1969/07/27 - 1969/08/20
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ノスタルジアさん
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1960年代後半に長期旅行や本格的登山に適する、大量に荷物の入る大きなリュックサックは横長のものしかなかった。これは幅が80cm程度あり、背負ったままでは列車の通路や出入り口は前向きに歩くことができず、カニのような横歩きを強いられたこと、またリュックサックを背負った後ろ姿がカニを思わせることから、この名が自然発生し1967年8月7日付けの朝日新聞で「カニ族」と紹介され、以後その呼称が定着した。
登山者を除いたカニ族の主体は、余暇の多い学生等の若者であった。1970年代以前の日本では、自分の自動車やオートバイを持つ若者は少なく、長距離・長期間の国内旅行には鉄道が利用された。
「暇はあるが金はない」若者たちは、費用を切り詰めながら、「カニ族」スタイルで多くの荷物を背負って普通列車や急行列車で長旅を行い、独特の「貧乏旅行」文化を構築していった。特に彼らの間では北海道の人気が高く、夏の北海道内ではジーンズにリュックサックという「カニ族」たちの姿が随所に見られ一大ブームとなった。また彼らは国鉄の周遊券の利便性を生かし、目的地や行程を柔軟に変更する気ままな旅行スタイルを好んだ。
カニ族が目指した場所は、札幌などの大都市や阿寒湖のような有名観光地ではなく、利尻島や礼文島のような離島や、知床や襟裳岬のような不便な半島など最果てを目指す傾向があった。
国鉄は北海道へ往復でき、道内で自由乗降が可能な均一周遊乗車券を発売した。これらは往復の経路及び道内において、急行列車の普通車自由席を無制限に利用できる、という極めて割安な乗車券だった。
利便性の高い周遊券、そして移動時間と宿泊費の節約になる夜行列車は、カニ族たちに好んで用いられた。
交通費の大方は周遊券で賄えたが、国鉄線・国鉄バスで行けない地域には一般の路線バスを利用せねばならず、お金が勿体無くてヒッチハイクを用いた。
交通費とは別に宿代と食費は、カニ族にとっての難題であった。
食事と就寝場所が廉価に提供されるユースホステルは人気も高く、予約してないと泊まれない事も多かったのである。そんな場合、ユースホステルは近くの泊めてくれる、宿泊許可証のないもぐりの食堂やお土産屋を紹介してくれた。その多くは畳やカーペットなどが敷かれているだけで、最低限雑魚寝できるのみの簡素な部屋だった。
それでも費用がかかるのでより徹底した節約策を用いた。当時、深夜・早朝帯に夜行列車が発着するため、待合室のベンチをベッド代わりとして利用した。
カニ族の食費は概して切り詰められがちで、ユースホステルの夕、朝食のご飯を腹いっぱい食べて昼食代を浮かせたり、ヒッチハイクをした運転手さんからご馳走されるラッキーな事も多くあって、ヒッチハイクが病みつきになって「ヒッチハイクと乞食は3日やったらやめられない」になってしまった。
国鉄財政の悪化に伴う合理化により、1975年以降は国鉄のダイヤ改正ごとに急行列車が削減されるようになり、1980年代に入ると昼行・夜行を問わず、主要拠点間の急行列車は大幅に減少する。結果、カニ族の活動が自然と制約されるようになった。大都市を起点に目的地へ往復する手段であった長距離夜行急行列車の廃止進行が大きな制約となったことは否定し難い。
1970年代に入ると若い女性の間ではアンノン族に代表されるファッショナブルな軽装での旅行スタイルが普及し、若い男性の旅行形態でも、貧乏旅行を楽しむような雰囲気が薄れていった。
こうして、旅装と旅行形態の両面から「カニ族」は絶滅に向かい、1980年代以降、「カニ族」の語は徐々に死語となっていった。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 3.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- JRローカル 徒歩
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昭和44年7月27日(日)函館本線 内浦湾の八雲町南部から望む車窓からの駒ヶ岳
横に長く、なだらかで優美な駒ヶ岳は標高1,131m、山容が馬がいなないている姿に似ていることが、山名の由来であると言われている。
昨日、金沢9時20分発の急行「きたぐに」に乗って青森には23時頃に着いた。列車は超満員で秋田駅までの6時間座れず立ちっぱなしで深夜の青函連絡船で今朝、ようやく函館に着いたが睡眠不足で疲れに疲れていたが、車窓からの美しい駒ヶ岳を見た途端それもどこかに吹き飛んでしまった。 -
昭和44年7月27日(日)瀬棚郡今金町の牧場で
青函連絡船の中で瀬棚郡今金町で酪農家の親爺さんと知り合って家に泊まらないかと誘われた。瀬棚郡はどこにあるのかも知らないまま憧れていたカウボーイの真似事が出来ると思って飛びついた。
今は廃線となっているが、当時、函館駅~長万部駅~瀬棚駅を函館本線・瀬棚線経由で急行「せたな」が運行していた。 -
昭和44年7月27日(日)瀬棚郡今金町の牧場で
酪農家の家に着いて昼食を頂いて食べ終えると、親爺さん夫婦は仕事に行く支度を始めて「家で休んでていいよ。」と言われたが、そんなわけには行かないと思い「手伝います。」と言って一緒にトラックに乗った。
着いた所は広大な草原で既に刈ってあった牧草をフォークでトラックの荷台に積み上げてそれをサイロに運び入れる作業だったが、それが大変だった。牧草をフォークで持ち上げるのだが、それが結構重くて、荷台の高さも軽トラではなく2トン車なので高くて大変だった。18時に作業は終った。
夕食の時だった、疲れ果ててしまって空腹なのに食欲が全くなかった。ご夫婦には何かと気遣ってくれて申し訳ないと思ったが、先に休ませて貰う事にして布団に入った。ところがあまりにも疲れ過ぎたせいかなかなか眠れなかった。
翌朝、起きると雨だった。この雨では酪農作業は出来ないと言われて正直ほっとした。その日は札幌に向かった。 -
昭和44年7月29日(火)大通公園
昨晩は札幌駅の待合室で過ごした。待合室のベンチは、当時としては新しいタイプで樹脂製の各椅子は連結していて背中とお尻が収まるが、仰向けに寝ると頭、首、背骨、腰、脚の全てが各椅子の縁に当たって痛くとても寝れるものではなかった。
他の駅の待合室のベンチは仕切りや手すりも無く木製で寝心地も悪く無かった。このような駅の待合室は多くのカニ族によく利用された。 -
昭和44年7月29日(火)大通公園
ここでは今までの疲れを取る為1日の大半を過ごした。 -
昭和44年7月29日(火)大通公園
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昭和44年7月29日(火)大通公園
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昭和44年7月29日(火)時計台
札幌市時計台は、明治時代に建てられてから、場所も建物もほとんど変わっていない。建物の高さは5階建て相当あり、当時、敷地内から時計塔を撮影しようとすると、かなり低い位置から見上げる必要があった。
現在は道路を挟んだ西側にあるMNビルでは、屋外テラスに「時計台撮影プラザ」が設けられており、時計台全体が撮れる。 -
昭和44年7月29日(火)時計台で
このアングルでの撮影は苦労した。 -
昭和44年7月29日(火)北海道大学
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昭和44年7月29日(火)北海道大学
東大紛争はこの年の1月の東大安田講堂攻防戦の終結によって東大紛争は終了したが、北海道大学は紛争中で学舎の幾つかは学生に酔って封鎖されていた。 -
昭和44年7月29日(火)北海道大学で
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昭和44年7月29日(火)北海道大学ポプラ並木で
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昭和44年7月29日(火)北海道大学で
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昭和44年7月30日(水)利尻富士
札幌からの夜行列車で稚内に着き船に乗って礼文島に向かった。船がノシャップ岬を廻りこむとはるか洋上に利尻富士がかすかに見えた。その後天候が悪化して利尻富士が見えたのはこの時だけで礼文島でも帰りの船でも見られなかった。 -
昭和44年7月30日(水)礼文島 桃岩荘ユースホステル宿泊スタンプ
1967年(昭和42年)にオープンして今も営業している。
https://www.facebook.com/桃岩荘ユースホステル-406878479334488/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%83%E5%B2%A9%E8%8D%98%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%9B%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%AB -
昭和44年7月30日(水)礼文島 礼文滝
落差は僅か15mの滝で写真に撮るほどの事ではなかった。 -
昭和44年7月30日(水)礼文島 桃岩展望台に登る途中で
桃岩は、その名の通り、桃の姿に似ている球体状の岩でサイズは、高さ249.6m、幅最大300m。 -
昭和44年7月30日(水)礼文島 桃岩展望台で
晴天であれば展望台からお花畑越しにさぞかし美しい利尻富士が見えただろうに、あいにく1日中濃霧で視界が悪過ぎた。 -
昭和44年7月30日(水)礼文島 地蔵岩
地蔵岩は高さ50mほどで、地蔵が手を合わせて拝んでいる姿に似ていることから命名された。横から押せば倒れそうだった。 -
昭和44年7月30日(水)礼文島 メノウ海岸
かっては宝飾品になるような大きな原石も転がっていたらしいが、今はせいぜい親指程度のものしか見つからなかった。
翌日も天気が悪く濃霧も晴れそうに無かったので、午後の船で稚内に戻った。 -
昭和44年8月1日(金)層雲峡 流星の滝
層雲峡へは均一周遊券が使える国鉄バスで行った。 -
昭和44年8月1日(金)層雲峡 流星の滝
石狩川沿いに延々24kmにわたって続く断崖絶壁。この崖を流れ落ちるいくつかの滝の中でも、もっとも美しいふたつの滝があって、太い1本の滝となって力強く流れ落ちるのが流星の滝で落差90m、標高1,000mの直瀑。流星の滝は高さのある急涯を太い1本の線となって流れ落ちる力強さから雄滝とも呼ばれる、 -
昭和44年8月1日(金)層雲峡 銀河の滝
流星の滝は銀河の滝は落差104m、標高1,000mの分岐瀑で、末広がりになって白糸を垂らしたような流身を持つ優雅さから雌滝と呼ばれている。2つの滝が仲良く寄り添って落ちている事から、夫婦滝の別名もある。 -
昭和44年8月2日(土)知床 宇登呂 オロンコ岩展望台で
オロンコ岩は、その昔、このあたりに住んでいた先住民族「オロッコ族」から、この名がついたといわれ、宇登呂港近くにある、高さが60mもある巨岩。
1 岩礁が透けて見えるほど青く澄んだオホーツク海や宇登呂の町並み、知床連山などが広く見わたせた。 -
昭和44年8月2日(土)知床 宇登呂 オロンコ岩展望台から
https://www.youtube.com/watch?v=6nhVj06DWMg -
昭和44年8月2日(土)知床 オシンコシンの滝
オシンコシンの滝は、斜里町のチャラッセナイ川の河口付近にある滝で標高は70m、落差は50mの分岐瀑。 -
昭和44年8月2日(土)知床 オシンコシンの滝
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昭和44年8月2日(土)知床五湖で
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昭和44年8月2日(土)知床五湖で
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昭和44年8月2日(土)知床五湖 二湖と羅臼岳1,661m
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昭和44年8月3日(日)網走ユースホステル 宿泊スタンプ
昨夜は宇登呂のユースホステルは満員だったので、紹介された廃車にした路線バスの中で寝た。中は座席が外されていて畳が敷いてあっただけの雑魚寝で布団も無く8月なのに寒さに震えながら一夜を過ごした。北海道を旅行する時は寝袋は必需品である。 -
昭和44年8月4日(月)網走刑務所前で
当時、高倉健主演の映画『網走番外地』シリーズの人気により、網走刑務所は観光名所となっていた。
1983年(昭和58年)には、網走刑務所の全面改築工事に伴い、旧刑務所の教誨堂、獄舎などを移築復原した博物館網走監獄が天都山中腹に開館]。刑務所は網走市の観光にも大きく貢献している。 -
昭和44年8月4日(月)網走刑務所内
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昭和44年8月4日(月)屈斜路湖ユースホステル 宿泊スタンプ
屈斜路湖ユースホステルは旅館と併設されていて、ユースホステル客は、フロント、廊下での雑魚寝で旅館客とは、食事、部屋等全ての面で差をつけられていたが料金差を考えれば当然だった。 -
昭和44年8月5日(火)屈斜路湖
写真の劣化が進んでいて実にひどい画像になってしまった。 -
昭和44年8月6日(水)阿寒湖 マリモの島、チュウルイ島で
チュウルイ島は、マリモ展示観察センターが設置されている島で遊覧船で行った。 -
昭和44年8月6日(水)阿寒湖 遊覧船から
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昭和44年8月6日(水)阿寒湖 遊覧船から雄阿寒岳標高1,370.5m
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昭和44年8月6日(水)摩周湖 展望台で
標高600mの展望台に着いた時は霧の摩周湖だったが、反対側の眼下に広がる大平原は陽が当たってはるか彼方の地平線まで見える美しい風景は今でも忘れられないい。
太平洋上を北上する暖かく湿った空気が北海道沿岸で急激に冷やされることで濃い霧が発生する。冷たい霧は外輪山を越えてカルデラの中にたまり、湖面を覆いつくす。 -
昭和44年8月6日(水)摩周湖
摩周湖は景勝地として古くから知られていたが、交通が不便なため、長らくマイナーな存在だった。
1966年に布施明が叙情豊かな絶叫調で歌った歌謡曲「霧の摩周湖」がヒットしたことで摩周湖の知名度は一気に高まった
https://www.youtube.com/watch?v=Gn0WOD0RUJU -
昭和44年8月6日(水)摩周湖
霧がかかって湖面が全然見えない摩周湖を去るのは勿体無くて霧の晴れるのをひたすら待ち続けた。30分ぐらい経ってから湖面を覆っていた霧がスーッと消えていき乳白色の湖面が見えて来た。美しいというより綺麗な湖だった。 -
昭和44年8月6日(水)摩周湖
湖水が綺麗なのは、摩周湖は入・流出河川がない閉鎖湖で汚染されず、
屈斜路湖、阿寒湖、支笏湖、洞爺湖の様な遊覧船、ボートの観光地化は厳しく制限されているからである。
6日は弟子屈のアイヌ人の経営する食堂で泊まった。夕食を食べていたら「ここの2階で泊まれるよ。」と女将さんから言われ、料金もユースホステルより安かったので即決めた。部屋は民宿並みに整備されていて他にも何人かの学生が泊まっていた。 -
昭和44年8月8日(金)根室ユースホステル 宿泊スタンプ
9日は根室から列車に乗って帯広に行き、午後から襟裳岬に向かったが、
交通量が少なてくヒッチハイクがうまく行かず、岬辺りに着いた頃にはとっぷり日が暮れてしまってどこが襟裳岬なのか分からないまま苫小牧に向かって再びヒッチハイクを始めた。
何とか様似町辺りまで来た時、車が停まってくれた、左ハンドルの外車だった、運転席の窓を下げて怖~い顔をしたオニイサンが「お前、何か用か?」、「ス、スミマセン、ヒ、ヒッチハイクです。」、「ヒッチハイクって何だ?!」すると後部座席から「お前、ヒッチハイクを知らないのか、いいから乗せてやれ。」、助手席に乗ろうとしたら「遠慮するなよ、後ろに乗れよ。」と云われて後部座席に乗るといかにもその筋の人が座っていた。
色々と訊かれたが緊張のせいか全然憶えていないが「今夜泊まる所はあるか?無ければ俺の所で泊まらないか?」、「アリマス、アリマス、ダ、ダイジョウブデス。」、「それは残念だな。」、乗っていたのは30分程だったがとても長く感じた。
降りる時、その筋のらしき人はオニイサンに「この坊やに車を停めてやれ。」、それを聞いたオニイサンは驚いた事に車から降りて道路の車線の真ん中に立って両手を広げて、来る車を無理矢理停めて「こいつを乗せてくれないか。」と出で立ちが白いスーツ姿の怖~い顔のオニイサンだったのですぐ乗り換える事が出来た。 -
昭和44年8月10日(日)支笏湖で
乗り換えた車には50代ぐらいの兄、妹さんが乗っていて、実家から嫁ぎ先に帰るのでお兄さんが送る途中だった。「スミマセン、スミマセン、こんな事になってしまって。」。運転席のお兄さんは「いいよ、いいよ、ところでさっきの人とは知り合いか?」、「イエ、イエ、ヒッチハイクで乗せてもらってさっき知り合ったばかりです。」話している内に「今日は遅いから家に泊まって行ったら。」と言われて時計を見ると9時を過ぎていたので泊めて貰う事にした。
妹さんの家は農家で中に入るとご主人がいて自分の顔を見るとびっくりしたので妹さんが経緯を話してくれた。そして妹さんがお腹が減っているだろうという事でラーメンを振る舞ってくれた後、布団を敷いてくれたので寝たが、1時間程経って
襖を隔てた隣りの部屋から言い争う声で目が覚めてしまった。
どうやら離婚話がこじれてしまったらしい、離婚したいのが妹さんで、拒んでいいるのが旦那さんで、離婚させたいお兄さんが説得している構図だった。酒も入っているようだった。とんでもない所に泊まった、と思った。
仲裁に入る訳には行かず、殴り合いになったら止めに入るつもりでいたらその内静かになったが、ほとんど眠れないまま朝を迎えた。
6時頃、外に出ると陽は昇っていて緑一面の農村風景が輝いていて寝不足の目には眩しく感じた。
これ以上居るのは迷惑だと思って既に起きていた妹さんにお礼の挨拶したら「朝ごはん食べて行って。」と言われたが幾らなんでもそこまで世話を受ける訳には行かなかった。
それよりも昨夜の事が話しに出なくて正直ほっとした。お兄さんとご主人はまだ寝ているとの事なので、お礼の伝言を頼んで家を出た。
これを機会に暗くなってからのヒッチハイクはしないことにした。ドライバーからするとヒッチハイクなのか道路を渡る為に立っているのか判らないし、ヒッチハイカーだと判っても、どんな人物か判らないので怖くて乗せられないと思う。ビームアップした車がスピードを出して迫って来る車に対して暗い道端に立つのは危険極まりない、双方にとって危険なのである。 -
昭和44年8月11日(月)白老ポロトアイヌコタン お土産屋のバイトの娘と
ポロトとは「大きい湖」で、その湖畔にあるのでポロトコタン「大きい湖の集落」という意味のアイヌ語地名。
ポロトコタンは昭和40年代、現在地にかつてのアイヌの家並みを再現し、町立の資料館(現在の旧館)を設置したのが始まりで、その後博物館(新館)を増設するなど施設の拡充をはかりながら今日に至っている。入場者は国内外から年間数十万人、財団法人化(1976年)以来累計1700万人を数え、北海道を代表する博物館・観光地のひとつになっている。
当時は、熊の彫り物等を売るお土産屋がずらりと並んでいて資料館があったのかどうか憶えていない。 -
昭和44年8月11日(月)白老ポロトアイヌコタン ヒッチハイクした運転手さんと
アイヌ民族衣装に着替えて記念撮影、レンタル衣装代は有料。バイトの娘から二人とも「似合っている、キマッテル。」とおだてられて木彫りのペンダントを買ってしまった。店の主人が着ていたアイヌ模様の半纏が気に入って、売り物では無いと言われたが頼み込んで売って貰った。 -
昭和44年8月11日(月)登別温泉 地獄谷で
白老ポロトアイヌコタンで買ったばかりのアイヌ模様の半纏を着て支笏湖から登別温泉まで乗せてくれた上の画像の運転手さんと。
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昭和44年8月11日(月)オロフレ峠で
オロフレ峠は洞爺湖と登別を結ぶルート標高930mで大観望とも呼ばれる展望台から倶多楽湖・太平洋・洞爺湖・羊蹄山などを見渡すことができた。 -
昭和44年8月11日(月)オロフレ峠で 登別温泉から洞爺湖まで乗せてくれた運転手さん
標高930mのオロフレ峠の山道を車が喘ぎながらもどうにかこうにかして登るとオーバーヒートしてしまった。幸いにも山頂には売店があって水槽にジュースとかを入れて冷やしていたので、蛇口からラジエータに水を補給させて貰った。 -
昭和44年8月11日(月)昭和新山で
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昭和44年8月11日(月)昭和新山で
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昭和44年8月11日(月)洞爺湖で
洞爺湖沿いの道路でヒッチハイクしている4人連れの女子大生がいて、運転手さんが「彼女たち乗せてやろうよ。」と言ったが、そうなると5人乗りの乗用車、誰かが乗れなくなる、そうなると自分しかいない、それは困ると思ったが、またヒッチハイクをすれば良い、と一瞬の内に「はい、いいですよ。」と答えた。写真を撮って車から自分のリュックを取り出して運転手さんにお礼を言い出したら「6人乗れるから大丈夫だよ、乗って行けよ。」、女子大生たちも「私たち痩せてるから全然平気よ」と言って後部座席に4人乗った。助手席に乗って洞爺湖を一周して同じ宿の昭和新山ユースホステルで降ろして貰った。 -
昭和44年8月11日(月)昭和新山ユースホステル 宿泊スタンプ
http://www13.plala.or.jp/showashinzan/ -
昭和44年8月11日(月)洞爺湖で 女子大生と
彼女たちとは8日、根室で向かう車中で知り合い、根室ユースホステルで一緒になり、9日は帯広まで同じ列車で行き、今日11日、昭和新山ユースホステルで再会した。これは偶然ではなく、こちらから予定を訊いて「俺も一緒、偶然だね。」とか調子良く云って自分の予定を彼女たちに合わせていたのである。元々予定などなく寅さんみたいに風の吹くまま、気の向くまま、相手次第の旅だったのである。
これから先の画像はない、フィルムを全部使ってしまったからである。写真がないせいかこの先の旅については何の記憶も甦らないが、均一周遊券の有効期間は20日間だったので8月15日頃に北海道を出たと思う。
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この旅行記へのコメント (6)
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- shun1950さん 2023/04/26 14:20:09
- 懐かしく拝見しました。
- 初めまして。shun1950と申します。1950年生まれです。ノスタルジアさんと同じ昭和44年7月に均一周遊券で北海道を周りました。ちょうど私は北海道の大学に入学した年ですが大阪出身で大阪の友人達と周遊券で各地のユースホステルを利用して旅行しました。ノスタルジアさんのコースと同じなので益々懐かしく思いました。行く先々には同じ旅行者と出くわしたりで。特に網走駅は今は様変わりしている様ですし天都山のユースも無くなっている様ですね。
北海道には卒業後も4年間住み続けて大阪に帰りました。四国の旅行記も拝見させて頂き、こちらも懐かしいユースHが出てきました。また貴殿の旅行記を楽しみにしております。失礼しました。
- ノスタルジアさん からの返信 2023/04/26 17:31:49
- RE: 懐かしく拝見しました。
- shun1950様、書き込み有難うございました。
私も1950年生まれです。感激しています。
旅先で巡り会っているかもしれませんね。
これを機会に宜しくお願いします。
> 初めまして。shun1950と申します。1950年生まれです。ノスタルジアさんと同じ昭和44年7月に均一周遊券で北海道を周りました。ちょうど私は北海道の大学に入学した年ですが大阪出身で大阪の友人達と周遊券で各地のユースホステルを利用して旅行しました。ノスタルジアさんのコースと同じなので益々懐かしく思いました。行く先々には同じ旅行者と出くわしたりで。特に網走駅は今は様変わりしている様ですし天都山のユースも無くなっている様ですね。
> 北海道には卒業後も4年間住み続けて大阪に帰りました。四国の旅行記も拝見させて頂き、こちらも懐かしいユースHが出てきました。また貴殿の旅行記を楽しみにしております。失礼しました。
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- 2013tomoさん 2020/10/16 08:26:42
- 利尻・礼文島に行ってきました。
- 2013tomoです。
10月7日から3日間のツアーですが
利尻・礼文島に行ってきました。
今回の旅はノスタルジアさんのブログに
啓発されたことが大きいです。
今日(10月16日)、1日目のブログを
アップしましたのでご連絡いたします。
幸いにして海から美しく聳える利尻富士
を見ることができました。
引き続き2日目、3日目のブログをアップする
予定です。
取り急ぎご報告いたします。
(アップしたブログ)
「あぁ、遠くへ行きたい!」
1日目50年ぶりに稚内、離島利尻・礼文島を
訪れた (2020年10月7日~9日)
-
- 2013tomoさん 2020/10/01 18:15:09
- 懐かしい!
- ノスタルジア様
始めまして2013tomoと申します。
近いうちに利尻礼文島の旅行に行く予定があり、
「カニ族」をキーワードとして検索していると
ノスタルジアさんのブログに到着いたしました。
私の旅人生の始まりは1970年の北海道旅行でしたので
とても懐かしくノスタルジアさんのブログと写真を
楽しまさせていただきました。
当時はフォークシンガー加藤登紀子さんの「知床旅情」
(森繁久彌氏作詞作曲)という歌が流行っていました。
「知床の岬にハマナスの咲くころ…」という甘く物悲しい
メロディーと歌詞に誘われて私の旅心は北海道へと向かい
ました。
ノスタルジアさんがおっしゃる通り“暇はあるが金がない”
貧乏旅行をしながら北海道の有名な観光地ではなく
利尻・礼文のような離島、あるいは知床や襟裳岬といった
「地の涯」を聖地のように目指して旅をしたことを覚えて
います。
でも残念ながら当時の旅行の写真は散逸してしまい
曖昧な思い出しか残っていませんでした。
ノスタルジアさんのブログを読んで昔の思い出が少し
鮮明になりました。
ありがとうございます。
これからも旅を楽しみたいですね。
- ノスタルジアさん からの返信 2020/10/01 19:13:33
- Re: 懐かしい!
- コメントありがとうございます。
近いうちに利尻礼文島の旅行に行く予定があり、
島には船ですか?
私も今夏利尻、礼文島に行こうかな、と思っていましたが、天気、コロナの事もあって行けませんでした。礼文から利尻富士の写真を撮りたかったです。
- 2013tomoさん からの返信 2020/10/01 19:25:39
- Re: 懐かしい!
- ノスタルジア様
2013tomoです。
ご返信ありがとうございます。
利尻礼文島へは稚内港からフェリーで渡る予定です。
コロナがありますので不安が残る旅となりそうです。
でも旅(人生も)はいつも想定外の出来事で満ち溢れて
いるのは認識していますので出たとこ勝負だと開き直って
います。
残り少ない人生ですので人様に迷惑を掛けない様に注意
しながら旅を続ける予定です。
旅の結果はまたブログでご報告いたします。
それでは、また。
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