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東海道53次、No31 石薬師宿を抜けて庄野宿へ<br />庄野宿は、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠15軒という小さな宿場であった。<br /><br />表紙フォトは、浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像<br />【東海道五拾三次内 庄野 広重画】<br />歌川広重(1797~1858)の最高傑作のひとつ、”夕立の庄野””白雨”<br />「庄野の白雨」は、彼の作品の中でも傑作中の傑作といわれ、世界的にも高い評価を得ている。<br />竹藪が生い茂った坂道に、急に雨が降り出し、慌てて雨宿りを求めて急ぐ人、、籠の客に合羽をかけて慣れた様子でゆっくり上る籠かきや、傘を半開きで走り下る旅人、人それぞれの対応。<br />斜めに降り注ぐ雨が束になって描写される。雨足の強さを表現。かき曇った空のため背後の木々がシルエットで表され、強い風に煽られて斜めに傾く。驟雨の一瞬を捉えた傑作。<br />日本美術では、雨は多くの線で描かれる場合が多い

東海道53次、No31 石薬師宿(44)を抜けて庄野宿(45)へ

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2018/04/20 - 2018/04/20

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ムッシュ

ムッシュさん

東海道53次、No31 石薬師宿を抜けて庄野宿へ
庄野宿は、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠15軒という小さな宿場であった。

表紙フォトは、浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像
【東海道五拾三次内 庄野 広重画】
歌川広重(1797~1858)の最高傑作のひとつ、”夕立の庄野””白雨”
「庄野の白雨」は、彼の作品の中でも傑作中の傑作といわれ、世界的にも高い評価を得ている。
竹藪が生い茂った坂道に、急に雨が降り出し、慌てて雨宿りを求めて急ぐ人、、籠の客に合羽をかけて慣れた様子でゆっくり上る籠かきや、傘を半開きで走り下る旅人、人それぞれの対応。
斜めに降り注ぐ雨が束になって描写される。雨足の強さを表現。かき曇った空のため背後の木々がシルエットで表され、強い風に煽られて斜めに傾く。驟雨の一瞬を捉えた傑作。
日本美術では、雨は多くの線で描かれる場合が多い

旅行の満足度
4.5
  • 庄野宿入口です。有名な浮世絵が歓迎してくれる。<br />歌川広重の描く、超有名な傑作 ”庄野の白雨”。印象派の画家モネも、この様式を真似ている。

    庄野宿入口です。有名な浮世絵が歓迎してくれる。
    歌川広重の描く、超有名な傑作 ”庄野の白雨”。印象派の画家モネも、この様式を真似ている。

  • 『廣重 東海道五十三次の内 庄野 白雨』が。<br />「天領である庄野宿は寛永元年(1624)に設置。本陣・脇本陣各一、旅籠十五軒、五十三ある宿場のうち最も遅かった。<br />「草分け三十六戸・宿立七十戸」対岸の集落を移動させ宿立七十戸とした。」<br />

    『廣重 東海道五十三次の内 庄野 白雨』が。
    「天領である庄野宿は寛永元年(1624)に設置。本陣・脇本陣各一、旅籠十五軒、五十三ある宿場のうち最も遅かった。
    「草分け三十六戸・宿立七十戸」対岸の集落を移動させ宿立七十戸とした。」

  • 東海道五拾三次之内 庄野 白雨

    東海道五拾三次之内 庄野 白雨

  • 参考関連<br />「名所江戸百景 大はしあたけの夕立 - 歌川広重」<br />雨降り表現の似た事例。これは庄野以上の雨降りです。<br />急な夕立を交差する細線で表現しています。ゴッホが模写した絵としても有名です。

    参考関連
    「名所江戸百景 大はしあたけの夕立 - 歌川広重」
    雨降り表現の似た事例。これは庄野以上の雨降りです。
    急な夕立を交差する細線で表現しています。ゴッホが模写した絵としても有名です。

  • 【庄野宿資料館】の前にも、浮世絵。<br />安藤広重が描いた風景版画【庄野の白雨】でよく知られている。<br />風に煽られた竹藪の景を見ていると、何やら広重の傑作と云われている、庄野白雨の写生地はここではないかと思えてきます。<br />竹藪が生い茂った坂道に、急に雨が降り出し、慌てて雨宿りを求めて走り出す旅人や篭屋が描かれている。<br /><br />嘉永七年(1682年)築で油問屋であった旧小林家が庄野宿資料館になっています。<br /><br />『廣重 東海道五十三次の内 庄野 白雨』。<br />庄野で描かれた「白雨」は、東海道全五十五枚中三大役物のひとつに数えられ、<br />歌川広重全作品の中でも最高傑作と呼ばれているのだ。<br />「白雨」とは、夕立やにわか雨のこと。突然の風を伴った激しい雨に、坂道を往来する<br />人々を生き生きと描写。強風に揺れる遠景の竹薮を、輪郭線の無い二重のシルエットにして<br />奥行きを出し、降る雨の角度を変えるなど、技法的にも新たな試みをし、成功している<br />

    【庄野宿資料館】の前にも、浮世絵。
    安藤広重が描いた風景版画【庄野の白雨】でよく知られている。
    風に煽られた竹藪の景を見ていると、何やら広重の傑作と云われている、庄野白雨の写生地はここではないかと思えてきます。
    竹藪が生い茂った坂道に、急に雨が降り出し、慌てて雨宿りを求めて走り出す旅人や篭屋が描かれている。

    嘉永七年(1682年)築で油問屋であった旧小林家が庄野宿資料館になっています。

    『廣重 東海道五十三次の内 庄野 白雨』。
    庄野で描かれた「白雨」は、東海道全五十五枚中三大役物のひとつに数えられ、
    歌川広重全作品の中でも最高傑作と呼ばれているのだ。
    「白雨」とは、夕立やにわか雨のこと。突然の風を伴った激しい雨に、坂道を往来する
    人々を生き生きと描写。強風に揺れる遠景の竹薮を、輪郭線の無い二重のシルエットにして
    奥行きを出し、降る雨の角度を変えるなど、技法的にも新たな試みをし、成功している

  • 【庄野宿資料館】連子格子の建屋。<br />庄野宿の設置は東海道中で最も遅い寛永元年(1624年)、鈴鹿川東の古庄野から住民を移住させて開設された。<br />宿長は八町(約870m)で、宿並は東から加茂町、中町、上町で構成され、幕府直轄領(天領)でした。<br />当宿も石薬師宿と同様に、伊勢参詣の旅人の通行は無く、はなはだ振るわない宿でした、その為、人足、伝馬は半減されていた。これは創建当時の姿に復元した母屋の一部。<br /><br />【旧小林家住宅】 市有形文化財(建造物)<br />  庄野町は安藤広重の『東海道五十三次』の中でも傑作といわれる〔庄野の白雨〕の題材になったところとして有名で、東海道五十三次のうち四十五番目の宿場にあたります。旧街道の雰囲気をしのばせる家屋が年々失われてゆく中、現在もなお古風な姿をとどめる旧小林家住宅は、江戸時代末期の大型町屋建築として高い評価を受けています。<br />  この建築物は保管されている棟札から嘉永七年頃に建てられたものと考えられます。こうした貴重な歴史的遺産を保管するため、平成八年三月十二日に主屋、土蔵を市の有形文化財(建築物)に指定しました。<br /> 翌年から庄野宿関係資料を中心に展示する郷土の資料館として活用するにあたり、平成十年三月に修復工事を終え、四月から庄野宿資料館として公開いたしました。<br /> 館内には本陣文書をはじめ、宿駅関係文書、小林彦三郎先生の絵画や遺品、また生活用品や民具、農具などを常設し、当時の生活の様子を一目で知ることができるよう陳列しています。<br /><br />天保14年(1843年)の頃、庄野宿の宿内家数は211軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠15軒で宿内人口は855人でした。<br />

    【庄野宿資料館】連子格子の建屋。
    庄野宿の設置は東海道中で最も遅い寛永元年(1624年)、鈴鹿川東の古庄野から住民を移住させて開設された。
    宿長は八町(約870m)で、宿並は東から加茂町、中町、上町で構成され、幕府直轄領(天領)でした。
    当宿も石薬師宿と同様に、伊勢参詣の旅人の通行は無く、はなはだ振るわない宿でした、その為、人足、伝馬は半減されていた。これは創建当時の姿に復元した母屋の一部。

    【旧小林家住宅】 市有形文化財(建造物)
      庄野町は安藤広重の『東海道五十三次』の中でも傑作といわれる〔庄野の白雨〕の題材になったところとして有名で、東海道五十三次のうち四十五番目の宿場にあたります。旧街道の雰囲気をしのばせる家屋が年々失われてゆく中、現在もなお古風な姿をとどめる旧小林家住宅は、江戸時代末期の大型町屋建築として高い評価を受けています。
      この建築物は保管されている棟札から嘉永七年頃に建てられたものと考えられます。こうした貴重な歴史的遺産を保管するため、平成八年三月十二日に主屋、土蔵を市の有形文化財(建築物)に指定しました。
     翌年から庄野宿関係資料を中心に展示する郷土の資料館として活用するにあたり、平成十年三月に修復工事を終え、四月から庄野宿資料館として公開いたしました。
     館内には本陣文書をはじめ、宿駅関係文書、小林彦三郎先生の絵画や遺品、また生活用品や民具、農具などを常設し、当時の生活の様子を一目で知ることができるよう陳列しています。

    天保14年(1843年)の頃、庄野宿の宿内家数は211軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠15軒で宿内人口は855人でした。

  • 街道の街並み<br />庄野集会所に庄野宿本陣跡標石があります、沢田兵左衛門が代々勤め、間口14間1尺、奥行21間1尺、坪数229坪七合、畳数197畳半、板数44畳半でした。<br />小路脇に高札場跡解説板があります、天和二年(1682年)の高札が完全な形で庄野宿資料館に展示されています。<br />

    街道の街並み
    庄野集会所に庄野宿本陣跡標石があります、沢田兵左衛門が代々勤め、間口14間1尺、奥行21間1尺、坪数229坪七合、畳数197畳半、板数44畳半でした。
    小路脇に高札場跡解説板があります、天和二年(1682年)の高札が完全な形で庄野宿資料館に展示されています。

  • 【川俣神社】<br />延喜式神名帳に記載された古社です。<br />樹齢300年と言われる県の天然記念物スタジイがあります。<br /><br />旧東海道に面した社標に『延喜式内川俣神社』とあるので、延喜年間(901-22)の時代に、すでに存在していた神社である。天保15年(1844)の対の常夜燈も参道入口に<br /><br />【川俣神社のスダジイ】 三重県指定天然記念物(昭和44年3月指定)<br />スダジイはブナ科の常緑樹で、わが国では暖地に自生している。<br />葉は広楕円の革質で厚く、葉の裏は淡褐色である。初夏には雌雄の花をつけ、果実は小粒で硬い。<br />この樹は高さ約11m、地上の幹周り約5mの巨木である。<br />                 昭和五十六年三月 鈴鹿市教育委員会

    【川俣神社】
    延喜式神名帳に記載された古社です。
    樹齢300年と言われる県の天然記念物スタジイがあります。

    旧東海道に面した社標に『延喜式内川俣神社』とあるので、延喜年間(901-22)の時代に、すでに存在していた神社である。天保15年(1844)の対の常夜燈も参道入口に

    【川俣神社のスダジイ】 三重県指定天然記念物(昭和44年3月指定)
    スダジイはブナ科の常緑樹で、わが国では暖地に自生している。
    葉は広楕円の革質で厚く、葉の裏は淡褐色である。初夏には雌雄の花をつけ、果実は小粒で硬い。
    この樹は高さ約11m、地上の幹周り約5mの巨木である。
                     昭和五十六年三月 鈴鹿市教育委員会

  • 各戸に庄野宿の提灯が掲げられている。連子格子形式の家屋。

    各戸に庄野宿の提灯が掲げられている。連子格子形式の家屋。

  • 庄野宿の石標。ここが庄野宿の京方口(西口)です。

    庄野宿の石標。ここが庄野宿の京方口(西口)です。

  • 【女人堤防の石碑】 昭和33年(1958年)の建碑です。<br />亀山藩の水害防止の観点から、下流の庄野宿には堤防も作らせなかった。この禁を破ると、男性は死罪になることから、女手で庄野宿を守る堤防を6年もの歳月を費やして構築したとか。<br /><br />この辺りは鈴鹿川と安楽川の合流点で、度重なる氾濫により被害が続き、文政12年頃、神戸藩に何度も修築を申し出たが許されず、女性たちが禁を犯し打ち首を覚悟で堤防を補強したところである。<br /><br />鈴鹿川と安楽川の合流する汲川原(くみがわら)はしばしば水害に見舞われ、多くの人命が失われ、村人達は堤防の構築を神戸藩に願い出ました。<br />しかし堤防を造ると対岸の亀山城下町が水害に見舞われるようになるとして許可されませんでした、「禁を破った者は打ち首」という達しが出た、しかし女人であれば罪科(つみとが)が軽く済むと信じ、村の女二百余名が立上り、6年の歳月をかけて堤防を完成さてしまった。<br />このことが藩主の耳に入ると一同の処刑が命じられた、女達は処刑場に護送されたが、家老が身をもって諌めた為、咎めなしとなり、赦免の早馬が走り、逆に金一封を送り功績を讃えました、村人はこの堤防を女人堤防と云い伝えた。<br /><br />「女人堤防碑文<br />この地、鈴鹿川の北安楽川との合流点にあって、安全な堤防がない為、毎年夏期の水害には、耕地・住宅の被害甚だしく人名を失ったことも屡次、幾度かの堤防建設の訴願も、南岸の城下町神戸の浸水を怖るる藩主許す所とならず、強いて行えば打首の極刑に処せられる。されど、毎年の如く被害を蒙る部落民は眼前の苦悩に耐え難く、如何なる処刑をも恐れず築堤せんとした。この時に当たり菊女という乙女、打首の刑を犯す築堤は、男子全部の命を失い将来部落の自活に大いなる支障を来す。この工事は、私等の死出の仕事にしましょうと絶叫した。これに同じた女衆二百余人、暗夜を選んで工事を続け、苦心惨憺六年遂に完成、今日の美田、安住の地を得たるに到った。この事、いつしか藩主の知るところとなり、処刑の日は来た。今しその第一番者菊女が断頭の座についた刹那、家老松野清邦の死を期しての諫による赦罰の早馬駆け来たり既に覚悟した二百余名の命は助けられ、あまつさえ、築堤の功を賞して金一封と、絹五匹を贈られた。実に女の一念岩をも通した美挙である。<br />茲にこれを記念せんがためこの碑を建つ」

    【女人堤防の石碑】 昭和33年(1958年)の建碑です。
    亀山藩の水害防止の観点から、下流の庄野宿には堤防も作らせなかった。この禁を破ると、男性は死罪になることから、女手で庄野宿を守る堤防を6年もの歳月を費やして構築したとか。

    この辺りは鈴鹿川と安楽川の合流点で、度重なる氾濫により被害が続き、文政12年頃、神戸藩に何度も修築を申し出たが許されず、女性たちが禁を犯し打ち首を覚悟で堤防を補強したところである。

    鈴鹿川と安楽川の合流する汲川原(くみがわら)はしばしば水害に見舞われ、多くの人命が失われ、村人達は堤防の構築を神戸藩に願い出ました。
    しかし堤防を造ると対岸の亀山城下町が水害に見舞われるようになるとして許可されませんでした、「禁を破った者は打ち首」という達しが出た、しかし女人であれば罪科(つみとが)が軽く済むと信じ、村の女二百余名が立上り、6年の歳月をかけて堤防を完成さてしまった。
    このことが藩主の耳に入ると一同の処刑が命じられた、女達は処刑場に護送されたが、家老が身をもって諌めた為、咎めなしとなり、赦免の早馬が走り、逆に金一封を送り功績を讃えました、村人はこの堤防を女人堤防と云い伝えた。

    「女人堤防碑文
    この地、鈴鹿川の北安楽川との合流点にあって、安全な堤防がない為、毎年夏期の水害には、耕地・住宅の被害甚だしく人名を失ったことも屡次、幾度かの堤防建設の訴願も、南岸の城下町神戸の浸水を怖るる藩主許す所とならず、強いて行えば打首の極刑に処せられる。されど、毎年の如く被害を蒙る部落民は眼前の苦悩に耐え難く、如何なる処刑をも恐れず築堤せんとした。この時に当たり菊女という乙女、打首の刑を犯す築堤は、男子全部の命を失い将来部落の自活に大いなる支障を来す。この工事は、私等の死出の仕事にしましょうと絶叫した。これに同じた女衆二百余人、暗夜を選んで工事を続け、苦心惨憺六年遂に完成、今日の美田、安住の地を得たるに到った。この事、いつしか藩主の知るところとなり、処刑の日は来た。今しその第一番者菊女が断頭の座についた刹那、家老松野清邦の死を期しての諫による赦罰の早馬駆け来たり既に覚悟した二百余名の命は助けられ、あまつさえ、築堤の功を賞して金一封と、絹五匹を贈られた。実に女の一念岩をも通した美挙である。
    茲にこれを記念せんがためこの碑を建つ」

  • 【史蹟中富田一里塚跡碑】<br />塚木はエノキ、江戸日本橋より数えて103里目です、碑の台石は旧和泉橋の親柱が流用されています。<br /><br />「中冨田一里塚<br />一里塚は、慶長9年(1604年)に江戸幕府の事業として、東海、東山、北陸の三道に築かれた。江戸日本橋を起点として、36町を一里(約4キロ)として、一里ごとに塚を築き旅人の往来の目印とした。<br />享和3年(1803年)に作成された「東海道亀山宿分間絵図」によると、川俣神社の東隣に一里塚があったことが描かれている。その近くに 「御馳走場」 と書かれた家があり、当時、東海道を往来する大名行列などの一行を接待する場所であったと考えられ、 現在も「東百里屋(ともりや)」という屋号で呼ばれている家がある。 この地から、江戸へおよそ百里(約400キロ)であったので、この屋号がつけられたと伝えられている。」

    【史蹟中富田一里塚跡碑】
    塚木はエノキ、江戸日本橋より数えて103里目です、碑の台石は旧和泉橋の親柱が流用されています。

    「中冨田一里塚
    一里塚は、慶長9年(1604年)に江戸幕府の事業として、東海、東山、北陸の三道に築かれた。江戸日本橋を起点として、36町を一里(約4キロ)として、一里ごとに塚を築き旅人の往来の目印とした。
    享和3年(1803年)に作成された「東海道亀山宿分間絵図」によると、川俣神社の東隣に一里塚があったことが描かれている。その近くに 「御馳走場」 と書かれた家があり、当時、東海道を往来する大名行列などの一行を接待する場所であったと考えられ、 現在も「東百里屋(ともりや)」という屋号で呼ばれている家がある。 この地から、江戸へおよそ百里(約400キロ)であったので、この屋号がつけられたと伝えられている。」

  • 中富田一里塚跡<br />【中富田一里塚】<br />一里塚は、慶長九年(1604年)に江戸幕府の事業として、東海、東山、北陸の三道に築かれた。<br /> 江戸日本橋を起点として、三十六町を一里(約4キロ)として、一里ごとに塚を築き旅人の往来の目印とした。<br /> 享和三年(1803年)に作成された「東海道亀山宿分間絵図」によると、川俣神社の東隣に一里塚があったことが描かれている。<br /> その近くに「御馳走場」と書かれた家があり、当時、東海道を往来する大名行列などの一行を接待する場所であったと考えられ、現在も「東百里屋(ともりや)」という屋号で呼ばれている家がある。この地から、江戸へおよそ百里(約400キロ)であったので、この屋号がつけられたと伝えられている。<br />                平成十三年十月 中富田一里塚保存会

    中富田一里塚跡
    【中富田一里塚】
    一里塚は、慶長九年(1604年)に江戸幕府の事業として、東海、東山、北陸の三道に築かれた。
     江戸日本橋を起点として、三十六町を一里(約4キロ)として、一里ごとに塚を築き旅人の往来の目印とした。
     享和三年(1803年)に作成された「東海道亀山宿分間絵図」によると、川俣神社の東隣に一里塚があったことが描かれている。
     その近くに「御馳走場」と書かれた家があり、当時、東海道を往来する大名行列などの一行を接待する場所であったと考えられ、現在も「東百里屋(ともりや)」という屋号で呼ばれている家がある。この地から、江戸へおよそ百里(約400キロ)であったので、この屋号がつけられたと伝えられている。
                    平成十三年十月 中富田一里塚保存会

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