2017/04/23 - 2017/04/23
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ベームさん
暦が啓蟄を迎えるころから私の蟄居が始まり、桜が終わり花粉の時期もすぎた今ようやく私の啓蟄となりました。
ごそごそと陋屋を這い出て今日は雑司ヶ谷霊園に先人の墓の苔を払い、ついでに雑司ヶ谷の鬼子母神、護国寺を訪ねてみました。
写真は雑司ヶ谷鬼子母神。
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戸塚から池袋まで湘南新宿ラインでわずか45分です。
親切なご婦人に席を譲られ最初から座れました。男子として女性から席を譲られるのはいささか沽券にかかわるなんて難しいことは考えずに有難くお受けしました。 -
地下鉄副都心線で雑司ヶ谷へ。たった一駅ですが長時間の歩行に難点がある私は足の温存を図ります。
10時30分、今日のスタートです。 -
都電荒川線の踏切を渡りました。都電にはまだ一度も乗ったことがありません。
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すぐに大鳥神社があります。
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社殿。
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雑司ヶ谷七福神の恵比寿神を祀っています。
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その先の本納寺にちょっと寄っていきました。
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本堂。
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ここには秋田雨雀の墓があります。
秋田雨雀:明治16~昭和37年。
青森県、いまの黒石市出身。小説家、劇作家、童話作家、評論家、翻訳家と幅広い分野で活躍。プロレタリア文学運動に注力した。早稲田に学び島村抱月門下。
道に転げ落ちるように建っています。小さな石でしゃがみこんで写しました。 -
自然石ですね。
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そのすぐ先に雑司ヶ谷鬼子母神のケヤキ並木の参道。
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雑司ヶ谷鬼子母神。
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参道わきに大きな銀杏の木が立っています。
都天然記念物。 -
樹齢600年以上という事は室町時代ですね。
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鬼子母神堂。
1561年、この辺りで掘り出された鬼子母神像を1578年この地に安置したことにはじまる。
昭和54年解体大修理。昭和35年都有形文化財、平成28年国重要文化財指定。
先日入谷の鬼子母神を訪ねましたがそちらのはコンクリート造りみたいで殺風景なものでした。 -
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鬼子母神伝説はご存知と思いますが、私の勉強のために寺のホームページから引用してみます。
その昔インドに訶梨帝母(カリティモ)という夜叉神の娘がいた。嫁して沢山の子を産んだが、性質暴虐で近隣の幼児をとって食べるので人々から恐れ憎まれていた。
お釈迦様はその過ちから帝母を救おうと考え帝母の末の子を隠した。 -
嘆き悲しむ帝母にたいしお釈迦様は「千人のうちの一子を失うもかくの如し、いわんや人の一子を喰らうとき、その父母の嘆きやいかん」と戒めた。
帝母はようやく過ちを悟り、お釈迦様に帰依し安産、子育ての神になることを誓い、その後人々の尊崇を受けるようになった。 -
雑司ヶ谷七福神の大黒天はこの大黒堂に祀られています。
「おせんだんご」とありますが、笠森おせんではなくて、鬼子母神に千人の子があったことから沢山の子宝に恵まれるようにという願いに由来しているそうです。
安倍さん、少子化対策のため官邸に鬼子母神を勧請して毎日お参りしては如何。 -
境内の創業1781年の上川口屋。
「江戸名所図会」にも「飴もて此地の産とし、川口屋と称するものを本元とす。」と書かれています。
評判の店のようです。当初は飴屋で今も駄菓子を商っています。
しかし駄菓子を作る処が少なくなっていつまで品ぞろえが続くか。 -
境内には武芳稲荷大尊天が祀られたいます。
鬼子母神堂建立以前からあったそうです。 -
雑司ヶ谷霊園に来ました。霊園管理事務所です。鬼子母神から歩いて10分少々でした。
谷中霊園、染井霊園、青山霊園などと共に明治7年開設された東京都営の霊園。
事務所で霊園の地図を貰い著名人の墓の苔を払いにまいります。墓マイラーという言葉もあるようです。マイラーは参る人のことですか。
著名人と言っても私の主観で言っているもので、そんな人物知らんわなんて人もいるでしょう。 -
初代江戸家猫八。物真似師。慶應2~昭和7(1866~1932年)。
特に動物や鳥の鳴き声を得意とした。 -
ラファエル・フォン・ケーベル。哲学者、音楽家。1848~1923年。
ドイツ系ロシア人。
明治政府のお雇い外国人教師として明治26年来日、大正3年まで東大で西洋哲学、西洋美術史を講じる。東京音楽学校(今の東京芸大)でピアノも教える。ピアノはルービンシュタインに師事したことがありピアニストとしても一流だった。 -
今でもお花を供える人が居るようです。
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東大では夏目漱石、安倍能成、阿部次郎、岩波茂雄、九鬼周造らが教えを受けた。人格者で多くの学生に慕われた。漱石の随筆に「ケーベル先生」がある。
「ケーベル先生」の中から:
文科大学(今で言う東大文学部)へ行って、此処で一番人格の高い教授は誰だと聞いたら、百人の学生が九十人までは、数ある日本の教授の名を口にする前に、まずフォン・ケーベルと答えるであろう。
音楽学校では滝廉太郎、幸田延(幸田露伴の妹)、橘糸重の才能を見出した。 -
森田草平。作家、翻訳家。明治14~昭和24年(1881~1949)。岐阜出身。
東大英文科卒。文学を志し夏目漱石に師事する。平塚らいてうと那須塩原で心中未遂事件を引き起こし世間から糾弾されるが漱石が庇い、のちその経緯を「煤煙」として表し文壇にデビュー。漱石の第1の門下を自認しその私生活に問題もあったが漱石はことのほか草平を可愛がった。
漱石の主宰する朝日新聞の朝日文芸欄の実務を任されていた。のち法大教授も務める。現代小説には「煤煙」以外見るもの無く、翻訳、歴史小説に力を入れる。
「煤煙」、「細川ガラシャ夫人」、「吉良家の人々」。 -
園内。
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大町桂月。評論家、随筆家。明治2~大正14年(1869~1925)。土佐藩士の子。東大卒。
旅を愛し酒を愛し、格調高い美文で紀行文、随筆、史伝、評論など多彩な作品をものにした。
墓は晩年を過ごし亡くなった青森県蔦温泉にもある。
十和田、奥入瀬を愛した桂月。
「住まば日の本 遊ばは十和田 歩きゃ奥入瀬三里半」。 -
自然石の大町の墓。
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池田菊苗(いけだきくなえ)。科学者。元治元年~昭和11年(1864~1936)。京都出身。
東大卒。昆布からうまみの成分グルタミン酸ナトリウムを発見し、それが「味の素」として商品化された。のち東大教授。
ドイツ留学中一時ロンドンに立ちより夏目漱石の下宿に同宿している。漱石の「ロンドン留学日記」によると二人はその間文学、哲学、世界観、教育論、女性観など語り合っている。二人は理想美人とはどんなものかを語り、自分の妻がいかにそれと隔たっているかを認め大笑いしたことが書かれている。 -
窪田空穂。
近代日本を代表する歌人の一人。 -
窪田空穂(窪田うつぼ)。歌人、国文学者。明治10~昭和42年(1877~1967)。松本出身。
東京専門学校(今の早大)卒。与謝野鉄幹の「明星」に学生時代から投稿する。
雑誌記者を務めながら古典和歌集の造詣を深める。
早大教授、日本芸術院会員。「窪田空穂随筆集」がある。
歌集「まひる野」、「新古今和歌集評釈」。 -
霊園一帯は江戸時代は将軍の鷹狩場でした。
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成島柳北(なるしまりゅうほく)。旧幕臣、戯作者、随筆家、ジャーナリスト。天保8~明治17年(1837~1884)。
幕府では奥儒者、将軍侍講、外国奉行など。明治維新以降は新政府の誘いに”旧幕臣たるもの明治新政府に仕えず”と野に下り「天地間無用の人」と称した。
明治7年「朝野新聞」社長となり政府の言論弾圧を批判、投獄されている。文芸雑誌「花月新誌」を創刊し戯文や風刺で浅薄な文明開化を批判。花柳界に通じその実態を書にした。
向島の長命寺境内に鼻の書けた柳北の像があります。この墓もちょうど真ん中、偶然なのか故意なのか鼻の辺りが欠けています。
「柳橋新誌」、「新柳情譜」が代表作。 -
長命寺にある成島柳北の像。
顔の長い人で、成島柳北が馬に乗ったらその馬が柳北を見上げて驚いたそうです。芸者に「糸瓜(ヘチマ)さん」と呼ばれたそうです。 -
中村是公(なかむらぜこう、よしこと)。慶應3~昭和2年(1867~1927)。官僚、実業家、政治家。広島出身。
東大卒。大蔵省で後藤象二郎に見いだされる。後藤に引きたれられその後をおそい満鉄(南満州鉄道)、鉄道院総裁となる。関東大震災の翌年東京市長になり復興に務めた。 -
左中村是公。右夏目漱石。
夏目漱石とは大学予備門以来の親友でその交遊は終世続いた。
漱石は是公の満鉄総裁時代、その招きにより満州、朝鮮を旅行し「満韓ところどころ」を書いている。また漱石修善寺大患のときはかなりの金銭的援助もしている。漱石は朝日新聞とか出版社など利害関係のある所からの援助は断ったが親友からの援助は受けたようです。
是公は実業一本やりだったようで漱石はこう言っています。”是公は学生時代から文学には興味なく、おそらく私の本など1ページも読んだことは無いだろう”
官僚・実業家嫌いだった漱石ですが、学生時代からの友とは気が合ったようです。 -
東儀鉄笛(とうぎてってき)。雅楽家、作曲家、俳優。明治2~大正14年(1869~1925)。京都出身。
奈良時代から1300年続く雅楽の家柄。宮内省雅楽寮に勤めながら東京専門学校で坪内逍遥に学ぶ。後坪内逍遥の文芸協会に参加、俳優としてシェークスピア物で人気を博した。
東京音楽学校(今の芸大)で講師を務め、早稲田大学校歌「都の西北」は鉄笛の作曲。 -
花屋。
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綱島梁川(つなしまりょうせん)。宗教思想家、文芸評論家。明治6~明治40年(1873~1907)。岡山県高梁出身。
若くからキリスト教に入信、東京専門学校で坪内逍遥に師事、早稲田文学編集に携わる。キリスト教の立場からの倫理学、宗教思想を研究。晩年は結核に冒されながら病床で執筆を続けた。
著に「予が見神の実験」、「西洋倫理学史」、「病間録」。 -
武林無想庵。小説家、翻訳家。明治13~昭和37年(1880~1962)。札幌出身。
東大英文科に進み小山内薫らとともに同人誌を出したりするが中退。辻潤らと交わりダダイスムを実践、破滅的な生活と放浪を繰り返す。
延べ17年の滞欧生活をし、帰国後緑内障で隻眼となり不遇な晩年を過ごした。
父が武林無想庵の親友で幼いころ武林無想庵に可愛がられた山本夏彦が「無想庵物語」を書いている。
著に「むさうあん物語」、「コキュのなげき」。 -
武林無想庵の手跡。
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永井荷風。小説家、随筆家。明治12~昭和34年(1879~1959)。東京出身。号断腸亭主人。
エリート官僚、実業家の長男に生まれる。高等商業(今の一橋大学)中退。父への反発から実業に就かず文学を志し作家広津柳浪に入門、23歳の時「地獄の花」が森鴎外に賞賛された。歌舞伎の座付き作家、落語家の弟子などもやった。
24歳、父のコネで米、仏に渡り横浜正金銀行などに勤めたが続かずパリに遊ぶ。
帰朝後は新帰朝者としてもてはやされ、森鴎外、上田敏の推薦で慶応大学文学部教授になる。「三田文学」を創刊。教授の身分で狭斜の街に出入りし批判も浴びる。耽美派、反自然主義作家として重きをなす。 -
幸徳秋水の大逆事件など政府の圧政に反抗できない自分や文学界に嫌気をさし以後花柳小説、江戸文学の研究などに傾倒し、自らを戯作者におとしめ市井に隠遁、反時代的姿勢を貫いた。
戦後市川に隠棲し、毎日のように浅草の歓楽街に出かけ映画を見、ストリップ小屋の楽屋で踊り子たちと親しんだ。
昭和34年4月30日、市川の自宅で喀血し一人死んでいるのが発見された。多額の預金通帳、現金、不動産権利証などが散らばっていた。老いて孤独な荷風にはお金がただ一つの頼りだった。若いころ新帰朝者として一世を風靡した荷風の余りにも侘しい最期だった。
荷風は生前自分の墓を三ノ輪にある遊女の投込み寺「浄閑寺」に望んでいたがそれはならず、遺族によりここ永井家の墓に葬られた。
代表作:「あめりか物語」、「ふらんす物語」、「夢の女」、「すみだ川」、「日和下駄」、「腕くらべ」、「墨東綺譚」、「断腸亭日乗」、「春情鳩の街」、「つゆのあとさき」。 -
小泉八雲、夫人セツ。
小泉八雲。英文学者、小説家、随筆家。1850~1904年(明治37年)。
本名ラフカディオ・ハーン。ギリシャ生まれのイギリス人。アメリカで新聞記者をしていて、明治23年来日、そのまま日本に帰化し小泉八雲と改名。
松江中学、熊本の第5高等学校、東大、最後は早大で英文学を教える。
かたわら妻節子の協力で日本の文化、民話・伝説を研究し欧米に日本文化を紹介するなど、日本の心を再発見した功績者。 -
夏目漱石が第5高等学校、東大で八雲の後をおそっている。
著作に「怪談」、「東の国より」、「日本人の微笑」、「知られざる日本の面影」等。
左に小さく小泉セツ(節子)の墓。明治元年~昭和7年(1868~1932)。
松江藩士の娘。小泉八雲と結婚。 -
安倍磯雄。元治2年~昭和24年(1865~1949)。福岡藩士の子。
社会運動家。キリスト教的人道主義から社会運動を進め、幸徳秋水、片山潜、木下尚江らと共に日本社会主義運動の先駆者。同志社で新島襄に学ぶ。
同志社、早大教授。
1901年早大野球部を創り学生野球の育成に勤め、「学生野球の父」と云われる。日本野球殿堂入り。
安倍磯雄が学生野球に求めたのはファインプレーの精神で、それは英国流紳士道と同意義であり、体位の向上と精神修養でした。現今のプロになり金を儲ける手段として野球に励む学生の姿と手放しで熱狂するフアン、メディアを見たらどう思うでしょう。 -
左:羽仁吉一、羽仁もと子。
右:羽仁五郎、羽仁説子。 -
羽仁五郎、説子。
羽仁五郎。マルクス主義歴史家、文明批評家、社会運動家。明治34~昭和58年(1901~1983)。桐生出身。
東大在学中にハイデルベルク大学に留学し哲学を学ぶ。帰国後東大卒。羽仁もと子の娘説子の女婿となる。戦前反ファシズム、反軍国主義を掲げ治安維持法違反で検挙されたこともある。戦後参議院議員。新左翼主義の理論的指導者として学生運動を支援。
「日本資本主義発展史講座」、「都市の理論」。
羽仁説子。教育評論家。羽仁吉一、羽仁もと子の娘。
女性運動、児童福祉の分野で活躍。 -
羽仁吉一、もと子。
羽仁吉一(はによしかず)。ジャーナリスト、教育家。明治13~昭和30年。
報知新聞編集長、高田新聞主筆。もと子と共に自由学園創立。
羽仁もと子。女性初のジャーナリスト、教育家。明治6~昭和32年。八戸出身。
巌本善治の明治女学校卒。キリスト教に入信。報知新聞社時代に羽仁吉一と結婚。羽仁吉一と共に明治36年「婦人の友」発刊、大正20年「自由学園」創立。
家計簿を考案、今も発行され続けている。 -
愚妻も愛用者です。
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大塚保治、大塚楠緒子。
大塚保治。文学博士、美学者、東大教授。明治元年~昭和6年(1869~1931)。
夏目漱石と東大時代親交を結ぶ。漱石の「吾輩は猫である」の美学者迷亭のモデルといわれる。
一般に有名なのは妻の方で、大塚楠緒子(くすおこ、なおこ)の夫と云われることが多い。 -
大塚楠緒子(くすおこ、なおこ)。明治8~明治43年(1875~1910)。
小説家、歌人。本名久寿雄。
才色兼備の女流作家、歌人として与謝野晶子と並び称された。文学を夏目漱石、歌を佐々木信綱に学ぶ。
厭戦歌「お百度詣」は与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」」とともに有名。
”ひとあし踏みて夫(つま)思ひ ふたあし国を思へども 三足ふたたび夫おもふ 女心に咎(とが)ありや
(中略)
かくて御国(みくに)と我夫と いづれ重しととはれなば ただ答えずに泣かんのみ お百度まうでああ咎ありや”
国中が軍国主義で沸く日露戦争の真っただ中、よくぞこのような歌を詠ったものです。35歳にして病で亡くなる。
後日記:大塚楠緒子の作品はなかなかお目にかかれませんが、最近作品集が出版社「未知谷」から発刊され、早速買い求めました。2021.9.10. -
大塚楠緒子は夏目漱石の秘めたる恋人ではなかったか、と云われます。楠緒子の死に際し漱石は句を手向けています。
”ある程の 菊投げ入れよ 棺の中”
また小説「虞美人草」の小夜子のモデルとも言われています。「硝子戸の中」には楠緒子のことを書いています。
「硝子戸の中」から:
”日蔭町の寄席の前まで来た私(漱石)は、突然一台の幌車に出合った。・・・・。私は遠くから其中に乗っている人の女だという事に気がついた。・・・・。
私の眼には其白い顔が大変美しく映った。私は雨の中を歩きながらじっと其の人の姿に見惚れていた。・・・・。すると俥が私の一間ばかり前へ来た時、突然私の見ていた美しい人が、丁寧な会釈を私にして通り過ぎた。
私は微笑に伴うその挨拶と共に、相手が、大塚楠緒さんであった事に、始めて気が付いた。”
楠緒子は漱石の斡旋で朝日新聞に小説「空薫(そらだき)」を連載しています。
長谷川時雨は楠緒子を「やや面長な顔立ち、ぱっちりと見張った張りのある一重瞼。爽やかなのも、凛としておいでなのも・・・」と評し、相馬黒光女史は「ほっそりとして垢ぬけした美人で何から何まで粋づくり、・・・女ながらも振るひつきたいやうに感じたものです」と述べています。ああ佳人薄命。 -
東条英機。明治17~昭和23年。
無謀な大東亜戦争を引き起こし何百万の日本人を死に追いやった大日本帝国の指導者。巣鴨プリズンで処刑されたA級戦犯7人の遺体は密かに横浜の久保山斎場に運ばれ火葬されました。遺骨は米軍により洋上散布されたといい、遺族には引き渡されませんでした。遺骨が軍国主義者に利用されるのを懸念してのようです。
ここには載せたくないのですが負の著名人として。
しかし東条は今の平和日本の恩人です。この敗戦により日本は曲りなりにも主権在民の民主国家になったのですから、東条はその大功績者です。東条閣下、多くの国民の犠牲の上に日本を民主国家にしてくださったその慧眼に感謝します。
生きた時代こそ異なれ、反戦を詠った歌人と軍国主義者がおなじ墓地の近くで眠っているとは。 -
泉鏡花。
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泉鏡花。明治6~昭和14年(1873~1939)。金沢出身。
本名鏡太郎。小説家、戯曲作家。
尾崎紅葉の玄関番としてスタート、明治、大正、昭和と息の長い文士生活を送った。浪漫主義作家で怪奇趣味と耽美、幻想的な小説、戯曲を得意とした。徳田秋声、小栗風葉、柳川春葉と共に紅葉門下の四天王。
「滝の白糸」、「照葉狂言」、「外科室」、「湯島詣」、「婦系図」、「高野聖」、「歌行燈」など。
墓碑は笹川臨風。 -
大川橋蔵。時代劇俳優。昭和4~昭和59(1929~1984年)。
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荻野吟子(おぎのぎんこ)。女医、婦人解放運動家。嘉永4年~大正2年(1851~1913)。
埼玉県熊谷出身。
当時女医の居なかった時代、自身婦人病の診察を受けた屈辱から女性の医者の必要性を強く感じる。東京女子師範学校(お茶の水女子大の前身)の一期生となり首席で卒業。日本初の国家資格を持つ女医となった。 -
キリスト教に入信し廃娼運動にも努力した。
明治18年湯島に産婦人科開業。明治41年今の向島に開業、そこで亡くなる。
先日向島を歩いた時隅田公園の側にあるその跡を見てきました。 -
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荻野吟子。
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左:三世市川左団次。明治31~昭和44(1898~1969年)。歌舞伎役者。本名荒川清。
右:市川門之助。文久2~大正3(1862~1914年。歌舞伎役者。 -
霊園内中央通り。
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谷中霊園とちがって明るい広々とした霊園です。
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夏目漱石、同夫人鏡子の墓。
夏目漱石。慶應3~大正5年(1867~1916)。小説家、英文学者。
明治、大正の文豪。文学博士を拒否し、一高・東大教授の座をなげうち、宰相西園寺公望の文芸懇話会の誘いにも乗らず野の人夏目金之助として生きる。
西園寺公の招待に葉書で応えた断りの句。
”時鳥 厠なかばに 出かねたり”(ほととぎす かわやなかばに でかねたり)。
ほかの招待された文士たちがきっきゅうじょとして伺候したのに対し、漱石の態度は痛快ではありませんか。辞退したのはほかに坪内逍遥、二葉亭四迷がいた。政治家の息がかかっては文芸に限らず芸術は発展しません。
明治44年、文部省が「文芸委員会」なるものを設けて文藝の振興(その実は統制)を図ったときも漱石は、「一国の文芸が官憲の力で興隆したりはしない。」と反対している。委員には森鴎外、幸田露伴、上田敏、上田万年など優等生が選出されたが、案の定委員会は1年で消えてしまった。 -
私が残念なのはこの立派なお墓。他の文人たちの簡素な墓に比べなんと仰々しく尊大であることか。
たとえば森鴎外の「森林太郎墓」、永井荷風の「永井荷風墓」ただそれだけの墓碑、しかもただ一本の墓石のみ。
たしかに鴎外は医者だけに自分の死期を知り、死の数日前に「墓は森林太郎墓の外一字もほるべからず」と言い残している。
一方漱石は突然の喀血でほとんど意識を戻すことなく亡くなった。自分の墓や死後のことを云々する時間はなかった。 -
したがってこの墓は決して漱石の意思ではない。あらゆる栄典・栄職を断った漱石がこんな仰々しい墓を望むはずがない。
半藤一利氏(漱石の長女筆子の娘婿)の著にこんな一節がある。
”漱石の水彩画に「わが墓」と題した淡彩画がある。近景にミカン山とおぼしい花のみちあふれる丘、中景に松の樹三幹、その木の見おろしに海がひらけ、水平線に三つの峰を持つ山が遠望された。丘の上に、薄墨色にぼかされた石標が立ち、そこには梵字風のK,Nと読める文字が墨書されていた。”
K,Nは夏目金之助(漱石の本名)の頭文字を取ったのでしょう。
これこそが自分の墓として漱石が思い描いていたものに違いありません。 -
漱石の水彩画「わが墓」。明治36年。
漱石熊本五高時に訪れて「草枕」の舞台となった小天温泉の蜜柑山からの風景と思われる。海は有明海、山は雲仙岳。
ロンドン留学から帰り、一高、東大講師を務め、神経衰弱に悩まされていたころです。死をも予感していたのでしょうか。 -
森鴎外は賀古鶴所、青山胤通、小金井良精など同年配の良識ある大人の知人を持っていた。一方漱石の周りを囲む弟子たちはもっと若い(大人になりきれていない)小宮豊隆、森田草平、鈴木三重吉などであったことにもよると思う。
漱石の句に 「菫ほどな 小さき人に 生まれたし」というのがあります。
漱石は天国でこの墓を見て苦い顔をしていることでしょう。「文献院古道漱石居士」と仰々しく墓石に彫っているのも気に食いません。戒名は親友菅虎雄の揮毫。 -
大正五年一二月九日没 俗名夏目金之助。
昭和三十八年四月十八日没 俗名夏目キヨ
明治四十四年十一月二九日没 俗名夏目ひな子 夏目金之助五女
一歳八か月で亡くなっています。
鏡子夫人(キヨ)は満85歳と長生きされました。
漱石はその小説「こころ」で、先生が若いころ友人の恋人を奪い、そのせいで友人は自殺する。先生は生涯その罪悪感に悩み、その墓のある雑司ヶ谷墓地を月命日に必ず訪れる筋立てをしています。雑司ヶ谷墓地は漱石にとって深い繋がりがあるのです。 -
竹久夢二。画家、詩人。明治17~昭和9年(1884~1934)。岡山出身。
大正ロマンを代表する画家。独学で絵を学んだが大きな瞳に愁いをたたえた「夢二式美人」は明治末から大正初期にかけて一世を風靡した。
本格的な絵画では名を残さなかったが、抒情的な女性像、本や雑誌の装丁、絵葉書、千代紙、広告、また詩とか童謡の作詞など多彩な分野で活躍した。 -
昭和6年勉強のため欧米へ渡るがあまり成功せず、結核を得て帰国、信州「富士見高原療養所」で死去。
女性関係は多彩で、岸たまき(唯一の正妻)、笠井彦乃、お葉(黒船屋のモデルと云われる)、山田順子らと同棲・離別を繰り返す。
高等下宿本郷菊富士ホテルに住んでいたことがある。 -
”竹久夢二を埋む”の字は友人有島生馬(画家。有島武郎の弟)。
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宵待草。
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黒船屋。
こんな絵を描いた夢二が50歳まで長生き?していたとは、ちょっと幻滅。 -
絵葉書。
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柏井園(かしわいえん)。キリスト教神学者、伝道者。明治3~大正9年(1870~1920)。高知出身。
同志社に学び植村正久、内村鑑三らとともにキリスト教普及、伝道師養成、神学教育に努める。 -
15世市村羽左衛門。歌舞伎役者。明治7~昭和20年(1874~1945)。
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6世尾上梅幸。歌舞伎役者。明治3~昭和9年(1870~1934)。
女形の名優。 -
島村抱月。文芸評論家、劇作家、演出家。島根県浜田出身。
苦学して東京専門学校(早大)を卒業、坪内逍遥に師事。欧州に留学後早大教授。美学・文学史を講じ「早稲田文学」主宰、自然主義文学の理論的指導者となる。明治39年、坪内逍遥と共に文芸協会設立。
広い墓域です。丸い自然石には抱月の芸術論が自筆を拡大して彫られている。 -
大正2年、女優松井須磨子との不倫問題が発覚、ともに文芸協会を退会し「芸術座」を結成。イプセン、ハウプトマン、メーテルリンクなどの西洋近代劇を翻訳上演。トルストイの小説を基にした「復活」で松井須磨子の歌う「カチューシャの唄」が大ヒットした。
大正7年11月スペイン風邪がもとで急逝、2か月後の大正8年1月松井須磨子は後を追って自殺した。 -
松井須磨子。新劇女優。明治19~大正8年(1886~1919)。
抱月の死に駆けつけた須磨子は遺骸に抱きついて泣き伏したという。 -
大井憲太郎。社会運動家、政治家、弁護士。天保14~大正11(1843~1922年)。大分県宇佐出身。
板垣退助らと共に明治初期の自由民権運動の先駆者。普通選挙運動実現に尽力。 -
村山槐多(むらやまかいた)。洋画家、詩人。明治29~大正8年(1896~1919)。岡崎出身。
大正洋画界の異才と云われたが失恋と放浪の生活を続け22歳で夭逝。
京都府立一中卒。日本美術院研究生となる。二科展、日本美術院展に毎年のように入賞、将来を嘱望されたが結核で急逝した。僅か5年足らずの画家生活だった。
画家山本鼎は従兄。
遺稿集として詩集「槐多の歌える」。 -
槐多墓。
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自画像。
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庭園の少女
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岩野泡鳴。小説家、評論家、ジャーナリスト。明治6~大正9(1873~1920年)。洲本出身。
浪漫主義詩人、自然主義作家として頭角を現すが神秘的半獣主義を唱え、田山花袋、島崎藤村とは異質の作家だった。樺太で蟹缶工場を起こすが失敗。
女性関係にだらしなく、スキャンダル多く、最後の妻岩野清子(遠藤清子、青鞜社社員)には離婚訴訟を起こされ敗訴している。なかなか行動力があり、自分の本が発禁になると時の総理大臣西園寺公望に直訴している。題して「文芸の発売禁止に関する建白書」。
代表作:耽溺、神秘的半獣主義、放浪、毒薬を飲む女。 -
安藤鶴夫。明治41~昭和44年(1908~1969)。浅草生まれ。
本名花島鶴夫、アンツルさんのニックネーム。演劇評論家、小説家。
法大卒。都新聞で演芸面で活躍、戦後寄席評論家。歌舞伎、文楽、落語など古典芸能に精通。
「巷談本牧亭」で直木賞受賞。 -
中濱万次郎(ジョン万次郎)。なんと言ったらよいか、生まれは漁師、幕臣、語学者、通訳。文政10~明治31年(1827~1898)。土佐出身。
15歳の時漁中に船が転覆、アメリカの捕鯨船に拾われそのまま米国へ。船長の好意で大学にも進み、英語、数学、測量術、造船術などを学び優秀だったという。1852年11年ぶりに帰国、おりから黒船来航の時幕府に召しだされ旗本になる。
幕府で造船、航海術を指導。後に明治時代に活躍する後藤象二郎、岩崎弥太郎、箕作麟祥、大鳥圭介も英語を教わった。 -
中濱万次郎。
万延元年(1860年)、日米修好通商条約批准のため勝海舟と共に咸臨丸で渡米。明治2年には開成学校(後の東大)英語教授になる。
万次郎が持ち帰った海外の知識は坂本竜馬など幕末の志士たちにも影響を与えたと云われる。 -
東郷青児。洋画家。明治30~昭和53年(1897~1978)。鹿児島出身。
滑らかな線の甘美で幻想的な女性像を得意とした。有島生馬に師事し、フランス留学後二科会会員、のち会長。日本芸術院会員。
宇野千代ほか女性関係多かった。 -
池袋の高層ビルをバックに雑司ヶ谷霊園。
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花屋。
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雑司ヶ谷霊園を後にして護国寺に回りました。
その前に護国寺の門前の蕎麦屋で遅い昼にしました。 -
霊園を歩き回った上に暑くなったのでビールが美味しい。
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量の多いそば。
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日大豊山高校があります。
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護国寺仁王門。
表門です。 -
仁王門を潜った所。
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護国寺。
真言宗豊山派大本山。天和元年/1681年、5代将軍徳川綱吉が生母桂昌院のために建立。徳川幕府の礼願寺。元は幕府の雑司ヶ谷薬園の地。
山懸有朋他日本を富国強兵、軍国主義にに駆り立てた明治の元老が葬られており、私は嫌いな寺です。 -
桂昌院は幼名玉、京都の八百屋の娘だった。幼い頃父に連れられ都大路を歩いていた時、一人の僧(亮賢)からこの娘は将来貴顕の位に昇る相がある、と云われた。
後にお玉はどういうつてか徳川三代将軍家光の側室お方の方の腰元になり、やがて家光の手が付き後の五代将軍綱吉を生む。僧亮賢の予言は的中したのです。玉の輿の語源がこのことに由来するのかは知りません。 -
綱吉の生母となった桂昌院(お玉)は僧亮賢を召し出し厚遇し、綱吉に迫り自分の祈願寺として護国寺を建立させる。さらに桂昌院は亮賢の連れてきた祈祷僧隆光の妖言を信じ、綱吉に天下の悪法といわれた「生類憐みの令」を発布させた。
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水屋。
天水桶の水を撒いてはいけない、ボウフラが死ぬから。高い木の枝を切ってはいけない、鳥の巣が落ちるから。ほっぺたの蚊をうっかり叩いて遠島に処せられる。吹き矢で雀を殺した子供が斬首刑になる。
綱吉が死んで悪法が廃止になった時の人々の喜びは如何ばかりだったろうか。 -
石段左右のつつじが咲き始めています。
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不老門。
昭和13年。 -
不老門から振り返る。
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不老門を潜ると正面に本堂があります。
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大仏。
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本堂(観音堂)の大伽藍。
元禄10年(1697年)建立。国指定重要文化財。 -
明治39年頃の護国寺。
山本松谷:新選東京名所図会より。
手前に山門(仁王門)、奥に本堂。石段の右に大仏もいます。 -
手入れの行きとどいた綺麗な境内です。
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多宝塔。
昭和13年。 -
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本堂。
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薬師堂。
元禄4年(1691年)。 -
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霊廟。
平成8年。 -
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大隈重信墓所。
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大隈重信。
政治家、教育家。天保9~大正11年(1838~1922)。佐賀藩士の生まれ。2度の内閣総理大臣。
東京専門学校(今の早稲田大学)創設者。 -
三条実美墓所。
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三条実美(さんじょうさねとみ)。
公卿、政治家。天保8~明治24年(1837~1891)。
幕末時尊王攘夷派の公家として活躍。 -
護国寺墓地。
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大倉喜八郎。天保9~昭和3年(1837~1928)。
政商。大倉財閥創始者。新発田出身。
幕末の鉄砲商に始まり明治新政府の軍に取り入り御用達になる。その後実業界の大立者になり今に残る多くの企業を設立。 -
山懸有朋(やまがたありとも)墓所。
扉は固く閉ざされていて入れません。 -
山懸有朋墓所。
軍人、政治家。天保9~大正11年(1838~1922)。長州出身。
明治の元勲として死の直前まで軍、政界に隠然たる勢力を振るったが国民には人気が無かった。相前後して亡くなった大隈重信の葬儀には多数の市民が弔問したのにたいし、山懸有朋の葬儀は物々しかったが一般人の姿は少なく寂しいものだったという。 -
墓標がちょっとだけ覗いています。
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南部の殿様の墓のようです。
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公爵山懸家累代の墓。
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平田東助(ひらたとうすけ)。官僚、政治家。米沢出身。嘉永2~大正14(1849~1925)。
桂内閣の内務大臣時代に大逆事件を指揮し幸徳秋水らを死刑に追いやる。また神社合祀を強力に推し進めた。神社合祀は南方熊楠や柳田國男など知識人の反対を受けたが、多くの日本各地の祭礼習俗が消えていった。山懸有朋の側近。
他にも明治政府の要人の墓がありましたが嫌いなので止めます。 -
ほのぼのとした墓を見つけてホッとしました。
銀座コージーコーナーの創設者、小川啓三・幸子の墓。 -
護国寺の墓地は徳川家の祈願寺だけあって、庶民の雑司ヶ谷や谷中の霊園とちがい偉い政治家や富豪の立派な墓が多く、私の好みではありません。
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鐘楼。
江戸時代中期。 -
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大師堂。
旧薬師堂。元禄14年(1701)。 -
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一言地蔵。
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一言だけ願うと叶えてくれるがそれ以上欲張ると叶えてくれないそうです。
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一言地蔵と鐘楼。
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不昧軒。
茶室のようです。 -
六地蔵。
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海沼実(かいぬまみのる)作詞作曲の童謡「からすの赤ちゃん」の歌碑がありました。
海沼実。童謡作曲家。明治42~昭和46年(1909~1971)。
戦前戦後を通じ多くの童謡を作曲。昭和8年に護国寺近くに「音羽ゆりかご会」設立。
代表作に「お猿のかごや」、「あの子はたあれ」、「めだかの幼稚園」、「里の秋」、「みかんの花咲く丘」。
この歌碑は昭和48年、海沼の三回忌に音羽ゆりかご会が建立したものです。 -
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護国寺前。
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これで帰ります。
護国寺から池袋に出て湘南新宿ラインで。
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