2017/09/08 - 2017/09/09
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nao520さん
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蒸し暑い夏の時期も終わり、中国の学校も始まったため中国内を移動する人も少なくなったので、久しぶりに週末旅行にでてきました。
珍しく三国関連の都市へ。
三国志(演義)では許昌は曹操が拠点としていた城としてよくでてくるのでどんなところなのかと興味を持っていました。
また曹操が手に入れた後漢の皇帝献帝を連れてきた城市です。献帝は曹操の息子曹丕によって帝位を禅譲させられたので、ここは後漢終焉の場所でもあります。
鄭州より多少南に下った場所で今では高速鉄道が通っているため北京からは4時間程度。一泊で行ける距離です。
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金曜日の夕方、北京西駅から高速鉄道で4時間です。
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駅到着は8時ごろでしたが、なんとこの時間で終バスはなし。しょうがないので、タクシーに乗りました。当然メーターなんておろさないです。街中の許昌大酒店までですが、着いてから50元くれないかと言われましたが、一笑に付して30元渡し、何ならホテルのスタッフ呼んで聞いてみようかと。円満に終わりました。
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チェックインしたあと腹も空いたので散歩がてら食事に出ます。
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城市のすぐ脇なので9時半過ぎてももう少し賑やかかと思いましたが、それほどでもなかったです。街なかのバスも19:30で終わるものも多く、地方のまちなんですね。
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翌朝は小雨交じりの天気で、先ずはホテルから春秋楼に向かい、この城の外側を流れている掘りを渡ります。城壁はありません。
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小雨だったのと、コーヒーが飲みたかったのでたまたま見つけたマックで雨が止むのを待ちます。
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ホテルから15分程度北に歩くと、春秋楼に着きます。
なぜ関羽が。
曹操の劉備討伐で劉備達は散り散りになりお互い生死が分からない状態になります。関羽は劉備の二夫人の身を守る為、関羽を自分の部下にしたかった曹操の求めに応じて身を寄せる事になります。その時の居所がここ。 -
朝の9時台でしかも小雨がパラつく天気。人はほとんどいませんでした。
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いました。関羽殿。
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この様に春秋を読んでいたということで、春秋楼という名前がつきました。
関羽は腕力だけの張飛と違い学問もあり冷静沈着でしたが、自分を過信する奢りがあってそれが致命傷となりました。 -
劉備が生きて袁紹の元にいる事を知り、曹操の元を去る際に曹操が自ら見送りに来た有名な場面。これが灞陵橋での別れ。この時曹操は華北への道中を思い羽織を手向けにあげますが関羽は何か計略があるのを用心して馬から降りませんでした。山の様な贈り物を貰っても手を付けず主人の元に戻る関羽の忠義と約束を守り関羽を離した曹操の度量。この場面は私もすきです。
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晴れて劉備の元に戻った関羽
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さて更に奥に進みます。
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その途中で、関羽が使用していた青龍偃月刀。ただ、三国の時代にこの武器は存在しませんでした。
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関聖殿
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中には大仏。と思いきや巨大な関羽像でした。
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二階に登って正面から。
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三階から許昌の街が見えます
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脇には、劉備の二人の夫人が暮らしていた場所が見えます。
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甘夫人と靡 mi夫人
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隣には孔廟があります
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左は学問の聖人孔子様、右は武の聖人関羽殿。この両方を祀ってある珍しいところです。因みに中国で一般に聖人と言われるのはこの二人のことを指します。
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関羽が去る際に曹操に書きつづった文章。これは史実です。
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春秋楼をでて更に北にてくてく歩いて行くと、牌坊が見えてきました。その奥に曹操がいるのが見えます。
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曹操孟徳
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丞相府の入り口はすぐ脇にあります。
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三国演義では悪者扱いですが、ここでは地元のヒーローです。曹操のような傑物がいなければ間違いなく三国というものは成立していなかったでしょう。
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ここで政務を行なったそうです。
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曹操の後ろにいるには、許褚。あんまり大きくないな。
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許昌を拠点として周辺の袁紹、袁術、呂布、張楊、張繍と争っていたわけで、この地図を見ると、劉備が一時期いた小沛、袁術の拠点寿春、官渡などの位置関係がわかり、なるほどと。
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三国相まっての荊州争奪戦。江陵の戦の途中、関羽は呉の陸遜、呂蒙の策略にかかり最後を遂げます、義理の息子の関平ともども。関羽の首は孫権から曹操におくられました。もともと関羽に惚れ込んでいた曹操は手厚く葬り、洛陽にある関林が首塚として残っています。これにより劉備が支配していた荊州は孫権のものとなり、荊州と益州両方から中原を攻めるという諸葛亮の大構想は頓挫しました。
この様に戦役の資料は多いのですが、赤壁で大負けした資料は無かったみたいです。 -
奥には賦詩楼といい曹操と曹一族が仲間と詩を読んだりして楽しんだ建物があります。
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曹操と曹丕、曹植。文人として後世に名高い3人。
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七歩詩の真偽はどうだったのか?七歩詩というのは、曹丕が跡を継いでから曹植を排除するために、七歩歩く間に素晴らしい詩を作らなければ死罪に処すという難題を歌会で与えられた際に読んだ傑作とされます。内容はグーグルで見ていただくとして、全くの作り話ではなく、三国志演義の際に脚色されたものの、曹植によって読まれた元の詩があるそうです。
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この頃を建安といい文学を愛する曹操がパトロンとなり建安文学というカテゴリで呼ばれています。知らない文人が多いですが陳琳は知っています。もともと袁紹配下にいて、曹操討伐の檄文を書いたところ、その内容は曹操の先祖まで含めた所謂悪口で、但しそれが素晴らしい名文。それを見た曹操は激怒して、持病の頭痛が治った(頭に血がのぼって)と言われています。その後、袁紹が敗北した際に陳琳は当然引き立てられて、当然あんな文を書いたので処刑されると覚悟していたところ、曹操は自分の事を悪く言うのは構わないが先祖まで引き合いに出すのは言い過ぎではないか? と咎めたもののその優れた文才を認め自分の配下に加えたというエピソードがあります。文武に才能あるものを愛した曹操らしいです。
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これは壺の中に筆を投げ入れるゲーム
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魏の8大美女。初めて聞きました。大喬小喬は美女で有名ですが。。
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呂布の妻 貂蝉も美女で有名。
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孫権の娘 孫尚香は剣術に長けていたと言われるが、前3人のような美女の称号はあるのでしょうか? 曹操の娘もとってつけた感じがしますね。
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「酒に対しては当にうたうべし、人生幾何ぞ 」で始まる曹操の有名な短歌行。文人としての才能も素晴らしいと思います。
ここで、しばし休憩。 -
地下壕である蔵兵洞の入り口
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暗くて狭い
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通路の脇に様々な倉庫もあります。これは武器庫。
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食料庫
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こうやって伏兵を置いて待ち伏せしていた。
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レイダースのように石を転がすしかけ。本当に転がってきます。
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地上に出ますが、この地下壕はこの周辺一帯に張り巡らされていたのがわかっています。
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丞相府を後にしてバスで空港の途中にある許州博物館へと。
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今はどの地方の博物館も立派な建物。
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許という地域の由来を説明してあるコーナー。春秋の前から既に文明のある地域だったので許昌人というアイデンティティを持っています。許という苗字の人の由来地でもある。
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西周の頃、諸侯のひとつとして許がありましたね。
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許昌の英雄である曹操関連の資料が当然多いです。
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後漢最後の皇帝献帝。子供の頃から董卓に事実上支配され、その後董卓の残党李?などの手で囚われ、その後曹操の道具にされて、皇后は謀反の連座で曹操により殺害され、曹操の娘を皇后にさせられる羽目に陥り最後は禅譲させられてと、散々な人生でした。
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墓の大門だそうです。
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許昌周辺にある三国志関連の名所旧跡群。結構あるんですね。
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220年曹操の生前に何とか後継に指名をしてもらっていた曹丕が、無理やり献帝から皇帝を禅譲させて魏の初代皇帝になります。その遺跡が禅譲台。
ここに魏が成立します。曹操は生前皇帝には決してなろうとしませんでした。
曹丕はその後弟の曹植達を迫害していくわけです。その、曹丕も病気で在位7年で崩御します。 -
灞陵橋公園にある灞陵橋の今昔。全然違うんですね。
ただ、曹操が関羽を見送ったのは許昌ではなく長安の灞水に架かった橋であり、演義で許昌になったと言われています。三国志演義が三国志をベースとしたファンタジーなので、史実を追求し過ぎるのはナンセンスですね。 -
博物館脇の麺の店でゴマだれ麺で腹ごしらえして帰路に備えます。
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帰りは許昌東駅から鄭州東駅まで行き、そこから北京行きに乗り換えて帰ります。家に着いたのは夜の10時半ごろになりました。ちょっとした一泊旅行でした。
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