里塚跡】<br />追分の段上には元文5年(1682年)建立の常夜燈と一里塚跡標石があります、関の一里塚跡です、江戸日本橋より数えて106里目です。<br /><br />【東の追分】<br /> 関が歴史に登場するのは、7世紀この地に「鈴鹿関」が設けられたのがはじめで、これが地名の由来ともなっています。<br /> 慶長6年(1601)徳川幕府が宿駅の制度を定めた際、関宿は東海道五十三次で四十七番目の宿場となり、問屋場や陣屋なども整えられました。古文書によると天保14年(1843)には、家数632軒、本陣2、脇本陣2、旅籠屋42があったとされ(東海道宿村大概帳)、鈴鹿峠を控えた東海道の重要な宿駅として、また伊勢別街道や大和街道の分岐点として、江戸時代を通じて繁栄しました。<br />  ここ東の追分は伊勢別街道の分岐点で、鳥居は伊勢神宮の式年遷宮の際、古い鳥居を移築するのがならわしになっています。江戸方への次の宿は、亀山宿です。道標には外宮(伊勢神宮)まで15里(60Km)と刻まれています。

    【常夜灯と一里塚跡】
    追分の段上には元文5年(1682年)建立の常夜燈と一里塚跡標石があります、関の一里塚跡です、江戸日本橋より数えて106里目です。

    【東の追分】
     関が歴史に登場するのは、7世紀この地に「鈴鹿関」が設けられたのがはじめで、これが地名の由来ともなっています。
     慶長6年(1601)徳川幕府が宿駅の制度を定めた際、関宿は東海道五十三次で四十七番目の宿場となり、問屋場や陣屋なども整えられました。古文書によると天保14年(1843)には、家数632軒、本陣2、脇本陣2、旅籠屋42があったとされ(東海道宿村大概帳)、鈴鹿峠を控えた東海道の重要な宿駅として、また伊勢別街道や大和街道の分岐点として、江戸時代を通じて繁栄しました。
      ここ東の追分は伊勢別街道の分岐点で、鳥居は伊勢神宮の式年遷宮の際、古い鳥居を移築するのがならわしになっています。江戸方への次の宿は、亀山宿です。道標には外宮(伊勢神宮)まで15里(60Km)と刻まれています。

  • 【関宿の宿並み】<br />宿並は昭和59年(1984年)国の重要伝統的建造物群保存地区に指定され、宿並から電柱が撤去され、古い町屋約二百軒が修復整備されています。<br />関宿の宿並は狭く、元禄年間(1688~1703年)から伝わる祭り関の曳山の山車が両側の軒先にギリギリであったところが「関の山」の語源になったと云います

    【関宿の宿並み】
    宿並は昭和59年(1984年)国の重要伝統的建造物群保存地区に指定され、宿並から電柱が撤去され、古い町屋約二百軒が修復整備されています。
    関宿の宿並は狭く、元禄年間(1688~1703年)から伝わる祭り関の曳山の山車が両側の軒先にギリギリであったところが「関の山」の語源になったと云います

  • 【伊勢鈴鹿の関】<br />  伊勢鈴鹿の関が初めて歴史に登場するのは、天智天皇の死後、大友皇子と大海人皇子(後の天武天皇)が皇位を争った壬申の乱(672年)の際、大海人皇子が鈴鹿・不破の関を固めた事によります。延暦 八年(789)、桓武天皇によって三関は廃止されますが、その後も天皇の崩御や政変などが起こるたびに関が固められたようです。<br />  伊勢鈴鹿の関が置かれていた位置や規模、当時の「関」の様子などははっきりわかっていませんが、現在の関宿の位置にあったと考えられます。

    【伊勢鈴鹿の関】
      伊勢鈴鹿の関が初めて歴史に登場するのは、天智天皇の死後、大友皇子と大海人皇子(後の天武天皇)が皇位を争った壬申の乱(672年)の際、大海人皇子が鈴鹿・不破の関を固めた事によります。延暦 八年(789)、桓武天皇によって三関は廃止されますが、その後も天皇の崩御や政変などが起こるたびに関が固められたようです。
      伊勢鈴鹿の関が置かれていた位置や規模、当時の「関」の様子などははっきりわかっていませんが、現在の関宿の位置にあったと考えられます。

  • 百五銀行。街並みに配慮した意匠の銀行。

    百五銀行。街並みに配慮した意匠の銀行。

  • 百五銀行

    百五銀行

  • 【百六里庭と眺関帝】<br />2階のベランダから、関宿の家並が一望できる。<br />江戸時代にタイムスリップした様な街並み。<br />古代から愛発関(あらちのせき)、不破関、と並んで三関に数えられた鈴鹿関。この関が置かれていたのが関宿。<br />全長1.8kmの細長い宿場に本陣、脇本陣、旅籠42軒がひしめき合っていた。東の伊勢街道、西の大和街道の二つの追分に挟まれ、東海道でも屈指の賑わいだった。

    【百六里庭と眺関帝】
    2階のベランダから、関宿の家並が一望できる。
    江戸時代にタイムスリップした様な街並み。
    古代から愛発関(あらちのせき)、不破関、と並んで三関に数えられた鈴鹿関。この関が置かれていたのが関宿。
    全長1.8kmの細長い宿場に本陣、脇本陣、旅籠42軒がひしめき合っていた。東の伊勢街道、西の大和街道の二つの追分に挟まれ、東海道でも屈指の賑わいだった。

  • 関宿、鶴屋本陣跡

    関宿、鶴屋本陣跡

  • 【関宿、鶴屋脇本陣跡】西尾吉兵衛が代々勤めました。<br />脇本陣は、本陣に準ずる宿として、主に身分の高い人たちの宿泊の用を勤めたが、平素は一般庶民も泊ることができた。二階避面に千鳥破風をのせた派手な意匠である。

    【関宿、鶴屋脇本陣跡】西尾吉兵衛が代々勤めました。
    脇本陣は、本陣に準ずる宿として、主に身分の高い人たちの宿泊の用を勤めたが、平素は一般庶民も泊ることができた。二階避面に千鳥破風をのせた派手な意匠である。

  • 鶴屋本陣跡

    鶴屋本陣跡

  • 浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像<br />「東海道五拾三次之内 【関】 本陣早立 広重画」<br />広重は川北本陣を早立ちする参勤大名の準備の景を描いています。<br />本陣前には宿泊した大名の名を記した関札が立てられ、式台には大名駕籠が用意され、その前には足軽が控え、本陣の主がてきぱきと出発準備の指示をしています。<br /><br />西の追分広場にあった浮世絵・『歌川広重 東海道五拾三次 関 本陣早立』<br />まだ明けやらぬ早朝、伊藤本陣を出立する大名行列。<br />「大勢の人数を従えた大名行列の移動は大変で、まだ明けやらぬ早朝の暗いうちから出立の準備があわただしく始まります。濃い灰色の濃淡と黄緑色の配色は、日の出を間近にひかえた早朝の雰囲気を伝えています。昔ここに、鈴鹿の関があったことから関宿といわれ、近江の相坂の関、美濃の不破の関とともに三関に数えられました。」<br /><br />先の左手に伊藤本陣跡があります。伊藤本陣は間口11間余で、建坪は69坪でした。西隣の表門は唐破風造りの檜皮葺きで、現在残っている街道に面した部分は家族の居住と大名宿泊時に道具置場に供する建物でした。

    浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像
    「東海道五拾三次之内 【関】 本陣早立 広重画」
    広重は川北本陣を早立ちする参勤大名の準備の景を描いています。
    本陣前には宿泊した大名の名を記した関札が立てられ、式台には大名駕籠が用意され、その前には足軽が控え、本陣の主がてきぱきと出発準備の指示をしています。

    西の追分広場にあった浮世絵・『歌川広重 東海道五拾三次 関 本陣早立』
    まだ明けやらぬ早朝、伊藤本陣を出立する大名行列。
    「大勢の人数を従えた大名行列の移動は大変で、まだ明けやらぬ早朝の暗いうちから出立の準備があわただしく始まります。濃い灰色の濃淡と黄緑色の配色は、日の出を間近にひかえた早朝の雰囲気を伝えています。昔ここに、鈴鹿の関があったことから関宿といわれ、近江の相坂の関、美濃の不破の関とともに三関に数えられました。」

    先の左手に伊藤本陣跡があります。伊藤本陣は間口11間余で、建坪は69坪でした。西隣の表門は唐破風造りの檜皮葺きで、現在残っている街道に面した部分は家族の居住と大名宿泊時に道具置場に供する建物でした。

  • 高札場<br />【関宿高札場】<br />高札場とは、幕府の法度や掟書、宿場の決まりなどを掲示した場所です。<br />関宿の高札場は、江戸時代に描かれた数々の絵図を見ても、関宿中町北側(現関郵便局)にありました。当時この敷地は、「御茶屋御殿」と呼ばれ、江戸時代初期のおいては本陣の役割を果たす施設でしたが、関宿に本陣が確立されてからは、亀山藩の施設として番所などが置かれていました。<br />関宿高札場は、この御茶屋御殿の街道に面した位置にあり、街道に面した間口十一間余のほぼ中央に、枡形状の土塀に囲まれてあり、高札場の建設、高札の付け替えなどは亀山藩が行っていました。<br />『東海道宿村大概帳』によると、関宿高札場には八枚の高札が掲げられており、その内容は、生活にかかわる様々な規範、キリシタン禁令や徒党・強訴などの禁止といった幕府の禁令、隣接宿場までの人馬駄賃の規定などでした。<br />明治時代になると、各地の高札場は撤去されますが、関宿の高札場も、明治十年、関宿中町伊藤家の土蔵建築の際、旧高札場の石、土、瓦等を残らず処分したことが当家文書にあり、周囲の土塀なども含め全てが撤去されたことがわかります。<br />この度、関宿の町並み保存に取り組んでいただいている「関宿町並み保存会」、<br />「関宿案内ボランティアの会」、「関宿観光協会」の三団体より、高札場復元のご要望をいただき、また、復元場所を所有する日本郵政公社及び関郵便局の多大なるご理解・ご協力を賜り、宿場町の重要施設のひとつである高札場の復元が実現したものです。

    高札場
    【関宿高札場】
    高札場とは、幕府の法度や掟書、宿場の決まりなどを掲示した場所です。
    関宿の高札場は、江戸時代に描かれた数々の絵図を見ても、関宿中町北側(現関郵便局)にありました。当時この敷地は、「御茶屋御殿」と呼ばれ、江戸時代初期のおいては本陣の役割を果たす施設でしたが、関宿に本陣が確立されてからは、亀山藩の施設として番所などが置かれていました。
    関宿高札場は、この御茶屋御殿の街道に面した位置にあり、街道に面した間口十一間余のほぼ中央に、枡形状の土塀に囲まれてあり、高札場の建設、高札の付け替えなどは亀山藩が行っていました。
    『東海道宿村大概帳』によると、関宿高札場には八枚の高札が掲げられており、その内容は、生活にかかわる様々な規範、キリシタン禁令や徒党・強訴などの禁止といった幕府の禁令、隣接宿場までの人馬駄賃の規定などでした。
    明治時代になると、各地の高札場は撤去されますが、関宿の高札場も、明治十年、関宿中町伊藤家の土蔵建築の際、旧高札場の石、土、瓦等を残らず処分したことが当家文書にあり、周囲の土塀なども含め全てが撤去されたことがわかります。
    この度、関宿の町並み保存に取り組んでいただいている「関宿町並み保存会」、
    「関宿案内ボランティアの会」、「関宿観光協会」の三団体より、高札場復元のご要望をいただき、また、復元場所を所有する日本郵政公社及び関郵便局の多大なるご理解・ご協力を賜り、宿場町の重要施設のひとつである高札場の復元が実現したものです。

  • 【高札場と郵便局】宿場の景観保存ができている。<br /> 関宿高札場は、この御茶屋御殿の街道に面した位置にあり、街道に面した間口十一間余のほぼ中央に、枡形状の土塀に囲まれてあり、高札場の建設、高札の付け替えなどは亀山藩が行っていました。<br /> 『東海道宿村大概帳』によると、関宿高札場には八枚の高札が掲げられており、その内容は、生活にかかわる様々な規範、キリシタン禁令や徒党・強訴などの禁止といった幕府の禁令、隣接宿場までの人馬駄賃の規定などでした。<br />  明治時代になると、各地の高札場は撤去されますが、関宿の高札場も、明治十年、関宿中町伊藤家の土蔵建築の際、旧高札場の石、土、瓦等を残らず処分したことが当家文書にあり、周囲の土塀なども含め全てが撤去されたことがわかります。<br /> この度、関宿の町並み保存に取り組んでいただいている「関宿町並み保存会」、「関宿案内ボランティアの会」、「関宿観光協会」の三団体より、高札場復元のご要望をいただき、また、復元場所を所有する日本郵政公社及び関郵便局の多大なるご理解・ご協力を賜り、宿場町の重要施設のひとつである高札場の復元が実現したものです。<br />(復元概要)<br />●復元年代  規模及び高札についての資料が残る、寛政年間から天保年間頃<br />●規   模  寛政年間の資料に「高サ弐間四尺弐寸 長三間弐尺五寸 幅壱間弐尺」という記載があり、これを基本とした。<br />●形   状  関宿には形状を描いた図面等がなく、他の高札場の幕末から明治期の写真等を参考にした。<br />●高   札  関宿のものは現存せず、同様の内容を記載した他の高札を参考とした。文言については「東海道宿村大概帳」の記載どおりだが、楷書に変えた。<br />                   平成十六年三月 関町教育委員会

    【高札場と郵便局】宿場の景観保存ができている。
     関宿高札場は、この御茶屋御殿の街道に面した位置にあり、街道に面した間口十一間余のほぼ中央に、枡形状の土塀に囲まれてあり、高札場の建設、高札の付け替えなどは亀山藩が行っていました。
     『東海道宿村大概帳』によると、関宿高札場には八枚の高札が掲げられており、その内容は、生活にかかわる様々な規範、キリシタン禁令や徒党・強訴などの禁止といった幕府の禁令、隣接宿場までの人馬駄賃の規定などでした。
      明治時代になると、各地の高札場は撤去されますが、関宿の高札場も、明治十年、関宿中町伊藤家の土蔵建築の際、旧高札場の石、土、瓦等を残らず処分したことが当家文書にあり、周囲の土塀なども含め全てが撤去されたことがわかります。
     この度、関宿の町並み保存に取り組んでいただいている「関宿町並み保存会」、「関宿案内ボランティアの会」、「関宿観光協会」の三団体より、高札場復元のご要望をいただき、また、復元場所を所有する日本郵政公社及び関郵便局の多大なるご理解・ご協力を賜り、宿場町の重要施設のひとつである高札場の復元が実現したものです。
    (復元概要)
    ●復元年代  規模及び高札についての資料が残る、寛政年間から天保年間頃
    ●規   模  寛政年間の資料に「高サ弐間四尺弐寸 長三間弐尺五寸 幅壱間弐尺」という記載があり、これを基本とした。
    ●形   状  関宿には形状を描いた図面等がなく、他の高札場の幕末から明治期の写真等を参考にした。
    ●高   札  関宿のものは現存せず、同様の内容を記載した他の高札を参考とした。文言については「東海道宿村大概帳」の記載どおりだが、楷書に変えた。
                       平成十六年三月 関町教育委員会

  • 関、【伊藤本陣跡】

    関、【伊藤本陣跡】

  • 【旅籠玉屋。関宿旅籠玉屋歴史資料館を併設】<br />慶応元年1865年築。<br />関宿を代表する大旅籠でした、「関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだ泊まるなら会津屋か」と謡われました。<br /><br />右は、て旅人宿石垣屋<br />【旅籠玉屋とその建物】 <br />寛政12年(1800)の宿場絵図には代々襲名していた理右衛門の名前が記されており、すでにその頃にはこの場所で旅籠を営んでいたと考えられます。<br /> 東海道に面した主屋は、慶応元年(1865)に建築された木造二階建で、外観は二階を漆喰で塗り籠める関宿でよく見られる形式ですが、江戸時代の建物としては特別軒が高く、屋号にちなんで設けられた宝珠をかたどった虫籠窓(むしこまど)が特徴的です。土間(トオリマド)西側にある板の間(ミセ・チョウバ)と座敷、及び二階が客室として使われ、土間東側にある二室(コミセ)とその二階が、家族や奉公人の生活に使われていたと考えられます。また、トオリマドから続く吹き抜けの広い土間(ニワ)は、宿泊客の食事などを準備した勝手でした。<br />  主屋に続く離れは、主屋よりも少し古い建物と考えられ、整然とした六室が並ぶ間取りです。座敷には床・棚・書院が整えられ、玉屋12代主人作という欄間彫刻や池田雲撨による襖絵などもあって、玉屋でもっとも上等な座敷であったと考えられます。<br />  土蔵は、棟木の墨書から元文4年(1739)の建築とわかりました。<br />このように玉屋には、旅籠当時の建築物が一体となって保存されており、江戸時代の旅籠の様子を今に伝える貴重な遺構であるといえます。

    【旅籠玉屋。関宿旅籠玉屋歴史資料館を併設】
    慶応元年1865年築。
    関宿を代表する大旅籠でした、「関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだ泊まるなら会津屋か」と謡われました。

    右は、て旅人宿石垣屋
    【旅籠玉屋とその建物】 
    寛政12年(1800)の宿場絵図には代々襲名していた理右衛門の名前が記されており、すでにその頃にはこの場所で旅籠を営んでいたと考えられます。
     東海道に面した主屋は、慶応元年(1865)に建築された木造二階建で、外観は二階を漆喰で塗り籠める関宿でよく見られる形式ですが、江戸時代の建物としては特別軒が高く、屋号にちなんで設けられた宝珠をかたどった虫籠窓(むしこまど)が特徴的です。土間(トオリマド)西側にある板の間(ミセ・チョウバ)と座敷、及び二階が客室として使われ、土間東側にある二室(コミセ)とその二階が、家族や奉公人の生活に使われていたと考えられます。また、トオリマドから続く吹き抜けの広い土間(ニワ)は、宿泊客の食事などを準備した勝手でした。
      主屋に続く離れは、主屋よりも少し古い建物と考えられ、整然とした六室が並ぶ間取りです。座敷には床・棚・書院が整えられ、玉屋12代主人作という欄間彫刻や池田雲撨による襖絵などもあって、玉屋でもっとも上等な座敷であったと考えられます。
      土蔵は、棟木の墨書から元文4年(1739)の建築とわかりました。
    このように玉屋には、旅籠当時の建築物が一体となって保存されており、江戸時代の旅籠の様子を今に伝える貴重な遺構であるといえます。

  • 【旅籠会津屋】<br />旧山田屋。小万はここで生まれ、養女になり、仇討ち後、38歳で亡くなる。

    【旅籠会津屋】
    旧山田屋。小万はここで生まれ、養女になり、仇討ち後、38歳で亡くなる。

  • 【旅籠会津屋】

    【旅籠会津屋】

  • 【橋爪家】<br />江戸末期は芸妓(げいぎ)の置屋として栄えました、街道に面して手摺付の二階妻入り建ですが、これは明治期の改築で、元は平入の屋根でした。

    【橋爪家】
    江戸末期は芸妓(げいぎ)の置屋として栄えました、街道に面して手摺付の二階妻入り建ですが、これは明治期の改築で、元は平入の屋根でした。

  • 【会津屋】<br />会津屋は鶴屋・玉屋とともに関宿で有数の大旅籠であった。<br /> 明和から天明にかけて会津屋の前身、山田屋で育った小万が女の身で亡父の仇を討った烈女「関の小万の物語」は有名である。<br /><br />現在は地蔵院前で手作りおこわと、街道そばの店『會津屋』

    【会津屋】
    会津屋は鶴屋・玉屋とともに関宿で有数の大旅籠であった。
     明和から天明にかけて会津屋の前身、山田屋で育った小万が女の身で亡父の仇を討った烈女「関の小万の物語」は有名である。

    現在は地蔵院前で手作りおこわと、街道そばの店『會津屋』

  • 【地蔵院本堂】<br />「関の地蔵に振袖着せて、奈良の大仏婿に取ろ」の俗揺で名高い関地蔵院。天平13年(741年)行基菩薩の開創。<br />*一休禅師ゆかりの地蔵院<br />通りかかった一休禅師が開眼供養を頼まれ、小便をひっかけた里人は供養をし直したが祟ってしまう。一休を桑名まで追い、貰い受けた一休のすんどしを掛けたところぴたりとやんだ。<br /><br />関地蔵院は日本最古の地蔵院で、本堂、愛染堂、鐘楼が国の重要文化財に指定。<br />ここには地蔵菩薩が安置されており、関のお地蔵さんと呼ばれている。<br />この世とあの世の苦しみから人々を救ってくれるのがお地蔵様。<br /><br />真言宗御室派の『九関山 宝蔵寺 地蔵院』。<br />関地蔵院は日本最古の地蔵院で、本堂、愛染堂、鐘楼が国の重要文化財に指定。<br />ここには地蔵菩薩が安置されており、関のお地蔵さんと呼ばれている。<br />この世とあの世の苦しみから人々を救ってくれるのがお地蔵様。

    【地蔵院本堂】
    「関の地蔵に振袖着せて、奈良の大仏婿に取ろ」の俗揺で名高い関地蔵院。天平13年(741年)行基菩薩の開創。
    *一休禅師ゆかりの地蔵院
    通りかかった一休禅師が開眼供養を頼まれ、小便をひっかけた里人は供養をし直したが祟ってしまう。一休を桑名まで追い、貰い受けた一休のすんどしを掛けたところぴたりとやんだ。

    関地蔵院は日本最古の地蔵院で、本堂、愛染堂、鐘楼が国の重要文化財に指定。
    ここには地蔵菩薩が安置されており、関のお地蔵さんと呼ばれている。
    この世とあの世の苦しみから人々を救ってくれるのがお地蔵様。

    真言宗御室派の『九関山 宝蔵寺 地蔵院』。
    関地蔵院は日本最古の地蔵院で、本堂、愛染堂、鐘楼が国の重要文化財に指定。
    ここには地蔵菩薩が安置されており、関のお地蔵さんと呼ばれている。
    この世とあの世の苦しみから人々を救ってくれるのがお地蔵様。

  • 【関宿西の追分】<br />西追分は大和街道との分岐点。関宿は交通の要所としてもさかえた。<br />道標は、「南妙法蓮華経」の題目塔。「ひたりハいかやまとみち」と刻まれている。<br /><br />関が歴史に登場するのは、7世紀この地に「鈴鹿関」が設けられたのがはじめで、これが地名の由来ともなっています。<br />  慶長六年(1601)徳川幕府が宿駅の制度を定めた際、関宿は東海道五十三次で四十七番目の宿場となり、問屋場や陣屋なども整えられました。古文書によると天保14年(1843)には、家数632軒、本陣2、脇本陣2、旅籠屋42があったとされ(東海道宿村大概帳)、鈴鹿峠を控えた東海道の重要な宿駅として、また伊勢別街道や大和街道の分岐点として、江戸時代を通じて繁栄しました。<br />  ここ西の追分は大和街道との分岐点にあたり、東海道、京都方への次の宿は坂下宿で、鈴鹿峠を越えて京都へは19里半(78Km)あります。また大和街道は加太越えをして伊賀から奈良に至ります。

    【関宿西の追分】
    西追分は大和街道との分岐点。関宿は交通の要所としてもさかえた。
    道標は、「南妙法蓮華経」の題目塔。「ひたりハいかやまとみち」と刻まれている。

    関が歴史に登場するのは、7世紀この地に「鈴鹿関」が設けられたのがはじめで、これが地名の由来ともなっています。
      慶長六年(1601)徳川幕府が宿駅の制度を定めた際、関宿は東海道五十三次で四十七番目の宿場となり、問屋場や陣屋なども整えられました。古文書によると天保14年(1843)には、家数632軒、本陣2、脇本陣2、旅籠屋42があったとされ(東海道宿村大概帳)、鈴鹿峠を控えた東海道の重要な宿駅として、また伊勢別街道や大和街道の分岐点として、江戸時代を通じて繁栄しました。
      ここ西の追分は大和街道との分岐点にあたり、東海道、京都方への次の宿は坂下宿で、鈴鹿峠を越えて京都へは19里半(78Km)あります。また大和街道は加太越えをして伊賀から奈良に至ります。

  • 国道1号線の合流地点の手前左にあったのが<br />『街道 おんな唄』石碑。<br />「泊めていいのね こころの宿に  夢のかけらを 想い出を<br />   待ちますわ 待ってます 壊れそうなの 闇の中 胸突き七坂 箱根山<br />   越すに越せない 世間の川が 愛の行く末 とおせんぼ<br />   行こうかな 戻ろうかな 憎さなおます 大井川 掛川かなわぬ 旅衣<br />   坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山 雨の春<br />   負けないわ きっと咲く 花はつぼみよ 関の宿 うす陽もこぼれる 石畳」

    国道1号線の合流地点の手前左にあったのが
    『街道 おんな唄』石碑。
    「泊めていいのね こころの宿に  夢のかけらを 想い出を
    待ちますわ 待ってます 壊れそうなの 闇の中 胸突き七坂 箱根山
    越すに越せない 世間の川が 愛の行く末 とおせんぼ
    行こうかな 戻ろうかな 憎さなおます 大井川 掛川かなわぬ 旅衣
    坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山 雨の春
    負けないわ きっと咲く 花はつぼみよ 関の宿 うす陽もこぼれる 石畳」

  • 元禄十四年(1691)谷口法悦が建立した【南無妙法蓮華経題目碑道標「ひだりハいかやまとみち」】があります。<br />道標。やまとみちの字も見える。<br /><br />西の追分に残る『法悦供養塔道標(題目塔道標)』といわれる高さ2.9mの石の道標。元禄14年(1691)に谷口長右衛門が旅人の道中安全を祈願して建立したもの

    元禄十四年(1691)谷口法悦が建立した【南無妙法蓮華経題目碑道標「ひだりハいかやまとみち」】があります。
    道標。やまとみちの字も見える。

    西の追分に残る『法悦供養塔道標(題目塔道標)』といわれる高さ2.9mの石の道標。元禄14年(1691)に谷口長右衛門が旅人の道中安全を祈願して建立したもの

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