2017/10/27 - 2017/10/27
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ベームさん
10月27日。
天気予報は晴れ、最高気温22度。絶好の散歩日和。ぞろ東京の街歩きがしたくなり出かけました。
今までは主に下町、隅田川界隈、江戸・明治の名残をとどめる所を歩きましたが、今回はいわゆる山の手を訪ねます。
今日は文京区の小日向(こひなた、こびなた)から小石川、途中小石川植物園に寄っていこうと思います。この界隈は夏目漱石が青春時代/学生時代を過ごし、石川啄木が悲惨な最期を迎え、永井荷風が生まれ少年時代を送ったところです。
写真は林泉寺のしばられ地蔵。
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本日歩いた地域。
地図左下、地下鉄江戸川橋駅かほぼ時計回りに右下後楽園駅まで歩きます。 -
その1の部分。
左下江戸川橋駅から右上小石川植物園の手前新福寺まで。 -
スタートは地下鉄有楽町線江戸川橋駅。
10時30分ころです。腰に腰痛用のベルトを巻き、脚の痙攣防止用の薬を飲み、キオスクでペットボトルのお茶140円を買いポケットにねじ込んで態勢を整え出発。 -
駅出口4番を出て神田川を古川橋で渡りました。
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古川橋からの神田川。上を通るのは首都高池袋線。
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小日向神社入り口から服部坂を上っていきます。
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服部坂の由来。
小日向から小石川にかけて幾つもある坂は昔は江戸、東京の街を眺める絶好の場所でした。坂下には永井荷風、中勘助、黒澤明が通った黒田小学校がありました。 -
坂の上に小日向神社。
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小日向神社。
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基となる神社は9世紀の創建とされる。
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小日向神社から江戸川橋方面の眺め。永井荷風が眺望のよい坂の一つに挙げていますが、今はこのようです。目の前の建物が文京福祉センターでもと黒田小学校があった所。
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小日向神社の少し先、小日向2丁目1-30あたりに新渡戸稲造の旧居跡があるはずなのですが、それらしき標識がありません。どうやら木立のある処のようです。
明治37年から亡くなる昭和8年まで住んでいました。 -
小日向神社まで戻り服部坂を下り、巻石通りを東へ。
善仁寺。お寺の多い通りです。 -
日輪寺というのがあります。
巻石通りはかっての神田上水の跡だそうです。明治11年に暗渠化され、その時使われた巻石が通りの名となりました。ずっと進むと伝通院から続く安藤坂下に出ます。 -
日輪寺。
作家真山青果の墓があるのでお参りしようと寺の事務所で尋ねると、寺内の墓は縁者でないとお参り不可、とのこと。スタートでつまずいたが仕方がない。
真山青果(まやませいか):小説家、劇作家。1878~1948年。
小栗風葉に師事。小説に「南小泉村」、戯曲に「玄朴と長英」、「元禄忠臣蔵」ほか。西鶴、馬琴に造詣深かった。 -
日輪寺の隣の本法寺。浄土真宗のお寺。
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門の前に案内板が立っていました。
ここは夏目漱石の夏目家の菩提寺です。漱石の母、長兄、次兄がここに葬られています。「坊ちゃん」で清が葬られた養源寺のモデルでもあります。
レリーフに「早稲田大学で教鞭をとった文豪シリーズ」とあります。夏目漱石は東大生時代学資を稼ぐため、明治25年から数年間早稲田大学(当時は東京専門学校)で英語講師を務めたことがあります。 -
本法寺本堂。
夏目家の菩提寺でありながら漱石はあることから真宗が嫌いになり、本法寺とは縁を切り禅宗に替ります。漱石夫人夏目鏡子が「漱石の思い出」に書いていますから本当の事でしょう。 -
それでも境内には漱石の句碑があります。
梅の花 不肖なれども 梅の花 -
夏目漱石と繋がりがあるということは、寺にとってPRになるのでしょう。文学散歩をする者にとっても結構なことです。
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墓地中をを探し回りようやく「夏目墓、夏目氏」とある墓を見つけました。
でもこれが漱石の実家の夏目家かどうか分かりません。それ以外の文字はなにも彫られていないので違う夏目家かも知れません。
花立だけがやけに光っている。
もっとも夏目家と本法寺の関係はしっくりいってなかったようです。漱石は真宗を嫌っていて、自分の墓地を雑司ヶ谷に求めた。幼くして亡くなった5女雛子の骨を寺と夏目家で取り合ったなどいろいろあったようで、それらが不仲の原因になったようです。 -
周りの墓に比べても小さく貧相な墓です。花や線香が手向けられた気配もありません。漱石は墓に何回もお参りし著書にも書いているほどですから、決して粗末にしていたわけではないでしょう。しかしあの雑司ヶ谷霊園の漱石の立派過ぎる墓に比べ大きな落差を感じます。
でもほかに夏目家の墓は見当たらず、これを漱石の「夏目家の墓」としておきます。漱石が秘かに想いを寄せていたとか言われる兄嫁登世(とせ)もここに葬られています。
どうも心が落ち着かないまま寺を後にしました。
後日記:その後いろいろ調べていたら、やはりこれが漱石の実家夏目家の墓だそうです。漱石は5女雛子の死に際し雑司ヶ谷墓地に墓を求め、のち自らも妻鏡子と共にそこに葬られています。私の旅行記「雑司ヶ谷墓地掃苔記」に写真があります。
https://4travel.jp/travelogue/11235078 -
本法寺の隣が称名寺。
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墓域を歩いていると滝亭鯉丈(りゅうていりじょう)の墓というのが有りました。私には馴染みのない名前です。
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調べてみると江戸時代後期の戯作者です。
代表作に滑稽本「花暦八笑人」。通人の理想郷を描いたもので、坪内逍遥はこれをヒントに「当世書生気質」を書いたという。 -
巻石通りを進むと国際仏教学大学院大学があります。
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そこに建っている石柱。
15代将軍徳川慶喜終焉の地です。明治34年からこの地に住み、大正2年76歳で死去。 -
朝敵として本来なら死罪が相当なるところを、大政奉還、上野寛永寺、水戸、駿府とひたすら謹慎恭順逃げ回り、死どころか従一位、勲一等、公爵まで賜り悠々の余生を送る。
困窮する旧幕臣の面倒を見るなんてことはなく、情のない人だと恨まれてもいた。
ドイツのヴィルヘルム2世が、第1次世界大戦の敗北後悲惨なドイツ国民を見捨てて莫大な財産をもってオランダに亡命し、優雅な生活を送ったのと似ています。 -
横の坂は今井坂/新坂。
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新坂とありますが、1711年頃開削されています。おそらく付近にもっと古い坂があったのでしょう。
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坂の上。
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巻石通りをさらに進み金剛寺坂を登って行くと地下鉄丸ノ内線の線路が現れました。
台地と台地の間を通る時顔を出します。御茶ノ水あたりでも見られますね。 -
線路を渡ってすぐ、本田労働会館の角を右に曲がるとここは春日2丁目です。
(有名な?)川口アパートメントの向かい側にプレートが立っています。永井荷風生育地。
この角を左に少し入った所です。 -
この辺りは永井荷風の父親の大きな屋敷があった所です。
荷風の父久一郎は高級内務官僚で、退官後は日本郵船上海、横浜支店長を務め、財界に重きをなした人物です。漢詩人としても一流でした。母は漢詩人鷲津毅堂の娘。
荷風はこの地に明治12年長男として生まれ、明治26年まで14年間過ごしています。 -
プレートの角を少し上った所、旧金富町45番地、父久一郎の屋敷があった辺りです。
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春日通りに出て茗荷谷の方に歩きました。
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途中茗台(めいだい)中学校。
文京区の施設、茗台アカデミーと建物を共有しています。 -
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茗台中学の角を左に曲がると坂、石段があります。
庚申坂。以前は切支丹坂とも言われました。急な坂です。
夏目漱石の短編小説「琴のそら音」にこの坂を切支丹坂として以下のような一文があります。
”竹早町を横切って切支丹坂へかかる。なぜ切支丹坂と云うのか分からないが、この坂も名前に劣らず怪しい坂である。坂の上に来た時、ふとせんだってここを通って「日本一急な坂、命の欲しいものは用心じゃ用心じゃ」と書いた張札が土手の横から往来へ差し出ているのをおもいだす。・・・昼でもこの坂を降りるときは谷の底へ落ちると同様あまり善い心地ではない。”
坂の下に見える隧道の先に本当の切支丹坂があります。 -
坂を下って地下鉄丸ノ内線を隧道で潜ると小日向1丁目、切支丹坂にでます。
自然主義文学、私小説の傑作と云われる田山花袋の「蒲団」の冒頭に書かれています。それによると、
竹中時雄(主人公、花袋の分身)は牛込矢来町に住んでいて、毎日切支丹坂からだらだら坂を下り、小石川の久堅町、極楽水を通って印刷工場(共同印刷のこと)に通っています。
田山花袋は一時共同印刷に勤めていました。 -
切支丹坂。
「蒲団」には花袋の若い女弟子に対する恋情が赤裸々に書かれており、
最後の「その向こうに、芳子(女弟子)が常に用いていた蒲団と、綿の入った同じ模様の夜着とが重ねられてあった。時雄(花袋)はそれを引き出した。女のなつかしい汗のにおいが言いも知らず時雄の胸をときめかした。夜着の襟のビロードの際立って汚れているのに顔を押し付けて、心のゆくばかりなつかしい女のにおいをかいだ。
性欲と悲哀と絶望とがたちまち時雄の胸を襲った。時雄はその蒲団を敷き、夜着をかけ、冷たい汚れたビロードの襟に顔を埋めて泣いた」
というくだりなど文壇にセンセーションを巻き起こしました。当今のポルノ小説には及びも附きませんがなにしろ時代は明治の40年です。これで花袋は私小説作家の第1人者とみなされ、以降文壇では続々と私小説が書かれるようになりました。 -
この辺り、昔は茗荷谷(みょうがだに)町と云いました。
今の小石川と小日向の間を走る谷、地下鉄丸の内が通っている所を茗荷谷と云ったのですね。
住居表示法の施行により昔からの由緒ある町名は消えていきました。 -
切支丹坂を上って右に曲がった所に切支丹屋敷跡がありました。
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江戸時代、日本に渡来したキリスト教宣教師、転び伴天連(ころびばてれん、棄教したキリスト教徒)を収容した施設。
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都旧跡 切支丹屋敷跡。
イタリアの宣教師シドッティがここで新井白石の尋問を受け、その内容が白石の「西洋紀聞」の基になっています。 -
1646年造られ1724年焼失し再建されませんでした。
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切支丹屋敷跡の向かいに立つ案内板。
この地一帯は縄文時代から人が居住していたのだそうです。 -
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切支丹屋敷跡から北に延びる通り、七軒屋敷新道。
切支丹屋敷の七人の役人の住まいがありました。 -
右左にカーヴする道。蛙坂です。
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蛙坂の由来。
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坂を降りたところ、地下鉄丸の内線のガードの手前にある宗四郎稲荷。
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ガードを潜らずに左に行くと拓殖大学があります。
大学から茗荷谷駅に向かう坂が茗荷坂です。 -
右手には深光寺(じんこうじ)。
寛永16年(1639年)創建。 -
滝沢馬琴の墓があります。
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深光寺。
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滝沢馬琴の墓。
江戸時代後期の戯作者、読本作者。1767~1848年。別号曲亭馬琴。
代表作:椿説弓張月、南総里見八犬伝。 -
馬琴の蔵書印である家型の模様。
晩年馬琴は晩年失明するが、長男の嫁路女に口述筆記させ長編「南総里見八犬伝」を完成させました。文字の読み書きできない路に、手のひらに字を書いて教えたそうです。
路女の墓も側にあります。 -
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深光寺には小石川七福神の恵比寿さんが祀られています。
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地図真ん中左の赤い印の所が今いる深光寺です。地図下の方に切支丹坂があります。
茗荷谷駅はすぐそこです。 -
深光寺の先にしばられ地蔵の林泉寺がありますが寺内は工事中で入れません。地蔵尊も工事中ここに仮置きされているのです。
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しばられ地蔵尊。
ぐるぐる巻きにされていますね。縄は新しいようでした。
仏教の教義によらない民間信仰、庶民の信仰の詰まった怪しげな社や祠を淫祠(いんし)と言います。この地蔵さんも淫祠の一つでしょう。
永井荷風は随筆「日和下駄」の中で書いています。「淫祠は大抵その縁起とまたはその効験のあまりに荒唐無稽な事から、何となく滑稽の趣を伴わすものである。」 -
盗難や失せ物があると地蔵に縄をかけて出てくるように願いをかけ、願いがかなうと縄を解くそうです。その謂れは説明板をお読みください。
荷風は都内の淫祠として:駒込の炮烙(ほうろく)地蔵、金竜山境内の塩地蔵、源覚寺のこんにゃく閻魔、塩地蔵、向島弘福寺の石の媼様などを挙げています。
その他文京区内には、福聚院大黒天のとうがらし地蔵尊、喜運寺の豆腐地蔵尊、法伝寺の顔なし地蔵などがあります。 -
茗荷坂、茗荷谷キリスト教会。お寺ばかりの写真では不公平です。でもヨーロッパへ行けば教会の写真ばかり撮っていますからおあいこです。
そう言えば西洋のキリスト教世界でも回教寺院はたまに見かけますが、仏教寺院は見たことがありません。どうしてでしょう。
地下鉄茗荷谷駅のすぐ手前、ここは文京区大塚1丁目。 -
地下鉄丸の内線茗荷谷駅。
近くに跡見学園女子大、拓殖大学など学校が多く、学生達がひっきりなしに出入りしていました。 -
駅前の食堂で昼にしました。イカ刺し定食、800円。
12時過ぎの時間で勤め人風の人たちで混んでいます。品のある老婦人が厨房で、娘さんらしい人がサービスをしていました。イカは歯ごたえがあり美味しかったです。昼にこういった定食ものを食べるのはリタイアー以来初めてで懐かしかったです。 -
春日通りに出て小石川方向に歩きました。
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徳雲寺。小石川七福神の男の弁財天です。1630年創建。
付記。後日夏目漱石の次男夏目伸六氏の著「父・夏目漱石」を読み直したらこのお寺は漱石と関係の深い寺という事が書いてありました。
すなはち "漱石の母、長兄、次兄の墓は小日向の本法寺にあるが漱石はその寺を嫌っていた。それで漱石の一周忌や三回忌などの法事は鎌倉円覚寺に繋がるここ徳雲寺で行った。
漱石夫人鏡子が亡くなった時、遺児たちはどこで葬式をしようか相談し、是も徳雲寺ですることにした。"
と云うようなことが書かれたいます。
漱石の通夜の読経を務めたのも徳雲寺の僧でした。 -
漱石の死/1916年(大正5年)と鏡子夫人の死/1963年(昭和38年)の間には実に47年の歳月があります。
漱石の法事の時は大きな本堂に30人近くの坊主と200人ほどの参会者が居並んだそうですが、戦災を経て寺は小さくなり、鏡子夫人の法事の時は40人ほどの参列者でも本堂からはみ出したそうです。 -
小石川5丁目の交差点、左折すると播磨坂です。
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播磨坂。
1960年に植えられた150本の桜並木があります。 -
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この辺りに松平播磨守の上屋敷があった所から名付けられました。
1960年に150本の桜に木が植えられ、立派な桜並木に成長しています。 -
ここ播磨坂の入り口辺りに高橋泥舟、山岡鉄舟の旧居跡があるはずですがどうしても案内板など見当たりません。
高橋泥舟、山岡鉄舟、勝海舟は徳川幕府の幕臣で、幕末の三舟といわれました。 -
播磨坂。
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ここら辺は旧久堅町。
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坂の途中、播磨坂桜並木という信号を左に曲がり、1ブロック先をさらに左に曲がると、
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道端に歌碑が建っています。
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石川啄木終焉の地に建てられた歌碑です。
本郷弓町の床屋「喜之床」の2階に間借りしていた啄木一家。そのうち啄木が発病し、続いて妻も発病(共に結核)。娘、老母を抱え狭い間借り生活は耐えられなく、友人の世話で明治44年8月一家はここ、当時小石川久堅町に小さな平屋を見つけ移ってきました。しかしこの時、啄木はもうほとんど仕事が出来ないほど病状は進んでいたのです。 -
石は啄木の郷里の「姫神小桜石」です。
悲劇はさらに一家に追い打ちをかける。翌45年1月、啄木は朝日新聞社に出社できなくなる。不祥事で郷里の寺の住職を追われた父が転がり込んでくる。母も結核が判明、母の病気は進行していてもう手遅れだった。まず明治45年3月母死去。
ついで啄木も4月13日、父、身重の妻、娘を残して満で言えば26歳の生涯を閉じた。看取ったのは家族とたまたま訪れてきた若山牧水だった。
唯一の働き手であった啄木の死で一家の惨状はいかばかりだったか。 -
啄木最後の歌二首の直筆原稿が陶板にしてはめ込まれています。
呼吸すれば、胸の中にて鳴る音あり。凩よりもさびしきその音!
眼閉づれど 心にうかぶ何もなし。さびしくもまた眼をあけるかな
啄木は死を悟っていたことでしょう。作家をめざし東京で悪戦苦闘しながら家族を養い、いま志半ばにして死を待つ自分、心にうかぶ何もなし、だったのでしょうか。私は、無念の思いで胸は張り裂けるばかりではなかったか、と想像します。
啄木の死後同年6月妻節子は女児を出産、9月に娘2人を連れ函館の実家に帰った。
翌大正2年5月、節子も結核で死去、28歳。遺児は節子の父が面倒を見ることになった。
その二人の遺児もそれぞれ24歳、19歳の時結核で亡くなっています。
何とも呪われたとも言えよう啄木一家です。 -
毎日のお米にも事欠くような暮らしの中、たまたま原稿料が入るとそれを遊興の巷に使うと云った啄木でもありました。金田一京助、与謝野鉄幹、平野万里、吉井勇、土岐哀果、森鴎外、宮崎郁雨ら友人、先輩に迷惑をかけっぱなしの人生でもありました。
傲岸不遜で自我を通し続けた啄木、一面自業自得とも言えますがやはり悲しい啄木です。 -
碑の横に石川啄木顕彰室があり入ってみます。
同郷の先輩、野村胡堂は哀惜を込めて啄木の事を描いています。
「啄木と云う男は、社会人としては、厄介な人間であった。ほら吹きで、ぜいたくで、大言壮語するくせがあり、・・・、その半面、無類の魅力を持った人間でもあったのである。おしゃれで、気軽で、・・・、そして何よりも美少年であった。・・・。その上、啄木の才能は非凡であった。・・・。彼は歌は作るが俳句は駄目、こっちは俳句に没頭して、歌を相手にしないから、芸術論などたたかわせた覚えはないが、・・・。」 -
聡明な、意志の強い勝気な風貌です。
野村胡堂の続き。
「啄木の書いた手紙が・・・、今では十二、三通しか残っていないが、その中の一通に借金の詫び状がある。・・・。字も立派だし、表装して保存してあるが、今となっては、私のあらゆる骨董品よりも尊いものになってしまった」
また胡堂は啄木の初対面の印象をこう書いています。
「こまっちゃくれた少年がいる。・・・。私にくらべると三分の一もないくらいで、骨組みや腕っ節になる養分が、ことごとく知恵の方へ回ったという顔をしていた。」 -
何となく、今年はよい事あるごとし。元日の朝晴れて風無し。
新しき明日の来るを信ずといふ、自分の言葉に 嘘はなけれど
二晩おきに 夜の一時頃に切通の坂を上りしも 勤めなればかな
(京橋滝山町の朝日新聞社に勤めていた時、夜勤明けで市電が無い時、上野広小路から湯島の切通しを本郷弓町の喜之床の住まいまで歩いて帰っていた)。 -
歌碑にはめ込まれている歌です。
病状の進む中、啄木が最後の気力を振り絞って書きました。 -
啄木の死後、6月に出た歌集「悲しき玩具」より。
今日もまた胸に痛みあり 死ぬならば ふるさとに行(ゆ)きて死なむと思ふ
すこやかに 背丈のびゆく子をみつつ われの日毎(ひごと)にさびしくは何(な)ぞ
ただ一人の をとこの子なる我はかく育てり 父母もかなしかるらむ
ただ一人の男子として父母の期待を一身に集めていた自分なのにこんな自分になってしまった。なんとも慙愧に堪えなかったことでしょう。 -
時として あらん限りの声を出し 唱歌をうたふ子をほめてみる
ひさしぶりに ふと声を出して笑ひてみぬ 蠅の両手を揉むが可笑(おか)しさに
買ひおきし 薬つきたる朝に來し ともの情けの為替のかなしさ
児を叱れば 泣いて寝入りぬ 口すこしあけし寝顔に さはりてみるかな
奔放に生きて家族を顧みなかったような啄木でしたが、子供は可愛かったのですね。
薬代も尽きたところに友人からなさけの金が贈られてきた。 -
呼吸すれば、胸の中にて鳴る音あり、・・・。
啄木は結核でした。 -
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故郷盛岡市旧渋谷村に建てられた歌碑。
啄木の親友金田一京助、土岐哀果、教え子たちの協力で建てられました。 -
赤心館:本郷菊坂町(現本郷5丁目)にあった下宿屋。明治41年4月、本格的に創作活動を志した啄木が家族を残し単身上京し、金田一京助のいる赤心館にころがりこんだ。ここに居たのは僅か5か月。
蓋平館別荘:明治41年9月、下宿料を払えなくなった金田一と啄木(金田一だけなら払えたが2人分は無理だった)は赤心館を飛び出しここに移った。
喜之床:明治42年6月、函館から家族が上京してきたためここの2階に間借りした。2年余り住まいし東京生活で一番長かった。ここから明治44年8月最後の地小石川に移ったのです。
観潮楼:千駄木森鴎外の住居。ここで開かれた歌会に与謝野鉄幹の紹介で啄木はしばしば出席している。 -
啄木死の年の1月に北海道の義兄に宛てた手紙があります。
母が結核、妻も結核、自分も結核、医者にかかる金も無い。まさに悲惨な窮状を訴えています。
その年に母、啄木と相次いで亡くなり、妻も啄木の子を出産後翌年亡くなります。 -
義兄(姉の夫)への手紙。
北海道小樽区鉄道官舎 山本千三郎様 至急 -
拡大してみます。
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”老母事、・・・、近来一層衰弱を加へ五六日前よりは毎日数回づつ喀血するように相成、・・・全く床を離れ得ぬ程に相成候。依って百方苦心金策の上・・・、小生よりは近所の三浦医師を頼み・・・”
明治45年1月の手紙で、その3月に母は亡くなり、4月に啄木、翌年には妻節子も相次いで亡くなりました。 -
啄木幼少時代の写真。真ん中。
このころ父は盛岡の渋民村の寺の住職をしており、平穏な一家だった。 -
明治37年。
啄木18歳と婚約者堀合節子。
才気煥発で野心に燃える啄木。節子は啄木との結婚生活が後にかくも悲惨なものになるとは夢にも思っていなかったことでしょう。可哀そうな夫婦です。
翌明治38年結婚。啄木19歳、節子17歳。 -
1910年(明治43)出版された第1歌集「一握の砂(いちあくのすな)」
ふるさとの 山に向かひて言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな
はたらけど はたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざり じっと手をみる
ふるさとの 訛りなつかし停車場の 人ごみの中にそを聴きにゆく
友がみなわれよりえらく見ゆる日よ 花を買ひ来て 妻としたしむ
分かりやすい言葉で作られています。 -
啄木の葬儀は盟友土岐善麿の縁故先の浅草のお寺で4月15日に行われた。朝日新聞社の社員10名ほどを入れて約40名ほどの参列者だった。
金田一京助、佐々木信綱、北原白秋、相馬御風らの中に夏目漱石の姿があった。
漱石は東京朝日新聞の校正係を務める啄木とは同僚と云えば同僚だった。漱石と啄木の間には直接の交流はなかったが、啄木は漱石を尊敬しており、漱石は門下生の森田草平を通じて啄木の窮状を知りいくばくかの金銭援助をしている。 -
明治45年1月22日の啄木の日記に「午後になって森田君が来てくれた。ほかに工夫はなかったから夏目さんの奥さんに行って十円貰ってきたといって、それを出した。私はまったく恐縮した。まだ夏目さんの奥さんにはお目にかかったことも無いのである。」 森田とは漱石の弟子森田草平。
啄木の生涯を思い、暗い気持ちでさくら並木に戻りました。 -
緑道には所々に彫像が建っています。
後日記:2枚前の写真で、漱石と啄木の間には直接の交流はなかった、と書きましたが訂正します。
明治43年7月、漱石が胃潰瘍で内幸町の長与胃腸病院に入院中2回啄木が見舞いに行っています。東京朝日新聞社で校正係をしていた啄木はその時「二葉亭四迷全集」の編集に携わっており、そのことで漱石は啄木にいろいろアドヴァイスをしています。 -
この側に公衆トイレがあります。
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播磨坂を横切って少し先、吹上坂を左に曲がると小石川パークタワーという大きなマンションがあります。極楽水のあった所です。
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極楽水は結構有名で、文学作品の中にもよく出てきます。
夏目漱石の「満韓ところどころ」の一節。
「橋本左五郎とは、明治一七年の頃、小石川の極楽水の傍で御寺の二階を借りていっしょに自炊をした事がある。」
御寺とは小石川植物園の手前にある新福寺のことで、これからそこにも行きます。 -
その敷地内に取り込まれて名水「極楽水」があります。ごくらくみずともごくらくすいとも呼ばれます。
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今はちっぽけな水たまりです。
漱石の「琴のそら音」にも出てきます。
「極楽水はいやに陰気なところである。近頃は両側へ長屋が建ったので昔ほど淋しくはないが・・・。雨は闇の底から蕭々と降る。」
今でも少し陰気ですね。 -
その袂に祀られている女の弁財天。
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小石川七福神の一つです。
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極楽水の先に宗慶寺。
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茶阿局(ちゃあ、さあのつぼね)の墓、宝篋印塔(ほうきょういんとう)があると書いてあります。
徳川家康の側室。別に家康の側室に阿茶局(あちゃのつぼね)と云う女人もありややこしい。
寺名は茶阿局の戒名の一部をとったものです。 -
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これがその宝篋印塔だと思っていましたが、あとで調べると違っていました。
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肝心の茶阿局の墓は撮っていません。
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吹上坂を下ると播磨坂と合流し白山2丁目、千川通りの大きな交差点に出ました。
ここら辺一帯は共同印刷、日本書籍の大手から零細業者まで印刷出版業者が集まり、田山花袋が小説「蒲団」の中で「数多くの工場の煙突が黒い煙を漲らしていた」と書いているようにまさに「太陽のない町」でした。 -
その角にあるのが印刷業大手の共同印刷。
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共同印刷。
ここがあの徳永直の代表作「太陽のない町」で描かれた共同印刷争議の舞台です。
大正15年に起こった共同印刷の賃金カット、従業員解雇を巡る争議で、当時のストライキや労働運動、会社側の右翼導入、国家権力による弾圧の実態が描かれていて大評判になり、その後舞台化、映画化もされた。
「太陽のない町」は小林多喜二の「蟹工船」と共にプロレタリア文学史上の記念的作品と云われます。
徳永直は争議の時の従業員の一人で、田山花袋もここで働いていたことがあります。 -
ここら辺り、旧白山御殿町。
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千川通りを渡り小石川植物園の方に向かうと新福寺というお寺があります。
浄土真宗東本願寺派の寺。大きくはありませんが、山門と鐘楼を持つ風格のあるお寺です。 -
明治17年、神田駿河台の成立学舎で英語を学び東京大学予備門予科に入学した前後、当時17歳の夏目漱石(夏目金之助)は一時学友橋本左五郎とこの寺の2階に下宿し自炊生活をしています。
大学予備門に同時に入学した者に中村是公、芳賀矢一、南方熊楠、橋本左五郎がいます。橋本も受験しました。入学試験で漱石は橋本から代数の答えを教えてもらって(今でいうカンニング)合格しましたが、教えた方の橋本は落ちたそうです。 -
本堂。
漱石自身が書いています。「橋本左五郎とは、明治17年の頃、小石川の極楽水の傍で御寺の二階を借りて一所に自炊をしていた事がある。その時は間代を払って、隔日に牛肉を食って、一等米を焚いて、夫れで月々二円で済んだ。」
橋本左五郎は札幌農学校に進み、のち東北帝大教授。畜産学者。 -
境内の時の鐘。
江戸の町には幾つか時の鐘があり、町民に時を知らせた。かわりに鐘の音が聞こえる地域の住民から代価としてお金を徴収していたらしい。時計のない時代の話です。
上野の時の鐘が一番有名でしょう。 -
漱石もこの鐘を撞いたことがあるのではないか、「琴のそら音」にこの鐘のことを書いています。
”・・・外套の襟を立てて盲唖学校の前から植物園の横をだらだらと下りた時、どこで撞く鐘だか夜の中に波を描いて、・・・。十一時だなと思う。時の鐘は誰が発明したものかしらん。” -
奥の2階、あの辺りに漱石は下宿していたのでしょうか。
のち明治27年東京高等師範学校英語教師だった漱石は、松山中学に赴任する前にも近くの傳通院そばの寺に下宿しています。小石川界隈は漱石がその青春時代を過ごした場所だったのです。
今日の散歩はまだ半分ですが写真の枚数も多くなったので、その1として終わります。
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