2018/03/16 - 2018/03/16
309位(同エリア328件中)
ムッシュさん
桑名を抜けて四日市宿へ.
三滝橋を渡って四日市宿へ.。
表紙は、浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像
原画は、歌川広重1883年作【東海道五拾三次之内 四日市 三重川】ボストン美術館所蔵
『広重-四日市(三重川)』は、この橋を描いたもの。橋は簡素に板を乗せただけのもの。海からの風の強さを、吹き飛ばされた笠で表している。左上の5本の帆は、七里の渡しの帆船を示し、湊です。
浮世絵の大胆な構図や色彩表現は、西洋の風景画に革新を求めていた19c後半の画家たちを魅了し、発展に寄与した。
四日市は四の付く日に市が立ったところに由来しています、四日市宿は四日市湊から宮への十里の渡しや伊勢参宮道の追分を控え大いに賑わいました。
天保14年(1843年)の頃、四日市宿の宿内家数は1,811軒、うち本陣2、脇本陣1、旅籠98軒、宿内人口は7,114人。
- 旅行の満足度
- 4.0
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スタートは日永駅近くからです
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【大宮神明社】(四日市市の近鉄日永駅近く)。
それでは参道を本堂に向けて進む。
天照大御神を祀る。
大宮神明社は永禄5年(1562年)の遷座です、例年六月三十日に輪くぐりの神事が行われ、茅の輪をくぐると夏負けしないと伝わっています。
【大宮神明社】
当社は永宮さんとも呼ばれ、主祭神として天照大御神を祀る。 昔は現在の南高校のある岡山の麓まで海があって、その海辺に舟付明神があった。
垂仁天皇の時代に倭姫命が天照大御神を伊勢の地にお遷しする際にこのお社に一時お留まりになったという伝えもある。 その舟付明神が四百年ほど前に炎上し、当時出来つつあった道路
(東海道)に遷ってきたのがこのお社である。 例祭は十月の体育の日である。
この日には獅子舞があり、現在では八幡獅子が家々を回って獅子を舞わしている。
本殿の右横には大己貴命、少彦名命を祀る摂社二柱大神社(センキさんとも言う)があり、病気を直す神様として有名である。 六月三十日には那護志大祓があり、一般には「輪くぐり」といって茅の輪をくぐると夏負けしないという言い伝えがあり、 近在近郷から老若男女が大勢参拝し、夜店がぎっしり並んで大変な賑わいで、有名な祭りとなっている。」 -
大宮神明社の説明。
【日永神社】
当社は昔は南神明社といい、主祭神として天照大御神を祀る。日永神社という単称が許されたのは明治40年からである。創祀は鎌倉時代の建仁年間(1201~1204)といわれるが、天正年間に織田信長の兵火にかかり創立沿革の記録や宝類も焼失し、いつ創祀されたのかは不明である。(案内板)
【日永神社】
当社は伊勢の神宮で祀られる天照大御神をまつる。占くは南市場神明社・南神明社と呼ばれた。日永神社と単称されたのは明治40年からである。創祀・沿革の記録や文章も残されておらず、いつの年代に創祀されたか不明である。江戸時代には、神戸藩主本多家からの崇敬も篤く、また東海道に面して多くの人々が参拝された。
明治40年には日吉神社・山白髭神社・山之神社、さらに天正10年(1582)に創祀されたと伝えられる追分神明札を合祀し、同44年には池鯉鮒社・稲荷社を合祀し、現在に至っている。
例祭は10月の体育の日である。以前は拝殿の右側に松の老木があり、国難があると
樹皮が変色して人々を驚かせ、神木として崇められていたと言い伝えられているが、その木は今はない。なお正面の拝殿右側に立つ道標は、もと追分の神宮遥拝鳥居の場所にあったもので、明暦2年(1656)に僧侶によって立てられた東海道最古の道標である。」 -
大宮神明社の本堂
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日永神社、大宮神明社の境内に入ります。参拝!
「日永神社
当社は伊勢の神宮で祀られる天照大御神をまつる。占くは南市場神明社・南神明社と呼ばれた。日永神社と単称されたのは明治40年からである。創祀・沿革の記録や文章も残されておらず、いつの年代に創祀されたか不明である。江戸時代には、神戸藩主本多家からの崇敬も篤く、また東海道に面して多くの人々が参拝された。
明治40年には日吉神社・山白髭神社・山之神社、さらに天正10年(1582)に創祀されたと伝えられる追分神明札を合祀し、同44年には池鯉鮒社・稲荷社を合祀し、現在に至っている。
例祭は10月の体育の日である。以前は拝殿の右側に松の老木があり、国難があると
樹皮が変色して人々を驚かせ、神木として崇められていたと言い伝えられているが、その木は今はない。なお正面の拝殿右側に立つ道標は、もと追分の神宮遥拝鳥居の場所にあったもので、明暦2年(1656)に僧侶によって立てられた東海道最古の道標である。」 -
【日永の一里塚跡碑】四日市市日永
右手日永五丁目3標識先に「史蹟日永一里塚阯三重縣碑」があります、江戸日本橋より数えて100里目です。
【三重県指定記念物(史跡) 日永一里塚】
一里塚は、江戸時代に整備された街道において約一里(約4km)ごとに設けられた塚で、市内には東海道筋に四カ所築かれた。 文化3年(1806)の「東海道分間延絵図」にも、富田・三ツ谷・日永・釆女の一里塚がそれぞれ描かれている。 日永一里塚跡は当初、天白橋の北詰西側の榎の老樹のある場所と思われており、標柱が建てられ、県の史跡に指定されていた。 しかし、その後の考証により、日永五丁目の現在地が正しいということになり、標柱を移した。 この日永一里塚は、もとは5m四方で高さ2.5mの塚が東海道の両側に築かれており、西側の塚には榎が残っていたが明治2年(1869)に伐採され、塚もその姿を消した。」
ここは江戸日本橋から数えて100里目の一里塚跡である。 -
【日永の名残り松】
このあたり、ずっと松並木が続いていたが、今は工業地帯に変貌した。
左手に一本松があります、日永の名残り松。往時はこの辺りから泊の集落まで松並木でした、その間には、家は一軒もなく、縄手と呼ばれていました。
【東海道名残りの一本松】
むかし、この辺りから泊の集落までは、東海道の両側に低い土手が築かれ、その上に、大きな松の木が並んで植えられていた。 その間には、家は一軒もなく、縄手と呼んでいた。この松は、その縄手に植えられていたものが残った貴重なものであり、往時の東海道や日永の歴史の一端を今に伝えるものとして大切に維持しなければならない。縄手の道の幅は、土手も入れて約5間(9メートル)であった。 松の木が無くなった現在の道幅とほぼ一致する。 因みに、旧東海道の道幅は、3間(約5.5メートル)で、現在も変わっていない。」 -
【日永の追分】
四日市あすなろう鉄道追分駅近くです。
東海道と伊勢街道の分岐点です。
伊勢神宮の遥拝鳥居(安永3年(1774年)建立)、道標(嘉永2年(1849)建立)が立つ。伊勢神宮二の鳥居は二十年の遷宮毎に建て替えられます。
ここは二の鳥居ですが、一の鳥居は桑名の七里の渡し場に立つ鳥居です。
このあたりは四日市宿と石薬師宿の間の「間の宿」で、旅籠、茶店が多かった。
渡辺六兵衛なる商人が追分に鳥居が無いのは不自然と江戸にて伊勢出身者に浄財を募り建立した。 -
【日永の追分碑】
道が左右に別れているところを追分という。
「日永の追分」は東海道と伊勢街道の別れ道。道路が拡張される前は伊勢街道の入口に道を跨いで伊勢神宮の二の鳥居が立っていた。この鳥居は安永3年(1774)久居出身で江戸に居た渡辺六兵衛と言う人が、江戸から京都へ行くとき、ここから伊勢神宮を遥拝するようにと思って立てたもの。鳥居は皇太神宮の遷宮に合わせて、20年ごとに建て替えられることとなっていた。今の鳥居は昭和50年に建て替えられたもので、最初の鳥居から数えて第9代目の鳥居となる。また、追分は東海道五十三次の四日市宿と石薬師宿との間にあって「間の宿」と言われ、神宮遥拝鳥居を中心に旅籠が軒を並べ茶店も多かった。そして、間の宿は本宿に比して割安に宿泊することが出来、旅人からは歓迎されていた。「日永の追分」は昭和13年に三重県の史跡に指定され現在に至っている。(案内板)
【追分道標】
この石柱は昔、日永の神宮遥拝鳥居の傍に立てられていた道標である。
この道標には、正面に「大神宮 いせおいわけ」、右側面に「京」、左側面に「山田」、そして裏面には 「明暦二丙申三月吉日 南無阿弥陀仏 専心」と刻まれている。この道標が立てられた明暦2年(1656)といえば、神宮遥拝鳥居が建立されたときよりも約120年も前であり、東海道における最古の道標としても貴重なものである。更に立てた人がお坊さんであること、そして南無阿弥陀仏と彫られていることも興味のあることである。
嘉永2年(1849)神宮遥拝鳥居の脇に現在の立派な道標が立てられとき、この小さな道標が不要になり、近くにあった追分神明社の境内に移され、その後、明治40年には追分神明社が日永神社に合祀された際に、道標も一緒にここに持って来られたものと推定される。」 -
【道標と常夜灯】
嘉永二年(1849)建立の道標
道標には、「右、京大阪道、左、伊勢参宮道」との道標
常夜燈には「ひたり さんくう道」と刻まれています。(左 参宮道)
「追分道標
この石柱は昔、日永の神宮遥拝鳥居の傍に立てられていた道標である。
この道標には、正面に「大神宮 いせおいわけ」、右側面に「京」、左側面に「山田」、そして裏面には 「明暦二丙申三月吉日 南無阿弥陀仏 専心」と刻まれている。この道標が立てられた明暦2年(1656)といえば、神宮遥拝鳥居が建立されたときよりも約120年も前であり、東海道における最古の道標としても貴重なものである。
更に立てた人がお坊さんであること、そして南無阿弥陀仏と彫られていることも興味のあることである。嘉永2年(1849)神宮遥拝鳥居の脇に現在の立派な道標が立てられとき、この小さな道標が不要になり、近くにあった追分神明社の境内に移され、その後、明治40年には追分神明社が日永神社に合祀された際に、道標も一緒にここに持って来られたものと推定される。」 -
江戸道とは、旧東海道を示す。
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「三重県 日永の追分解説碑
「日永の追分」 の神宮遙拝鳥居は安永3年久居市の渡辺六兵衛氏が江戸に店を持ち東海道を上下する度毎に参宮街道との分岐点 日永の追分に鳥居のないのを遺憾とし江戸店支配人伊勢屋七右衛門を願主として江戸で伊勢出身同志数名を募り敷地を買入れて鳥居を建設した。
更に今後の改造費として私財金壱百両を寄付されたので地元ではこれを基金として神宮式年毎に改造してきた。 その後地元民は勿論旅人からの崇敬の的となり昭和13年4月12日県史跡に指定され昭和16年日永村が四日市市に合併して以来日永地区連合自治会が 管理に当たり毎年9月21日に鳥居祭を斎行している。」 -
追分村は、茶屋が軒を連ね、追分饅頭が有名であった。
【日永の追分】
道が左右に分かれているところを追分と言う。 「日永の追分」 は東海道と伊勢街道の分れ道である。道路が拡張される前は伊勢街道の入口に道を跨いで伊勢神宮の二の鳥居が立っていた。
この鳥居は安永3年(1774)久居出身で江戸に居た渡辺六兵衛と言う人が、江戸から京都へ行くとき、ここから伊勢神宮を遥拝するようにと思って立てたものである。鳥居は皇太神宮の遷宮に合わせて、20年ごとに建て替えられることとなっていた。今の鳥居は昭和50年に建て替えられたもので、最初の鳥居から数えて第9次の鳥居となる。また、追分は東海道53次の四日市宿と石薬師宿との間にあって 「間の宿」 と言われ、神宮遥拝鳥居を中心に旅籠が軒を並べ、茶店も多かった。 そして、間の宿は本宿に比して割安に宿泊することが出来、旅人からは歓迎されていた。「日永の追分」 は昭和13年に三重県の史跡に指定され現在に至っている。」 -
【小許曽(こごそ)神社入口】
現代表示は小古曽神社。(近鉄線小古曽駅近く)
観音寺脇の小路奥に小許曽(おごそ)神社があります、延喜五年(905年)の延喜式神名帳に記載されている古社です、古来より粥試し神事が毎年一月に行われます。
『小許曽神社』は、平安の昔、醍醐天皇の御代、延喜5年(905)式内神社として神名帳に記載されている古社で、古くから地元住民に崇拝されていると。
「小許曽神社」
平安時代、醍醐天皇の延喜5年(905)に編纂された延喜式(式とは律令の施行規則)のひとつに、全国の官社3,132社を記載した神名帳があり、当小許曽神社の名もそこに記されている。このように小許曽神社は格式ある延喜式内社として千百有余年の歴史を有しており、古くから地元民に崇拝されている。
祭神には、大日霊貴尊、天宇受売命、布刀玉命をはじめ13の神様が祀られている。
小許曽神社には元来東の宮、西の宮の2社の他に小社、祠、山神社があったが、
明治39年(1906)の宮内庁合祀令を受けて、西の宮(現小許曽神社)に合祀された。また、昭和14年(1939)には山の神(現高塚町)に祀られていた愛宕大権現も合祀された。
当社の神事として、粥試し(筒粥)、奉賛(宮当番に感謝する行事)、当渡し(宮当番の引継ぎ)があり、正月中旬に行われる。粥試しとは、小豆粥と細い女竹五本を使って、竹筒内に入った米粒の数で早期(そうさ)・早生(わせ)・中生(なかて)・晩生(おくて)の稲作と畑作の豊凶を占う神事である。」
昔より産土神として地元民に崇拝されており、醍醐天皇の代延喜5年(905)式内神社と、神名帳に記載されているとこから、伊勢の国の253の大・中・小社の1小社として110年ほどの歴史を有する神社。特に明治元年(1868)9月24日、明治天皇東巡の節、沿道の式内社というところで幣神祗官判事正四位下右近近衛少将、植松雅信氏により幣帛料金帛壱千疋の奉納を賜る栄光に浴したと「東巡日誌」(『明治文化全集第17巻皇室編』)に記されている。その他、当神社の特殊神事として粥試(筒粥)、奉賛、当渡しがあり、これらは正月の中旬に行われ、粥試(かゆだめし)は小豆粥と細い女竹五本を使い、竹筒内に入っている米粒の数で早期・早生・中生・晩生の稲作と畑作の豊凶を占う神事である。(案内板より) -
【旧町名・南町】
東海道と港へ通じる東西道路の交差する四つ辻の南に位置した市場であることから弘治・永禄年間(1555~1570)に南市場と称された。江戸時代には宿場町として栄え、寛文3年(1663)には町名が南町と改められた。問屋や脇本陣、飛脚などとともに多くの旅籠が集中し旅籠町とも呼ばれた。その後、東西に新開地として広がった。右側の福生医院が「問屋場」跡で、近藤建材店が「帯屋本陣跡」、その先にある黒川農薬商会が「黒川本陣跡」です。ただし確認できる表示はまったくありません。(案内板) -
杖衝坂の急坂の様子
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『永代常夜灯』(文化8年、1811年建立)
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【芭蕉の句碑。杖衝坂】に立つ。
貞享4(1687)年にはに江戸から伊賀に帰る途中、松尾芭蕉が杖衝坂で馬に乗ってこの坂にさしかかったが、急な坂のため馬の鞍とともに落馬したと云う、その時に詠んだ季語のない有名な句です。
坂の途中で
「歩行(かち)ならば、杖衝(つえつき)坂を 落馬かな」という句碑。
宝歴六年(1756)建立の芭蕉句碑「歩行(かち)ならば 杖つき坂を 落馬かな」があります。
季語のない有名な句。 -
【芭蕉の句碑について】
俳聖松尾芭蕉が貞享四年(1687)に江戸から伊賀に帰る途中、馬に乗ってこの坂にさしかかったが、急な坂のため馬の鞍とともに落馬したという。そのときに時詠んだ季語のない有名な句である。
宝暦六年(1756)村田鵤州が、杖衝坂の中ほどにその句碑を建てた。明治の初期、坂の下采女西町永田精一郎氏の庭園に移されたが、このたび現所有者藤沢一郎氏ご夫妻のご理解により、再びもとの地に移設したものである。」 -
【杖衝坂と血塚、二つの井戸】
杖突坂とも書き、東海道の中でも急坂な所で、日本武尊が東征の帰途、大変疲れられ「其地より、やや少しいでますにいたく疲れませるによりて、御杖をつかして、稍に歩みましき、故其地を杖衝坂といふ」(古事記)とあり、その名が称されるようになり、加えて、
芭蕉の句「歩行(かち)ならば杖つき坂を落馬かな」により、その名が世に知られることになった。
また、坂を上がりきった所には、尊の足の出血を封じたとの所伝から血塚の祠もある。この場所にある二つの井戸は、坂の上手を「弘法の井戸」、下手を「大日の井戸」と言われ、弘法大師が水に困っている村人に、杖で指し示されて掘ったところ清水が湧き出た井戸であると伝えられ、後者は、坂の中腹左側にあった大日堂に供える閼伽水(あかみず)を汲み上げた井戸と、地元民の間では伝承されている。 -
【杖衝坂の血塚社】
杖衝坂を上り切ると左手に承応年間(1652~54)創建の「血塚社」があります、日本武尊が足の出血を封じた所です。
日本武尊は、「吾が足は三重の勾がりの如くして甚疲れたり」と、言ったと伝わり、「三重」の語源となった。
*伊吹山での戦いで傷を負った日本武尊が剣を杖代わりに越えたと伝わるのが、この地に「杖衝坂」。坂の途中にある井戸で渇きを癒して、坂を越えたといわれrてる。 -
伊吹山での戦いで傷を負った日本武尊が剣を杖代わりに越えたと伝わる杖衝坂。坂の途中にある井戸で渇きを癒して、坂を越えたといわれる。坂の頂上付近にある血塚社は、傷による出血を封じたところ。日本武尊は、「吾が足は三重の勾がりの如くして甚疲れたり」と、言ったと伝わり、「三重」の語源となった。
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