2017/10/19 - 2017/10/19
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ムッシュさん
新居宿を発ち、白須賀宿を抜ければ、いよいよ愛知県。長かった静岡県をやっと通過し、二川宿、吉田宿へと進む。
【白須賀宿】
もともと、潮見坂下の海岸沿いにあったが、宝永4年(1707年)の大地震による津波被害により、宿場の大半が流失し、翌年坂の上の今日の潮見坂上の台地に移転した。
須賀とは砂浜の意味。
編集中
- 旅行の満足度
- 5.0
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新居宿の西側の端ということを表す、
【棒鼻の跡碑】
ここより白須賀宿に向かって行く。
棒鼻跡の標石と説明板。新居宿の京方口で枡形状に土塁が築かれていた。
街道を南へ真っ直ぐ進む。宿の終わり、枡形を曲がったあたりに碑が立っている。棒鼻とは駕籠の棒先の意味。大名行列が宿場へ入るとき先頭を棒先で整えたのでこの場所を棒鼻と呼ぶようになったといわれる。
「ここは新居宿の西境で、一度に大勢の人が通行できないように土塁が突き出て枡形をなしていた。棒鼻とは、駕篭の棒先の意味があるが、大名行列が宿場へ入るとき、この場所で先頭(棒先)を整えたので、棒鼻と呼ぶようになったともいわれている。」 -
【明治天皇の御野立所跡碑】
*明治元年(1868年)九月二十日、京を発ち、10月一日ここで休息した。岩倉具視等を従えた明治天皇東幸の際、ここで休憩し野立(お茶)を行いました。
「明治元年(1868)9月20日、岩倉具視らを従え、東京へ行幸のため京都を出発した明治天皇が10月1日、豊橋から新居へ向かう際に休憩した所である。明治天皇は、その後、新居宿の飯田本陣に宿泊し、10月13日に東京に到着した。」 -
【火鎮神社】
白須賀宿の鎮守の社。徳川家康の崇敬が篤かった。
祭神は火之迦具土神、品陀和気命、応永年間(1394~)の津波、安永年間(1772~)の火災で古文書消失し、創建詳細は不明。さてこの先、元町という地名になるが、そこは津波で流される以前の白須賀宿があった場所で、津波後潮見坂の上の現在地へ移転した
御祭神 火之迦具土神・品陀和気命 徳川家康公
「由緒」 本神社は三座を祀り由緒正しき神社なりしが、応永以来海瀟及安永年間社家火災の為め、古文書が散失し由緒を詳に能はざるも 徳川家康の崇敬厚く除地壱町四方余、丸太船壱双の御墨附を賜り、地方一般の崇敬を蒐めて御隆盛を極む。 大正14年1月9日村社に列せられ同年同月14日神饌幣帛料供進神社に指定される。(説明板)
徳川家康公が負け戦で匿われた場所で、この神社の祭神の一人に家康公も祭られています。1707年の宝永地震の津波被害に遭わなかった場所でもあります。
また、祭神として祀られている火之迦具土神は火を護る神で、秋葉の火まつりや火防せの神社として名高い秋葉神社の祭神でもあります。 -
『火鎮神社(ほづめじんじゃ)』
・鎮座地 湖西市白須賀5942番地
・御祭神 火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)
品陀和気命(ほんだわけのみこと)
徳川家康公
・例祭日 十月十四日
・由 緒 本神社は三座を祀り、由緒正しき神社なりしが、応永年間(1394~1428)海瀟及安永年間(1772~81)社家火災の為め、古文書散失し、由緒を
詳に能はざるも、徳川家康の崇敬厚く、除地壱町四方余、丸太船壱双の御墨付きを賜り、地方一般の崇敬を蒐めて、御隆盛を極む。大正十四年一月九日村社に列せられ同年同月十四日神饌幣帛料供進社に指定せらる。 -
本堂
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【汐見坂】
長い急坂の汐見坂をほぼ上りきり、背後を見ると眼下に遠州灘、太平洋の海が見えます。超感動!感動!坂の長さは約6町、650mあります。
白須賀宿の東端にあるこの汐見坂は、街道一の景勝地として数々の浮世絵や和歌、道中記など東海道の名所として広く紹介されている。
西国から江戸への道程では、初めて太平洋や富士山の見える場所として、旅人の詩情をくすぐった地。広重も一帯の風景を描いた。 -
浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像
【東海道五拾三次の内 白須賀・潮見阪図 広重画】
潮見坂から太平洋を遠望の図。
*潮見坂の上り詰めに潮見坂公園がある。織田信長が武田勝頼を滅ぼして尾張に帰る時、徳川家康が茶亭を設けて、信長をもてなした所です。
*園内には明治元年(1868年)東幸の際に潮見坂上で休憩した明治天皇御遺蹟地記念碑や白須賀出身の国学者夏目甕麿(みかまろ)と息子の加納諸平(もろひら)、正直者の藤屋五平、義僕平八郎等の顕彰碑や忠魂碑が建つ。
*東海道で眺望随一と云われた汐見坂から駿河湾を望む場所で、大名行列が坂を下っているところを描いている。浜辺の三角はこの辺りで盛んだった地引網を干しているところ。
参勤交代は藩にとっては大変だが、日本の基礎ができたという利点があった。すなわち、完全武装の軍隊が年中動いているので治安が良くなったり、文化や言葉が均一に広がったことなどが上げられる。
行列の規模は、100万石で2500人~4000人。10万石で800人。1万石で37人位である。
潮見坂は、汐見坂・塩見坂・観潮坂とも書き、東海道屈指の景勝地として数々の紀行文などにその風景が記されています。西国から江戸への道程では、初めて太平洋の大海原や富士山をみることができる場所として古くから旅人の詩情をくすぐった地でした。永享四年(1432)には、富士遊覧に出かけた室町幕府六代将軍足利義教がこの地で休息をとり公卿の飛鳥井雅世らとともに歌会を開きました。
江戸時代には、浮世絵師の歌川広重も遠州灘を背景にその一帯風景を鮮やかに描いています。」 -
【おんやど白須賀(白須賀歴史拠点施設)】
津波の記録:1707年の津波は宿場を全滅させる深刻な被害をだした。
*白須賀の須賀は砂浜を意。元は元町の浜辺に宿場がありましたが、宝暦4年(1707)の大地震による津波で流失してしまい、翌年潮見坂上の現在地に移転。
*天保14年(1843年)の頃、白須賀宿の宿内家数は613軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠27軒で、宿内人口は2,704人でした。 -
東海道名所の汐見坂を行き交う庶民の旅模様を和紙人形で生き生きと表現してある。
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同上
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白須賀宿の海岸線(展示フォトより)。海岸線の元町は、津波で全壊の被害を受けたことから、現在の潮見坂の丘の上に、宿場が移動したとのこと。
海岸線の後ろが急な丘になっているの、昔から津波時の逃げ場になっていた。 -
白須賀を表現した浮世絵。
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汐見坂を上って、台地に開けた二川宿に入ります。
二川宿の町並み。歴史を感じさせる立派な造りの家屋。往時は旅籠であった。
【二川宿(ふたがわしゅく、ふたがわじゅく)】
東海道五十三次の33番目の宿場である。三河国最東端の宿場町である。征夷大将軍の天領であった。現在の愛知県豊橋市二川町と大岩町に相当する。 -
【妙泉寺】
黒印地二石を拝領し、大通行の際は休泊所となりました、
境内には十王院から移設された寛政10年(1798年)建立の「ほうろく灸加持」は、
芭蕉句碑
「あちさゐや 藪を小庭の 別坐敷」
があります。 -
白須賀宿
江戸時代後期の国学者・夏目甕麿(なつめみかまろ)の屋敷跡で、
加納諸平(かのうもろひら)の生誕地も白須賀宿でした
国学者・夏目甕麿(なつめみかまろ)は酒造を業とし傍ら内山真龍から国学を学び、本居宣長の門に名を連ね、国学の普及に努めました。 -
白須賀宿
*宝永四年(1707)の津波以前、この高台には加宿として境宿がありました。 -
二川宿の町並み。歴史を感じさせる立派な造りの家屋。往時の脇本陣あと。
白須賀宿には、本陣が一軒、脇本陣が一軒あった。本陣の規模は建坪183坪、畳敷231畳、板敷51畳と大きいものであった。 -
二川宿の町並み。歴史を感じさせる立派な造りの家屋。往時は旅籠であった。
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各家の玄関に暖簾あり。
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【商家、駒屋】
商家、駒屋さんの中庭の通路。奥に深ーい大きな家屋です。
旧東海道二川宿(現豊橋市二川町)の商家・駒屋を所有者の田村家から豊橋市が譲り受け、3年間の修復工事の上、2015年9月に文化交流施設としての活用が始まった。
駒屋は、米穀商、質屋を営むかたわら、問屋役や名主など役人を勤めた田村家の遺構。 -
商家『駒屋』の建造物
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商家、駒屋さん
商家『駒屋』の『二川宿本陣資料館』は入場無料。
商家「駒屋」は、主屋・土蔵など8棟の建物からなり、二川宿で商家を営むかたわら、問屋役や名主などを勤めた田村家の遺構です。豊橋市内に数少ない江戸時代の建造物で、当時の商家の一般的な形式を良く残していることから、平成15年5月に豊橋市指定有形文化財となりました。 -
商家、駒屋さん
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商家、駒屋さん
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脇本陣跡地。松坂屋脇本陣建物は、間口7間(13m)、奥行19間(35m)であった。畳み数は93畳。
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【二川宿の本陣資料館】
立派に大きな建物が残っている。格式の高さを今に伝える。
当初、後藤家が本陣を勤めたが、火災により没落。2代目紅林いえも火災で没落、翌年馬場彦十郎が引き継ぎ明治三年本陣廃止まで続いた。 -
【二川宿本陣】【本陣資料館】
本陣とは江戸時代、公家・大名・幕府役人などが旅の途中、宿泊休憩した施設。宿場の中央に大きな間口を占め、門・玄関・上段の間を備えた堂々たる建物でした。二川宿の本陣は、後藤五左衛門が中町の北西で勤めていましたが、再々の火災のため没落し、寛政5年(1793)以降は紅林権左衛門に本陣職を譲りました。しかし、文化3年(1806)12月の火災により紅林家も再起することができず、文化4年(1807)以後明治3年(1870)の本陣廃止まで馬場彦十郎が現在地において本陣を経営した。馬場家本陣は、文化年間の間取図によると間口17間半(約32m)、敷地面積は525坪(約1733平方m)、建坪は181坪余(約598平方m)と宿内一の建物でした。現在も享保年間建築の土蔵、宝暦3年(1753)建築の主屋、文化4年本陣開設時に建築の玄関棟・表門が残り近世交通史上貴重な文化財となっています。豊橋市では、昭和60年本陣当主の馬場八平三氏より本陣敷地建物の寄付を受けたことを契機とし、本陣の保存と活用を図ることとし、昭和62年史跡に指定するとともに、翌昭和63年より三か年事業で、現存部分の改修及び明治以降取り壊されていた書院棟の復元工事を実施し、江戸時代の姿を再現しました。(豊橋市教育委員会)
本陣の遺構が残されているのは、二川宿と草津宿だけで、大変貴重です。 -
二川宿の本陣。立派に大きな建物が残っている。
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本陣門、寝所、上段の間、台所等の遺構あり。二川本陣として公開されている。
【上段の間】
上段の間は、大名などが宿泊休憩する部屋で、他の部屋より一段高くなっており、床の間・書院を備えた書院造となっていました。
二川宿本陣の書院棟は本陣を引き受けた文化四年(1807)に建設されましたが、明治三年(1870)の本陣廃止後、同家が醸造業を始めるにあたり取り壊されたため、間取り図や他宿に残る本陣上段の間を参考として復元しました。
本陣には大名をはじめ家臣なで三十~四十名ほどが泊り、行列の残りは宿内の旅籠屋や一般の家に分宿しました。
馬場家が本陣を経営していた六十年余の間の総利用回数は三千六百回近くにのぼり、年平均約六十回の利用がありましたが、その大部分は小休と呼ばれる休憩や昼休で、宿泊は四分の一程度でした。 -
本陣資料館
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本陣資料館
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本陣資料館
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本陣資料館
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本陣の東に隣接して文化十四年(1817)築の【旅籠清明屋】が復元され、公開されています。
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本陣資料館
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【復元高札場(本陣内)】
幕府・大名が法令や禁令を板札に墨書した高札を掲示した所を高札場と言い、宿場・渡船場・関所等人の目につきやすい所に設置されました。二川宿では二川大岩境の街道南側にあり、人馬の駄賃やキリシタン禁令等の高札が掲げられていました。(案内板) -
高札場跡、二川町道路元標
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浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像
【東海道五十三次 二川・猿ヶ馬場 広重画】
境宿村が猿ケ馬場と呼ばれた地で、広重は二川として猿ケ馬場の名物かしわ餅を商う茶屋を描いています。
秀吉は小田原攻めの際、この茶店であん入り餅を食しています。
その時、茶店の婆の顔が猿に似ていたので猿が婆の勝和餅と命名し、いつしか猿ケ馬場の柏餅になったと云います。
安藤広重の東海道五拾三次之内・二川『猿ケ馬場』
広重の描いた「猿ケ馬場」は、白須賀宿を西に出たすぐのところ、境川の少し手前にあった。従って、二川宿まではまだかなりある。
この地は柏餅が名物で、広重の絵にもあるとおり「名物柏餅」の看板を掲げた店が
何軒かあったが、現在は何もない。3人の女性は瞽女(ごぜ)
(三味線を弾き、歌を歌うなどして銭を乞う目の不自由な女性)である。
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