2017/10/27 - 2017/10/27
63位(同エリア1622件中)
ベームさん
その1の続きです。小石川植物園を見て傳通院から後楽園まで。
写真は小石川植物園で拾ってきた団栗。どんぐりを拾ってきたのには訳があります。
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今日歩いた全図。
左下江戸川橋駅から右下後楽園駅まで。 -
その2の部分。
上の小石川植物園から下の後楽園駅まで。 -
新福寺から小石川植物園に来ました。
正門。 -
正式には「東京大学大学院理学系研究科附属植物園」。
一般には小石川植物園。国指定名勝及び史跡になっています。
この地、もとは上州館林藩主徳川綱吉の下屋敷で白山御殿と呼ばれていた所です。
植物園の起源は1684年、幕府が設けた小石川薬園に遡ります。日本最古、世界でも有数の植物園、日本近代植物学発祥の地で面積約4万9千坪あるそうです。 -
右下が正門。入園料400円でした。
1722年:小石川養生所創設。山本周五郎の時代小説「赤ひげ診療譚」の赤ひげのモデルは養生所の創設を将軍吉宗に建白し所長となった町医者小川笙船(おがわしょうせん)。
1735年:青木昆陽、薬園内で甘藷栽培を試みる。
1877年:明治10年。東大の付属植物園となる。
1945年:昭和20年。戦災で主要な建物焼失。
1969年:昭和44年。本郷にあった旧東京医学校本館を移築。 -
正門を入った所。
園内は広大なので全部は見て回れません。 -
精子発見のソテツ。
1896年(明治29年)、東大農科大学助教授池野成一郎により、裸子植物ソテツに精子があることが発見された。
難しいことは分かりませんが、大発見だそうです。
この株は池野氏が研究に用いた鹿児島にあるソテツの分株だそうです。 -
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園内。
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本館。
昭和14年竣工。 -
メンデルのブドウ、ニュートンのリンゴ。
小学か中学の理科で習ったような,懐かしい記憶を呼び起こす言葉。 -
メンデルのブドウ。
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遺伝学の基礎を築いたグレゴール・メンデルが実験に用いた由緒あるブドウの木の分株。大正3年にチェコのメンデルが在職した修道院から贈られた。
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ニュートンのリンゴ。
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ニュートンが万有引力の法則を発見した(1665年)林檎の木が接ぎ木して増やされていった。ここにあるのは昭和39年にイギリスから贈られた木をさらに接ぎ木したもの。
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メンデルのブドウとニュートンのリンゴが並んでいます。。
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柴田記念館。
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記念館内。
写真を撮ってもよいとのことでした。 -
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絵葉書なども売っています。
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世界の松ぼっくり。
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大きなヒマラヤゴヨウの松ぼっくり。
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柴田桂太博士。
柴田記念館の生みの親。 -
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シダ園。
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シダ園。
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世界には約1万種のシダ植物があり、気候湿潤な日本には一番多い630種があるそうです。この植物園には130種集められています。
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イチョウの巨木がありました。
精子発見のイチョウです。 -
明治29年、東大理学部植物学教室の画工、技手だった平瀬作五郎はこの木の種から精子を発見しました。それまで考えられていた種子植物の受精方法を覆すもので、世界の学界に大きな反響をもたらしたそうです。
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精子発見のイチョウ。
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巨木の並木が続きます。
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ユリノキ。
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ユリノキ。
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巨木並木。
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シナサワグルミ。
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関東大震災記念碑。
一時3万人以上の市民がこの植物園に避難しました。 -
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クスノキ。
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クスノキ。
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旧養生所の井戸。
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1722年に町医者小川笙船(しょうせん)の意見により造られた貧困者の施療所、小石川養生所の井戸。
水質がよく水量も豊富で今も残っています。関東大震災のとき避難民の飲料水として役だったそうです。 -
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薬園保存園。
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約120種の薬用植物を栽培しています。
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メタセコイア林。
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メタセコイアは胴回りがもっと太い巨木かと思っていましたが、スギの仲間なんですね、ほっそりしていました。
ここだけで半日はかけてじっくり見て回りたいと思いました。土一升金一升の東京都内でこんなにも広い土地が学術用に残されているのは素晴らしいことです。西洋の科学に追い付け追い越せと力を入れた明治政府の英断でしょう。私は明治政府の富国強兵策は嫌いですがこれだけは評価します。 -
柴田記念館で絵葉書を買いました。
サネカズラ。 -
ラン科の一種。
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リュウキュウハンゲ。
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タイサンボク。
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拾ってきた団栗(ドングリ)。
明治38年に吉村冬彦の筆名で書かれた寺田寅彦の随筆に「団栗」というのがあります。
明治30年、熊本の第5高等学校の学生だった寅彦(ここで5高教授だった夏目漱石と知り合う)は20歳の時、郷里高知の娘阪井夏子と結婚する。夏子15歳。
その後東大理科大学に入学し東京に住む寅彦夫婦。そのうち夏子は身重になるが結核を患うことになる。
自宅で療養中のある日、夏子の気分の良い日に寅彦は妻を小石川植物園に連れ出す。その時のエピソードと後日を描いたのが「団栗」です。 -
抄出すると:そろそろ帰りかけようとするとき、妻(夏子)が「おや、団栗が」と大きな声を出した。妻はしゃがんで団栗を拾い始めた。たちまち手のひら一杯になる。自分のハンケチを帯の間から取出しそれに包んでいる。「もう大概にしないか、馬鹿だな」と言うと、「だって面白いじゃありませんか、あなたのハンケチも貸してちょうだい」と言う。それも一杯にすると「もうよしてよ、帰りましょう」と、いい気なことを言う。
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(数年後)。団栗を拾って喜んだ妻も今はない。(夏子は女児を出産後20歳で亡くなった)。ある日六つになる妻の忘れ形見の娘を連れてこの植物園に来た。みつ坊(娘)は遺伝でもあるかのように団栗を拾って遊んでいる。争われぬ母の面影が娘の顔のどこかの隅からのぞいていて、うすれかかった昔の記憶を呼び返す。
亡き妻の団栗の好きなことも折鶴の上手なことも、なんにも遺伝しても差し支えないが、始めと終わりの悲惨であった母の運命だけは、この子に繰り返させたくないものだと、しみじみ思ったのである。
妻をいたわり娘を慈しむ心が淡々と描かれた寺田寅彦の名作です。寅彦は夏目漱石に勧められて「ホトトギス」に随筆を書きはじめ、随筆家としても一流でした。
その当時と植物園はほとんど変わっていないのでしょう。可憐な、可哀そうな夏子を思いながら私も団栗を拾ってみました。 -
小石川植物園を出て先を急ぎます。
念速寺。 -
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美幾女(みきじょ)の墓と云うのがありました。
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特志解剖第1号 美幾女墓。
明治2年、34歳で病死。自らの意志で屍体解剖に応じた。 -
千川通りを渡り小石川3丁目に入ります。
幾つか道を曲がり井上公園という所に来ました。 -
明治の哲学者井上哲次郎旧居跡です。明治25年から亡くなる昭和19年まで住みました。
井上哲次郎:哲学者。東大教授、東大文科大学総長。日本の哲学界に長く君臨した。また新体詩運動の先駆者。1856~1944年。大宰府生まれ。
ドイツ留学中ライプチヒで森鴎外に逢っています。レストラン アウアーバッハスケラーの壁に哲次郎と森鴎外が同じテーブルに座っている絵がかかっています。
鷗外にゲーテの「ファウスト」翻訳を勧めたのも井上でした。 -
アウアーバッハスケラーに架けられている絵。
真ん中の紳士が井上哲次郎、右の紋付袴が森鴎外。明治17年頃と思われます。 -
建物は戦災で焼けましたが2棟の土蔵は残りました。
国家主義、国粋主義者で、宗教に対する国家の優越を主張、キリスト教を日本の国体に反するとして攻撃、内村鑑三らと論争した。
一方新体詩の先駆者で、明治15年外山正一、矢田部良吉と「新体詩抄」を発刊。
発刊の辞に「夫(そ)レ、明治ノ歌ハ、明治ノ歌ナルベシ、古歌ナルベカラズ、・・・、是レ新体詩ノ作ル所以(ゆえん)ナリ」と謳った。
それまで詩と云えば漢詩でしたが、西洋詩の形式と精神を取り入れた新しい詩形(新体詩)を目指した詩です。 -
この後詩は新体詩の時代になり新体詩詩人が続々現れる。北村透谷、山田美妙、落合直文、島崎藤村、土井晩翠、上田敏、岩野鳳鳴、国木田独歩等々。正岡子規もちょっと齧っています。しかし明治40年代になると口語自由詩の出現で衰退していった。
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井上公園の前の狭い道を進むと善光寺坂にぶつかります。
坂の途中に善光寺があるから善光寺坂。
この付近に幸田露伴、徳田秋声、島木赤彦、古泉千樫が住んでいました。 -
善光寺。
信州の善光寺の分院。 -
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塀には寄進者の名前を彫った石がはめ込まれています。
魚貫、魚比公、魚彦第一分店。魚屋が多い。 -
福助だんご、坂井三星堂、岡埜栄泉は谷中にある和菓子屋ですね。
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善光寺。
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善光寺坂。
坂上方面。 -
坂下方面。
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善光寺の隣に慈眼院・沢蔵司稲荷(じげんいん・たくぞうすいなり)があります。
伝通院の別当寺でした。 -
1620年、沢蔵司(たくぞうす)という傳通院で浄土宗の奥義を窮めた修行僧が傳通院住職の夢枕に立ち、私は千代田城の稲荷大明神の化身である、この地に一社を建てよ、と告げた。それにより創られたのがこの沢蔵司稲荷です。
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境内の沢蔵司稲荷。
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境内の大銀杏。
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善光寺坂を登り切ったところに、道を裂くように大きな木が立っています。
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善光寺坂のムクノキです。
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幹回り5m、樹齢約400年の古木です。
沢蔵司稲荷の神木で沢蔵司が宿っていると云われます。今の世なら通行の邪魔と情け容赦なくぶった切られるところ、切ると沢蔵司の祟りがあるので残ったのでしょう。 -
ムクノキの左の白い塀の所が幸田露伴の住まい、小石川蝸牛庵の跡です。
幸田露伴は昭和2年から昭和20年、信州に疎開するまでここに住まいしました。建物は戦災で焼失しています。
露伴は戦後市川市に住まい昭和22年7月、80歳で死去しました。 -
露伴の孫青木玉氏の著「小石川の家」に、「家の庭の向うに、道路の真ん中、大きな椋の木があって、道いっぱい枝を拡げていた。二階の祖父の書斎に座れば、まるで木の枝の上に居るような感じで廊下のガラス戸をあければ枝先がさわれそうだ。」
と書かれています。 -
坂が平らになった先に傳通院があります。
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傳通院(でんづういん)。
徳川家康の生母お大(於大)の方の墓があります。
堂宇は戦災で全てが焼けました。 -
山門。平成24年再建。私がもう20年ほど前ここを訪れた時は山門なんて無かった記憶があるので、やはりその後建てられたのです。
1602年徳川家康の生母於大の方が京都伏見城で亡くなり、1603年(慶長8年)家康は小石川極楽水にあった寿経寺(今の宗慶寺)をこの地に移し於大の方の遺骨を埋葬した。寺名も於大の方の法名「傳通院殿」にちなんで傳通院とした。 -
山門の内側。
その後徳川家ゆかりの女性、子供などが多く埋葬されて将軍家の帰依篤く、傳通院は芝増上寺に次ぐ徳川家の菩提寺となっていく。 -
ここは幕末に清河八郎をリーダーとする浪士組が結成された場所でもあります。
また傳通院およびこの界隈は夏目漱石、永井荷風ほかしばしば文学作品の中に描かれています。漱石の「それから」の三千代と平岡の住まいは傳通院の近くです。
この近くで生まれた永井荷風は随筆「傳通院」でこう書いています。
「巴里にノオトル・ダアムがある。浅草に観音堂がある。それと同じように、私の生まれた小石川をばあくまで小石川らしく思わせ、他の町からこの一区域を差別させるものはあの傳通院である。滅びた江戸時代には芝の増上寺、上野の寛永寺と相対して大江戸の三霊山と仰がれたあの傳通院である。」 -
本堂。江戸時代、明治時代、太平洋戦争と何度も焼失し、今のは昭和63年戦後2度目の再建。
フランスから帰ってから間もないある日(明治43年)、荷風は久しぶりに生まれ育った小石川界隈、傳通院を訪れた。街は変わっても傳通院は昔の儘古い佇まいを見せていた。奇しくもその晩傳通院は火事で焼けてしまいます。それを知った翌朝の荷風の驚きとがっかりした様が「傳通院」に書かれています。 -
「傳通院」から。
「諸君は私が傳通院の焼失を聞いていかなる絶望に沈められたかを想像せらるるであろう。外国から帰って来てまだ間もない頃の事確か十一月の曇った寒い日であった。ふと小石川の事を思い出して、午後(ひるすぎ)に一人幾年間見なかった傳通院を尋ねたことがあった。近所の町は見違えるほど変わったが古寺の境内は昔のままに残されていた。・・・・。何という不思議な縁であろう、本堂はその日の夜、私が追憶の散歩から帰ってつかれて眠った夢の中に、すっかりは灰になってしまったのだ。」 -
境内の片隅にある指塚。浪越徳治郎の寄贈です。
浪越徳治郎:指圧療法士。1905~2000年。香川、多度津生まれ。
日本における指圧療法の創始者。マリリン・モンロー来日時に指圧で治療したほか著名人を治療し、指圧の名を世界中に広めた。おそらくモンローの肌に直接触れた唯一の日本人でしょう。
テレビのバラエティー番組にも出演し、「指圧の心は母心、押せば命の泉湧く」のせりふで人気を博す。墓も傳通院にあります。
傳通院の側に浪越が設立した日本指圧学校があります。 -
指圧道同人物故者。
貝原益軒の名もあります。指圧、疎かにできませんね。 -
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ここにも幾人かの著名人の墓があります。
墓地の見取り図を求めたら100円でした。 -
清河八郎。幕末の尊王攘夷派の志士。庄内藩士。1830~1863年。
桜田門外の変を機に倒幕、尊王攘夷運動を始める。1863年、将軍家茂上洛の警護を目的に、清河、山岡鉄舟をリーダーとして浪士組が傳通院で結成される。メンバーには後新選組を結成することになる近藤勇、土方歳三、芹沢鴨、沖田総司らがいた。 -
供えられたばかりの菊の花。
京都に入った浪士組、ここで清河は浪士組の本当の目的は将軍警護ではなく尊王攘夷運動にあると打ち明ける。意見を異にする近藤らは清河と袂を分かち壬生浪士組をへて新選組を結成。
江戸に帰った浪士組だが清河が幕府の役人により暗殺され消滅に向かった。
墓は山岡鉄舟の建立という。 -
佐藤春夫。詩人、評論家、小説家。1892(明治25)~1964(昭和39)年。和歌山・新宮出。代々医師の家系の長男として生まれる。
若くから短歌、詩を明星などに発表。生田長江、与謝野鉄幹に師事、鉄幹の新詩社同人になる。慶応大学文学部(中退)では永井荷風の教えを受ける。スバル、三田文学に詩や短歌、評論を投稿。のち文学に転じる。
代表作に、殉情詩集、田園の憂鬱、小説智恵子抄、晶子曼荼羅、随筆退屈読本。 -
有名な谷崎潤一郎妻譲渡事件というのがあります。
潤一郎には美しい千代と云う妻がいた。性格が合わず潤一郎は千代に冷たかった。潤一郎の親友佐藤春夫は千代に同情していたが、妻と離婚したばかりの春夫の同情は愛へと変わっていく。当時潤一郎の心は千代の妹(谷崎の小説「痴人の愛」のヒロイン)に向かっていた。
潤一郎は春夫に妻を譲ると約束したが、千代の妹との間がうまく行かなかったため約束をほごにして春夫を怒らせた。二人は絶交した。何年か経ち潤一郎は丁未子という別の女性と懇ろになり、あらためて潤一郎は千代を春夫に譲ると申し出る。
春夫は喜んだ。純情なものです。話はまとまりました。 -
そして潤一郎、春夫、千代の連名で妻譲渡の通知状を知人たちに出した。この破天荒の通知は新聞紙上に載りセンセーションを巻き起こした。この通知状は永井荷風にも届き、荷風は昭和5年8月20日の日記(断腸亭日乗)に全文を載せています。
抄出すると:この日谷崎氏の書に接す。あまりに可笑しければ次に記す。
「拝啓。炎暑の候・・・。我ら三人この度合議を以て千代は潤一郎と離別致し、春夫と結婚致す事と相成り、・・・。もとより双方交際の儀は従前の通り・・・。とりあえず御通知申上候。谷崎潤一郎、千代、佐藤春夫。」
佐藤春夫の詩に有名な「秋刀魚の歌」と云うのがあります。春夫が潤一郎に約束をほごにされ悲しんだ時に創られました。全文を載せたいのですが長くなるので一部だけを。
「あはれ秋風よ 情(こころ)あらば伝へてよ 男ありて 今日の夕餉(ゆふげ)に ひとりさんまを食らひて思ひにふけると・・・・さんま、さんま、さんま苦いか塩っ(しょっ)ぱいか・・・・」 -
古泉千樫(こいずみちかし)。歌人。1886(明治19)~1927(昭和2)。鴨川出。
若くから小学校教員を務めながら歌作に励む。伊藤左千夫に師事し斉藤茂吉、島木赤彦らと歌誌「アララギ」を編集。のちアララギと疎遠になり、北原白秋、土岐善麿、木下利玄らと歌誌「日光」同人となる。
日常生活に取材した堅実な歌風で親しまれた。 -
杉浦重剛(しげたけ、じゅうごう)。国粋主義の思想家、教育者。1855~1924(大正13)年。大津出。
三宅雪嶺、志賀重昂らと政教社設立、雑誌「日本人」、新聞「日本」発刊し、欧化主義に反対して国粋主義を鼓舞した。
家塾「称好塾」を開き、中村正直の「同人社」、福沢諭吉の「慶應義塾」とならび三大家塾と云われた。塾生に巌谷小波、江見水蔭、大町桂月がいる。 -
徳川家の墓域です。
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千姫。
徳川2代目将軍秀忠の娘。豊臣秀頼に嫁す。 -
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千姫の墓。
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3代将軍徳川家光正室孝子。
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於大の墓。
徳川家康生母。1528~1602年。
徳川家の墓域から一つだけ離れてありました。 -
岡崎城主松平広忠に嫁ぎ、1542年竹千代(のちの家康)を生む。
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於大の墓。
他にもこの墓地には亀松君(三代徳川家光次男)、於奈津(徳川家康側室)などの墓、作家柴田錬三郎の墓があります。 -
処静院(しょじょういん)跡の石柱。
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傳通院の前を通り過ぎ右に曲がると子院の法蔵院という寺があります。明治27年、東京高等師範学校(現筑波大学)英語教師の夏目漱石が翌28年松山中学に赴任するまでの1年ほどをこの寺に下宿していました。
随筆「思い出す事など」に漱石はこう書いています。
”学校を出た当時小石川のある寺に下宿をしていた事がある。其処の和尚は内職に身の上判断をやる・・・・。ある時冗談半分に余は私の未来はどうでしょうかと聞いてみたら、和尚は余の顔をじっと眺めた後で、大して悪い事もありませんなと答えた。ということは大して好いこともない、お前の運命は平凡だと宣告したようなものである。さらに和尚は、貴方は西へ西へと行く相があるといった。”
西へ西へ、と云うのは当たっていました。漱石はその後松山、熊本、ロンドンへ、西へ西へと行くのでした。
この寺の住職が易断人相見をやることは、漱石の「琴のそら音」や正岡子規あての手紙にも書いています。 -
漱石がここに下宿していた時、漱石初恋(?)のエピソードがあります。
眼疾を治療するため漱石は駿河台の井上眼科(今でもあるそうです)に通っていた。そこに同じように通ってくる「背のすらっとした細面の美しい若い女」がいた。その女に惚れた漱石はあの女なら貰ってもいいと思うようになる。女の方もまんざらでもないようで、女の母親がいろいろ詮索するようになる。
あるとき漱石は下宿先から実家に行き、兄に「私に縁談の話があっただろう」と聞くが兄は「そんな話はない」と答えると漱石は、「私に相談もなく縁談を断るとはけしからん」と怒った。結局話しはうやむやになり纏まらなかった。
漱石が急に松山に行く気になったのも、この失恋で東京が嫌になったのが一因ともうがった見方があるそうです。 -
傳通院前に戻りました。
法蔵院の漱石の部屋の隣に尼僧が数人いたようで、下宿当初は少し興味があるようなことを漱石は正岡子規に書き送っています。しばらくして漱石は「隣の尼僧どもは品性が良くない。女は何時までもうるさき動物なり」と書いてます。 -
福聚院。
本堂の前は幼稚園の運動場です。 -
小石川七福神の大黒天が祀られています。
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伝通院前通り(安藤坂)と春日通り(富阪)が交差する傳通院前交差点。
後で知ったのですが、この交差点の近辺に今も稲荷蕎麦満盛という蕎麦屋があるそうで、伝通院で修業中の沢蔵司がしばしば蕎麦を食べに来ていたそうです。ところが沢蔵司が食べに来た日の売上金には必ず木の葉が混じっていたそうです。 -
傳通院から小石川後楽園に向かって延びる安藤坂です。
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東京、特に山の手は坂の多い町です。永井荷風は随筆「日和下駄」の中でそのことをいろいろ書いています。
「そもそも東京市はその面積と人口においては既に世界屈指の大都である。この盛況は銀座日本橋の如き繁華の街路を歩むよりも、山の手の坂に立って遥かに市中を眺望する時、誰が目にも容易く感じ得らるる処である。・・・。東京は坂の上の眺望によって最もよくその偉大さを示すというべきである。古来その眺望よりしてもっとも名高きは・・・・。」
以下坂の名をずらずら挙げています。頃は大正の初めの事です。今は高い建物の林立で、荷風の眺めた景観を想像することすらできません。 -
紀伊徳川家の家老安藤飛騨守の屋敷があったことかが坂の名前の由来です。
足元に石版がはめ込まれていて、萩の舎跡とあります。 -
中島歌子の歌塾「萩の舎」の跡がこの辺りのはずですが、マンションが立ち並んでいてなんの案内板もなく特定できませんでした。
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中島歌子の歌塾「萩の舎」。
歌子(夫は水戸藩士で天狗党の乱で獄死)が明治10年頃に開いた私塾。
華族など名家の上流子女が多く学び門下生千人を越えたという。樋口一葉は14歳の時ここに入り、歌、書、古典を学び、後の歌人、作家活動の基礎を作りました。。姉門下生に田辺龍子(のちの三宅雪嶺夫人三宅花圃)。一葉は龍子に大いに触発されています。龍子の代表作「藪の鶯」は萩の舎時代に書かれました。 -
安藤坂を下って左に曲がると北野神社/牛天神があります。
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石段。
下から。 -
上から。
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牛の形。
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天神さんですから絵馬も合格祈願が多い。
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もう菊の季節なのですね。
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北野神社。
祭神はもちろん菅原道真。 -
源頼朝が東征の際、夢に菅原道真が現れ二つの吉事を告げられ、その後お告げの通り子ができ、平氏討伐を果たしたため、1184年頼朝はこの地に社殿を造営したといわれています。
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拝殿。
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牛神社では狛犬ならぬ狛牛です。
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撫で岩/ねがい石/牛石。
源頼朝が腰かけた石。撫でると願いがかなうそうです。 -
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中島歌子の歌碑がありました。
雪中竹
ゆきのうちに 根ざしかためて若竹の 生出むとしの光をぞ思う
明治42年門下生により建立。 -
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葛飾北斎の富嶽三十六景「礫川雪の旦(こいしかわゆきのあした)」。礫川=小石川。
牛天神の西側にあった茶屋から遠く富士山の眺めを描いたものだそうです。
この絵にあるように牛天神は景勝の地でした。明治の随筆家・評論家大町桂月は”牛天神の境内からは江戸川の桜、目白台の暮霞、牛込、麹町の甍や樹木、眼界ひろく、ことにここから眺める富士山は東京では最も高く見える。眺望の優れていること都下第一”と絶賛しています。 -
境内には末社である太田神社、高木神社があります。
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芸能の神だそうで、歌舞伎、新劇関係の人の信仰を集めています。
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日が低くなってきました。これで今回の文学歴史散歩は終わります。
後楽公園少年野球場。 -
小石川後楽園の塀。
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後楽園遊園地と東京ドーム。
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終わりは地下鉄丸の内線後楽園駅。今4時半、約6時間の散策でした。
東京駅に出て東海道線で戸塚へ。
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この旅行記へのコメント (4)
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- frau.himmelさん 2018/01/02 12:10:36
- 明けましておめでとうございます
- 明けましておめでとうございます。
今日は朝から時間ができましたので、ゆっくりベームさんの旅行記拝見しています。
お正月に読むに相応しいベームさんの「東京文学・歴史散歩 小石川編」。
やはり素晴らしい、大変格調高い旅行記です。
石川啄木の壮絶な人生、寺田寅彦の、妻と娘を思うホロリとする「団栗」。
ライプティヒのアウアスバッハスケラーのあの森鴎外と一緒に描かれていたのは井上哲次郎だったのですか。
昨年ベルリンで森鴎外記念館を訪れましたが、あそこにも複製の絵がありました。
大変心豊かな正月のひとときを過ごさせてくださってありがとうございました。
今年も、お互いに健康に気を付けて頑張りましょう。
よろしくお願いいたします。
himmel
- ベームさん からの返信 2018/01/02 21:47:16
- Re: 明けましておめでとうございます
- Frau Himmel、
明けましておめでとうございます。
新年早々過分のお言葉頂き嬉しいやら恥ずかしいやら。
あちらこちらからの引用のうえに、少しばかりの私の思いをくっつけて成り立っている継ぎはぎだらけのまがい物です。でもいろいろ調べるのはとても勉強になります。年が明けたのでまたどこかへ行こうかなと思っています。
himmelさんの方は旅行も旅行記の方も順調ですね。6か国の内4か国が済、後二つは地理的に見てベルギー、オランダと推測しますが先の楽しみとしておきます。
コルマールに3泊とは時間的に贅沢な旅をしておられます。運河の船乗りは懐かしい思い出ですが、バルトルディの作品が市内にあんなに沢山あるとは気が付きませんでした。
この先どのくらい旅ができるか分かりませんが、お互い身の程に気をつけながら頑張りましょう。
本年もよろしくお願い申し上げます。
ベーム
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- merumoさん 2017/12/14 07:55:33
- 懐かしい。。。
- 昔小石川植物園の近くに生まれ育ちました。
今は昔馬鹿にしていた練馬区ですが…
懐かしく拝見しました。入園料がかかるんですね。
もうずっと行ってません。
- ベームさん からの返信 2017/12/15 14:08:17
- Re: 懐かしい。。。
- merumoさん、
好い所にお住まいでしたね。小石川植物園には
もっと時間をかけて観たかったです。あれだけのものを
維持管理するのですから、入園料も已むお得ませんか。
ベーム
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