2017/04/20 - 2017/04/20
20906位(同エリア33428件中)
ムッシュさん
島田宿から大井川を渡り、金谷宿、小夜の中山峠を越えて日坂宿、掛川へ。
【島田宿】
島田宿は東海道随一の難所大井川を控え、川越宿場として大いに賑わいました。天保十四年(1843)の東海道宿村大概帳によると、島田宿の宿内家数は1,461軒、うち本陣3、旅籠48軒で宿内人口は6727人でした。
- 旅行の満足度
- 4.0
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江戸時代の島田宿
東海道随一の大井川を控え、川越宿場として大いに賑わった
天保14年、1843年の東海道宿村大概帳によると、家数1461軒、本陣3,旅籠48、人口は6727人でした。 -
カラクリ時計台。左下、足元に下本陣跡標石がある。
帯踊りの奴が踊り出すスタート地点。おび通りという
塔の左下足元に下本陣標石がある。
置塩藤四郎が下本陣を勤め、建坪271坪でした。
【刀匠顕彰碑】
島田の刀鍛冶は室町時代より江戸時代末期にわたる約四百年間の歴史を持ち、繁栄期にはこの島田に多くの刀工が軒を連ね、鍛冶集団を形成していたという。
その系譜は義助、助宗、広助を主流とし、作風は相州風、備前風、などのみえる業物打ちであった。江戸時代になると貞助系、忠広系が派生し、信州などに進出していった刀工たちもある。彼ら島田鍛冶は地方的な存在であったが、戦国大名の今川・武田・徳川氏などに高く評価され、多くの武将に珍重された。とくに、義助の「お手許の槍」や、武田信玄所蔵という助宗の「おそらく造りの刀剣」など、刀剣史上に今なおとどめる秀逸な作品も少なくない。紀行文や文芸作品・芸能にも島田鍛冶は取り上げられ、往時の繁栄ぶりと名声のほどがうかがわれる。また室町末期に活躍をした連歌師宗長は、島田の刀工義助の子であったといわれている。島田鍛冶集団は、中世末期から近世にいたる島田の歴史の中でも、とりわけ燦然と輝いている(島田市) -
【帯祭り大奴像】
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【帯祭り大奴像】
三年に一度行われる帯祭りは日本三大奇祭のひとつです。昔、この地に嫁いだ花嫁は晴着を来て、大井神社?に参詣し氏子になり、参詣後は宿内を着飾った花嫁を披露して回る習慣があった。見世物扱いでは可哀想と、男性が、帯だけ披露するようになったという。 -
【大井神社】大井川の水神を祀っている。かつ、島田宿の鎮守である。
参道の入り口には、安政3年、1856年江戸~大阪間の飛脚たちが道中と大井川越えの無事を祈って奉納した燈篭が立つ。
【大井神社】
大井神社は、貞観七年授駿河国正六位上大井神と三代実録に記載の見える古社である。昔、大井川が乱流し、度重なる災害に悩まされた里民は、子孫の繁栄と郷土の発展の為に御守護を祈るべく大井神社を創建した。幾度びかの御遷座の後、島田宿が東海道五十三次の要衝として宿場の固まった元禄初年、当地に正式に遷座し、元禄八年より御しんこいの神事が始まり、下島(現御仮屋)の旧社地は御旅所と称せられ、日本三奇祭「帯祭」と讃えられるようになった。島田宿の氏神として尊崇され、また、大井川川越の公家、大名、一般旅人からも大井川渡渉の安全を祈願する為深く信仰された(碑文) -
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【大善寺の梵鐘】
時の鐘でした。明け六つ(日の出)の鐘で、大井川の川渡しが始まり、暮れ六つ(日の入り)で終了した。梵鐘は戦争時に供出され今は無し。 -
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【島田宿大井川 川越遺跡】
元禄九年(1666)の川越制度の制定に伴って、川役人が川越業務を行ったところです。
現存する建物は、安政三年(1856)に建てられたもので、明治以降、数回に及ぶ移転を経て、昭和四十一年(1966)建立当初の位置に近い現在所に復元保存されました。なお、金谷側にも同様の施設があったと考えられますが、現存していません。
【川会所と川越制度】
江戸時代の初期、慶長六年に幕府は宿場伝馬の制を定めて東海道に五十三次の宿場をおき、江戸城の要害として大井川に渡渉制度をしいた。
この渡渉は江戸時代初期においては比較的自由なものであったが、貞享・元禄のころから制度の内容を更にきびしくして、元禄九年には二人の川庄屋をおいた。川会所はその渡渉を管理するための役所であって、大井川畔三軒家(現在の河原町)に建てられ、川庄屋のもとに年行事・小頭・口取・待川越等の役のものをおいて日々川の深浅による渡渉賃銭の取り決めや、公卿や大名をはじめ各種公用人から庶民に至るまでの通行人の渡河順序の割振り諸荷物等の渡渉配分などの円滑な運営をはかるとともに、規定の渡渉地点以外から越える廻り越しの監視などを厳重に行った。
川越人夫は幕末近くまでは、島田・金谷とも各360人が定められていてそれらは1番から10番までの10班の組に分けられ、日々の交通量に見合して各組の出番を指示した。
それら出番組の川越人夫の集合所としての番宿・川越の補助的作業を問う仲間の宿・川越札の現金引換である札場・荷物の繕いを行なった荷縄屋等が設けられていたものである。
川越制度は明治維新まで続けられたが、明治三年五月、民部省からの通達により架橋・渡船の禁が解かれこの制度は廃止された。
川会所の建物はそののち大井川通船の事務所や学校校舎の一部に利用されその位置も移動されたが、昭和三年、国道大井川鉄橋の架設を記念して鉄橋端大井川公園に移されて保存されることになった。そののち久しく等閑に付されていたが、昭和四十一年八月一日、島田宿大井川川越遺跡として文部省から指定を受け、昭和四十五年八月三十一日に旧跡地に隣接して復元完成されたものである。
大井川越賃(幕末まで)
一、脇 通 九十四文
一、脇下通 八十八文
一、乳 通 七十八文
一、乳下通 七十六文
一、帯上通 六十八文
一、帯 通 五十八文
一、帯下通 五十二文
一、股 通 四十八文
川越の種別
一、肩車 一人が旅人を肩にまたがせ水の深い時には他の一人が手を引いて渡った
二、蓮台 4種類書かれていたが写真では読み取れなかったので省略
昭和四十六年二月 島田市 -
塚本家。
九州肥前の大村藩27900石の専用の休憩所で、今も上段の間が残っている。 -
秋葉神社。川越の火伏です。
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【川会所】
このあたり川越え遺構が復元されている。
川越人足は番宿に控え、立会宿は人足頭が会合し、札場は人足が受け取った川札を換金する所だった。川会所は、料金を決めたり、川札を発行した。
川越しの料金を決めたり、川札を売った所。元禄9(1696)年に川越制度が確立されてから、川役人が川越業務を行なってきた建物です。現存する建物は安政3(1856)年に建てられたもので、明治以降数回の移転を経て、昭和45(1970)年、川会所跡の西側の現在地に復元保存されました。川会所の中には連台などが展示してあります。川越しに関するボランティアガイドもおりますので、お気軽にお尋ねください。なお、金谷側にも同様の施設がありましたが、現存はしていません(島田市)
【芭蕉句碑】
敷地内には、「馬方は 知らじ時雨の 大井川」の句碑があります。
元禄4(1691)年、まだ川越制度が確立していない頃に、松尾芭蕉が大井川を渡った時の心境を詠んだといわれています(島田市) -
【川越街道】
島田市博物館から北へ続くルートは、昭和41(1966)年に国指定の史跡となった【島田宿大井川川越遺跡】
江戸時代、幕府により架橋、通船を禁じられていた東海道最大の難所、大井川では旅人たちは川越人足たちの手を借りなければ渡ることができず、川越遺跡周辺は大変賑わっていました。島田宿の川越しの拠点となったこの地は、現在も当時の町並みが復元・保存されている、江戸時代の情緒を残す空間です(島田市) -
【川越の籠】
蓬莱橋
全長897.4mで世界一長い木造歩道橋。ギネス登録済。 -
【川越人足の詰所】
川越人足は一から十までの組に分けられ、各番宿にて待機していました。現在は三番宿、十番宿を公開しています。
島田宿の川越人足は当初350でしたが、幕末には650人でした。水深が136cmで川止めとなった。 -
浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像
【東海道五拾三次之内・ 嶋田 大井川駿岸 広重画】24
約1.3kmの川幅を持つ難所の大井川。大名行列、武士、町民などさまざまな人たちが渡ったり、順番待ちしている様子を遠くから俯瞰している図
駿河国側の川越の様子。先頭は参勤交代の大名行列。
「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と詠まれた随一の難所。 -
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現代の大井川橋。全長845m。
車道、人道が整備され、現代の東海道歩道はここにある。
大井川は、駿河国、信濃国、甲斐国の国境にある間の岳に源を発し、赤石山脈と白根山脈の間を流れ駿河灘に注ぐ。 -
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【大井川の川渡の風景画】「金谷宿東公園」
この川は、「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と詠まれ、東海道隋いつの難所でした。
島田宿に抱えた川越え人足は350人、幕末は650人でした。
水深が4尺5寸(136cm)を超えると川留となり、川留が長引くと旅人で溢れ、藤枝、岡部宿まで賑わったという。
【金谷宿】
室町のころはちいさな宿場で、当時は菊川の方が栄えていたといいます。本格的に宿場として利用されるようになったのは、東に大井川、西に小夜の中山峠という難所をひかえて、江戸時代東海道五十三次の主要な宿駅のひとつとなってからでした。
金谷宿は、金谷本町と金谷河原町の二町にわかれていて、金谷本町が他の宿場と同じように伝馬役を務め、河原町が大井川の川越しを取り仕切る川越役・徒渉(かち/歩行)役目を担っていました。
天保十四年の記録『東海道宿大概帳(だいがいちょう)』によると、金谷宿の全長は東西16町24間、宿内人口は4,271人、宿内家数は1,400軒でした。
宿内には本陣3軒、脇本陣1軒、旅籠51軒(他に木賃宿も)などの宿泊施設と、川合所などの川越し施設があり、宿場に常備しておかなければならない馬や人足の数は人足が155人5分、馬が100疋で、加えて水害にも苦しみ、これらは町の大きな負担となっていました。のちに川越しのための人足を確保するため、周辺の村々が助郷村に組み入れられました(元禄七年)。「ネット広報より」 -
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【義人仲田源蔵像】
天保12年、1841年八軒屋で生まれ醤油屋として家督を継いだ。明治3年1870年、大井川川越制度が廃止されると川越人足は失業し困窮を極めた。見かねた源蔵は、金谷方の人足総代を引き受け、国に直訴して牧之原茶園開墾許可を獲得し、私財をなげうって大井川木橋の架橋を成し遂げた。 -
島田宿の対岸、金谷宿です。
金谷宿は東に大井川、西にやはり難所の小夜の中山を控え、大いに賑わった。
天保14年、1843年では、家数1004軒、人口4271人でした。 -
金谷川です
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著作権フリー作品「富嶽三十六景」からの画像
【葛飾北斎 富嶽三十六景・東海道金谷ノ不二 北斎画】25 -
浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像
『東海道五拾三次之内 金谷 広重画』25 -
『東海道金谷宿案内絵図』
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「金谷一里塚跡の立て札」
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山田屋本陣跡
山田三右衛門が勤め、本陣は建坪97坪であった。 -
【旧東海道石畳、金谷坂】
牧之原台地から滑りにくい丸石を運び、敷き詰め石畳みにした。長さ430m。
金谷坂は大きな木々に囲まれた風情のある石畳の坂道で、江戸時代に残された遺構に加えて町民によって整備されたもので、入口には石畳茶屋があります。金谷坂を菊川側に抜けると、そこには日本一のお茶処牧ノ原台地の茶畑が広がっています。さらに300mほど進むと諏訪原城跡があり、その先は菊川坂へと続きます。 -
六角堂があり、【すべらず地蔵尊】が安置されている。
石畳復元の際、滑らないことを祈願したもの。現代では、受験生の守護神になっている。 -
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石畳みは、長くつながっている。
【長寿・すべらず地蔵尊】
このお地蔵様・六角堂・鞘堂は、町民の手により据えられたものです。すべらずの地蔵のいわれは、ここの石畳は「すべらない」という特徴から、受験や商売など、何事にも願いが叶うということからきています。
【金谷坂の石畳(金谷峠)】
この石畳は、江戸時代幕府が近郷集落の助郷に命じ、東海道金谷宿と日坂宿との間にある金谷峠の坂道を旅人たちが歩きやすいように山石を敷き並べたものであると言われています。近年、わずか30mを残す以外はすべてコンクリートなどで舗装されていましたが、平成三年、町民約600名の参加を得て実施された「平成の道普請」で延長430mが復元されました。いま、街道の石畳で往時を偲ぶことができるのはこの金谷坂のほか、箱根峠、中山道十曲峠の三箇所だけとなりました。(島田市) -
石畳み坂を上り詰めると舗装道路に出た所です。ここが下り口の説明もあります。
【菊川坂と金谷坂】
江戸時代、東海道を行き交う旅人たちにとって、金谷の峠越えは、粘土質の山道であったため大変難儀をしていました。このため、近郷近在からの助郷役により、石畳を敷いて旅人の難儀を救ったといわれています。
この故事に因んで、菊川坂と金谷坂を平成の今、再び蘇らせました。
菊川坂は、二十一世紀の幕開けの事業として平成十三年一月二十一日静岡県内の東海道二十一宿をはじめ、周辺地元菊川地区や町内からの助郷役の人たち五百名を超える皆さんの力で道普請に着手。平成十二年の発掘調査で確認された江戸時代後期の現存する部分を含め約七百メートルの石畳が完成しました。
金谷坂は、町民一人一石運動により集められた山石七万個をもって、平成三年十一月二十四日子供たちからお年寄りまで五百名余の町民の力で道普請に着手、翌年三月に四百メートル余の石畳が出来上がりました。
江戸時代後期の石畳そして、平成の道普請により出来上がった石畳に、それぞれ、むかしの旅人へのあるいは平成の助郷役の人たちの思いを馳せながらこの石畳を踏みしめてみてください。 (金谷町) -
明治天皇御駐車?跡碑です。天皇御一行も坂を上って小休止でした。
スグ先に芭蕉句碑「馬に寝て 残夢月遠し 茶の烟」があります、野ざらし紀行の中の一句です。これは芭蕉41歳のときの句で「金谷宿を夜明け前に発って 馬上で夢うつつの状態のとき、中山峠にさしかかる辺りから 茶の香りがしてきて ハッ!と目が覚めた」 -
【石畳の菊川坂】
菊川集落への下り道です。
『菊川坂石畳』
菊川坂石畳は、平成十二年の発掘調査において江戸時代後期の石畳として存在が確認されました。旧東海道の中では箱根に次ぐ二例目として、徳川家康が定めた五街道の中でも数少ない現存する石畳として高い評価を受けております。菊川の里は、吾妻鏡の中の建久元年源頼朝上洛の記事に「一三日甲午於遠江国菊河宿・・・」とあり、これが菊川の里の初見です。承久三年(1221)の承久の乱で鎌倉幕府に捕らえられた中納言宗行卿が鎌倉へ送られる途中この菊川の里で詩を残しています。更にその百年後、元弘元年(1331)の元弘の変で捕らえられた公卿日野俊基が鎌倉への道すがら、この里で歌を残しています。 江戸時代には、西の日坂宿、東の金谷宿の間にあって、いわゆる「間の宿」として多くの旅人たちの利便を図ってきました。 このように、菊川の里は、昔から時代の変遷の中で東海道の駅として大切な役割を果たしながらロマンと重みのある歴史を刻んできました。(金谷町) -
東海道菊河の標示もあります。現在の呼称は菊川です。
菊川の里会館入り口に宋行卿誌碑と日野俊基歌碑がある。
源頼朝の宿泊記も残る菊川。
【菊川坂石畳と間の宿菊川】
菊川坂石畳は、平成十二年の発掘調査において江戸時代後期の石畳として存在が確認されました。旧東海道の中では箱根に次ぐ二例目として、徳川家康が定めた五街道の中でも数少ない現存する石畳として高い評価を受けております。
菊川の里は、吾妻鏡の中の建久元年源頼朝上洛の記事に「一三日甲午於遠江国菊河宿・・・」とあり、これが菊川の里の初見です。
承久三年(1221)の承久の乱で鎌倉幕府に捕らえられた中納言宗行卿が鎌倉へ送られる途中この菊川の里で詩を残しています。
更にその百年後、元弘元年(1331)の元弘の変で捕らえられた公卿日野俊基が鎌倉への道すがら、この里で歌を残しています。
江戸時代には、西の日坂宿、東の金谷宿の間にあって、いわゆる「間の宿」として多くの旅人たちの利便を図ってきました。
このように、菊川の里は、昔から時代の変遷の中で東海道の駅として大切な役割を果たしながらロマンと重みのある歴史を刻んできました。
・中納言宗行卿の詩 昔南陽県菊水 汲下流而延齢
今東海道菊河 宿西岸而失命
・日野俊基の歌 古も かかるためしを 菊河の
おなじ流れに 身をやしづめん
金谷町教育委員会 -
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菊川由来石。付近の川から出土した菊花紋の石で、地名由来になっている。
「その昔附近から菊花紋の石が数多く出土されました。その石は菊石と呼ばれて、
川の名前を菊川と名付け、地名も生まれました。
白菊姫の伝説による菊石は北之11km位の処にある佐夜鹿公民館の傍にあります。」 -
民家のシャッターに、矢の根鍛冶が大きく描かれた家が。
『矢し根鍛冶 五條才兵衛之図 慶長―元禄』
ここは、その昔矢の根鍛冶をしていた才兵衛の家であったとのことです。才兵衛は古くからの矢の根鍛冶でしたが、『掛川誌稿』によると貞享以後断絶したらしく、
その後矢の根鍛冶の職は別家の清次郎へと引き継がれたようです。
矢の根とは弓矢の根、すなわち矢尻のことで、菊川の里に硬くて鋭利な矢尻をつくる者がいることが、書物などによって知らしめられ当地の名物となっていました。
矢の根鍛冶清次郎は、参勤交代で街道を通る大名行列に献上しては、その優秀さを誇っていたといいます。その後、泰平の世となって矢の根の需要がなくなり、五條清次郎は土地を離れましたが、代々伝えられたと思われる矢の根鍛冶「秘伝書」は、今も菊川の旧家に大切に所蔵されており、この地には「鍛冶屋敷」という往時を偲ぶ地名が伝えられています。 -
【間の宿菊川】
間の宿は、本宿と本宿の中間にあって、人足の休憩所や旅人の休憩に便宜をはかって作られました。普通、2宿間の距離は3~4里に及ぶときに間の宿を置きますが、金谷宿と日坂宿の間のように1里24町でも、急所難所が続く場合は特別に間の宿「菊川」が置かれました。間の宿では、旅人の宿泊は厳禁されていました。川止めの場合でも、菊川では、金谷宿の許可がないと旅人を泊めることはできませんでした。また間の宿では、尾頭付きの本格的な料理を出すことも禁じられていました。そこで生まれたのが菊川名物の「菜飯田楽」。大井川の激流を渡り、金谷坂を登りきった旅人には、ひなびた里の味でもさぞかしおいしかったことでしょう。なお、下菊川おもだか屋・宇兵衛の茶屋の菜飯田楽は格別おいしかったといわれています。この店には御殿と呼ばれた上段の間があり、尾州家からの下賜品があったそうです。(金谷町・金谷町観光協会) -
右の石碑(日野俊基歌)
『古も かゝるためしを 菊川の おなじ流れに 身をやしづめん』
左の石碑(宗行卿詩)
『昔南陽懸菊水 汲下流而延齢 今東街道菊河 宿西岸而失命』
(昔南陽県の菊水下流を汲みて齢を延ぶ今東海道の菊川西岸に宿りて命を失う) -
『宗行卿詩碑 日野俊基歌碑』
「源頼朝の死後、鎌倉幕府の力が弱まり公家と幕府の対立は表面化し、承久3年(1221)後鳥羽上皇は幕府追討の院宣を出し軍事行動を起こした。京都方はあえなく敗れ計画に加わった中御門中納言藤原宗行は捕えられ、鎌倉へ送られる途中の七月十日菊川の宿に泊まり死期を覚って宿の柱に次の詩を書き残した。
「昔は南陽県の菊水 下流を汲みて齢を延ぶ 今は東海道の菊川 西岸に宿りて命を失う」
承久の変から約百年後の、正中の変で日野俊基は捕えられ鎌倉への護送の途次、菊川の宿で、宗行の往事を追懐して一首の歌を詠んだ。
「いにしえも かゝるためしを 菊川のおなじ流れに 身をやしづめん」
間の宿菊川は史跡とロマンの里である。」 -
菊川の茶畑。静岡県が茶の名産地ということ、納得です。
牧之原台地に茶畑は、明治時代、大政奉還後静岡に移住した徳川家臣と、川越え制度廃止で路頭に迷った忍足たちが苦労して開墾した土地です。 -
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【阿仏尼歌碑】
十六夜日記で詠んだ歌碑
「雲かかる 小夜の中山 越えぬとは 都に有明の月」です。
歌の意味
「雲のかかる佐夜の中山を越えたと、都の子供らに伝えておくれ、有明の月よ」の意です。
「菊川の里(金谷町)・日坂の里(掛川市)の境」の看板を過ぎると、中山道の左右には、「小夜の中山」を詠った沢山の歌碑と句碑が次々と出てきます。
先ず初めに出てくるのが写真の阿佛尼の「十六夜日記」よりの歌碑です。 -
「雲かかる 小夜の中山 越えぬとは 都に有明の月」です。
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【久延寺】
天平年間、三位中将良政が勅命によって蛇身鳥を退治して当寺を建立したと伝えられる。開基は行基菩薩と伝えられるが、戦国時代の度重なる兵火により古文書はなく寺暦は定かでない。
奈良時代の行基が開基と伝えられています。本尊は聖観音で、境内に夜泣石がある。
昔、住職が山賊に殺された妊婦の子を育て、子は成長して親の仇を討つことが出来たところから本尊は子育て観音と呼ばれている。
頂上の古刹「久延寺(きゅうえんじ)」は掛川城主の山内一豊が茶室を設け関ヶ原に向かう家康を接待した場所。その茶亭跡が今も見られる。 -
【久遠寺(きゅうえんじ)】
久延寺は、真言宗の寺院で山号を佐夜中山。本尊は、聖観音で、「昔、住職が山賊に殺された妊婦の子を育て、子は成長して親の仇を討つことができた。これはひとえに本尊の加護によるものである。」という夜泣石の伝説に因み、子育て観音と称せられる。
「久延寺は、真言宗の寺院で山号は佐夜中山。
本尊は聖観音で、昔、住職が山賊に殺された妊婦の子を育て、子は成長して親の敵を討つことができた。これはひとえに本尊の加護によるものである」という夜泣石の伝説に因み、子育て観音と称される。
慶長5(1600)年、掛川城主山内一豊は、境内に茶亭を設けて、大坂から会津の
上杉景勝攻めに向かう徳川家康をもてなした。右の絵は、天明6年(1786)に尾張藩士 高力種信が東海道の風物を描いたものの一枚である。久延寺とその西に並ぶ飴屋などが描かれていて、当時の風景を知ることができる。」
慶長五年(1600)、掛川城主山内一豊は、境内に茶亭を設けて、大坂から会津の上杉景勝攻めに向かう徳川家康をもてなした。(掛川市)
慶長5年6月24日(1600年8月3日)、大坂(6月16日に出立)から会津の上杉景勝(うえすぎかげかつ)討伐に向かう徳川家康を、掛川城主・山内一豊は、小夜の中山の久延寺境内に建てた茶亭で、もてなしています。
「小夜の中山公園」近くには茶の湯に使った御上井戸(おかみいど)の跡、そして茶亭のあった場所には茶亭跡の碑が立っています。
NHK大河ドラマ『功名が辻』でも描かれたシーンですが、織田家の家臣で、小牧・長久手の戦いでも羽柴秀吉方でしたが、会津へと向かう家康を、まずは領内の小夜の中山で接待し、さらに慶長5年7月25日(1600年9月6日)の小山評定(おやまひょうじょう)では、尾張国清洲城主・福島正則(ふくしままさのり)が家康のために命を投げ出すことを誓い、続いて山内一豊が、「家康に城を明け渡してまでもお味方します」と進言しています。
織田・豊臣恩顧の山内一豊にとっては、この久延寺での接待は、まさに存亡を賭けた生き残り策だったといえるでしょう。 -
【夜泣き石】
真言宗佐夜中山久延寺の本尊は聖観音。境内には夜泣き石があります。山賊に殺された妊婦の泣き声が石から聞こえてきたそうだ。
【小夜の中山峠】
いよいよ東海道三大難所の小夜の中山峠越えになります。
【史跡と伝説の道】
小夜の中山峠は、箱根峠・鈴鹿峠とともにその険しさをもって東海道の三大難所と云われていました。特に東の青木坂(箭置坂)、西の沓掛(二の曲り)の急勾配は旅人を悩ませました。
古来、「小夜の中山」は、「佐夜の中山」とも書き、「さや」・「さよ」の二通りの言い方があるが現在は「小夜」・「さよ」が一般的です。名称の由来は諸説があり定かでないが、掛川誌稿には「日坂ヨリ菊川ニ至ルマテノ駅路ヨリ小夜中山ト云、其道両山ニ夾マレテ、左右ノ谷間甚狭シ、佐夜ハ峡谷ナルヘシ、其中間ノ山ナレハ、峡谷ノ中山ト名ツケタルヘシ、古ヨリ佐夜小夜ナル書ルハ皆假名ナリ・・・・・」と記されています。
「小夜の中山」の名は古くから数多くの紀行文や和歌に登場します。西行法師が六十九歳で峠越えしたときに詠じた歌がよく知られている。 峠には名刹久延寺をはじめ、徳川家康ゆかりの史跡や、遠く「中先代の乱」の頃の塚、往時の東海道の面影を今に伝える一里塚などがあります。
江戸時代久延寺周辺には多くの茶店がありました。それぞれの店で「飴の餅」を売ることが幕府より認められ、街道の名物となりました。また、小夜の中山には伝説も多く、「夜泣石物語」は「蛇身鳥物語」や「無問の鐘物語」とともに有名です。
『伝説 小夜の中山夜泣石』。
「その昔、小夜の中山に住むお石という女が、菊川の里へ働きに行っての帰り中山の丸石の松の根元でお腹が痛くなり、苦しんでいる所へ、轟業右衛門と云う者が
通りかかり介抱していたが、お石が金を持っていることを知り殺して金を奪い逃げ去った。
その時お石は懐妊していたので傷口より子どもが生まれ、お石の魂魄がそばにあった丸石にのりうつり、夜毎に泣いた。里人はおそれ、誰と言うとはなく、その石を
「夜泣石」と言った。傷口から生まれた子どもは音八と名付けられ、久延寺の和尚に飴で育てられ立派な若者となり大和の国の刀研師の弟子となった。
そこへ轟業右衛門が刀研ぎにきたおり、刃こぼれがあるので訊いたところ、
「去る十数年前 小夜の中山の丸石の附近で妊婦を切り捨てた時に石にあたったのだ」と言ったので、母の仇とわかり名乗りをあげ、恨みをはらしたということである。その後、弘法大師がこの話を聞き、お石に同情し石に仏号をきざみ、立ち去ったと言う。文化元年 滝沢馬琴の「石言遺響」より」 -
【夜泣石伝説】
「小夜の中山に住むお石という女が、菊川の里へ働きに行って帰りの中山の丸石の松の根元でお腹が痛くなり、苦しんでいるところへ、轟行右衛門という者が通りかかり介抱していたが、お石が金を持っていることを知り殺して金を奪い逃げ去った。その時、お石は懐妊していたので傷口より子供が生まれ、お石の魂がそばにあった丸石にうつり、夜毎泣いた。里人は恐れ、誰と言うことなく、その石を「夜泣石」と言った。傷口から生まれた子供は音八と名付けられ、久延寺の和尚に飴で育てられ立派な若者となり大和の国の刃研師の弟子となった。
そこへ轟行右衛門が刃研にきたおり刃こぼれがある。聞いたところ、「去る十数年前、小夜の中山の丸石の附近で妊婦を切り捨てた時に石があたったのだ」と言ったので、母の仇をわかり名乗りをあげ、恨みをはらした。その後弘法大師がこの話を聞き、お石に同情し石に仏号をきざみ、立ち去った」
夜泣石と同じ形で「南無阿弥陀仏」と書かれています。こちらは小石姫供養塔で、はじめ門前の路傍にあったが昭和40年頃境内に移された。 -
橘為仲歌碑
「旅寝する さやの中山 さよやかに 鹿も鳴くなり 妻や恋しき」 -
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【西行歌碑】
「年たけて また越ゆべしと おもひきや 命なりけり さやの中山」
晩年の69歳で二度目の小夜の中山越えの厳しさを詠んだもの。
【法師の歌碑/小夜の中山公園】西行法師は平安時代末期の歌人。
新古今和歌集には最も多くの歌が入集されているが、その中でも秀れた歌のひとつとされているのが、この一首である。
「年たけてまた越ゆべしとおもひきや 命なりけりさやの中山」 二十三歳で出家し、自由な漂泊者としての人生を送りながら自然とのかかわりの中で人生の味わいを歌い続けた西行の、最も円熟味を増した晩年六十九歳の作である。
この歌は文治三年(1186)の秋、重源上人の依頼をうけて奈良東大寺の砂金勧進のため奥州の藤原秀衡を訪ねる途中、生涯二度目の中山越えに、人生の感慨をしみじみと歌ったものである。小夜の中山は早くから東海道の歌の名所として知られていたが、この一首は歌枕としての小夜の中山の名声を一層高め、以後も数々の名歌が詠まれるようになる。当時、京都の人々にとっては、鈴鹿山(三重県)越えることすら相当の旅行であったという。奥州までの旅は大変なものであった。古代からの交通路だった東海道も、本格的な発展をとげるのはこの歌が詠まれてから六年後の鎌倉幕府の開設以降である。西行歌碑の建立については市内短歌会が中心になって募金運動がすすめられ、寄せられた募金をもとに昭和五十五年十月建立された。碑文の揮毫は歌人で西行研究第一人者の早稲田大学名誉教授窪田章一郎氏、設計は元日本建築学会会長で早稲田大学教授(当時)故吉阪隆正氏によるものである。(案内板)
【西行歌碑】
「この歌碑は 円位という西行の別名を、力強いがまろやかな性格を
大木の幹の姿に重ねた年輪を、背割り切り口の鋭さに明晰さを、たて積みの煉瓦に
北面の武士の鎧を、時々陽光に輝やく真鍮の文字に歌人の心を、池水に映る影に再び越える気分を
池に囲む玉石に数珠をいぶした煉瓦の色は黒染めを、そして笠を外してひと休みする西行を造形したものです。」 (掛川市)
「年たけて また越ゆべしと 思ひきや 命なりけり さやの中山 西行法師」
西行法師が焼失した東大寺再建のためにみちのくへ砂金勧進の旅をし、二度目の峠越えを
したおり、若き日にこの地を越えた事を思い出し詠った西行法師が69歳の時の歌。 -
【小夜の中山公園】
『西行歌碑 ― 生涯二度目の難所越えに詠む ― 』
「西行法師は平安時代末期の歌人。新古今和歌集には最も多くの歌が入集されているが、その中でも秀れた歌のひとつとされているのが、この一首である。
「年たけて また越ゆべしと おもひきや 命なりけり さやの中山」
二十三歳で出家し、自由な漂泊者としての人生を送りながら自然とのかかわりの中で人生の味わいを歌いつづけた西行の、最も円熟味をました晩年六十九歳の作である。この歌は、文治3年(1186)の秋、重源上人の依頼をうけて奈良東大寺の砂金勧進のため奥州の藤原秀衡を訪ねる途中、生涯二度目の中山越えに、人生の感慨をしみじみと歌ったものである。
小夜の中山は早くから東海道の歌の名所として知られていたが、この一首は歌枕としての小夜の中山の名を一層高め、以後も数々の名歌が詠まれるようになる。
当時、京都の人々にとっては、鈴鹿山(三重県)を越えることすら相当の旅行であったという。
奥州までの旅は大変なものであった。古代からの交通路だった東海道も、本格的な発展をとげるのはこの歌が詠まれてから六年後の鎌倉幕府の開設以降である。
西行歌碑の建立については市内短歌会が中心になって募金運動がすすめられ、寄せられた募金をもとに昭和55年10月建立された。碑文の揮毫は歌人で西行研究第一人者の早稲田大学名誉教授窪田章一郎氏、設計は元日本建築学会会長で早稲田大学教授(当時)故吉阪隆正氏によるものである。」 -
「東海道五十三次 日坂 広重画」???
美術館の建っている場所は、広重の浮世絵の構図から見て、「広重はこの位置からこの方向を見て、絵にした」という正にこの場所であると。松並木の向こうに見える粟が岳(別名:無間山)が見える。山肌にはヒノキで「茶」という一字に植えられていて、かなり遠方からでも読み取れるが、これは江戸時代にはなかったのだ。 -
街道は緩やかな下りとなり、右手、遠くに 【茶 】の一文字が浮かぶ。
茶畑のむこうに終始、粟ヶ岳を眺めながら進みます。進むに従って「茶の字」が正面に見えてきます。 -
ついで、左手に【史跡一里塚跡標石】です。江戸より56番目です。
小夜鹿の一里塚跡。
ここ小夜の中山の一里塚は、慶長九年(1604)に作られました。日本橋からこの一里塚までの里程を示す設置当初の記録はありませんが、周辺の一里塚の言い伝えによる里数や当初の東海道のルートを考えて五十六里目という説があります。
また、元禄三年(1690)の「東海道分間絵図」では日本橋から日坂宿まで五十二里三十町ですので、この一里塚は五十二里に相当します。
天保十四年(1843)の「東海道宿村大概帳」では日坂宿まで五十四里二十六町、小夜の中山まで五十四里二町ですので、この一里塚は五十四里に相当すると思われます。
東海道のルートは時代とともに若干の変更もありましたが、一里塚の位置が移動したという記録はありません。
いずれにいずれにせよ一里塚は、東海道を行き来する旅人などにとっておおよその道程の目安になっていたことと思われます。 -
小さな祠の白山神社。
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街道を下ると左手に【野さらし紀行芭蕉句碑】
「馬に寝て 残夢月遠し 茶のけぶり」があります。
「小夜の中山」は勅撰集だけでも40首以上に詠み込まれました。この街道沿いには句碑として多くの和歌が紹介されています。 -
東海道五拾三次の【日坂】小夜の中山
広重は日坂としてこの夜泣石を描いています。
【東海道五十三次 日坂 浮世絵版画 安藤広重作 保永堂版 小夜の中山】
広重は天保三年(1832)、幕府の行列に随行して東海道を旅したが、その体験や印象を描いた「保永堂版東海道五拾三次」は大変な好評を得、つぎつぎに多くの「東海道もの」を発表した。その中で特にすぐれていると思われるものは、天保十三年(1842)頃の「行書東海道」「狂歌入東海道」「隷書東海道」「人物東海道」などである。これらの続絵のなかの日坂、掛川を見ると、日坂はほとんど小夜の中山と夜泣石が画かれており、掛川は大池の秋葉山一の鳥居と常夜灯が描かれている。 広重が掛川を旅して、一番印象的で絵になる風景だったのであろう。(案内板) -
【東海道五拾三次の 日坂 小夜の中山】
東海道の難所である中山峠の途中にある「夜泣石」を不思議そうに眺めている旅人の様子を描いている安藤広重の東海道五拾三次之内・日坂『佐夜ノ中山』
ここに描かれている「二の坂」はすごい急坂ですが、誇張でも何でもありません。実際にこれくらい急坂なのです
「東海道五拾三次之内 日坂 小夜ノ中山」
急勾配な坂の続く街道の中央に置かれた大石は、日坂の夜泣き石として知られています。かつて、臨月の女性がここで山賊に殺され、その時赤子を産み落としました。女性の霊魂は子供を慕い、この石に乗り移って夜毎に泣き声を上げた、という言い伝えが。薄暗い山道を往来する旅人や駕籠かきの様子が巧みに配置されています。道の真ん中に横たわる「夜啼石」。
遠州七不思議のひとつに数えられた伝説の石に、旅人たちも思わず足を止めています。 -
急坂を転げるように下ると、広重画狂花入東海道日坂の掲示板がある。
「あたらしく けさにこにこと わらび餅 をかしな春の 立場なるらん」が描きこまれている。わらび餅は日坂の名物。 -
【東海道五十三次 日坂 浮世絵版画 安藤広重作】の掲示板が街道沿いにある。
狂歌入東海道
「あたらしく今朝にこにことわらび餅 をかしな春の立場なるらん 倭園琴桜」
江戸時代末期になると、江戸を中心として諸国への街道が整備され、物見遊山の旅が盛んに行われ、庶民の関心がそれまでの享楽の場から戸外へ移るにつれて風景画が多く描かれるようになった。この浮世絵は、広重が天保三年(1832)「保永堂版東海道五拾三次」に続き、天保十三年(1842)頃に、視点を変えて風景をとらえた狂歌入東海道」の日阪である。(案内板)
安藤広重の東海道五拾三次之内・日坂『佐夜ノ中山』
【ここは宿場町「日坂の駅」】
東海道五十三次品川宿から数えて二十五番目の宿「日坂」
江戸から五十四里余。日坂は東海道三大難所の一つ「小夜の中山峠」西の麓に位置し、西坂、入坂、新坂とも書かれていました。
「日坂宿」の初見は、鎌倉時代、延慶三年(1310)の「夫木和歌抄」といわれています。
慶長六年(1601)徳川家康による、東海道の整備にともない、問屋場が設けられ、伝馬の継ぎ立て駅としての日坂宿は、重要な存在になりました。助郷四十三村の協力で、伝馬百疋と伝馬人百人が置かれ、役人の公用と荷物の輸送に役立ってきました。
天保十四年(1843)の記録によれば、家数百六十八軒、人口七百五十人とあり、本陣一軒、脇本陣一軒、旅籠屋三十三軒がありました。
大井川の川止めや、大名の参勤交代などで小さな宿場町ではありましたが、かなりの賑わいであったと思われます。
宿場の東口から西口までの距離は、およそ六町半(700m)町並みの形態は現在もあまり変わっていません。
日坂地域振興の会・日坂宿おこし委員会 -
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【秋葉山常夜灯】
1856年建立の復刻版。
日坂はたびたび火災にあっているため、火伏せの秋葉信仰が盛ん。
日坂宿はしばしば火災にあっているためか、秋葉信仰が盛んであったようです。当時の人々は神仏のご加護を願い各所に常夜灯を立てて信仰しました。
ここ本陣入り口の常夜灯の他、相伝寺境内、古宮公会堂脇と日坂宿には三基遺っております。ここの常夜灯は安政三年(1856)の建立です。
秋葉山のほかに駅中安全とあるのは、火災を恐れる気持ちの強さを示しているといってもよいでしょう。また、常夜灯は街道に面して建てられており「道標」の役目も果たしておったといわれています。
日坂地域振興の会・宿おこし部会 -
【扇屋本陣跡】
片岡家が勤め、敷地は350坪、建坪220坪でした。
日阪宿本陣の屋号は「扇屋」代々片岡家が世襲で営んでいました。本陣の敷地はおよそ三百五十坪・建坪二百二十坪、門構・玄関付の建物でした。嘉永五年(1852)の日坂宿の大火で全焼、再建後、明治三年(1870)に店を閉じた。その後の学制頒布に伴い、明治十二年(1879)より跡地を日坂小学校の敷地とし、家屋は校舎として利用されましたが現存しません。(案内板)
【日坂宿】
天保十四年(1843年)の東海道宿村大概帳によると日坂宿の宿内家数は168軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠33軒、宿内人口は750人で、宿長はおよそ六町半(約700m)。
【ここは宿場町「日坂の駅」】
東海道五十三次品川宿から数えて二十五番目の宿「日坂」
江戸から五十四里余。日坂は東海道三大難所の一つ「小夜の中山峠」西の麓に位置し、西坂、入坂、新坂とも書かれていました。
「日坂宿」の初見は、鎌倉時代、延慶三年(1310)の「夫木和歌抄」といわれています。
慶長六年(1601)徳川家康による、東海道の整備にともない、問屋場が設けられ、伝馬の継ぎ立て駅としての日坂宿は、重要な存在になりました。助郷四十三村の協力で、伝馬百疋と伝馬人百人が置かれ、役人の公用と荷物の輸送に役立ってきました。
天保十四年(1843)の記録によれば、家数百六十八軒、人口七百五十人とあり、本陣一軒、脇本陣一軒、旅籠屋三十三軒がありました。
大井川の川止めや、大名の参勤交代などで小さな宿場町ではありましたが、かなりの賑わいであったと思われます。
宿場の東口から西口までの距離は、およそ六町半(700m)町並みの形態は現在もあまり変わっていません。
日坂地域振興の会・日坂宿おこし委員会 -
日坂 【旅籠 川坂屋】
大坂の陣(慶長十九年・1614の冬の陣と翌年の夏の陣)で深手を負った武士太田与七朗源重吉は長松院で手当を受け、その後、日坂に居住しました。旅籠屋「川坂屋」はその子孫で寛政年間(1789~1800)に問屋役を務めたこともある齋藤次右衛門が始めたと伝えられています。現在の建物は宿場の殆んどが焼失した嘉永五年(1852)の「日坂宿大火」後に再建された。宿で一番西にあった旅籠屋で、日坂宿では江戸時代の面影を遺す数少ない建物の一つ。精巧な木組みと細かな格子が特徴的で、当時建築にあたっては江戸より棟梁を招いたとのこと。また、「川坂屋」には脇本陣などと云う肩書きの着いた資料は見られませんが、床の間付きの上段の間があり、当時禁制であった檜材が用いられたことは、身分の高い武士や公家なども宿泊した格の高い旅籠屋であったことを伺わせます。旅籠屋としては本陣と同じ明治初頭に廃業したようですが、当家に伝わる維新政府の高官、山岡鉄舟・巌谷一六・西郷従道などの書から推測しますと廃業以後も要人には宿を提供していたと思われます。その後、平成五年(1993)まで齋藤家の住居として使われ、平成十二年(2000)修理工事が竣工し、現在に至っております。敷地は三百坪ありましたが、昭和二十五年(1950)の新国道開通で分断され、その後、平成七年のバイパス工事により明治元年(1868)に掛川城主太田候より拝領した「元掛川偕楽園茶室」も移転を余儀なくされました。茶室は平成十五年(2003)母屋の北側の地に復元されました。 文久二年(1862)の宿内軒並取調書上帳には「川坂屋」について次のように記されています。間口 六間 畳 五拾八畳半 旅籠屋 板鋪 六畳 次右衛門 奥行 拾参間 惣畳数 〆六拾四畳半 惣坪数 〆七拾八坪(案内板) -
明治天皇の側近であった山岡鉄舟の書
山岡鉄舟揮毫の襖には、地元特産の葛布が使われているのも見逃せません。 -
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日坂 【萬屋】
江戸時代末期の旅籠。嘉永五年(1852)日坂宿大火で焼失し、その後まもなく再建された。建物内部の構造体や壁に貼られた和紙に書かれていた「安政三年丙辰正月・・・」から考えて安政年間(1854~1859)の早い時期かと思われます。同じ宿内で、筋向いの「川坂屋」が士分格の宿泊した大旅籠であったのに対して「萬屋」は庶民の利用した旅籠でした。一階に裏手に抜ける通り土間がないこと、台所が不明であること、二階正面の出格子がニ階床と同じ高さで、腰高の手すりが付き、大変開放的であることなどが、この旅籠の特徴です。又、一階正面の蔀戸(しとみど)は当時の一般的な店構えの仕様であり、日坂宿では昭和二十年代まで数多く見られました。尚、文久二年(1862)の宿内軒並取調書上帳(古文書)には「萬屋」について次のように記されています。間口:四間半 畳:三拾三畳 旅籠屋・板鋪: 六畳 嘉 七 奥行:七間半 惣畳数〆三拾九畳 惣坪数〆三拾三坪七分五厘 今回の修理では、主に一、二階の正面を復原することを目的としたため、内部は大きな復原をしませんでしたが、調査結果は図の様になり、階段位置が対であったり、二階が四間あったと思われます。(案内板) -
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日坂 脇本陣黒田や
日坂宿の脇本陣は時代と共に移りかわり何軒かが務めました。
ここには幕末期に日坂宿最後の脇本陣を務めた「黒田屋(大澤富三郎家)」がありました。黒田屋の構えは文久二年(1862)の宿内軒並取調書上書に
間口八間 奥行拾五間
畳百壱畳 板鋪拾五畳
惣坪数〆百弐拾坪
と記されています。
また、明治天皇が街道巡幸の際、明治二年三月二十一日と明治十一年十一月二日の二回にわたりここ脇本陣で小休止されました。 -
旅籠の池田屋、現在は割烹末廣亭。
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現在の街道の街並みです
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東海道宿村大概帳の記録に基づき、天保年間の高札を掲げる高札場を復元してある。
【高札場跡】
幕府や藩の定めた法令や禁令を板札に墨書したものを高札、しの掲げられた場所を高札場といいます。高札場は人々の注目をひきやすい所に設置され、日坂宿では相伝寺観音堂敷地内にあり、下木戸の高札場ともいわれていました。高札の内容は日坂宿が幕領であったため公儀御法度(幕府法)が中心で年代によって若干の書き換えがありました。ここに掲げられている八枚は「東海道宿村大概帳」の記録に基づき天保年間のものを復原いたしました。高札場の大きさ「高さ二間、長二間、横七尺」は日坂宿の「御尋二付申上候」書付(天保十四年)によりました(案内板) -
事任(ことのまま)八幡宮の参道
【事任八幡宮】
創立年代未詳。大同二年(807)坂上田村麻呂東征の際、桓武帝の勅を奉じ、旧社地本宮山より現在地へ遷座すという。延喜式(927)神名帳に佐野郡己等乃麻知(ことのまち)神社とあるとはこの社なり、古代より街道筋に鎮座、近江に座す願いごとのままに叶うありがたき言霊の社として、朝廷を始め全国より崇敬されしことは平安期の「枕草子」に記載あるを見ても明らかなり。世が貴族社会より武家社会に移るや、八幡信仰が一世を風靡し、康平五年(1062)源頼朝が石清水八幡宮を当社に勧請し、以来八幡宮を併称す。江戸期に入りては、徳川幕府も当社を信仰し社殿を改築、朱印高百石余を献上す。明治以降、県社八幡神社と称せしが、第二次大戦以後の社格廃止に伴い、由緒ある名「事任」を復活し、現在は、と称す。(案内板)
『御由緒』
「創立年代未詳。大同二年(807)坂上田村麻呂東征の際、桓武帝の勅を奉じ、
旧社地本宮山より現在地へ遷座すという。延喜式(927)神名帳に佐野郡己等乃麻知(ことのまち)神社とあるとはこの社なり、古代より街道筋に鎮座、近江に座す願いごとのままに叶うありがたき言霊の社として、朝廷を始め全国より崇敬されしことは平安期の「枕草子」に記載あるを見ても明らかなり。
世が貴族社会より武家社会に移るや、八幡信仰が一世を風靡し、康平五年(1602)源頼朝が石清水八幡宮を当社に勧請し、以来八幡宮を併称す。
江戸期に入りては、徳川幕府も当社を信仰し社殿を改築、朱印高百石余を献上す。
明治以降、県社八幡神社と称せしが、第二次大戦以後の社格廃止に伴い、
由緒ある名「事任」を復活し、現在は、事任八幡宮と称す。」 -
事任八幡宮の本殿と大楠
「願いが意のままに叶う神社」として、平安時代から多くの人が祈願に訪れる場所。「枕草子」にも登場する由緒正しい神社。
神木の大楠。征夷大将軍坂上田村麻呂が植えたといわれる。
市指定天然記念物『事任八幡宮のクスノキ』 -
【伊達方一里塚】
掛川市内には小夜鹿、伊達方、葛川、大池の4ヶ所に塚が設けられていた。
ここ伊達方一里塚は、江戸より五十七番目の塚として街道の両側に築かれ、南側は現・荻田理髪店東側あたり、北側は現・三浦たばこ店屋敷あたりに設けられていた。
当時、塚の大きさは直径七間、高さ三間の小山で、一里山と言われた。明治三十三年頃取り壊れたという。 -
東海道伊達方一里塚碑があります、江戸日本橋より数えて57里目です。
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