2018/01/11 - 2018/01/11
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uchiyanさん
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カプリ島から海路、ナポリへ、ポンペイ遺跡観光として宿泊地ソレントへ
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 一人あたり費用
- 50万円 - 100万円
- 交通手段
- 徒歩
- 航空会社
- ブリティッシュエアウェイズ JAL
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- ジャルパック
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ポンペイ遺跡
79年8月24日の昼過ぎヴェスヴィオ火山噴火による火砕流により地中に埋もれたことで知られます。
ポンペイ、ヘルクラネウム及びトッレ・アンマンツィアータの遺跡を主要部分としてユネスコの世界遺産に1997年に登録された。
ローマ人の余暇地して繁栄したポンペイ最盛期人口は約2万人される。
18世紀に発掘が開始され遺跡はおよそ66ヘクタールの広さに及びそのうち約44ヘクタールがこれまで発掘されているそうです。
遺跡外観 -
2台のカメラで撮影したものを1つのカメラ撮影順に掲載しています。
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劇場のクアドリポルテイコまたは剣闘士の兵舎
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小劇場--オデイオン
銘文によると、オデイオンあるいはテアトルム・テクトゥムとローマ人から呼ばれたこの劇場は、ポンペイがローマの傘下に入ってすぐの時期(紀元前79年)に、地元の行政官であったマルクス・ポルシウスとカイウス・クインクトゥス・ヴァルガスの希望で建設されました。この二人は円形劇場の建設も指示しています。この劇場では当時の流行だった無言劇が上演されたほか、音楽会にも利用されていました。また、音響効果を高めるために、天井部分は屋根で完全に覆われていました。外側の壁には見物人たちの残した書き込みが数多く残り、中にはかなり遠い地域からやって来たものもいました。
発掘時期1769.1792-1795 ポンペイ文化保護局--ポンペイ遺跡ガイドより -
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韓国の若い方の独演会が開催されていました
天井がなくても、音響効果がかなりありました -
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石畳一番奥に見える歩車道、横断歩道(飛び石)
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石畳横の排水溝
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ルパナーレ(遊郭)
遊郭の娼婦たちは、主に東方やギリシアの奴隷たちで、銅貨2から8アスで商売していました(その当時グラス1杯の葡萄酒が1アス)。
建物は2階建てになっています。上の階には主と奴隷たちの住居があり、下の階には5つの部屋があって、どの部屋にも石と漆喰でてきた作り付けの寝台が備わっていました。これらの部屋は1階に二つの出口をつなぐ廊下に沿って並んでいました。各部屋の入り口にはカーテンが扉の代わりにかかっていました。廊下の行き止まり、階段の空間の下には共同トイレがありました。
中央の廊下の壁には、官能的な絵が配されて、ここで提供されるサービスを客に示していました。
ルパナーレの呼び名はラテン語lupa、娼婦を卑下するのに用いられた言葉に由来しています。
発掘時期1862 ポンペイ文化保護局--ポンペイ遺跡ガイドより-- -
あんなことも
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こんなことも
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これもあり
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ベット(寝台)
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固いベットです
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水のみ場
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遊郭の目印看板
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遊郭の方向を示す石(石畳に組み込まれています)
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水飲み場
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ヴェスヴィオ火山とジュピター神殿
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案内役のお犬さん
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案内ありがとうございます
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壁の歴史
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青果市場と解説を受けたような?
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噴火に巻き込まれた人
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ここからもう1台のカメラで撮影分です
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歩道にある馬止め穴
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歩者道、横断歩道(飛び石)
馬車の轍の後(かなりすり減っていました) -
遊郭の看板
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ヴェスヴィオ火山
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フォロ
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商店街
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運送屋さんの表示
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フォロの浴場
将軍シッラによってポンペイがローマの植民都市となって(紀元前80年)間もなく建設されました。
入り口は婦人用と男性用に分けられていました。男性用の区画ではアポディテリウム(脱衣場)テピダリウム(中温の風呂)としても利用され、続いてフリジタリウム(低温の風呂)、カリダリウム(高温の風呂)がありました。ポンペイの他の多くの建物と同様に、この浴場も紀元62年の地震で大きな被害を受けています。現在見られる状態の大部分は、その後の修復作業の結果と言えます。
内部装飾の素晴らしさは注目に値し、入浴の際に衣類や持ち物を置くためのニッチにはテラコッタ製の男性像が飾られ(テラモニ)、アポディトゥリウムとテピダリウムのスコッタ仕上げのレリーフのあるヴォールトなどが特筆されます。
同じ空間には暖房に使われたブロンズ製の大きな火鉢が見られます。婦人用の区画はより小さく、噴火時点では修復中でした。男性用の施設入口の近くでは、夜間の開場時間に使われたカンテラが500個以上も見つかっています。
発掘時期1823-1824 ポンペイ文化保護局--ポンペイ遺跡ガイドより-- -
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悲劇詩人の家
CAVE CANEM(犬に注意) -
パン焼きの家
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フォロの穀物倉
フォロの両側に広がり、レンガの柱で仕切られた8つの開口部をもつ建物で、果物と野菜の市場として使われていた(フォロ・オリトリオ)。
今日ではポンペイ最大の考古学品の倉庫として使われ、1800年代の終わりごろからこの都市で行われてきた発掘による出土品9千点以上がここに保管されています。
ポンペイ最後の10年間に日常の生活で使われた、鍋などのテラコッタ製品、籠や水差し、瓶、アンフォラ、油や葡萄酒、魚精を地中海全域から運搬するための大きな容器などが収蔵されています。
他にも、家々の入り口を飾っていた大理石製のテーブルや噴水用の水槽、犠牲者や犬、樹木の石膏型などが陳列されています。
たてものは紀元62年の地震の後で建設され、噴火が起きた時点ではまだ工事が完成していなかったのではないかと想像されます。
発掘時期1816-1822 --ポンペイ文化保護局・ポイペイ遺跡ガイドより-- -
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噴火で亡くなった人の石膏型
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こちらも
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アポロンの聖域
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日本が弥生時代、竪穴住居に住んでいたころ
このような生活状況はても信じられないことをこの目で確認できたことは感激でした。火山噴火のため、紀元前直後の遺跡が何の変化もなくこの世に現れたのは
奇跡と思い、遺跡を後にしました。
画像が前後し、混乱を招くような、編集反省します。 -
ポンペイ遺跡横のカメオ製作所
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