2017/04/24 - 2017/04/24
40460位(同エリア84897件中)
ジバゴさん
護国寺の数寄者達の墓所お参りは2014年に初めて行ったが今回3年ぶりに2回目のお参りした。 今回は團琢磨を中心に同時代の数寄者達の墓所をお参りした。 思いかけず寺を住処とした猫との再会があったのは奇遇だった。
昼頃に護国寺の後にしてバスで上野迄行き、昼食を食べた後スマホの充電しようとタリーズコーヒーに入った。ところがぎっちょん、持っているつもりでいた充電器ケーブル一式が石川町のホステルのコンセントに挿しっぱなしだったことを席に座ってから思い出したが後の祭り。そのため撮影は出来ずに終わってしまった。反省しきりである。
上野からは昨日に引き続きバスで浅草山谷堀まで「玉紫陽花」を探しに行った。 ところがスマホ電池切れでネットに繋がらず詳しい場所が判明せず、またもや分からずずまい。 こうなったら意地でも見つけようと明日も来ることとした。
--------------------------------------------------------------
数寄者(すきしゃ、すきもの)は芸道に執心な人物の俗称。「数奇者」と書く場合もある。 現代では、本業とは別に茶の湯に熱心な人物、特に多くの茶道具を所有する人物として用いられる。
團 琢磨(だん たくま 安政5年8月1日(1858年9月7日) - 1932年(昭和7年)3月5日)は、日本の工学者、実業家。爵位は男爵。アメリカで鉱山学を学び、三井三池炭鉱の経営を行う。経営を成功させ、三井財閥の総帥となった。三井合名会社理事長、日本工業倶楽部初代理事長などを歴任した。1932年(昭和7年)3月5日、東京日本橋の三越本店寄り三井本館入り口で血盟団の菱沼五郎に狙撃され、暗殺された(血盟団事件)。
- 旅行の満足度
- 4.5
-
JRで神田駅まで地下鉄に乗換えて護国寺で降りる。
これは護国寺仁王門。 -
境内案内図
普通は仁王門をくぐり不老門迄ストレートに行くが、今回は道草をした。 -
不老門に至る石段を登る手前に左右に水屋があるのだが、右側の水屋の脇道を入っていくと、こんな石牌がありました。童謡の「からすの赤ちゃん」の詞と楽譜、「海沼實」と刻まれています。 他に説明板は見当たらず、ナゼこの場所に?と不思議でしたが、ググって納得しました。
からすの赤ちゃん(からすのあかちゃん)は、作詞・作曲とも海沼實(かいぬま みのる、1909年(明治42年)1月31日-1971年(昭和46年)6月13日)の作った童謡。作詞作曲とも本人が手掛けた数少ない作品の一つ。
護国寺に音羽ゆりかご会(合唱団)を創設し、最初の大ヒット「お猿のかごや」(1938年(昭和13年)作詞:山上武夫)を出しながらも、同郷の作曲家草川信に師事して作曲を学んだ。
音羽ゆりかご会は、文京区の護国寺境内で発足した、日本で最も伝統ある合唱団です。護国寺と品川さらに目黒に教室があります。 -
近くに民謡牌、慰霊牌もあった。
これはググっても出所不明でした。 -
道なりに進むと石を積んだ階段が現れ登れるようになっていたので進む。
-
なにやら風光明媚な山道を往く赴きである。
-
おお!! 頂上が近いのか? お宮さんが見えてきた。
-
富士浅間神社とある。
ググったらこの山(標高7メートル)は富士塚の「音羽富士」というらしい。
都内の富士塚は50箇所以上あるようですが、寺の敷地内に富士塚があるのは護国寺の音羽富士だけ。だそう。
本物の富士山に登ったことは無いのでこの山で我慢したい。 -
さて桜色になった山道を下山しよう。 遭難しないようにユックリ降りる。
-
気分を変えて不老門の石段を登る。
-
不老門の途中から左手に小道がありその先に門がある。ココに行く。
-
護国寺には九室十席の茶室がある。
ここは圓成庵(えんじょうあん)& 不昧軒
松平不昧の墓の移築のお礼に建てられた圓成庵と不昧軒がある。天徳寺にあった不昧遺愛の品といわれる出雲石の灯籠(とうろう)と蹲(つくばい)などを使った茶室で、東京の茶道具商二十八人の協力で建てられた。 -
茶室群を見て車道を進む。
-
葵紋の門扉なので貴人専用門かと思われる?
-
「月窓軒」「化生庵」水屋入り口
-
茶室の位置図
-
月光殿入口(重要文化財の月光殿(旧日光院客殿)はこの建物の背後にあり、この画像では見えない)
滋賀の園城寺(三井寺)にあった日光院という塔頭の客殿にあった。
日光院は明治維新で廃寺となったので明治二十年頃、原六郎氏が譲り受け、品川御殿山に移して慶長館とい称した。
護国寺は徳川五代将軍綱吉の建立した寺で新義真言宗豊山派に属するが、昭和三年客殿を建てる計画があった時に原氏より寄贈され、移築された。当時工費は四万円。
工は仰木魯堂。国の重要文化財。 -
護国寺は天和元年(1681)五代将軍徳川綱吉が、生母桂昌院の願いにより創建した祈願寺である。
垂れ幕に三葉葵紋と繋ぎ九つ目紋(桂昌院の実家本庄家の家紋) -
これから本格的に墓参を開始する。
まず團琢磨の墓所の位置を社務所にて教えてもらう。 -
突然、猫と遭遇する。 この猫は三年前に見掛けた猫じゃあるまいか? 人が近づいても逃げない怖がらない性格は一緒だ。
-
こちらが三年前(2014年11月)に撮影した猫。 松平不昧の墓所に居た。
比べるとよく似ている。位置的にほとんど離れていない。近い。多分同じ猫だろう。 -
こちらが本日のテーマ、團琢磨家の墓所。
益田孝(鈍翁)の後継者で三井合名の理事長であった。近代の数寄者の一人で横濱の原三溪のライバルだった。
自宅宅地が6497坪で東京ドームの約半分(45%)自宅からJR千駄ヶ谷駅と原宿のホームが見えたそうな。 自分は知らないタレントだが團遥香の高祖父。
團 琢磨(だん たくま 安政5年8月1日(1858年9月7日) - 1932年(昭和7年)3月5日)は、日本の工学者、実業家。爵位は男爵。アメリカで鉱山学を学び、三井三池炭鉱の経営を行う。経営を成功させ、三井財閥の総帥となった。
1932年(昭和7年)3月5日、東京日本橋の三越本店寄り三井本館入り口で血盟団の菱沼五郎に狙撃され、暗殺された(血盟団事件)。 -
-
團琢磨本人の墓牌
-
昭和7年3月5日 男爵團琢磨 享年七十五
-
團家累代の墓牌
團伊能(長男)、團伊玖磨(長孫)もココに眠る。 -
團琢磨
芳子
幸子
伊能
美智子
伊玖磨
和子 -
灯籠二基あり。
昭和七年七月十三日(暗殺された年の新盆) -
同上 墓に向かって左
-
-
寄進者
男爵 益田孝(鈍翁)
益田多喜子(鈍翁側室) -
続寄進者
高橋義雄(箒庵) -
左 寄進者
野崎廣太(幻庵) -
続寄進者
室田義文
森田茂吉 -
團家の隣に見えるのは仰木敬一郎(露堂)の墓所。
仰木魯堂(おうぎ ろどう、文久3年(1863年) - 昭和16年(1941年)9月20日)は大正、昭和初期の茶人、建築家。本名は敬一郎。数寄屋建築で知られる。弟に木工家仰木政斎がいる。
大正9年(1920年)には原宿の團邸近く千駄ヶ谷に転居し、同人の美術品の蒐集に関わった。大正末年からは高橋義雄による護国寺再興に当たり、多宝塔や茶室群を任された。 -
團家と仰木家とは極めて親しい関係で團家墓所を設計したのは仰木露堂である。
-
埋経塚 昭和十年建立 題字は益田鈍翁
田中親美が調整した金銀彩色の料紙八巻に320名が写経した経巻が大型鍍金の経筒に納め埋納された。 -
仰木露堂墓牌
-
露堂と夫人
-
-
十一面観音像
-
-
コチラは益田家の墓所
-
益田孝(鈍翁)胸像
-
益田家墓碑
今回は墓碑が据えてある。 -
三年前は墓碑が無くて??と思ったものでした。
-
-
-
コチラは山県有朋の墓所 進入出来ないように成っていて外から撮影する。
寺に鳥居があるのが不思議だが普通なのか? -
-
元帥 公爵 山県有朋墓
-
ここにも鳥居がある。
以上
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
52