2017/06/01 - 2017/06/01
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ハイペリオンさん
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オフロードバイクに乗っていた若いころ、よく埼玉と群馬の
県境にある林道を走り回っていた。
その時は、御荷鉾(みかぼ)スーパー林道という全長60キロ
はある日本一長い林道を走り終えて、舗装道路に出たところ
だった。
山深い渓流沿いに小さな集落があり、今まで見たことのな
い、変わった様式の家屋が身を寄せ合うように建っていた。
2階建ての長屋づくりのようで、2階には建物からせり出
した形でベランダのようなものがあった。
大きなものになると、2階建てで6戸の住居を持つアパート
と同じくらいは優にあった。
それは何となく、ヒマラヤの秘境、ブータンの家屋を思わせた。
この場所が、群馬県甘楽郡南牧村にある勧能(かんのう)とい
う集落だということを後に知った。
その後、10年以上経って、この場所がどうなっているのか気
になり、400ccのバイクで高速を使って来たことがある。
関越道を熊谷で降り、一般道を走ったが、4時間近くかかった
ような気がする。
それから21世紀になり、高齢化問題がにわかに取りざたされ、
地方の寒村が消滅の危機にさらされているという報道を目に
するようになった。
そんな報道を見るにつけ、思い出すのが20年以上も前に訪れ
た勧能とその周辺の集落である。
人里離れた場所に20軒程度の住居が集まるだけの小さな集落
が、老人で占められているだろうということは容易に想像が
つく。
実際にここ南牧村の高齢化率は実に60%。つまり、10人に6
人がじいさんとばあさんなのだ。
なんせ小さな商店ひとつないところである。農業をするにも
山間部で満足な土地はない。そこで生まれた者が考えるのは
一日も早くこの地を去りたい、その一心ではなかったかと思う。
櫛の歯が欠けるように一軒、また一軒と家がなくなっていく
のではないか、もう一度見ておかないと、あの辺りはぼくが
60歳になるころにはなくなっているのではないか。
集落が消滅してしまう前に、一つの記録として南牧村の南牧
川に沿って生きる集落群を訪ねておこうと思い、三度目の訪
問をすることにした。
東京から交通機関を使って南牧村へ行くには、まずはJRで
高崎へ行く。
高崎から上信鉄道に乗って終点の下仁田へ。そこから、勧能
行きのバスに乗る。
書いてしまうと乗り換えは少ないし、簡単に行けそうなのだ
が、上信鉄道は1時間に約2本、バスは2時間に1本くらい
しかない。
時間を間違うと何時間も待ちぼうけを食らってしまうのだ。
こんな調子だから、普段はアバウトな時間感覚で行動してい
るぼくも、珍しく電車とバスの時間を調べ、スムーズな乗り
換えができるように計画した。
それでも待ち時間は30分とかできてしまう。まあ、田舎に行
くのだから仕方ないが。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- JRローカル 私鉄
-
朝5時半に武蔵野線に乗り、何度か乗り換えて
7時半過ぎに高崎に着いた。
下り線だから空いているだろうと思っていたが、
通勤通学の時間帯だからけっこう込んでいた。
高崎は何度も来たことがある。
競馬にのめり込み始め、週末の中央競馬だけで
は飽き足らず、祝日には地方競馬に行くように
なったころ、日程が合えば高崎競馬場へもよく
来た。クズ人間への道をひたすら突き進んでい
たころだ。
中央競馬ではさっぱりだったが、地方競馬の成
績はかなり良かった。
その中でもとりわけよく勝たせてもらったのが、
ここ高崎競馬場だった。
パドックで馬を見て、馬柱から1頭か2頭を選
び、3頭のボックス買いや2~3点流しで面白
いようにズバズバ当たったものだ。
当時は自分でもなんでこんなに当たるのかよく
わからなかったが、600円くらいから始めて、
帰りの財布は千円札でパンパンになっていた
(1万円札でないのが寂しいが)。
あまりによく当たるので、高崎に移住してプロ
になってしまおうかと考えたほどだ。
その数年後、高崎競馬場は赤字が続き廃止にな
ってしまい、馬券師なんぞにならずに済んでよ
かったと思う。
当時は毎週土日、中央競馬のパドックで1日中
馬を見ていた。
パドックでよく見えた馬を3頭ピックアップし
それを馬連で買っていた。
それが自然に馬を見る力を養えていたので
はないかと思う。
しかし、中央競馬では馬にそれほど差はなく、
どの馬もきっちり仕上げられていて、違いは
見分けられなかったし、馬券もパドックだけ
ではほとんど当たらなかった。
しかし、馬の仕上がりの差がはっきりと出る
地方競馬では、ぼく程度の相馬眼でもじゅう
ぶんに勝てたということなのだろう。 -
駅構内はもう少し大きいような記憶があったが、
意外と小さかった。 -
上信鉄道ののりばの手前にそば屋があったので、
ここで朝めしとする。
確か、昔来た時にあった駅そばだ。
あの頃はもっと古ぼけた施設だった。 -
やっぱりこのへんに来ると駅のそば屋なのにそ
ばがうまい。
西武線の狭山そばのまずさとは全然違う。 -
8時21分発の下仁田行きに乗る。
2両編成の電車で、運転手一人のワンマン
体制である。
途中に大学や専門学校、高校があるので、
若者がたくさん乗っていた。
(写真は下仁田駅に着いた時のもの) -
路線バスに据えられているような運賃箱が
1両目の一番前に置かれていた。
無人駅から乗る客は整理券を取り、降りる
ときにここに料金を入れる。
切符の検札も無人駅のところでは、一番前
のドアだけ開けて、運転手が出てきてやっ
ていた。
「運転手はボクだ、車掌もボクだ、ついで
に駅員もボクみたいなもんだ」状態なので
ある。
駅員がいるようなところでも、パートのお
ばちゃんが制服を着て立っているだけで、
ちゃんとした駅員という感じではない。 -
富岡製糸場がある上州富岡あたりになると乗
客はグッと減って、数人しかいなくなった。
給料は安いだろうけど、こういう単線の小さな
鉄道会社で働くのも大したトラブルもなく、
のんびりしていていいかもしれないと思う。
毎日のように飛び込み自殺があり、その片付け
や振り替え輸送に奔走し、何かあると客から因
縁をつけられ、乗客がまき散らしたゲロの片づ
けをやらなければならない都心の鉄道会社とい
うのも、いくら給料がいいとはいえ、精神的に
かなりつらいものがあるのではないだろうか。 -
高崎からちょうど1時間で終点の下仁田に
着いた。
下仁田と言えば、こんにゃくとネギが有名で、
関東のスーパーならどこでも「下仁田こんに
ゃく」や「下仁田ネギ」が売っている。
駅舎は小さく、駅前にはタクシー会社があ
るくらいだ。
タクシーが1台停まっていたが、運転手は
暇そうで、建物の中の控室で横になってい
るのが丸見えだった。
さて、下仁田に着いたものの、勧能方面へ
のバスは9時55分なので、周囲を歩いて見
ることにした。 -
駅の周囲にコンビニは見当たらず、小さな
焦点がいくつかあるだけ。
古ぼけた電気屋には骨とう品のようなラジ
オが置かれていた。 -
そのラジオの上で三毛猫がなにやら
思案顔でじっとしていた。 -
駅の裏手に回ると川が流れ、集落があり、
山が見える、典型的な日本の山里の風景が
広がっていた。 -
こういうド田舎だから、バスも群馬県が
走らせているのだろうと思っていたが、
地元のタクシー会社による運営だった。
9時55分のバスは雨沢までしか行かない
ので、そこから降りて勧能目指して歩く
ことにする。
次の勧能行きは2時間後までなく、着い
たとしても下仁田に戻るのは14時過ぎま
で待たねばならないのだ。
下仁田から雨沢までは20分程度で、そこ
から勧能も20分程度だから、かなり遠い
が歩いて行けない距離ではないはず。
バスはいくつかのルートが運行されてい
て、主に病院や役場などを回るようだ。
時間が来るまでバスの待合室で待つこと
にした。
ひとりの若い女が、まったく顔を上げず
にずっとスマホを見ていた。
電車はすでに出たし、他の路線のバスも
出たし、ひょっとして同じバスに乗るの
だろうか。
時間通りに来たバスは10人乗りくらいの
マイクロバスで、客はぼく一人だった。
控室の若い女はスマホをするためにずっ
とあそこにいるのだろうか。
運転手に行き先を聞かれたので、「終点
は雨沢か?」と尋ねたら、南牧村の役場
まで行くと教えてくれた。
そこにこの会社の車庫があるらしい。
少しでも勧能に近いならそれに越したこ
とはないので、終点で降りることにした。
タクシー会社の車庫前まで行き、料金は
350円。
ここから勧能まで一人で歩く。
勧能から下仁田行きのバスが12時40分に
出るのでそれまでには着かねばならない。 -
県道93号線を歩いて最初にある集落は
六車(むくるま)。
ここは南牧村のちょうど真ん中に当たる。
勧能はここから長野県方面に西へ歩い
たところにある。
そのまままっすぐ行くと山を越えて長
野の臼田町へたどり着く。臼田から北
へ行くと佐久である。 -
山を切り開いて作ったような猫の額ほどの土地に
十数軒の家屋が寄り添うように建っている。 -
集落の入口近くの土手の上に野の仏がひとつ。
馬頭観音だった。各集落には必ずこのような
仏さまがあるが、すべて馬頭観音だった。
馬頭観音というと、憤怒の形相すさまじくと
いった激怒顔だが、これはずいぶんおとなし
いお顔だ。
すぐ横の小さな石碑には明治年代に据えられ
たとあった。 -
主のいなくなった家はもうこうなるより仕方がない。
このような廃屋がこれからいくつも見るようになる。 -
集落は山と山の谷間を流れる南牧川のそばに
建てられていて、周囲の山からは鳥のさえ
ずりがずっと聞こえていた。
向こうから自転車に乗った老人は、ぼくと目
が合うと笑顔で会釈をした。
ぼくを追い越していった軽トラの運転手も目
が合うと、笑顔で会釈をした。
ずいぶん優しい人たちがいる村だ。 -
これが南牧村の典型的な家屋である。
ご覧のように2階建ての長屋造りのような
様式で、これで1軒である。
南牧村の中ではかなり規模の大きな家屋だった。
屋根はおそらく、以前は瓦で葺かれていたのだろう。 -
砥沢(とざわ)集落入口の馬頭観音。
雨による浸食からか、顔の判別がつかなくな
ってしまっている。
六車で見たのと同じ様式である。
砥沢は南牧村の中でもかなり大きな規模の集
落で、郵便局もあった。
下仁田行きのバス乗り場のベンチにひとりの
老婆が腰かけていた。
バスが来るのは2時間以上後だが、それを待
っているのだろうか。
ここは文字から分かるように、砥石が産出さ
れていたところだった。
江戸時代には良質の砥石が出るということで、
幕府御用達の砥石を作っていた。
そのほかの産業としては養蚕が行われていた。 -
石垣を組み、その上に家屋が建てられている。
材木を見た限りでは相当古い家屋のようだ。 -
砥沢の集落の外れに関所跡があった。
砥石の生産や養蚕で、山奥ながら昔は人の
往来がかなりあったのだろう。
市川寛斎という江戸時代の儒学者にして漢
詩人の漢詩が刻まれていた。
関門倚絶険
是向甲陽道
無人説割拠
落日坐秋草
(関所は険しいところにあって
この道は甲斐へと通じている
割拠せよと説く人はなく
日は落ち秋草の上にすわる)
というかんじだろうか。
・・・ド素人のぼくが現代語訳をしても
まったく意味は通じない。
経験のないことをやるものではないな(苦笑)。 -
砥沢を過ぎると、集落は途絶え、山の中の
一本道をひとり歩くことになった。
周囲は植林された杉の木が野放しにされて
いた。 -
杉植林の森を抜けると羽沢という集落
に出た。
ここを過ぎると次が勧能である。
12時40分の下仁田行きに勧能から乗れ
そうだ。 -
平地になっているところではこのように
石垣を組まずに街道沿いに建てられている。 -
障子は破れ、表札は外され、中は荒れ果て
ていた。
人が住んでいるような家でも障子が破れた
ままのところがあった。
老人だけで住み、客が来ることもない家に
住んでいるといちいち補修する気にもなら
ないのだろうか。 -
ここが羽沢のメインストリートだが、
人っ子ひとり見ない。
そういえば、ここまでほとんど人と
すれ違うことはなかった。
羽沢手前で行われていた崖が崩れな
いように補修工事をしていた人たち
くらいだった。 -
羽沢集落の外れにある家の1階の開け
っ放しの部屋からはおばあちゃんの背
中が見えた。
ひとりでテレビを見ているようだった。
1階も2階も窓が大きく採られており、
1階の窓を開けると縁側のようになって
いるのではないかと思われる。 -
かなり古い家屋だ。築50年はあるのでは
ないだろうか。
2階部分がベランダとともにすこしせり
出した形になっている。 -
杉の木に弦が巻き付き共に天まで伸びようと
している。 -
羽沢の集落を後にし、しばらく歩くと
勧能の集落に着く。 -
ちょうど12時に勧能着。
10時15分ころから歩き始め、1時間45分である。
7~8キロは歩いたのではないだろうか。よく歩
いたなあ。 -
県道沿いに家はなく、このように渓流沿い
に並んでいる。
だいたい20戸程度の家屋が並んでいた。 -
集落に入ったところに、お決まりの馬頭
観音が。 -
瓦屋根だと手入れが大変だからか、ほと
んどがこのように鉄板の屋根になっている。
県の重要文化財に指定されたりしたら、
こんな改修はできないだろう。
群馬県としてはこのような造りの家屋群
にまったく価値を認めていないのだろうか。
きちんと保存すべきだとは思うが、村全
体が存続の危機だから、それ以上に手を
打つべきことがいろいろあるのかもしれ
ない。もったいない話だ。 -
集落の中にはこんなものが。
キリスト教になど絶対に興味を示さなさ
そうな人たちがいるところにまでなんと
か入り込もうとしている。 -
家の郵便ポストではない。集落唯一の集荷
用ポストである。 -
集落の外れには、廃屋が2軒。
今にも石段から崩れ落ちそうなくらい
ボロボロだった。 -
その隣には、つづら折りに組まれた
石段の先に蔵を持つ大きな家があった。
このほかにも、家紋の入った蔵2棟
を擁する、いかにも「豪農」といっ
ていい家があった。
裕福な家もあったようだ。 -
実際、南牧村は豊かな村だった。
養蚕や砥石、そしてこんにゃく芋の栽培で
かなり裕福な農家が多かった。
特に、南牧村産のこんにゃく芋は、全国随
一のシェアを誇った。
こんにゃく芋は平地の水はけが悪い土地で
は根腐れして育たず、傾斜地で水はけの良
い南牧村ではよく育ったのだ。
こんにゃくの荒粉(あらこ)をセメント袋
1袋分を出荷すると3か月は食べられたとい
うから、1年間で相当な収入があったはずだ。
蔵付きの大きな屋敷はその時代に建てられたの
かもしれない。
しかし、それも半世紀前の話である。
その後、平地でも栽培可能なこんにゃく芋
が開発され、南牧村の専売特許ではなくな
ってしまった。
こんにゃく芋の生産が衰えると、次は杉の
木を植えて林業に転換した。
しかし、安い輸入材に市場を奪われて、杉
林はほったらかしにされた。
勧能に来るまでに見た杉林はすでに放置さ
れたものだったのだ。
いくつかの産業に見放された南牧村から人
が流出していくのは必然というしかない。
そして、人口は2千人を切り、消滅可能性
が最も高い村などと呼ばれるようになった。
六車から勧能までにいくつかの廃屋があっ
たが、10年後、廃屋の数はさらに増えてい
るに違いない。
この県道沿いに住む人がどんどん減り、千
年以上人が住み続けた南牧村は、やがて自
然に帰っていくのだろうか。
この流れを止める力は今の日本には残って
いないだろう。
なんとなくしんみりした気持ちになり、バ
ス停の控室で12時42分のバスを待っている
と、おばあちゃんが一人入ってきた。
「暑いですねえ」
「ここのバスは時間通り来なくて」などと
とりとめのない話をしながらバスを待った。
ほぼ時間通りにバスは来て、ぼくとおばあ
ちゃんを乗せてバスは下仁田駅に向けて出
発した。
運転手は30代の若い男で、途中から乗って
きた別のおばあちゃんと大きな声で話をし
ていた。
客は数人になり、途中の病院や高齢者施設
で降ろしたり乗せたりしながら下仁田駅に
着いた。 -
下仁田駅に着いたのは13時15分。
昼飯を食べたかったが、電車が35分に出る
ので、あきらめた。
これに乗り損ねたら、1時間待たねばなら
ない。
駅員が改札を開けたので、電車に乗ったが、
乗っているのはぼく一人だった。
13時35分、高崎行きしゅっぱあ~つ。
↓ ↓ ↓
https://youtu.be/PMalaqtnXG0 -
1時間後の14時35分に高崎に着いた。
なんとなく自分の文化圏に帰ってきた気分だ。
高崎線の上り線に乗って大宮まで行き、そこ
から、武蔵野線の混雑が嫌なので川越戦で川
越に戻り、西武新宿線の本川越駅から家に帰
った。
群馬県なのに、たっぷり12時間の日帰り旅行
だった。
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この旅行記へのコメント (2)
-
- Reinheitsgebotさん 2019/10/07 09:39:10
- もう数十年前のことですが
- 93号線の手前、小沢だったかの集落から県道202号線を一時間ほど歩いたところに親類の家がありました。上信電鉄を下仁田で降りて、バスで小沢まで。あとは徒歩です。
蒟蒻芋を栽培し、二階家の2階で蚕を飼ってという、当時の典型的な上州の農家でした。小学校2年の頃、一週間くらい泊まってましたが、川遊びくらいしかすることがないところで、よく飽きなかったものです。
グーグルのストリートビューでも見ることはできますが、懐かしい風景だったのでお邪魔しました。
- ハイペリオンさん からの返信 2019/10/07 13:35:00
- RE: もう数十年前のことですが
- はじめまして。
古い旅行記への投票、どうもありがとうございます。
昔の風景と比べていかがでしょうか。あまり変化は
ないのかもしれませんね。
あの長屋造りの家は蚕農家の様式なのですね。
かなり大きな家もあり、昔は裕福だったんだろうな
と思わせるところもありました。
これから少しずつ人がいなくなっていくのでしょう
が、変化を見届けたいと思っています。
どうもありがとうございました。
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