磐田旅行記(ブログ) 一覧に戻る
東海道53次旧街道歩き、掛川宿から見付宿へ<br /><br />編集中<br />フォトは、旧見付学校<br /><br />西からの旅人が、ここで初めて富士を見つけたところから「見付」の名前がついたと言われる。古に遠江国府が置かれ、遠江國の中心地であった。<br />見付宿は天竜川の川越宿として栄えると共に、本坂超え(姫街道)の追分を控え賑わった。

東海道53次、No19 掛川宿(26)から袋井(27)、見付宿(現磐田市)(28)へ

7いいね!

2017/05/18 - 2017/05/18

76位(同エリア130件中)

2

62

ムッシュ

ムッシュさん

東海道53次旧街道歩き、掛川宿から見付宿へ

編集中
フォトは、旧見付学校

西からの旅人が、ここで初めて富士を見つけたところから「見付」の名前がついたと言われる。古に遠江国府が置かれ、遠江國の中心地であった。
見付宿は天竜川の川越宿として栄えると共に、本坂超え(姫街道)の追分を控え賑わった。

旅行の満足度
4.0
  • JR掛川駅前です。ここから出発します。

    JR掛川駅前です。ここから出発します。

  • 掛川城遠望<br />【掛川城の歴史】<br /> 掛川城は、文明年間(1469~1486)頃、今川氏の家臣が、掛川古城を築いたことに始まります。永正10年(1513)頃に現在の位置に移り、今川氏の遠江支配の拠点となりました。<br />  永禄12年(1569)徳川家康がここに立てこもった今川氏真を攻め、長期に渡る攻防の末、掛川城は開城しました。家康の支配下に入った掛川城は、甲斐武田氏の侵攻を防ぐ拠点となりました。<br />  天正18年(1590)豊臣秀吉は、天下統一を成し遂げ、脅威であった徳川家康の領地を関東に移しました。さらに、家康の旧領地に秀吉配下の大名を配置し、掛川城には山内一豊が入りました。一豊は、大規模な城域の拡張を行い近世城郭として整備し、この時初めて天守閣を作りました。<br />  その後、掛川城は、松平家・太田家など徳川譜代の大名11家26代の居城として、明治維新まで続きました。<br /><br />【掛川城天守閣】<br />  天正19年(1591)から慶長元年(1596)にかけ、山内一豊によって掛川城に初めて天守閣が作られました。しかし、嘉永7年(1854)の大地震で倒壊し、幕末の混乱の中取り壊されました。<br />  平成5年(1993)、城絵図や古記録を元に木造により復元され、140年ぶりに再建されました。<br /> 天守閣は、外観三層、内部四階から成ります。六間×五間(約12m×10m)の天守閣本体は、決して大きいものではありませんが、東西に張り出し部を設けたり、入り口に付け櫓を設けたりして外観を大きく複雑に見せています。

    掛川城遠望
    【掛川城の歴史】
     掛川城は、文明年間(1469~1486)頃、今川氏の家臣が、掛川古城を築いたことに始まります。永正10年(1513)頃に現在の位置に移り、今川氏の遠江支配の拠点となりました。
      永禄12年(1569)徳川家康がここに立てこもった今川氏真を攻め、長期に渡る攻防の末、掛川城は開城しました。家康の支配下に入った掛川城は、甲斐武田氏の侵攻を防ぐ拠点となりました。
      天正18年(1590)豊臣秀吉は、天下統一を成し遂げ、脅威であった徳川家康の領地を関東に移しました。さらに、家康の旧領地に秀吉配下の大名を配置し、掛川城には山内一豊が入りました。一豊は、大規模な城域の拡張を行い近世城郭として整備し、この時初めて天守閣を作りました。
      その後、掛川城は、松平家・太田家など徳川譜代の大名11家26代の居城として、明治維新まで続きました。

    【掛川城天守閣】
      天正19年(1591)から慶長元年(1596)にかけ、山内一豊によって掛川城に初めて天守閣が作られました。しかし、嘉永7年(1854)の大地震で倒壊し、幕末の混乱の中取り壊されました。
      平成5年(1993)、城絵図や古記録を元に木造により復元され、140年ぶりに再建されました。
     天守閣は、外観三層、内部四階から成ります。六間×五間(約12m×10m)の天守閣本体は、決して大きいものではありませんが、東西に張り出し部を設けたり、入り口に付け櫓を設けたりして外観を大きく複雑に見せています。

  • 【掛川城】<br />掛川城は今川氏の築城に始り、天正18年(1590年)家康の命により山内一豊が入城し、城を整備し天守閣を造りました。<br />しかし天守閣は嘉永7年の安政大地震で倒壊し、明治2年廃城。現在の天守閣は平成六年(1994)に復元されたもの。<br />塗龍の外壁は、京都聚楽第にならっているとのこと。<br />損壊を免れた二の丸御殿は、江戸後期の建物で、城郭御殿としては、京都二条城、川越城、高知城だけに残る貴重なもの。<br /><br />「掛川城とは」<br />織田信長が今川義元率いる大軍を破った「桶狭間の闘い」(1560年)の後、義元の息子氏眞は、甲斐の武田信玄により駿河の地を追われて掛川城に立てこもる。徳川家康は68年に「掛川城攻め」を開始。翌69年5月に氏眞と和睦し開城した。徳川の領有後、城は武田氏に対する防衛の拠点となった。<br />

    【掛川城】
    掛川城は今川氏の築城に始り、天正18年(1590年)家康の命により山内一豊が入城し、城を整備し天守閣を造りました。
    しかし天守閣は嘉永7年の安政大地震で倒壊し、明治2年廃城。現在の天守閣は平成六年(1994)に復元されたもの。
    塗龍の外壁は、京都聚楽第にならっているとのこと。
    損壊を免れた二の丸御殿は、江戸後期の建物で、城郭御殿としては、京都二条城、川越城、高知城だけに残る貴重なもの。

    「掛川城とは」
    織田信長が今川義元率いる大軍を破った「桶狭間の闘い」(1560年)の後、義元の息子氏眞は、甲斐の武田信玄により駿河の地を追われて掛川城に立てこもる。徳川家康は68年に「掛川城攻め」を開始。翌69年5月に氏眞と和睦し開城した。徳川の領有後、城は武田氏に対する防衛の拠点となった。

  • 【掛川城】<br />*天正18年(1590年)家康の命により山内一豊が10年ほど在城して、天守閣、大手門など増築、整備し、天守閣を造った。しかし嘉永7年(1854年)安政東海大地震で崩れ、幕末の混乱期で取り壊された。現在の城は、1994年に日本初の木造天守閣として復元された。

    【掛川城】
    *天正18年(1590年)家康の命により山内一豊が10年ほど在城して、天守閣、大手門など増築、整備し、天守閣を造った。しかし嘉永7年(1854年)安政東海大地震で崩れ、幕末の混乱期で取り壊された。現在の城は、1994年に日本初の木造天守閣として復元された。

  • 掛川 復元された掛川城の大手門。<br />【掛川城大手門の復元について】<br /> この門は掛川城の城内に入る最初の門として天守閣と共に掛川城の威厳を示すに相応しい最大の門です。<br /> 天正十八年(1590)より慶長五年(1600)まで在城した山内一豊が中町に開かれた松尾口の大手筋を連雀町に移して大手郭を造り、その正門として設けたものです。建物は楼門造りの櫓門で間口は七間(約12.7m)、奥行は三間(約5.4m)、棟までの高さは三十八尺五寸(約11.6m)、二階は漆喰塗篭造りで格子窓付の門櫓をおき、庇屋根を付けています。一階の中央には一間半両開き(巾約2.4m、高さ約4.3m)の門扉、左側に一間(巾約1.2m、高さ約2.2m)片開きの通用口の潜り戸を設けています。鏡柱は二尺二寸(約66cm)に一尺五寸(約45cm)もあり、冠木、梁、垂木等も総て大きな木材を用いた壮大な造りです。冠木下の高さが十四尺六寸(約4.4m)もあるのは乗馬のままで通行出来るためです。嘉永の地震(1854)で倒壊し安政五年に再建されましたが、明治になって廃城になり民間に払い下げられ火災に遭い焼失しました。元の位置は連雀町裏の堀を渡ったところ(交差点南、道路表示部分)で、区画整理事業により基礎の根固石を発掘調査し規模を確認しましたが、元の位置では道路と家屋に支障を来たし、止むなく五十m北側に創建当時の姿に復元しました。<br />  この発掘で門を囲む桝型の築地と共に番所の遺構も発見され、移築保存されていた大手門番所を旧地と同じ位置関係に全体的に復元しました。<br />  大手門から見る天守が一番美しいといわれます。この付近から大手門と共に天守をご鑑賞ください。                    掛川市<br /><br />【掛川城大手門礎石根固め石】<br />  掛川城大手門は、二層式の櫓門(楼門)でした。大きく重量のある門ですから、傾いたりしないよう基礎工事に工夫が凝らされていました。<br /> これが、平成五年(1993)の発掘調査で発見された、門の基礎部分「礎石根固め石」12個の内の一つです。直径2m深さ1m50cmくらいの大きな穴に、40cm前後の河原石を円形に4~5段積み重ね、その上に門柱の基礎が置かれていました。<br />  この根固め石は、新しく作られた道路に現在保存できないので、そのままの状態で取り上げました。<br /><br />【掛川城大手門番所】 掛川市指定文化財 <br />  大手門番所は、城の正門である大手門の内側に建てられ、場内に出入りする者の監視や警備をする役人の詰所です。嘉永七年(1854)の大地震で倒壊後、安政六年(1859)に再建されたのが現在の建物です。<br />  明治初年、掛川藩の廃藩に際し、元静岡藩主谷庄右衛門が居住用として譲り受け、別の場所に移築しましたが、昭和五十三年(1978)に谷家より市へ寄贈されました。<br /> 大手門に付属した番所が現存するのは全国的にも珍しく、昭和五十五年(1980)市の文化財に指定されました。<br />  発掘調査により掛川城大手門と番所の位置が正保年間頃(1644~1647)に描かれた正保城絵図のとおりであることが明らかになったので、平成七年(1995)周辺の区画整理により、本来の位置から約50m北に大手門を復元することにともない、それに合わせて番所を配置し、現在地に移築・復元しました。<br />                            掛川市教育委員会

    掛川 復元された掛川城の大手門。
    【掛川城大手門の復元について】
     この門は掛川城の城内に入る最初の門として天守閣と共に掛川城の威厳を示すに相応しい最大の門です。
     天正十八年(1590)より慶長五年(1600)まで在城した山内一豊が中町に開かれた松尾口の大手筋を連雀町に移して大手郭を造り、その正門として設けたものです。建物は楼門造りの櫓門で間口は七間(約12.7m)、奥行は三間(約5.4m)、棟までの高さは三十八尺五寸(約11.6m)、二階は漆喰塗篭造りで格子窓付の門櫓をおき、庇屋根を付けています。一階の中央には一間半両開き(巾約2.4m、高さ約4.3m)の門扉、左側に一間(巾約1.2m、高さ約2.2m)片開きの通用口の潜り戸を設けています。鏡柱は二尺二寸(約66cm)に一尺五寸(約45cm)もあり、冠木、梁、垂木等も総て大きな木材を用いた壮大な造りです。冠木下の高さが十四尺六寸(約4.4m)もあるのは乗馬のままで通行出来るためです。嘉永の地震(1854)で倒壊し安政五年に再建されましたが、明治になって廃城になり民間に払い下げられ火災に遭い焼失しました。元の位置は連雀町裏の堀を渡ったところ(交差点南、道路表示部分)で、区画整理事業により基礎の根固石を発掘調査し規模を確認しましたが、元の位置では道路と家屋に支障を来たし、止むなく五十m北側に創建当時の姿に復元しました。
      この発掘で門を囲む桝型の築地と共に番所の遺構も発見され、移築保存されていた大手門番所を旧地と同じ位置関係に全体的に復元しました。
      大手門から見る天守が一番美しいといわれます。この付近から大手門と共に天守をご鑑賞ください。                    掛川市

    【掛川城大手門礎石根固め石】
      掛川城大手門は、二層式の櫓門(楼門)でした。大きく重量のある門ですから、傾いたりしないよう基礎工事に工夫が凝らされていました。
     これが、平成五年(1993)の発掘調査で発見された、門の基礎部分「礎石根固め石」12個の内の一つです。直径2m深さ1m50cmくらいの大きな穴に、40cm前後の河原石を円形に4~5段積み重ね、その上に門柱の基礎が置かれていました。
      この根固め石は、新しく作られた道路に現在保存できないので、そのままの状態で取り上げました。

    【掛川城大手門番所】 掛川市指定文化財 
      大手門番所は、城の正門である大手門の内側に建てられ、場内に出入りする者の監視や警備をする役人の詰所です。嘉永七年(1854)の大地震で倒壊後、安政六年(1859)に再建されたのが現在の建物です。
      明治初年、掛川藩の廃藩に際し、元静岡藩主谷庄右衛門が居住用として譲り受け、別の場所に移築しましたが、昭和五十三年(1978)に谷家より市へ寄贈されました。
     大手門に付属した番所が現存するのは全国的にも珍しく、昭和五十五年(1980)市の文化財に指定されました。
      発掘調査により掛川城大手門と番所の位置が正保年間頃(1644~1647)に描かれた正保城絵図のとおりであることが明らかになったので、平成七年(1995)周辺の区画整理により、本来の位置から約50m北に大手門を復元することにともない、それに合わせて番所を配置し、現在地に移築・復元しました。
                                掛川市教育委員会

  • 大手門通りに立つ清水銀行。壁の絵も時代劇風。城主 山之内一豊と奥様です。<br /><br />【由来】<br /> 天正十八年、掛川城主であった山内一豊、千代夫人を浮彫刻にした。<br /> 若き日の一豊が名馬を欲したところ、千代夫人が密かに蓄えた黄金をもって願いを叶えさせたと云う内助の功が美談として伝えられている。<br /> 後日、土佐高知城主として明治維新の山内容堂に至るまで、連綿として城主としての家系を保った。                   清水銀行

    大手門通りに立つ清水銀行。壁の絵も時代劇風。城主 山之内一豊と奥様です。

    【由来】
     天正十八年、掛川城主であった山内一豊、千代夫人を浮彫刻にした。
     若き日の一豊が名馬を欲したところ、千代夫人が密かに蓄えた黄金をもって願いを叶えさせたと云う内助の功が美談として伝えられている。
     後日、土佐高知城主として明治維新の山内容堂に至るまで、連綿として城主としての家系を保った。                   清水銀行

  • これが、銀行の建物???

    これが、銀行の建物???

  • 『掛川城 蕗(ふき)の門』<br />「この門は、掛川城の内堀(蓮池)のほとりに建てられていた四脚門である。<br />大手門や仁藤門などから本丸、二之丸などの城の要所にいたる道筋にあり、<br />小さいが重要な門であった。 <br />廃城後の明治五年(一八七二)に円満寺が買い受けて、現在地に移築した。 <br />その時に、柱の下を二尺五寸(約七十六センチ)切り取って山門にしたといわれている。 」<br /><br />「蕗の御門」<br />この門は掛川城に建てられていた門であるが、廃城後に円万寺が買い受けたものだそうだ。 現在は「円万寺」の山門となっている。<br />	<br /> 清水銀行から250mほど行った右側にあります。<br /><br /> 山門は、「掛川城蕗の門」を使用しています。<br /><br />【掛川城蕗の門】 掛川市指定有形文化財建造物(昭和35年5月指定)<br />  この門は、掛川城の内堀(蓮池)のほとりに建てられていた四脚門である。大手門や仁藤門などから本丸、二の丸などの城の要所にいたる道筋にあり、小さいが重要な門であった。<br />  廃城後の明治五年(1872)円満寺が買い受けて、現在地に移築した。<br />その時に、柱の下を二尺五寸(約76cm)切り取って山門にしたといわれている。               掛川市教育委員会

    『掛川城 蕗(ふき)の門』
    「この門は、掛川城の内堀(蓮池)のほとりに建てられていた四脚門である。
    大手門や仁藤門などから本丸、二之丸などの城の要所にいたる道筋にあり、
    小さいが重要な門であった。
    廃城後の明治五年(一八七二)に円満寺が買い受けて、現在地に移築した。
    その時に、柱の下を二尺五寸(約七十六センチ)切り取って山門にしたといわれている。 」

    「蕗の御門」
    この門は掛川城に建てられていた門であるが、廃城後に円万寺が買い受けたものだそうだ。 現在は「円万寺」の山門となっている。

     清水銀行から250mほど行った右側にあります。

     山門は、「掛川城蕗の門」を使用しています。

    【掛川城蕗の門】 掛川市指定有形文化財建造物(昭和35年5月指定)
      この門は、掛川城の内堀(蓮池)のほとりに建てられていた四脚門である。大手門や仁藤門などから本丸、二の丸などの城の要所にいたる道筋にあり、小さいが重要な門であった。
      廃城後の明治五年(1872)円満寺が買い受けて、現在地に移築した。
    その時に、柱の下を二尺五寸(約76cm)切り取って山門にしたといわれている。               掛川市教育委員会

  • 【十九首塚史跡公園図】<br /><br />東光寺の奥には天慶3年(西暦940年) 天慶(てんぎょう)の乱で没した平将門をはじめとする19人の首級(しゅきゅう)を祀る首塚がある。

    【十九首塚史跡公園図】

    東光寺の奥には天慶3年(西暦940年) 天慶(てんぎょう)の乱で没した平将門をはじめとする19人の首級(しゅきゅう)を祀る首塚がある。

  • 十九首公民館の裏に【十九首塚】があります。<br /> 藤原秀郷は、将門ノ乱を平定し、将門以下十九名の首級を持って上洛、当地で勅使による首実検を行った後、手厚く葬ったと伝えられる。<br />【十九首塚の由来】<br />「平将門」の首級を祀る十九首塚です。<br />常陸を始め関東一円を占拠した平将門が朝廷に逆らい日本中を自分の物にしようと企てた。このため朝廷は藤原秀郷を大将にして将門討伐群を結成。<br />将門軍は天慶3年(940)に滅ぼされ掛川のこの地で首実検を受けた。検視が済むと首を捨てるように命じられたが・・・・。<br /> 秀郷は、「朝廷に背いた者とはいえ名門の武将、屍にむち打つことはむごい」と一門十九の首を埋葬し丁寧に供養した。<br /> 人皇六十一代朱雀天皇の御代、関東下総の国(茨城県)相馬郡猿島に、桓武天皇の五代の孫で、相馬小太郎将門という武将がおりました。<br /> 承平五年(935)、一族の内訌を契機として、将門は、常陸を始め関東一円を占拠、自から新皇と称し律令国家に対抗する国家を企てた。この反乱に、朝廷から大規模な将門追討が興され、平貞盛、藤原秀郷らにより、将門は天慶三年(940)二月十四日滅ぼされました(天慶の乱)。秀郷は将門をはじめ一門の家臣十九人の首級を持って京に上がる途中掛川の宿まで来ました。一方、京からは検視の勅使が派遣され、この地(現在の十九首町)の小川(東光寺南血洗川)で首を洗い、橋に架け検視を受けました。首実検の後、秀郷は『将門は逆臣なりとも、名門の出である。その罪重しといえども、今や滅びて亡し。その死屍に鞭打つは礼に非ず。』と十九の首を別々に埋葬し、懇ろに供養しました。時は天慶三年八月十五日でありました。<br />  その後、歳月の流れ土地開発等の為、移動し現在地に移りました。ここ十九首塚には、葬られた十九人の詳細な名前が残されています。地名の由来も十九の首塚があったところから十九首町と呼ぶようになりました。<br /> 町民は、首塚を町の守り神として春秋二季の彼岸と八月十五日の命日には供養際を行い、今日まで続いております。<br />                          平成十四年三月<br /><br />【十九首塚】   <br />藤原秀郷らが、平将門の乱を平定して、将門ら19人の首級を携えて京に帰る途中、掛川宿のこの地で、京から来た検視の勅使と合流して首実検を受けた。首実検の後、19人の首級は別々に埋葬されたが、現在残っているのは将門の首を埋葬した塚のみである。<br /><br />十九首塚に祀られた者<br />相馬小太郎将門・御厨三郎将頼・大葦原四郎将平・大葦原五郎将為・大葦原六郎将武(以上一族)<br />鷲沼庄司光則・武藤五郎貞世・鷲沼太郎光武・堀江入道周金・御厨別当多治経明・御厨別当文屋好兼・隅田忠次直文・東三郎氏敦・隅田九郎将貞・藤原玄茂・藤原玄明・大須賀平内時茂・長橋七郎保時・坂上逐高(以上郎党)<br />

    十九首公民館の裏に【十九首塚】があります。
     藤原秀郷は、将門ノ乱を平定し、将門以下十九名の首級を持って上洛、当地で勅使による首実検を行った後、手厚く葬ったと伝えられる。
    【十九首塚の由来】
    「平将門」の首級を祀る十九首塚です。
    常陸を始め関東一円を占拠した平将門が朝廷に逆らい日本中を自分の物にしようと企てた。このため朝廷は藤原秀郷を大将にして将門討伐群を結成。
    将門軍は天慶3年(940)に滅ぼされ掛川のこの地で首実検を受けた。検視が済むと首を捨てるように命じられたが・・・・。
     秀郷は、「朝廷に背いた者とはいえ名門の武将、屍にむち打つことはむごい」と一門十九の首を埋葬し丁寧に供養した。
     人皇六十一代朱雀天皇の御代、関東下総の国(茨城県)相馬郡猿島に、桓武天皇の五代の孫で、相馬小太郎将門という武将がおりました。
     承平五年(935)、一族の内訌を契機として、将門は、常陸を始め関東一円を占拠、自から新皇と称し律令国家に対抗する国家を企てた。この反乱に、朝廷から大規模な将門追討が興され、平貞盛、藤原秀郷らにより、将門は天慶三年(940)二月十四日滅ぼされました(天慶の乱)。秀郷は将門をはじめ一門の家臣十九人の首級を持って京に上がる途中掛川の宿まで来ました。一方、京からは検視の勅使が派遣され、この地(現在の十九首町)の小川(東光寺南血洗川)で首を洗い、橋に架け検視を受けました。首実検の後、秀郷は『将門は逆臣なりとも、名門の出である。その罪重しといえども、今や滅びて亡し。その死屍に鞭打つは礼に非ず。』と十九の首を別々に埋葬し、懇ろに供養しました。時は天慶三年八月十五日でありました。
      その後、歳月の流れ土地開発等の為、移動し現在地に移りました。ここ十九首塚には、葬られた十九人の詳細な名前が残されています。地名の由来も十九の首塚があったところから十九首町と呼ぶようになりました。
     町民は、首塚を町の守り神として春秋二季の彼岸と八月十五日の命日には供養際を行い、今日まで続いております。
                              平成十四年三月

    【十九首塚】   
    藤原秀郷らが、平将門の乱を平定して、将門ら19人の首級を携えて京に帰る途中、掛川宿のこの地で、京から来た検視の勅使と合流して首実検を受けた。首実検の後、19人の首級は別々に埋葬されたが、現在残っているのは将門の首を埋葬した塚のみである。

    十九首塚に祀られた者
    相馬小太郎将門・御厨三郎将頼・大葦原四郎将平・大葦原五郎将為・大葦原六郎将武(以上一族)
    鷲沼庄司光則・武藤五郎貞世・鷲沼太郎光武・堀江入道周金・御厨別当多治経明・御厨別当文屋好兼・隅田忠次直文・東三郎氏敦・隅田九郎将貞・藤原玄茂・藤原玄明・大須賀平内時茂・長橋七郎保時・坂上逐高(以上郎党)

  • 【十九首塚】<br />掛川市がその首塚の近くに、小公園を作り、将門の石碑を移し、周りに残りの18人の家臣の名を刻んだ石碑を立てて十九首塚として祭った。<br /> 供養祭は毎年春秋の彼岸と8月15日の命日に行われる。<br />なお、ここの地名は十九首塚があったことから十九首町、じゅうくしゅ、と呼ばれるようになった。<br /><br />「長い歴史を持つ十九首塚は、町の守り神として地域や保存会の皆さんにより大切に祀られ、毎年8月15日には供養祭が行われているのだと。 <br />、井伊谷(浜松市北区引佐町)に伝わる資料等によると、永禄5年(1562年)、<br />時の領主井伊直親(※)が駿府に向かう途中、十九首の地で掛川城主朝比奈泰朝らに<br />討たれたとされます。十九首塚も実は井伊直親とその家臣を祀る塚ではないかという説があり、井伊家ゆかりの方々も参拝に訪れるそうです。

    【十九首塚】
    掛川市がその首塚の近くに、小公園を作り、将門の石碑を移し、周りに残りの18人の家臣の名を刻んだ石碑を立てて十九首塚として祭った。
     供養祭は毎年春秋の彼岸と8月15日の命日に行われる。
    なお、ここの地名は十九首塚があったことから十九首町、じゅうくしゅ、と呼ばれるようになった。

    「長い歴史を持つ十九首塚は、町の守り神として地域や保存会の皆さんにより大切に祀られ、毎年8月15日には供養祭が行われているのだと。
    、井伊谷(浜松市北区引佐町)に伝わる資料等によると、永禄5年(1562年)、
    時の領主井伊直親(※)が駿府に向かう途中、十九首の地で掛川城主朝比奈泰朝らに
    討たれたとされます。十九首塚も実は井伊直親とその家臣を祀る塚ではないかという説があり、井伊家ゆかりの方々も参拝に訪れるそうです。

  • 【十九首塚の由来】<br />「平将門」の首級を祀る十九首塚です。<br />常陸を始め関東一円を占拠した平将門が朝廷に逆らい日本中を自分の物にしようと企てた。このため朝廷は藤原秀郷を大将にして将門討伐群を結成。<br />将門軍は天慶3年(940)に滅ぼされ掛川のこの地で首実検を受けた。検視が済むと首を捨てるように命じられたが・・・・。<br /> 秀郷は、「朝廷に背いた者とはいえ名門の武将、屍にむち打つことはむごい」と一門十九の首を埋葬し丁寧に供養した。<br /> 人皇六十一代朱雀天皇の御代、関東下総の国(茨城県)相馬郡猿島に、桓武天皇の五代の孫で、相馬小太郎将門という武将がおりました。<br /> 承平五年(935)、一族の内訌を契機として、将門は、常陸を始め関東一円を占拠、自から新皇と称し律令国家に対抗する国家を企てた。この反乱に、朝廷から大規模な将門追討が興され、平貞盛、藤原秀郷らにより、将門は天慶三年(940)二月十四日滅ぼされました(天慶の乱)。秀郷は将門をはじめ一門の家臣十九人の首級を持って京に上がる途中掛川の宿まで来ました。一方、京からは検視の勅使が派遣され、この地(現在の十九首町)の小川(東光寺南血洗川)で首を洗い、橋に架け検視を受けました。首実検の後、秀郷は『将門は逆臣なりとも、名門の出である。その罪重しといえども、今や滅びて亡し。その死屍に鞭打つは礼に非ず。』と十九の首を別々に埋葬し、懇ろに供養しました。時は天慶三年八月十五日でありました。<br />  その後、歳月の流れ土地開発等の為、移動し現在地に移りました。ここ十九首塚には、葬られた十九人の詳細な名前が残されています。地名の由来も十九の首塚があったところから十九首町と呼ぶようになりました。<br /> 町民は、首塚を町の守り神として春秋二季の彼岸と八月十五日の命日には供養際を行い、今日まで続いております。<br />                          平成十四年三月<br />

    【十九首塚の由来】
    「平将門」の首級を祀る十九首塚です。
    常陸を始め関東一円を占拠した平将門が朝廷に逆らい日本中を自分の物にしようと企てた。このため朝廷は藤原秀郷を大将にして将門討伐群を結成。
    将門軍は天慶3年(940)に滅ぼされ掛川のこの地で首実検を受けた。検視が済むと首を捨てるように命じられたが・・・・。
     秀郷は、「朝廷に背いた者とはいえ名門の武将、屍にむち打つことはむごい」と一門十九の首を埋葬し丁寧に供養した。
     人皇六十一代朱雀天皇の御代、関東下総の国(茨城県)相馬郡猿島に、桓武天皇の五代の孫で、相馬小太郎将門という武将がおりました。
     承平五年(935)、一族の内訌を契機として、将門は、常陸を始め関東一円を占拠、自から新皇と称し律令国家に対抗する国家を企てた。この反乱に、朝廷から大規模な将門追討が興され、平貞盛、藤原秀郷らにより、将門は天慶三年(940)二月十四日滅ぼされました(天慶の乱)。秀郷は将門をはじめ一門の家臣十九人の首級を持って京に上がる途中掛川の宿まで来ました。一方、京からは検視の勅使が派遣され、この地(現在の十九首町)の小川(東光寺南血洗川)で首を洗い、橋に架け検視を受けました。首実検の後、秀郷は『将門は逆臣なりとも、名門の出である。その罪重しといえども、今や滅びて亡し。その死屍に鞭打つは礼に非ず。』と十九の首を別々に埋葬し、懇ろに供養しました。時は天慶三年八月十五日でありました。
      その後、歳月の流れ土地開発等の為、移動し現在地に移りました。ここ十九首塚には、葬られた十九人の詳細な名前が残されています。地名の由来も十九の首塚があったところから十九首町と呼ぶようになりました。
     町民は、首塚を町の守り神として春秋二季の彼岸と八月十五日の命日には供養際を行い、今日まで続いております。
                              平成十四年三月

  • その昔、江戸から京都まで測量したところ、この寺がちょうど真ん中だったので「仲道寺」と命名。<br /><br />【仲道寺】<br />享保十八年(1733)に市内高御所の正法寺から和尚を招き、善光寺境内に堂を建立して、夏涼山仲道寺と号したことに始まります。<br /><br />【岡津善光寺由来記】<br />  この地は、佐野郡小松郷岡津村と記され(現在掛川市岡津)松茸が多く取れたといわれている。<br />  往古延暦七辰の年(平安時代初期)に伝教大師が叡山建立の願をかけて、自からが阿弥陀仏を三体彫刻してその一体をさずけ、奥州に延暦九年賊徒討伐のため、勅使として坂上田村麻呂と百済王とが東に下った途中、この村に来た頃、兵が難病にかかり徒行することができなくなり、この地にとまり病養せしめ、その一体の阿弥陀仏に願いをかけ、そのため兵の悪病の難を逃れたといわれ、ここに善光寺堂を建立された。<br />  この頃、諸国に難病が流行してその話を聞いて大勢の人たちがこの善光寺にお参りに来たといわれている。<br />  右側にあるお寺は曹洞宗仲道寺寺名であり、その昔江戸から京都まで測量したところ、この寺がちょうど東海道の真中で仲道寺と寺名がついたと云われている。<br /><br /> <br /><br /> <br /><br /><br /> 

    その昔、江戸から京都まで測量したところ、この寺がちょうど真ん中だったので「仲道寺」と命名。

    【仲道寺】
    享保十八年(1733)に市内高御所の正法寺から和尚を招き、善光寺境内に堂を建立して、夏涼山仲道寺と号したことに始まります。

    【岡津善光寺由来記】
      この地は、佐野郡小松郷岡津村と記され(現在掛川市岡津)松茸が多く取れたといわれている。
      往古延暦七辰の年(平安時代初期)に伝教大師が叡山建立の願をかけて、自からが阿弥陀仏を三体彫刻してその一体をさずけ、奥州に延暦九年賊徒討伐のため、勅使として坂上田村麻呂と百済王とが東に下った途中、この村に来た頃、兵が難病にかかり徒行することができなくなり、この地にとまり病養せしめ、その一体の阿弥陀仏に願いをかけ、そのため兵の悪病の難を逃れたといわれ、ここに善光寺堂を建立された。
      この頃、諸国に難病が流行してその話を聞いて大勢の人たちがこの善光寺にお参りに来たといわれている。
      右側にあるお寺は曹洞宗仲道寺寺名であり、その昔江戸から京都まで測量したところ、この寺がちょうど東海道の真中で仲道寺と寺名がついたと云われている。

     

     


     

  • 浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像<br />【歌川広重の東海道五拾三次之内・掛川『秋葉山遠望』】 <br />*高く飛ぶ凧で躍動感。秋葉山を詣でる旅人と、供を従えた僧侶が行きかう大池橋の様子。<br />うしろの山は秋葉大権現、橋の手前に常夜灯、揚がっている凧は丸凧。丸凧は長い尻尾が必要な揚げにくい凧で、一時途絶えてしまったが、復元された。大名行列を横切っても良かったのは、凧揚げをしている子供と産婆であった。<br /><br />この図は倉真川(くらみがわ)に架かった大池橋で、向こうが袋井宿,手 前が掛川 宿の方向です。空に掛川凧があがっているが、この風景は田植えの頃で、早乙女が 田植えをしている姿がみられる。凧あげは稲作の神事の一つで、正月のほか田植え時 にもあげたようです。<br /><br />『東海道五拾三次の内 掛川  秋葉山遠望 広重画』に描かれている橋は<br />この『大池橋』であると。そしてこの辺りの倉真川は古く二瀬川と呼ばれていたと。「掛川宿のはずれ二瀬川に架かる大池橋である。遠景に見える山が秋葉山で、火伏の神で知られる秋葉権現が祀られている。上空には丸凧が2つ見えるが、一つは糸が切れて舞い、もう一つは画枠をはみ出して描かれているが、「原」の富士で見せたほどのインパクトはない。橋の向こうから渡ってきた僧侶に、老夫婦が頭を下げている。その後ろの童子は空の凧に夢中になり、おどけている。」

    浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像
    【歌川広重の東海道五拾三次之内・掛川『秋葉山遠望』】 
    *高く飛ぶ凧で躍動感。秋葉山を詣でる旅人と、供を従えた僧侶が行きかう大池橋の様子。
    うしろの山は秋葉大権現、橋の手前に常夜灯、揚がっている凧は丸凧。丸凧は長い尻尾が必要な揚げにくい凧で、一時途絶えてしまったが、復元された。大名行列を横切っても良かったのは、凧揚げをしている子供と産婆であった。

    この図は倉真川(くらみがわ)に架かった大池橋で、向こうが袋井宿,手 前が掛川 宿の方向です。空に掛川凧があがっているが、この風景は田植えの頃で、早乙女が 田植えをしている姿がみられる。凧あげは稲作の神事の一つで、正月のほか田植え時 にもあげたようです。

    『東海道五拾三次の内 掛川  秋葉山遠望 広重画』に描かれている橋は
    この『大池橋』であると。そしてこの辺りの倉真川は古く二瀬川と呼ばれていたと。「掛川宿のはずれ二瀬川に架かる大池橋である。遠景に見える山が秋葉山で、火伏の神で知られる秋葉権現が祀られている。上空には丸凧が2つ見えるが、一つは糸が切れて舞い、もう一つは画枠をはみ出して描かれているが、「原」の富士で見せたほどのインパクトはない。橋の向こうから渡ってきた僧侶に、老夫婦が頭を下げている。その後ろの童子は空の凧に夢中になり、おどけている。」

  • 【掛川宿 秋葉山遥拝所】<br />近くに秋葉山道標もあり、ここから秋葉山本山を目指した。<br />秋葉山はここから九里、35km余の道のり。<br />秋葉信仰は、江戸中期爆発的なブームとなり全国に広がった。<br />掛川宿から分岐して秋葉山にはいり、御油宿で東海道に戻り、伊勢参りをしてる。

    【掛川宿 秋葉山遥拝所】
    近くに秋葉山道標もあり、ここから秋葉山本山を目指した。
    秋葉山はここから九里、35km余の道のり。
    秋葉信仰は、江戸中期爆発的なブームとなり全国に広がった。
    掛川宿から分岐して秋葉山にはいり、御油宿で東海道に戻り、伊勢参りをしてる。

  • 東海道松並木の説明

    東海道松並木の説明

  • 【間の宿原川】<br /> 宿と宿の間の街道に沿った小集落を間の宿と呼びます。間の宿では、旅人の休息の場を提供することはできますが、旅籠すなわち宿泊業を営むことは許可されていませんでした。<br /><br /> 原川は掛川宿まで一里十八町(約6Km)、袋井宿まで三十三町(約3.6Km)の位置にあり、戸数は、文化・文政年間に編纂された「掛川誌稿」には四十六軒という記録があります。原川には、原川薬師と呼ばれていた金西寺阿弥陀仏、その薬師に供える薬師餅を売る茶店、酒屋などが軒を連ね、街道を行き交う旅人で賑わいました。

    【間の宿原川】
     宿と宿の間の街道に沿った小集落を間の宿と呼びます。間の宿では、旅人の休息の場を提供することはできますが、旅籠すなわち宿泊業を営むことは許可されていませんでした。

     原川は掛川宿まで一里十八町(約6Km)、袋井宿まで三十三町(約3.6Km)の位置にあり、戸数は、文化・文政年間に編纂された「掛川誌稿」には四十六軒という記録があります。原川には、原川薬師と呼ばれていた金西寺阿弥陀仏、その薬師に供える薬師餅を売る茶店、酒屋などが軒を連ね、街道を行き交う旅人で賑わいました。

  • 大池一里塚跡道標、江戸より59里目

    大池一里塚跡道標、江戸より59里目

  • 大きな駕籠<br />【名栗の花茣蓙】 <br />文化・文政の頃、十返舎一九の「道中膝栗毛」の一節に「掛川城下を西へ一里十丁 原川薬師に参詣し、軒を連ねた通りをすぎ、瀬川を渡れば早名栗、松並木を西に見て立場茶屋に着く。名代の甘酒に舌鼓、ここは布井の宿までの間の宿、旅籠屋のあり、名物の花ござを売る店が軒を連ね、上り下りの旅人が珍しいと買って行く。」 <br />旅人の 見えかくれする 並木道 瀬川のほとり 花ござの里??<br /><br />名栗京方入口、「名栗の花茣蓙」の駕籠(かご)風看板が迎えてくれた。<br />横の壁面には「袋井丸凧」の絵が描かれていた。

    大きな駕籠
    【名栗の花茣蓙】 
    文化・文政の頃、十返舎一九の「道中膝栗毛」の一節に「掛川城下を西へ一里十丁 原川薬師に参詣し、軒を連ねた通りをすぎ、瀬川を渡れば早名栗、松並木を西に見て立場茶屋に着く。名代の甘酒に舌鼓、ここは布井の宿までの間の宿、旅籠屋のあり、名物の花ござを売る店が軒を連ね、上り下りの旅人が珍しいと買って行く。」 
    旅人の 見えかくれする 並木道 瀬川のほとり 花ござの里??

    名栗京方入口、「名栗の花茣蓙」の駕籠(かご)風看板が迎えてくれた。
    横の壁面には「袋井丸凧」の絵が描かれていた。

  • 「掛川宿より袋井宿迄之間往還通並木」<br />【東海道松並木】 <br />江戸時代の東海道沿線の村々を記録した「東海道宿村大概帳」には「(掛川)宿より袋井宿迄之間往還通並木」と記され、街道の両側には旅人を強い日差しから守っていた松並木が、名栗から久津部の間に残されています。東海道の松並木は、慶長九年(1604)に徳川秀忠が「街道の左右に松を植しめらる」と「徳川実紀」は記しています。その後、幕府は並木の維持管理に関する法令をたびたび出しています。明治維新以後は道路拡幅工事などによってその数を減らしてしまいました。(案内板)<br /><br />【旧東海道松並木】<br />「官道として東海道が開かれたのは1200年位前で、鎌倉幕府開設以後、京都・鎌倉間の交通頻繁化に伴い急速に発展し、国内第一の幹路となり駅なども整備されました。その後江戸時代には、街道の駅路を修理し両畔に松樹を植え一里塚を設け、<br />東海道五十三次を定めました。このうち掛川には掛川宿と日坂宿の二宿があり、<br />ともに明治維新まで栄えました。現在では国道一号線、東名高速道路、東海道本線、新幹線が通り東西交通の要路として重要な位置をしめております。<br />松並木は近年松食い虫の被害で枯れ、岡津・原川間に僅かに残っているだけです。」

    「掛川宿より袋井宿迄之間往還通並木」
    【東海道松並木】 
    江戸時代の東海道沿線の村々を記録した「東海道宿村大概帳」には「(掛川)宿より袋井宿迄之間往還通並木」と記され、街道の両側には旅人を強い日差しから守っていた松並木が、名栗から久津部の間に残されています。東海道の松並木は、慶長九年(1604)に徳川秀忠が「街道の左右に松を植しめらる」と「徳川実紀」は記しています。その後、幕府は並木の維持管理に関する法令をたびたび出しています。明治維新以後は道路拡幅工事などによってその数を減らしてしまいました。(案内板)

    【旧東海道松並木】
    「官道として東海道が開かれたのは1200年位前で、鎌倉幕府開設以後、京都・鎌倉間の交通頻繁化に伴い急速に発展し、国内第一の幹路となり駅なども整備されました。その後江戸時代には、街道の駅路を修理し両畔に松樹を植え一里塚を設け、
    東海道五十三次を定めました。このうち掛川には掛川宿と日坂宿の二宿があり、
    ともに明治維新まで栄えました。現在では国道一号線、東名高速道路、東海道本線、新幹線が通り東西交通の要路として重要な位置をしめております。
    松並木は近年松食い虫の被害で枯れ、岡津・原川間に僅かに残っているだけです。」

  • 松並木道を進むと右手に「富士浅間宮赤鳥居」が聳えています、社殿は北800mに鎮座している。<br />大同年間(806~810)坂上田村麻呂の創建で、本殿は天正十八年(1590)の建立。<br />【浅間神社赤鳥居】<br />赤鳥居と呼ばれ親しまれているこの鳥居は、東海道分間延絵図にもその姿が描かれ、重要文化財で木花開耶姫命を祀る富士浅間宮本殿までの参道の入口に建っています。現在は鳥居と社殿の間に国道1号や東名高速道路が通り、周辺には多くの工場が立ち並んでいるために、鳥居だけが取り残されたように見えますが、江戸時代には東海道から木々の間に社殿を見渡すことが出来たようです。<br /><br />平安初期に、坂上田村麻呂が戦勝祈願の成就として社殿をつくり太刀を奉納したのが始まりとされ、足利尊氏がこの地を富士宮市の富士山本宮浅間神社に寄進しています。戦火で一度焼けたが、天正18年(1590)に建設された本殿は国の重要文化財。<br />

    松並木道を進むと右手に「富士浅間宮赤鳥居」が聳えています、社殿は北800mに鎮座している。
    大同年間(806~810)坂上田村麻呂の創建で、本殿は天正十八年(1590)の建立。
    【浅間神社赤鳥居】
    赤鳥居と呼ばれ親しまれているこの鳥居は、東海道分間延絵図にもその姿が描かれ、重要文化財で木花開耶姫命を祀る富士浅間宮本殿までの参道の入口に建っています。現在は鳥居と社殿の間に国道1号や東名高速道路が通り、周辺には多くの工場が立ち並んでいるために、鳥居だけが取り残されたように見えますが、江戸時代には東海道から木々の間に社殿を見渡すことが出来たようです。

    平安初期に、坂上田村麻呂が戦勝祈願の成就として社殿をつくり太刀を奉納したのが始まりとされ、足利尊氏がこの地を富士宮市の富士山本宮浅間神社に寄進しています。戦火で一度焼けたが、天正18年(1590)に建設された本殿は国の重要文化財。

  • 浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像<br />【東海道五十三次 袋井宿:出茶屋の図 広重画】<br />どこまでも続く畦道。よしづ張りの簡素な茶屋。火をおこす茶屋の女性、駕籠かき、畦道を歩く人馬、のどかな風景です。<br /><br />東海道脇に茂った榎の幹に半ば隠れて境界を示す傍示杭が立っている。<br />その向かい側には宿場に止宿予定の大名を知らせた関札が立っている。<br />ここは棒鼻で袋井宿の東の入口を示した絵であろう。<br />宿場の外れには旅人や人足が休憩できるようにと茶屋があるのが普通であった。<br />常設の茶屋がない所には、この絵のような出茶屋があった。<br />榎の根元に木の杭で囲んだ土盛りを築き、その上にむしろが敷いてある。<br />その上をよしず張りの屋根が覆っている。屋根の棟木からは旅行者に売るわらじが吊り下がっている。<br />また榎の枝から吊り下がった縄には湯沸し用の銅製のやかんが結わえてある。<br />下のへっついで燃やす薪を女が火箸でかき回しており、火がつかなくてくすぶった煙がもうもうと立ち上がっていく。<br />家紋のある腹巻をした定飛脚の宰領がむしろの上に腰を下して茶を飲みながら煙草を吸っている。

    浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像
    【東海道五十三次 袋井宿:出茶屋の図 広重画】
    どこまでも続く畦道。よしづ張りの簡素な茶屋。火をおこす茶屋の女性、駕籠かき、畦道を歩く人馬、のどかな風景です。

    東海道脇に茂った榎の幹に半ば隠れて境界を示す傍示杭が立っている。
    その向かい側には宿場に止宿予定の大名を知らせた関札が立っている。
    ここは棒鼻で袋井宿の東の入口を示した絵であろう。
    宿場の外れには旅人や人足が休憩できるようにと茶屋があるのが普通であった。
    常設の茶屋がない所には、この絵のような出茶屋があった。
    榎の根元に木の杭で囲んだ土盛りを築き、その上にむしろが敷いてある。
    その上をよしず張りの屋根が覆っている。屋根の棟木からは旅行者に売るわらじが吊り下がっている。
    また榎の枝から吊り下がった縄には湯沸し用の銅製のやかんが結わえてある。
    下のへっついで燃やす薪を女が火箸でかき回しており、火がつかなくてくすぶった煙がもうもうと立ち上がっていく。
    家紋のある腹巻をした定飛脚の宰領がむしろの上に腰を下して茶を飲みながら煙草を吸っている。

  • 東海道五十三次どまん中東小学校の道路沿いに「久津部の一里塚」が復元、江戸日本橋より数えて60里目です。<br /><br />【東海道久津部一里塚跡碑】 袋井東小学校創立百年記念<br /> 徳川幕府は慶長九年二月(昭和四十七年より三百六十八年前)東海・東山・北陸三道に一里塚を築かしめて旅人の便をはかった。その当時本村久津部の地は江戸日本橋より六十里の地点であったから道をはさんで両側に高く土を盛り松を植えて一里塚を築いた。<br /> その北側のものは袋井東小学校前の石川金平氏宅で国道より三間ばかり北へ入ったところであった。南側にあったものは現在地である。明治十年に伐るまでは老松がそびえていて旅人のよい目じるしになっていたとのことであるが袋井東小学校創立百年を記念に復元をした次第である。      平成十二年八月改修

    東海道五十三次どまん中東小学校の道路沿いに「久津部の一里塚」が復元、江戸日本橋より数えて60里目です。

    【東海道久津部一里塚跡碑】 袋井東小学校創立百年記念
     徳川幕府は慶長九年二月(昭和四十七年より三百六十八年前)東海・東山・北陸三道に一里塚を築かしめて旅人の便をはかった。その当時本村久津部の地は江戸日本橋より六十里の地点であったから道をはさんで両側に高く土を盛り松を植えて一里塚を築いた。
     その北側のものは袋井東小学校前の石川金平氏宅で国道より三間ばかり北へ入ったところであった。南側にあったものは現在地である。明治十年に伐るまでは老松がそびえていて旅人のよい目じるしになっていたとのことであるが袋井東小学校創立百年を記念に復元をした次第である。      平成十二年八月改修

  • 【東海道久津部一里塚跡碑】 袋井東小学校創立百年記念<br /> 徳川幕府は慶長九年二月(昭和四十七年より三百六十八年前)東海・東山・北陸三道に一里塚を築かしめて旅人の便をはかった。その当時本村久津部の地は江戸日本橋より六十里の地点であったから道をはさんで両側に高く土を盛り松を植えて一里塚を築いた。<br /> その北側のものは袋井東小学校前の石川金平氏宅で国道より三間ばかり北へ入ったところであった。南側にあったものは現在地である。明治十年に伐るまでは老松がそびえていて旅人のよい目じるしになっていたとのことであるが袋井東小学校創立百年を記念に復元をした次第である。      平成十二年八月改修

    【東海道久津部一里塚跡碑】 袋井東小学校創立百年記念
     徳川幕府は慶長九年二月(昭和四十七年より三百六十八年前)東海・東山・北陸三道に一里塚を築かしめて旅人の便をはかった。その当時本村久津部の地は江戸日本橋より六十里の地点であったから道をはさんで両側に高く土を盛り松を植えて一里塚を築いた。
     その北側のものは袋井東小学校前の石川金平氏宅で国道より三間ばかり北へ入ったところであった。南側にあったものは現在地である。明治十年に伐るまでは老松がそびえていて旅人のよい目じるしになっていたとのことであるが袋井東小学校創立百年を記念に復元をした次第である。      平成十二年八月改修

  • 【東海道五十三次どまんなか小学校】<br />すごい名前の学校があるんですよ!<br />袋井宿は、東海道五十三次の江戸からも京からも27番目の宿場で、東海道のまんなかに位置することから、袋井市は、どまん中を、売り物にしている。<br />  その袋井市の心意気には、驚かされる。どまん中東小学校の正式名称は、袋井市立袋井東小学校であり、その庭に「久津部一里塚跡」があるが、一里塚より、どまん中小学校のほうが印象深い。一里塚は、60番目の一里塚ということであり、江戸・日本橋から約240kmの距離ということになる。

    【東海道五十三次どまんなか小学校】
    すごい名前の学校があるんですよ!
    袋井宿は、東海道五十三次の江戸からも京からも27番目の宿場で、東海道のまんなかに位置することから、袋井市は、どまん中を、売り物にしている。
      その袋井市の心意気には、驚かされる。どまん中東小学校の正式名称は、袋井市立袋井東小学校であり、その庭に「久津部一里塚跡」があるが、一里塚より、どまん中小学校のほうが印象深い。一里塚は、60番目の一里塚ということであり、江戸・日本橋から約240kmの距離ということになる。

  • 【旧澤野医院】 袋井市指定文化財 <br />旧澤野医院は、澤野家が江戸時代末期から昭和初期までに建築し、使用してきた建物群です。病棟、住居、渡り廊下、洋館の4棟は地域医療を担ってきた建物であり、貴重な文化遺産として平成11年4月23日に袋井市指定文化財に指定されました。<br />  澤野家は享保12年(1727)に作られた「山名郡川井村差出明細帳」に内科医としてその名が記され、すでに地域医療を担っていたと考えられます。<br />  旧澤野医院は、旧東海道に面する敷地幅(間口)10.5間を有し、間口幅としては大きな部類に属します。奥行きも29間あり、さらに西側に12.5間、9間の矩形敷地が設けられていたと考えられます。<br />  この敷地内に、街道に接して病棟(洋風二階建て)が建ち、これに接続して居宅(和風建築平屋)、さらに東側に突出した生活空間の建物(炊事場、風呂場など)、西側には渡り廊下によって繋がれている洋館が建てられています。<br />  各建物の特徴は居宅が純和風に対して、病棟と渡り廊下、洋館は洋風となっています。澤野医院の最盛期にはさらに多くの建物があったと考えられます。また、内庭及び南面の築庭についても同時期のもので、その後者若干の変更が見られます。<br />  各建物の建築時期は明らかではありませんが、構造、形式から見ると、居宅は幕末から明治期、洋館と病棟については昭和初期の建築と考えられます。これらの建物と敷地は旧東海道に面する医療建築として、その類例が少なく、近代の医療行政や制度、医業の流を知る上では貴重な存在と言っても過言ではありません。<br /><br />     平成12年9月29日 袋井市教育委員会

    【旧澤野医院】 袋井市指定文化財 
    旧澤野医院は、澤野家が江戸時代末期から昭和初期までに建築し、使用してきた建物群です。病棟、住居、渡り廊下、洋館の4棟は地域医療を担ってきた建物であり、貴重な文化遺産として平成11年4月23日に袋井市指定文化財に指定されました。
      澤野家は享保12年(1727)に作られた「山名郡川井村差出明細帳」に内科医としてその名が記され、すでに地域医療を担っていたと考えられます。
      旧澤野医院は、旧東海道に面する敷地幅(間口)10.5間を有し、間口幅としては大きな部類に属します。奥行きも29間あり、さらに西側に12.5間、9間の矩形敷地が設けられていたと考えられます。
      この敷地内に、街道に接して病棟(洋風二階建て)が建ち、これに接続して居宅(和風建築平屋)、さらに東側に突出した生活空間の建物(炊事場、風呂場など)、西側には渡り廊下によって繋がれている洋館が建てられています。
      各建物の特徴は居宅が純和風に対して、病棟と渡り廊下、洋館は洋風となっています。澤野医院の最盛期にはさらに多くの建物があったと考えられます。また、内庭及び南面の築庭についても同時期のもので、その後者若干の変更が見られます。
      各建物の建築時期は明らかではありませんが、構造、形式から見ると、居宅は幕末から明治期、洋館と病棟については昭和初期の建築と考えられます。これらの建物と敷地は旧東海道に面する医療建築として、その類例が少なく、近代の医療行政や制度、医業の流を知る上では貴重な存在と言っても過言ではありません。

         平成12年9月29日 袋井市教育委員会

  • 【袋井宿と天橋】<br />「袋井宿 は元和ニ(1616)年に設置されました。いわゆる東海道五十三次でいえば品川宿から数えてニ七番目の宿駅にあたります。天橋(阿麻橋)は袋井宿の東の入口にかかっていた土橋です。天保一四(1843)年の調査によれば、宿内の街並みは西端の中川まで五町一五間人口は八四三人、家数は本陣三軒・旅籠屋の五〇軒を含め一九五軒でした。」

    【袋井宿と天橋】
    「袋井宿 は元和ニ(1616)年に設置されました。いわゆる東海道五十三次でいえば品川宿から数えてニ七番目の宿駅にあたります。天橋(阿麻橋)は袋井宿の東の入口にかかっていた土橋です。天保一四(1843)年の調査によれば、宿内の街並みは西端の中川まで五町一五間人口は八四三人、家数は本陣三軒・旅籠屋の五〇軒を含め一九五軒でした。」

  • 東本陣跡があり、代々田代八郎左衛門が勤め宿投と問屋を兼ねていた。<br />【田代本陣】 と呼ばれていた。<br />他に太田家の「中本陣」と「西本陣」があったという<br /><br />【袋井宿東本陣跡/東本陣公園】<br />袋井宿には三軒の本陣が置かれていました。その場所から東・中・西本陣と呼ばれていました。三軒の本陣は東海道往還通りに面して北側に建てられていました。三本陣の内東本陣は「壱番御本陣」とも呼ばれ、代々八左衛門と名乗っていた田代家が営んでいました。田代家は本陣のの運営とともに宿役人として書状、荷物の継立を行った問屋場の最高責任者である問屋をも勤めています。本陣の構造上の特色は門構えと玄関にあり、また内部に「上段の間」が設けられていたことです。東本陣の場合、敷地全体の坪数が1068坪、塀を除いた建坪288坪、間口13間半、奥行き31間もあり。どの規模の大きさがうかがえしれます。(袋井市教育委員会)

    東本陣跡があり、代々田代八郎左衛門が勤め宿投と問屋を兼ねていた。
    【田代本陣】 と呼ばれていた。
    他に太田家の「中本陣」と「西本陣」があったという

    【袋井宿東本陣跡/東本陣公園】
    袋井宿には三軒の本陣が置かれていました。その場所から東・中・西本陣と呼ばれていました。三軒の本陣は東海道往還通りに面して北側に建てられていました。三本陣の内東本陣は「壱番御本陣」とも呼ばれ、代々八左衛門と名乗っていた田代家が営んでいました。田代家は本陣のの運営とともに宿役人として書状、荷物の継立を行った問屋場の最高責任者である問屋をも勤めています。本陣の構造上の特色は門構えと玄関にあり、また内部に「上段の間」が設けられていたことです。東本陣の場合、敷地全体の坪数が1068坪、塀を除いた建坪288坪、間口13間半、奥行き31間もあり。どの規模の大きさがうかがえしれます。(袋井市教育委員会)

  • 【-歴史の道 東海道-袋井宿】<br />袋井の宿が初めて歴史資料にあらわれるのは、約700年前につくられた「遺塵和歌集」の次の一節です。<br /><br />「…なくふくろふの もろこゑは かけてもきかし かけ河の…」<br />これは京都から鎌倉までの宿や名所を詠みこんだもので、おそらく「ふくろい」を梟にひっかけて表現したのでしょう。池田宿(豊田町)と掛川宿の間に記されていることから、袋井は鎌倉時代の後半には、ある程度宿としての設備を整えていたものと思われます。<br />鎌倉・室町・安土桃山時代を通じて、東海道は国内最大の幹線でした。武士や貴族・僧侶の他、多くの人々が往来し、特に戦国大名達にとって、交通路と宿駅の整備は最も重要な課題の一つでした。<br />徳川家康は江戸に幕府を開く二年も前、慶長六年(1601)に、いわゆる「東海道五十三次」のほとんどの宿駅を設置しています。袋井宿は比較的距離のある掛川宿と見付宿の中間の宿駅として、元和二年(1616)に開かれました。<br />「五十三次」でいえば、品川宿(東京)から数えて二十七番目、ちょうど東海道の真ん中に位置しています。<br />         「本陣宿場公園」に掲げられていた案内板より

    【-歴史の道 東海道-袋井宿】
    袋井の宿が初めて歴史資料にあらわれるのは、約700年前につくられた「遺塵和歌集」の次の一節です。

    「…なくふくろふの もろこゑは かけてもきかし かけ河の…」
    これは京都から鎌倉までの宿や名所を詠みこんだもので、おそらく「ふくろい」を梟にひっかけて表現したのでしょう。池田宿(豊田町)と掛川宿の間に記されていることから、袋井は鎌倉時代の後半には、ある程度宿としての設備を整えていたものと思われます。
    鎌倉・室町・安土桃山時代を通じて、東海道は国内最大の幹線でした。武士や貴族・僧侶の他、多くの人々が往来し、特に戦国大名達にとって、交通路と宿駅の整備は最も重要な課題の一つでした。
    徳川家康は江戸に幕府を開く二年も前、慶長六年(1601)に、いわゆる「東海道五十三次」のほとんどの宿駅を設置しています。袋井宿は比較的距離のある掛川宿と見付宿の中間の宿駅として、元和二年(1616)に開かれました。
    「五十三次」でいえば、品川宿(東京)から数えて二十七番目、ちょうど東海道の真ん中に位置しています。
             「本陣宿場公園」に掲げられていた案内板より

  • 【『歴史の道 東海道 袋井宿』】<br />「袋井の宿が初めて歴史史料にあらわれるのは、約七〇〇年前につくられた「遺塵和歌集」の次の一節です。<br />「・・・なくふくろふの もろこゑは かけてもきかし かけ河の・・・」<br />これは京都から鎌倉までの宿や名所を詠みこんだもので、おそらく「ふくろい」を梟にひっかけて表現したのでしょう。池田宿(豊田町)と懸川宿の間に記されていることから、袋井は鎌倉時代の後半には、ある程度宿としての設備を整えていたものと思われます。<br />鎌倉・室町・安土桃山時代を通じて、東海道は国内最大の幹線でした。特に戦国大名達にとって、交通路と宿駅の整備はもっとも重要な課題の一つでした。<br />徳川家康は江戸に幕府を開く二年も前、慶長六(1601)年に、いわゆる「東海道五十三次」のほとんどの宿駅を設置しています。<br />袋井宿は比較的距離のある掛川宿と見付宿の中間の宿駅として、元和二(1616)年に開かれました。「五十三次」でいえば、品川宿(東京)から数えて二十七番目、ちょうど東海道の真ん中(=どまんなか)に位置しています。」

    【『歴史の道 東海道 袋井宿』】
    「袋井の宿が初めて歴史史料にあらわれるのは、約七〇〇年前につくられた「遺塵和歌集」の次の一節です。
    「・・・なくふくろふの もろこゑは かけてもきかし かけ河の・・・」
    これは京都から鎌倉までの宿や名所を詠みこんだもので、おそらく「ふくろい」を梟にひっかけて表現したのでしょう。池田宿(豊田町)と懸川宿の間に記されていることから、袋井は鎌倉時代の後半には、ある程度宿としての設備を整えていたものと思われます。
    鎌倉・室町・安土桃山時代を通じて、東海道は国内最大の幹線でした。特に戦国大名達にとって、交通路と宿駅の整備はもっとも重要な課題の一つでした。
    徳川家康は江戸に幕府を開く二年も前、慶長六(1601)年に、いわゆる「東海道五十三次」のほとんどの宿駅を設置しています。
    袋井宿は比較的距離のある掛川宿と見付宿の中間の宿駅として、元和二(1616)年に開かれました。「五十三次」でいえば、品川宿(東京)から数えて二十七番目、ちょうど東海道の真ん中(=どまんなか)に位置しています。」

  • 【袋井宿場公園】<br />袋井宿の名は、弘安の頃(1278~88年)に書かれた「遺塵和歌集」の長歌の一節にあり。<br />江戸時代の袋井宿は、徳川家康公により東海道の宿駅制度が定められてから十五年後の元和二年(1616年)八月四日に開設された。江戸日本橋から数えても京都三条大橋から数えても27番目、東海道五十三次のちょうど「どまん中」の宿です。

    【袋井宿場公園】
    袋井宿の名は、弘安の頃(1278~88年)に書かれた「遺塵和歌集」の長歌の一節にあり。
    江戸時代の袋井宿は、徳川家康公により東海道の宿駅制度が定められてから十五年後の元和二年(1616年)八月四日に開設された。江戸日本橋から数えても京都三条大橋から数えても27番目、東海道五十三次のちょうど「どまん中」の宿です。

  • 本町宿場公園の中に『従是袋井宿』の木柱と『秋葉山常夜燈』、左後方は高札場。<br /><br />『秋葉山常夜燈』<br />「火伏の神様、秋葉山三尺坊大権現に対する庶民信仰は、江戸時代に入って盛んになりました。特に東海から関東地方にかけて数多くの秋葉講が生まれ、各地に分社や常夜灯が建てられました。公園入口の常夜灯はもと東海道北側にあり、南側約3メートルの円信寺跡には、1800年(寛政12年)に建立された常夜灯が今も残っています。」<br /><br />『高札場』。<br />「幕府が人々を治めるため、忠孝、毒物、駄賃、火付けなどに関する法令や禁令を<br />掲示した場所を高札場と呼び、1711年(正徳元年)以降に整えられました。<br />高札場は、町の辻や橋のたもと、街道の追分(分岐点)、渡船場、港、関所など<br />全国いたるところに設けられ、幕府の権威を誇示する役割をも果たしていました。 」

    本町宿場公園の中に『従是袋井宿』の木柱と『秋葉山常夜燈』、左後方は高札場。

    『秋葉山常夜燈』
    「火伏の神様、秋葉山三尺坊大権現に対する庶民信仰は、江戸時代に入って盛んになりました。特に東海から関東地方にかけて数多くの秋葉講が生まれ、各地に分社や常夜灯が建てられました。公園入口の常夜灯はもと東海道北側にあり、南側約3メートルの円信寺跡には、1800年(寛政12年)に建立された常夜灯が今も残っています。」

    『高札場』。
    「幕府が人々を治めるため、忠孝、毒物、駄賃、火付けなどに関する法令や禁令を
    掲示した場所を高札場と呼び、1711年(正徳元年)以降に整えられました。
    高札場は、町の辻や橋のたもと、街道の追分(分岐点)、渡船場、港、関所など
    全国いたるところに設けられ、幕府の権威を誇示する役割をも果たしていました。 」

  • 浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次 袋井 出茶屋の図」28袋井<br />*広重は袋井の出茶屋風景を描いている。<br />*画面の右には止め宿予定の大名を知らせる関札。<br />*宿場の外れには旅人や駕籠舁き(かごかき)が休憩する茶屋があった。

    浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次 袋井 出茶屋の図」28袋井
    *広重は袋井の出茶屋風景を描いている。
    *画面の右には止め宿予定の大名を知らせる関札。
    *宿場の外れには旅人や駕籠舁き(かごかき)が休憩する茶屋があった。

  • 袋井 新屋東海道案内図

    袋井 新屋東海道案内図

  • 【新屋の秋葉山常夜灯】<br />火伏の神である秋葉山三尺坊大権現に対する庶民の信仰は、江戸時代に盛んになりなした。秋葉山詣のために上方や関東、東海では秋葉講が組織され、秋葉山へ参詣する人々が多くな りました。<br /> 袋井市域でも秋葉信仰がさかんとなり、各地区に常夜灯が建てられました。常夜灯は秋葉山に参詣するための秋葉道や東海道沿いにあるものばかりでなく、その地区の人々が火伏の神への信仰から建てられたものもあ りました。市内には石で作られた灯籠形と、木造の屋形の常夜灯が合計で十四基現存しています。新屋の常夜灯は木造屋形で、作者は不明ながら見事な彫物がみられ、保存状況の たいへん良い常夜灯です。かつては、東海道を行き来する旅人のよい目印となったことでしょう。       平成十二年八月 袋井市教育委員会<br /><br />「新屋の秋葉山常夜燈」<br />火伏の神である秋葉山三尺坊大権現に対する庶民の信仰は、江戸時代に盛んになりなした。秋葉山詣のために上方や関東、東海では秋葉講が組織され、秋葉山へ参詣する人々が多くな りました。袋井市域でも秋葉信仰がさかんとなり、各地区に常夜灯が建てられました。<br />常夜灯は秋葉山に参詣するための秋葉道や東海道沿いにあるものばかりでなく、<br />その地区の人々が火伏の神への信仰から建てられたものもあ りました。<br />市内には石で作られた灯籠形と、木造の屋形の常夜灯が合計で十四基現存しています。新屋の常夜灯は木造屋形で、見事な彫物がみられ、保存状況のたいへん良い<br />常夜灯です。」

    【新屋の秋葉山常夜灯】
    火伏の神である秋葉山三尺坊大権現に対する庶民の信仰は、江戸時代に盛んになりなした。秋葉山詣のために上方や関東、東海では秋葉講が組織され、秋葉山へ参詣する人々が多くな りました。
     袋井市域でも秋葉信仰がさかんとなり、各地区に常夜灯が建てられました。常夜灯は秋葉山に参詣するための秋葉道や東海道沿いにあるものばかりでなく、その地区の人々が火伏の神への信仰から建てられたものもあ りました。市内には石で作られた灯籠形と、木造の屋形の常夜灯が合計で十四基現存しています。新屋の常夜灯は木造屋形で、作者は不明ながら見事な彫物がみられ、保存状況の たいへん良い常夜灯です。かつては、東海道を行き来する旅人のよい目印となったことでしょう。       平成十二年八月 袋井市教育委員会

    「新屋の秋葉山常夜燈」
    火伏の神である秋葉山三尺坊大権現に対する庶民の信仰は、江戸時代に盛んになりなした。秋葉山詣のために上方や関東、東海では秋葉講が組織され、秋葉山へ参詣する人々が多くな りました。袋井市域でも秋葉信仰がさかんとなり、各地区に常夜灯が建てられました。
    常夜灯は秋葉山に参詣するための秋葉道や東海道沿いにあるものばかりでなく、
    その地区の人々が火伏の神への信仰から建てられたものもあ りました。
    市内には石で作られた灯籠形と、木造の屋形の常夜灯が合計で十四基現存しています。新屋の常夜灯は木造屋形で、見事な彫物がみられ、保存状況のたいへん良い
    常夜灯です。」

  • 【木原一里塚】<br />江戸から数えて六一里目の一里塚です。『東海道宿村大概帳』(逓信総合博物館蔵)には「(袋井)宿より見附迄之間壱里塚壱ヶ所。壱ヶ所、木立松。但、左右之塚共木原村地内」と記され、『東海道分間延絵図』(東京国立博物館蔵)や『東海道分間絵図』(東京国立博物館蔵)などには、塚の上に松や榎が描かれています。本来の一里塚はこの場所から約60m東にありましたが、現存していません。

    【木原一里塚】
    江戸から数えて六一里目の一里塚です。『東海道宿村大概帳』(逓信総合博物館蔵)には「(袋井)宿より見附迄之間壱里塚壱ヶ所。壱ヶ所、木立松。但、左右之塚共木原村地内」と記され、『東海道分間延絵図』(東京国立博物館蔵)や『東海道分間絵図』(東京国立博物館蔵)などには、塚の上に松や榎が描かれています。本来の一里塚はこの場所から約60m東にありましたが、現存していません。

  • 三ケ野権現のあるところ。<br />この近く、大日堂古戦場跡碑がある。本多平八郎物見の松。境内の松に登り、武田勢の動行を物見した。

    三ケ野権現のあるところ。
    この近く、大日堂古戦場跡碑がある。本多平八郎物見の松。境内の松に登り、武田勢の動行を物見した。

  • 「従是蒲田山薬師道」にはいる。<br />江戸の古道を上ります。登り口左に”江戸の道”の碑あり。江戸古道の入口。<br />【三ヶ野七つ道】 <br />三ヶ野橋を西進すると、標高38mある大日山の急斜面を、這うように江戸時代の旧東海道と交差する。坂を登って、上の道を歩きます。<br /><br />鎌倉の古道、江戸の道(東海道)、明治の道、大正の道、昭和の道(国道1号線)、平成の道(磐田バイパス)、質屋通いの間道(質道)の7つの道が集まっています。<br /><br />大日堂周辺は、武田軍と徳川軍が戦火を交えた場所であり、袋井方面が一望できる交通の要所。

    「従是蒲田山薬師道」にはいる。
    江戸の古道を上ります。登り口左に”江戸の道”の碑あり。江戸古道の入口。
    【三ヶ野七つ道】 
    三ヶ野橋を西進すると、標高38mある大日山の急斜面を、這うように江戸時代の旧東海道と交差する。坂を登って、上の道を歩きます。

    鎌倉の古道、江戸の道(東海道)、明治の道、大正の道、昭和の道(国道1号線)、平成の道(磐田バイパス)、質屋通いの間道(質道)の7つの道が集まっています。

    大日堂周辺は、武田軍と徳川軍が戦火を交えた場所であり、袋井方面が一望できる交通の要所。

  • この三ヶ野一帯は戦国時代の元亀3年(1572)に甲斐の武田信玄の遠州侵攻の戦いの舞台となった場所で家康軍との小競り合いが起こった場所として知られています。この時の武田軍は3万の兵、一方、家康軍はその半分の1万の兵ということで、<br />家康はいちはやく撤退を決意します。しかし武田軍は執拗に家康軍を追撃してきます。家康軍は浜松へ戻るため三方ヶ原を辿るのですが、家康の生涯の中で最悪の敗戦と言われている戦いこそが「三方ヶ原の戦い」。<br />ほうほうの体で浜松城へ逃げ帰った家康は、この戦で死の恐怖を味わったと言われているのだ。<br /><br />坂を登り終えた五差路に『従是鎌田山薬師道碑』が。<br />この角から南に約1.5kmの所に「鎌田山(かまださん)金剛院(こんごういん)醫王寺(いおうじ)」と称される、天平時代に聖武天皇の勅命を奉じて、行基菩薩(ぎょうきぼさつ)が山内の名木で薬師如来の尊像を敬刻され、ご本尊として<br />祀ったのが始まりと伝えらる醫王寺があり、この角はその参道入口だった。<br />見付宿はここを右折。逆に左に曲がると『江戸の道』であると。

    この三ヶ野一帯は戦国時代の元亀3年(1572)に甲斐の武田信玄の遠州侵攻の戦いの舞台となった場所で家康軍との小競り合いが起こった場所として知られています。この時の武田軍は3万の兵、一方、家康軍はその半分の1万の兵ということで、
    家康はいちはやく撤退を決意します。しかし武田軍は執拗に家康軍を追撃してきます。家康軍は浜松へ戻るため三方ヶ原を辿るのですが、家康の生涯の中で最悪の敗戦と言われている戦いこそが「三方ヶ原の戦い」。
    ほうほうの体で浜松城へ逃げ帰った家康は、この戦で死の恐怖を味わったと言われているのだ。

    坂を登り終えた五差路に『従是鎌田山薬師道碑』が。
    この角から南に約1.5kmの所に「鎌田山(かまださん)金剛院(こんごういん)醫王寺(いおうじ)」と称される、天平時代に聖武天皇の勅命を奉じて、行基菩薩(ぎょうきぼさつ)が山内の名木で薬師如来の尊像を敬刻され、ご本尊として
    祀ったのが始まりと伝えらる醫王寺があり、この角はその参道入口だった。
    見付宿はここを右折。逆に左に曲がると『江戸の道』であると。

  • 『「行人坂」のいわれ』<br />行人坂:愛に月待日待の山伏勧進せしゆゑにかくはいへり、・・・<br /><br />『ここには行人(山伏)が多く住んでいて、村のまつりごとや社会奉仕に携わっていたので、この坂を行人坂 と言うようになった。この資料は井原西鶴 が晩年に執筆し、元禄の初めに発行され度々再版された「一目玉鉾」の見付の処に書かれた文です。東京目黒の行人坂は有名ですが、時代的にはここの坂の方が早くから有ったようです。この坂 は急勾配で、江戸時代の見付東坂と同じくらい急でした。」

    『「行人坂」のいわれ』
    行人坂:愛に月待日待の山伏勧進せしゆゑにかくはいへり、・・・

    『ここには行人(山伏)が多く住んでいて、村のまつりごとや社会奉仕に携わっていたので、この坂を行人坂 と言うようになった。この資料は井原西鶴 が晩年に執筆し、元禄の初めに発行され度々再版された「一目玉鉾」の見付の処に書かれた文です。東京目黒の行人坂は有名ですが、時代的にはここの坂の方が早くから有ったようです。この坂 は急勾配で、江戸時代の見付東坂と同じくらい急でした。」

  • 【遠州鈴ヶ森刑場跡】(富士見町東)<br />高台に遠州鈴ケ森三本松刑場跡があります、石段を上ると日本左衛門供養塔と云われる妙法無縁之萬霊供養塔があります。<br />江戸鈴ケ森で処刑された日本左衛門の首はここに晒されました。<br /><br />*日本左衛門:浜島庄兵衛は、「盗み白波五人男の頭はすれども非道はせず」と見栄を切る大泥棒。1746年、獄門となる。その首塚は金谷宿にあります。<br /><br />

    【遠州鈴ヶ森刑場跡】(富士見町東)
    高台に遠州鈴ケ森三本松刑場跡があります、石段を上ると日本左衛門供養塔と云われる妙法無縁之萬霊供養塔があります。
    江戸鈴ケ森で処刑された日本左衛門の首はここに晒されました。

    *日本左衛門:浜島庄兵衛は、「盗み白波五人男の頭はすれども非道はせず」と見栄を切る大泥棒。1746年、獄門となる。その首塚は金谷宿にあります。

  • 【秋葉山常夜灯】<br />大正4年(1915)に建立の富士見町秋葉山常夜灯がある。遠州の地は秋葉信仰が盛んで神社祭りも行われる。

    【秋葉山常夜灯】
    大正4年(1915)に建立の富士見町秋葉山常夜灯がある。遠州の地は秋葉信仰が盛んで神社祭りも行われる。

  • 【旧見付小学校跡】<br />現存する日本最古の洋風木造学校で明治8年(1875)に造られた。建物の石積みは掛川の横須賀城から移送。当初4階建てで、1883年5階建てに改修された。<br />明治7年棟梁伊藤平右衛門の設計。間口12問・奥行き5間の木造洋風2階建てに屋上2層の楼を完成。玄関はエンタシス様式の飾柱、分銅付き窓。<br /><br /> 「旧見付学校」は、学制発布後まもない明治八年(1875)に落成した現存する日本最古の洋風木造小学校校舎です。当時は四階建てでしたが、明治十六年に増築されて今の五階建てとなりました。<br />  記録によると明治十四年の見付学校の生徒数は、男300名・女182名の482名で、就学率(学校に行った人の割合)は66%でした。<br /> この建物は大正十一年まで小学校として、その後は中学校、裁縫女学校、教員養成所、病院等として使用されました。現在は学校関係の資料等が展示されています。         昭和四十四年、国指定史跡となっています。<br />           磐田市教育委員会<br /><br />『史跡旧見付学校』<br />「見付学校を第12中学区内第1番小学校にと地元の熱意で、明治7年堂宮棟梁伊藤平右衛門の設計で着手、翌8年に開校しました。 <br />基礎の石垣は遠州横須賀城の石垣を利用し、間口12間・奥行き5間の木造洋風2階建てに屋上2層の楼を完成させました。玄関はエンタシス様式の飾柱、分銅付き窓の日本最古の現存木造洋風校舎です。 <br />明治16年に2階天井裏を改築し、現在の3階2層になりました。」

    【旧見付小学校跡】
    現存する日本最古の洋風木造学校で明治8年(1875)に造られた。建物の石積みは掛川の横須賀城から移送。当初4階建てで、1883年5階建てに改修された。
    明治7年棟梁伊藤平右衛門の設計。間口12問・奥行き5間の木造洋風2階建てに屋上2層の楼を完成。玄関はエンタシス様式の飾柱、分銅付き窓。

     「旧見付学校」は、学制発布後まもない明治八年(1875)に落成した現存する日本最古の洋風木造小学校校舎です。当時は四階建てでしたが、明治十六年に増築されて今の五階建てとなりました。
      記録によると明治十四年の見付学校の生徒数は、男300名・女182名の482名で、就学率(学校に行った人の割合)は66%でした。
     この建物は大正十一年まで小学校として、その後は中学校、裁縫女学校、教員養成所、病院等として使用されました。現在は学校関係の資料等が展示されています。         昭和四十四年、国指定史跡となっています。
               磐田市教育委員会

    『史跡旧見付学校』
    「見付学校を第12中学区内第1番小学校にと地元の熱意で、明治7年堂宮棟梁伊藤平右衛門の設計で着手、翌8年に開校しました。
    基礎の石垣は遠州横須賀城の石垣を利用し、間口12間・奥行き5間の木造洋風2階建てに屋上2層の楼を完成させました。玄関はエンタシス様式の飾柱、分銅付き窓の日本最古の現存木造洋風校舎です。
    明治16年に2階天井裏を改築し、現在の3階2層になりました。」

  • 旧見付学校の内部展示品

    旧見付学校の内部展示品

  • 旧見付学校の内部展示品

    旧見付学校の内部展示品

  • 旧見付学校のイラスト

    旧見付学校のイラスト

  • 旧見付学校のスケッチ

    旧見付学校のスケッチ

  • 旧見付学校のスケッチ

    旧見付学校のスケッチ

  • 旧見付学校のスケッチ

    旧見付学校のスケッチ

  • 【淡海國玉(おうみくにたま)神社】<br />延喜式の古社で遠江國総社です、本殿は明暦年間(1655~57)の再建です。<br />神話因幡(いなば)の白兎に因み狛犬は兎(うさぎ)。<br /><br />鳥居の扁額には『總社大神』と。<br />平安時代、見附に国府があったときの遠江国総社。拝殿と幣殿は文久年間の再建。<br />幣殿は三棟入母屋造りで、本殿は明暦2年(1656)再建で三間社流造。<br />主祭神は大国主命ですが、多くの神々(十五柱)を相殿に祀っています。<br />

    【淡海國玉(おうみくにたま)神社】
    延喜式の古社で遠江國総社です、本殿は明暦年間(1655~57)の再建です。
    神話因幡(いなば)の白兎に因み狛犬は兎(うさぎ)。

    鳥居の扁額には『總社大神』と。
    平安時代、見附に国府があったときの遠江国総社。拝殿と幣殿は文久年間の再建。
    幣殿は三棟入母屋造りで、本殿は明暦2年(1656)再建で三間社流造。
    主祭神は大国主命ですが、多くの神々(十五柱)を相殿に祀っています。

  • 【淡海國玉(おうみくにたま)神社】

    【淡海國玉(おうみくにたま)神社】

  • 【淡海國玉(おうみくにたま)神社】本堂

    【淡海國玉(おうみくにたま)神社】本堂

  • 『これより 姫街道』。<br />宿内の距離がわずか1キロしかありませんので、見付の宿場はまもなく西の端に行き着く。旧街道はこの先で鋭角的に左へと大きく折れ曲がっていた。<br />その折れ曲がった角から細い道筋が延びていた。この道筋が「姫街道」と呼ばれる東海道の脇往還道。姫街道とは浜名湖の今切渡と新居の関所を嫌う者が、見付または浜松から浜名湖の北岸を迂回して本坂峠を越え、御油または吉田に出た東海道の脇往還(約60キロ)の一つ。なぜ新居の関所を嫌ったかというと幕府の出鉄砲、入り女の政策により女性の出入りを厳しく取り締まっていたため、旅をする女性達は東海道を避け、ここから本坂越えの脇往還を通ったのだと。<br />そしてこの脇往還が「姫街道」と呼ばれるようになったのだと。

    『これより 姫街道』。
    宿内の距離がわずか1キロしかありませんので、見付の宿場はまもなく西の端に行き着く。旧街道はこの先で鋭角的に左へと大きく折れ曲がっていた。
    その折れ曲がった角から細い道筋が延びていた。この道筋が「姫街道」と呼ばれる東海道の脇往還道。姫街道とは浜名湖の今切渡と新居の関所を嫌う者が、見付または浜松から浜名湖の北岸を迂回して本坂峠を越え、御油または吉田に出た東海道の脇往還(約60キロ)の一つ。なぜ新居の関所を嫌ったかというと幕府の出鉄砲、入り女の政策により女性の出入りを厳しく取り締まっていたため、旅をする女性達は東海道を避け、ここから本坂越えの脇往還を通ったのだと。
    そしてこの脇往還が「姫街道」と呼ばれるようになったのだと。

  • JR磐田駅舎<br /><br /> 見付宿の見付とは、京から江戸に向かう旅人が、初めて富士山を見付けた場所だから名付けられたといわれている。地元の方に聞いてみると、『その通りで、現在も「富士見」という地名がある。』とのこと。見付は、古代、国府や国分寺がおかれた場所で、中世以前は遠江の中心であったという。

    JR磐田駅舎

     見付宿の見付とは、京から江戸に向かう旅人が、初めて富士山を見付けた場所だから名付けられたといわれている。地元の方に聞いてみると、『その通りで、現在も「富士見」という地名がある。』とのこと。見付は、古代、国府や国分寺がおかれた場所で、中世以前は遠江の中心であったという。

この旅行記のタグ

7いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

この旅行記へのコメント (2)

開く

閉じる

  • 三昧さん 2017/10/24 23:32:17
    紺屋の白袴
    今晩は!

    オイラ、磐田に住んで11年目です。来年は横浜に戻りますが。
    今だに、こっちの地名言われても地元民じゃないので、ピンと来ないとか、いろいろあります。・・・最後の写真、磐田駅ですね。できれば画像の右に少し進んでもらったら、よそ者のオイラでも自慢できる楠の木がド~ンって鎮座してるんですよ。・・・見付けの学校とか、オイラも横浜に戻る前に一度は足を運んでみます。

    それにしても、こういう旅って羨ましいです。したいな~。
    三昧

    ムッシュ

    ムッシュさん からの返信 2017/10/25 22:57:08
    RE: 紺屋の白袴
    白袴さんへ          ムッシュ

    申し訳ない。
    当日、掛川駅を出発した時は、未だ元気だったので掛川城に行く前に、駅前ロータリーの植込みを撮影しました。が、夕刻磐田駅に着く頃は、足も、気持ちもそこそこ一杯で、善導寺の大楠のフォト撮影し損ねました。
    駅に着いたら、ビールでも飲むぞ!の妄想が脳内を廻ったのと、東側からは大木まで少し遠い感じでした。
    翌月も磐田駅を出発したが、北に向かう駅東階段からスイスイと歩き始め、大楠をチラリと拝見して街道に向かいました。
    改めて、グーグルストリートビユーで善導寺の大楠を見ましたよ。なかなか立派です。
    旅行記への投票ありがとうございます。


    > 今晩は!
    >
    > オイラ、磐田に住んで11年目です。来年は横浜に戻りますが。
    > 今だに、こっちの地名言われても地元民じゃないので、ピンと来ないとか、いろいろあります。・・・最後の写真、磐田駅ですね。できれば画像の右に少し進んでもらったら、よそ者のオイラでも自慢できる楠の木がド?ンって鎮座してるんですよ。・・・見付けの学校とか、オイラも横浜に戻る前に一度は足を運んでみます。
    >
    > それにしても、こういう旅って羨ましいです。したいな?。
    > 三昧
    >

ムッシュさんのトラベラーページ

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

価格.com旅行・トラベルホテル・旅館を比較

PAGE TOP