2016/01/20 - 2016/01/20
34位(同エリア258件中)
junemayさん
- junemayさんTOP
- 旅行記226冊
- クチコミ42件
- Q&A回答0件
- 191,317アクセス
- フォロワー41人
2015年10月の成田⇔奄美大島便が国内LCC利用の第1弾となりましたが、実はその前に予約してたLCCフライトがありました。はっきりとした記憶はないのですが、多分2015年の8月頃、中国資本の春秋航空が成田→佐賀便を開設するに当たり、特別キャンペーンを開催していたのです。
成田⇔佐賀便 就航記念キャンペーンでワンコイン!
えっ! 九州まで500円で飛べちゃうの? それは行くっきゃないでしょう。ところがです。キャンペーンページに飛んで、フライトを検索してみても、500円なんていう破格値はどこにも見当たりません。一体どこにあるんだろう??? と検索すること数分。
ありましたよ。ありました。5か月も先の行き2016年1月20日、帰り2016年1月27日。たった1便ずつの500円の設定が見つかりました。他のフライトは全て6000円以上なのに、この日のフライトだけ1ケタ確かに少なかった。キラキラッ☆!
考えることなくクリック。スケジュールも翌年の事なのですぐには入れられず。そのまま殆ど忘れかけていたのですが、新しい年のスケジュール帳を用意する頃になって、そう言えば、ポチッとやったわ と思い出し、寒い季節の九州横断の旅の計画を立て始めました。今回の旅は福岡と大分がメイン。予想外の雪で、楽しみにしていた国東半島には行けませんでしたが、のんびり緩い旅程で1週間、例によって知らない街をうろついて参りました。
1/20★ 東京→成田空港→佐賀空港→吉野ケ里遺跡→久留米
1/21 久留米→柳川→久留米
1/22 久留米→大分
1/23 大分→臼杵→大分
1/24 大分→別府→大分
1/25 大分→別府→大分
1/26 大分→日田→久留米
1/27 久留米→佐賀空港→成田空港→東京
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
二度目の成田空港第三ターミナル。もう慣れたものです。東京駅から毎度お馴染みの東京シャトルに乗り込んで、最後の停留所で降りるとスムーズに第三ターミナルに移動できます。
ジェットスター便が多い中、グリーンを基調とした春秋航空。この航空会社スプリング・ジャパンと呼ばれているけれど、オータムはどうして消えたのでしょう?「春」だけでは片手落ちじゃない? -
可動式の通路を通って、機体の下まではなんとか外を歩かないでもいいようになっていました。今日は晴天だから良いけれど、雨の日はこれがないとね。
-
LCC第一弾のヴァニラと比較すると、断然春秋航空の方が快適でした。シートピッチも広めだったような記憶。機体は通路を挟んで三人掛けが並びます。ヴァニラは行きも帰りも真ん中のシートで「大当たり」でしたが、春秋では行きが通路側、帰りが窓側。要望に応じてくれたし、対応すこぶる良し。
-
手荷物1個7kg以外は超過手荷物料金がかかります。私のスーツケースは宅配便でこの日の宿泊ホテル宛送ってしまいましたが、当日空港で預けると10kg未満が3000円。5kg未満が1500円。事前にインターネットで予約するとその半額でした。
乗員によるアナウンスも親切で、勿論、国内便なので日本語での案内は完璧。中国系なので、少々心配していましたが、好感が持てましたよ。リピOKです。500円っていうことは二度とないでしょうがね -
機内で提供されるスナック・お菓子・つまみ類とお土産一覧表。シーフードヌードルが350円って高!・・・
-
11時40分に成田を飛び立った機は快適な飛行を続け、定刻の13時55分、快晴の九州佐賀国際空港に無事到着しました。
この空港、有明海に面した干拓地にあって、ついこの間まで「有明佐賀空港」だったのに、週3便の春秋航空上海便が就航したため、名前を変えたんですって。赤字空港だと聞いていたので、今はどうなっているのかなあと恐る恐る調べてみたら、
春秋航空の他に1日1便のソウル便(ティーウェイ航空)が増えていました。ホッ!!! それにしても、この文字プレート換えるだけでも結構なお金かかりそう・・・ -
佐賀空港からのシャトルバスは佐賀駅行きのみ。しかし、佐賀県の助成により、佐賀県内、福岡県南西部の町との間にリムジンタクシー(乗り合いタクシー)のサービスがあり、私は今回、吉野ケ里遺跡のある吉野ケ里歴史公園までこのリムジンタクシーを利用しました。佐賀駅までリムジンバス、そこから路線バスという手もあったのですが、乗り継ぎが悪いため、時間を優先しました。
空港から吉野ケ里町まではなんと26kmもあるそう。タクシーの乗客は私だけ。タクシーを独占したうえ、スムーズにたった30分で移動出来て、まことにラッキーでした。大正解。そうそう、リムジンタクシーを利用するには予約が必要ですよ。
で、着いたのがこちらの吉野ケ里歴史公園。ご覧のような立派なドーム状の屋根のある建物がその入口でした。14時20分着。入場してすぐの建物内でクイックランチを済ませました。 -
今回の旅のメインは福岡と大分。でも折角佐賀空港を利用するのだから、佐賀も見なくっちゃねっと、殆ど知識のなかった弥生時代の大規模遺跡を計画に入れることにしました。
事前学習をしていかなかったので、入口のゲートから続く橋を渡ったずっと先に、でーんと聳える塔が三つ見えたのには吃驚! 遺跡=貝塚または竪穴式住居という貧相な思い込みはあっけなく崩れ去ったのでありました。今まで縄文時代中心だったからなあ。すっげ~!!! これは期待できそうですよ。 -
弥生式土器、甕棺等の大量発掘により遺跡の存在は古くから知られていましたが、本格的な研究が始まったのは大正から昭和初期にかけて。弥生時代の大規模な環濠集落が見つかったのは1986年(昭和61年)からの大規模調査によるものです。
旧三町村(神埼町、三田川町、東脊振=ひがしせふり村)に跨った50ha以上ある日本最大の遺跡はとにかく広大で、移動には写真のキャラクター(兄ひみかと妹やよいの兄妹)付きの園内バスが欠かせません。 -
時刻はもうすでに15時近くなっていました。17時の閉園まであと2時間。この広さは想像していなかったので、少々焦り気味。乗り合いタクシー利用してホント良かったわぁ。
園内バスやよい号でまずは園の北西にあるゾーン「古代の森」を目指します。 -
この杭の塀の向こうに何があるのかしら? 見えそうで見えない!
-
のどかな景色に和みます。向こうに見える山が脊振山系。佐賀県と福岡県の県境となっていて、山系の北側には福岡市があります。
吉野ケ里は脊振山系の南麓から平野部へ伸びた帯状の河岸段丘にあり、背後には天然の要塞である山、前には豊かな漁場である有明海という、クニを構えるには理想的な立地にありました。
縄文時代には海はこの辺りまで深く入り込んでいて、人々が次第にこの地に定住し始めたようです。弥生時代の紀元前4世紀頃になると、それが集落へと発展していきます。そう書かれたパンフレットを読みながら車窓に目をやると、たちまち辺りが古代の風景に見えてくるから不思議。 -
園内バスを降りた「古代の森」ゾーンにあった古代植物園の建物で、まずは少しお勉強。
弥生時代になると、コメ作りが本格的に始まり、大陸から技術が伝わり、鉄や青銅などの金属が使われるようになりました。
右側にある敲石(たたきいし)、磨石(すりいし)、石皿、その下のツバキの木で作られた横杵などに加え、中央に鉄鎌を見ることが出来ます。 -
卑弥呼が着ていた衣装を再現した人形。吉野ケ里遺跡では、茜や貝紫で染色した絹織物等が発掘されているのだそう。我が国の歴史上最古の国と言われている邪馬台国がここにあったという証拠はないけれど、そうであって欲しい! という地元の熱烈な気持ちが伝わってきます。かなり大きな「クニ」と呼ばれる集落があったのは紛れもない事実なんですから。
-
丁度こんな色合いかしら・・・貝紫。古代ロマンを感じさせる色ですねえ。す て き?!
-
そして、もう一つの弥生時代の特徴と言えば、縄文時代と比べるとはるかに厚みのない、模様の少ない弥生土器が作られ始めたことが挙げられます。
これは吉野ケ里遺跡で大変多く見られる棺に用いられた土器。吉野ケ里遺跡全体では約3000基の甕棺が見つかっていますが、そのうちの1/3が、ここ古代の森で発掘されたのだそうです。 -
少々わかりにくいですが、空から見た甕棺墓発掘現場と、甕棺の中の人骨図です。甕棺は、丘陵の尾根に沿って、長さ600m以上にわたって列状に埋められているのが特徴。身分の高い人用ではなく、一般の人々が家族単位、あるいは集団単位で埋葬されたとされています。
この近くにその甕棺墓列が復元されていると聞いたので、後で行ってみましょう。 -
古代植物園の建物には、その他の展示として物見櫓の模型がありました。さっき橋の上から見えた物見櫓もこんな形していたなあ。「クニ」が作られれば、まずは防御態勢を築くことが基本。こんな塔が作られていたとは! 弥生時代のイメージが大きく変わっていくのを感じました。
-
こちらは、色々な色に染められた糸と織物が下がる竪穴式住居の展示。地面に浅い穴を掘って屋根を被せる竪穴式住居は縄文時代から作られ、弥生時代に入ってもあまり大きな変化は見られませんでした。少なくとも平安時代まで、庶民はこうした家で暮らしたことを初めて知りました。
-
外に出て、甕棺墓列(北)を目指して歩きます。係りの人に教わり、森を抜けていくことにしました。
-
森を抜けると、なんと、凄い光景が目の前に現れましたよ。土饅頭がいくつも続くなだらかな丘。これが甕棺墓列ですね。
-
列を成す土饅頭。一応並んではいますが、配列に基準があるのかないのかさっぱり見当がつきません。韓国の慶州で、小山のような王陵が続く光景を見たことはありますが、こんな小さな饅頭の連続は初めて。
-
ウィキペディアによると、甕棺墓は縄文後期から日本各地で見ることが出来るようになりましたが、弥生時代前期から中期の北部九州でその最盛期を迎える とありました。正に今見ている景色がそれなのでしょう。勿論模型なのですが、迫力あるわ~!
-
土饅頭の中がどうなっているのかが、分かりやすく展示されている場所がありました。先の尖った甕を一つ使う墓を「単棺」、二つの甕の口と口を合わせて粘土などで密封したものを「合口棺」と呼んでいますが、見たところサイズはいろいろな大きさの甕が用いられています。
-
ここにある甕は長さが50cmから80cm位かしら? 長さが足りなそうに思えますが、遺体は屈葬されていました。小さなサイズは幼くして亡くなった子供用なのかもしれません。
-
傍にあった解説書きによると、土饅頭は目印として使われていたようです。上に墓標のようなものを立てていたのかもしれません。
-
中の様子が分かるように、割ってある展示甕もありました。
-
甕棺は長い列を作っているように見えますが、よく見ると20mから40m位で一塊になっているので、一族ごとにまとまった墓地を形成していたと考えられています。
甕棺の中からは衣服の一部、毛髪、管玉、勾玉、鉄製品などが出土しています。 -
大規模な土饅頭がどこまでも続く丘は、どのように発掘を進めたのでしょうね。この上に厚く覆いかぶさった土砂を取り除いたときには、どんな様相を呈していたのでしょう? 土饅頭の形がはっきりとわかるように埋まっていたのかしら? 興味津々!!!
-
丘陵の淵に立って、今日でも日々の営みが行われている平地部分を見下ろします。ここからは見えませんでしたが、地図で見ると、平地の縁を田手川という川が流れています。メインゲートをくぐった後、渡った橋の下を流れていた川ですね。その川が氾濫しても被害が及ばない海抜10m位の低い丘に、甕棺墓列はありました。
-
そしてその甕棺列墓よりさらに高い場所にあるのが、北墳丘墓です。塀がぐるりと回りを取り囲んでいます。
-
人工的に作られた丘の上に塀を回し、その中には、大規模な濠をめぐらせています。更に中にある南北約40m、東西約27m、高さ2.5mの長方形をした墳丘は、何種類かの土を何層にも渡って盛土していて、大変頑丈に作られており、この地を統治した歴代の王の墓と考えられています。
弥生時代中程の紀元前1世紀頃といいますから、2100年前の墓ですね。 -
草に覆われた塹壕のような建物の中に入りました。墳丘墓発掘の後一旦埋め戻され、その後見学施設として整備し、2008年(平成20年)に公開されたそうです。見学通路が一周していて、遺構部分を覗き込めるようになっています。規模と内容は異なるけれど、中国西安の兵馬俑に似た雰囲気でした。
-
王と言えども、棺に使われていたのはやはり甕が中心です。ここでは全部で14の墓が見つかっています。遺構面並びに激しく損壊している甕棺はオリジナルだそうですよ。
-
ここにあったのは、とても大きな甕棺で、長さは2mほどもありました。庶民の物とは異なり、スペースもゆったり。でもこの並べ方は奇妙だなあ。何か意味あるのかしら?
-
ひと際立派だったのがこちらの墓。墓室が四角く切られていて、通路らしきものまで作られていました。中央にはやはり甕棺。
色々な方向向いて埋葬された時代の墓とは年代も違いそうですね。 -
副葬品も、庶民では到底手に入らない銅剣とか・・・
-
綺麗な青いガラスの管玉とかが見つかっています。中国の東北地方や韓国で見つかった王墓からの同様のガラス玉がみつかっていますが、多くても8個なのに対し、吉野ケ里では79個も副葬されていたことからも、豪華さで他を圧倒していると解説にありました。
-
王族級の甕棺は、甕の外側、内側を顔料を用いて黒く塗ってありました。写真は埋葬の想像図です。スペース的には余裕があってもやはり屈葬のようですね。お腹の上に剣が置かれています。
-
こちらは、古代の埋葬方法に関わる精巧な模型です。
地中に掘った穴にすでに甕棺と遺体が収められています。先の部分には土が被せられており、しっかりと固定されています。祈りの儀式を済ませた後に、二つ目の甕(地上に置いてある)で蓋をして、残りの土を被せるところのようです。 -
こちらは、巫女らしき人が踊りながら供養している場面。葬式の想像図でしょうか? 沖縄や奄美大島で見たノロ(巫女)達の儀式にも通じるものがありました。とても興味深いジオラマですねえ。
-
北墳丘墓を出ると、入場してすぐの橋から見えた巨大な建造物や塔が目の前に出現しましたよ。「北内郭」と呼ばれるクニの中枢とみられるエリアです。今まで一度も見たことのない景色ですねえ。一挙にテンション高まります。ワクワク!!!
-
先走る気持ちを抑え、振り返ってもう一度北墳丘墓です。形はメキシコのティオティワカンのピラミッドを連想させますが、草で覆われているので柔らかいイメージ。今は冬なので枯草色ですが、春になると綺麗な緑になるのでしょうね。
-
こちらは、北墳丘墓前にあった祀堂です。ここに供物をささげ、祭祀を執り行ったと考えられています。
-
そして、左側に見える墓道とその右側に立つ立柱に注目です。解説書きには、「祖霊の宿る柱」とありました。
この祠堂、立柱は北墳丘墓と南のムラにある南祭壇を結んだ線上に並んでいるそうです。この線はこれから行く北内郭の主祭殿の中心も通ることから、重要な線だと言われています。エジプトや南米のピラミッドが春分、秋分、夏至、冬至の日の太陽光線と密接な関係があることは周知のことですが、どうやらこの線も暦と深く関わっているようです。
北墳丘墓は弥生時代の後半ともなると、お墓としては使われなくなり、祖先の霊を祭る祭壇として人々の信仰の中心(祖霊を祀る宗廟)、いわゆる「ハレ」の場となりました。 -
一直線に並ぶ北墳丘墓、立柱、祠堂をもう一度どうぞ。
-
北内郭に続く道を進みます。弥生時代の美しいシルエットが浮かぶのどかな道です。
おや~ また甕棺墓列が出現しましたよ。土饅頭の数は、先ほど見た場所ほどではありませんが、二列に並んでにポコポコ! -
ここにも、実際の甕棺を使った展示がされていました。一見した限りでは最初に見た北墳丘墓の北側の墓地と、大きな違いはありません。こちらの方がやや整然と並んでいて、一族でまとまった集団墓地は見られませんでした。
-
埋葬された人達に身分の差があったかどうかも分からないそうです。でもここが、北墳丘墓を見上げられる素晴らしいロケーションであることを考えると、有力者あるいは貴族階級なのではと勝手に思ったりしました。
こちらの墓列は先ほど見て来た甕棺墓列(北)よりはだいぶ短く、せいぜい100mといったところです。 -
こちらは、クニの中枢「北内郭」に行く途中にあった高床式家屋が何棟か建つエリアです。様々な用途ごとに建てられた家屋で、倉庫として使われていました。
-
まずは供物の倉。祭りや儀式の際に使われる御供え物に使う食料などを収める倉です。
-
梯子を上って中を覗き込むと、左右に棚が置かれ、籠の中に供物に用いられるものや容器などがしまわれていました。作り物ではありますが、スペースが有り余っている中、品々が整然と並べられていて整理整頓100点満点。
こんなにきちんと整理できるなんて羨ましい限り!ってなんのこっちゃ??? -
二番目は「稲穂の倉」。その年に初めて収穫し、秋の祭りで特別にお供えする稲穂を収める倉だそう。聖なるものに捧げるのは最上級のお米 という歴史は弥生時代から始まっていたんですね。壁には通気性が良さそうな素材が使われています。竹を編んでいるのかしら?
-
そして、三番目は「道具の倉」と書かれていました。この場所は、北墳丘墓と北内郭の中間点であることから、これらの倉庫は一般的な農作物用ではなく、北内郭や北墳丘墓での祀り事に使われる道具や宝物等の貴重な品々専用の倉だったと考えられています。
-
ご覧の通り、倉庫群は北内郭の塀(砦)のすぐ外側に作られていました。
-
行く手には逆光に浮かび上がる弥生の村のシルエット。極めて日本的な風景ですね。
すぐ傍に見えているのになかなか近づけないクニの中枢「北内郭」。そこにたどり着く前には倉庫群の他、「中のムラ」と呼ばれる集落を通っていかねばなりません。 -
「中のムラ」では、祭りや儀式等の政(まつりごと)に使われる様々なものを作っていたと考えられています。絹織物の工房、お神酒の醸造所、養蚕小屋およびそれらを作ったり管理したりする職工達の住む家もあったようです。
-
時間があまり取れなかったので、今回はその一つ「機織の家」にお邪魔しました。昔から機織は女性の仕事でしたね。ここには、司祭者に仕える女性達が絹織物を作っていたと解説板に書かれていました。
-
中にあったのは、糸紡ぎの道具類。大陸から伝わった紡錘車も備わっていました。そして・・・
-
機織機と、・・・
-
蚕棚です。この光景、つい100年ほど前の日本の農家とほとんど変わっていないですねえ。もしかしたら2000年以上、変わらずに営まれた光景かもしれません。
-
他にも祭器づくりの家、酒造りの家などがありましたが、北の内郭が気になって仕方がありません。板塀がどこまでも続いています。一体どこから入るのかしら?
-
ぐるりと大回りをして、ようやく入口らしきところにたどり着きましたよ。たっぷり半周してしまいました。北内郭、すなわち王の宮殿です。政に関係するごく少数の者のみが出入りを許された「神聖な最高司令本部」にようやくとうちゃこ!
入口からまっすぐ前は臨めません。見通せないようジグザグのクランクになっています。お隣の国中国にある城郭都市の影響とみられています。 -
「発掘当時の状況」と書かれた説明板がありました。北内郭は左側に見えるワッペンのような形をしていて、二重の環濠が巡っていました。これには吃驚(@_@)!!!
環濠には4箇所外に丸く突き出した部分(中世の西洋の城壁なら側防塔のようなイメージ)があり、そこに物見櫓(見張り塔)が設置されていました。ムムム、かなり大掛かりな舞台装置! これほどだとは全く想像していませんでした! -
最初の入口を入ったところです。ご覧のように環濠の内側にまたもや板塀が続いていて、内部の「宮殿」は堅い護りで守られていました。発掘の際には、沢山の建物跡の穴が見つかりましたが、同じ時代の穴を選び、繋げていって、今見る建物群を復元したそうです。気が遠くなるような作業だったでしょうね。
-
行く手に第二の入口が見えていますよ。門の上にはカラスの置物が!
-
こちらがその第二の入口をくぐった後の、内側の環濠です。幅は狭いけれど、深い濠が掘られているのが良く分かる写真です。この写真は中心部に向かって右側。右の物見櫓が見えています。
-
そして、こちらが左側の環濠と物見櫓。堂々たる造りですね。
-
イチオシ
北の内郭の心臓部 主祭殿です。高床式!?で作られていて、なんと3階建てでした。棟木の装飾が神社建築を連想させます。16本の柱で支えられていて、高さは16.5mあります。発掘調査の土台と中国の建築事例などを参照したうえで高さを割り出したそうです。
-
主祭殿の2階と3階には異なる機能がありました。まずこちらは2階部分に復元されたクニの政(まつりごと)の様子です。
-
2人の美女に扇で仰いでもらっているのがクニの王、向かい合わせで座っているのは赤い衣がクニの支配階級、緑や黄の衣が周りのムラの長らです。とても大切な会議が現在進行中のようです。
-
2階の政を進行させるためには、こちら3階部分で行われる巫女のお告げが欠かせません。巫女は祖先の霊に祈りを捧げている最中です。
-
お告げが出次第、結果は2階に集まっている指導者たちに伝えられます。
この儀式を見て驚いたのなんのって。つい先だって奄美大島で見たノロの儀式にそっくり。というよりか、ノロの儀式は邪馬台国時代の伝統を受け継ぐものだったんだと再認識しました。豊穣を願い、災厄を払い、祖先を迎えるという部分も同じだし、草の冠(神カムリ)をつけているところも似ています。戒律などがあるわけでもなく、自然崇拝が殆どその全て。卑弥呼も、もしかしたらこのような巫女だったのかもしれません。弥生時代がにわかに近しい存在になった瞬間でした。 -
主祭殿から降りて、北の内郭のそのほかの主要な建物を見て回ります。物見櫓に高床式家屋に竪穴住居が混在しています。
-
こちらは斎堂。主祭殿における祀りの前に身を清めたり、祀りの道具を保管する場所だったんですって。
-
斎堂内の道具類。どういう風に使ったんでしょうね。
-
北内郭唯一の竪穴住居はこのクニの最高司祭者に仕えた従者の家だったと推定されています。
-
竪穴住居の隣にある高床式家屋は卑弥呼のような最高司祭者の住居だったと考えられています。最高司祭者は普段は人の前には姿を現さず、閉鎖的空間に寝起きしていたようです。
-
謎めいたその復元住居に潜入しました!
壁は木や竹、草などを細く薄く削いだ物を縦横交互に編んだ「網代」造りになっていて、通気性は良さそうですが、冬は冷えるかも! -
最高司祭者の住居から見た北内郭です。すぐ前が従者の家、そしてその向こうに主祭殿が聳えます。
-
お次は4棟ある物見櫓に上ってみましょう。単なる物見の塔という防衛的な役割の他、ここ北内郭では四方を祀るという意味合いもあったと解説にありました。
-
中々良い眺めですよ。反時計回りに最高司祭者の住居、従者の家、主祭殿、物見櫓2、斎堂、そして物見櫓3が見えています。
-
斎堂の手前から環濠を越した先に、もう一つ建物が建っていました。こちらは東祭殿と呼ばれるもので、夏至の日の出と冬至の日の入りを結ぶ線上にある高床式家屋です。ここでは稲作には欠かせない太陽の動きを観察し、四季が移るたびに祀りが行われていたそうですよ。
-
二重の土塁と環濠、その外側にも板塀の防護柵が続いていて、敵の侵入に備えたかなり高度な防御態勢がとられていました。
幸いなことに敵の姿は全く見当たりません。冬の太陽が輝く平和な午後でよござった。 -
北内郭を出て、南に数百m行くと、今度は一重の環濠で囲まれた「南内郭」に入ることが出来ます。ここは、クニの王や支配者層が住んでいたと推定される場所で、板塀と環濠で囲まれてはいますが、全部で4か所の出入り口がありました。いずれも昔は門があったようです。
-
ご覧の通り、狭い壕が掘られていますが、防御力は北と比べるとかなり低い。
-
北内郭とは異なり、中の空間が広く、悪く言えば殺風景。ここからは見えていませんが、向かって右側に王やその家族の住まいが並んでいました。
-
物見櫓にまたもや上ってしまいました。1枚上の写真とほぼ同じ位置で、高さだけが異なります。かなり遠くまで見通せますよ。見比べてみてください。
-
眼下に見える板塀で囲まれたエリアにあるのが王の住まいです。立派なんでしょうけれど、やはり竪穴住居でした。司祭者だけが住まいの形態も違っていましたね。
-
南内郭の物見櫓から見た北内郭です。立派! 東大寺の大仏殿みたい・・・
-
南内郭では、これまで見られなかった機能が備わった家屋がありました。
こちらは煮炊き小屋です。大変不思議なことに、吉野ケ里遺跡の竪穴住居にある炉からは煮炊きした跡が見つかっていないそうです。その代りに共同で使ったと思われる煮炊き小屋が数か所で見つかりました。 -
小屋内には勿論、炉があって、薪や食材が置かれていました。
-
弥生のごちそう見本と
-
食材や食器を収納する棚がありました。
-
お次は王の「妻」の家。 あれぇ~、王は妻と別居していたのかしら? と思ったら、この時代は、夫が妻の下に通う婚姻形態、いわゆる「妻問婚」が一般的だったんですって。これについては日本書紀や古事記にも記載があるのだそうですよ。
-
「妻」と思しき女性は機織中でした。昼間から真っ暗な家の中で、機織していたのかなあ・・・
-
王の妻の家と、殆ど変わらない王の娘夫婦の家。王が結婚した娘のために建ててやった家と書かれていましたが、通い婚だとしたら、王の「娘」の家でしょうにねえ。
-
こちらは両人とも不在でした。かなり竪穴が深いのに驚きました。階段を下りて行くとは! 雨の日に水は入ってこないのかしら? でも、思ってたよりずっと快適な空間でした。
-
そしてこの家が王の家。「王が家族と一緒に暮らしている家」と書かれていましたが、妻が別居だとしたら、家族って他に一体誰がいたのかしら? と思って入って行くと・・・
-
あら~、お邪魔しましたぁ。こちらの御二方のご関係は? 一夫多妻制だったら、第二夫人の可能性もあるかなあ・・・微妙な距離ですねえ・・・
-
左手前の白い布に土器の枕が置かれているのが寝床ですね。枕元に置かれているのは、王の威厳を示す品々だそうですよ。庶民は必要な道具以外持ち合わせなかったでしょうから、王が持っているのは、立派な鏡、器と言った工芸品の類かしら。
-
こちらにも王の調度品が並んでいます。今となってはささやかな品に見えるけれど、これだけスケールのあるクニの王ですから、絶大なる権力を誇示するために使われた品々なのでしょうね。
-
同じような竪穴住居ですが、こちらは大人(だいじん)の家と書かれていました。大人(たいじん)というのは支配層の人間のことで、王の下で様々な仕事に就いていました。
-
弥生時代の織物が沢山吊るされていますが、ここがどこだったのか記憶が曖昧・・・
-
物見櫓前に並ぶ支配者層の住宅です。
-
髪の手入れをしてもらっている娘さんかしら?
-
性懲りもなく、また物見櫓に上りましたよ。本日3本目の櫓です。南内郭に接していて厳重な管理下に置かれている「クニの大倉」と、その先にある「倉と市」の建物群がここからよく見えました。
-
「クニの大倉」は環濠が掘られた中に板塀を回した場所に作られていました。兵士たちが常駐して警備を行う大変重要な物資が保管されていた倉庫のようです。
その先の倉庫群は、日用品、高級品などに分かれていて市を兼ねており、日本各地、大陸から集まってきた商品の売買が行われていたと言いますから、ロマンですねえ。
全部回りたいけれど、この広大なエリアは、物見櫓から眺めただけで終わってしまいました。残念! -
第三の物見櫓に上ったのは大正解。倉と市に続く景色のすばらしさ。緩やかな丘陵地帯に続く古代のクニが一望できる場所でした。
南方向には一般の人たちの住む南のムラが広がっていて、竪穴住居が点在していました。全部制覇しようとしたら丸1日たっぷりかかりそうな広大なクニですねえ。 -
北方向です。南内郭の主要な建物「王の住まい」が左側に、「集会の館」が右側に見えています。
北に行く程上位というのは中国伝来の思想なのだそう。南内郭の先に北内郭、そしてその先に祖先の霊を祀る北墳丘墓という配置になっていることを確認しました。流石にここからでは北内郭までしか見えませんでしたけれどね。 -
西方向。「クニの大倉」、「倉と市」、その先には緑の中に現代人の家並みが広がっていました。奥にはどこまでも続く佐賀の山並みが郷愁を誘います。
-
日が傾いて、影が長くなってきたので、そろそろピッチを上げないと。時刻は16:38.閉園まで30分切りました。
-
4箇所ある南内郭の門の一つをくぐります。この門の上にもカラス?が止まっていました。
-
南内郭を出たところに、展示室があったのでささっと一周。興味を惹いたのはこちらの「イモガイ」。里芋のような外観をした美しいデザインの貝で、この他にも色々な色や模様を持つものがあります。食用には適さないので、装飾品、装身具として使われていました。吉野ケ里遺跡からはイモガイを加工した腕輪が見つかっています。
-
北内郭で多く見つかった甕、壺、高杯、器台等。
-
先の尖った、地面に突き刺すタイプの甕。棺に用いられたものですね。粉々になったのをジグゾーパズルの要領で復元しています。お見事!
-
そうそう、首のない死体が多かったんですって。戦いの後敵に持っていかれたのかしら?
-
博物館を5分で終わらせて、南内郭に再度別れを告げます。そう言えばここの塀は北内郭のような板塀ではなく、杭のように中が透けて見えるタイプでしたね。おいおい、今頃気が付いたの???
-
もうすでに「帰りましょう」アナウンスが流れているのですが、ダッシュで南のムラに来てしまいました。ゼイゼイ。
農耕や道具造りで王を始めとする支配層を支えていた一般庶民が暮らしていたムラです。 -
大きく分けると、南のムラの住人は、南の一家、北の一家、ムラ長の一家、中の一家という4つのグループに分類できるそうです。全体で50戸以上の集落だったとされていますが、このムラだけではクニの支配階級を到底支えられないと思いますので、吉野ケ里周辺にも沢山のムラが点在していたのでしょう。
-
ここでは竪穴住居3から4戸に対し1棟ないし2棟の高床式倉庫が見つかっていて、倉庫は何家族かで共同で使っていたと考えられています。
この南のムラの一番南に、前述した「祭壇」があったのですが、時間の関係で見ることが出来ませんでした。北墳丘墓と一直線で並ぶ大事な建造物だったので、そこでどのような行事が行われたと考えられているのか興味があったのですが、残念! -
イチオシ
気を取り直して枯草色の南内郭を臨みます。いいねえ。この構図。南のムラまではるばるやって来た甲斐がありましたよ。
-
南のムラの中にひっそりと目立たないように建っていたのは、「弥生くらし館」。ここでは主に小学生を対象に、勾玉作り、火おこし、土笛作り等の体験プログラムを実施しています。
-
最後になってしまいましたが、吉野ケ里国の東の正門に当たる環壕入口には、写真のような尖った杭が斜めに沢山立ち並んでいました。
でもこれって、意味あるのかなあ・・・歩兵一人なら簡単にすり抜けられてしまいまっせ。鉄条網とかあるのであれば別ですが・・・ -
まあ、その先に濠があるわけですから、簡単には侵入できませんけれどね。斜めに尖った杭が立ち並んでいるだけではあまり効果ないのではないかしら。私が弥生人だったら、もう一工夫すると思うな、って誰も聞いていない・・・
-
で、最後に弥生時代にも流れていたであろう田手川を渡って、吉野ケ里遺跡に別れを告げました。おお、17:00ジャストです。セーフ!
中身の濃い充実した2時間半の滞在でした。弥生時代恐るべし。クニの成り立ちの第一歩を学ばせていただきました。九州に来たら一度は足を運ぶべし。 -
外に出て、吉野ケ里遺跡ヴァージョンのマンホール発見。新制吉野ケ里町を構成する町村の一つ旧三田川町の町章がついています。
-
こちらは、カラーなしのマンホールです。この辺りは三田川町だったのでしょうね。
-
今日はこの「田手・吉野ヶ里歴史公園南」からバスに乗って、久大本線の出発駅久留米の町に泊まります。吉野ケ里は佐賀市と久留米市の中間にあって、どちらに行くにも40分位かかるそう。
佐賀県滞在は短かったけれど、中身はぎっしり詰まっていましたね。 -
西鉄バス内でこっくりこっくりやっていたら、いきなり到着! と思ったらここはJR久留米でした。久留米はJRと西鉄の駅がかなり離れているのでご注意。今日は西鉄久留米駅そばに宿泊するので、もう少しバス旅続きます。明日は西鉄に乗って、立花氏の城下町柳川に向かう予定。
この続きは、LCC第二弾 久大本線に沿って九州横断の旅 その2 柳川(前半)でね。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
この旅行記へのコメント (4)
-
- こあひるさん 2017/12/11 14:53:40
- 面白いですね~!
- junemayさん、こんにちは!
吉野ケ里遺跡、面白いですね~~!邪馬台国があったとされる一つの候補としても有名で知っていましたが、こんなに広く、そしてわかりやすく整備され、かなりの建物や生活の様子が再現されているのに驚きました。
まだ謎のところもあって、ロマンがあるのも魅力的だけれど・・・これだけ色々再現してくれていれば、どっぷり古代の世界に浸れますね~。
行ってみたくなりました。
こあひる
- junemayさん からの返信 2017/12/11 23:38:04
- RE: 面白いですね?!
- こあひるさん こんばんは!
いつもご訪問ありがとうございます。
11月はイタリア、クロアチアを再訪していたので、更新がかなり遅れていて、申し訳なく思っております。亀のようなスローテンポでいつになったら「今」に追いつくのか? 大量に宿題を抱えた小学生のような気分です。
吉野ケ里遺跡は私も全く予備知識なしで行ったので、びっくり仰天の連続でした。でも知れば知るほど意外性→納得の過程をたどりました。西洋や中国の大層立派な古代文明には及ばないかもしれませんが、日本にもこういう時代があったんだということは誰もが知っておくべきことで、莫大なお金をかけて遺跡を整備してくれたことにとても感謝しました。
広い公園が隣接していて、家族で行ったら丸1日楽しめそうですよ。2時間半では足りませんでした。機会がありましたら是非お出かけください。
junemay
> junemayさん、こんにちは!
>
> 吉野ケ里遺跡、面白いですね??!邪馬台国があったとされる一つの候補としても有名で知っていましたが、こんなに広く、そしてわかりやすく整備され、かなりの建物や生活の様子が再現されているのに驚きました。
>
> まだ謎のところもあって、ロマンがあるのも魅力的だけれど・・・これだけ色々再現してくれていれば、どっぷり古代の世界に浸れますね?。
>
> 行ってみたくなりました。
>
> こあひる
>
-
- とし坊さん 2017/12/07 20:42:04
- 凄いな
- こんばんは、兵馬俑に憧れているのですが、日本にこのような場所があるとは
知りませんでした。この旅行記を拝見して興味ワクワクですね
詳しい解説付きなので大変よくわかります・・・
いつも感心しております(^^♪ 今後ともヨロシクです・・(^◇^)
- junemayさん からの返信 2017/12/07 23:28:07
- RE: 凄いな
- とし坊様
こんばんは!
ご無沙汰です。11月2日から20日までイタリア、クロアチアにモザイクを見に行って参りました。あのラヴェンナも再訪したのですが、2年前には見ていないものをと回った今回の訪問場所は超一流とは言い難く、多少の物足りなさを感じました。クロアチアのイストラ半島はローマ帝国の支配下で、ラヴェンナ同様綺麗なものが残っていて素晴らしかったです。
帰国早々家のことでごたごたが続いていて、過去の旅行記中々更新できず、今日ようやくアップできました。なんと2年遅れ! 参ったぁ・・・
引き続きよろしくお願いいたします。
佐賀の吉野ケ里遺跡はテーマパークのようですが、1日十分楽しめますので、時間をとってお出かけください。
junemay
> こんばんは、兵馬俑に憧れているのですが、日本にこのような場所があるとは
> 知りませんでした。この旅行記を拝見して興味ワクワクですね
> 詳しい解説付きなので大変よくわかります・・・
> いつも感心しております(^^♪ 今後ともヨロシクです・・(^◇^)
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
吉野ヶ里(佐賀) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
4
130