2018/03/05 - 2018/03/05
96位(同エリア119件中)
河内温泉大学名誉教授さん
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斑鳩では柿だけでは無く、苺も美味しい。ただし、食べたとしても法隆寺の鐘は鳴らない。むしろこの苺の場合法輪寺の方が近いのだが、同寺の鐘も鳴らない。その苺を求めて斑鳩路の法輪寺近くを訪れたのは、夜来からの雨が降り続ける月曜日の朝です。翌日知人が訪れるということで、手土産になる物はと家人と相談した結果、先月何気なく買い求めた「古都華」という苺がコトの外美味しかったのでこれにすることに。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 自家用車 バイク
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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夜来の雨で矢田丘陵に曇が流れる
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住居表示では法隆寺北となっている「やすむら農園」へは、国道25号を大阪から東に走り法隆寺過ぎで左折、中宮寺の発掘現場を右に見て法起寺の横を左折すると法輪寺へ。法輪寺からまっすぐに南へ下ると、突き当たり付近に看板が見えます。野小屋と看板があるだけで、「やすむら」さんの苺農場はさらに西へ進んだところにあると聞いたが、ハウスで中身は見えないでしょう。サラリーマンを経て専業農家に、家業復帰でしょうか。実直そうなご主人と奥様の二人で切り盛りされている。箱詰めしていただいているうちに雨が激しくなり、慌てて車に乗り込む。小箱換算で10箱を分けていただいたが、写真でおわかりのように小箱一箱に6粒ほどしか入らないほどでかい。さらに大ぶりもあるらしいが、そのクラスになると何粒という求め方をするらしい。
目指す「やすむら農園」の看板です。 -
一箱6個入りほどですが。大きくてこのままでは口に入りません。
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このまま帰るのも何は惜しいような気がする、雨で古墳や古刹巡りもままならないのなら買い物デーにでもして家人からの評価を高めることにする。果物の前に食していただくには、と中将餅の中将堂へ。デザートが揃ったところでメインの食材があれば、さらに加点が得られる。葛城山麓バイパスを南へ走ると農協が出す道ばたの店、ここでは白菜と人参そして大根等を求めたら腹が減ってきます。ここまで来たらもう、高鴨神社脇の蕎麦屋さんしか無いのですがここで挫折。月曜日がお休みとは、そこまでも通い慣れていなかったということです。
中将餅本舗 -
御所農協の直販店で、家人からの高評価を得られるか。
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雨は相変わらず滝のように降っています。この辺であきらめて河内へ帰ることとして踵を返しますが、同じ道では面白くも無いと御所名柄から水越峠を越えて南河内経由で帰ることとします。この峠は、大阪府南河内郡千早赤阪村と奈良県御所市との境にある峠。標高516メートル。金剛山地を東西に横切る富田林街道(国道309号)の峠で、古くから南河内と南大和を結ぶ主要街道であった。近年トンネルが抜かれるまでは、峠付近は地道のような状態でいかにも国境という雰囲気があった。大和側の急傾斜を登るときは途中にある行者の滝を連想させるような雨量でありましたが、トンネルを越え南河内に入ると同じ雲の中を下っていることが嘘のような雨量に激変する。
空は曇って薄暗いが時計を見るまでも無くまだ時間はたっぷりとある、そこで聖徳太子のお墓がある叡福寺へと向かうことにする。山号は磯長山(しながさん)、本尊は如意輪観音である。開基は、聖徳太子または推古天皇とも、聖武天皇ともいわれる。この寺にある叡福寺北古墳(磯長墓)には、聖徳太子、太子の母・穴穂部間人皇女、太子の妃・膳部菩岐々美郎女が埋葬されているとされ、「三骨一廟」と呼ばれる。葬られている人物については異説もあるが、叡福寺の所在する磯長は蘇我氏ゆかりの地であり、聖徳太子の父(用明天皇)と母はともに蘇我氏の血をひいていることから縁の地にお墓を設けたとしてもおかしくは無い。
太子町では下水道も人の道も「和」ですかな。 -
既に拙稿「聖徳太子の棺を見学の後、法隆寺から飛鳥への太子道を行くと軽便鉄道で脱線も又楽しい」でご紹介した夾紵棺を保管していた安福寺とは、山一つを超えて背中合わせの位置にある。このあたりも何か意味深長である。大阪の四天王寺でも見たことがある、可愛い聖徳太子が叡福寺門前の横断歩道を守っている。そこを入ると南大門が構えている。その下が駐車場「下馬」と書かれているので、私も寅号から降りることとする。この場合は「下寅」か。
寅号から下寅です。 -
四天王寺東門前でも同じ聖徳太子さんが交通安全を呼びかけられていた。
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南大門をくぐると、左手に多宝塔、金堂、聖霊殿(太子堂)があり、正面奥が聖徳太子墓となる。ほかに浄土堂、上の御堂、念仏堂などがある。ちなみに聖霊殿は豊臣秀頼の寄進、同時に伽藍整備にも多大の寄進をしているという。徳川による豊臣の財を減らさんとする散財のすすめで数多くの文化財が修復されたり造られたり、中には形が歪められた物もあったのであろうか。一番奥の二天門の先に聖徳太子の廟がありその石室には三基の棺が安置されていると云います。中央には太子のお母さん穴穂部間人皇女、その東が聖徳太子、西が太子の妻膳部菩岐々美郎女が葬られていてその棺が乾漆棺だと云います。古墳とはいえ自然の緩斜面を利用した配置により、南大門から廟に向かって斜面を登るという配置は参拝者の心構えを自然と律する方向へと誘っている。そして、廟の前に立つと手を合わせるのがそれも自然と一体化する、組み合わせの妙であります。
南大門から廟を見る。 -
聖霊殿、太子堂とも呼ばれています。
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聖霊殿から見た多宝塔。
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瓦を縦に敷き詰めた装飾、同じものが安福寺にも在りました。
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廟を守る二天門は元禄元年(1688)丹南藩主高木正陳が寄進した。
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これが御廟です。
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廟、二天門そして南大門を結ぶ線上の南向かいの谷の上に、聖徳太子の三人の乳母を祀る日本最初の尼寺とされる西方院がある。また聖徳廟と南大門の延長線上の南側にある南林寺は叡福寺の四季講堂であったといわれている。
付近一帯が聖徳太子およびその一族をお祀りするという一つの目的で配置された伽藍の集まりか、全てが一つの物であったのかもしれません。ちなみに、聖徳太子出生の寺「橘寺」と兵庫県太子町「斑鳩寺」と結ぶ線上にこの叡福寺が立地するという。これは、白洲正子ワールド2「御所は豊かな実りと伝説の里」でご紹介した毎日新聞社の専門編集委員佐々木氏が「歴史の鍵穴」= 伊勢・出雲ラインの意味神話を演じる祭祀空間か=で論じておられる、伊勢神宮と大和を結ぶ線上に出雲大社があるという説に通じる。面白い見解だがそこまで踏みこむ知識は持ち合わせていないので、入り口を紹介するのみとしましょう。ただ、江戸期、西方院庵主さんと柏原市内の安福寺の珂憶上人とは行き来があったとことは、先代安福寺大崎和尚からお聞きしたことがあります。 -
西方院と叡福寺の間には谷筋が流れています。その谷川を石橋で渡ると先にはこの坂道です。
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西方院門前の説明板。
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同印刷物です。
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西方院本堂。
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聖徳太子の乳母を祀る石塔。
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同塔の下部に謂われが。
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来客の土産用に苺を買い求めに向かった斑鳩から彷徨いついでに南河内磯長まで辿り着きました。そこで見た聖徳太子とその一族の廟とされる叡福寺とその周辺の寺院群は「河内の浄土」とでも表現したい。その御廟に主と共に眠る乾漆棺と、山一つ隔てた国分の安福寺で見つかった同様の製法の貴重な夾紵棺との見えない結びつきも一層気に掛かる旅でもありました。
安福寺の夾紵棺復元模型。 -
絹で出来た安福寺所蔵の夾紵棺の一部、これと同じものが叡福寺にも眠っているのかと想像するとワクワクどきどきしますね。
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