2017/09/30 - 2017/09/30
48位(同エリア353件中)
ベームさん
青山霊園掃苔記1の続きです。
前回1日では回りきれずかなり見残したので一週間ほどして改めて出かけました。天気予報では終日秋晴れとなっていましたが雲のあるやや寒い一日でした。
今回は青山霊園から表参道までです。
写真は岡本太郎美術館の太陽の塔。
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今日は地下鉄銀座線青山Ⅰ丁目駅で下車しました。
霊園管理事務所前の道路。区道なので結構車が通ります。
2回目なので墓を探す要領は呑み込めています。 -
河合栄治郎。社会思想家、経済学者。1891(明治24)~1944(昭和19)年。東京出。
東大法卒、銀時計組の秀才だった。農商務省に務めるも労働運動政策で意見が合わず退官。イギリス留学後東大教授、社会思想史を研究。門下に大河内一男(のち東大総長)、安井琢磨など。自由主義、社会主義の立場からマルクス主義、ファシズムともに批判。2・26、5・15事件で軍部を痛烈に批判した。
1930年代、台頭する軍国主義批判を続けたため右翼、ファシズム勢力は河合教授排斥活動を強め、著書の発禁処分、ついには教授休職にまで持ち込んだ。河合は出版法違反で起訴され有罪となる。いわゆる河合栄治郎事件、右翼・軍部勢力による思想弾圧事件です。
著「学生叢書」シリーズ、「学生に与う」は私らの学生時代の必読の書でした。 -
服部撫松(ぶしょう)本名誠一。作家、ジャーナリスト。1841~1908(明治41)年。福島、二本松出。二本松藩の儒官の子に生まれる。
江戸で藩校の教官を務め、廃藩置県後著述活動を始める。明治7年、文明開化の世相を描いた「東京新繁昌記」は福沢諭吉の「西洋事情」とならぶベストセラーとなった。明治9年、週刊「東京新誌」を発刊、戯文、人情小説、著名人の艶聞、政治風刺で人気を集める。その後も「江湖新報」など幾つもの政治新聞を発刊、発禁処分を繰り返す。晩年は仙台の中学校で作文、漢文を教える、教え子に吉野作造がいた。妾を「権妻(ごんさい)」と名付けたのは撫松。
フリー・ジャーナリストの徳光和夫は曾孫。
今でも花を手向ける人があると見えて、枯れてはいたが、花が供えられている。 -
藤村家、藤村操(みさお)。旧制第一高等学校生。1886(明治19)~1903(明治36)年。北海道出。
明治36年5月22日、日光華厳の滝に投身自殺をした。満16歳。滝口のナラの木を削って辞世「巌頭之感(がんとうのかん)」が彫られていた。厭世観、立身出世主義を厭うエリート学生の死は大きな反響を呼び、真似て華厳の滝で投身するものが続出する。爾来自殺の名所となった。記録では事後4年間で185名とある。
自殺の数日前、夏目漱石は英文学の授業でいつも予習をしてこない藤村を、もう講義に出てこなくてよい、と叱責した。自殺の原因がそこにあるのではないかと漱石は悩んだという。
藤村家は名家で、操の父は北海道、屯田銀行頭取。叔父は歴史学者で文学博士那珂通世、妹はのち安倍能成夫人。 -
藤村操君絶命辞。少し長いけど全文載せます。
巌頭之感
"悠々たる哉(かな)天壌、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て此大をはからむとする。ホレーショの哲学竟(つい)に何等のオーソリチーを価するものぞ、万有の真相は唯(ただ)一言にして悉(つく)す。曰く「不可解」。我この恨みを懐(だ)いて煩悶終(つい)に死を決するに至る。
既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。始めて知る、大なる悲観は大なる楽観に一致するを。"
学生がこの文を大声で高唱し街を闊歩するのがはやったそうです。 -
ナラの木に彫られた巌頭之感。
木の側には大きなナイフ、硯と墨、毛筆があったそうです。
叔父那珂通世(なかみちよ)は記してこう嘆いています。
「かくて身丈五尺五寸余、眉目清秀にして、頬に微紅を帯び平生孝子にして、一家の幸福の中心と思われし未来多望の好少年は去って返らず、消えて痕なし、嗚呼哀しいかな」。
消えて痕なし、とありますが遺体は40日後に発見されました。 -
大鳥圭介。旧幕臣、軍人、官僚。1833~1911(明治44)年。播州赤穂出。
緒方洪庵の適塾で蘭学と西洋医学を学ぶ。江戸ではジョン・万次郎に英語を学ぶ。幕臣に取り立てられ、幕末には官軍に対し徹底抗戦を主張、榎本武揚らと函館五稜郭に籠り降服、投獄される。明治5年特赦になり明治新政府に出仕、軍事畠で技術官僚の最高位に昇る。のち外交官に転じ、清国公使、朝鮮公使、枢密院顧問官。 -
松岡洋右。外交官、政治家。1880(明治13)~1946(昭和21)年。山口、光市出。
1933(昭和8)年、ジュネーヴでの国際連盟会議で日本が連盟脱退したときの首席全権。1940年近衛内閣で外務大臣となり、日独伊三国同盟、日ソ中立条約締結。陸相東条と外相松岡で大東亜戦争に突き進んだ。
対米強硬論者。敗戦後A級戦犯になるも裁判中に病死。 -
野口寧斎(ねいさい)、通称一太郎。漢詩人。1867(慶應3)~1905(明治38)年。諫早出。
森春濤、森槐南に漢詩を学ぶ。明治20年代には東京漢詩壇の中心で漢詩中興の祖といわれ、乃木希典、森鴎外も学んだという。
難病にかかり38歳で病死したとされたが、義弟野口勇三郎に殺害されたという噂が流れ裁判になる。勇三郎は証拠不十分で無罪となったが別の殺人容疑で死刑となった。 -
寧斎の墓は木の枝に覆われ見捨てられた状態で、なかなか見つかりませんでした。墓石にかろうじてその名を読み取ることが出来ました。墓を守る人はもういないのでしょうか。
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上野英三郎と忠犬ハチ公。
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上野英三郎。農学博士、東大教授。1872(明治5)~1925(大正14)年。三重県、津出。
日本の農業土木、農業工学の創始者。
ハチ公の飼い主。 -
忠犬ハチ公。1923(大正12)~1935年(昭和10)。秋田犬。
飼い主上野英三郎の出勤時に渋谷駅までよく付いていった。1925年の英三郎の死(その間1年ちょっとだった)後もハチ公は渋谷駅に飼い主の帰りを待ち続けた。1935年3月のある日、ハチ公の遺体が渋谷駅近くの路上で発見された。その葬儀は盛大なものだったという。 -
内藤鳴雪。松山藩士、官僚、俳人。1847~1926(大正15)年。
松山藩士の後東京で昌平黌に学ぶ。松山に戻り県の教育改革に従事、のち文部省で教育行政に功をあげる。退官後旧藩主久松家が東京に造った松山出身の子弟寮「常磐会」の監督。寮生の中に正岡子規、河東碧梧桐らがいた。
45歳にして正岡子規に師事し句作を始める。万朝報、読売新聞他新聞の投句欄の選者を務める。子規亡き後日本派の長老となる。 -
佐藤義亮(よしすけ、ぎりょう)。出版人。1878(明治11)~1951(昭和26)年。秋田出。
今に繋がる新潮社の創立者。明治29年新声社設立、失敗の後明治37年新潮社設立、雑誌新潮発行。多くの作家を育てた。 -
解放運動無名戦士墓。
社会運動、労働運動で倒れ、墓の無い活動家のために1935年藤森成吉らにより建立された。終戦までは国が鉄条網で囲い近づけなかったという。現在約4万4千人の霊が合葬されている。
私が名前を知っている人は女工哀史の作家細井和喜蔵、葉山嘉樹(作家)、藤森成吉(作家)、徳田球一(共産党書記長、衆院議員)、松本治一郎(部落解放同盟委員長、代議士)、瀬長亀次郎(那覇市長、衆院議員)など。 -
中上川彦次郎(なかみがわひこじろう)。官僚、実業家。1854~1901(明治34)年。大分、中津出。
慶応卒。井上馨の知己を得外務省に入り栄進。井上に請われて三井合名に入り危機に瀕していた三井銀行を立て直し、三井中興の祖と云われる。三井合名理事長。
母は福沢諭吉の姉。 -
落合直文。歌人、国文学者。1861~1903(明治36)年。気仙沼出。
伊勢の神宮教院、東大古典講習科に学び国文学者の道を進む。皇典講究所、一高などで教師を務める傍ら歌作の文筆活動を続ける。明治22年、森鴎外らと新声社設立、訳詩集「於面影」発行。短歌の革新のため明治26年浅香社設立、与謝野鉄幹、尾上紫舟、金子薫園などを育てた。
新体詩の名作に「桜井の訣別」、「孝女白菊の歌」。 -
丸岡九華(きゅうか)。詩人、小説家、実業家。1865~1927(昭和2)年。東京出。
東京高商(現一橋大学)時代に尾崎紅葉、山田美妙、石橋思案らと硯友社創立時のメンバー。
高商卒後文筆を棄て実業界に転じた。 -
河合武雄。女形俳優。1877(明治10)~1942(昭和17)年。東京出。
明治中期から昭和初期まで、新派の名女形として活躍。伊井蓉峰、高田実、喜多村緑郎らと新派全盛時代を築く。 -
中勘助。作家、詩人。1885(明治18)~1965(昭和40)年。東京出。
一高、東大を通じ夏目漱石に教わった。漱石山房に集まる門下生の一人。
漱石の薦めで東京朝日新聞に自伝的小説「銀の匙」を発表、文壇に認められる。
ほかに「堤婆達多(ていばだった)」など。 -
左から3つ目、中勘助。
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片山潜。労働運動家。1859~1933(昭和8)年。岡山出。
日本の労働運動の先駆者。最初の労働組合設立に寄与。
明治17年25歳の時渡米、皿洗いなど苦学しながらエール大学卒業、キリスト教に入信。12年後の明治29年帰国。神田にキリスト教社会事業の拠点「キングスレー館」設立。同時に労働運動に邁進する。 -
東京市電ストライキ事件でストを指導したとして投獄される。大正3年、国の社会主義運動、労働組合運動にたいする弾圧が強まる中アメリカに亡命。その地で共産主義活動を行う。大正10年ソビエトに渡り、国際プロレタリア活動、反戦活動を推進、日本共産党結党も指導した。
日本に帰らぬまま昭和8年モスクワで死去。遺骨はクレムリン宮殿の壁に埋葬された。 -
高峰譲吉。科学者、実業家。1854~1923(大正12)年。高岡出。
タカジアスターゼ、アドレナリンの発見者。三共の創業者。
黒部川の電源開発による日本初のアルミニウム製造を手掛け、黒部鉄道、黒部水力株式会社設立など黒部開発に力を注いだ。後半生はアメリカで過ごしニューヨークで死去。
タカジアスターゼは胃腸によいとのことで夏目漱石の愛用するところであったが、結局漱石は胃潰瘍で亡くなった。 -
河口慧海(えかい)。僧侶、仏教学者、探検家。1866(慶應2)~1945年(昭和20)。堺出。
黄檗宗の僧侶だったが日本に伝来する仏典の原典を求めて、日本人で初めてチベットに入った。
明治30年神戸を出航、インド、ネパールを経て艱難の末明治34年チベットのラサに到着。日本人と分ると危険なので中国人と偽っていた。明治36年、多くの梵語、チベット語の仏典を携え帰国。
帰国後は還俗し、大正大学教授、蔵和辞典の編纂に没頭した。
著に「西蔵旅行記」ほか。 -
宮田輝。アナウンサー、政治家。1921(大正10)~1990(平成2)年。
明大卒。NHK入社、高橋桂三と同期。NHK紅白歌合戦の司会を長年務めた。
退社後参議院議員3期。
河口慧海の墓域の中に建っています。輝夫人恵美さんが河口慧海の弟の娘だからでしょう。夫人は御存命のようです。 -
山本実彦。ジャーナリスト、実業家、政治家。1885(明治18)~1952(昭和27)年。川内市出。
改造社社長。
苦学の末幾つかの新聞記者をへて東京毎日新聞社長(今の毎日新聞とは関係なし)。大正8年改造社を設立し総合雑誌「改造」発刊。多彩な執筆陣を擁し滝田樗陰の「中央公論」と並び知識人の圧倒的支持を得た。当時の文壇事情を読むと、有・無名にかかわらず作家たちは両社からの執筆依頼を名誉としたそうです。
大正15年より全集物の先駆け「現代日本文学全集」を順次発刊、販売方法もいわゆる円本(一冊1円、全巻予約制、毎月1冊発行)で庶民でも買いやすく大ヒットした。全集に採択された作家は懐が潤ったそうです。その後円本ブームとなり、新潮社の「世界文学全集」など各出版社から全集物が続々発刊されました。
昭和5年衆議院議員、2期。 -
副島種臣。
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副島種臣。佐賀藩士、政治家。1828~1905(明治38)年。
幕末時は尊王攘夷派として活動。明治政府に重用され明治4年外務卿。明治6年征韓論争に敗れ下野、板垣退助らと行動を共にする。政界から離れ、宮中顧問官、枢密院顧問官など歴任。
書家として一流だった。 -
潮田千勢子(うしおだちせこ)。社会事業家。1844~1903(明治36)年。飯田藩医の娘として江戸に生まれる。
キリスト教受洗、夫の死後幼児教育、キリスト教伝道活動に従事。明治19年、矢島楫子、佐々木豊寿(国木田独歩の最初の妻信子の母)と共に東京婦人矯風会を設立、廃娼運動、女子授産所開設運動に取り組む。
明治34年古河鉱業足尾銅山鉱毒事件では被害者女子救済活動に尽力。千勢子を会長とする鉱毒地救済婦人会の発会式があり、その様子を訊いた足尾銅山社長古河市兵衛夫人が神田川に投身自殺するという出来事があった。 -
常陸丸殉難近衛後備隊将士之墓。
明治37年日露戦争中、玄界灘を航行中の兵員輸送船常陸丸がロシア・ウラジオ艦隊に撃沈され、1238名中1091名が戦死した事件。
国民はウラジオ艦隊を取り逃がした第2艦隊司令長官にごうごうたる非難の矢を浴びせた。 -
植木枝盛(えもり)。思想家、政治家。1857~1892(明治25)年。土佐藩士の子。
自由民権運動の理論的指導者。板垣退助の片腕として活躍。明治23年の第1回衆議院議員選挙で高知県から出馬、当選。欧米列強のアジア侵略を非難してアジア主義者でもあった。 -
西郷糸子。西郷隆盛の妻。1843~1922(大正11)年。
1865年22歳で隆盛と結婚。隆盛の3回目の妻だった。上野の西郷像の除幕式に参列し、鹿児島弁で「うちの夫はこんな人ではない」と云ったそうです。顔かたちでなく、犬を連れて浴衣姿でで歩くことは無かった、ということらしい。 -
西郷家奥津城。
中央糸子、その右寅太郎(隆盛と糸子の長男)。 -
高崎正風(まさかぜ)。薩摩藩士、官僚、歌人。1836~1913(大正2)年。
幕末時島津久光の元、志士として活動。明治新政府に仕えた後宮中に入り御歌掛、明治21年宮中御歌所所長となる。宮中顧問官、枢密顧問官歴任。
桂園派の歌人で、宮中御歌所を拠点に桂園派は歌界に絶大な勢力をふるっていた。正岡子規はこの旧派に反発し短歌革新運動を展開したのである。 -
高崎家。
宮中の高官の墓となると立派なものです。 -
松方正義。政治家、薩摩藩士。1835~1924(大正13)年。
明治の元老の一人。総理大臣を短期で瓦解するが2度務めている。財政通で明治15年、大蔵卿のとき日本銀行を設立。
松方コレクションの松方幸次郎は正義の子。 -
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大野酒竹(しゃちく)。医師、俳人。1872(明治5)~1913(大正2)年。熊本出。
東大医学部卒、医者としても高名。大野病院院長。
古俳句を研究、蒐集した古俳句関係の蔵書約4000冊は東大図書館に寄贈されている。 -
霊園中央を南北に走る区道。
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区道沿いにある外人墓地。
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外人墓地。
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外人墓地。
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外人墓地の一角に建つ浄世夫彦/ジョセフ・ヒコ/浜田彦蔵の墓。通訳、貿易商。日本最初の米国帰化人。1837~1897(明治30)年。兵庫、播磨出。
13歳の時乗っていた船が紀伊半島沖で難破し、アメリカ船に救われ米国に渡る。日本へ送還の試みもあったが果たせず米国に留まり、カトリックの洗礼を受け帰化しアメリカ国民となる。1859年22歳の時駐日公使ハリスの通訳として9年ぶりに日本に帰る。いちどアメリカに帰り1862年再度通訳として来日、横浜の外国人居留地に居住、通訳を辞め茶の輸出など貿易商を営む。1864年日本最初の新聞「海外新聞」発刊。木戸孝允、伊藤博文なども海外事情を聴くため訪れたという。
アメリカ国籍のため死後青山霊園の外国人墓地に葬られた。 -
国木田独歩。作家、詩人、ジャーナリスト。1871(明治4)~1908(明治41)年。銚子で生まれ山口で育つ。
田山花袋、島崎藤村とともに自然主義文学の先駆者といわれる。東京専門学校(現早稲田大学)中退。在学中から文学を志し雑誌に投稿。徳富蘇峰の国民新聞社に入り日清戦争に従軍記者として従軍、レポート「愛弟通信」は好評を博した。
浪漫的な人生観、自然観に基ずく抒情詩、短編小説を次々と発表、自身も「婦人画報」など雑誌を発刊、編集者としても活動したがどれもうまく行かなかった。
結核を患い、38歳で茅ヶ崎、南湖院で死去。生涯貧困に苦しみ、その文学的評価も死後ようやく高まった。
抒情詩の一句:山林に自由存す われ此の句を吟じて 血のわくのを覚えゆ
代表作に:武蔵野、源叔父、牛肉と馬鈴薯、空知川の岸辺、日記「欺かざるの記」、独歩吟など。
婦人運動家佐々城豊壽の娘信子と熱烈結婚したが、あまりの貧困生活に信子に逃げられている。その信子のその後の奔放な生活を有島武郎が「或る女」に描いている。
墓の字は徳富蘇峰。独歩国木田哲夫之墓。 -
青山霊園から陸橋を渡ると青山霊園立山地区と云う霊園があります。
須藤南翆(なんすい)。小説家、ジャーナリスト。1857~1920(大正9)年。宇和島出。
新聞紙上での連載通俗小説、政治小説で饗庭篁村と並び称された。
新粧の佳人、痴人の夢など。 -
田中英光(ひでみつ)。作家。1913(大正2)~1949(昭和24)年。東京出。
無頼派とされる。太宰治に傾倒し師事する。太宰の自殺に衝撃を受け薬物中毒になり、その翌年太宰の墓前で自殺。
代表作「オリンポスの果実」。
これで青山霊園を後にしました。 -
立山霊園を出て表参道方面に向かいました。
道端の庚申塔、青山の庚申塔。 -
港区指定文化財。慶応元年/1865年のもののようです。
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地下鉄千代田線の通りに出て三菱レジデンスの所で渡り、路地を進むと王子グリーンヒルというマンションがあります。
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その一画に歌碑が建っています。
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童馬山房(どうばさんぼう)跡。童馬山房とは斎藤茂吉の号。
ここは斎藤茂吉の岳父斎藤紀一が明治40年青山脳病院を建てた所。4500坪の敷地だった。大正13年全焼し病院は世田谷の松原に再建され、青山の跡地には小さな診療所と茂吉一家の居宅が建てられた。茂吉の号をとって童馬山房と名付けた。
茂吉が紀一の後を継いで青山脳病院院長になったのは松原に移った後です。 -
あかあかと 一本の道とほりたり たまきはる我が命なりけり
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このあたり紀一が脳病院を建てたころは武蔵野の面影が残っていました。
青山の 町蔭の田の水さび田に しみじみとして雨ふりにけり
茂吉の息子北杜夫の小説「楡家の人々」にここを舞台にして斉藤一族の盛衰が描かれています。 -
千代田線の通りに戻り少し行くと大きな交差点根津美術館前があります。
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その角に立つ根津美術館。
実業家、東武鉄道社長だった初代根津嘉一郎(1860~1940年)が財力に物を言わして蒐集した日本、東洋の古美術品を保存、展示するためにつくられた。
約7400点の蒐集品には国宝7、重要文化財87、重要美術品94点が含まれる。 -
昭和16年、初代の遺志により2代目根津嘉一郎が財団を設立し開館。建物は戦災で焼失したが収蔵品は疎開して無事だった。昭和29年再建。今の建物は平成21年。
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青山は嘉一郎の号。
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根岸美術館から少し先の路地を入った所に岡本太郎美術館があります。
岡本太郎の住居・アトリエ跡に平成10年オープンしました。
入館料620円。 -
岡本太郎美術館。
岡本太郎:1911(明治44)~1996(平成8)年。
漫画家岡本一平、歌人・作家岡本かの子の長男。1970年(昭和45)の大阪万博のテーマ展示をプロデュース、太陽の塔を作成。 -
入口を入った所。
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1階。
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太郎さんが立っています。
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アトリエを再現。
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アトリエ。
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階下にはショップがあります。
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2階。
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椅子。
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これは2017年岡本現代芸術賞の岡本敏子賞を受賞した井原宏蕗(東京芸大院卒、1988年生)の作品、dieーdyeーred。
岡本敏子:岡本太郎の養女、実質妻だったとされる。 -
小さな庭にも作品がありフリーで見ることが出来ます。
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とてもユーモラスです。
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作者の意図は分かりませんが、見る人それぞれがどう感じるかでしょう。
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2階のベランダから恐竜の様な首が覗いています。
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太陽の塔でした。
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面白い美術館でした。
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大阪万博の太陽の塔。
1970年/昭和45年3月から9月まで、大阪の千里丘陵で開かれました。今から47年前、今の55歳以上の人でなければ覚えていないでしょう。東京オリンピックに続いてまだ珍しかった国際的催しに国民は沸きました。私は当時豊中に住んでいて2回見に行きました。
参加国76、総入場者数6400万人。入場料大人800円。 -
根岸美術館の方に戻って100mほど表参道方向に行ったところに青南小学校があります。
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俳人中村草田男の句碑が正門を入った左手に建っていました。
中村草田男(なかむらくさたお):1901(明治34)~1983(昭和58)年。同郷松山の俳人高浜虚子に師事、東大俳句会では水原秋桜子の指導を受ける。ホトトギス同人。
戦後は成蹊大教授、俳人協会初代会長、俳壇の中心的存在だった。
青南小学校は草田男の母校です。 -
降る雪や 明治は 遠くなりにけり
草田男が後年青南小学校を久々に訪ねた時の句といわれる。 -
表参道交差点に来ました。
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若者であふれ、わたしが日常触れる世界とは別の世界です。のびのびと自由に闊歩する若者たちを羨ましく思うとともに、これらの若者に日本の将来を託すのかと思うといささかの不安も覚えました。まあ老兵は消えていくのみ、老人のたわごとです。
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交差点の隅に秋葉神社があります。
秋葉神社は全国にありますが、殆どが火防、火伏の神を祀っています。 -
その奥に善光寺。
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長野の善光寺の別院となっています。
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繁華な表参道の静かな一画です。
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境内に高野長英の石碑があります。
江戸後期の医者、蘭学者。1804~1850年。
長崎でシーボルトに医学、蘭学を学ぶ。シーボルト事件では捕縛を免れたが1839年蛮社の獄で入牢。牢の火災で脱獄し姿かたちを変え逃亡を続けた。その間も各地の知人、大名の庇護のもと蘭書の翻訳を続ける。 -
今の南青山(善光寺の近辺)で町医者を開業中の1850年、露見し奉行所の捕り物の最中自殺したとも殺されたとも。
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表参道交差点から明治神宮駅方面に150mほど歩き、伊藤病院を右に曲がり、さらにフライング・タイガーを左にまがり50mほどに写真の様な建物があります。
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逗子に住んでいた徳富蘆花が明治33年から38年まで、再び逗子に移るまで住んでいた住居跡です。
徳富蘆花:明治の文豪。徳富蘇峰の弟。1868(明治元年)~1927(昭和2)年。水俣で生まれる。
1899年/明治32年発表した「不如帰」の大ヒットで一躍文壇の第一人者になった。キリスト教に帰依、トルストイに心酔しロシアまで逢いに行っている。
作に「みみずのたはごと」、「自然と人生」、「思出の記」、「灰燼」など。 -
ビルの陰に徳富蘆花住居跡の標識がポツンと建っていました。
ここに住んでいる間に「思出の記」、「黒潮」などを発表しています。 -
このあたりで急に脚に攣りが来ました。用意していた薬を飲んで脚の攣りを抑えながらの今回の散策を終わります。渋谷に出て湘南新宿ラインで帰りました。痛む足腰で電車に揺られて帰るのは辛いです。
著名人の墓を訪ねて、残るのは染井と多摩霊園か。
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